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カントの人間素質論と教育の構造

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カントの人間素質論と教育の構造

一カント「教育学』における二元論の弁証法的解釈一 津田 淳* 山口 豊一琳

睾.カントr教育学』の諸問題と研究の視点

 カント(1724−1804)が教育について関心を寄せていたことは,彼が」,J.ルソー(1712 一 1778)

の著書rエミール』(1762)を読みふけって日課である散歩を数日間止める程であった,という話から も容易に推察される。(1)またこのことは,彼の論文丁汎愛哲学舎論』(2)が, J,B.バゼドー(1723−

1790)の設立(1774)した汎愛哲学舎に,大いなる期待を寄せて書かれたものであるということから も窺えるのである。

 そのようなカントに1776年,勤務校であるケーニヒスベルグ大学で教育学の講義をする機会が訪れた。

もっとも,今日の大学とは違い,この講義のために特に専任の教授を置くことはせず,哲学部の教授が 交代で講義を担当することになった。このような経緯で教育学の講義を担当することになったカントは,

その講義題目を「児童教育にたいする実践的な指針」(Praktische Anweisung Kinder zu erziehen)と 名づけたのである。以後カントは,,1787年までの!2年間にわたって計4回忌講義を行った。教科書と

してはバゼドーのr方法書』と同僚F.S.ボック(1716 一 1785)のr教授法教科書』を用いた。(3)

だが,彼はこの教科書に基づいて講義を進めた訳ではなく,むしろ行間の書込みをもとに,彼の点葉を もって進めていったといわれる。(4)

 ところで,カントのr教育学』(5)は,カント自身がまとめて出版したものではなく,高弟で友人でも あったF.T.リンク(1770 一18ユ1)が,カントの教育学の講義ノート等を整理し,まとめて出版するこ とになったものである。このような経緯もあってカントのr教育学』については,従来(1>繰り返しや 不整合が多く見られ,概念の規定が明確でない,②本書の基調とする立場が彼の前批判期のものであ

り,カント自身の立場の主張を述べたものでない,とする二つの点からの批判が一般的になされてき た。(6)第一の批判については,確かにこの書は重複が多く,また教育の機能についての概念の規定が不 明確な箇所もあり,体系的に統一されていないという見かたも可能である。だが,むしろf教育」とい う機能が極めて異体的実質的内容を含まざるを得ないのであり,また教育の対象である人間そのものが 興体的には内に矛盾を含む弁証法的構造をもつものであるがゆえに,我々はこのような構造を有する人 間の教育論自体も矛盾を含む弁証法的性格にならざるを得ないとみることができる。我々は,このよう な観点に立って本書を追うことにより,従来のこの批判の妥当性を問い直したいと考えるのである。

 また,第二の後者の批判については,まず第一に編者リンクの序言に「カントがこの点(教育学)に おいても当時の新しい理念を知っていて,これについて考察しており,同時代の人々よりかなり先を見 通していたことは,もちろん,言うまでもないことであって………」(pada. S.455)とあることか

*茨城大学教育学部   *  k茨城大学大学院教育学研究科

(2)

らみても,この著書がカント自身の優れた見解が述べられているものであると判断できるし,さらにカ ントが講義を行った1776年からユ787年の時代は,r純粋理性批判』(Kritlk der reinen Vernunft エ781)をはじめ,『道徳形而上学原論』(Grundlegung zur Metaphysik der Sitten 1785),『実践 理性批判』(Kritik der praktischen Vernunft 1788),『判断力批判』(K:ritik der Urteilskraft

1790)という彼の主著が出版されあるいは構築化されつつあった,批判哲学の完成期であったことか らみれば,r教育学』の主張するカントの立場が前批判期のものとは言えないと考えられる。(7)なお,

以下の論述においても,このことは明確になるはずである。

 以上の観点から,我々はカントのr教育学』を教育自体の具体的現実性という側面から吟味する必要 性と,この書に,多少の不整合があるとしても,カントの「教育哲学」上の「実質的性格」をもった具 体的な教育の指針をみることができる点で重要な意味をもっていることを明確にしたい。小論では,と りわけ彼の哲学の根底にある「自然」と「自由」, 「実質」と「形式」の二元論が教育哲学においては どのように現れ,そしてどのように克服されているか,言い換えれば具体的な全体としての人間自体が 内に矛盾を含む弁証法的構造をもっていることからすれば,彼の教育哲学における「人格形成論jが,

彼自身において必ずしも自覚的に展開されていなかったのではあるが,いかに「実質」と「形式」との 具体的な弁証法的統合を要求するものであったかを検討しておきたいのである。この際我々は,とくに カントの教育哲学におけるこの「弁証法的構造」を,カントの人間本性の自然素質(Naturanlage)論 による人問観を考察することにより究明するものである。

2. カント人間学における人間本性の自然素質と教育

 教育をどのように論じようとも,結局のところカントが言うように「注意すべきことは,人間は人間 によってだけ教育されるということ,しかも,同じように教育された人間によってだけ教育される。」

(P灘a.S.460)のであり,従って教育学は先ず「人間の考察」から始めなくてはならない。

 カントは,何よりも人間に関心をもち,彼の生涯は実に人間探究の生涯であった。彼はr純粋理性批 判』において「私の理性のあらゆる関心(思弁的関心ならびに実践的関心)は,次の三つの問いにまと

められる。 1.私は何を知りうるか。 2.私は何を為すべきか。 3.私は何を望んでよいか。」(K.d.

r.V. S.540),また『論理学』(1800)においては,「この世界公民的意味における哲学の分野は,次 の問いに帰着せしめられる。 (1>私は何を知りうるか。 ②私は何を為すべきか。 (3)私は何を望んで よいか。(4)人間とは何であるか。第一の問いに答えるものは形而上学であり,第二の問いには道徳が,

第三の問いには宗教が,そして第四の問いには人間学が答えるのである。しかし,これら総ては人間学 に数えられるであろう。何となれば,初めの三つの問いが最後の問いに関係するからである。」(Logik.

S.343)と述べているように,カントの哲学は最終的には「人間学」に結集するといってよい。以下に 我々は,カントの人間学に光を当てるために,彼の考えている人間本性の自然素質(8)という観点から

この問題を追ってみたい。

 カントは『実用的見地における人間学』(9》において,人間の素質を三つに分類する。「生きて地上に

住むものの中で人間は,物を使用するための技術的(意識と結びついた機械的な)素質,また実用的(他

人を自分の意図のために上手に利用する)素質,および人間の本質における道徳的素質(法則に基づき

自由の原理に従って自分に対しても,他人に対しても行動する)によって,あらゆる他の自然存在者か

(3)

ら,はっきり区別せられる。」(AnthrO. S,216)。 ここではカントは,人間の素質を(1)技術的素質,

②実用的素質, (3)道徳的素質の三つに分類し,この三つの素質によって人間は,他の動物(自然存 在者)から異なった存在者となり得るとしているのである。

 これに対し,カントはr単なる理性の限界内における宗教』(10)において,善への根源的素質に言及し ている箇所では「我々は,この素質を,その目的との関連において,人間の規定要素である三つの部類に 都合よく配分することができる。」として,「(1>生物としての人間の動物性の素質 (2)生物であると 同時に理性的な存在者としての人間の人間性の素質 (3)理性的であると同時に引責能力のある存在者

としての人間の人格性の素質」(Relig。 S.164)とに分けている。

 すなわちr宗教論』においても人間の素質を三分割するのであるが,ここでは先のr人間学』とは異 なって,人間が単に理性的存在者としての次元における三分法で考えられているのではない。理性的存 在者という点からみれば人間性の素質と人格性の素質との二分法で考えられており,さらに動物的存在 者としての基本的次元をも加えて人間の全体的構造からみた動物性の素質,人間性の素質,人格性の素 質との三分法になっているのである。この点に関してはカントがr人間学』の冒頭で「人間の知識に関 する体系的にまとめあげられた理論(人間学)は,生理学的(physiologisch)見地におけるものである か,あるいはまた実用的(pragmatisch)見地におけるものであるかのいずれかでありうる。」(Anthro.

S.200)と述べていることからみれば,彼が生物としての人間の動物性の素質を『人間学』においても 考えているのであり,結局カントが丁人間学』の先の箇所で述べた人間の自然素質は生理学的見地に対 する(広義の)実用的見地における三分法,つまり技術的素質,(狭義の)実用的素質,道徳的素質だと 言える。すなわち『宗教論』における動物性の素質は,r人間学』の生理学的見地における人間の素質

に当たり,この二つの著書におけるカントの人間の自然素質の理解は,実は全く一致すると言える。

 ここで我々は,カントの人間観をさらによく理解し,混乱を避けるために,先述の広義と狭義の「実 用的」(pragmatisch)及び「実践的」(praktisch)という用語の使いかたについて吟味しておく必要 がある。カントは,r道徳形而上学原論』(11)の中ではこの二者を厳密に区別し,人間の理性の命令(命 法)を次のように体系化する。(12)

仮言的 ム藁筆:欝蒲魏灘鵠離離)

定言的 確然的・実践的一道徳性の命法(道徳的。道徳に属する)

 上記の体系表から分かるように,実践的は錬士法に,実用的は「怜倒の勧告」だけに関わっており,

実践的は実用的に比べより広い概念なのである。さらに,仮言的・定言的命法の三分法がr人問学』に おける人間の自然素質の三分法に符合することが分かる。

 ところでr人間学』の実用的は,先述のように広義と狭義の二つの用法で用いられており,ここでの

(広義の)実用的が『原論』の分類における実践的に当たると言える。なお,カントが人間の生きてい る間の満足は「道徳的見地(品行方正な自分自身に満足しているという)においても,また実用的見地

(練達と心惑とによって人間が,手にいれうると考えている安寧に満足しているという)においても,

到達しがたいものである。」(Anthro。 S.235)と言及しており,ここでは実用的という用語は,練

達性と怜倒とを含めており(狭義の)実用的より広い意味で使われている。以上の考察から判断できる

ことは。確かに「実用的」という用語に幅がありすぎて混乱しているとみられる可能性はあるが,カント

の全体系においては不整合がある訳ではないことか理解し得る。これらを整理すると次のようになる。

(4)

r人間学』 『道徳形而上学原論』

     生理学的見地

[J,IIII...,fttr,」 CM ≠刀Gvg,k

技術的

(狭義)実用的

練達の規則(技術的。技に関する)

道徳的

怜捌の勧告(実用的。幸福に属する)

道徳性の命法(道徳的。道徳に属する)

 以上のように我々は, r原論』 r人間学』 r宗教論』を通して,カントが人間の自然素質に生理学的 見地における動物性の素質,実践的見地(広義の実用的見地)における人間性の素質及び人格性の素質 を認め,そして人間を大きくは動物的存在者であると同時に理性的存在者であると捉えていることを明 確にした。このことは,人間存在の二次元性,つまり人間は自然に支配される動物性の素質をもつと同 時に,常に自由であらざるを得ない理性的素質をももつ存在であるということ,言い換えれば,内に矛 盾を抱えもつ人間存在の二重構造を露呈するものである。これは人間存在そのものが絶対矛盾的なもの を同時に内記する弁証法的構造を特徴とする存在者であることを意味するものであるが,カント哲学に おいてはこの構造が「自然」と「自由」との二元論の展開になっているのである。

 ところでカントにおいては,このような重層構造をもつ人間を動物的存在者から理牲的存在者へ,自 然から自由へ,より具体的に言えば,動物性の素質から人間性の素質へ,さらに人格性の素質へと,一 個の人間の全素質領域に関わりつつ,それぞれの神より与えられた多次元的,重層的自然素質の調和的 な発達(Ptida。S.461)を配慮し,全体として自己を統合する能力をもつ「自律的人間形成」へと導く のがまさに「一つの心の術 Kunst」である「教育 Erziehung」である。またカントは,このよう な教育は人間における最大の課題であり,かっ最も困難な課題であるとし,幾世代にもわたって人間の 全自然素質を調和的に合目的的に発展させることが全人類の使命である(ibid. S.46Dと説いている のである。

3. 自然的教育と実践的教育

A 自然的教育(physischen Erziehung)

 「人間は教育されなくてはならない唯一の被造物である。」(ibid. S.457)で始まるカントの丁教育 学』は,以上のようにみてくると,カント哲学の中でかなり重要な位置を占めるとみることができるの であり,ここでは我々は,さらに彼の人間学の自然素質論との関連の視点から,カントの具体的教育論 の展開を追ってみたい。

 カントは, r教育学』の中で,教育学または教育論は自然的か実践的(道徳的)かであるとする。そ して「自然的教育とは,人間にも動物にも共通な教育,換言すれば保育である。実践的ないし道徳的教 育とは,自由に行為する存在者のような生きかたができるような人間を陶冶するところの教育である。」

(ibid.S.469)とし,さらに「自然的教育と道徳的教育とは,前者が生徒にとって受動的であり,後者

(5)

が能動的であるという点で区別される。」(ibid. S.487)としている。

 さて我々は,このカントの教育論を第二章で考察した人間の自然素質との関連において考察すれば,

自然的教育とは,人間の動物性の素質に関わるものであり,r人間学』d)生理学的見地においての素質,

丁宗教論』における生物としての人間の動物性の素質に関わる教育であるといえる。そしてカントが自 然的教育の機能として先ず第一に上げているのは,「養護 Wartung」である。 動物は飼育される 必要はあるが養護の必要はない。なぜなら動物はいくらかでも能力を得さえすれば,本能(Instinkt)

に従ってすぐにそれを規則的,合目的的に,つまり自分の害にならないように使用することができるか らである。だが人間の幼児はそうはいかない。幼児には両親の配慮としての養護が必要となる。カント によれば,「養護とは,幼児がその能力の危険な用いかたをしないように,両親があらかじめ配慮する ことである。1(ibid, S.457),なお養護は幼児の能力を積極的に開発するものではなく,むしろ両親 またはそれに代わる者が幼児を危険から護るための配慮であり,従ってその機能的性格において極めて 消極的否定的な意味における教育であるといえる。

 自然的教育の第二の機能は,「訓練 Disziplin」である。訓練はカントによれば「訓練または訓育 は,動物性を人間性にかえる。」(ibid. S.457)のであり,また「訓練は,人間がその動物的衝動によ り,人間の本分つまり人間性からそれることのないように予防する。」(ibid. S.458)という役割を もっており,それは人間の動物的衝動にできるだけ距離をとることを意味し,人間の自然素質の展開に 障碍となるものを抑制する機能である。

 自然的教育の第三の機能は,「教化Kultur」である。「人間は,教化されなければならない。教 化は,教示と教授を含む。それは練達性の獲得である。」(ibid. s.464),そして「練達性とは任意の

目的すべてに対して十分な能力をもつことである。」(ibid, S.464),また「自然的教育の積極的な部 分は,教化である。人間はこの点で動物と区別される。」(ibid. S。479)としている。すなわち,教化 の目指すのは練達性の獲得であり,人間が自分の目的を達成する際に要求される技術能力を得る機能で ある。なお我々がここで断わっておきたいことは,カントが「序文」にあたる部分において動物は本能 がすべてであり養護・訓練を必要としないとし, 「論説」においては自然的教育が人間にも動物にも共 通な教育であると言及していることである。また,自然的教育の積極的な部分に教化を当て,この点で 人間と動物とを区別しているのであるが,以上のことは,両者におけるカントの見解の違いを示してお

り,彼において自然的教育の全体像に多少の不整合があると考えられる。

 さて以上のように,カントは自然的教育の機能を大綱的に見れば養護,訓練,教化の三つに分類して おり,この自然的教育の特質は,養護,訓練に関しては受動的であり消極的否定的であるといえるが,

教化に関しては自然的教育の中では積極的部分とされる。なお養護,訓練が消極的否定的であるからと いって重要でないとは言えないことは注意しておかなくてはならない。カントは「訓練をなおざりにす れば,教化をなおざりにするより大きな心ある。」(ibid. S.459)としており,この養護,訓練が消 極的否定的であるということは,むしろ人間の生理学的素質(動物性の素質)に関わるものだからであ り,それは生物としての人間における基礎的基本的生活に関わる教育であって,この基礎的教育が人間 教育の土台をなしているのである。従って,またこの消極的,否定的,自然的教育が次の実践的教育を 可能にする前提であると考えられている。

 ところで自然的教育は,先述のように動物性の素質に関わるものであり,動物性を人間性に変える機

能を有するのであるが,ここで見落としてならないのは,カントが自然的教育の積極的な面に第三の機

能として教化を当て,それは練達性の獲得を目指すという点で動物と人間とを区別していることである。

(6)

このことは自然的教育が,動物性の素質に関わるという論点から矛盾するようにみえるが,カントは教 化を教示(Belehrung)と教授(Unterweisung)とに分けることにより,前者を動物性の領域に後者 を人間性の領域に当てているのであって,この自然的教育が動物性から人間性への移行領域にまたがっ ているということを示している。つまりカントによれば,教化に含まれる後者の教授は,先述の人間素 質論における人間性の素質(『宗教論』)及び技術的素質(r人間学』)に関わる練達性と重なるので

あり,従って自然的教育より高次の次元における実践的教育の領域に属するとされているのである。

B.実践的教育(praktischen Erziehung)

 実践的教育は,先述の自然的教育が人間の動物性の素質に関わるのに対して,.人間の自然素質の中の 理性的素質に関わるものである。つまり,r人間学』の(広義の)実用的見地における技術的素質,実 用的素質,道徳的素質,またr宗教論』における人間性の素質,人格性の素質に関わる。

 カントによれば実践的教育には,(1)練達性(Geschicklichkeit),(2)世才(Weltklugheit),(3)

道徳性(Sittlichkeit)が属する(ibid. S.496)。.つまり実践的教育は,まず第一に練達性に関す る学課的機械的陶冶から成り立ち,従って教授的であり,第二に怜倒に関する実用的陶冶から成り立 ち,さらに第三に道徳性に関する道徳的陶冶から成り立つのである(ibid. S.469)。

 さて,実践的教育の機能としてカントが第一に上げるのはf教化K:Ultur」であり,これは自然的教 育の機能にも当たっていた。既に,自然的教育に関する論述でみてきたように,教化は教示と教授を含 み,練達性の獲得であり,とくに教授は練達性に関わる学課的陶冶である。人間の自然素質との関連か らすると,r人間学』における技術的素質,丁宗教論』における人皇性の素質に関わるのである。この ことは教化の二義性を意味するものであった。すなわち,先述のように自然的教育における教化は教示 であり,実践的教育での教化は教授ということであって,教化の概念は,人間の動物性の素質に関わる 教示と理性的素質に関わる教授との二領域にまたがっているものとして理解できるのである。

 実践的教育の第二の機能は,f開化Zivilisierung jである。「人間はまた怜捌になり,人々とうま くゆき,人々に愛せられ,また信用を得るように心がけなければならない。このために,開化と呼ばれ る一種の教化が必要である。」(ibid. S.464)。従って,開化は世才,怜捌に関する実用的陶冶に関わ り,人間の自然素質のr人間学』における実用的素質, r宗教論』における人間性の素質(先述のよう にr宗教論』における人間性の素質は, r人間学』における技術的素質と実用的素質の二者を含んでい る)を発展させる機能である。

 第三の機i能は,「徳化Moralisierung」である。 「我々は徳化に心がけなければならない。人聞は あらゆる目的のための練達性を備えているばかりでなく,よい目的だけを選ぶような心術をも獲得しな ければならない。よい目的とは,万人によって必然的に是認されるような,そしてまた同時に万人の目 的でもありうるような目的である。」(ibid. S.465)。徳化は,人間の道徳性における道徳的陶冶に関 わり,人間の自然素質のr人間学』における道徳的素質, r宗教論』における人格性の素質を発展させ る機能である。

 以上みてきたように,カントにおいては実践的教育の機能は三つに分類され,また自然的教育が受動

的性格をもっているのに対し,実践的教育は能動的性格を有し,人間の自然素質における理性的素質に

関わるものである。ここで,人間の自然素質と教育の機能との関係をまとめると次のようになる。

(7)

人間の素質

動物性の素質

理性的素質

質i

1 1

1 1

1 1

i

1 1

1 1 1 9 1 6

1

G

昨宗教論』1  動物性 i

 人間性

r人間学』

人格性

生理学的見地

実用的見地

    i  r教育学』

    i擁護     i訓練     }教示

技術的一ト教授 実用的十開化 道徳的一←徳化

化教

自然的教育

実践的教育

4. カント教育論の弁証法的解釈

 カントは, r原論』及びr実践理性批判』において道徳哲学を展開し,そこでは人間の理性の命令

(命法)を二つに分け,およそ命法は仮言的か定言的かのいずれかであるとし(Grund、 S.271),人 間が従うべき普遍的道徳法則として「汝は,汝の格律が普遍的法則となることを,当の格律によって,

同時に欲し得るような格律に従ってのみ行為せよ。」(ibid. s.279)という定言命法を導き出している。

すなわち,彼は条件を前提とする「実質」に関わる仮言命法(sein)が普遍性をもち得ないために,実 質を捨象した無条件の「形式」的定言命法(sollen)を抽出し,形式倫理学を打ち出す。この点が,そ の後の倫理学者,とくに現象学の立場に立ち「実質的価値倫理学」を提唱するM.Schelerによって形 式主義と批判されることになるのである。ところがカントの教育論は,必ずしも形式主義に陥っている とは言えない。ここでは,教育の機能が具体的な人間を対象とするために教育学は実質的な内容をもつ 学問であらざるを得ないのであり,カントの道徳哲学におけるように善の普遍性を導き出すために不純 な実質的内容を捨象し,純粋な形式だけを抽出する抽象的理念的学問にはなっていないのである。

 なるほどカントの教育論においても教育が自然的教育と実践的教育との二元に分けられており,こ れはカントの道徳哲学における二元論と同じであり,またカントの哲学全体系をなしている「自然」と

「自由」との二元論の展開であるといえる。つまり,本小論において吟味してきたように,カントはこ

の路線に従って人間本性の自然素質論においても,究極的には動物性の素質と理性的素質の二元論を踏

襲しているのであって,このようにしてr教育学』においても,この二つのそれぞれの異なる次元に対

応させて動物性の素質には自然的教育を,理性的素質には実践的教育を関わらせようとする点で二元論

の展開であることには変わりはないといえる。けれども,現実の具体的人間教育論においては道徳哲学

にみられたように絶対性と普遍性をもつ「なすべき」義務を究明する原理的理念的学問ではあり得な

(8)

かったのであり,ここでは教育という実質的な営みが,まず第一に人間の自然素質における動物性に具 体的にどう関わるか,また第二に人間性における練達性の獲得や世渡り術としての世才および怜捌にそ のような教育がどう関わるかという具体的実質的な教育論として展開されているのであって,養護,訓 練,教化,開化,徳化という自然的教育から実践的教育への教育の機能が具体的な連続性において捉え

られ,かつ重層的に積み重ねられなければならない教育理論になっているのである。(13)

 例えば,既に述べておいたようにカントは「訓練」が教化の基礎をなすと説いており,また実践的教 育においては練達性の陶冶は第一の陶冶であり,怜倒はすべての練達性を前提とするとか……道徳的 陶冶は,最高の陶冶である(ibid. S.456)と主張しているところがらも,自然的教育と実践的教育と の連続性と重層性が強調されているのであり,またカントの教育学においては道徳哲学における仮言下 法は定言命法へのステップを成しており,連続的重層的に捉えられているのである。だがさらに注意す べきことは,カントの教育論は単に自然的教育から実践的教育へと連続性をもって展開されているとい う点に留まってはいないことである。「道徳的陶冶は……そもそもの最初から,そして自然的教育に おいても即刻考慮されねばならぬ。」(ibid. S。470)と強調するように,自然的教育における最初の 養護と実践的教育における最終の徳化とが,有機的全体として統合されているのである。

 以上カントの教育論を考察してきたのであるが,教育の対象である人間の自然素質における動物性の 素質と理性的素質とは基本的には異なった方向に向かう自然素質であり,それらの間には次元的な相違 が依然として存在し,両者にはそれぞれ独立の原理があり,いずれからも越え出る可能性はないことを 認めなくてはならない。にも拘らず,現実の具体的生きた人間自体は,とりわけ生きた全体としての現 実存在は,一個の主体的存在であり,内に超越を含むようなパラドクシカルなものであって,生きた全 体として総合され総観されることを要求している。このようにみると,カント哲学における二元論が教 育論においては二元論のまま放置するのでもなく,あるいは彼の道徳哲学におけるように仮言的実質的 内容を切り捨てて,定言的形式の勝利による「支配の一元化」を目的とする二元論でもないといえるの である。言い換えれば,この異質な両者を,むしろ生きた人間の現実を織り成す二本の縦糸,横糸と見 なし,人間の現実をこのような大きな振幅とその力動性において捉え,生きた具体的全体としてあくま でそれらの絡み合いの中で理解し,そして有機的全体的な視点からの統合的な調和的人間形成に関わる 教育論の模索のなかに,カントは教育の課題の解決を求めているとみることが可能である。

 以上の論から我々は人間存在自体が絶対否定性の否定の運動(14)を本質とする存在であることに焦点 を当てることによって,カント教育論の弁証法的構造(15)を敢えて浮き彫りにしてきた訳であるが,こ のようにみると,カントr教育学』において,必ずしも不整合があった訳ではなく,むしろ全体的有機 的構造のなかでの統一的見解を;カント教育論のなかにみることができると考える。カントの究極の テーマは「人間とは何か」であったが,まさしくカント『教育学』はこのカント「人間学」の総合的

な精華とみることができないであろうか。

(9)

(1) L.E.Borow ski:DarsteUung des Leben und Charakters Immanuel Kants, 『カントの   生涯と性格』 山本英一訳 弘文堂 1950 p.137参照

(2) 『汎愛哲学舎論』は二つの論文からなり,いずれも『ケーニヒスベルグ学事政治新聞』に発表されたもので   ある。 (カント全集 第16巻『教育学』尾渡達夫訳 理想社 解説 p. 571参照)

(3) カント全集 第16巻ll教育学』尾渡達夫訳 理想社 註(3)p.445及び解説p.558参照

(4) リンクの序言及びカント全集 第16巻『教育学』尾渡達夫訳 理想社 解説p.558参照

(5) 1.K:ant:Uber Padagogik,1803,1. Kant Werke(Cassirer), Band 8 以下Pada.,『教育学雌   と略記する。

(6) 三井善止「カントの教育二一目的論的観点における自然的教育と道徳的教育の問題」:『玉川大学文学部   論集16』1976,尾渡達夫「カント教育説の構造一とくに道徳教育論と関連して一」:『大分大学学芸学   部紀要10』1961及び門脇卓爾「カント教育学の解釈とその問題」:『哲学研究選言39巻参照

(7) 門脇卓爾 前掲論文 p.25参照

(8) 渋谷久『カント教育哲学序説一素質について一」:長野大学紀要2 1981参照

(9) 1.Kant:Anthropologie in pragmatischer Hinsicht,1798, 1. Kant Werke (Cassirer),

  Band 8 以下Anthro., 『人間学』と略記する。

(10) 1.Kapt:Die Religion innerhalp der Grenzen der bloPen Vernunft, 1793, 1.Kant   Werke(Cassirer), Band 6 以下Relig., 『宗教論曇と略記する。

(11) 1.Kant:Grundlegung zur Metaphysik der Sitten,1785, 1. Kant Werke (Cassirer),

  Band 4 以下Grund., 『原論』と略記する。

(12) カント『道徳形而上学原論』 篠田英雄訳 岩波文庫 p.76参照

(13) 鳥渡達夫 前掲論文 p.30参照

(14) 和辻哲郎  『風土』:岩波文庫:p.15参照

(15) H.H.シュライは「相補性Komplementalitit」 という言葉で弁証法を説いているが,教示されるとこ   ろが多い。 (H.Schrey:Weltbild und Glaube im 20. Jahrhundert,1955, S.62 ff。)

(X) 訳文は理想社版「カント全集」によったが,一部自訳による。

参照

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