• 検索結果がありません。

教育における質とその規準

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "教育における質とその規準"

Copied!
11
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

教育 にお ける質 とその規準

一― 〈教育 されている〉 ことの構成的な成果規準 を中心 にして 一―

C五te五

a of Qudity in Education

一一一Centered around Constructive Product― Criteria of Being̀Educated'一―一

高 橋 洸 治 Kohji TAKAHASHI

(平成 6年10月 11日受理)

1.教育 におけ る「量 か ら質 への転換 」

量か ら質への転換〉 は、近年の経済的お よび社会・ 文化的な活動や行為 を特徴づける主要 な動向であ り、今後 さらに拡充 し推進 され る必要のある方向性で もある。 そこにおいて重視 さ れ る「質」の視点 は、 これ までの手法 を補完す るだけではな く、別の捉 え方 を要請す るととも に、それに伴 う新たな課題 をも提示 しつつある。

量 と質 との関係 については、周知の如 く、ヘーゲルが「量 と質 との相互転化」の法則 を説い ている。「 どのような」あ り方かを示す質 (性)と「 どれだけ」か とい うあ り方 を示す量 (分 )との統一 として事物 は存在する。量的変化が一定の限度 を越す と質的変化が生 じ、新たな 質 は新たな量的変化 をもた らす とい うことが認 め られる。その背後 には、次のような彼の認識 がある、 とされ る。すなわち、数量化的方法 に基づ く自然科学 は、事物 の質的差異 を量的差異 に還元する一面的な科学観 を有す る。しか し、事物 を真 に規定す るのは量ではな くて質である。

それゆえ、彼 は両者の弁証法的な関係 を追究 したのである (『小論理学上』328頁

)。

本稿では、そうした ことを念頭 に置 きつつ もそれに従 うものではない。つ まり、ここでの〈 か ら質への転換〉 は、ヘーゲル的な「相互転化」の一側面の ことではない。それは、数量化方 法の視点 に対 して一定の距離 を取 り、質的な視点か ら物事のあ り方 を聞い直 そうとす ることへ の認識関心の移行 の ことであ り、 またその移行への指向を示す ものである。 そして、その転換 は、具体的には、認識 における「客観主義」か ら「構成主義」への転換 に依拠 していることが 示 され るので、その時点ではそうした意味あいを帯 びることになるであろう。

日本の学校教育 において く量か ら質への転換〉が図 られたのは、1977(昭52)年の小・ 中 学校の学習指導要領 の改訂か らである、 との見解がみ られ る。 それ までの「教育の現代化」が 科学的な知識・ 技術 を優先 し、授業の効率化 によって個人の学力 を最大限に伸長 させ ることを 求めていたのに対 して、 その改訂で は、教育内容 を精選 して く人間性・ ゆ とり0個性〉 な どの 質的な ことが らが前面 に出され ることになったのである。

そして1989(平成元)年に改訂 された現行の学習指導要領 は、その「質」を見直 してさらに深 化お よび強化 させている、 と指摘 されている。 この「質の見直 し」は、「心の教育の充実」、「基

(2)

礎・ 基本の重視 と個性教育の推進」、「 自己教育力・ 自己学習力の育成」そして「文化・ 伝統の 尊重 と国際理解の推進」 という四つの視点か ら行われている、 と解 されている。(D

それ らの改訂 は、科学的な知識・ 論理中心か ら人間・ 社会尊重への転回を示 している。それ は、経済的な量的成長 と結びついた学校教育での主知的成績の偏重 と深 くかかわる子 どもの心 身面での病理現象 を克服 しようとす るものである。そしてまた、情報化、国際化、多元化 といっ た社会の変化 に対応 しうる主体的な「個」の育成 を目指 している。 それ と連動 して改訂 された 新学習指導要領〉、観点別学習状況の評価項 目での く関心・ 意欲・ 態度〉 と く知識・ 理解〉 と の配列順序 はそうした方針転換 を端的に指示 している。 そうした変容 をその基底 において支 え ているのは、生涯教育・ 学習の観点か らの学校教育の捉 え直 しであることは言 うまで もないで あろう。

そこでの「質」 は、「完全習得学習」の到達 目標 とされ うる計測可能 な科学的知識・概念では な くて、それ と対称 的な形式陶冶の視点でのく思考力や態度〉を意味 していることになる。

 

れゆえ学力観 に関 して、量か ら質への転換 は、学習の成果 として く計測可能 な〉科学的概念 を 強調す る学力観か ら、物事への く知的・技能的・感情的な態度〉 と く思考力〉 とを強調す る 〈態 度主義的な〉学力観への移行 を示す ものである、 と一般的に解 されるのである。 けれ ども く知 識主義〉ない し く結果主義〉か ら く態度主義〉への転換 は、向上的な質的発展 として無条件 に 受容 されているわ けではない。例 えば、教育実践で相当な実績 をもた らした「到達度評価」 を

「結果主義」だ として安易 に見捨てることになれば問題である、 との指摘がある。。)

しか し、学力観の転換 に関 して、 まだ基本的に重要な点がおさえられていないように思われ る。 この先何年か して教育の動向が逆転 した場合 に、反対 に く態度主義〉か ら く知識主義〉へ と、振子の往復運動のように、多少の数量的変化 を伴 うだけの元の状態 に戻 るとは考 えられな い。「知識」などの捉 え方が変わってきたか らである。その変化 を確認すれば、現在へ向けての 教育の質的変容の本質的性格が見 えて くるのではなかろうか。

科学的な知識・概念 を重視する計測可能 な学力 と、態度・思考力 を中心 に置 く学力 とをめ ぐっ てのいわゆる「学力論争」は1970年代 の半 ばをピークにして展開された。その背後 においては、

すでに60年代前半 (T・ クーン『科学革命の構造』1962)から科学全般の 〈パ ラダイム転換〉

が遂行 されてお り、70年代末 までには、大半の心理学者が「文脈主義(contextualism)」 へ転換 した と云われている。

パ ラダイム転換 は、哲学や認識論では「客観主義」か ら「構成主義」(constructi宙sm)への転 換であ り、教授・ 学習理論 は後者の立場への転回を追究 したのである。それ までの伝統的な学 習理論が依拠す る客観主義 によれば、現実世界 は学習者の外部 に客観的実体 として存在す るも のであ り、それゆえ、それを表示す る知識 は安定 した普遍的な性格 を有す る。 その外部的な知 識 は学習者の心の外か ら内部へ と伝達 され、それを学習者 は受容 し記憶す るのである。その学 習 を統御す るのは教師である。 この立場 に属するのは、プログラム学習、

CAI、

ATI、

育成果の最大化 を目指す「教育方法の最適化」、行動 目標 による教授 と評価、情報処理アプロー チを取 るものである。0

それに代わって優勢 となってきたのが構成主義の立場である。 これはカン トの、認識 の対象 は認識 と関わ りな く存立 しているのではな く、認識の図式 によって く構成 される〉 とす る思想 か ら影響 をうけてピアジェが強調 しはじめた立場である。 ここでは、学習者の心 は内か ら外へ 向かって能動的かつ構成的に働 きかける、 と解 され る。心 はシンボル を機械的に処理する単 な

(3)

る処理器ではな く、 シンボル を作 りだ し、現実世界 を概念で構成 し、意味づけた りす る創造的 な ものである。 ピアジェに即 して言 えば、人間は内面 にシェマ とい う枠組み、すなわち認知構 造 をもってお り、それに基づいて情報 を構造化 して認識するのである。周知のごとく、それが 同化であ り、同化で きない情報が多 くなるとシェマの変換がなされ、 これが調節の過程 といわ れ る。そして、認知構造の量的な変化 は学習であ り、質的変化 は発達である。 ピアジェの この 理論 は、現在で も信頼のおけるものであ り、高 く評価 されている。

知識・ 技能の基礎的な構造化 は客観主義的な教授法 を用いることもで きる。単純 に構造化で きないほ ど複雑 な知識・技能 は、そのような教授法では伝達 しえず、「人間 としての学習者の持 てる能力や有能性 を発揮 して」習得 され るように配慮する必要がある。 どうしてそうす る必要 があるか と言 えば、構成主義 には「学習者 によって構成 される知識 は、伝達 され る知識 とは異 なるとい う観点」が含 まれているか らである。そして、最終の学習段階では、経験 に基づ きシェ マ的パター ンやパ ラダイムの獲得が 目指 される、 とされる。

その く経験〉の重視 は、ポラニーの く暗黙知〉 と結びつ くものである。彼 は、客観主義 にお ける、知識 はその対象 によって全面的に規定 され るという見解 を批判 し、知識の成立 における 個人の く能動的な関与〉を強調したのである。そして、非言語的で感情的色彩をも,つ暗黙知を 人間精神の根本的能力と捉え、それが明示的な知識を成立させて意味づけし、知識の使用を制 御 している、 とした。或 る対象 を把握する際、体験で直 に熟知 した内面的な ことを「近接項」

として持 っていると、そこか ら無意識的に心 は一定の流れ となって、意識が注 目している「遠 隔項」 としての対象へ と働 きかけるのであ り、その作用が暗黙知である。 この暗黙知 は、対象 へ関与 し、熟知すること、すなわち「住み込み」(indwelling)によって獲得 され る。 これは「 感 情移入」 とほぼ同 じものである。

その「住 み込み」 は、 もの ごとを真 に認識す るためには、外か ら眺めるのではな く、 また単 に内面か ら捉 えるだけではな くて、 ものごとをその文化的な背景、伝統 と関連づけることか必 要であるとい うことを、指示 している。それによって人 は文化、伝統へ と統合 されてゆ くので ある。 そ こか ら、学習 は伝統 とい う基盤の上で行われ るとい うことが確認 される。

構成主義の く内か ら外へ向か う心〉 は、社会・ 文化・ 歴史 との関わ りでの学習 を重要な もの として捉 えさせている。 この社会的構成主義 は、認知心理学の状況認知、その文脈主義 と通ず るものである。それによれば、知識 とその意味の獲得 において、文脈や状況 との関わ りを確保 することは不可欠な条件 なのである。

上 の要点的なおさえによって、教育 における「量か ら質への転換」、学力観での「知識・結果 主義か ら態度主義への転換」 は、哲学・ 認識論 における「客観主義か ら構成主義への転換」 に 基づいているとい うことが示 された。 この構成主義への転換 は、20年前の用語での「態度主義 への転換」 を尊重するな らせめて「構成的態度主義への転換」 としたい ところである。

以上の考察 は、学習 を中心 とす る面での質的変容が対象 とな り、教育が後退 しつつある今 日 の傾向を裏付 けているように も思われ る。 しか し、先 に指摘 された ように、学習 そして発達 は 文脈 との関わ りにおいてなされ るものである。社会・文化的および歴史的な伝統 との関わ りを、

子 どもが適切 な形で遂行す るためには、大人・ 教師の援助 は本質的な要素 として新たな役割 を もつ ことになる。 それゆえ、そこに教育的関係の捉 え直 しとい う課題 も生ず るのである。

(4)

2.「量か ら質への転換 」のエ ピソー ド:「パ ターナ リズム」の克服

質の観点からの捉え直 しの、教育学的にも示唆に富む近年での事例 は、医療および生命倫理 の領域に見 られる。「生命 (又は生活)の質 くQOL:quality of life〉」がそれである。今世 紀 後半の科学・ 技術の進展よる救命救急医療の進歩は、救命 しても意識を回復 しない植物状態の ままでの数年間にわたる生命の保持を可能にした。それにより新たに生、死 とは何であるかが 改めて問い直され、その過程で、「全地球 より重い」 とみなされた神聖不可侵な生命 〈SOL;

sanctity of life〉 への理屈を超えた無条件的な尊重姿勢がゆらぎ、「生命の質」が強調されるこ とになったのである。生命の単なる時間的な延長から、生命 と人間 としての尊厳 との結びつき へ と視点が転回されたのである。それは生命観の変容を示すものともいえよう。ただし、その 変容の全面的な肯定はここでは控えたい。 というのは、生命観の問題は臓器移植 と密接な関わ

りをもっていると思われるからである。

そうした生命観の変化の もとに、アメ リカでの患者の人権運動、公民権運動、そして70年 の消費者運動 を社会的な背景 として、特 に消費者運動の一環 として医療思想の大 きな変革がな され、新たな医療の倫理が摸索 されて きたのである。古代ギ リシァに淵源する医師の態度 に染 み込んでいる「 ヒポクラテス式のパ ターナ リズム (家長主義:温情的干渉主義

)」

が非難 され、

医師への全面的な委任が見直 され ることになった。 )

患者の立場か ら求められたのは、検査や治療の方法 について患者が自分で比較できるように 選択肢 をつけて説明す る医師の義務、病名や病状 について真実 を知 る権利、 それ らの情報 に基 づ く自主的判断権、選択権、自己決定権、および同意権などである。そして、そこか ら医療の 新 しい原則 として確認 され定着 したのが、「インフォーム ド・ コンセン ト 〈IC〉 (充分 な情報 を与 えられた うえでの承諾、同意

)」

と「患者の自己決定権 〈SD〉 (患者が治療 を選択す る権

)」

とである。「QOL」 がそれ らを支 えていることは言 うまで もない。

QOLは

、生命の質 とともに生活ないし生 き方の質 として も解 され、「人間 らしい生活」へのケアや「尊厳のある死」

の選択、「 リビング・ウィル くli宙ng will〉 (生前発効 の遺言

)」

と密接 に結びついているか らで ある。

ICと SDの原貝Jが受容 され るようになった ことに関 して、アメ リカ社会の特殊 な事情が指 摘 されている。ひ とつは、訴訟社会であること。訴訟 に対処す るために、医師は患者の注文 を 受 けて治療 した形 をとり、 自分の責任範囲を特定 してお く必要がある。 もうひ とつは、公的な 健康保健制度が整 っていないことである。そのため、医師は治療の内容 と費用のメニューを見 せて説明 し、患者 に選 ばせ る必要性が出て くるのである。③

アメ リカ社会の特殊性 そして欧米の個人主義思想 を背景 にして成立 してきたICと SDを 本医療 に導入 して定着 させ るには、それな りの補足 を要すると指摘 されている。 それは日本の 医療 に欠 けているとされ る「 コ ミュニケーシ ョン(意思疎通

)」

「 シェア リング 〈sharing〉 ([情 報、感情 を]共有すること

)」

である。ICが情報の一方的な提供 にな らないように、医師 は「聞 く技術 くlistening skill〉」を身 に付 けて、話 を聞 き質問に答 えて患者の十分 な納得 を得 るい う形 で相互の意思疎通 をもつ ことが大切である。また、意思疎通において情報 を共有するとともに、

「生命の質」にかかわ る病名の告知 において患者やその家族 と「感情の共有」 をして人間的な 触れ合 いをもつ ことが、 日本的な共生社会では重視 されるのである。

こうした社会実態 にも根 ざした観点か らの捉え直 しは、基本的な生命観の転換 を根底 に置い

(5)

て、医師 と患者 との間に正常 な関係 を確立 させ ることを要請 したのである。 その関係の実質的 特徴 は、治療の「受注者」 とその「発注者」 との関係 なのである。消費者の立場か らの商取引 的な性格 をもつ この関係 を明確 にす ることによって、パ ターナ リズムによる保護の名の もとの とでの統制 を克服す ることになるとされたのである。 そしてその関係が単なる経済的なものに 陥 らないようにす るために、く生命 (生)の質の確保〉がその基準 としての役割 を果た してい

ると言 えよう。

要す るに、医療思想 におけるその変革 は、患者 とその生命 とを医療の聖域の中に く囲い込む こと〉か ら解放す ること、く脱 一囲い込み〉の運動なのである。医師のパターナ リズムか ら患者 の人権 と諸権利 を、そして科学技術的な治療装置か ら「生命 (生

)」

を解 き放 ち、それ らを社 会的および人格的な関係の文脈 の中に位置づけ、その文脈 における適切性 と妥当性 とによって それ らを保障 しようとしたのである。 その ことは、「病んだ患者」、「病んだ身体 と生命」として 自己 自身か ら く分離・ 分断〉 され医療の領域内に囲い込 まれた く分身〉 を取 り戻す ことによっ て、いわば く疾病 を生 きる人格主体 としての私〉 としての統一性 を回復 させ ることに他な らな いのである。 こうした ことが、医療革命 と称 されることの主要な意味である。

3.〈教育 され てい る〉 こ との主要 な規 準

教育の質 について考察する場合、教育する側の教師の資質・ 教育 目標・ 教育内容 にまず 目が 向けられ る。 それは、〈教育す る〉ということが課題動詞ない し試行動詞であって、成就動詞で はない とい うこととも関わ りがあろう。医者の く治療する〉行為 は、く治癒 した〉とい う成就動 詞でその実質的な終結点が確認 され る。 それに対 して教育の終結点 は、教師が教育活動 をしな くなった時点であって、成果があったか どうかは未解決のままである。教育活動 は成果がな く て も、子 どもの知識習得や学力向上 という目標 を目指すだけで存続 したのである。 )

やがて、そうした く意図的教育観〉 は、学習 目標への到達度 を明確 にして学習成果 を重視す る く達成的教育観〉 に とって代わ られ ることになった。 この達成的教育観 によれば、教育の質 は、到達度の高 さと到達 した子 どもの割合 に基づいて測定 され ることになる。完全習得学習が 理想 とされるのである(実際には、 クラスの5分の 4と か80か85%と言われているが)。 しかにそれは、授業の実効性、効率性 の面での部分的な質のよさを示す ものではあるが、教育 その ものの質 とは言いがたいのである。

その他いろんな見解がみ られ るが、概活的にいえば、教育の質 を く教育 された人間〉 との関 わ りで捉 える傾向がみ られ る。 その典型例 は次のような ものである。〈教育 された人間〉とい う のは、主 として道徳的に訓練 され、伝統的な社会規範 を遵守す る態度 を身 に付 けた人間の こと である。教育の特質 はその規範的機能 にある、 とされ る。教育の規範的な性格 はその規範的役 割の引 き受 けに由来す るとみなされている。そうした学校の規範的性格 は、〈教育のない学校〉

論等で批判 されることになった。つ まり、く学校教育 は基礎技能の訓練 に圧縮 され る〉べ きで、

道徳的な目標や子 どもの道徳的な世話 は学校か ら排除せ よ(K.ベライター

)、

と。それは極論で あるとして も、そうい う趣 旨の見解が相当数出されていることは事実である。だが、依然 とし て教育の規範性 を前者のような意味で捉 え、そこに教育の質 をみる人々 も多 く、それな りの妥 当性 を認 めざるをえない、 と思われ る。

教育の質 を明確 にす るために必要な ことは、く教育 された人間〉の一般的な特徴 を取 り出す こ

(6)

とである。〈教育 され る〉ことによって獲得 された人間の特性が、教育の質 とその規準 を具体的 に指示す ることになる。教育の質 とその規準 を捉 える試みは、教育活動の在 り方 を規定す るこ とになるものである。 その意味 において、質の追究 は、先の道徳主義的な規範 とは異なるもう ひ とつ別の規範性 を確認す る試みで もある。

そ ういう視点か ら教育 における質 を分析的に解明 したのは、 ロン ドン大学、教育哲学教授の RoS.ピータースである。以下、ここでは、彼の見解 を要点的におさえつう、検討 をすすめるこ

ととす る。。)

教育 における質 は、く教育 されている〉 ことの規準 を明確 にすることによって、そして、く教 育 されている〉状態へ と導 く過程の有効性 を確認す ることによって規定 され るのである。 それ ゆえ質の判定 は、く質の成果判定〉と く質の過程判定〉とに区分 される。前者の成果判定 は 〈教 育 されている〉 ことの複数の規準 をどの程度充た しているかによってなされる。後者の過程判 定 は、教育 を受 ける開始時点での状態か ら、 どの程度 〈教育 された〉状態へ と接近 しているの か を判定することによってなされ る。

それ ら二つの質的判定 によって、質的評価の幅 を一定程度拡 げることがで きる。例 えば、比 較的学力の優れた生徒数が多 ければ、成果判定 は高 くなるが、過程判定では意外 と低い ことも あ りうる。一方、比較的に優れた とは言 えない生徒が多数 を占める学校 は、成果判定では思わ しくな くて も、過程判定では前校 より高 く評定 され る場合 もあ りうる。ただ し、過程的な質の 判定 は、成果的な質の概念 を前提 にして初 めて可能 になるとここでは捉 えているので、生徒の 差異 を認 めての評定の公平 さについては、考慮する必要があろう。

教育 を受 けた人 を特徴 づける精神的な特性 は、多様 な ものである。それゆえ、教育 目標 も多 様 な ものになっている。 というのは、教育 目標 を設定す ることは、く教育 された人間〉における 特定の特性 を強調す ることだか らである。教育 目標の多種多様性 による拡散化 は、教育行為の 有意味性 を減退 させ ることにつなが る。そこで、く教育 されている〉ことの主要な質的規準の提 起が必要 となる。 その規準 は、教育 目標 を分類 し統合す る際の枠組 み としての役割 を果たす と

ともに、教育行為の質的規準 として、教育行為の有意味性 を確保 させ る拠 り所 ともなる。そう い う成果規準 として、 ピータースは三項 目を挙 げている。

尚、教育 における質 は、く教育 に内在する質〉と く教育 に外在す る道具的な質〉とに区分 され る。前者 は、教師な どが本来見据 えている「教育的な価値の観点か ら遂行 され ること」に関わ るものであ り、後者 は、政治家や経済学者が学校 に対 して要求す る「人的資源」や「投資効果」

に関す るものである。

教育 されている〉 ことの成果規準

 (教

育 に内在する質

)0

1.〈それ 自体価値 あることと見なされ ることへのコミッ トメン ト〉

2.〈知識 と理解 (それに相応する情操 を含む

)〉

:

(a澤実 を知 り、一連の知識 を修得 していること. (b)aを裏付 けている原理や理論 を理解 してお り、

また、それ らに照 らして経験 を解釈することがで きること.

(C)aと bと を獲得 し、そ して評価 し、批判 し、 さらに発展 させ得 るような手順(prOce‐

dures)を熟知 していること、および修得 (mastery)の 程度. 3.〈全体性〉

(7)

上の二つの成果規準 について、その意味内容 と特徴 とを要点的にコメン トしてお こう。

成果規準

[1]に

ついて:

教育 されている〉 とい うことの判定 は、被教育者 において く非 ―手段 (道

)的

な態度〉

が発展 させ られているか否かに関わる。 その態度 は、事柄 に従事するのに、その成果 を直接 目 指すのではな く、いわば事柄 自体 に内在 している特質 ない し価値 を享受で きるがために自ら進 んで行 うような態度である。例 えば、研究、編み物、料理への従事 は、その利益0有用性 を求 めることもで きるが、それ を超 えて活動 その ものの くよさ〉のために関わる態度 をも生みだす

ものである。

その くそれ 自体価値 あるとみなされ ることへのコ ミッ トメン ト〉が有する教育的な意味 は次 の点 にある、 とピータースは指摘す る。それは、「集中力、粘 りづ よさ、吸収力 を伴 うような学 習への自律的な態度 と、そして自発的な享受

(eniO―

ent)と い う一般的な態度 とを発展 させ

る」 ものである。 これ らの態度 は、第1節での 〈暗黙知〉 と結 びつ くものである。

この規準 は、数学 に代表 され るような理論的追究 を特別 に優先 させ るものではない。橋 をつ くる工学的な活動 は、確かにその有用性 という外在的な要求 に基づ くが、橋づ くりその ものに 内在する価値 を享受す る魅力が実質的な支 えになっていることも無視で きないであろう。一方、

内在的な価値 と深 く関わる活動である詩や絵の制作 は、内在的な価値の面では多少の犠牲 を支 払 って、外在的な社会の要求 に従 うこともあ りうる。要す るに、理論的探究であれ実践的活動 であれ、それ らの根底 には内在す る価値 を志向す る 〈非 ―手段的な態度〉が成立 しうるとい う ことである。それが成立 しえないならば、その行為や活動 は本質的に教育的な もの とは判定で きない。 それが この規準の意味である。

成果規準

[2]に

ついて:

教育 されている〉 ことには、単 に く・・ の仕方 を知 る〉 (knowing how to)よ うになること だけではな くて、く。・ とい うことを知 る〉 (knowing that)が 含 まれている。 この ことは教育学 的に次の ことを要請 している。すなわち、世界 を客観的に表示す るために必要なコンセプ トや カテゴ リーの基礎的な構造 を子 どもにおいて発展 させ ることである。それは、願望や恐怖、そ して想像 によって作 られた世界像か ら抜 け出させ るためである。読 み・ 書 きの基礎技能の獲得 は、経験の範囲 と明晰 さを伸 ばし、その表現 を調節 し伝達する力 を高める。やがて、科学的・

道徳的・社会的・芸術的 といった意識が分化的に発展 され る。 これは、真理や他者の尊重 とか、

苦 しみ とか く有意味な形式〉への敏感 さ とい う価値への関心 に基づ く仕方で行われ るのである。

こうした意識の在 り方 を分析 して区分 したのが、a・

beCで

ある。

教育 されている〉ためには、bの規準 を充た し、Cの手順 の熟知 ぐらい までは充た してい ることが望 ましい、 とピータースは指摘 している。

この規準 に基づ く教育 における「質」 は、知的な理解のみではな く、徳性 と深 く結びつけら れている。徳性 は三つに区分 され る。①真理追究の必要条件 としての道徳的な徳性 :事実や資 料の尊重、議論の源泉 としての人々の尊重、正当な根拠 に基づいて自分 の意見 を進んで変更 し

ようとすること、公平、謙虚、寛容。②より知的な一般的徳性:一貫性、独創性、緻密性、明 瞭性、厳密性、適切性のセンス、構想力など。③専門領域に特殊な徳性:科学的観察での客観 性 と鋭敏性、数学での明晰性と厳格性など。これらの内②の徳性が、教育における「質」の最

も一般的な規準であると、ピータースは捉えている。

(8)

この質規準 は、性格特性 である徳性 を強調 しているが、他面 においてはかな り合理主義的 と い うか、理性的な立場 に立 っている。 これに従 えば、く教 える〉ことは単 に知識 を伝 えることで はな く、知識の根拠・理由、そして知識 を生みだ している理論や法則 を理解 させ ることとなる。

この見解 は、言語分析の教育哲学者I。 シェフラー教授の、「教 えるの特徴 は、教 えるが合理的 説明や批判的対話 と特別 な関係 をもっているとい うことである」0と の指摘 とまさに一致 して いると言 える。教 えることは、教 え込みや宣伝 とは異な り、く疑間を出す こと〉・ く理由を挙 げる こと〉 を中心的な要素 として もつ ものである。教師は自分の判断を、学習者の自由な合理的な 判断 と評価 に委ねる。要するに、く教 える〉ことは 〈合理的な議論の枠組〉において被教育者の 学習 を成立 させることである。

しか し、そこに考慮すべ き問題がみ られ る。教育内容の真実性や有意味性 は教師の判断 と評 価 に左右 されることになる、 とい う問題である。教師の主体化 は教育の主観化 とい う問題 を引 き起 こすのである。 ここではその指摘のみにしてお きたい。ただ、それ との関わ りか らも、 こ の成果規準 は重要であると言 えるであろう。

要す るにこの規準の下で、権威主義的な教育的関係 におけるパ ターナ リズムは、対話的なイ ンタラクショニズム (相互作用主義

)へ

の転換 を求められ ることになるであろう。

成果基準

[3]に

ついて:

これは、く全体的な人間〉 もしくは 〈広範な理解 をもつ人間〉を指向するもので、く狭 く専門 化 され ること〉 を除外す る基準である。何 らかの狭 い領域で単 に訓練 されただけの人 は、その 領域の深 くはあるが限定 された理解 を有するもので、教育 された人 とは言わない。それでは多 様 な領域 において どの程度発展 されていれば 〈教育 された人〉 と言 えるのか、 これについては 決定す るのが困難である、とピータースは率直 に述べている。要す るにこれは、く全面的な理解〉

とい う基準が、教育 における「質」 と関わ りうることを指示するものである。

全体性〉 は、 また、子 どもの各発達段階でそれ と結びつ く教育の「質」がそれぞれ強調 さ れ ることになるが、その際に段階的な狭 さに陥 らないように絶 えず 〈教育 されている人間〉 と いう一般的なコンセプ トを見失わないようにすべ きである、 ということを要請 している。

以上が く教育 されている〉 ことの成果規準の要点である。 この他 にピータースは 〈教育的手 続 きの過程規準〉に言及 している。 それは成果規準 に基づ く到達度 に注 目した ものであるが、

が、その到達度が教師の資質や生徒の動機づけ等にどの程度依存 しているかを見極めることは 困難であると指摘 している。 そして、教育 における「過程の質的規準」 について、筆者 はすで に考察 しているので (当研究報告第39号

)、

ここでは省略す る。

そうした く教育 に内在する質〉の成果規準 は、すでに触れておいたように主要な教育 目的を 指示す るものである。一見 して連想 され るものは、「 内在的な教育 目的」である。教育 はそれ自 体価値 あることのために行われな くてはな らない、 とい う考 えに立つ ものである。元来、それ 自体価値 あるものは、知識 と理解、知的探究 とされていた。 それ らは理性 の表れである、 とい う理由によってである。具体的には 〈学問のための学問〉 を目的 とするものである。その後、

芸術 のための芸術〉 も加 えられた。非 一手段的、非 ―功利的な優れた能力 は、近年卓越性 と も称 されている。それ とは区別 して、成果規準 に基づ く目的を く内在する目的〉 と呼ぶ ことと する。問題 は両者の違いを捉 えることである。

ではその く成果規準〉、く内在する目的〉はどのような意味 をもつのであろうか。それを読む ことが重要である。推測 を含めておさえてお こう。 まず第一に、教育の目的は教育の外部 に求

(9)

めてはな らない、とい うことである。教育の内部 に目的を求 めるというのは、く教育 されている 人間〉の成果規準 を尊重するとい うことに他な らない。その規準 において、理論的探究のみを 特別 に優先 させない と指摘 して「 内在的な教育 目的」 とは距離 をおいている。そして、それが 古典的な く実体的理性〉 を偏重 しているのに対 して、 この成果規準 は人間 (子)に内在す る

〈自律的な学習への態度〉 とそれに伴 う 〈性格特性〉 との育成 を目的 として支持す るものであ る。それは 〈コ ミッ トメン ト〉 という表現で示 されている。

学問のための学問〉 は社会的な文脈 との関わ りを超越す る面があるのに対 して、 この く内 在す る目的〉 はむ しろ積極的に く世界〉か ら学 び とろうとする態度の獲得 を目指 している。 そ の意味 において、規準1はいわば自己活動 を教育の質 として捉 えているのである。

第二 は、く教 える〉 とい うことの く規則 モデル〉(rule m。)を支持 している、 とい うことで あ る。 この用語 は前出のシェフラーによるものである。彼 は 〈教 える〉 ことのモデルをそれ と、

く印象 (刻)モデル〉(impression m。)、 洞察モデル〉(insight m。)との三つに分類 している。

その く規則 モデル〉 は、近代哲学 におけるカン トの理性 に依拠 している。 この理性 は、一般規 則や原理 を守 ることとされている。認識面での理性 は真実のために諸理 由を公正 に取 り扱 うこ

とであ り、道徳面での理性 は原理 に従 った行動、すなわち人間の弱 さや 自己の利害か ら利得や 権利 に傾かない行動 を確保す ることである。 それゆえ、 この く規貝Jモデル〉においては、「教育 とい う仕事 は、最 も広義での性格 を、すなわち人間の尊厳 を表す、原理 に従 った思考や行動 を 発展 させ ることである」。のと解 されているのである。

成果規準 の2は、その趣 旨を明確 に示 している。ただ し、いわゆる理性の厳格主義 に立つ も のではない。原理 ゃ理論 に自らを従わせ るとい うよりも、それ らを知識・ 理解の裏付 けや経験 の解明・ 解釈のために利用するとい うように受 けとめられ る。 そして原理・ 理論 を検討 し発展 させ る手法の重視 は、科学的合理主義 を示 していると言 えよう。 それ らの ことか ら、成果規準 2においては、能力 は規則 (原理・ 理論)と結びつ けられている と解することがで きる。 その 能力 は、ability O facultyではな くcompetenceと 表記 され るものである。

コンピテンス としての く能力〉は規則 よって支 えられている能力の ことである。例 えば、 日 常の話 し言葉の不正確 さを捉 える判断は、言語構文法の規則体系の獲得 によって可能 となる。

裁判官 は法的な規則体系に依拠 している。ただ し規則 を知 っているだけでは充分でな く、その 規則 (法)に基づ き訴訟 内容 について判断 を下す ことを積み重ね ることによって裁判官の能 力 は形成 され る、 と指摘 されている。(11)成果規準2bの「 それ ら (原理や理論)に照 らして解 釈す ることがで きる。」 は、そうした く能力〉の育成 を目指 しているのである。

第二 に、成果規準 は、 自然的・ 有機的発達で はな く く構成的発達〉 を く内在す る教育 目的〉

とす るものである。この構成的発達 は、ピアジェの意味す る認知的発達の言い換 えである。ピー タースはその成果規準 を適用 させ る場面の具体的な説明 を、 ピアジェの発達段階に即 して行 っ ている。例 えば、6歳までの認知 一情動的な構造 とそれに伴 う徳性 の発達が強調 され る段階で は成果規準2、 多様 な意識形式 を支 えている好奇心・ 構成す る心・ 共感 およびその他の動機づ けの発達 と訓練 に関 しては成果規準1、 そ して抽象的な理解の発達では成果規準2、 方法の獲 得 に関 しては成果規準 2C、 最後 に、 そうした発達が く狭 い専門化 (特殊化

)〉

をもた らさない ようす ることに関 しては成果規準3がそれぞれ適用 され る、 と明確 に指示 されてい るのであ る。(1の従 つて、成果規準 を尊重すれば、その意味での発達 を援助 した り促進 した りす ることに なる と考 えられ る。

(10)

発達 は近代教育思想以降の最 も重要な概念である。ルソーやペスタロッチーの発達概念 は自 然主義的な も.のである。 それは、子 どもの内にある素質 としての諸力が く自然の成 り行 き (歩

)〉

│こ従 って開花す るもの と捉 え、く心情・ 精神・ 技能〉 とい う諸力の調和的発達 を説 くもの である。 そして、進化論の影響 をうけた進歩主義の立場か ら、デューイは「発達すること、成 長す ることが、生活 なのだ」とし、〈より以上の成長〉以外 に教育の目的はない と主張 している。

デューイでの発達 は「実行的手腕や、 はつきりした興味や、観察や思考の明確 な目的 を含む習 慣 を形成す ること」 とされている。 これ らの発達・成長説 は、「解放 されていない自然的な発達 は個人 をXへと導 く。Xは自然的な秩序 に本来的に備わっている目的である。」とい うことを前 提 している。そこか ら、くXへの成長・発達 は善である〉 との評価的な価値づ けをすることには 飛躍がある、 と指摘 されているのである。。の

構成的発達〉概念 は、先 に触れたように、 シェマ構造の獲得 と変換 に基づ くものであ り、

それ らとは異なるものである。自然主義や進歩主義の発達概念 はabilityの形式陶冶 に属す るで あろうが、構成的発達概念 はいわばカテゴ リー陶冶つ まリコンピテンスの陶冶 と結びついてい るものであ り、その性質上か ら実質陶冶 に接近 している。だか ら、成果規準3の全体 性〉は、

諸力の調和的発達 とか全面的発達ではな く、〈全面的な理解〉 を意味 しているのである。

この発達概念 は当然の ことなが ら文脈主義 に立つ ものである。 というのは、そのカテゴ リー は、 カン トのように生得的な ものではな く、子 どもとその物理的お よび社会的な環境 との間の 相互作用の帰結 として発達す るとい うコールバーグの見解 を、 ピータースは支持 しているか ら である。(14)

以上 の考察 により、 ピータースの く教育 されている〉 ことの成果規準 は、教育の構成的な本 質特徴 と教育固有の内在的な目的 を確認するために、上述 された範囲において、有意味かつ妥 当な ものであることが示 された。

注 〉

1)『教職研修』(教育開発研究所)1989.3月増刊号, 9ページ以下参照.

2)静岡授業研究会編『観点別評価 と新 しい学習観・学力観』明治図書,1994,40ページ以下 参照.

3)菅井勝雄「教育工学一構成主義のく学習観〉に出会 う」,『教育学研究』(日本教育学会)1993, 60巻3号,245ページ〜参照.

星野一正編著『生命倫理 と医療』丸善出版,1994,66ページ参照

川崎寿彦・ 木谷勤編『生 と死の文化史』名古屋大学出版,1989,187ページ参照.

ブレツィンカ(小笠原・林0高橋・田代訳)『教育科学の基礎概念』黎明書房,1980,58ペ

.

7)Ro S.Peters,̀The Meaning of QuaHty in Education,'in Peters,Education and the education of teachers,Ro Ko P.,1972,(MQと 略称)pp.22.

また次 を参照. Peters,̀Education and the educated man,'in R.F.Dearden,P.H.Hirst, and Ro So Peters cd),Education and the development of reason,Ro K.P。 1972,(ERと 略称

)

8)MQ,pp.28‑30.

(11)

9)I.シェフラー(村井実監訳)「教育か ら見た知識の条件』東洋館出版,1987,23ページ. 10)Io Scheffler,̀Philosophical models of teaching,'in R.S.Peters(edl,THE CONCEPT

OF EDUCATION,Ro Ko P。,1970,p.130.

11)0。 ルプール(石堂・ 梅本訳)「学ぶ とは何かJ勁草書房,1985,272〜279ページ参照.

12)MQ,p.30。

13)John White,The Aims of Education Restated,Ro K.P。 ,1982,p.31.

14)See ER,p.506。

参照

関連したドキュメント

教育相談は教師が行うものとして説明され,その上で専門家や関係機関との連携が求められてい る。これを受けて

生にとって模擬保育の経験のみによる質の高 い指導計画案を立案することの難しさ(新實 ,  2014

FtsZ のらせんが容易に観察される(図3B) .興味深いこと に枯草菌の極に局在する分裂関連タンパク質

 アクティブラーニングという用語は、2012(平成 24)年 8 月 28 日の中央教育審議会の 答申(以下、中教審答申

 さらに,自分の意見を持ち,自己責任を小さい頃から当 たり前のように教育し,オートノミー (註 1) の育成を家庭

⑤さらに「五調論」も『成業論」,PSIyj/,等と同様VaSubandhUの過渡期の作品

一面で正当性を有すると同時に、他面でディル

大学教育の質保証のための参照基準