鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第17巻 第1号
社 会 科 教 育 と教 育 権 独 立 論
(Ⅲ
)― ― 教師 の教育権 を中心 に 一―
社会科教育教室 糸田 (―)は
じ め に 国民の教育権論の立場 か ら国家の教育権 を否定 したといわれる教科書裁判 における杉本半」決は, その具体的 (訴訟)対
象 が主 として社会科教育 に関す るもので あるだけに,社
会科教育 における 教科 書利用の問題 とも関係 して事は極 めて重大で あ り, この点 さらに検討 を加 えてみたい。 (二)国
民教育権論の問題点
教 育 の理念 的本 質 が国 民の 自主 的 い となみ と して把 え うる と して も,科
学 や技術 がい ち じる し く発達 しなお急速 に 日進 月歩 して い る現 代社会 にお いて は,国
民 が この責 務 を十分 に果 たす た め には,国
民 は,そ
の た めの諸条件 を整 えるとともに,必
要 な施 策 を講 じて いか な くてはならない。 その ため に,国
民 が,国
家,地
方公共 団体,な
どに その条件 整備 を義務づ ける (憲法26条2項
, 教育 基本法6条 2項
,同
10条2項
,学
校教育 法5条 ,な
ど)と
ともに,教
育 の専 門家 ない し専 門 職 プ ロフ ェ ッシ ョンと しての教職 を,条
件整備 され た学校 に配 置 し,彼
らに 自分 た ちの子 どもの 教育 を委託 した こ とで 公教育 と しての学校教育 が誕生 した と考 え られ る面 は あ る。 この点,判
決 は, まず憲 法26条2項
につ いて そ れは国 民 が「 国 に対 し,子
どもの教育 を受 ける権 利 を実現 す るための立法 その他 の措置 を 講ずべ き責任 を負 わせ, とくに子 どもにつ いて学校教育 を保障 す るこ とになった もの と解 され る」 と し,判
決 によれ ば,公
教育 とは,国
民の 自主 的 い となみ と しての教育 の うち,国
民 が と くにそ の条件整備 を国 家 に義務づ けた教育体系 をい うので あ る。 だ か ら,公
教育 に関 して は,国
家 は, 国民 に対 して と くに強 くその条 件整備 義務 を負 って い るの で あ り,ま
た, もっぱ ら国家 は その条 件 整備 に精励 しな くて は な らない とい うことに もな るので あ る。 か くして,半Jttは, 「 してみれば,国
家 は,こ
のよ うな国民の教育責務 の遂 行 を助成す るために, もっぱ ら責任 を負 うものであって,そ
の責任 を果すために国‐4‐に与 えられる機能は,…
…教育 を育成す るた めの諸条件 を整備 す ることで ある」 と,こ
のよ うにい うことになる。 こうして,判
決は,公
教育 に関 してもまた,国
民は教育の 自由 権 を享受 しているので あり,国
家,地
方公共団体,な
ど公権 力の側 には条件整備義務 しかあ りえ ないことを明示 しているわけで ある。 以上の よ う海判決の公教育論は,つ
ぎのような渡辺洋三氏 の公教育制度論 とつ らなるものだと いってよいだろ う。渡辺氏 は,近
代市民社会 においては,公
概念 は諸個 人の相互関係 によって構 折 口哲 :社 会科科育と教育権独立論 (Ⅲ)一教師の教育権 を中心に 成 され る社会 の公共概念 を意味 し
,公
益 とは諸私的利益の共通 の利益 を意味 して い るのだ か ら, 公概 念 は '私概念 と対立 す る もので は な くむ しろその延 長線 上 にある, とい った後,公
教育 制度 に つ いて, 「本来,児
童 の教育 は,親
たる個 々の市民の親権 の作用 に合 まれてぃ るもので あ り,親
がな しうることを代わって教師の手 に委ねた ものである。公教育 における (公)と
は,個
々の市民 の この ような教育上 の利益 ない し要求の うち共通 なものを取 りだ し,こ
れを社会的規模で組織 編成するところに生ず る社会公共概念で ある。た とえば,教
育水準 ない し教育課程の (画―イゆ といわれるものも,こ
のような社会的組織化の一環 として意味 を もって い るが,
これは教育 の必 然 的要請 で あ る。 しか し,
この ことは,た
だ ちに公教育 に対す る国家の介入 ない し く教育的 配慮)を
正 当化す るものではない。む しろ,社
会的組織化の担 い手は,一
方 において子 に代 わ つて教育要求 を出す親権者集団で あ り,他
方 において専門家 としての教師集団である。 この両 集回の緊密 な有機的むすびつ きによって,公
教育の機能は有効 に発揮 され るで あろ う。…… 公教育 を,こ
のよ うに親権者集団 と教師集団 との共同 による社会的組織化 として とらえるな らば,公
教育制度 は, まず親権者の教育の 自由を否定 ない し制限 す るもので なく,む
しろそれ を社会的規模で実現 し,貫
徹 するための制度で あるとい うことになる。比論的 にいえば,労
働 者 が自らの個 々の要求 を,よ
り十分 に実現す るためには,一
見個 人の 自由 を制限す る形で集団的に処理することによって
,基
本的にはより高い次元での自由を目標 とする
(〈労働の自由
)から労働基本権への展開
)よ
うに
,親
権者はその個々の教育要求を,よ り十分に実現するため
に,一
見,み
ず か らの (教育の 自由)を
制限す る形で公教育制度 にその処理 を委ねるので ある((教
育の自由)か
ら公教育制度への展 開)」 11)と いっているからで ある。 つ いで判決は,つ
ぎの二点から国家教育権 を批半」し,し
りぞけてい くのである。(1)憲
法26条第2項
の義務教育 に関す る規定 の反面 から,国
家にも教育権 があると主張す る場 合 がある。0が
,判決 は,憲法26条第2項
の義務教育 に関する規定の反面解釈論 と しての国家教育 権 に対 して,こ
の規定 は「親 の子 どもに対す る教育の責務の遂行を保障 したもの と解するのが相 当である」 と反論 している。憲法26条第2項
の「義務」概念 につ いては,す
で に述 べた ところで あり,こ
の点,判
決 も正当で ある。(2)憲
法26条第1項
の「法律 の定 めるところにより」 とい う限定語句 を理由にして,「
法律 の 定めにより国 が教育内容 に関与す ることがで きる」 と主張す る場合がある。131た とぇば「被告・準 備書面 (第8回
)」Шは,憲
法26条第1項
のい う「教育 を受 ける権利の内容 については,同
条項 は 〈法律 に定め るところによ り)と
定めて法律 に留保 している」 といい,教
育 を うける権 利は法律 に留保 された権利 にす ぎないとはっきりといっているのである。 これ らの主張 に対 して,判
決は,法
律 によ りさえすればどの よ うな形 での教育内容への介入 も 許 される,な
どとい うことがあ りうるはず もない,と
して法律 の留保観 に反論 した後,政
治の論 理 と外的事項,教
育の論理 と内的事項,を
関係づ けながら,つ
ぎのよ うにいっているので ある。 (1)渡辺洋三,公教育 と国家,雑
誌法律時報1970,8月号,P,48,岩
本憲他,国
民の教育 と教育権,福村出 版,1972,P,182 田中耕太郎,教
育基本法の理論,有斐閣,1961,P,149-150 宮地茂,教科書裁洋」,第一法規,1970,P,42 狭科書訴訟支援全国連絡会編,家永教科書裁削 第一部準備書面痛2総合図書,1969 124鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第17巻 第1号
125
すなわち, 「教育の外的 な事項 については,一
般 の政治 と同様 に代議制 を通 じて実現 されて しかるべ き ものであるが,教
育 の内的事項 につ いては…… その特質 か らす ると,一
般 の政治 とは別個の側 面 をもつ とい うべ きで あるか ら,一
般 の政治の よ うに政党政治 を背景 とした多数決 によつて決 せ られ ることに本来的に した しまず,教
師 が児童,生
徒 との人間的なふれあいを通 じて,自
ら の研鑽 と努 力 とによって国民全体の合理的 な教育意思 を実現すべ きもので あり, このよ うな教 師 自らの教育活動 を通 じて直接 に国民全体 に責任 を魚 い,そ
の信託 にこたえるべ きもの と解せ られる (教育基本法第10条 )」 と,こ
のよ うにい う。 この判決は明 らかに宗像説流 の内的事項 と外的事項 とい う三分割論 をとっ てい るとい うことで ある。 この内的事項 た る教育の内容・方法 は子 ども 。青年の全面発達権 と し ての教育 を うける権利 を,よ
り十全に保障 しえたかど うかとい う視角 からもっぱ ら学問的 に判断 されるべ きもので あるからこの方面で は,政
治的判断 が教育学的判断 な り,学
問的判断 なりに優 先 し優 越す るなどとい うことはけっ してあってはならないのだ, といっていることになる。 それ よ りも,む
しろ,判
決は,内
的事項 と しての教育課程 内容 は,直
接 に教育 に従事 している教員 自 身 によって決定 され編成 されてい くので な くてはならないといっていることになる。 この教育 の三分割論で教育の内的事項 には国家の介 入 を排斥す る。国家が法律 によ りた ちいる ことので きるのは教育の外的事項で あって,教
育の内的事項 については一般 の政治 と同一 にあつ かえない とする。真理の追求 を日的 として 自主性 。自律性 を重ん じなければならない教育の内容 につ いては,当
然の ことなが ら,政
党政治 を背景 と した多数決 によって きめることがで きないか ら国家権 力が教育内容 にた ちいってはな らないとして,議
会制多数決万能主義 を批判 しつつ国家 教育権 を否定 している。 もちろん「法律 によりさえすればどのよ うな教育内容へ の介入 を してもよいとす るものではな い」 のは判決の言 う通 りであ り,教
育 とい う事柄 の性質上,一
定の条理的限界の存す るのは当然 で ある。 しか し,教
育の内的事項 には「一切」 国家の関与 を許 さないとす るの も,間違 いで ある。 す なわち現在の国民主義主義の下では国家 と国民 とは基本的に一体であるか らで あ り, また教育 内容 についての大綱的基準立法 は子 どもの学習権 を保障 す る為にも必要で あるからで ある。 それ は,子
どもの「教育 を受 ける権利 (学習権)」 を生存権の一つ と考 えると,生
存権 が本来国家の 関与 を求 める権 利で あるところか らも肯定 し得 ることになる。 この点 につ いて,判
決は「近代および現代 においては,個
人の尊厳 が確立 され,子
どもにも当 然その人格 が尊重 され,人
権 が保障 されるべ きで あるが,子
どもは未来 における可能性 をもつ存 在で あることを本質 とす るか ら,将
来 においてその人間性 を十分 に開花 させ るべ く自ら学習 し, 事物 を知 り,こ
れによって 自らを成長 させ ることが子 どもの生来的権利で あり,こ
の よ うな子 ど もの学習す る権 利 を保障 す るために教育 を授 けることは国民的課題」 で あるとして,子
どもの学 習す る権利=子
どもの学び,知
り,成
長す る権 利一人間的成長の追求 自体 は,子
どもの生 まれな が らに してもっている権利であ り,そ
れは子 どもの「生存権 的基本権 (の文化的側 面)」 で あっ て,「
その権利 を保証するために子 どもに教育 を授 けることは,国
民的課題で ある」 と して子 ど もの学習権 を生存権 的基本権 として把握 している面は正当で ある。 しか し,「
この権 利 を保障す るために教育 を授 けることは国民的課題」 であるとしているが,国
民 と国家の一体観 か ら言 えば 「国家的課是!」 と言 いなお しても良 く,
さらに子 どもの学習権 を生存権的基本権 とす る限 りは,糸田ザ││ 哲:社会科科育と教育権独立論(Ⅲ)一教師の教育権を中心に
それを保障するために教育をすることは
,国
家の責務であり国家的課題と言い得ることにもなる。
(3)現
代国家は福祉国家だという理解に立ち
,福
祉国家の教育権をいう場合がある評この福祉
国家教育権 論 に対 して,判
決は 「現代のよ うに,政
治,経
済,社
会,文
化等の各方面 にわた り高度 に発達 をみている社会 に おいては,国
は福祉国家 として,社
会の有為な構成員や後継者の育成 を図 るとともに,社
会 に おいて各人が十分 にその人格 を向上 させ,能
力を伸 長 させ ることがで きるよ う配慮 す る責任が あ りまた,す
べての国民の福祉のために,国
民 に対 し健康で文化的な生活 を確保す ることを責 務 としてお り,教
育 はこの意味 において欠 くことので きない重要 な役割 をになうもので ある」 とい う福祉国家教育権 論 をあげた後,現
代国家 を福祉国家 として認めなが らも,現
代国家の権能 の限界 とその責務 につ いて, 「現代国家の理念 とす るところは,人
間の価値 は本来 多様で あ り, また多様であるべ きで あ つて,国
家は,人
間の内面的価値 に中立で あ り,個
人の内面 に干渉 し価値判断 を下す ことを し ない,す
なわち国家の権 能 には限 りがあ り,人
間のすべてを統制す ることはで きない, とす る ので あって,福
祉国家 もその本質は右の国家理念 をふ まえた うえで,そ
れを実質的 に十 全な ら しめるための措置 を講ずべ きことで あるか ら,国
家 は教育のよ うな人間の内面的価値 にかかわ る精神活動 については,で
きるだけその 自由 を尊重 してこれに介入す るを避 け,児
童,生
徒 の 心身の発達段階 に応 じ,必
要 かつ適 切 な教育 を施 し,教
育の機会均等の確保 と,教
育水準 の維 持向上のための諸条件の整備確立 に努むべ きことこそ,福
祉国家 としての責務で あると考 えら れ る」 といい,国
家教育権 を しりぞけているとされる。口しか し, この判決の福祉国家観 は国家の教育権 を全 く否定 したもの とは受取 れない。すなわち,「
国家は教育の よ うな人間の内面的価値 にかか わる精神活動 については,で
きるだけその 自由 を尊重 してこれに介入す るを避 け。…・・」 娩sPて
いるが,教
育 には内面的価値観養成の面 と価値観 とは直接関係 の無いいわゆる読み書 き算盤の様 な知識技能養成の面 もあるわけで,判
決は人間の内面 的価値 にかかわる面 につ いてはと言ってい るごと く教育のすべての面 につ いて国家の介入 を排除 しているとは見 られない点がある。 さ らに 国家の介入 を絶 対不可 とす るもので な く「で きるだ け介入す るを避 け」 と言 う如 く,可
能 な限 り 介入 しないよ うにす るのが望 ま しいが,反
面必要最少限 の介入 を認 め得 るとも取 り得るのであり, この点国家の教育内容への関与 を完全に否定 したものとは考えられない。 以上三点にみ られる国家教育権の否定は一部承認 し得 る面はあるが,一
面問題矛盾 も持つ もの であ り,特
に国家 と国民 との関係把握 につ いては極 めて不充分 と考 えるものである。 すなわち,判
決の国家教育権論批半」は,国
家 など公権 力の公教育 の内容事項への介入を排除 し, 公教育の内的事項決定権 は,ま
さに国民の権利 なのだ と して国民の教育権 を主張する。 しか し国 民 に公教育内的事項決定権,換
言すれば教育課程編成権 があるに して も,知
識,能
力,主
義,信
条,思
想,意
見,価
値観等千差 万別の個 々の国民 に, どの よ うにして教育課程の編 成が可能で あ ろうか,
しかもそれが統一的に計画的に責任 を持 って行い得 るで あろ うか, そこには個 々の国民 の意思,国
民の総意 を結集す るルール と機関が必要 となる。 そ して このルールは,国
民主権主義 今村武俊,教
育行政の基礎知識と法律 問題,第
一法規,1964, P,80-81 岩 本憲他,前掲書,P,190鳥取大学教育学 部研究 報告 教育科学 第17巻 第1号
127
下 においては,あ
らゆる権能は国民から発 し,そ
の権 能の行使 は国民 に対 して責 任 を魚 うもので ないといけない。 それは現在の議会制民主主義の下 にあっては,国
民の意思 は国会 を通 じて表明 され,政
府 によって執行せ られる仕組 になってい る。 それ故 に「国会は国権 の最高機関」で ある ので ある。 か くして,政
府 (国家)が
国民の総意 に基づ いて,公
教育 を実質的 に維持 し,保
障 し てい くことは国民の教育権 と何 ら矛盾 するもので はない。 か くして筆者 は国家が教育内容 に一定 限度で関与介入す ることを否定す るものではなく,現
行の教科書検定制度 における教育書 もこれ を正当に評価す るもので ある。ただ教育 は子 どもの実状 と地域 の実態 をふ まえ,教
師の創意工夫 を生 かして展 開 さるべ きで あるか ら,又
特 に社会科教育 においては各種 の価値 観,イ デオロギー とも関係 し,も
のの見方・考 え方 を養成す る面 もあるところから,教
科書だ けを金科玉条 と して 社会科 教育 を展 開す ることは決 して望 ま しい方法で はないので ある。 (三)教
師 の教育権
教師の教育権の内容を教師の「教育の自由」 と解 し,そ れは
,「
人間の尊重と人格の形成を本
質とする教育にあっては
,本
来他律的強制と相容れない要素 をもつ」
mこ と「真理の代理者として
の教師の教育権 は権 力の統制 を受 けるべ きで ない」□とい う教育 条理 を根 製 に憲法第23条 によつて 小 。中・ 高等学校教 員 に も大学教員 と同様 に「 教育 の 自由」 が保障 され るの だ とす る説団がある が,そ
の代表的 な もの と して家永教科 書訴訟 の杉 本判 決 が あ る。以下判 決 を引用 しなが ら検討 し て み る。 憲 法 が思 想 お よ び 良 心 の 自 由 ,表 現 の 自由 の保障 に加 えて学 問の 自由(academic freedom;akademishe Freiheit)を
定 めたの は,学問の研 究 は常 に新 しい もの を生 み出 そ うとす るい とな みで あって,文
化 の発展 に寄与 す る ところが大 きかつ た反 面,そ
れ だ け に と きの為政者 によ る迫 害 を受 けやす く,過
去 において必ず しも学 問の 自由 が実現 されて い た とは い えないので, と くに これ を保障 した もの と考 え られ るが,ま
た,学
問の研 究 発展 は,民
主主 義 的傾 向 の強化 の前提 で ある こ と,及
び 日本 の企画 す る文化国家の建 設 は学 問の 自由 を必須 の要件 とす るこ とに基づ くも ので ある。 学 問の 自由 は内容 的 に は第19条 で保障 され る思 想 の 自由 に含 まれ るので あ るが,沿
革 的 に一般 的 な思想 の 自由 に対 して特 に学 問の 自由 と して論 議 されて来 たの は,次
の よ うな理 由によ るとさ れ る。(1)学
問 は倉U造 的 な人 間精 神 の貴 重 な成 果で あ り,人
類 文 化の集 中的 な表現で あるか ら, これ に対 しては特別 な配慮 と,特
に慎 重 な取扱 いが望 ま しい こと。(2)学
者,研
究者 は その領域 にお ける専 門家で あ り,そ
の領域 において指導 的立場 にあ るいわ Iゴ「選 ばれた る人」 で あ るから,通
常 人 を対象 と し,通
常 人 の平均 的 な水 準 に立脚 す る政 治 や行 政 が,そ
の判断 に基 づ いてみだ りに干渉 すべ きで は な く,国
家 も社 会 もその独 立性 を尊 重す べ き で あ るこ と。(3)学
問の進 歩 は次 の時 代 の共 同 の文 化財 とな り,一
般 的 教養 の水準 を規 定 す るものであつて, (7)有倉遼吉,教
育の国家基準,19開,P。232 (3)宗像誠也,教
育 と教育政策,岩波新書,1961,P,98 (9)有倉遼吉,憲
法 と教育,公法研究32号,P,4-6,宗
像誠也,前
掲書,P,101細 川 哲 :社 会科科育と教育権独立論 (Ⅲ)一教師の教育権を中心に その意味で は文化の先駆 的役割 を果 たす もので あるか ら一切 の隷属 か ら解放 されて い なければな らぬ こ と。
(4)学
問は単 に既 存 の知識 を保 存 す るに止 ま らず 新 た なる知識 を開拓 して行 かね ばな らず,そ
のた めには権威 の強制 よ りも,自
由 な討議 と研究 に委 ね るのが適 当で あ るこ と。(5)学
問上 の進 歩及 び新発見 は一 般 の常識 的 な世界観 か らみ れば奇 異 に感 じられることが多く, 常 に世間の常識的な見方から反対 され,場
合 によっては迫害 されるので ある力蔦 やがて真理の力に よ っ て説 明せず にはい なかった とい うこ とが人類 の歴 史 的体験 で あ る以上,
この歴 史 的 な経験 を謙虚 に尊 重 すべ きで あること 以上の理由により「思想 および良心の 自由」 とは別 に「 学問の自由」 を強 く保障 したものであ るが,杉
本判決は憲法23条の学問の自由の内容 として,つ
ぎの三つ をあげている。すなわち ,(1)研
究者が自らの学問的研究 にもとづ いて 自らが正 当 とす るどの よ うな学問的見解 (学説) を抱 いて も自由で あること,(2)研
究者がその学問的見解 (学説)を
さまざまな形で発表す る自由 を有す ること,(3)研
究者 がその学問的見解 (学説)を
教授 ないし教育す る自由を有す ること, としている。一方,教
員の「教育 の自由」 に関 しては,教
育 は「人間が人間 に働 きかけ,児
童, 生徒 の可能性 をひ きだすための高度の精神的活動で あって,教
育 に当って教師 は学 問,研
究 の成果 を児童,生
徒 に理解 させ,そ
れによ り児童,生
徒 に事物 を知 りかつ考 える力と創造力を 得 させ るべ きものであ るか ら,教
師に とって学 問の 自由が保障 されることが不可決で あ り,児
童・生徒 の心身の発達 とこれに対す る教育効果 とを科学的にみ きわめ,何
よ りも児童,生
徒 に 対す る深 い愛情 と豊富 な経験 をもつ ことが要請 される。 してみれば,教
師 に対 し教育 ない し教 授の自由が尊重 されなければならないというべ きで ある」 として教師の学問の自由の保障 と教 育の 自由の尊重 を強調 し,こ
のよ うな公教育教員 の教育の 自由は,大学教員の場合 と同 じよ うに, 「学問の 自由を定めた憲法第23条 によって保障 されていると解 され る」 とのべ,教
員 の「教育 の 自由」 を憲法第23条の学問の 自由 からつ ぎのよ うに して導 きだ している。すなわち , 子 どもの学習権 を正 しく充足 していくため には,真
理 の教育 が必然的 に要請 されるが, そのよ うな教育 をす るためには,教
員 には,教
育 内容 となる学問・科学・文化の研究の 自由はもちろん のこと,そ
の研究成果 を伝 えるための教授 の自由 まで も当然 に保障 されていなくてはならない。 この点,「教育の本質力ゝ 教育者た る国民が,今
日まで築 きあげ られた文化 を精 力的 に摂取 してそ れをつ ぎの世代 に継承 させ る精神的・文化的 な営為で もある,と い うことを考 えるな ら,
きわめ て明瞭 なことで あろ う。教員一般 には,学
問 。文化の 自由で精 力的な研究 が要請 されてい るとと もに,そ
の研究成果 を教育外的強制 からいわば解放 されて自由に伝 える条件 としての教授の自由 が保障 されていなくてはな らない。」とし, かくて判決は, 「 してみれば,憲
法第23条は,教
師 に対 し,学
問研究の 自由はもちろんの こと学問研究 の結 果 自らの正 当とす る学 問的見解 を教授す る自由をも保障 していると解す るのが相当で ある」 と 結論づ けるので ある。すなわち,判
決は,教
員の「教育の 自由」 は憲法第23条の学問の自由の う ちに含 まれる憲法的権 利だ とし,従
来の憲法学の通説である「下級教育機 関にIDhける教育 は,そ
の本質上,教
材・教科内容・教授方法 などにつ いて画一化が要求 されるから,下
級教育機関 にお 12810
法学協会,註
解 日本国憲法■,有斐閣,1961,P.224鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第17巻 第1号
129
いては,学
問研究 の 自由 それ 自体 は保障 されてい る と して も,教
授 ない し教育 の 自由 は保障 され ない。学 問研究 の 自由それ 自体 につい て はおおむね それ を国民一般 の 自由権 と して認 めなが らも, た とえ教授 の 自由 は憲法23条 の学 問の 自由の必然 的要請で あると して もそれは大 学 に関 してだ け で あって,両
者 は も ともと概 念 上 区別 され るべ きもので あ り,下
級 教育機 関 に お いて は,そ
こに お ける教育 の本 質上 (性 質上),教 授 の 自由は公権 力の規制 や制約 を一 定程度 まで うけて も学 問の 自由 を定 めた憲 法閉 条 に違 反 してい る とはい えない」 とす る説 を否定批半」す る立場 を駅 っている。 さ らに判 決 は,「
学 問的見解 を発 表す る 自由」 の なか には,研
究 者 が その研 究成 果 を社会一般 にむ けて発 表 す る自由 とともに,研
究 者 が その学 問研究 の成果 を教科 書 に発表す る 自由 (教 科 書 の執筆 。出版 の 自由)も
また含 まれ る と して, 「学問の研 究者は,研
究 の成果を社会 に発表する自由を有す ることはい うまで もないが,そ
れとともに更 に,子
どもの教育 を受 ける権 利 に対応 して国民に課せ られた前記のよ うな責務 を 果 たすため,国
民の一 人 として,学
問研究 の成果 を教科 書の執筆,出
版 とい う形で次代 を担 う 子 どもた ちに伝 えるとい う出版の 自由を有す るもの とい うべ きで ある」 と述 べ,学
問的見解発 表の 自由の特殊的形態 として研究者の教科 書の執筆 。出版の 自由も憲法的自由として保障 される とす る。 この判決は多くの点で示唆 に富み傾聴 に値 する面はあるが,
しかし筆者 としては「教育の自由」 を「学問の自由」 と同一内容とした り,そ
れから演繹 して くるのには同調 し得ないところである。 すなわち,学
問の自由は,思
想の自由の一種であって,沿
革的には主 として大学の研究の自由 を意味 した。その内容は,真
理の探究 を目ざす「研究の自由」 を中心とし,そ
の外部 に対する表 現をも保障する意味で,「
研究結果発表の 自由」 を含む。 したがって,学
生 に対す る教授が,研
究結果発表の一つの態様であると目される限度では,教
授の自由も,学
問の自由の中味 となる。 しかし「深 く専門の学芸を教授研究」す ることを目的 とす る大学におけるのとは異 なり,「
心身 の発達に応 じて」,基
礎的「普通教育 を施すことを目的とす る」初等中等の学校は,
このような 研究結果を発表する機関としては適当でなく,ま
た,批
半」力,思
考力,理
解力のまだ低 い下級教 育機関の児童・生徒 に対 して新 しい「学問的見解を発表」 してみても,そ
の「学問的見解」 が充 分検討吟味 されることにはならず,ひ
いてはその「学問的見解」 の科学性,真
理性,客
観性 も担 保 され得ないことになる。 む しろ,学
問研究の結果 としての,新
しい「学問的見解」 の発表の場 としては,学
会 研究会, 学会誌,学
術 書等 が妥当である。 判決のい うが如 く,子
どもの学習権 を正 しく充足 してい くためには,「
真理 の教育 が必然的 に 要請」 され,そ
のためには教員一般 に「学問・文化の 自由で精 力的 な研究一 学問の自由一=」 が 要請 されることも当然である。しか し真理 (Truth,Wahrheit,Vettit6)と はギ リシャ以 来 中 世 を経 て近世にまで伝 えられた思隆,認
識 と外界の存在 との一致の うちに真理 を見 るとい う存在的真理 観 や,人
間の意識,認
識 に真理の基準 を求 めるとい う観念 的真理観, さらには,客
観 的法則 によ って運動す る物質 が思惟 に正 しく反映す ることが真理 な りとす る弁証法的唯物論の立場等 がある が,真
理 は主観で なく,客
観性,法
則性,科
学性 を持つていなければな らない。真理 の為 に,「学 問の自由な研究」 は絶対必要で あるが,学
問研究の結果が,い
つ も絶 えず「真理」で あることに はならない。 ま して学問研究 に値 しないものが,学
問研究 の成果で あるからとの理 由 によって, 教員の主観や偏 見や独断が教育の場 で「教育の 自由」 の名の下 に,批
判 力の少 ない児童 ・生徒 に細,H 哲 :社会科科育と教育権独立論 (皿)一教師の教育権を中心に一 注入 せ られ るよ うなこ とは
,子
どもの学習権 の保障 の立場 か ら許 され るもので はない。 さらに学 問 と教育 との関係把握で あ るが,戦
前,わ
が国で は,学
問 と教育 とは明確 に切断 され, 教育 は国家 目的へ の従属 の もとで,非
科 学性 と精 神主義,実
用主 義 との結合 を生 み,学
問 か らま す ます遠 ざか って いった。 戦後 は,戦
前 の反 省 か ら,教
育 と学 問 との関係 を密接 に し,判
決 も「 学 問 と教育 とは不可分一 体 とい うべ きで ある」 と して いる。 しか し教育即 学 問で は ない。学 問 を分 りやす くして教 えるの が教育 で はない。 また学校教育 の 目的 が学者 や研 究者 の養 成 にあ るので もない。教育 には教育独 自の領域 と機能 が あ り,独
自の価値 があ るはずで ある。 もちろん教育 は学 問 をふ まえ,そ
の背景 の下 に行 なわれ なけれ ばな らず,そ
の点学 問 と教 育 とは密 接 な関係 を持 た なければ な らないが, しか しまた,学
問 と教育 とは区別 されなければな らない。 問題 はその区別 の仕 方で あり,さ
らに, その両者 をど うい う連 関 において統一 的 にと らえなおす かの問題で ある。 さらに,教
育 内容 の学 問の成 果 との結合,教
育 方法の科 学性 は,ど
の よ うな方法 的 自覚 と学 問意識 によって保障 され る か とい う問題 で ある。いずれにしても
,「
学問の自由」から「教育の自由」 を導 きだすことは妥当でない。「教育の
自由」はむしろ, その「教育の本質」 と「子どもの学習権の保障」の立場から要請されるもので
あると解すべきである。
国 家 が人 間の内面 にかかわる問題 につ いて は,で
きるか ぎり介入 してはな らないとい う原則 は, 市民革命 を経 て,
しだ い に確認 された もので あ り,教
育 の 自由 は,そ
れが国家権 力 との関係 を含 む限 りにおいて,思
想 ・良 心 。学 問の 自由 と深 くかかわった市民的 自由の一 つ と考 え られ るが, 教育 の 自由は,古
くて新 しい課題で あ り,そ
の内容 も,歴
史 的 に変 化 してお り,近
代 にお け る子 どもの発見 と子 どもの権 利の思想、親権 の義務性 と権 利 と しての公教育の思想 をその うちに含 み こみ,現
代 にいたる「発達 と教育の科学」 によるそれらの思想の検証 と裏づ けを得て,今日なお, 生成 しつつある原理だ00と ぃえる。それは,学
問研究 の 自由 とは一応 区別 される原理 と して,別
個 に,教
育の本質 にかかわ らせて,そ
の根拠 を さぐることが必要で あるが,こ
れは教育権独立 の 問題 との関連 において, あらためて検討す ることとす る。 つ ぎに,教
員の教育権 の中核 である教育の 自由 (自主・独立)の
根製 を,教
育基本法第10条第1項
「教育 は不当な支配 に服す ることな く,国
民全体 に対 して直接 に責任 を魚 って行 われるべ き である」 とす る点 に求 め,教
育は職務上の専門性 を有す る教員 が指揮監督 を受 けることな く児童 生徒 に対 して教育 を行 な う権限 を有す るとする説 につ いて検討 してみる。 教員 の教育権 の根型 とされる教育基本法第10条は,戦
前 における教育行政 による教育支配 を反 省 し,「
学校教員 の教育権 の教育行政権 に対す る独立 を保障 す る立法者意思をもって定められ刑α9 とされ る。そ してここに,教
育基本法 と日本国憲法 との密接 な関連 が問題 となるが,教
育基本法 が,憲
法制定審議過程 において憲法の教育条項 に代 わる定めと して予定された事実,お
よび憲法 26条1項
が教育 を うける権 利 を具体的に保障す る「法律」 として直接委任 した「憲法の付属諜 ゝ畢雛
:畢
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F葉
磐詫ピ監轟
4既
と現実,多磨 書店,P,232 田中耕 太郎,新
憲法 と文化,1948,P,101,鈴木英一,教
育行政, P,325-327 P.124,有倉遼吉,公法における理念 東大出版会,戦後 日本の教育改革 3, 硼 ⑫ 硼鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第17巻 第1号 であること等 から
,教
育基本法は「準憲法的法律」 として一般法律 に優越するという説14がぁる。 この点はあとで検討するとして,教
育基本法が内容的に憲法の教育関係条項 と一体性をもつもの として定められた「基本原理法」であることは否定で きないことである。 本条の立法者意思をみると,こ
の規定の基盤になる思想が,ア
メリカ教育使節団報告書によっ てもたらされたものであることは疑いない。すなわち,「
もしも学校が強力な民主主義の有効 な 機関になるべ きものならば,そ
れは人民と緊密 な関係 におかれなければならない」「各段階 の教育行政 を直接につかさどるべ き教育関係者は,彼
らが奉仕 すべ き人民に対 して責 を負 うも のとされることが重要である」「文部省の機能は,内
務省から分離 されねばならない」「教授 教育の監督,お
よび行政 について学校のことを駅扱 う職員は,教
育者 として十分の資格 をもつ 人でなければならない」「教育計画の統制は,現
在よりももっと分散 されねばならぬ。権限 と 責任との縦の線は,全
組織の諸段階で,決
定的に打破 されなければならぬ」は' このような思想は,教
育行政 における民主化,分
権,独
立性 というふ うに要約されて,三
原則 といわれたのであった。それを具体化する機構・組織についても,教
育使節団報告書はかなり詳 細 な構図を描いている。1946(昭
和21)年
7月 3日 の第90帝回議会衆議院憲法改正委員会において,田
中耕太郎文相が 目下「教育根本法」案を検討中であると答弁 した際 に,そ
こに「教育権の独立」 をもりこむこと が示唆された。そ して同年11月29日 に教育刷新委員会に出 された「教育基本法案要綱」では, 「教育行政は,学
問の自由と教育の自主性 とを尊重 し,教
育の目的遂行に必要 な諸条件の整備確. 立 を目標 として行われなければならない」 とされた。 しかしその後の過程で,「
教育の自主性」 とい う言葉は「ややもすれば教育者の独断という観念 とあやまられやすいので,除
かれるに至」 り,90かわって「教育は,不
当な支配に服す ることなく……」 という表現がとられることになった。 しかしいぜんとして,戦
前における教育行政による教育支配 をきび しく反省 しこれを主に禁ず る 意味 をこめて「不当な支配」の禁止が書かれたことは,事
実である。1947(昭
和22)年
3月14日の第92帝国議会衆議院教育基本法案委員会 において辻田政府委員が その点をこう答弁 している。 「従来官僚 とか一部の政党とか,そ
の他不当な外部的干渉 によって教育の内容が随分ゆがめ られたことのあることは申 しあげるまでもない。そこで……一般 に不当な支配に教育が服 して はならないのでありまして,こ
こでは教育権の独立,…
… その精神を表わしたものであります」はη さらに翌1948年3月 に出版 された田中耕太郎元文相の著書「新憲法 と文イロ │こ明記 されたとこ ろによれば,「
教育権の独立の原則 は,そ
れが不当な政治的及び行政的干渉の圏外におかれるべ きことを意味する。従来の我国における教育は或 は政治的に或は行政的に不当な干渉の下 に呻吟 し,教
育者はその結果卑屈 になり,教
育全体が萎微 し歪曲せ られ,そ
の結果軍国主義及び極端な 国家主義の跳梁 を招来するにいたったのである」は0「官公吏 たる教員 と雖 も,…
…上級下級に編 入せ らるべ きものではない。……・かような趣 旨からして教育基本法第10条は,教
育行政 の根本方 針 を規定 している。教育は一方不当な行政的権 力的支配に服せ しめられるべ きではなく (同条1 有倉遼吉,教
育 と法律,新
評論,1070,P,3
米国教育使節団穀告書,文部時報,第834号tSll,1951 辻 田力監修,教
育基本法の解説,P。129 有倉遼吉,教
育法,法学セ ミナー12,日 本評論社,1972,P,76 側 的 硼 側糸田 'II 哲 :社 会科科育と教育権独立論 (田)一教師の教育権を中心に 項 前段)。それは教育者 自身 が不鶏独 立 の精 神 を以て 自主的 に遂 行せ らるべ きもので ある」 と され る。は0 戦前教育法制 にあっては
,学
校の教育活動 は天皇 の教育大権 を末端で執行す る作用で,そ
れ自 体 も権 力的な教育行政の性質 を有 していた。 これにたい して本条は,全
体 として「教育行政」 と い う見出 しをつ けなが ら, 1項
で「教育」 を, 2項
で「教育行政」 を,そ
れぞれ主体 とす る規定 を書 きわけている。 この「教育」 は,学
校教諭の児童生徒 の教育 (学教28Ⅳ)だ
けで なく,社
会 教育 。家庭教育 をふ くみ, それは専門性 と人格性 をともな う人間活動 として非権 力作用であ り, 教育行政機関 による教育行政 とは分離 して,教
育界 において第一次的 に重要 な働 きで あるととら えられている。本条1項
は教育行政 をふ くめた教育体制のあ り方がこめ られているとされる。1948 年7月 につ くられた旧「教育委員会法」1条
によれば,「
この法律 は,教
育が不当な支配 に服す ることな く,国
民全体 に対 し直接 に責任 を負 って行われるべ きで あるとい う自覚 のもとに公正な 民意 により地方の実情 に即 した教育 を行な うために,教
育委員会 を設 け,教
育本来の 目的 を達成 す ることを目的 とす る」 としているが,が
ん らい本条1項
は公選制教育委員会の制度 を予定 していたという見方が有力である」
0たしかに,公 選制教委による地方自治的教育行政の体制は,教育
を国民 によ り身近 なもの とす る しくみ と(ンて,重
視 され な ければ な らな い。 ところで教育基本法 第10条 第1項
の解釈Jこつ いては相 対立 した解釈 が な されて いる。 教育 法学会 の通 説 によれば,教
育 へ の 不当な支配 が禁ぜ られるの は教育 活動 の 自主性 を保障 す るためで ある。 したが って政 治勢 力などが教育 を支配す ることはすべ てよろ しくないが,と
りわ け教育 行政 が法 的拘束 力 をもって教育活動 を統 制す ることは明 らかに「 不当 な支配」 になる役9と してい る。 教科 書裁半Jで この解釈 に従 った杉 本判 決 も,こ
うのべ て い る。 「ここに『不当な支配』 というとき,そ
の主体は……国民全体でない一部の党派的勢力を指 すものと解 されるが,
しかし同時 に……教育 の自主性,自
律性 を強 くうたったものというべ き であるから,議
院内閣制 をとる国の行政当局もまた『不当な支酉醐 の主体である場合 もあるこ とはい うまでもない」「教育の内的事項については,指
導,助
言等は別 として,教
育課程の大 綱 を定めるなど一定の限度 を超 えてこれに権力的に介入することは許 されず,こ
のよ うな介入 は不当な支配に当たると解すべきであるから,…
…審査が右の限度 を超えて,教
科書の記述内' 容の当否にまで及ぶ ときには,検
定は教育基本法10条に違反す るというべ きである」 として全 国学カテス トが教育への「不当な支酉EUに
あたることを示 した札幌高裁の判決とほぼ同 じ説 き方 をしている。 これにたいして文部省当局の行政解釈によると,「
国民に主権 を与 え,国
民全体に責任を魚 う民主主義の政治体制 をとる限 り,国
会 において立法上認め られた範囲内における行政上の支 雪こは第10条が不当な支配であると否定 しているものではないであろう。むしろ,教
育基本法が 否定 しようとする1不当な支配 とは,国
民全体に対 し責任 を負 えないような,政
党 。組合 などに よる独善的な支配であると考えられる」90 住動 宗像誠也編,教育基本法,P.280,ほぼ同旨,有倉遼吉=天城勲,教
育関係法Ⅱ,P。131〔有倉〕 は9
田中耕太郎,教
育基本法の理論,P.862-870,宗像誠也,前
掲書, P,78-8190
文部省地方課法令研究会,新学校管理読本,第一法規,P,49
鳥取大学教育 学部研究 報告 教育 科学 第17巻 第1号 この行政解釈 と一致 す るのが岩 手県 における学 テ事件 にたいす る一
,二
審判 決 で あった。盛 岡 地裁 (昭不B41年7月22日 『判例 時 報』462号)が
言 うには, 国民 の なか にい ろい ろ な勢 力 が あ るが,「
それ らの勢 力の もつ理 想や政策 が法律 上認 め られ た以上 は,そ
れが教育 に反映す るこ とが あって も,差
支 えない もの と解す るの が相 当で あ る。 した がって教育 につ いて,法
制 的根 拠 をもつ行政的 支配 は,正
当 なもの とい わな ければ な らな い」 学校教育法38条 によ り「文部大臣 は,中
学 校 の教育 課程 の国 家基準 を設 定 で きる と されて い るので,教
育 課程編成権 は,第
一次的 には文部 大臣 に包括授権 されてい ると解 され るか ら, 本件学 力調査 の試験 問題作 成権 は,…
… 文部大 臣 に存 す る ものと解 され るJと
す る。 仙 台高裁 (44年2月19日の判決)も
同 じよ うな考 え方 を とるが,つ
ぎの よ うな限 定 をつ けた点 で注 目 され る。 「 法的根 拠 を持つ行政的支配 ならば,常
に適法で あるとい うものではないのであって,教
育 の人格 的内面性,教
職の専門性等,教
育 の本質か らして,教
育行政の教育 に対す る介 入 にも一 定の条理的限界があり,い
や しくも教育の本質 を侵害 す る如 き法的統制の許 されない ことはも ちろんで あ り,立
法上行政運営上深甚の配慮 を要す るところで ある」 としている。 この法解釈論争 は,公
教育 と議会制民主主義,国
民主権主義,教
育の 自主性・中立性 とい うも のにたいす る見方の ちがいに深 く根 ざしていると考 えられ るが,教
育 の教育権 の独立 と関連 して 次穀で, さらに くわ しく検討す ることにす る。 教員の教育権の第二の根拠 として,教
育基本法第10条2項
と学校教育法第28条4項
の規定 をあ げるものがある。すなわち,10条 2項
をもって,教
育行政の任務 が教育の物的条件の整備 (いわ ゆる外的事項)に
限 られ,教
育の内容,方
法 (いわゆる内的事項)に
は及ば ない趣 旨 と解 し,鬱 〕ま た学校教育法28条4項
によ り児童生徒 の教育 は教師の専権で あり,同 3項
にい う校長の校務掌理 権の中には教育 は含 まれず,従
って校長は教育 に関 しては部下職貝 を指揮監督 す ることはで きな いと主張す るのである。 しか し右の説 は正 しい法解釈 とは言 えない。先ず教育基本法10条2項
で あるが, ここで言 う諸 条件 には,教
育の施設設備等の物 的条件のみで な く,教
育 の内容すなわち教育課程,学
習指導, 生徒 指導等のことも学校教育法等の法令 を根 拠 に一定の範囲で合 まれると解す る。次 に,学
校教 育法28条で あるが, 3項
に云 う校長の掌 る「校務」 と, 4項
の教諭の掌 る「教育」 とは,相
対立 す る概念で はない。校務 とは,学
校運営上必要 とされる一切の仕事 をさしている。児童,生
徒 の 教育 は,教
師本来の職務で あるが,個
々の教師の教育活動 も学校全体の教育計画の一環 として行 われている限 り,校
務 なので ある。従って校長は,教
師の行 う教育 についても一定の範囲 と条件 の下 に指揮監督す ることがで きるので ある。 なる, 3項
の「監督」 の語を事後 の監督のみをさし, 事前の指揮命令 を含 まないとか,職
務上の監督のみをさし,身
分上服務上の監督 を含 まない とす る説があるが,い
ずれも妥当と言 えず,職
務上の事前事後の指揮監督,
さらに身分上服務上の監 督 にも及ぶ と解す る。 か くして,校
長は,学
校運営の最高責任者 として,一
切 の校務 を掌 理 し, それを所属 職員 に分掌 せ しめ,必
要 に応 じて職員 を指揮 し監督す る権限 と責務 を有するのである。 また,教
師の教育権 (教育 の 自由権)の
第四の根拠 として,「自由権 はなにも憲法の条文がなけ れば存在 しないとい うものではない」 とい う考 え方がある。憲法的 自由論で ある。「『教育の自由』 ¢D宗
像誠也,前掲書,P.80
哲:社会科科育と教育権独立論
(m)一
教師の教育権を中心に一 は憲法26条 を離 れて もなお憲法上 の保障 を うけた もの (いわ ゆる憲法 的 自由 と して)と
い うこと がで きる。憲 法 はその14条 か ら40条 まで の規 定 において,各
種 の典 型 的 な権 利 。自由 を保障 して いるが,憲
法 が保障 す る国民の権利 。自由は これに尽 きるものではない」憲法11条で「国民は, すべての基本的人権 の享有 を妨 げ られない。 (以下略)」,同
13条で「生命 ・自由及び幸福追求 に 対す る国民の権利 については,公
共の福祉 に反 しない限 り,立
法 その他の国政の上で,最
大の尊 重 を必要 とす る」 と規定 している。 この ことよ り,「 [国民の教育 の 自由』 は国民の基本的 な権利 ・ 自由 として憲法上保障 されている」 とい う論92である。 しか し,憲
法 の条文 に根拠 を求 め るの で なければ,明
確 な権 利 としては説得 力に欠 ける。 教員の教育権 の第五の根型 として,教
師 が「真理の代理者」 た る点 に求めるものがあるぎ0 すなわち,宗
像誠也氏 によると,教
師の教育権 は教師 が真理 の代理者 たることにもとづ く, と い うことで ある。「教師は人類の遺産た る文化 と科学 とを背 に負 い,子
どもた ちにそれを受 け取 らせ,広
大 な真理の世界へ子 どもたちを導 く。 そ して真理 を発展 させ る能 力を与 えよ うとす る。 それが小学校 か ら大学 までの教師の任務で ある。親の教育権 が自然的権利で あるとい う,そ
のよ うな高い抽象の次元でいえば,教
師の教育権 の根 拠は彼 が真理 の代理者たることにある,
とい う わけで ある。 だか ら教師 は,公
務員 として教育行政組織の なかに位置づ いている場合で も,行
政の末端 とし て,行
政当局の命ず るままに子 どもを教 えていればいいのではない。行政が真理 に反す ることを 教 えろと命ず る場合 にも一一 これは決 して仮定で はない,現
に教科書検定は真理 をゆがめている 一―,彼
はそれに従わず,そ
れに反 して真理 を教 えなければな らない。教師が教育 において真理 に忠実で あることは,子
どもの教育 を受 ける権利 に対 しては義務だが,真
理 を歪 めよ うとす る公 権 力に対 しては権利だ」9い と主張 される。この教員 が「真理の代理者」 であ り「真理の媒介 者」 で ある点 を教員の教育権 の根契 とし, ここか ら,真
理 を歪め る教育行政権 にも抵抗す る権利 を有す と同時 に,教
員 は真理の媒介者 と して ときには両親 の教育権 にも対抗 しなければならないとされ る。確 かに教育行政権 や両親 の教育権の発動が真理 に反す る教育 を教員 に要請す る時の抵抗の理 論 と しては有効で あるが,問
題 は,す
べての教員 がたえず,い
つ も「真理の代理者」 た る保証 が 得 られ得 るか と言 うことである。真理 とは客観的普遍的科学的法則的 なもので ある。教員 が真理 と考 えれば真理 となるものではない。真理 は主観や独断で はないのである。真理の体得の為には, たえず謙虚で科学的態度 を持たねばな らない。教員 が「真理の代理者」 たらん と努力す ることは 必要で あるが,た
えず 自ら「真理の代理者で ある」 と断定 してかかるがごとき倣慢 不尊 の態度は 決 して望 ましい教員の姿ではない し,ドグマティッシュな教育 におちいる危険性す らあるのである。 (四)教
師の教育権の根拠 と性格
かくして教師の教育権を「教育の自由」と解しその根拠を憲法
,法令,あ るいは「真理の代理
者」たる点に求める説には筆者としては賛成し得ないのである。もちろん
,教
育に自由が必要な
側 卿 卿 宮沢俊義,憲法1,P,327,有
倉遼吉編,法
学セ ミナー,1970別 冊,P,95, 科書検定,法律時報増刊,教科書裁判,P,146 宗像誠也,前掲書, P,98 宗像誠也,前掲書, P,96 有倉遼吉,憲法的 自由と教鳥取大学教育学部研究 報告 教育科学 第17巻 第1号
135
こと'9は言 うまで もない。戦後 アメリカ教育使命団がその報告書に述べているとおり,「
教師た ると行政官たるとを問わず,教
育者 とい うものの職務について,こ
こに教訓とすべ きことがある のである。教師の最菩の能力は,
自由の空気の中においてのみ じゅうぶんに現わされる。この空 気をつ くり出すことが行政官の仕事なのであって,そ
の反対の空気をつ くることではない」 とい うことばは,正
しくその通 りである。教師は,国
民及び住民の全体の意思の表現である憲法・法 律に拘束されつつ,な
お且つ教育の場 そのものに於て「教育の自由」 を有する。それはいわば, 教育の場 における教師の権威であり, 自主性であり,且
つ倉↓意工夫なのである。 教育は,法
や政治とは,そ
の目的及び機能を異 にす る。法があって教育があるのではなく,教
育があって法があるのである。従って,法
や政治が教育を支配 しつ くそうと思っても,で
きるも のではない。法や政治による,教
育の規制は,必
要且つ最少限にとどめ,教
育の自由を最大限に 尊重することが,教
育の目的に適い, またその機能を発揮せ しめる所以である。 以上教員の教育権について概略検討 したが,筆
者は,教
員の教育権についても,そ
の根拠は親 を中心とする主権渚 たる国民か ら信託されたものであると考える。 したがって,教
員の教育権は 自然的本源的第一義的権利である親の教育権から発す ることになるが,親
の教育権が,子
どもの 学習権の前に権利というより義務性の強いものであるとの認識に立つ時,教
員の教育権も権利と いうより,子
供の学習権 を保証する責務 として把握せ られ,真
理を伝える教員の義務としての性 格を持つものと考えるのである。 いずれにしても,親,国
民,教
師,国
家の教育権は,そ
の権利性を主張するよりも,基
本的人 権としての「子 どもの学習44」 を保証 し,こ
れに奉仕す るものとしての責務を持ち,よ
り多く, それへの義務′性を包含するもの として位置づけられなければならないと考える。 ところで一方憲法が基本的人権 として明示的に保障する「教育を受ける権利」( 26条
)に
つ いては,戦
後初めて認められ,戦
前は全 く問題 とされなかったものであるだけに,そ
の解釈・性 格づけはいまだ極めて不充分 なものがある。すなわち,戦
前の明治憲法時代の教育に関する命令 主義的行政支配とい うべ き教育の機構・体制の下で,明
治憲法には人権条項 としての「教育を受 ける権利」の保障は全 くなく,た
めに憲法典に明文化 されていない「教育の権利」 に関 しては, 憲法学の研究対象 とされ得なかったのであり,
さらに我が国の法学の方法論自体が戦前の国家主 義体制の下で充分 な発展を抑圧 され,戦
後 も概念法学,解
釈法学的方法論がイ云統として研究者の 中に継承 され,
日本国憲法に新 しく「教育を受ける権利」が規定されるに至っても,
きわめて概 念的な解釈の枠内で しか研究者はそれを説明していない面があり,そ
れが現実的・具体的にどの ような権利として生かされなければならないかとい う点の理論的解明がいまだ不充分になってい る。かくして「教育を受ける権利」の規定をいわゆる綱領的規定 (prOgrammvorschriften)と して,具
体性のない単なる「社会権」あるいは「教育請求倒 ,「国務請求掏 ,「国家行為要求倒 , または,た
だ教育の「機会均等」 という教育の社会的経済的条件整備を求めるという抽象的消極 的権利としてとらえるにとどまらず,子
どもの生存権をふまえ,子
どもの「成長,生
存,発
展」 をうながし現代に生きる人間として,そ
の能力を全面的に発達せ しめ,「
自己自身を形成」する 人間に不可欠の生来的自然法的人権としての「学習権判 として積極的性格を付与するときは,教
育をめ ぐる権利義務関係は,こ
の子どもの「学習権の保障充足」を中核として新しく再構成され哲:社会科科育と教育権独立論 (田)一教師の教育権を中心に一 なければ な らない と考 える。 (五
)教
育 権 の 方 向性 と公 教 育 戦後,教
育権理論の発想は教育行政 に対す る抵抗の理論 として構成 された もの とはいえ,教
育 権者 と して教育 をす る者 が教育関係 における権利主体 として位置づ けられることは,子
どもの 「学習権の充足」の立場 か ら,教
育 における権利主体は子 どもであるとす る筆者の説 と抵触す る ものであ り,ま
た,実
定法上根拠を有 し,他
のあ らゆる教育権 (教師 。国民 。国家等)の
根源と も解せ られる親の教育権す ら,近
代人権思想の確認の上 に立って,そ
の権利性 よ りも義務性 を本 質と考える筆者 としては,戦
後の教育権理論は過渡的性格の もの と考える。 国民主権主義を背景 に新憲法によって「教育 を受ける」 ことが義務か ら権利へ180度 の憲法 的 転換 をしたことに関連 して,「
教育 をす る権利」 (教育権)に
つ いて も,「
教育 をす る義務・責 務」へ と変換 さるべ きもの と考える。か くして1960年代以降我が国教育界で特に問題 になってい る親・教師 。国民 。国家の各教育権理論は,子どもの「学習権」の前 に転換・修正・止揚(aufheben) さるべ きであ り,教
育 における権利義務関係は,教
育における「権利主体 と しての子 ども」 の 「学習44」 を中核にして新 しく有機的に構造化せ られるべ きで,教
育権独立 (Pddagogishe Freiheit) の問題 も明確 な根拠規定の無いことと合せて実定法上否定的に解するものである。 しか し筆者は理念 としての教育権独立 まで否定す るものではない。教師の教育における自主独 立性 (教育の 自由)は ,い
わば,法
以前の ものであ り,教
育に内在 し,教
育 を支える理念であ り 条理である。ただこの教師の 自主独立性,教
育の 自由は無限の ものであ り得ず,そ
こに一定の限 界が存するのである。 教師の教育権独立につ いては実定法上 明確 な根拠規定はなく否定的に解す るものであるが,一
方教師は公教育の遂行を教師に信託 した国民及び住民全体の意思の発現で ある憲法・教育基本法 ・学校教育法その他教育関係法令に従わなければならず,他
方子 どもの学習権 を侵害阻害す るが 如 き教育の 自由は許 されないのである。 か くして教育は一方文化的内面的創造の活動として 自主 性 をもっているにかかわ らず,他
方社会 的国家的問題 として,国
家的監督統制に服せ しめ られる ことになる。 この国家的統制 と教育の 自主性 との関係は,法
的・政治的・教育学的困難 な問題を 提起せ しめ両者の限界は,国
家の政治的性格如何 によっても左右せ られることになる。 この点について戦前のわが国においては全体主義の思想や国家主義的統制の下 に個人の催利自 由はとか く抑圧 され勝 ちであったので あ り,教
育 においても国家の強い監督統制の下 に国家主義 的・全体主義的教育が展 開せ られていた。すなわち,戦
前 わが国の教育は国の近代化 と富国強兵 政策の一環 としての国家的要請か ら,国
家の手厚い保護 と監督統制の下 に発達 して来たもので, ここでは,教
育は,、 もっぱ ら,国
家の側 か ら,公
法的行政法的観点か らとらえられ,市
民 (子ど も)の
側か ら教育 を問題 にす るとい う余地 はほとん どなかった といってよい。か くして,戦
前, 明治憲法下の教育法制は,教
育を天皇大権 に直属す る権 力的行政作用の一環 として教育に対す る 国家的政治的卜入 が行 なわれていたので あるが,こ
のことについては憲法学者・行政法学者の間 でもほとん ど問題 とされることがなかった。 勿論政治と教育の理念的同一 面を強化 し,両
者 を理想的状態で とらえるならば,政
治と教育は 相共 にたず さえて,そ
の理想的理念の実現の為に協 力す ることにな り国家 目的に反する教育は否鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第17巻 第1号
137
定 されることになり,国
家は 自らの手によ り教育 を行い教育 を独 占す ることになる。戦前の我が 国の教育や現在の社会主義国家の教育 に見 られる関係であるが,こ
れは政治の理念が全 く理想的 状態で把握せ られることを前提 とす るに して も,教
育 と政治がその次元 を異 にす る面か らは,か
かる教育 と政治の一体性 は,認
容 し得 ない ところで ある。 す なわち,教
育が社会的国家的関心事 として社会的国家的一面を持 ち,従
って国家的法的規制 の対象 となるにしても,同
時 に教育 は,個
人的・内面的・人格的 。文化的本質を有す るもの とし て,国
家以前の法以前の もので もあ り,政
治 とは異 って,本
来被教育者たる個人の完成にむけ ら れる。そこには政治や国家を超越 し,そ
れによって規制 しえない一面を持つので ある。特 に現在の我が国が
,個
人主義的国家観 (indi dualistische Staatsanffassung)の 立場 に立つ民主制国家で ある観点からは