• 検索結果がありません。

京都帝国大学・同大学大学院在学中の篠原助市における「批判的教育学」確立とデューイ教育思想批判との関係の解明 利用統計を見る

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "京都帝国大学・同大学大学院在学中の篠原助市における「批判的教育学」確立とデューイ教育思想批判との関係の解明 利用統計を見る"

Copied!
23
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

京都帝国大学・同大学大学院在学中の篠原助市にお

ける「批判的教育学」確立とデューイ教育思想批判

との関係の解明

著者

米澤 正雄

著者別名

YONEZAWA Masao

雑誌名

アジア文化研究所研究年報

47

ページ

18(215)-39(194)

発行年

2012

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00004428/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

(2)

1.はじめに 本論文の課題は,前号拙論(1) を承けて,京都 帝 国 大 学・ 同 大 学 大 学 院 在 学 中 の 篠 原 助 市 (1876−1957)における「批判的教育学」確立 とデューイ教育思想批判との関係を解明するこ とにある。 この課題を設定したのは次の理由による(2) 篠原は,『教育哲学』(1951年)「第二章 教 育の本質」「第一 教育の理念と理想」におい て,「教育の理念」と「教育の理想」との水準 を区別し,「自然の理性化」としての教育は前 者の水準に,「個人(個性)の歴史化」として の教育は後者の水準に,それぞれ帰属させる。 そして,これら両者の関係についてこう説明する。 「自然の理性化とは,しかし,教育理念の上 から見てのことで,教育活動の純形式的な規 定に止まる。形式的なものは内容的なもので 充たされねばならぬ。そうでないかぎり空虚 であり,空虚なものは理想たり得べくもな い。この内容をそれならどこに求むべきか。 歴史においてである。…[略]…人たるには まずもって歴史的にならねばならぬし,それ には先ず以て歴史的伝統として存続する文化 を身につけねばならぬ。この点からして教育 は『個性を歴史化する作用である。』と定義 し得られる。…[略]…/上に教育を『自然 (の個性)の理性化』,或いは『個性の歴史化』 と定義した。前者は純形式的であり,後者は 之に比すれば具体的であり,前者が教育の方 向を示すに対し,後者はこの方向線上におい て現実から一歩一歩理想的なものへの実践的 な目安を示す。前者だけでは内容はなく,後 者だけでは歴史の中で教育的なものと,そう でないもの(歴史はいつでも理性的なものへ と前進しないで,時には後退し,伝統にして すらが,棄て去らるべきものと生かし行くべ きものとある)との区別がつかない,少なく とも方向がはっきりしない。要するに,この 二者は内容的と形式的,多様とその統一とい う関係において一つにならねばならぬ(3) 」。 篠原の『教育哲学』によれば,「自然の理性 化」としての教育は,「教育の方向」を示す「教 育理念」として,あくまでも「形式的」な規定 である。他方,「個性の歴史化」としての教育 は,この「方向線上」における「現実」上の「実 践的な目安」を示す「教育理想」として,「内 容的」な規定である。この場合重要なことは, 「教育理想」が「教育理念」によって常に統御 され導かれねばならぬ(「この二者は内容的と 形式的,多様とその統一という関係において一 つにならねばならぬ」),ということである。な ぜならば,「歴史はいつでも理性的なものへと 前進しない,時には後退し,伝統にしてすらが, 棄て去らるべきものと生かし行くべきものとあ る」からである。「歴史」において「求むべき」 「内容」,すなわち「教育理想」は,「教育理念」 によって常に「方向」づけられねばならないの

る「批判的教育学」確立とデューイ教育思想批判との

関係の解明

米 澤 正 雄

(3)

である。 しかし戦前の篠原は,「理論的教育学」から 「実際的教育学」へと自らの教育学理論を展開 するに際し,「実際的教育学の要項」を示した 岩波全書版『教育学』(1939年)において,『批 判的教育学の問題』(1922年)以来自ら依拠し てきたナトルプの「社会的教育学」に代表され る「従来の理想主義教育学」を批判し,従来の 自らの教育規定「自然の理性化」が「個人の歴 史化」へと「書き改められねばならない」こと を「自白」していた。 「人はナトルプの教育学に『現実無視』とい う批評を浴せかける。併しこの現実無視は, 彼が…[略]…歴史的現実としての客観的精 神を無視し,言い換へれば教育の夫れに結合 し,又結合せざるを得ない歴史的所与性を無 視したと言ふ点に一層多く当てはまる。事実 彼の『社会的教育学』では,現実の,個性的 な社会よりも,理性的な,理念としての社会, 理想的人格の理想的統一としての社会が考察 の中心点となってゐる。『遠い理想主義』で あると難ぜられるのも故なしとしない。要す るに,従来の理想主義的教育学では教育の課 題性が尖鋭化せられ,其の結果所与性の方面 があまりにも軽視せられてゐる。…[略]… 私自身亦嘗ては教育の課題性を重視し,『自 然の理性化』といふ一語で教育を定義した が,この定義は,以上の見地から,まさしく は『個人の歴史化』と書き改められねばなら ない。私はこのことを,此処ではっきりと自 白して置く(4) 」。 この,戦中の篠原による自らの教育規定の転 換(「自然の理性化」から「個人の歴史化」への) は,『教育哲学』に示された,戦後の篠原によ る,「教育理念」としての「自然の理性化」に 統御され導かれるべき「教育理想」としての 「個人(個性)の歴史化」,という位置づけに照 らすならば,教育に関する「理念」の水準と「理 想」の水準との理論上の区別を篠原自身が混同 し,この区別を自ら撤廃した結果である,とみ なしうる。この場合篠原による理論上の混同は 二重である。ひとつは,篠原が,本来「理念」 の水準に帰属するはずの「自然の理性化」を, 誤って「個人の歴史化」が帰属する「理想」の 水準と同格のものとして位置づけたこと(この 誤った位置づけへと篠原を加速させるのが, 『教育断層 民族と教育其の他』における「人 道」の表現としての「最終の直前」・「『最終の 直前』としての民族精神」,つまり「人道民族」, の概念設定(5) である)。もう一つは,これに加 えて篠原が,教育に関する「理念」と「理想」 との間に誤った二者択一問題(「自然の理性化」 か「個人の歴史化」かの「あれかこれか」)を 立てて,前者(「自然の理性化」)を批判し廃棄 して,後者(「個人の歴史化」)を採用したこと である。 京都帝国大学文科大学哲学科に在学中,「西 田[幾多郎]先生に御依頼し」た「カント『純 粋理性批判』」の「学生」「輪講」に「列した」(6) 篠原が,そしてカント『純粋理性批判』におけ る「理念」と「理想」との区分に依拠すること によって「自然の理性化」を「教育の理念」と して定立した(7) はずの篠原が,何故にこのよう な単純とも見える理論的混同を犯し,「自然の 理性化」としての教育規定への自己批判によっ てこの教育規定を廃棄し,「個人の歴史化」を これに代わる教育規定として選択してしまった のか。篠原が「自然の理性化」か「個人の歴史 化」か,の二者択一問題を設定したことは,た とえ後から振り返るとそれが理論的に誤った問 題設定であったとしても,当時の篠原自身に とっては,「教育理想」としての「個人の歴史 化」が「教育理念」としての「自然の理性化」 と同一の水準に,二者択一を迫るものとして, 浮上してきた,と把握されたからにほかならな い。 本論文は,このような理論的混同をあえて犯 すほどの篠原における問題意識(特に,「理論 的教育学」と「実際的教育学」との二段構えの 教育学構想のうち,後者,就中日本の「実際的

(4)

教育学」,の「特殊なる具体的目的」としての 教育勅語への篠原の確信(8) に淵源する),の前 段階的・準備的形成を,福井師範時代に展開し た「国民教育」論の解明(特に子どもの「自己 教育」の善導を重視する「新教育思想」とその 問題点としての「児童の歴史化」──「模倣と 再現」により文化遺産を子どもが「収得」しそ の継承者へと形成される側面──の軽視)(9) に 引き続き,彼の「批判的教育学」確立のありよ うとその理論構造とに探ろうとするものであ る。具体的には,次のふたつのことを明らかに する。ひとつは,篠原の「批判的教育学」が, 西田幾多郎および朝永三十郎の思想的影響(新 カント派の「批判哲学」)による,福井師範時 代の篠原自身の「国民教育」論(特に,子ども の「自己活動」の善導を重視する「新教育思想」 受容)および小西重直の教育学・教育思想[『学 校教育』(1908年)から『現今教育の研究』(1912 年)を経て『教育思想の研究』(1923年)へと 展開される]の腑分け・序列化として成立する こと(篠原論文「最近の教育理想」)。もうひと つは,「批判的教育学」確立に際しても,福井 師範時代の篠原における日本の「国民教育」論 の目的としての教育勅語への確信が,不問の前 提として認められること。それは,小西重直に よるパーカー教育思想への「国体」論的批判が, 篠原による日本の「国民教育」論樹立の手がか りとしてのデューイ教育思想排除へと継承・転 用されること(篠原論文「ヂューイの教育論」), に示される,ということである。 2. 西田幾多郎・朝永三十郎の思想的影響(「新 カント派の批判哲学」)による,福井師範 時代の篠原「国民教育」論および小西重直 教育思想の腑分け,としての篠原「批判的 教育学」の成立 (1) 篠原による「批判的教育学」確立のあ りよう 篠原は,1906(明治39)年4月以来の6年余 りにわたる福井師範附属小学校主事の任務に終 止符を打ち,1912(明治45)年9月京都帝国大 学文科大学哲学科に進学し,1916年7月同大学 を卒業(卒業論文の題目は「自由」),「夏休み の中に,西田[幾多郎],朝永[三十郎]両先 生と小西[重直]先生とに依頼して,[京都帝 国大学]大学院に入学,教育学(哲学ではなく) を専攻することにした(10) 」。篠原は,1916年9 月引き続き同大学大学院に進み教育学を専攻 (指導教員は小西重直),同大学大学院在学中, 最初に論文「最近の教育理想」を,次に論文「ヂ ユーイの教育論」を,執筆する(11) (活字化の順 番は逆になる)。以下,これら二論文を執筆順 に検討する。 ① 論文「最近の教育理想」(尼子止編『最近 教育学の進歩』早稲田同文館雑誌部,1918 年4月15日)における「理性の哲学」の立 場からの二段構えの教育学構想の提示 篠原論文「最近の教育理想」は,尼子止編『最 近教育学の進歩』[早稲田同文官雑誌部,大正 7(1918)年4月]に初め掲載され,後に『批 判的教育学の問題』に冒頭論文として収録され る。『最近教育学の進歩』の篠原論文には,最 初に目次が七節分示され,それぞれに題目が付 されている。以下に各節の題目と論及内容を示 してみよう。 「一 一般的傾向」で,まず,教育理想を考 察する場合,「教育一般の理想」と「時代と場 所との特殊的事情を顧みて定めた特殊的理想」 との峻別の必要性が説かれる。前者は「一般教 育学即ち時間と空間との制限を絶し,抽象的 に,従って客観的に妥当なる法則を理論的に立 するもの」[「理論的教育学」]にかかわる教育 理想であり,後者は「特殊的教育学即ち此の一 般教育学を更に時間と空間との範疇に入れ具体 的に変容せるもの」[「実際的教育学」]にかか わる教育理想である。その上で,近代思潮の特 色が「自覚」にあること。現代の教育理想の全 体的特色は「超越より内在へ」(「外からの教育」 を「内からの教育」に転ずること)にあること, そして,現代の教育理想の「内在」への傾向は,

(5)

二つの方向(「自然的自我」への方向と「理性 的自我」への方向)に分れること,が示される。 「二 自由教育説」では,「自然的自我」の方 向での教育理想として,まず,ルソー,エレ ン・ケイ女史,マリア・モンテッソーリらによ る「自由教育説」──その「教育的意義」は「教 育の理想を超越界より児童の内在的自我に下ろ した点に」ある──が挙げられる。「三 生物 学的見解」では,「自然的自我」の方向での教 育理想として,「生物学を基礎」とした「社会 教育学」を提唱する,ベルゲマンおよびデュー イが挙げられる。 篠原によれば,「ヂューイ思想の根底をなす ものは『位地の再構成』といふ概念である」。 「個人と物理的社会的環象とは渾然相合して一 の位地を構成する」から,「児童の教育は」「位 地の中に於てのみ行はれる。吾人は直接に児童 に作用することは出来ない。唯位地を通して間8 接8に作用しうるのみである」。それ故,「児童の 為に適当なる位地を選び,混沌たる児童の経験 を比較的に整った社会生活に構成し行くことは 専ら教育の職能とする所で,是が為には学校を 社会化し,学校をば社会生活の精神に浸透せら れた一の模範的社会となすの必要がある。学校 の社会化…[略]…に当って,彼[ヂューイ] は民本的工業的な社会を其の模範となし,工業 の基礎たるべき手工と,手工による勤労とを以 て学校の全事業と見做し,一種の手工中心主義 の学校を建設した(12) 」。 しかし篠原によれば,デューイの「教育理想」 には次の二つの問題点が認められる。 「ヂューイが発展其の者を教育の目的となし, [環象への]連続的順応を教育の全過程とし たのは彼が生物的見解の論理的帰結である。 又一定不変の目標として立てられた目的を否 み,教育の目的は位地に応じて刻々に定めら るべきであるとなすの論拠は彼の実用主義の 上にある。凡ての実用主義者が真理の客観的 規範…[略]…を拒めるが如く,彼は件の刻々 の発達を指導すべき一定不変の教育的規範を 拒んだ。併し茲に問うべきは,爾く価値判定 の客観的規範を排しながら,尚発展とか進歩 とかを(発展とか進歩とかは価値の一定の標 準に照らして定めらるべきであるから)口に し得るか否かといふことである。是がヂュー イに投ぜらるべき第一の疑問である。次に彼 は衝動的本能的傾向の一群が連続的順応によ りて発展する間に一切の精神作用は発現する ものと見たから,従って真も善も美も共に這 般の順応の副産物と見ねばならない事となっ た。…[略]…生理的心理学の立場から見れ ばこは恐らく当然の結果であらう。けれども 生理的心理学が我等の精神作用を残りなく解 釈しうるものなるか否か,是れがヂューイに 対する第二の疑問である。ヂューイの説は自 我の自然的生物学的解釈から出発したものと して最も徹底的のものである。而して,徹底 の極遂に上の二問題に逢着し,二条の袋町に 追ひつめられた。此の袋町を脱するの方法 は,余の見る所によれば,断然自我の自然的 解釈を棄て,理性的自我の立場に転ずるにあ り(13) 」。 デューイは「教育の目的」として「発展其の 者」を立てるけれども,デューイは「刻々の発 達を指導すべき一定不変の教育的規範」,「価値 の一定の標準」(「価値判定の客観的規範」とし ての「真・善・美」そのもの)を認めていない のだから,そもそも「発展」など言えないはず である,というのが篠原によるデューイ「教育 理想」批判の要点である。 次に,「四 情意の要求」では,「主知主義に 対する主意説の反動」と「主知主義に対する感 情主義の反動」が取りあげられる。前者では 「勤労学校」論に──「生物学・生理的心理学」 にもとづいて「意志の発表たる行動」を強調す るデューイ,ケルシェンシュタイナーらによる 「手工中心の学校」論と,「精神的身体的なる一 切の勤労を重視し,児童の自己活動」を強調す るリスマン,ガウディヒらによる「活動中心の 学校」論とに分けられる──,後者では「エー

(6)

バー」『教育の基礎としての美学』などの「芸 術教育運動」に,論及される。「五 人格的教 育学」では,「新理想主義を標榜せる」その提 唱者として,オイケン,ブッデ,リンデらが挙 げられる。そして「六 理性的意志」では,「理 性的意志の上に教育学を建てた」「独逸哲学界 の一権威たるパウル,ナトルプ」が取りあげら れる。篠原は,『社会的教育学』においてナト ルプが「意識の最後の統一を探り,理性的自我 の真自覚の上に教育の理想を安定」させ,「彼 によって教育の内在方向は其の極所に達した」, と述べる。ナトルプにおける「理性的自我の真 自覚」について,篠原はこう説明する。 「ナトールプは其の社会教育学第一篇におい て,先ず理想の性質を述べ,新カント派の立 場から教育の理想を設定している。氏の説く 所によれば,理想即ち『あらねばならぬ』と いふ概念は,…[略]…自然科学的の概念で はない。自然科学の取扱ふ法則は凡て仮言的 な,条件附きの法則で,『‥‥ならば‥‥‥ なり』の形にて示され,時間的に生起する事 象の因果的説明の用に供せらるる者ではある が,絶対的に無制約に妥当なる法則即ち本原 的なる当為を立し得るものでない。然るに教 育学の要求する理想は無制約な法則である。 次に理想は心理学の取扱ふ概念でもない。… [略]…心理学の扱ふ精神現象は凡て因果的 に決定せられ,他の自然科学と等しく,教育 の理想に与ることは出来ない。然らば教育の 理想を立つるものは何ぞ。答へて曰くそは唯 認識批評の外にないと。/凡そ法則には因果 法の如く,減少の生起に関し時間的なるもの と,超時間的なるもの即ち論理的法則との二 種ある。…[略]…此の超時間的法則は時間 的法則の根底をなすもので,後者は前者を欠 いて成立しえない。一切の自然科学は論理学 や数学の[超時間的]法則を待って始めて成 立するものではないか。然るに超時間的な論 理的の法則の根拠は意識の統一性──之を自 覚と名づくる──を措いて他に之を求むるこ とは出来ない。即ち意識の統一性は論理的法 則の源であり,論理的法則は因果的法則の支 柱であるから,意識の統一は言わば意識に於 ける一切の現象を見渡す視点のやうなもの で,あらゆる法則の最後の根拠である。… [略]…此の統一こそ彼[ナトールプ]が称 して理想となすものである。曰く『理想は最 後の統一,認識の最後の視点に外ならない。』 理想は自然科学から(従って心理学からも) 得られるものでなく,唯批評哲学からのみ演 繹し得られる(14) 」。 篠原によれば,ナトルプは新カント派の「批 評哲学」の立場から「教育の理想」を位置づけ ている。自然科学における仮言的法則は「時間 的に生起する事象の因果的説明」のために用い られるものである。これに対して,「理想」(「あ らねばならぬ」)は「本原なる当為」として, 自然科学におけるような仮言的法則の形式に よってではなく,「絶対的に無制約に妥当なる 法則」の形式で言い表される。「理想」は自然 科学(心理学を含む)から導き出すことはでき ない。「理想」を立てうるのは,唯「認識批評」 によってのみである。「教育学の要求する理想」 も同様に「無制約な法則」であるから,自然科 学(心理学を含む)によって導き出されるもの ではなく,「唯批評哲学からのみ演繹」するこ とができる,と。ナトルプ『社会的教育学』は, 篠原のこの論文において,新カント派の「批判 (批評)哲学」に立脚するものとして把握され ている。この,新カント派の「批判哲学」こそ, 「教育理想」を論ずる篠原自身の「理性的自我 の立場」なのである。 この新カント派の「理性的自我の立場」に 立って,「七 国家と人文」では,ナトルプ, リッケルト,コーエン,ケルシェンシュタイ ナー,フィヒテらの言への論及により「国家が 人文の支持者として有する独自の位置」(「国家 を離れて人文はない。国家は人文の唯一の支持 者である。国家の発展其の者が人文である」) が指摘される。「国民教育の開拓は先ず其の国

(7)

家が国家として有する特質を研究することから 始めねばならぬ。こはフィヒテが『独逸国民に 告ぐ。』に於て已に試みた所である。故に曰く フィヒテに帰れ,フィヒテに帰ることによりて のみ国民教育の真義は捉へ得られる。ケルシェ ンシュタイナーの如きも『国民教育によりての み人道に達することを得。』と説いてゐる。け れども彼は此の真理を推究することをしない で,直ちに職業教育の末に走ったのは惜しむべ きである」。篠原にとって,日本の「国民教育」 は,日本の「国家が国家として有する特質」 ──教育勅語に典型的に示される──に依拠す る。篠原の結論は,次の二段構えの教育学構想 の提示である。 「曰く教育一般の形式的目的は理性の哲学が 之を与へ,其の特殊なる具体的目的は国史の 研究と相待って決定せらるべきであると。国 家の使命は独自である。一国の歴史は他国の 歴史を以て代用せらるべきでない。国民教育 を説くに当り,尚他国人の糟粕に甘んぜんと する如きは,全く己を棄てて他に就くものと 言はねばならぬ(15) 」。 このように,京都帝国大学大学院(教育学専 攻)在学中に初めて執筆した論文「最近の教育 理想」において,篠原は,新カント派(特にナ トルプ)の哲学的立場(「批判(批評)哲学」 の立場)に立って,「理性の哲学」が「教育一 般の形式的目的」を与える「理論的教育学」と 「其の特殊なる具体的目的」を「国史の研究と 相待って決定せらるべき」「実際的教育学」と の二段構えの教育学構想を提示している。篠原 による「批判的教育学」の初めての提示である。 注目すべきは,篠原が,日本の「国民教育」論 (「実際的教育学」)の目的(「他国の歴史を以て 代用せらるべきでない」,「国史の研究と相待っ て決定せらるべき」,「独自」な,日本の「国民 教育」の「特殊なる具体的目的」)としての教 育勅語への確信──小西重直と共有する──に もとづいて,福井師範附属小学校主事時代の篠 原自身の「国民教育」論と『学校教育』以降の 小西重直の教育学・教育思想とを,「理性の哲 学」[新カント派(特にナトルプ)の「批判(批 評)哲学」の立場──西田幾多郎および朝永三 十郎の影響による──に立って,腑分けするこ とによって,二段構えの構想を有する自らの 「批判的教育学」を提示していることである。 以下,このことを三点にわたり説明する。 まず第一は,福井師範附属小学校主事時代の 篠原が教育勅語を日本の「国民教育」論(「実 際的教育学」)の目的として確信し,これを全 く疑っていないことである。このことは,自伝 『教育生活五十年』(1956年12月)における福井 師範附属小学校の「訓練」に関する次の言に明 らかである。 「校訓は『あくまで教育勅語の御趣旨を貫徹 する方便』でなければならぬ。勅語が主であ り,校訓は従であり,この主従関係をかりに も顛倒することがあってはならぬ。…[略] …もし訓練の確固たる規準がないとしたら, 教育の,道徳的土台は崩壊せざるを得ぬ。規 準には下の規準と上の規準とがあり,下の規 準は児童の心理的発達,土地の事情,環境の 状態等,上の規準は言うまでもなく教育勅語 である。下からの規準を言わば底面とし,凡 てが頂点としての最高規準[教育勅語]に向 い行く,円錐体で以て恐く訓練の全貌は象徴 し得られるであろう(16) 」。 福井師範時代の篠原による,日本の「国民教 育」論(「実際的教育学」)の目的としての教育 勅語への確信は,篠原の福井師範時代に公刊さ れ,「この一書で」「教育の体系的学者として, 優に一家の風貌を確立せられた」と篠原の回顧 する,小西重直の「名著『学校教育』[1908(明 治41)年]」においても,同様に確認すること ができる。 「我邦に於ては国家の発展の大方針なる勅語 の御精神は吾々の心の集注力活動力の向ふ所 の目的物であって此点に於て吾人は我邦の教 育の目的に関して多く議論するの必要なく個 人と国家的社会の最も調和せるものを我邦に

(8)

見ることを得る(17) 」。 小西と同様の,日本の「国民教育」論(「実 際的教育学」)の目的としての教育勅語への確 信にもとづいて,篠原は,「教育一般の形式的 目的」にかかわる「理論的教育学」と「国史の 研究と相待って決定せらるべき」「其の特殊な る具体的目的」にかかわる「実際的教育学」と の二段構えの教育学構想を提示している。篠原 によるこの二段構えの教育学構想も,同様に, 小西重直『学校教育』の次の言に依拠して提示 されている。 「精神科学の中の規範科学の一としての教育 学に於ては其の建設する所の教育的規範は此 を応用せんとする国家の発達の状態を顧みね ばならぬ。…[略]…教育学は一個の科学で あるけれども其原理を何れの場合にも均しく 応用しうるものではない。其国の状態により て多少其態度を異にせねばならぬ。各国家は 其発達の歴史を異にして居るから教育学の一 般原理を応用する場合には,其国の歴史的発 達に適応する必要がある(18) 」。 篠原は,小西の言う「教育学の一般原理」と その「教育学の一般原理を応用する場合」に 「適応する必要がある」「其の国の歴史的発達」 とを,「教育一般の形式的目的」に関わる「一 般的教育学」(「理論的教育学」)と「国史の研 究と相待って決定せらるべき」「其の特殊なる 具体的目的」に関わる「特殊的教育学」(「実際 的教育学」)とに区分してそれぞれ対応させる。 そして前者(「教育一般の形式的目的」に関わ る「一般的教育学」ないし「理論的教育学」) を考察するものとして「理性の哲学」を,前者 と「相待って」後者(「其の特殊なる具体的目 的」)を「決定」すべきものとして「国史の研究」 を,それぞれに割り振っているのである。 第二は,論文「最近の教育理想」において篠 原の取りあげた,「現代の教育理想」の「内在」 への傾向とその提唱者が,福井師範時代に篠原 自身の展開した「国民教育」論(特に,子ども の「自己活動」の善導を強調する「新教育思 想」)および小西重直の著作と講義(『学校教 育』,『現今教育の研究』と京都帝国大学での講 義)において,既に論及されていることである。 福井師範時代の篠原は,子どもの「自己活動」 の善導を強調する「新教育思想」を受容する。 当時篠原が注目し論及していたのは,谷本富 『新教育講義』1906年,小西重直『学校教育』 1908年,ライ『実験教授術』1903年,「江れん け い 女 史 の『 児 童 の 世 紀 』」1899年( 独 訳 本 1900年),ケルシェンシュタイナー,リスマン, ガウディヒ,デューイらの「勤労学校」論とそ の先駆的提唱者としてのルソー,ペスタロッ チ,フレーベル,などである(19) (尚,福井師範 在職「当時ヴェーベルやシャーレルマンなどの 芸術的な教育思想に共鳴していた私は職員会議 で各教室に四季折々の花をかざることにきめ た(20) 」と篠原は回顧する)。上記の「二 自由 教育説」(ルソー,エレン・ケイ),「三 生物 学的見解」(デューイ),「四 情意の要求」(「勤 労学校」論者たち,「エーバー」『教育の基礎と しての美学』などの「芸術教育運動」)は,福 井師範時代の篠原が自らの「国民教育」論にお いて既に注目し論及していた人物と教育思想な のである。そして,福井師範時代の篠原が論及 していない,「三 生物学的見解」(ベルゲマン の「社会的教育学」)と「六 理性的意志」(ナ トルプ『社会的教育学』)は,篠原が福井師範 時代に注目した小西『学校教育』において既に 論及されている(尚,ナトルプ『社会的教育学』 は,東京高等師範学校研究科一箇年課程に在学 中の篠原が,同研究科二箇年課程向けの大瀬甚 太郎の講読で取り上げられたのを「傍聴」して いる(21) が,新カント派の「批判哲学」として学 んだわけではない)。加えて,「五 人格的教育 学」は京都帝国大学文科大学在学中に篠原が受 講した,小西による教育学講義の内容のひとつ である(「[京都帝国大学文科大学哲学科におけ る第二年次の]小西先生の講義は『大学の自由』 が主題であった。…[略]…三学期には現代の 教育…[略]…についてかいつまんで話をされ

(9)

た。特にリンデの『人格的教育学』E. Linde; Persönlichkeitspädagogik. に つ い て の 叙 述 の 生々しさは,今も私の記憶に焼けついている。口 で語るのではなく精神で話されたのである(22) 」)。 このように,篠原「批判的教育学」の成立に際 して,その「教育学」が篠原自身にとって意味 するのは,何よりも,福井師範時代に自ら展開 した「国民教育」論(特に,子どもの「自己活 動」の善導を強調する「新教育思想」とその先 駆)と『学校教育』以降の小西重直の教育学・ 教育思想なのである。 しかし第三は,篠原が,「理性的自我の真自 覚の上に教育理想を安定」させたナトルプ『社 会的教育学』を「教育の内在方向」の「極所」 とみなす立場に立って,「現代の教育理想」の 「内在」への傾向を,「自然的自我」への方向(ル ソー,エレン・ケイ,モンテッソーリ,デュー イなど)と「理性的自我」への方向とに峻別し, 前者を低く評価するとともに後者を高く評価し ていることである。篠原はこの論文で,「現代 の教育理想」における「内在」への傾向(「自 然的自我」から「理性的自我」への)を,「自 然的自我」としての「自由教育説」・「生物学的 見解」から,「情意の要求」・「新理想主義を標 榜せる人格的教育学」を経て,「極所」(頂点) としての「理性的意志」(ナトルプ)に達する まで辿ってみせる。篠原は,自ら立脚する新カ ント派(特にナトルプ)の「批判(批評)哲学」 によって,福井師範時代に展開した自らの「国 民教育」論(特に,子どもの「自己活動」の善 導を強調する「新教育思想」)および小西重直 の教育学・教育思想(『学校教育』・『現今教育 の研究』および京都帝国大学文科大学における 教育学の講義)を,腑分けして序列化している。 この場合留意すべきは,新カント派(特にナ トルプ)の「批判哲学」への篠原の自己定位が, 西田幾多郎と朝永三十郎との思想的影響によ る,ということである。 もちろん,篠原が,「一 一般的傾向」第二 段落目の冒頭で,「近代思潮の特色は大凡『自 覚』の一語に尽きる」,と述べていることから, この篠原論文全体にわたって朝永三十郎『近世 における「我」の自覚史──新理想主義とその 背景──』1916(大正5)年1月(同年3月増 訂再販),の影響は明白である。このことは, 篠原論文の結語における二段構えの教育学構想 のうち,「一般的教育学」(「理論的教育学」)を 規定する文──「教育一般の目的は理性の哲学 が之を与へ」──の「理性の哲学」が,朝永の 同書序文に次のように用いられていることから も,容易に推測できる。 「私はカントに端を開いた…[略]…広範な 意味における『理性』の哲学の遵奉者として, この派[新カント派におけるヴィンデルバン ト,リッケルトらの西南ドイツ派]の哲学が その真精神を最もよく継承発展したものであ り,かつ私が哲学に欠くべからずと思惟する ところの二要件,すなわち厳密に学的である とともに人性対して指導の力を有するという 体裁と資格とを最もよく具備したものであっ て,将来有力なる哲学思想はこの派の関門を 通って発展しいずべきではあるまいかと思惟 するのである(23) 」。 しかし,これらのことから,新カント派の 「批判哲学」への篠原による自己定位が(従っ て篠原による「『批判的』教育学」確立が),す べて朝永の影響による,と一般化することには 留保が必要である。朝永『近世における「我」 の自覚史』出版の次の年,西田幾多郎は新カン ト派に論及した『現代における理想主義の哲 学』弘道館,1917(大正6)年5月[前年の,「京 都帝国大学の特別講演」(1916年秋)および『哲 学研究』第1号(1916年4月)掲載の論文「現 代の哲学」を収録したもの,篠原は1916年7月 に京都帝国大学文科大学哲学専攻を卒業],を 公にしているからである。それだけでなく篠原 は,既に京都帝国大学文科大学哲学科在学中の 二年次に,西田幾多郎の「哲学概論」の講義を 受講しているからである。「西田先生の哲学概 論は主としてヴィンデルバントの『哲学入門』

(10)

W. Windelband: Einleitung in die Philosophie. の順序に従い,まま先生の御意見を加えられた もので,私はヴィンデルバントの入門を一読し て先生の教室に入った(24) 」。この西田幾多郎の 「哲学概論」講義は,西田の使用したテキスト, ヴィンデルバント『哲学入門』とともに,篠原 の『哲学綱要』1926年,の主要な参照文献・資 料となる。この,篠原の『哲学綱要』の戦後改 訂版,『哲学新講』(1951年)「第一編 実在の 学」「第四章 弁証的発展」の「第二 『無』の 弁証法」の論述内容は,簡潔にして要を得た卓 抜な「西田哲学」論である。しかるにこれに比 して,『近世における「我」の自覚史』ととも に当時広く読まれた,朝永三十郎『カントの平 和論』1922年,の篠原への思想的影響はほとん ど確認することができない。むしろ,満州事変 以後,特に昭和10年代の,歴史へのあまりにも 「前のめり」(植村和秀)な篠原の姿勢こそ,篠 原が「京都学派」の一員であることの証ではな いか。要するに,篠原自身の哲学観の確立に対 して,西田の方が朝永よりも影響が大きいと考 えられる(25) 。 それだけでなく,篠原は,同大学在学中の二 年次から三年次にかけての夏休み期間中,次年 度に受講予定の「西田先生の特殊講義」への準 備として,新カント派(特にナトルプとヴィン デルバント)の主要著作に集中的に取り組んで いる。 「新カント派について,西田先生からお話が あるので,マールブルヒ派のコーヘンやナト ルプ,バーデン派のヴィンデルバントを主と して読んだ。コーヘン(1842−1918)では『純 粋 認 識 の 論 理 学 』H. Cohen; Logik der reinen Erkentnis.(1902)ナトルプ(1854− 1924) で は『 精 密 科 学 の 論 理 的 基 礎 』P. Natorp; Die Logischen Grundlagen der exakten Wissenschaften.(1910)『哲学と教 育 学 』Philosophie und Pädagogik.(1909) ヴィンデルバント(1818−1915)では『哲学 序曲』W. Windelband; Präludien.(1910)二 冊『意志の自由』Willensfreiheit.(1904)等。 この異なった新カント派中,私は何となく バーデン派に引きつけられた。/ヴィンデル バントが『カントを理解することは之を超越 することである』のモットーの下に,文化科 学を説き,科学を法則と[の]定立の科学『自 然科学』と『個性を記述する学』(歴史学) に区分し,歴史哲学の基礎を定めたことは, 本来[実際的]教育学は歴史的でなければな らぬであろうとの,私の,言わば暗中模索的 な考え方に一道の光を投げかけてくれた。彼 の『哲学序曲』を丹念に読み,要点を一々抜 き書きし(始めは朝永先生に借り,先生のア ンダーラインのある本で,後には自分の求め た本で),不審の点は先生にお尋ねした。次 にマールブルヒ派では言う迄もなくコーヘン よりもナトルプに向かった。…[略]…/… [略]…/…[略]…[三年次の学年試験で] 西田先生の特殊講義は一番重荷であった。先 生のコーヘンの認識論,特にその「根源の論 理」か又はヴィンデルバントの「批判的方法 と発生的方法」の何れかを選べとのことで あったので,…[略]…私は後者を選んだ。 …[略]…歴史と教育の関係,心理的発生的 方法とカント的な批判的方法との対抗,これ から導かれる文化価値の哲学が,私の興味を 惹いたからである(26) 」。 ここには,京都帝国大学在学中の篠原が,「西 田先生の特殊講義」受講のための基礎勉強にお いて,ヴィンデルバントの哲学(特に,原書を 朝永から借りて精読した『哲学序曲』)をベー スにして,ナトルプの哲学および教育学(『精 密科学の論理的基礎』,『哲学と教育学』,そし て,既に東京高等師範学校研究科在学中に大瀬 甚太郎の授業で「傍聴」している『社会的教育 学(27) 』)を関係づけたであろうことが暗示され ている。この場合留意すべきは,ヴィンデルバ ント『哲学序曲』が,当時の篠原にとって,「本 来教育学は歴史的でなければならぬであらうと の」「暗中模索的な考え方に一道の光を投げか

(11)

けてくれた」,と回顧されていることである。 つまり,篠原による二段構えの教育学構想のう ち,「教育一般の形式的目的」を与える「理性 の哲学」には主にナトルプの哲学・教育学およ びヴィンデルバント『哲学序曲』の哲学観が, 「其の特殊なる具体的目的」を「決定」すべき 各国の歴史(「国史の研究」)についての原理論 には主にヴィンデルバント『哲学序曲』の「歴 史哲学」観が,それぞれ位置づけられているの ではないか,ということである。もちろん, ヴィンデルバントの「歴史哲学」への興味の源 には,日本の「実際的教育学」の「特殊なる具 体的目的」としての教育勅語への篠原の強固な 確信があることは,言うまでもない。 以上,篠原が,日本の「国民教育」論(「実 際的教育学」)の目的としての教育勅語への確 信──小西重直と共有する──にもとづいて, 西田幾多郎と朝永三十郎との思想的影響によっ て新カント派の「批判哲学」の立場に立ち,自 ら福井師範時代に展開した「国民教育」論(特 に,子どもの「自己活動」の善導を強調する「新 教育思想」)および『学校教育』以降の小西重 直の教育学・教育思想を腑分けすることによっ て,「批判的教育学」を確立し,二段構えの教 育学構想を提示したことを明らかにした。 しかし,新カント派の「批判哲学」によって, ルソーの教育思想を「自然的自我」の方向での 「自由教育説」として低く評価することは,東 京高等師範学校在学中から福井師範在職中の篠 原自身の念願(仏語習得による『エミール』の 原文読破)に蹉跌をもたらしていると考えられ る。篠原はこの蹉跌にもかかわらず,自らの教 育研究の立場を何故に新カント派の「批判哲 学」に求めたのか。この問題を解くヒントは, 論文「最近の教育理想」において篠原の引用し たケルシェンシュタイナーの言「国民教育によ りてのみ人道に達することを得」と,その後 「此の真理を推究すること」になる,「一九一〇 年代におけるケルシェンシュタイネルの理想主 義への転回」(篠原論文「ケルシェンシュタイ ネルの教育思想」)に見出される。篠原によれ ば,「始めて彼[ケルシェンシュタイネル]の 胸琴に理想主義の強い響きを伝えたのはヴィン デルバントとナトルプの著作で,──彼が是等 の思想に接したのは恐らく,[『自然科学的教授 の本質と価値』を著した]1913年であらうと思 われる──あって,彼自身,『ヴィンデルバン トの「序 プレルーデイエン 曲」とナトルプの教育学的著作は私を 驚かした。「序曲」とその絶対価値に対する態 度に於いて,余は余の本性に応じた響きを見出 し,ナトルプにおいて個人的教育学と社会的教 育学との一致を‥‥見出した。』と語っている。 そして,こは,おのづから彼をカントの哲学に 導かざるを得なかった」,と(28) 。この,1910代 における「ケルシェンシュタイネルの理想主義 への転回」を,篠原自身が,福井師範在職の最 後の年に論文「勤労学校の主張」(1912年3月) を著した後の,京都帝国大学および同大学大学 院において,西田幾多郎および朝永三十郎の思 想的影響のもとに「批判的教育学」(就中,「理 性の哲学」の立場)確立への歩みとして,ケル シェンシュタイナーと同時進行で(あるいはケ ルシェンシュタイナーよりもやや少し遅れてそ の後を追って),経験していた(だからルソー 教育思想から眼が逸れてしまった)のではない か,と考えられる。ともあれ,「自然的自我」 の方向での「教育理想」提唱者,というルソー 教育思想への著しい低評価は,『独逸教育思想 史』(上巻第四章第六・七節)におけるルソー への論及および敗戦後の篠原における「批判的 教育学」の希薄化によって,『民主主義と教育 の精神』(1947年)・『家庭教育の話』(1949年) においてようやく改められることになる。 ② 論文「ヂューイの教育論」(1917年12月1 日・1918年1月1日)におけるデューイの 「実用主義」・教育思想への「足蹴り」 論文「ヂューイの教育論」(『哲学研究』第貳 巻第十二冊/第二十一号,1917年12月1日およ び第三巻第一冊/第二十二号,1918年1月1日 に掲載)は,篠原が京都帝国大学大学院在学中

(12)

に執筆した二番目の論文である。この論文は, 篠原が小西重直と共有する,日本の「国民教育」 論(「実際的教育学」)の目的としての教育勅語 への確信にもとづいて,小西の『現今教育の研 究』(1912年)における次のパーカー教育思想 批判を,篠原自身のデューイ教育思想批判へと 転用したものである。 「活動主義を組織的に研究し,更に大なる意 味に於て教育上実行したるものは,近世米国 のパーカーとなす。…[略]…パーカーは米 国の民本的なる国体を擁護し,米国の国体に 適合し,之を発達せしむる人間を作らざるべ からずと信じ,児童教育に於て自治自制を本 義となす。米国の政治は国民の自治なるが故 に,此大自治体に適合し,又之を発達せしむ るには,学校に於て児童の自治心を養成せざ るべからずと信じたり。是に於て彼は児童に 向つては,米国の自治政治は,最も幸せなる 政治なりと教え,此自治国の人民は,自ら亦 自治的ならざるべからずと説き。而して彼は 児童には相当の活動力あるが故に,此活動力 を利用し,彼等をして自ら自治の習慣を養は しむべしとなし,教育の主義として自治主義 を取る。…[略]…/…[略]…/米国の活 動主義は米国的の国民を養成するの方法な り。我国亦我国風に適合するの日本的活動主 義の研究なくして可ならんや。余輩私かに思 ふ。自治主義は米国にありては最上の目的な り。然れども我国にありては忠孝の誠を致 し,愛国奉公の大義を尽すの国民を養成せざ るべからず。是に於いてか我国の活動主義の 教授法は,根底に於て米国と異ならざるを得 ず。蓋し教授の場合に,一人の児童の発表せ るものを,他の児童に訂正せしめ,更に第三, 第四の児童をして之を修正補修せしめて,遂 に完全なる者となすの教授法は極めて必要な り。…[略]…然れども此相互の批評的錬磨 にのみ重きを置く時は,児童をして事毎に批 評するの習慣を養ふに至らしめ,貴き者を尊 敬し,人の美を済さしむるの雅量同情等を養 ふ道徳的方面の教育に対して,遺憾の点なか るべきか。…[略]…国家的社会の協同生活 に必要なる自治責任の精神を発達せしむる は,固より緊要なりと雖も,之と相並んで, 常に貴きものを尊敬し,正しきものを確信す るの情念を涵養するは,我国風上亦極めて必 要なるにあらざるか(29) 」。 小西によれば,パーカーの「活動主義は米国 的の国民を養成する方法」であり,児童の「活 動力」(注意と発表)を利用して「学校に於て 児童に自治心を養成」しようとするものであ る。それは,「米国の政治は国民の自治なるが 故に」「自治主義」を「最上の目的」とする「米 国の民本的な国体」に適合した方法である。し かし「国体」を異にする「我国にありては忠孝 の誠を致し,愛国奉公の大義を尽すの国民を養 成するべからず。是に於てか我国の活動主義の 教授法は,根底において[自治主義を最上の目 的とする]米国と異ならざるを得ず」。「貴き者 を尊敬し,人の美を済さしむるの雅量同情等を 養う道徳的方面の教育」,「常に貴きものを尊敬 し,正しきものを確信するの情念」の「涵養」 は「我国風上極めて必要な」り,と。小西によ る,パーカー「活動主義」へのこのような「国 体」論的批判は,篠原論文「ヂューイの教育論」 における,日本の「国民教育」論(「実際的教 育 学 」) 樹 立 の 手 が か り と し て の「 米 国 式 」 デューイ教育思想排除へと継承・転用される。 「 米 国 が 実 用 主 義 の 本 土 で あ る 如 く, 彼 [ヂューイ]の教育思想は首尾一貫した米国 式のものである。若し教育学が国民性を基礎 とすべきもの,教育学は特殊的に夫れ夫れの 国家社会の特色を顧るべきものであるとすれ ば,ヂューイの教育学の如きは恐らく理想的 のものであらう。唯夫れ米国式である。故に 他国に移植するに当つては細心の注意を払わ ねばならぬ。我国において実用主義の上に教 育を建てんと企てつゝある一二の人々は先づ 顧みて自己の足場を精査すべきであらう(30) 」。 篠原は,既に論文「最近の教育理想」におい

(13)

て「批判的教育学」の立場からのデューイ教育 思想批判を公にしているから,論文「ヂューイ の教育論」における篠原のねらいは,単なる デューイ教育思想批判の提示にあるのではな い。むしろ,小西によるパーカー「活動主義」 の「国体」論的批判をデューイ教育思想に適用 することによって,日本の「国民教育」論(「実 際的教育学」)樹立の手がかりとしてはデュー イ教育思想を「米国式」として排除する(「足 蹴り」にする)ことにこそある。篠原はこのこ とを,デューイの『民主主義と教育』(1916年) 出版が日本の教育研究者の大きな注目を集めて いる状況下において,そして論文「ヂューイの 教育論」の一年余り後の1919年3・4月には デューイ本人が来日して東京帝国大学において 連続講演をおこなうようになる状況下におい て,遂行し,教育学界において自らの存在をア ピールしようとしたのである(31) 。 論文「ヂューイの教育論」は全十一節より成 る。第一節から第八節まではデューイ教育思想 の要約であり,各節ごとに題名が付されてい る。第九節から第十一節までは,「批判的教育 学」の立場から,「実用主義」との関連におけ るデューイ教育思想批判と上記の趣旨でのその 排除が主張される。 「一 社会的事実としての教育」において, まず,「生物と無生物との主なる区別は生物が 己が環象に対して,何等かの反応をなし,環象 を利用して生命を新たにする点に存する」こと が述べられる。次に「生命の社会的連続」には 「必然の条件として教育を要する」ことが述べ られる。「社会の中に生存する個人は生と死と の避くべからざる運命を負」い,「新たに生ま れたものゝの有する性能と現前の社会との間に は知識・感情及び行動の様式において大なる溝 渠がある」から,この「溝渠を埋め」るために, 「社会は其の動物的生命を次代に伝ふることの 外に,知識・感情・行動等の習慣をも伝達」す る こ と が 不 可 欠 と な る。「Community は Communication の中に成」り,「社会的生活其 の者は已に一の教育」である。従って,「児童 の教育は,第一適当なる環象の中に児童を置 き,第二この『環象の力によりて一定の反応を 喚起せしむる』ことによりて行はれる」。「『環 象を介して間接に教育する』ことは出来るが, 直接の教育なるものは存在しない。間接的0 0 0── これが教育の最も一般的なる様式である」。「故 に形式的教育の問題も此の環象を如何に整理す べきかといひ一点に集中し,学校と称する特殊 な教育機関の有する職能も亦環象と言ふ立場か ら決定」される(「環象」の「単純化」,その「適 当なる」「選択」,その「各要素の均衡」の保持)。 「二 教育の目的」において,「知る」という ことの性質の説明にもとづいて,「教育の目的 は発展其の者」「即ち再構成の絶えざる過程で ある」ことが述べられる。「凡て事物の意味は 其の効用によって定まる」。「或る事物が一定8 8の 意味を有するに至るは,是れ畢竟多くの人が同 一事物に同様の意味を附加したこと,換言する ば多くの人に同一の効果を齎らしたから起る」。 「『知即働』の立場から見ると精神作用とは『事 物の将来する効果に基づいて事物を理解する働 き』,精神は『他の人々が事物を使用せると同 一の様式によってこれを使用し,其の結果得 来った諸々の習慣の一体系である』」。ところ で,「教育の一般的様式は環象を介して児童の 活動を指導するにある」から,「指導」とは,「環 象に対し,已に他の人々が働きつゝある如く, 児童を働かしめ,他の人々と同一の結果を得し め,『共通の理解』に導くことによりて成る」, 「約すれば『為すことによりて学ばしむる』に ある」。児童は「己が立つ境遇に於て他と同一 の行動を営むことによりて環象に順応し,斯く て得たる習慣は更に発展して」「新しき活動を 起し,児童の経験界は次第に連続的に生長発達 し,前の経験は此の新しき活動によって再構成 を施さ」れる。それ故,「教育の目的は」「発展 其の者である」。「発展は,後に来る,より大な る発展に対して見れば手段であるが」,以前の 「発展に対しては其の目的である。発展は斯く

(14)

目的と手段との関係を以て連続こそすれ,発展 の外に,此の発展の彼岸に立ちて,発展の最後 の目標となる如き目的は之を立するの道はな く,又其の必要もない」,と。 「三 教育の目的(続)」では,「教育の目的」 についての「古来の教育家」の諸説(生活準備 説,開発説,能力錬磨説,形成説)が一瞥され る。そして,「教育の目的」としての「発展其 の者」・「再構成の絶えざる過程」は,「第一に 経験の意味を加へ,第二に次いで来る経験を指 導する働きを増加する作用を指すので,再構成 の絶えず行はるゝ所に絶えざる発展があり,発 展のある所に教育は絶えず直接の目的を見出す ことが出来る」,ということを意味する。言い 換えると,教育の目的は「実験的 experimental 流動的 fl exible の性質を有する」。そしてこの 教育の目的が「行動によって一度実現せられ, 経験の再構成が一段落を告ぐるとき,更に新た なる目的が試験的の形を以て現れ,先の目的は 此の新しき目的の手段となり追って斯の如く無 限に進行する」。それ故,「教育の目的は,之を 時間的に見るも絶えず改造せらるゝ必要があ り,之を個人的に見るも児童の境遇に応じて 一々異なるべき」である。「凡ての児童の凡て の境遇に応ずる教育一般0 0 0 0の最後の目的なるもの は之を求むるに由ない。教育の目的は全然個別 的に設定すべきである」。 「四 位地と教材」では,デューイ思想に特 有な「位地」(situation)概念との関連におい て「教材」についての説明がなされる。「児童 を離れて環象なく,環象を離れて児童なく」, 「児童──其の有する知識・感情行動の一全体 としての児童と,物理的社会的環象とは渾然相 合して,一と位地 situation を形成する」,「あ るものは唯位地のみである。『位地其の者は明 らかに客観的である,種々の部分を備えた一全 体として其処に現存する』」。この「位地」とい う「一元的の立場」に立てば,「一方には出来 上がった教材があり,他方には之を受け入れる 児童があり,教育を以てこの児童と教材との橋 渡しをする者であると見る二元論的見解」は次 のように改められなければならない。即ち,「教 材とは,『知見に導かれた活動』の中に入りこ む一切の材料で,精神とは『知見に導かれた活 動のコース』に名づけたものである。斯くて位 地の再構成とともに教材は一歩一歩に完成し, 同時に精神作用も次第に発展し来るので,教材 も精神も共に流動的連続的に進行する」。「始め から出来上がってゐる教材を,夫れ自身一定の 能力を具へた精神に供給するのではなくて,位 地の再構成といふ動かすことの出来ない基礎の 上に,『活動』といふ唯一の機関を通して,教 材も精神も並行的に進み,徐々に完成するので ある」,と。 「五 経験と思考」においては,「経験」の特 性と「思考」との関係が論じられ,児童におけ る「思考の良習慣」育成上の留意点が説明され る。「経験」の特性は「発動的なると同時に受 動的」なる点にある。言い換えると,「経験は 為すことゝ之より起る結果との結合より成り, 此の結合の認知 dicernment は即ち経験の内に 含まるゝ思考作用である」。「思考作用とは『吾 人が働きかける或物と之より起り来る結果との 間に存する特殊の関係を認め,働きと結果とを 連続せしむる』作用である」。上述のように, 「地 マ 位 マ は常に不安定に,不確実に動きつつある ものである」が,「思考作用は何時でも此の動 きつつある地 マ 位 マ 即ち地 マ 位 マ の動揺に基づいて起 る。そして地マ位マを再構成し得たとき,即ち為す ことの結果が完全に連続したとき思考作用は完 成する」。言い換えると,「思考作用は問題の提 出(地 マ 位 マ の動揺)に始まり問題の解決(再構成) に了るのである。而して謂ふ所問題の提出も其 の解決も当面の地マ位マを基本となし,為すことに より又為すことよりして得たる結果からして決 定せねばならぬは勿論である」。それ故,児童 に「思考の良習慣」を獲得させるには,次の四 つのことに留意する必要がある。「児童の位地 について,そが如何なる問題を含むか,児童よ り見て問題となるべきは如何なる点であるかを

(15)

考へ,位地より自然に流れ出るやうな問題を捉 へ,これによって児童の思考作用を促さねばな らぬ」こと,換言すれば「児童の有する習慣と 関係を有しながら,しかも或新しき何者かを含 む如き位地に児童を置く」こと。「此の新しき 或物は,困難なる内容を有しながら,従来の経 験からして,自ら其の解決を暗示し得るやうな もので,其の中に親しい光った或部分を具えて ゐ」ること。この「暗示は,経験に於て与へら れたるものを一歩超越して,其の先にある結果 を想見し,知られたる部分から知られない領域 即ち次いで来る位地に切りこんで働くものでな ければならぬ」こと。そして「凡て思考は思考 其の物としては不完全なもの,之を実際の事実 について検証することにより始めて確実性を得 るものであるから,上の暗示も亦児童自ら之を 検証し自ら其の確実性を決定しうるやうに導か ねばならぬこと」,である。 「六 教授」については,「位地といふ一元的 の立場」から,「教材」を「論理的教材」と「心 理的教材」とに区別することによって説明がな される。「論理的の教材とは世人が普通に教材 と称してゐるもので,地理科とか歴史科とか数 学とかいふ如く,知識の一定量を一定の論理的 秩序によって配列したものであり」,「心理的教 材とは」(「四」に述べたように)「位地の改造 から歴史的に発展する側より教材を見たもので ある」。言い換えると,「教師の有する教材は論 理的教材で,児童の夫れは心理的である」。こ の区別に留意し,「位地」の立場から「教授の 方法」を見るならば,「教授の方法」の要点は 「『[教師の有する]論理的教材の方向に[児童 の有する]心理的教材を発展せしむる』」こと (「教師の已に有するものに児童の経験を動かし 行くこと」),つまり「教材を心理化8 8 8するにあ る」。 「七 教材の種類」においては,「児童」の側 から見た「教材」の時間的発展が三段(「遊戯 及び作業」,「歴史・地理等伝達 information に よる知識」,「科学」)にわたって説明される。 所謂「教科」が教育上有する価値は,「如何に 能く社会生活上必要な道具 instrument を供給 するか」という点に照らして決定される。「知 識は凡て道具である。『知識の為の知識』とい ふものはありえない。従って教科其の者に内在 する価値はない。あるものは方便としての価値 のみである。」「教科」は児童の「経験」におい て「作用」し,発展するものとして捉えられね ばならない。「児童の側より見れば教材は位地 の発展する過程で,最も漠然たる big blooming buzzing confusion たる位地から成人の位地に 進む迄の間に於て,児童の活動の内に入りこむ ものは凡て教材である。」この「教材」の時間 的発展は,大凡上記三段に分けられる。「児童 の有する本能的傾向は先づ作業に現れる。作業 は更に遊戯と仕事 work とに分かれる」が,こ れ ら は「 社 会 に 行 は れ る 仕 事 の 形 成 を 再 現 reproduce せるものである」。「作業」は「『知 的方面と実行的方面との正しい権衡を保持し 「夫れ自身目的たると共に又社会生活に必要な る力を与へる。』作業に於て児童は絶えず実験 し,創作し,検証して位地の機能的発展を企て る」。次に,「直接の作業によりて得た力は他人 の経験即ち他より伝へられた者を類化する中心 点で,此の他より伝へられたる知識は地理と歴 史である」。「地理科の職分は,社会的生活の中 『人と自然との交互作用に関する方面を取扱ふ』 ものである」から,「山や河や湖水や平原は単 に自然として学ぶのでなく,社会的活動の中介 者として之を学ぶのである」。また,「歴史は現 在の社会生活を理解せしむるを以て其の職能と なすもので,之を単に歴史として,過去の記録 として授くるは,死んだ教授である」。「教育的 見 地 か ら 見 れ ば 歴 史 は『 一 つ の 間 接 社 会 学 indirect sociology である。』」最後に,「凡て科 学は社会的行動の道具である」。「数学は銀行・ 会社・保険といふ如き社会的事象の中に取り入 れられて始めて其の価値を実現する」,「自然科 学が社会進歩の機関であること」は言うまでも ない。「科学」は「教育上より見れば『人間行

(16)

動の条件に関する知識』」にほかならない。(以 上,『哲学研究』第貳巻第十二冊/第二十一号, 1917年12月1日,以下,同誌第参巻第壱冊/第 二十二号,1918年1月1日) 「八 学校の社会化」において,「学校」は, 「一の社会的機関」として,「社会生活の凡ての 様式を含み,社会生活の精神に浸透せられた一 種の embryonic な typical な社会であらねばな らぬ」。このことは,「現時の社会」の次の二つ の特徴から要請される。第一は「其の工業的な ること」──「応用科学」の所産として──で ある。社会が「工業的」になる以前は「工業が 家庭組織で」「凡て家庭の各員によりて行はれ てゐた。そして是が頭と手との上もなき自然の 教育となってゐた。しかるに現時の大規模の工 業は此の特権を家庭より奪い去って,しかも之 に代り得べき何物をも与えない。」それ故,「我 等は先づ学校の組織を根本的に改造し,『作業』 を以て其の中心となし,学校をば広い意味の laboratory となし,『教授の秩序ある連続せる 流れ』はすべて此の中心より流れ出づる事とせ ねばならぬ」。そして「現時の社会」の特徴の 第二は,「其民本的なる点」にある。「民本的 democratic の 社 会 と は Government of the people, for the people, by the people であって (Schools of To-morrow p. 303)凡ての人が同 様の運命を有することを予想し,凡て同一の権 利と義務とを有し,凡てに『機会の均等を要求』 す る 社 会 で あ る 」 が, そ の「 何 れ の 社 会 も 『(一),其の各員が共同の利害を有し(二),各 員が相互に共働すること』を以て其標識とす る。而て此の二者の最も普遍的に徹底的に行は るゝは民本主義の社会である。故に民本主義の 社会は最も理想的の社会である。学校の模式と して取るべき社会が民本的なるべきは是より直 ちに推定せられる」。「民本主義の教育は貴族の 作った知識を受動的に収得せしむる服従の教育 でなく,各人に夫れ夫れ独立と創意とを要求す る教育である」。具体的に言うならば,「手工を 中心とした学校は従来の組織を一変し木工・金 工・紡績・割烹等の実習場,理科実験室・音楽 室・工芸室・博物館・図書館等を備へ,全く新 しい動機,新しい精神を以て新しい空気の中に 児童を活動せしむる。児童は…[略]…夫れ夫 れ個別的の作業に従事し,実験と探求とは其の 全課業である」。「斯く作業は児童の生活──統 一的生活であり,而して此の統一的生活から諸 般の教科が岐れ出るのであるから,児童の発表 的構成的活動は自然に諸教科統合の中心とな り」「教科の統合法如何は最早問題にならない。 寧ろ此の統一から諸教科が如何に分岐し行く かゞ問題となるのみである」。尚,「斯かる学校 教育と道徳教育との関係」について付言するな らば,「道徳教育の基礎は学校を社会化する事 の上にのみ築かれる」。なぜならば,「社会を離 れて道徳は成立しない」からであり,「道徳最 終の動機は」「社会的興味の為に働く社会的知 見(社会的境遇を見渡す力)と社会的能力(練 られた統制力)とにある」からである。そして 児童に「此の社会的興味と社会的知見と社会的0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 能力0 0とを得しむる道は(一)学校を社会的組織 となし(二)為すことによりて学ばしめ(三) 教材を社会的見地より選択配列するの三点に帰 する」からである。 「九」では,「実用主義」における「ヂューイ 一派即ちシカゴ派」の主張が略説され,篠原自 身の「意見」が述べられる。デューイ「氏の思 想は其の哲学上の立脚地たる実 プ ラ グ マ チ ズ ム 用主義より来た もので,実用主義の精神は議論の全部に透徹し てゐる」からである。「ヂューイの実用主義の 中枢をなすものは『位地 Situation の再構成』 といふ概念である。彼に取っては位地は唯一の 実在で,個人は其の一要素である」。この概念 に依拠して「論理的行動の過程を考ふるに,先 づ其の始点たる問題は位地の各要素の衝突から 起り,次ぎに問題解決の手段として最も必要な る条件を配列し,之に基づいて解決に対する一 種の想定をなし,最後に此の想定を事実に訴へ て検証し,想定の当れるとき,満足と調和を感 得し,再構成の成れるを悟るのである。斯く問

参照

関連したドキュメント

グローバル化をキーワードに,これまでの叙述のス

専攻の枠を越えて自由な教育と研究を行える よう,教官は自然科学研究科棟に居住して学

青少年にとっての当たり前や常識が大人,特に教育的立場にある保護者や 学校の

大学教員養成プログラム(PFFP)に関する動向として、名古屋大学では、高等教育研究センターの

工学部の川西琢也助教授が「米 国におけるファカルティディベ ロップメントと遠隔地 学習の実 態」について,また医学系研究科

 

「職業指導(キャリアガイダンス)」を適切に大学の教育活動に位置づける

一貫教育ならではの ビッグブラ ザーシステム 。大学生が学生 コーチとして高等部や中学部の