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小林歌城のテニヲハ説

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Academic year: 2022

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

小林歌城のテニヲハ説

笹月, 淸美

https://doi.org/10.15017/2556566

出版情報:文學研究. 31, pp.33-47, 1942-06-30. The Kyushu Literary Society バージョン:

権利関係:

(2)

ID

橘守部が朱で自説を書入れた詞の玉緒︵財剛法人斯迩文庫職︺には叉別に藍︵一部分は墨︶の書入がある句この藍の

書入には次ぎのやうな一節があって︐それが文化七年十一月甑の藤原元雄の説であることを示してゐる︒

︑︑︑︑ソモソモコノ書ハウヒマナビノ人一一ヲ︑ンヘントテカケルモノナルヲ︑力︑ルヒガコトやモオホクアルハノリナガ

fツタナキハオキテ︑人ニマデアャマチヲッタフル事イトイトッミフヵキワザゾ︒スベテテニヲハノコトハオノ

ヅヵラマナピエテコゾナスベケレ︑カクカキアラハシテサトサントセンニハ中凌一ミードヒヲソフルハシニテ︑ナ

キニハオトレル書Jイブ寺へ︑ン︒クレグレモカタハライタキワザナリカシ

#文化といふとしの七とせしも〃やうかの夜しるす藤脈元雄Q︿之潅二八ゥ︺

けれどもこの藍の書入は守部の子牟照の養嗣子道守黍遇奉Ⅱ川咋塗壼︶の筆といはれてゐて︑文化七年の藤原元雄

の自筆でないことはいはすもがな︑守部念噸一荷麩滝塾段後よほど後のものとしなければならぬ︒事警豊

本となってゐる詞の玉緒は文政十二年の板木であるし︑また藍の番入はその配世からいっても確かに朱の書入の後で

小林脈城のテニヲハ説一三二g一七三七︶ 小林歌城のテニラハ説

笹月清一美

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(3)

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そもj︑膝哩兀雄とは誰であるか︒私はこれを小林歌城露挫一痙川川迄罐一毒であらうと老へる︒書入の中にはそ

れを證するやうなことは少しも記してないが︑周知のやうに小林歌城は通孵田兵衞で名は元雄︑退隙剃髪後歌城と鞘

した︒測先は小林田兵衞藤原元次である︒彼が藤腺元雄と鍔名することは自然のことといってよい︒殊に歌城は十九

歳で村田春海の門に入ってをり︑詞の八術が出来た時︵文化五年刊︺著者から一本を送られた春海はこれを歌城に與へ

て研究せしめたので歌城は語格に精通するにいたったといはれてゐる︒旨家説林所諺後天保二年に著された小説家 ある︒︵川之巷十一ゥ十二ォその他︶

守部が朱の害入をしたのは何時なのか明白にはわからないが︑七之巻の同顕に

天保の六とせ秋のころ近隣の人交にそAのかされてテ一ヲ︿を誰じける郡あり︒その中にきのふけふのにひ學ぴ

もまじれ上ば︑いとかりに詞の玉のをに書入してえさせし事あり︒いつはあれどいそぐ事多かる比にて心もとめ

ずあらノーにものしぬ・叉をりもあらばとてしどけなくてせめをのがる上ばかりになん︒

とあるから︑いづれ天保六年秋以後それにあまり速くない頃のことであらう︒その害入の上に更に逝守が元雄の説

︵恐ら4はそれも別の玉緒に書入れられてゐたもの︶を移し入れたといふととになるのである︒

このことから直ちに守部は元雄の説を見なかったのだといってしまってよいであらうか︒文化七年の元雄の害入本

であってみれば︑守部がそれを見るといふこともあり得ないことではない︒そしてもし守部が見てゐるとすれば︑わ

れわれは元雄と守部との間に一つの學読史を認めてもよいことになる︒はたして見たか見なかったか︑たれを決する

餐料をもたないわれ︐I︑としては︑もはやこの二つの書入を哩接比較してみる外はない︒

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研究第三十一脚

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主人のしりうごとにも︑本居宣長海野幸典子を詰るといふ項に

尾林元雄ぬしも︒てにをはの家風を張り︒足下も初は服從せられたるやうすなりしが︒右の天語通に眩まされ

て︒その子を足下の門人とし︒秘奥を聞き得たるのちに︒元雄ぬし自己の説なりと主張せられしは︒はなはだ以

て卑劣なり︒云麦︽︵しりうごと百家説林正上一三三ハ頁︶

と記されてゐて0歌城が歌城家集︵薙氷一雍板︺といふ集をなすやうな歌人であるばかりでなく︑一雪一ヲハ語格に迦一

じた人であることは著名な事澄であった︒妙玄寺義門の活語雑話二細︵天保十年戒︶には︑

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文政六年初テ江戸二出シ即一一既ク京ニテ識レルナレ・︿清水演臣ヲ訪上︑サテソガ月次苛含二交リヶルニ︑集へルヲr此彼ガ語格ノコトヲ誌リアヒッ︑︑ソハ歌城主ニカタラハやヤトサ︑メクヲ剛テ︑ソレハト問ヒョリシニ︑小林

田兵術殴トテ番町ニトイヒ︑歌ヨクョミてにをはコト一ヨクシ玉フ君也ト教フ云交︵活語雑話二糊一両ご

とあって︑歌城の説が州げられてゐる︒このやうに見てくると守部害入の刺の玉緒にある藤腺元雄は︑この元雄すな

はち小林歌城であることにもはや疑ふ餘地はないであらう︒書入に見える文化七年は歌城三十三歳の年に常る︒

このやうにして藤原元雄が小林歌城であるとするならば︑この筈入本は歌城のテニヲハ説を見るに屈党の餐料とい

はいばならぬ︒しかしこのほかになほ刊行せられた二一の費料がなくはない︒上田秋成の澗癖談に加へた標註及び桂

閏一枝蛉迩評海それである︒前渚は温知叢書節四巻に牧められてをり︑﹁此文荷足照唯せ歩文脈不辿且てにをは語格

のあやまり數盈なると云糞﹂といふ文政五年の歌城の蛾がある︒後者は桂別投書第一集に牧められてなり︑.首の

しらべに恥意を川ひす︑つ贋けがら雅裕混乱して︑歌のさま逓失ひ︑てにをは訊格左さへ談れる︑あまた見ゆ云友﹂

小林敬城のテニヲハ説・皇三五g一七三九︺

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﹁制八術ト玉緒トハ成章ガかさしあゆひヨリャ出ケントハオポシキモノ︑詞ノ今タラキ一ツキテハモハ|フ此筋ノオヤ

淵トタ︑ヘモシッペキヲ云共﹂と語ったとある︒これによっても明かなやうに︲︑歌城は必ずしも富士谷の立場に立っ

てゐるのではない︒春海の命で詞の八街を研究したことは前に記したが︑書入の中に八街を引用してその説に礎同し

てゐる場合もある︒︹六ノ土一5︶なほ引川課としては友人寂阿の著といふ詞の玉のをたえ︵セノ三ゥ︶及びコト録ハノ

純毛ノー五ゥ︶の二苔があり︑何れもその説に從ってゐる︒寂阿が誰であるか︑この二害がどんなものであるか︑

まだつまびらかにしない︒ さて苦入によると歌城は富士谷成章の著逓見てゐてそれを引用してゐる︒たとへば

かさし一洲割引刻刻︲判一サウナリトモトウナリトモトノャウニモ︵五ノ六ォ︶

これは挿頭抄の一間矧一の條に出てゐるところであるし︑又

耐︑門閥悶一あゆひナニシニマア︵セノ四ォ︺

これも挿顕抄で︑脚結抄といふのはこの場合誤りであるが︑もちろん脚結抄も見たに逹ひない︒活語雑話によると

文學研究節三十一脚三六︹三七阿○︶

といふ蕊・丞ハ年十二月十四日の歌城の戯がある︒因みにこの桂關一枝拾遼評には更にそれを評した桂園一枝拾迩再評

といふのがある︒︵桂園推香雄二柴所收︺その著者仲田瓢忠は歌城の友人海野幸典︵前掲しり弓ごと所見︺の門人である︒

以下守部本詞の玉緒に書入れられたものを中心に右の登料をも加へて歌城の−て一ヲハ説を説ふことにしたい︒︐

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城の書入の中で目立って多いのは例歌の塘袖もしくは宣長のあげた例歌の矛盾亜出の指摘である︒たとへば

元雄云此歌︹千載︑をちかへりの歌︺同巻二十九一刺州一の部へいたせりしかるを今叉と氏にいたして難しいへるは

いか堂このうたのことはおのれ前にいへりと上にあけたる和泉式部が歌呈葉︑つれ人\との歌︶は伺巻三十八オ

ー封をはぶける格に入へしさるをこ上にいたしてわるしといふはいか上またぐ前のと同し梢也︵四ノ四七ウ︺

の如き︑或は玉緒が後拾逝集の歌﹁おなじくぞ雪つもるらんとおもへども対ふる里はまづぞとはるL﹂を一方では

﹁ぞの結び群をおきながら猶下へつ凶きたる歌﹂9−ノ十二ゥ︶の例にあげ︑他方﹁定まれる格にて切肌たる詔をつ蝉

くると﹂最ノ十一ゥ︶に再出してゐるのを指摘したのなど︑これらは歌城が相岱に寅證的な研究を試みた誰鰈といっ

てよいであらう︒歌城が歌丈に通じてゐたことは義凹の問ひに容へて語に用例を列畢したといふ活語雑話の話によっ

ても知られる︒それはそれとしていま彼の説のうち岱ってゐない部類に脇するものを少し見てみると︑

すべてジズデなどはきれもつぜきもする詞なるを︑きる上かたにのみいへるはいか蝉︑たとへぱあへすちりぬる

小林歌城のテニヲハ説三七︵三七四己

宣長に對しては常に批評的な立場をとってゐる︒しかも初に引用した文中にも見えてゐるやうに相常辛辣で︑

宣長か歌のみやうのつたなきこれにておもひはかるへしローノ十八ォ︶

宣長には此歌の意を心えぬにや︵一ラ十九ゥ︶/

いにしへよりおのつからさたまりきたれるを何事もみたりにわるしといふは此作者の心くせなれとこ§ろあらん

人はいかてよしとおもふへき︵四ノ三四ォ︶

といった調子である︒しかしその批評なり説なりは當ってゐるものもあるが︑また當ってゐないものもある︒まづ歌

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丈學研究擁三十一脚三八︵三七四二︺

あらじわが身あらでうき世になどいへばつ凹けるものをや︵一ノ十九ゥ︺

と宜長を難じてゐる例があるが︑宣長は切るLかたにのみいってゐるのではなく︑こ上では切るLかたすなはち文の

維結のみを問越としてゐるのである︒

.俺︲憧の證にわかやとの云盈の歌をあけたるはいかにぞや−でる一といへるは俗言也もみ一同同回といふべき絡也此作看

か上る事は殊にむつかしくいひなしながらこの郡のわいためなきはつたなし︵一ノー五3

とれはモミヅの四段活用形と知らない論で︑同じところにある守部の普入の方が正しい︒一慨︑活用についてはあま

り明瞭な認識をもつてゐなかったらしく︑この諜入よりはるか後の桂醐一枝総世評にも

ふきなびけたる不成語なり︑本居がやちまたに︑加行四段活に入れたるにて︑なびかん︑なびき︑なびく︑なびけ

と活くなり︑若なぴけたるとも云は堂云はると云は凹︑なげくをなげkたる︑なへぐをなへげたるとも云ふくけ

れどさる事はあるべからず︑此作者てにをは語格にうときこと︑これにのみ限らず︑あまた見ゆ屋刷罐諜錐一

集十頁︶

Lか逹へり︵桂園叢書第二集八○頁︶

と評したのは︑これも不徹底ながら自他の別を認識したものとはいへよう︒同じ評で歌城が景樹の﹁ゐてはたちたち といった例がある︒これはいふまでもなくなびけたるのなびけが他動詞下二段であることを理解しなかった識で︑田顯忠が再評に

なげくなへぐは我上にてしか云はざるは理なり︑なびくは物の上にもみていはる曳語なればおなじ活にてもいさ

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てはゐてふ草の上に羽もやすめぬ秋のかげらふ﹂を評して︑

ゐてふ︑草の上にはかくてよろしけれど︑・乙型は二方にかけて一室ふなれぱ︑居の方にてはいか■︑

たにては︑一段話なれば︑ゐてぶとも云はるべけれど︑さる詞づかひたえて見及ばず︵一二一頁︶

といった﹁ゐてふとも云はるぺけれど﹂は誤解であるといはねばならぬ︒叉︑衿入の方で︑

よそにのみ云糞歌を此菩六のまきにカナの意にかよふケンとてあげたり︑そを又乙人に常のケンにあげたるはい

か唖︵一ノ四二ゥ︺︒

といふ︒すなはち例歌の重川を指摘したのであるが︑これはしかし立長が六之巻ではテニヲハの意義を説き︑一之巻

では専らその文法的性質を説いてゐるといふ事蛮筵理解しない縦といふべきであらう︒

コノ一條イト糞糞心得ガタシ此図ハイヅレノ言ニテモウクル也・:・・::|訓升一ニノミァリトオモヘルハィヵ︑︵六ノ

ー五ウ︺

これも當ってゐない︒宣長はカナにのみありとはいはない︒こ上ではズとカナとの接綾及びその意義を説いてゐるだ

けなのである︒.

歌城の説の中で特筆す雲へきものは︑宜長が紐鏡の中の行にゾノャ何と猫げたか巡圦のテニヲハからノを取り除いた

ことであらう︒これについては夙く一之巻の神入に

小林歌城のテニヲハ説三九g一七四一己

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個居はやちま

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といってゐる︒宣長はゾとノとを同じか上りとしその結びはっ■く詞すなはち迩慨形であるとしたが︑ノについては

いろ︑11の制限を設けざるを得なかった︒ノはソよりも輕いとしたのなどその一つである︒この場合もゾでは重いの

でノに替へようとしたのであらうが︑ゞソノヤ何とたてる以上文法的にはノも韓ソも同じ機能でなければならず︑ノなら

と比のふが︑ゾではと上のはいとはいひ得ないであらう︒そごを歌城が問迦にしたのであるo一一乏巻のノの部では繰

返しゾノヤ何からノを除きソヤ何とすべきであるとした︒理曲はノの結びが切るL詞であることであって

此害にノをゾャなどの中に入たるはいと心得ぬわざ也︒そをいかにといふに︑先秋やくる秋ぞくるなどいへば上

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のゾヤにひかれて句のきる奥を︑秋のくるといへば常の詞のさまして下へつ■く也・此事をもてひが事蔵るをし

るべし︒さてかくいは営一の雀一燕證歌ノの下にあげたる歌どもをいか■とおもふ人もあるくけれど︑そは本書

にいはゆる愛格とおなじくて︑またぐむすびのテニヲハをおそぶるノ文字にあらず︵三ノニーウ︺

といふ︒すなはち上にゾヤがあれば綾く詞︵連鵠形︶も文を終結せしめるが︑ノでは下に綾いてしまふ︒それで絡結

文學研究錐三十一卿四○︵三七四四︺

同ぼこのならびにあらざる聖一フ巻廿一ウの部にいふ︵一ノ土ハオ︶

といってゐるが︑二之巻にも綾古今集のRかさまに腰てあかせとてまつ人の来ぬだにあるを秋風ぞ吹く﹂に附して︑

秋風ぞ吹といひてと上のはざるといへ・るはさる事なから︑これを回ふくとあらためんには此回ひもか堂み−囿回

●用一の回もじの意と同じくて宣長がたてたる例にたがへるをいかにせん︑これにてもぞのや何の部の一回一はあやま

りなるをしるべし︑宣長がいふごとくひもか瞳みの例にょらぱ︑此歌秋風の吹くといひても阿一ふくといひても同

じ格なるべきを︑ぞとのとことのたがへるをおもふくしgノ十八ウ︶︑

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したやうになってゐるのは鍵格とするのである︒また玉緒が﹁むすぶ手に影みだれゆく山の井のあかでも月のかたぶ

きにけり﹂について﹁これも定まれる格のごとくけると結びては中糞にわるき故に格をはづれてけりと紬くり﹂と註

し︑それを歌のいきほひによるものと説明したのに對し︑歌城は

いづれにても画は一劃一と同じ中のくだりにをさめたるはあやまりなるをおもふ.へし︒|ゆ一といひけりとは一首の趣

によりてむすぶとも一劃といひてけりとむすばんことかなふべきものともおもはれず︒とにかくに中の段に一回を

入たるはあやまりにてゾヤ何といふべき他gノー三ゥ︺

と評した︒・これはたしかに玉緒の弱鮎を衝いたものといってよい︒

このノについての説では歌城と守部とは非常に近い︒齊入の中で守部はノの意義を説いて和︒寛の意であるとし︑

︑︑ ナ

叉天のなどのノは指す物の下につけていふノで汝の愛化であるといふ︒助僻本義一随︵天保六年成︑同九年刊︶を見ると

ヅナグ

歌城と同様な説を偶げ叉ノを二極に分けて迎接方と物に親しみ附く方との二つにする︒前者は連冊修飾語を作るノで

あり後者は主格のノを指す︒そしてノは紬ぴに關らねとし︑その理山として︑一︑カナ︒シ︑・ケリなどで結ぶこと︑

二︑ゾャ何と亜ねて用ゐること逓畢げて︑

守部はじめにかく心付ケリしは大方のてにをは何れもそれ︐11の川ありて世〃事上のをちノ︲︑にいへるやうに

囮は物を取分ち囚は物を相零一劃一は物を指ン定め田胸底事を疑ひ向田一は物を撰び川づるが如各一〃づ上の川

を役だて上置クわざなる故に又それノ︑の受僻のけじめもある・へき理りなるを同一は右の如くゆるやかなる昔な

りければ別に受僻あるべきやうあらじ云珪︵粂集十二ノー吾

小林歌城のテニヲハ説四一︵三七四五︶

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といってをり︑守部は﹁此左註のごとく心得ぺし云丘といってゐる︒いかにも歌城の説を守部が反駁したかに見え

︑︑︑︑︑ろ︒また玉緒のいきほひある一刺一といふ條目に對して︑歌城は﹁これを一つのノとしてあげたるはわづらはし﹂といひ

︑︑︑︑︑︑守部は﹁混雑してなか〆︑にわつらはしき也﹂といふのや︑︵一ラ一美ゥ︶れやについて歌城﹁れぱにやの意﹂守部﹁れ

ぱにやの意也云糞﹂とあるのや︑︵四ノ十五オ︶宣長がコソハのハは意なくた壇添へたるものとしたのに對して歌城が

︑文曝研究錐三十一脚四二︵三七川六︶

といってゐる︒こ上には守部の立場がいるノ︑出てゐるが︑それについては別の機禽に述べることにしよう︒とにか

くノをゾノャ何の中から除く鮎では︑彼は全く歌城の論と同じなのである︒一冊ノをゾノャ何から除くべしとするの

は鈴木飯胤の詞のちかみちや萩腺庇遊のてにをは係僻辨などであるが︑前考は弘化二年︑後者は嘉丞一年の刊行であ

るから守部の方が遥かに早い︒そのことは助瀞本義一斑の特色として一般に認められてゐるところである︒もっとも

林圀雄に詞の綾緒受政九年成︺といふ箸があって︑ハモ徒のノとゾャ何のノと輕亜二極のノがあるとしてゐるが︑上

に見て來たやうに小林歌城の方がそれよりも史に早い︒ノをゾノヤ何から除いた功は遂に歌城に蹄せらるぺきものの

やうである︒しからぱ守部は歌城の説を見てはじめてこの事蛮に氣づいたのであらうか︒

守部の説と歌城の説との間にはこれ以外に非常によく似たものがある︒玉緒の﹁んの意の一劉亡に對して

んの意なるにはあらず一剛石下にせんと云意を省る也︵一ラ九ゥ︶︲

と守部が書入れたのは歌城の説と同じである︒また宣長が﹁とてもかくかりの世ならばかりにだになどなき人のかへ

らざるらん﹂の歌のトテモを左註でいやしき制と難じたのに對し︑歌城は

かならずいやしとさだめがたし︒古くとてもかくてもなどいへるも同じ︒こはその意のうつれるなり︒9−ノ土一ォ︶

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歌城の縦についていま少し記してみよう︒

なるといふ詞はたごてにをはのナルとニアリのつ回まりたるナルと二シあり︒そをひとつにまじへあげたるはい

かucノーニゥ︶

といふ︒これは絡止形所脇のナリと連慨形所脇のナリとを指すもののやうである︒この雨者についての識は義門の活

一詔指南にも見えてゐる︒歌城と表門と交渉のあったことは前述のやうに活諦雑話によっても知られるが︑右の説がそ

れと關係するものかどうか︑︐もとより明かではない︒

小林歌城のテニヲハ説四三︵三七四七︺

此コソハノハモジ意ナシトハイヒガタ︑ン︒コソヲ一段シヨクイハントテ|利一トィヘルナリ︒云々全ノニゥ︺

といひ︑守部が﹁はもじにちからあり意なき事はあらす﹂といってゐるのなどもよく似てゐる︒この程度の似通ひな

らばまだ學げることができるのであるが︑︲しかしこれだけでは守部が歌城の説を見てそれに倣ったのだといふ結論は

到底出せない︒それのみか二人の説が並んでゐて然かも全然關聯の兇出せない場合が多いし︑殊に守部が元雄のこと

に一度も言及してゐないことからすれば︑むしろ守部は歌城の縦を見なかったとせざるを得ないやうである︒さうす

れば歌城と守部との間には直接の畢統はなく︑ノの碗も守郁は猫自に考へついたことになる︒

︒ソノヤ何からノを除いた歌城も何を除くことには考へ及ばなかった︒守部また同様である︒それには萩原磁道のて

にをは係辮辨を待たねばならなかった︒係僻辨が何を除きその代りにヵを入れたのである︒

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壬緒一之巻の三縛證歌には第四段にコソの行が翠げてない︒歌城は

︑︑︑・

この所へこそといひてにしかといへる歌をあぐぺきにその事なきはいかにぞや︵一ノ十八ゥ︶

といって︑後拾遺集の﹁たらちねははかなくでこそやみにしかこは何虎とて立ちとまるらむ﹂と繭葉莱の﹁川上のね

じろたかがやあやにあやにさ疲さ繧てこそ言に川にしか﹂の二首をあげてゐる︒これは玉緒を訂し得たものといへよ

う︒玉緒がコソの一z一ヲハと上のはざる歌としてあげた後撰集の﹁あはれてふごとこそつれの口のはにかくるや人を

おもふなるらん﹂は本文が﹁か上れや﹂でなければならないが︑この歌について

︵マも︶の

コハカ︑レトイフ書へキヲルレハナラブテ一ヲハナレ︒ハレヲルト郷ジテャトゥヶテラムトムスベルナリ⁝.:⁝|Z一

ヲハノタガ︑ヘルニハアラズ.︵五ノ十オ︶

丈學研究錐三十一岬阿四︵三七川八︺

歌城はしばノ︑玉緒以外に新項nを立ててその例歌を梁げることを試みてゐる︒たとへば玉緒の切るNぞの所に︑

一膣ととぢむる格及豊哩塔ふくむる一劃一の項︑をたててゐるのなどそれであるが︐︵一ラ十五ゥ︺これは意義による細分で

ある︒また何の催にナニゾ・イカニゾ・イヅクゾ・イヅレゾ・ナニヵ・イヅヵタゾ・イヅヘゾ・イヅチゾ・イッゾ・

タレ︑ソの條目を立て證歌を列畢し︑そのあとに﹁これらの外司ヨといひて司一のそはざるはナドィクのみなり﹂とい

ふ︒これは接縦の研究といってよいであらう︒その他切るAいか画︑︵四ノ凹ニゥ︺えこそ・誹のこそ・ことわるとそ︑

全ノ十九zおもき一劃一︑意亜き一を一畳ノーも意をふくめたる回︒への意の一昨一金ノーニゥ︺一つの︑ンモ・一つのカナ

などがある︒玉緒が既にさうであるやうに︑意義の探求と文法的範鴫の探求との剛者が併存してゐてしかもその間に

判然たる辨別がない︒︑

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といふ︒すなはちコソを受ける刺が結びとならないで下へ綾いてゆく場合と同じに扱ふくきものとするのである︒守

部も同様に老へて書入をしてゐる︒.この二人の老へに從ってよいであらうが︑歌城が語尾のルレをならぶ一ズニヲハと

いってゐるのは︑詞の八街以後の説としては奮式といはざるをえない︒

宜長が﹁ものをといふに近き一画一﹂とした二を歌城は﹁此一回底ノーの意﹂︵五ノー○ゥ︶とした︒これは適切な把握

であるが︑このやうな説明は単に意義を説いたものといふよりも逆絞の接絨助詞といふ文法的性質の把握もその中に

含まれてゐるものと解すべきであらう︒歌城において文法意識佐表現意識とは判然と分れてはゐないが︑たとへぱ亘

長が一つの二としてあげたものを

この同一をいやしとおもへるは歌のっ宮けざまによりてさはきこゅる也呈ノ三ゥ︶

と反駁したのは︑文法便値と表現価値との辨別を志したものと恩はれる︒宜長はいはゆる雅言を表現的に妓も慨値あ

るものとしたので必ずしも文法的に誤りでなくても雅言に速い表現には﹁聞きにくし﹂といふ評を輿へることがしば

しばである︒これに對しては歌城は﹁コヲキ︑ニクシトハイヒガタシ﹂︵五ノ言茅︺といふやうに反對してゐる︒

歌城は過去の刺としてナ一ヌネテッをあげ︑一ケリを﹁過去運﹂テヶリを﹁過去近﹂とした︒ヌとシとの相異を解

かうと試みたものとして興味が深い︒桂閏一枝拾迩評の中で﹁なきくらす岬のなみだやおちぬらん露こそみゆれ杜の

したくさ﹂当いふ歌を評して﹁ぬらん非なり︑つらんと云ぺきなり︑古今物思ふやどの云々の歌考ふ詮し﹂︹二○頁︶

といったのもこの老へに本づくものであらう︒しかしニケリを常に過去と老へたのか︑同じ桂閏一枝拾迩評において

↑﹁瑞垣のひさしきかげにひきうゑて小松ながらもかみさびにけり﹂といふ歌を﹁かくいひては︑今の子の日にはあら

小林舩城のテニヲハ説四五︵三七四九︺︑

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しサテモサテモサムクナッタコトヂヤ﹂トイフ意ナリ外モ此意ニテ兄ルベシ︵七ノー禿ゥ︶

咽といふ︒ネバの下に意がはさまるといふその意を直接ネバそのものに見出すべきではなからうか︒このネバは歌城が

文學研究錐三十一岬四六︵三七五○︶

で︑昔の事を噸にいふととLなりていかご﹂︵一貢︶と評するやうな誤りに陥ってゐる︒又書入に︑

ト・・ハヵリ・ナリ・ベキ・メリ・ラム・ラシ等は同じ格にてタル・ツルなどいふべきをみな〆︒シとのみうけた

り︑しかるをかたはしのみあげたるはことたらずQ︿ノ川ゥ︺

といふのはこれらの助詞が絡止形所脇であることを認識したものであり︑例の畑癖談において︑腺作の﹁身もくづる

上ばかりに﹂とあるのに﹁くづるばかりに﹂と鮎蹴を加へたのはこの適川である︒︵温故鍍韮兼一毛面︶また

コハ見ニノミヵキラズ︑イル・キル・ニル・ヒル・ケル・へ︑ル等ノ言ハミナ古クハルヲハプキテタ守チ一ペキ

・メリ・ラン・ラシ・タリ・トトウヶ︑中頭ヨリハミナ是ニルヲハブカズシテウクル事常ノ事ナレド︑宜長ガナ

ホザリナルヲトガメテコ︑ニクハシクイフ︵七ノニセウ︶

といふのは︑上一段の動詞が終止形の話幹からこれらの一て一ヲハに接綾することをいったものとして注意してよい︒

但し右の説の中蹴ル・綜ルは除くべきであり︑テニヲハの方でもタリはこの中に入らすトはトモの誤りであらう︒最

後にネ雲︿とズバとについて次ぎのやうな説をなしてゐる︒﹃で︿については/

元雄云一制矧囚ヲ副︲計ノ意卜︑ンテ意得ルョシ諸説ミナシヵリ︒サレド外ヨリ意ヲ得テイフトキハカクノ︑コトクナレ

ドモ︑貧ハ此川二意ノハサマルニテ夕で一一ヌニトバヵリ一テハ意タシカナラズ︒コレハタトヘゞ︿﹁秋タチテ云々

﹁秋ガキテ日数モサノミヘネバサホドサムクァラントモオモハレメ一ヶサオキイデ︑ミレ︾︿︑タモトニフク風ガ

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いってゐるやうに確かに次ぎのズ︑︿と聯附させて老へるべきで︑ズバ・ネバではなくもとj︲︑ズハ・ネハ﹃なのではあ︑

るまいか︒ズハについて歌城は

元雄案ルー是ヲ−んよりは一と意得ルコトタャスクテョキヤウナレドモ︑前ノねばト同ジコトニテタや外ヨリ意ヲ

得テイフノミ﹈ニテ蜜ニコノ意一スアラズ︒タトヘゞ︿﹁ヨソ一ヰテ云糞ナレゞ︿﹁ヨソ|信ヰテ懇シ︑アラズゞハソゾ通

︵マb︶︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑

リノコト一テアルベキヲ此ヤウ一趣シ︑クルシウオモウクラヰナラバィッソノコトニ夫ヨリハ君ガイヘノ池ノ鵬

︾︲ニナリトモカタハラニヰタシトイフ意ナリ︒外ノ歌モコレニ同ジ︵セノ三○ゥ︺

︑︑

といって︑ズハとネハ︵もちろん歌城はズ季︿とネバ︶とを關聯せしめ︑︑子︿の場合と同様意味の袖讃と行ふのであ

る︒

以上歌城の説を拾ってみた︒その立場に特殊のものはなく結肋王締に導かれてその補正をしたに止まってゐる︒そ

の中には却って誤りに陥ったものもあるが︑︲またノをゾノャ何から除いたやうな畢碗史上注nに他する碗もある︒か

くて歌城はやはり宣長吸後の一言一ヲハ並びに語格研究盛時における耕名な一存在たるを失はないのである︒

︵昭和十七・五.十三柏︶

小林敬城のテニヲハ説

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四七︵三七五一︺

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参照

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