秋 田大学教育文化学部研究紀要 教育科学部門 58pp.83‑93 2003
戦時体制下 における仙台市教育研究所設置の 意義 に関す る一考察
一 創設の経緯 と初年度の活動内容を中心に 一
富士原 紀絵
AstudyonthemeanlngOffounding theSendaiEducationalResearchInstitute
duringthewaryears
‑ focusingontheprocessofestablishingthelnstitute andthecontentsofthefirstyearactivities‑
KieFUJIWARA
Theaim ofthispaperistoclarifytheprocessofestablishingtheSendaiEducationalResearchin‑
stitute,whichwasavanguardforotherlocalinstitutesforEducationalResearchinJapan,anditsac‑ tivitiesinthefirstyear.
OneofthecharacteristicsoflocalInstitutesforEducationalResearchistoconductbasicandscien‑
tificresearchesthatwouldbecomethebasisineducationalplaningaccordingtoactualconditionsin theregion.
Previousstudieshaverevealed thatLocalInstitutesforEducationalResearch inJapan were foundedundertheeducationalpolicyreform thatplacedahighvalueondecentralizationofauthority aftertheWorldWarm However,theSendaiEducationalResearchlnstitutehadbeencontinuously conductingscientificstudiesinresponsetotheactualconditionofchildrenandtheircommunitiesin Sendai,andgivingpracticaltrainingstoteachersbasedontheresultsofthestudieseveninthepre‑ wartimewhentheeducationalpolicywasseverelycontrolledbythestate.
Moreover,InstitutesforEducationalResearchinpre‑wartimeweregenerallyconsideredastheor一 ganizationswhichcenteredonmedicaldiagnosesandclinicalconsultationforchildren.Ontheother hand,theSendaiEducationalResearchInstitute,whichmodeledafterlnstitutesforEducationalRe‑ searchinEuropeandAmerica,aimedtocollectbasicdatainordertoimproveschooleducationandto devisenew educationalmethodsbasedonthem.Inthissense,theSendaiEducationalResearchInsti‑ tutewasquiteuniqueinpre‑warJapan.
Torealizetheproject,themayor,TokusaburouSHIBUYA andHeiziOIKAWA playedimportant roles;SHIBUYAproposedthefoundationoftheInstituteandOIKAWAwasappointedasthefirstdirec‑ toroftheinstitute.Theybothemphasizedmostthateducationshouldprovidethequalityandacquire‑ mentas"Citizens"withchildreninSendaicity,andputinanefforttoestablisheducationalmethods forthatkindofeducationamongteachers.
AlthoughthefirstyearprojectwasnotnecessarilyacceptedtotheSendaicitycouncilatthebegin‑
ning,theprojectwasdrivenforwardbyastrongbackupfrom themayorSHIBUYA.
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秋田大学教育文化学部研究紀要 教育科学部門 第58集
は じめに
日本 における地方公立教育研究所の創設 は,戦後,教 育行政 の地方分権化を具体化する施策の一環 として始まっ
た とされている1。1948年 に結成 された全国教育研究所 連盟 の 「結成趣意書」 によれば,教育研究所の役割 は地 域 に即 した 「教育計画の樹立」 とその基礎 となる 「科学 的教育研究」 とを行 うことにあった2。
これ は,戦前,地方行政 レベルで国策的意図か ら相対 的に独 自に地域 の実情を客観的に調査研究 し, その結果 に沿 って教育計画を立案す るとい う回路が開かれていな か った こと, さ らに地方教育当局 によって組織 された教 員 の研修活動 の実態が児童や地域 と直結す る内容 とは帝 離 した,終局的 には文部省か ら指示 された内容 の伝達講 習の域をで るもので はなか った ことへの反省 に基づいて いた 30
地方教育研究所の役割が実現す るには,確かに教育 の 地方分権の確立 とその保障が重要 な前提ではある。 とこ ろが,そ うした前提条件が不十分であった戦前 にも,戟 後 の地方教育研究所の機能の一部 を既 に先取 りしていた
とみ ることの出来 る組織が存在 していた。
本稿で採 り上 げる仙台市教育研究所 は,当時の教育政 策 の要請 に多 くの部分で縛 られつつ も,仙台市 の教員の 実態 に応 じた研修機能 を担 いっつ,仙台市の教育 に即す る多面的な科学的調査研究を行い, その成果を直接教育 実践 に反映 させ よ うとす る目的で設置 された,戟前 日本 の市政 レベルの教育研究所の中で極めて独特な機関であっ た4。時局 の急速 な展開 によ って,1936年 の開設 か ら僅 か6年でその幕 を閉 じているものの,戦時体制下,教育 に対す る国家 レベルでの統制が厳 しい条件下で, しか も, これまで戦前 には今 日的な意義を もっ地方教育研究所が 存在 していなか った と理解 されている中で, あ らためて その存在意義が問い直 されねばな らない。
そ こで本稿 は, これまでその存在が殆 ど顧み られるこ との無か った地方公設研究所の一つである仙台市教育研 究所 の,主 に設立 の経緯 と開設初年次の活動を明 らかす
ることを目的 とす る。
なお,創設年以後の活動展開 については稿を改めて解 明す ることとし,本稿 と合わせて戦前 における,その存 在意義 を検討 したい。
一 仙台市教育研究所設置の経緯
仙台市教育研究所は当時の仙台市市島渋谷徳三郎によっ て,当初 「教育主事」 の特設 とい う形で発案 された。管 見の所, その構想が初 めて公にされたのは1936年2月3
日の仙台市市議会一般予算審議時である。そ こで渋谷 は
「教育主事」設置 の意 図 を, 「本年度 二於 キマ シテ‑之 (「教育 ノ内容実質」‑筆者註) ガ積極的改善 ヲ期 スル方
策 卜致 シマシテ 新 タニ教育研究費 ヲ設 ケ教育主事 ヲ専 任 イタシマシテ 専 ラ教員 ノ指導啓発 卜教育実質 ノ向上 二最善 ノ努力 ヲ致 サ ン ト計 画 シテ居 ル」 と説 明 して い る5。 ここで渋谷 の意図す る 「教育 ノ内容 実 質 」 と は
「体育 ノコ トモ亦知育 ノコ トモ 徳育 ノ コ トモ 其 ノ他 コ トモ 小学校教育 こ関 スル」 あ らゆる側面 を指 してお り,当面 は小学校教育 に限定 して 「実際二仙台市 ノ学校 ノ内容 ヲ調査研究」 し,その結果 に基づいて 「適切 ナル 指導 ヲ加へル」 ことを目的 とした ものであると同8日の 議会で補足 している6。
そ もそ も,国 によ って統制 されて い る小学校 段 階 の
「教育 の実質内容」 に対 して,市政 と して積極 的 に踏 み 込んだ施策を採 り, しか も市長 の一存で設置 した‑官吏 にその権限を委ねるとい う発想 自体,特異 な ものであ っ たに違 いない。
渋谷が こうした施策を採 ったのは,彼が仙台市 の発展 を妨 げている課題を, とりわけ教育面 に兄 いだ していた 点 にあ った。
時期 は下 るが,1938年2月16日の市議会の予算検討審 議 に先立 ち,多 田基一議員 が渋谷 の仙 台市政 に対 す る
「全体的総合的指導精神 ソノ 『イデオ ロギ ー』 乃 至抱負 経給政治的理想」 に対す る答弁 を要求 した際の彼 の答え に, その一端を伺 い知 ることがで きる7。 渋谷 は, 仙 台 市の発展を妨 げているのは市民 としての 「素質や教養」
の低 さと分析 し,市政 として 「先 ズ第‑ 二取 り組 ムベキ コ ト」 は小学校段階か ら 「市民 トシテノ素質 ヲ向上改善 スル」 ことであると強調 している。 さ らに 「市民 ノ教養 訓練‑何 ウシテモ児童 カラシナケ レバナ リマセヌ コレ
ニ‑公民的 ノ教養ガ必要 デア リマス‑即 チ単 二国民 トシ テ戦争 二間二台 り丈 デナクシテ 公民 トシテ‑又隣人 ト シテノ務 メヲ果 タスコ トノ教育 ヲ施 サナケ レバナラナイ」
として,「市民」 の意味に一歩踏み込 んだ答弁 を して い る。渋谷 は 「市民」形成 の基盤 となる小学校教育 で最重 視すべ き課題 は,小学校令 に示 されている 「市民 の生活 に必須 な知識技能」を仙台市 に即 して授 けることのみな らず,戦時 に 「国民」 としての責務を果たす人間を形成 す る以前 に, よりよい 「公民」 としての教養を与 え るこ とにあると捉えているのである。
仙台市の児童 は,「国民」である以前 に, 先 ず よ りよ い 「市民」であ らねばな らず,その 「市民」 は 「公民」
としての教養に支え られたものであるべ きとい う渋谷 の 知見 は,仙台市長 に就任 してか ら突如表れた ものではな い。それ以前か ら,長年 に亘 り教育行政 に携わ る中で培 われた ものであると考え られる。
ここで渋谷の経歴 について見てお くと,彼 は1889年 に 宮城県師範学校を卒業 した後,県内のい くっかの尋常小 学校教員や名取郡 ・栗原郡祝学を経て1902年 に千葉県視
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富士原 :戦時体制下における仙台市教育研究所設置の意義 に関する一考察
学 となり,宮城県を後 にしている。05年 には文部省普通 学務局第‑課 (当時の文部大臣は沢柳政太郎) に転 じ, 08年 に学務課長 とな り,18年 には埼玉県女子師範学校長 に転 じた ものの, 1年足 らずでその職を退 き,翌19年 に 東京市教育課長 (後の学務課長) に転出 している。
東京市の教育課長 に着任 してか ら1922年までの問に, 東京市で増大 し続 ける児童数 に対 して採 られていた二部 教授の撤廃 といった課題や,所謂 「学政統一案」の実現 といった教育行政改革 に率先 して取 り組んでいる。その 後,関東大震災の混乱の時期を含めて麹町 ・本郷 ・京橋 区の区長を歴任 し,30年 に仙台市長 に選出され,市長 と
して42年 までの三期12年間を務めている8。
渋谷が1899年以来,長 さにわたって教育行政佃を歩ん でいることか ら,仙台市長 に就任 した際に 「教育市長」
と評 されその方面での手腕の発揮が来 される反面,彼の 学校教育 の充実 に重点を置いた施策 に対 して,様々な誹 譲中傷を加え られたこともあった。例えば1937年2月9
日の市議会の中で も,一般予算の総額245万 円の約二分 の一 の125万 円が教育費 に計上せ られた ことに対 して
「教育偏重 ノ変態予算デアル」 と非難 されている9。
そ うした中傷 にも関わ らず,渋谷が市政 における教育 政策の充実を主張 し続 けたのは,「国民」形成 とい うも のが,地方教育行政主導 による,小学校段階での 「公民」
形成 に得たねばな らないとい う信念 に基づいていたか ら であった。
この点 について明確に述べ られているのが,渋谷が東 京市学務課長時代に著 した 『小学校教育改造論』 (1920 年,右文館)である。彼 は 「今 日小学教育に於いて最 も 弊害 とす るところ」 として次の二点を指摘 している。そ れ らは 「個人々々の発達 に注意せず,個人の特性を重ん
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ぜず,直ちに一足飛 びに国家を教へて居 る」点であり,
「国民 としての教育 と称 しなが ら,市町村 の公民 と して の教育を閑却 して居 る」点であった10。
渋谷が この著書を著 した当時 は大正新教育隆盛の直中 にあ り,「個性尊重」や,「児童の発達に即 した教育」 と い った言説 は何 ら目新 しいものではなか った。 しか し, 彼 の場合,一時期文部官僚まで務め,当時まさに東京市 の教育行政の トップとして業務 に携わっている最中にお●●●●●●●●●●●
いて,児童 に一足飛 びに 「国家のために教育を施す」 と い う誤 った 「国家本位主義」を採用 してきたため,小学 校設置以来,我が国の教育 は 「失敗 したとも見 られぬで もない」結果を もた らしたと指摘 し,ある種の国家の教 育施策 に厳 しい批判を加えている点 にこそ注 目せねばな
らないだろう11。
「国民」形成以前 に 「公民」形成を, また教育の実質 内容 には市町村が踏み込んで然 るべ きとするこれ らの知 見 は,渋谷の仙台市長 としての理念 に, ほぼそのまま引
き継がれていたのである。
これ ら渋谷の長 さに捗 る構想を実現す るために提起 さ れた教育主事の設置については,議会上 さしたる質問 も な く,1936年4月に 「仙台市教育研究所」 という形で学 務課の下部組織 として設置される運 びとなった。
研究所が同年4月20日に設置 されて約2ケ月後の6月 15日,第‑回目の集会時 の 「渋谷市長 の挨拶」 には,
「研究所を設置す るに就いては斯道 の大家先輩 の意見 を 求めたが何れ も賛成せ られ,中には急設を勧める方 もあ った,文部省督学官 も大 に賛意を表 したので ここに市会 の協賛を経て愈々研究所の設立を見 た」 とあ り12, 研究 所所長の人選の経緯について 「文部省の富局 とも篤 と打 合わせ種々人選の上最適任者 として我が国初等教育研究 の権威たる兵庫県明石女子師範学校附属小学校主事及川 平治氏に交渉 した」 と述べていることか ら,その設置に 向けては渋谷の職歴を十分に活か して,文部省に対 して
も周到な準備を して臨んでいたことが伺える13。 及川平治 は日本の新教育実践の リーダー的存在の一人 であり,当時は明石女子師範学校附属小学校主事であっ た。及川 と渋谷の関係 は,渋谷が名取郡視学時代,宮城 県尋常師範学校附属小学校訓導 として勤めていた若干26 才の及川の才能を見込み,当時の師範学校長 に 「懇請」
して茂 ケ崎尋常小学校校長 に抜擢 して以来の旧知の間柄 であった14。渋谷がその才能を十分に認 め, 理論 や実践 を十分理解 した上で迎えた所長及川平治を背後か ら大 き
く支えていたことは想像に難 くない。
仙台市教育研究所 は,渋谷の長年暖めてきた構想実現 への努力,そ して,市長 という立場の権限を利用 した特 別な庇護に支え られてこそ,その業務を行 うことが出来 たと行 って も過言ではないだろう。それは,渋谷が市島 を退いて直ちに教育研究所が廃止 されたという事実か ら も推察できるのである。
二 及川平治の所長就任 と事業計画の立案 1936年5月1日付 『仙台市公報』 (以下,『公報』 と略
す。)には,同年4月20日付けで 「仙 台市教育研究所規 則」の公布 されたことが 「告示覧」 に, さらに 「教育研 究所設置に就て」 という渋谷の談話 も合わせて掲載 され てお り,その創設が市民 に伝え られている15。
所長である及川 は 「仙台市教育研究所規則」公布 日と 同日に 「仙台市教育主事兼視学,仙台市教育研究所所長」
に着任 した16。仙台市教育研究所 は市役所学務課 内 に設 置された。
「仙台市教育研究所規則」の作成 に及川が関与 してい たのかは定かではない。む しろ,渋谷の意図を具体化 し たものであると見 るほうが妥当であろう。その 「規則」
は以下の通 りである17。
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秋田大学教育文化学部研究紀要 教育科学部門 第58集
仙台教育研究所規則
第一条 本研究所 は仙台市教育研究所 と称 し仙台市役所 内に設置す
第二条 本研究所 は仙台市 に於 ける教育の改善進歩を図 り市民資質の向上 に資 し其の福利の増進するを以て目的 とす
第三条 本研究所に於て行ふべ き事業の概 目左の如 し
‑,児童の身体及精神 に関す る事項並社会実情の調査研
究
一,前項の調査 に基ける学校教育及社会教化方案の樹立 一,児童の保護教養に関する指導及び之が知識の普及 一,其の他前条 の目的を達成す るに必須なる事項 第四条 本研究所 に左の職員を置 く
所長一名 研究員若干名 書記若干名
第五条 所長 は市長の指揮監督を承 け所務を掌握す 研究員 は所長 の指揮監督を承 け調査研究其の他の所務 に従事す
書記 は所長の命を承 け事務 に従事す 第六条 本研究所 に顧問を置 くことを得
顧問は所長の諮問に応 じ又 は意見を開陳す
第七条 本研究所 は児童教育 に関 し一般市民の依頼に応 ず
第八条 所長 は毎年三月末迄 に翌年度の事業予定計画を 定め市長の承認を受 くべ し
第九条 所長 は事業功程を三 ケ月毎 に市長 に報告すべ し 第十条 所長 は毎年一回以上事業成績を編纂 し市長 に報 告すべ し
これ らの規則の中,研究所の事業内容の概略を示す第 三条が更 に詳細 にされ,人事 に関す る第四条 ・第六条が 実行 に移 されるのは,及川着任後,第一回目の研究所の 集会が開催 された6月15日である。
7月1日付 『公報』 には 「仙台教育研究所事業概要」
が掲載 されてお り,「【1】仙台市教育研究所設置の理 由 【2】教育研究所 の事 業 内容 【3】研究 所 の方針
【4】第一回の集会‑6月15日」 と して, 所長 による具 体的な事業内容 の提示や職員の任命を中心 として,実際 に研究所が稼働するまでの経緯がまとめ られている18。
【1】では 「新設 の首初の渋谷市長の談話」 として, 5月の 『公報』 に掲載 された内容 よりも詳 しく 「仙台市 が他市 に率先 して教育研究所を設置 した理由」がまとめ られている。 この中で 「関東関西地方には夙に児童研究 所又 は児童院を設 けてあるが此等 は学者の学的興味を満 足す る問題に限 ったり,医師の診察投薬をするために小 児病院の観を呈 したり,学校社会教化に影響することは 極めて少ない憾がある。児童研究所児童院 も必要であろ うが富研究所は欧米教育調査局の如 く科学的研究によっ
て学校教育社会教化の問題を解決 しようとす るものであ る」 と述べ られている19。 このことか ら, 渋谷 が仙 台市 教育研究所の存在意義 として特 に期待 していたのは,第 一 に日本の他府県に既設の児童研究所 とは全 くその機能 を異 にした 「学校社会教化」を重視 した機能を もたせる
こと,第二に欧米の教育研究所 にモデルを採 った 「科学 的研究」 に重点をおいた機関 とすることだ ったと考え ら れる。
第‑点 目について,例えば1937年3月に出された 『仙 台市教育会会報』(以下,『会報』 と略す。) には仙台市 教育研究所 とその機能を異 にする児童研究所が示唆 され てお り,そこには 「京都 には児童院,少年鑑別所があり, 名古屋,神戸には児童研究所がある。最近横浜に も児童 研究所を新設 した」 とあ り20, また 『昭和11年度教育研 究所事業報告』 (以下,『事業報告』 と略す。) に も 「東 戻,京都,大阪,神戸,横浜等の大都市では,児童保護 ・ 児童研究のために多額の費用を投 じ,独立の機関を設け, 大規模の経営を している」 と紹介 されて いる21。 これ ら の中で挙げられている市設児童研究機関の名称 は,それ ぞれ開設年順 に,大阪市立児童相談所 (1919年), 東京 府 (代用)児童研究所 (1921年),神戸市立児童相談所 (1923年),京都市児童院 (1931年),横浜市立児童研究 所 (1931年),名古屋教育研究所 (1932年) を指 してい る22。 これ らの児童研究所 はいずれ も, 医師や帝国大学 所属の教育心理学者達によって運営 されてお り,知能検 査や精神鑑定,身体の発育検査 といった医学 ・心理学的 診断や,それ らの診断に基づ く臨床的な相談業務を専門 としていた。 このことか ら,当時, 日本では一般 に公設 の 「児童研究所」あるいは 「教育研究所」 と銘打 たれた 機関の機能 とは,心理学的な児童研究,そ して精神や身 体に何等かの異常や問題ある特殊な子 どもの弁別 とそれ に対処する専門機関 として認知 されていたことがわかる。
「仙台市教育研究所規則」の第三条や第七条 に見 られ るように,仙台市教育研究所はこうした当時他府県 に存 立 していた児童研究所の機能を廃 しようとしていた訳で はないものの,前節で指摘 した渋谷の当初の意図,ある いは上述の談話か ら,「教育全野に亘 る総合 的教育研究 所で我が国唯一の教育研究所」 として出発 しようとして
いたのである23。
この点 は, 【4】の中で示 されている,及川が所長 に 着任 して 「第‑着手」 として行 った市内小学校の視察の 結果,「市内教職員の熱心真筆な態度 を認 め之 に一段 の 進展を企図」するために選定 したという 「研究問題」の 性格にも一層明確に現れている24。 この 「研究問題」 を 選定 した目的や研究方法については,第‑回 目の集会時
に,及川 自身によって説明がなされている。
「研究問題」 は,「主 トシテ小学教育 こ関 スル問題」
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富士原 :戦時体制下 における仙台市教育研究所設置の意義に関す る一考察
に限定 され, 「(1)社会教 化 二関 スルモ ノ(2)家 庭 教 育 (父兄 ノ児童保護) ニ関 スルモノ」 は省かれている。
「小学教育 二関 スル問題」 は 「学校経営,学級経営二 関 スル問題」 として,「基礎調査」,「教育 内容」,「教育 方法」 の更 に三種の問題群 に分 け られ,それぞれ 「甲, 基礎調査 (1)学級事情及児童 ノ個性調査,(2)家庭 ノ実情 調査 トスケール,(3)郷土 ノ実情調査, 以上 ヲ総合 シテ 個性調査票 ヲ作 ルコ ト,(4)国民生活 二於 ケル政治経済 社会問題 ノ調査」,「乙,教科課程 ノ構成及 ビ教科内容 ノ 改造 コレハ凡 テ基礎調査二基 ク(1)学級事情及児童 ノ個 人差 二通 スル教科課程‑教育細 目, (2)特別課程 ノ構成, (3)冬季体育案,(4)設備 ノ利用 卜各学級 ノ施設,教科課 程構成 トシテ 『低学年 ノ生活大単位案』『教科別単位案』
ニ就 テハ特 二研究 ヲ要 ス, (5)児童 ノ郊外生活指導案」,
「丙,教育方法 ノ問題(1)診断テス トノ作 り方 卜利用,(2) 児童 ノ性能 二応 ジ作業 ヲ配当スル方法, (3)事前 テス ト
ノ作 り方 卜利用法,(4)身体虚弱児, 身体欠陥児 ノ栄養 矯正法, (5)テス トノ結果 ヲ解釈 シテ個別教育 ノ立案及 細 目ノ訂正 二利用 スル法,(6)学級児童 ノ組織法 ‑各種 研究 クラブ,委員 ノ協議法, (7)児童 ノ進歩記録 ヲ作成 スル方法 卜其 ノ利用,(8)児童,家庭, 郷土 ノ実情 二即 シ教授訓練養護 ヲ融合 シタル教案 ノ作 り方」 として示 さ れている25。
及川 はこれ らの 「研究問題」を選 出す るに際 し,「研 究室他 の設備 も必要であるし,其の他の準備 に相当の時 日を要す る」ため,「今回 は社会教 化児童保護 の方面 を 省 き専 ら小学教育 問題」 に焦点 を絞 った と説 明 してい る26。
しか し,設備の不備 とい う問題のみが,研究所の課題 を小学校教育問題 に限定 した積極的な理由ではなか った ことが,及川が10月に明石の友人に宛 てた手紙 (『兵庫 教育』1937年1月号 に掲載) に表れている。彼 はその中 で,「研究所では一般市民 の依頼 に応 じて子弟 の知能検 査を した り,職業指導 の適正測定を した り,不良児の善 導 をす ることにな っていますが,研究所が学務課 にあっ て相談 の場所がないので之 に手 を着 けて居 りません。教 化団体の実情を調査 して教育案を樹立す ることも研究所 の任務であ りますが之 にも手 をっけて居 りません」 と述 べ,設備面での不備を挙 げる一方で,「嘗研究所 は児童 研究所で はあ りません,単 に学者 の学的興味を満足す る 問題を捕 らへた り,小児科病院の観を呈す る児童院など は私 の望む ところで はあ りません。仙台市が他市 に率先 して教育研究所を設置 した理 由はどこまで も教育 の研究 をす るとい うにあるのです」 と述べている部分 にこそ, 及川 の本意が表 されいるので はないだろうか27。
『事業報告』の 「‑,設置の趣 旨」では,研究所設置 の理 由と事業内容 の大綱が 「(‑)学校教育改善 のため
に設置 した ものである」,「(二)児童保護 のため に設 置 した ものである」,「(≡)社会教化事業 を助 けるため に 設置 した ものである」 と掲 げ られ, それぞれ説明が加 え られている28。及川 にとって重要 な機能 は, や は り第‑
点 目に掲 げ られている 「学校教育改善 のため」であ り, それ故 に,「本市教育研究所 は主 と して学校教育 を対象 として調査研究を遂 げ,其 の実施 を企図す るものである か ら,児童保護,社会教化 は極 めて簡易な組織で之 を学 校教育改善 の事業 と併せ行 ひ,以て総合的有機的研究の 機関 としたのである」 と説明 していると見 ることがで き
るのである29。
次 に,研究所の特色 とすべ き第二点 日の欧米 のモデル について,及川 は前掲 『事業報告』「一,設 置 の趣意」
の第‑点 目の解説 の中で,「‑欧米各国で は人 口三, 四 万の小都市で も教育調査局又 は教育研究所を設置 して是 処 に専門家をおいている。教育研究所 は普通 の教科課程 のみな らず,郷土教育,総合科,職業指導等の課程 を作 成 し,学校管理,学校建築,実地教育法を研究実施す る
ところである」 と紹介 してお り,彼 もまた渋谷 と同様に, 欧米 の教育研究所等の組織を念頭 においていた ことが分 か る。
さらに,『会報』の 「仙台市教育研究所 に就 て」 の中 では,「研究所設置の必要」の理 由を 「(1)社会が進歩す れば研究機関の必要を要す る」,「(2)外国 で は教育研究 所を設 けて良績を挙 げている」,「(3)教育研究所 には専 門家を要す る」,「(4)義務教育 の年 限延長 は教育研究所 の活動 を拡充す る」の4点 にわた って説明 してお り, し か も(4)を除いて,みな欧米の教育事情 との関 わ りで論
じられている38。 この論考の筆者 は明 らか に されて いな いものの,及川の他の論文の内容 との重複 も多 く, ほぼ 及川 自身の手 によるものであると見てよいであろう31。
(1)では,1929年 にフランスのニー スで開催 され た国 際新教育連盟大会で 「『社会変動 と教育 との関係』 とい う問題 を五十 カ国千五百人の学者実際家 によって研究 さ れた」模様を詳 しく紹介 し,時々刻々に変化 し続 ける現 代生活 に適す る教育を施すためには 「社会の実情 を科学 的に調査 してカ リキュラムを改造」す る必要が,世界各 国で注 目されているものの,「不幸 に して我 が国 に は科 学的調査 に基づて教育案を樹立 した学者」が 「一人 もい ない」 と指摘 し,「教育の全野 に亘 り,児童 の心身発達, 新 カ リキュラム構成,教育方法 につ き専門 に研究す る教 育研究所」設置の必要性を解 いている32。
(2)では 「米国バグビアシステムの創案者 は学務監督 官ケネジーである, ウイ ンネッカシステムの創案者 は学 務官 ウオッシュバー ンである。 ウオ ッツシュバー ンは教 育的 レサーチの権威者である。瑞西国際学校案 (個別教 育案) は監督案 ア ドルフ, フェ リエールの示唆 による。
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独逸 マ ン‑イム編制 は学務官 ジツキ ンガーの立案である」
として,欧米各国の教育研究所 と,そ こで開発 された教 育方法例を挙 げている。 そ して,「外国 の新教育案」 と い うものは,教育研究所の研究を基礎 として 「大概学務 官 の立案」 した ものだ と紹介 し,「要 す るに欧米各国 に は教育研究所又 は教育調査局があって地方 の実情を調査 し実験 を重ねて教育案を立て る」 ために教育活動が 「進 歩」す るのだ と説明 している33。
この指摘 は,及川 の欧米教育視察の経験 に裏打 ちされ た ものである。彼 は明石女子師範学校附属小学校主事時 代 の1925年3月か ら翌26年7月にかけて,欧米8カ国の 教育視察を行 っている。 その際, ここに名前 の挙が って いるスイスの国 際学校 (L'Ecolelnternationale)を実 際に訪問 し,創設者であるフェ リエールを自宅にまで訪 ねている34。 またアメ リカではデ トロイ トで市設 の心理 試験官 に付 いて,多数 の児童を対象 とす る知能検査法の 指導 を受 ける等,数多 の教育研究所 とその指導的立場の 者 を訪問 していた35。その経験 を受 け, 及川 は帰国後 の 視察報告 の中で既 に, 日本 の場合 「視学を して担任区域 の学校 に新 しい試みを許す こと」が如何 に重要であるか を解 いていたのである36。
(3)で は 「教育 の科学的研究 は専門的技術 に属 す る」
として,欧米で開発 された 「今 日の科学的研究法」の具 体名を多数挙 げ, それ らの研究法を 「研究の対象 に応 じ て,之 を組み合わせ応用」 した り,それぞれの 「長短」
や 「利用の範囲の制限」 を適用 した りす ることは,今 日 で は 「専門家な らざる教育者」では 「困難 といふよりも 寧 ろ不可能」 であると指摘す る。 そ して 「適正なる調査 研究を遂 げて社会の現状及児童 の心身 の発達, (特 に興 味必要 の発達) を明に し,教育の刷新を図 るには専門的 技術 に適せ る学者,教育者 を以て組織せ る教育研究所」
が,今後 どうして も必要 になるのだ と説明 している37。 (4)は欧米 の教育事情 とは直接関係 ない ものの,「科学 的調査研究」 の重視 の知見か ら,当時の義務教育年限延 長 の議論を検討 した ものである。及川 はこの施策が実現 されれば 「教科課程 の改造せ らるるは首然」であるとし, 特 に低学年で は 「総合教授」が必要 とされ,中学年以上 では 「従来 よ りは一層教科問の連関を緊密 に し,郷土教 育 を重 ん C,実際生活 に適合」 させねばならないとする。
そのために 「郷土生活の科学的調査,総合科の構成,職 業指導 の課程,通 じて生活化せ るカ リキュラムの構成が 必要 となる」一方,「教育的 レサーチ, カ リキ ュラム構 成 に熟せぬ人がや ったのではよい加減の間に合わせの も の」 しか出来ないと指摘す る。 この施策を無意味に しな いために も 「各地方 には教育研究所を新設 してその仕事 に従事 させ る必要がある」 としている38。
(1)か ら(4)を通 して,仙台市教育研究所の必要性が学
校教育の改善 のためにあること,特 に欧米型 の 「科学的 調査研究」 に基づいた 「カ リキュラム」作成 に向け られ ていることに焦点付 けて説明がなされている点で注 目さ れ, この中にこそ及川の目指す方向性が示 されていると
言えよ う 。
欧米の先進的な地方教育研究所 の例を引 き合 いに出 し なが ら,実際に学校教育改善のプランを立てそれを実行 に移すには,豊かな教育経験 を もち, さらに 「教育的 レ サーチ, カ リキュラム構成」 とい う 「学問研究」 に も長 けた人物 によ らねばな らないとす る点 において,及川 は 自身が最適であるとア ピール しているともいえる。 そ し て,渋谷の期待 に応え,「単 に学者 の学 的興味」 を満足 させ るような機関 とは一線を画そ うとしたのであ る。
こうした学校教育 の改善 を第一義 に掲 げる仙台市研究 所の場合,科学的調査研究活動が学校での実践 に直結す ることも重要視 されねばな らず,研究員の組織 に も細や かな配慮がなされていた。
「仙台市教育研究所規則」第四条で は,研究所正規の 構成員 として所長,研究員,書記を挙 げてお り,第六条 で顧問の特設 も認め られている。『会報』 によれ ば, 研 究員 は仙台市内の全小学校か ら各一名選 ばれた中堅教員 21名か ら構成 されてお り,顧問には 「医学,法律,教育 等の各部門の権威者」 として,東北帝国大学医学部教授 近藤正二 と同法文学部教授虞演嘉雄,宮城県師範学校長 萱場今朝治 と宮城県女子師範学校長丹沢美助が就任 して いる39。
研究員 は 「毎月定 日に研究所 に集合 し所長指導 の下 に 調査研究を遂 げ,研究員を通 じて市内各小学校全職員の 調査研究実施を促す ものである」 とされてお り40, この 役割 を効果的に果 たす上で,及川 は 「中堅教員」 を意図 的に選出 していたとみることがで きる。即 ち,学校長や それに準ず る管理職 は実際には教壇 に立っ以上 に雑多 な 仕事 に携わ ってお り, また及川の考えを十分理解 したと して もそれを実践 に移す上では様 々な しが らみ もあ って 容易 に遂行で きないであろう。一方教員経験の浅い者 は, 研究 に携わるには時期尚早であると判断 した もの と考え
られ る。
研究集会定 日には 「市の学務関係者,指導員 (仙台市 には図画,手工,体操,唱歌,裁縫科 の指導員をおいて ある) も必要 ある毎 に列席す る」 (『事業報告』 には 「衛 生主事」 も列席者 に挙 げ られて い る) こととされ てお り41,研究所の事業が,小学校教育 に関す る ことを出来 る限 り網羅す るための多 くの関係者 に支え られて出発 し た ことが分かる。
さらに,前掲 の明石の友人 に宛てた手紙 の中で,及川 は研究所で行 う事業の抱負 として 「(‑) 社会生 活 の基 本様式をとって生活大単位のカ リキュラムを作 って仙台
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富士原 :戦時体制下 における仙台市教育研究所設置の意義 に関する一考察
市 の消費都市 を生産都市 に変ず ること。 (二) 郷土調査 を行 って市民 の道徳的水準を高め,単なる学部ではな く 真の文化都市 を建設す ること。 (三) 適切 な る保健 カ リ キュラムを作 って市民の体位を向上す ることに努力 した い」 とも述べてお り42, (≡) については 「幸 い衛生学の 大家近藤博士がいますので此のカ リキュラムは出来 ると 思 うて ます,近藤博士 は斯方面 に非常 に興味を もってい ますので好都合です」 としていることか ら,及川が顧問 には単 なる名誉職 としてではな く,事業 の実質を担える 人物 を選 出 していた とみ られる43。
渋谷や及川 による,実際の教育に貢献せねば教育研究 所 はその意味を持 たないとい う点での配慮が至 る所 に行 き渡 った形で,研究所 はその事業を開始 したのである。
三 1936年度の研究所の活動内容
前掲7月1日付 『公報』 には, 6月15日に開催 された 第一回 目の集会 の内容が載せ られている。当 日の参加者 は所長,研究員のほか,顧問,市内小 ・中学校校長 と市 役所学務関係者であった。渋谷 の挨拶 の後,及川 により 前掲 の 「教育問題」 について説明がなされ,研究員 に集 会 日を毎月第一 ・第三水曜の二回 とす ることや,研究員 の世話係 の指名,研究員の準備すべ きことについての指 示が言 い渡 されている44。 この第‑回 目の集会以 降, 各 集会期 日に即 した研究所の詳細 な活動記録 は,現在のと
ころ見受 け られない。
ただ し,『事業報告』で は,「昭和11年6月より仝12年 3月まで毎月二回 (8月を除 く)一回 も休む ことな く定 日に集合 して各種 の研究を遂 げた」 として,全18回の集 会での活動内容が掲載 されている45。
及川 はそれぞれの研究内容 について,毎B]印刷物 を配 布 し,集会 はそれに基づいて進 め られていた。先ず彼に よる説明なされ, その後研究員を交えての質疑応答を経 て共同研究を重ね るとい う形式である。一題 目の研究が 数回の集会 に及ぶ こともあった とされている46。
大 まかな研究経過 は,『公報』誌上 で数回公表 されて いる。初めて公表 されたのは9月15日号 で あ り,「教育 研究所の事業行程」 として掲載 されている。その内容 は 研究内容 の紹介か らな り,「‑, サアベ ー知能 テス トの 実施」 (第1回〜第4回),「二,公民 の習慣態度 の測定 スケール とカ リキ ュラム」 (第5回〜第9回),「三, 坐 活教育細 目と実施授業研究」 (第10回〜第17回) として, 集会予定 とともに示 されている47。
これ ら3点 の研究課題 を設定 した理 由について,及川 は各項 目毎 に解説を加えている。
「‑」 の 「サアベ‑知能 テス ト」を実施す る理 由につ いて,仙台市で は既 に1932年 に東北帝国大学心理学研究 室 によって全市児童 を対象 とした知能検査を検査 したと
い う実績 はあるものの, それ は 「学者 自ら施行 したので ある」 とし,今回の調査 は 「各小学校教師が初めてサア ベ‑テス トを実施」す ることにこそ意義があると言 う。
32年の調査 は,及川 の目には,彼の批判す る単 なる学者 の 「学的興味」を満たすための研究 として映 っていたの であろう。及川 は 「(1)教師を して斯 か る科学 的調 査 に 慣れ しむること,(2)各学校の代表的学級の知能 の程度, 分配 の状態 を明 らかにす ること,以て学校学級経営 の基 礎 を確立 し兼ねてテス トその ものの妥雷を吟味す る」 こ
とが目的であ り,本年度 は 「各児の正確 なる知能指数 を 算出す ることは省」 き,「来年度 は市 内小学校 の全児童 に実施,確実なる基礎 の上 に学校学級経営をなさしむ る 予定」であると述べている。 このことか らも,及川 はと にか く教師達が自らの手で科学的調査を試みることを, 1936年度の重要課題 と捉えていたことがわか る48。 9月 時点での経過 によると,「第一期 に於 いて は所長 自 ら尋 常一学年 より同四学年 までの知能検査 と尋常四学年 より 高等二学年 までの簡易サアベーテス トを作成 し研究員 と 共 にその検査方法 と検査結果の処理 とを研究」 し,二学 期 にそれを各学校で実施す ると予告 されている49。
「二」 の 「公民の習慣態度の測定 スケール とカ リキュ ラム」 について,及川 は,教師の側 にとって は児童 の習 慣態度を測定す る道具 としての 「スケール」であり,児 童の側か らみれば この 「スケール」 は, そのまま 「訓練 事項」 としての 「カ リキュラム」その ものになるものだ
と説明 している。彼 は,現行の操行評定符号が 「優秀 善良 普通」 あるいは 「甲乙丙丁」, ない し 「僅少 の一 般的徳 目‑例えば言語明断,性質善良 動作敏捷」といっ た単語 のみで,「(1)教師 は如何なる行為を如何 に測定 し たか確かな標準がない, (2)家庭 は斯 か る符号 を見 て今 後如何なる行為を善導すればよいか解 らない, (3)児童 も自己の修養事項がわか らない」 と批判 す る50。 よ りよ い 「公民」 としての教養 に支え られた 「市民」形成を重 要課題 とす る研究所の方針 にとって,現状 の操行評定 は 極めて不十分な ものであった。 そこで,及川 は研究員 に
「スケール」の説明か ら始め,研究員 に 「此 の原案 を学 校 に持 ち帰 り各学校では全職員を三分団乃至五分団 に分 かちて之 を研究 し,仙台市公民教育 の立場か ら之を加除 し,若 し補充事項のあ らば研究員を して之 を科学的手続 きによって整理せ しむ ること」を今後の作業予定 として 挙 げている51。
「三」の 「生活教育細 目と実施授業研究」を課題 に掲 げた理由について,及川 は1933年か ら使用を開始 した改 定教科書 の存在を念頭 においていた。彼 は 「生活指導 の 立場」か らす ると, まだ不十分であるとしなが らも 「現 行教科書 は漸次改訂されて児童生活を考慮するようになっ たのは喜 ば しい」 とし,それを活か した授業を行 うため
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