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先哲叢談聚議 : 連載その一

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(1)

九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

先哲叢談聚議 : 連載その一

雅俗の会

http://hdl.handle.net/2324/4755949

出版情報:雅俗. 1, pp.264-274, 1994-02-28. 雅俗の会 バージョン:

権利関係:

(2)

先 哲 叢 談 衆 議

︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱

︱ ︱ ︱ ‑ ︳ ︱ ︱ ︱ ︱

︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ‑ ︳ ︳

‑ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱

︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱

︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱

︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱

︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱

︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱

︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱

︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱

︱ ︱ ‑ ︳ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱

︱ ︱ ︱ ︱ ‑ ︳ ︱ ︱ ︱

︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱

︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱

︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱

︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱

︱ ︱ ‑ ︳ ‑ ︱ ︱ ︱ ︱

︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱

︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱

︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱

︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ‑ l ‑

= ‑ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱

︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ‑

︳ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱

︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱

︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱

︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱

︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱

︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ‑ l ‑ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱

︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ‑ ︳ ︱

︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ‑ ︳ ︳

︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱

︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ‑

= = ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱

︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱

︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱

︱  

﹃先哲叢談﹄は︑幕臣で儒家であった原念斎が︑自ら

集めた本邦学芸家数百人の文献資料や伝承を元に︑近世

期の儒学者七十二人にしぼり︑その行状と業績を述べ立

てた漠文体伝記集成である︒八巻四冊の大本として︑文

化十四年は春以降︑江戸慶元堂和泉屋庄次郎を筆頭に数

陣から出版された︒はやく後編追刻の計画を立て︑執箪

も緒に就いていたが︑念斎は文政三年三月十九日に︑四

十七歳で没した︵佐藤一斎﹁原公道墓銘﹂︶︒その主著と

なった﹃先哲叢談﹄は︑当時はさることながら今世紀も

学芸史考証や教化啓蒙の具として︑しばしば用いられ続

けて

きた

原念斎の養子原徳斎は︑近習番の名跡とともに︑父の

遺志を継ぎ後編を綴る抱負もあったか今は知れないが︑

雅 俗 の 会

当主の逝去と同じ三年三月に︑原家は︑金十一両と引き

換えに︑家蔵の﹃先哲叢談﹄板木株式いっさいを書陣慶

元堂に売り払った︵﹃松沢老泉資料集﹄︶︒板木譲渡との

前後︑その因果関係もまだ詳らかにしないが︑徳斎は相

続のこの一年の間に︑職務上の罪過を犯し︑少なくとも

三年間の閉居に処せられるという憂き目をも見た︵写本

﹃念祖斎遺稿﹄文政六年序︶︒八年になって︑慶元堂主

人は徳斎ではなく︑その知友︑儒者・東條琴台に後編の

執筆を頼んだ︒琴台には︑すでに儒林伝数巻の稿があり︑

それを﹃先哲叢談﹄前編の体裁に合わせ︑また重複を避

けることによって︑後編に仕立てることを引き受けた︒

十一年の冬︑慶元堂が琴台を徳斎の許へ携え︑﹃後編﹄

の出版を承知するよう要請する頃には︑その執箪は粗々

八連載 その一>

(3)

終えられていたらしい︒徳斎は二人の要請を受け入れる

ばかりか︑資料として︑先人の遣稿と︑資料集﹃史氏備

考﹄まで提供したが︑琴台によればこれは参照しなかっ

たという︵﹃後編﹄目次︶︒﹃先哲叢談後編﹄八巻四冊が

出刊されたのは文政十三年であった︒

琴台はただちに﹃続編﹄の執筆に取りかかったらしい

︵﹃嫌堂日暦﹄文政十三年九月︶︒しかしその出版に漕ぎ

着けないまま︑天保改革中に取り締まられ︑ついに嘉永

三年に自著﹃伊豆七島全図﹄が発禁となってからは幕府

瓦解までに︑著述出版を差し止められたことはよく知ら

れるところである︒明治十六年に﹃先哲叢談続編﹄十二

巻六冊が東京で発売される頃には︑琴台の没して五年目

にあたり︑原念斎による前編の開板をへだてること六十

六年

であ

った

本連載では︑﹃叢談﹄シリーズのうち︑さし当たり原

念斎の﹃先哲叢談﹄前編を取り上げ︑毎回︑担当者を替

え︑所収の儒者伝一篇乃至二篇の注釈を施す予定である︒

主に︑各条に展開される事柄の典拠をただし︑念斎の用

いた材料をできる限り精確に指摘することを目標とする︒ 著者によれば︑その事柄に﹁皆依拠有り︒然して章を逐て出典を記すは︑その煩に勝へず﹂︑ゆえに出典のほとんどを省略したという︵凡例︶︒著者の時代にあって当たり前の姿勢だが︑今日︑近世学芸史の宝庫である同書を利用する側からすれば︑隔靴掻痒の感はなはだしいものがある︒記述の明らかな誤謬もあり︑同書からしか窺い知れない事実も交々に多く述べられている故に︑無条件にはたよれる性格の書物ではない︒出典明記の煩を厭わず︑むしろそれを使命とするのが本連載の意図である︒

ただし︑事柄の典拠とは︑念斎が依ったと思われる文

献の追跡にとどまり︑その文献の史実にかなうか︑否や

の信憑性については︑必ずしも詮索するわけではないこ

とを断っておく︒その作業は︑各人物の伝記研究へ委ね

るとして︑ここでは先ず︑﹃先哲叢談﹄そのものの成立

を解明することに専念したいためである︒そのためには︑

原念斎が没後徳斎の許へのこした行状・墓誌集﹃史氏備

考﹄︵四十六巻四十六冊︑浄書本︑静嘉堂文庫蔵︶に参

照することもあり︑念斎の机辺に備わったであろう雑多

な書巻をどれほど見出せるかに目標の達成がかかるに違

265 

(4)

た は

^ 

談﹄が依拠した文献等の指摘を

談﹄の本文︑

をはさんで後に依拠した文献の本文を掲げた︒

必要に応じ伝記については︵伝︶参考文献について

︶として入れた︒又

補 注 は

︑ 後 に ま と め て 記 し

﹃先 哲

︿ 一︑底本には︑文化十三年九月刻︑江戸和泉屋庄二郎同金

右エ門大坂秋田屋太右衛門京都植村藤右衛門の四罪が

列記された奥附をもつ刊本︵高橘昌彦所蔵︶を使用した︒

本文は﹃先哲叢談﹄を條ごとにわけ︑底本を縮小複写し

そのまま載せた︒

本文の後に注釈箇所の見出しをゴチックで掲げド柄

を記

した

︒ 一注釈は

なう

文異同については前に﹃先哲﹁

│ ﹂ に行 いない︒読者各位からのご示教ご斧正を大いに賜りた

い ゆ え ん で あ る

︵ ロ バ ー ト キ ャ ソ ペ ル

宇鼎⁝平安人菅原家長撰﹁処上明磁宇先生経磁銘﹂

︵﹃明磁先生遣稿﹄再版本巻頭

﹃事 実文 編﹄ 一︳ 一七

﹃史氏備考﹄︱二︑以下﹁経磁銘﹂と略す︶にほぽ同じ︒

但し︑その郷貫を﹁近江野州人﹂とする︒自身の著占に も﹁近江﹂と記している︒明叩世は四男二

女の

三男︒俗称

三平は占筒などより確認できる︵﹃古今名家尺頑文﹄等︶︒

また

︑極楽寺過去帳には﹁一到知天居士宇野文助男

三平

とある︵﹃京都名家坦給録﹄大正十二

年刊

︶︒

ゑ 菜

9

C

"

喜谷盃屠角倉輿主凡運叱士祈自

気 意

§ ⁝

i 傘 和 国

置 ︳ ︱ ;

畠 胃 出

靡巧 年 ︱ 一 令 ぶ

宇野明霞

︵巻 之七

(5)

士新父:運漕父は安治︑母は片岡氏︑

﹁鉦磁銘﹂に

は家業について記載なし︒連漕業者とするのは﹁自謂其

家隷

船司

空﹂

︵﹁

贈子

季子

序﹂

﹃狙裸集﹄十一︶による

ものか︒だが︑﹃日本詩史﹄巻三には﹁子銭家﹂︵金融

業者︶とあり︑﹁宇野家は其先近江長箔の人︑豊臣時代

京に来り両替を業とし︑子孫相緞都下の改商なりしが惜

しむべし︑本年を以て絶家に帰せし由﹂︵栖松院住職談

﹃京都名家墳墓録﹄︶とも伝わっている︒また︑

﹁宇

三平

兄ハ永原屋久右衛門卜云フ︒先祖ハ江州永原村ノ人

ニテ

宇野

姓多

︑ソ

﹂︵

﹃閑

散余

録﹄

二︶

︑﹁宇上新ハ近江

ノ人︑永原勘右衛門卜云テ永原ノ人也

﹂ ︵ ﹃

拙古

先生

窄記

﹄︶

の記市から屋号が知れ︑﹃京羽二重織留﹄︵元禄

二年

巻之六を捜すと﹁両替屋﹂

の中に﹁油の小路中立碑ル

町永原屋久兵衛﹂の名を見つけることができる︒

向 井 道 洲 伯 者

︒ 享 保

/ 年 没

︑店千フ十六︒明阻に

﹁祭向先生文﹂︵﹃明応先生逍稲﹄︿究延元年刊﹀巻之八︶

などの詩文あり

︒︵伝︶石

川麟洲撰

﹁泊洲先生行状

︵﹃

石堺

先生

文紗

﹄上

ほか

︶︒

繹 大 典 俯 侶︒享和元年没︑

享年

八ト

︱︱

‑︒

明阻

の門

人︒

︵参︶小吊文鼎﹃大典禅師﹄に明殴との交流が詳しい︒

書燈記大典﹃北禅遣草﹄︵文化四年刊︶巻之五所収︒

門人天沼恒庵等によって編集刊行︒

太田見良⁝可知已︿本文異同>宇先生ー先生︒太田

見 良 医 家

大 洲 藩

﹃ 古 今 . . . . t : , 1

紐緊定便貌﹄視家

t1

悶家

之部

︶︒

—I

二 時 敷 士 ← 丁 ー ロ 曰

に 人 巴 新 太 奇 E

ニ・ 凩 作 と 餘

沖 ~-rI)和

都 文 あ 年 投~·不 厖

応見讀

人 南 0 ‑‑,  不 者 " 書,9

ノ 川 筵 丸 」 有 足 諺 金 函 苓 ト ニ 不

天 渓

銘 左 ~

'‑ 馬 命

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子 閑 l1不 戸 I

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三 余 ‑‑,  た

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乎録

朝 ' 野 有

ヵ ← タ 三 鈴

出 ^ 筆

テ 天 研 乎~,年。

歩 明 間

/‑

, , 1 も i

; : 三

267 

(6)

李 王 龍

代の古文辞学者︒

祖 彼 南 郭 荻 生 狙 裸 悩 者

︒ 保 十 三 年 没

︑ 年 六 卜 三 ︒ 服部南郭邪詩人︒宝歴九年没︑か年七十ヒ︒共に

日本の代表的古文辞学者︒

大 潮 禅 師 僧 侶

︒明和五年没︑江年九

大潮が明

太沖ガ病者ヲ治セルト︑谷左仲ガ文ヲ撰ルト︑此

三ヲ

見クル人ナシトイヘリ︒﹂

と あ る

︒ 香 川 太 沖 儲 医

︒ 号

修庵︒宝膀五年没︑享年ヒ

三 ︒

谷左中

t J J

足︒

号藤

山︒

安永二

年 没

︑ 年 七 三 ︒

州令王孔定見只衷祖昧さ訥章所り珠閏知

1初社な朗憚兒指羨i

復︳ 田文 鳥書

5

捻 ︐ 恐 父 も

. ,

 

̲ ̲  

―•911-――しq,1

就[湘名叩屯鳶然企〖冬

i副糾t

岱紺潟沌

B不

5 f

ふ ︐ 熊 浴 ー 作

新ぷ青]元美驀天さ月へ呪ぷ 繊 3 叉ぎ火光な朗吏包氣士

︳ 而 迩 寺 人 大

央必 爵文

‑岡

i ‑ a t o ぷ

︱ 秤 ク 論 東 叱 炊 紬 が 求

‑ ' 之 纂

触者集ぎ歪ク得む而﹃刈憶守直︱則和か呵

鱗︶と王世貞︵元芙︶︒共に中国明

磁に唐音を教える様は乎賀中南﹃学問捷径﹄︵安永八

年刊︶巻中に﹁呼火口乾呼雪歯寒と云ふことあり︒火音

はホウなり︒ホウと云へば口中あたAかになる故に口乾

くと云ふ︒雪の音はシと云へば歯に風しむやうなり︒故

に歯寒しと云ふ︒大潮和尚この言を宇野三平の前にて唱

へら

れし

かば

三平取りあへず呼虎風生と云れたりとて︒其

の俊抜を歎ぜられたり︒虎の音フウなり︒﹂などとある︒

復田文悲書﹃明囮先生遣樅﹄巻之八所収︒田文忍は

田中大観︒京都の偏者︒明磁に師事︒享保二十年没︑亨

年二十六︒︵伝︶﹁田文認経磁銘﹂︵﹃明硲先生遺稿﹄巻

之八

僕 ︶

始・

:夷

︿本文異同﹀思之ー念之︒

大潮⁝元美髄

﹁典

大潮

禅師

占︵

第二

古簡

︶﹂

︵﹃

明企

脳餘﹄巻下︶に︑﹁師謂鼎文得元芙髄﹂とある︒

(7)

為人⁝為非

一日

:.

賓 姓氏解初版は元文五年刊

︒二 巻二冊︒巻首に著者名

なし

︒高辻総長の跛文中に﹁宇鼎﹂とあることによって 著者が明殴とわかる︒ 過庭紀談原念祖斎の祖父双桂の著︒明和五年成立︑ 天保五年刊︒五巻五冊︒巻之三に﹁宇上新ノ姓氏解︑仮 名卿紙ナレドモ甚好︑ソ﹂として詳しく引いている︒双桂 は明磁に就いて学んだ︒ 松本慎位者°号恐山︒天保五年没︑享年八十゜ 以 近 江

:士新意究政七年刊の璽訂本を述べたもの︒ 本文一丁目に﹁近江宇鼎士新著﹂と入る︒寛政七年六月

朔の松本惧の序文が二

丁分

︑巻頭に加えられ︑其の中で

﹁張修姓之説固不埃言此可憾也已﹂と述べている︒

﹃姓氏解﹄巻で詳しく論じている

稲 黙 斎

﹃先達遣事

﹄ ︵ 明和四年刊︶で

以 頃 九

t‑!江

対 系 圭 屯 人

a

心 之賣久ボ

布さ研紋然呼含束之 は﹁江村萬蔵投於如土

F1

姓 氏 日 見

{ ‑

新話及宇氏家 庭因忽問乃翁是公宜父敷上新而云余家父無虚宜突菓蔵黙

然﹂ ︵

割注は除く︶とある︒江村某は伊藤家から江村家

8

に入

った北海のこと︒明八年没︑年七十

六 ゜

上杉謙信偉﹃明殴先生遣稿﹄巻之六所収︒

年四十八明阻は元禄十一年五月二十日生︒延二年 四月十七日没︑享年四十七︒妻子無し

︵ ﹁

墓謁銘

﹂ ︶ ︒

然世

: ・

祖彼仁斎は伊藤仁斎︒京都の儒者︒宝永二年 没︑万年ヒ十九︒例えば原双桂は﹁元密以来︑彬彬多文 限之士突︑有若伊仁斎物狙裸宇士新

﹂ ︵ ﹃ 双桂集﹄巻

六 ︶

269 

(8)

と 三 人 を 並 べ て 論 じ て い る。

̲.̲  宰

和閤明 狙裸門 四 の 年 刻

再゜ 仙者゜

-~

年没四  

二 亨年

ff~ 、‑

(9)

﹁対客論文﹂中の三乎:

卑下也

なし

作祭文 ︒

⁝褒揚之﹃明磁先生遺稿﹄巻之八﹁祭三河物

先生文﹂及び同巻之三﹁

哭物先生四十韻

﹂︵ 五言

排律

をさ

す︒

杉以成

⁝興

﹃ 明 殴 稿 餘

﹄ 巻 下

﹁ 輿 杉 以 成 内

﹂ ︒

以成は未詳︑明四の門人か︒

僕稲

: ・

之有︿本文異同﹀なし︒

興芥彦章

書﹃明困先生遣稿﹄巻之八所収︒芥彦翔

芥川丹邸︒京都の伯者︒明殴に師市︒天明五年没︑享年

七十

六゜

夫物夫子:

測 也

︿本文異同﹀なし︒

答玄海上人

﹃ 明 磁 稿 除

﹄ 巻 下 所 収

︒ 玄 海 ヒ 人

崎大音寺︵浄土宗︶の僧︒狙裸門と交流があった︒

謂洛⁝願也︿本文異同﹀なし︒ 節︒

︿本

文異

同>

271 

(10)

/卜 七゜ 原 田 東 岳 偏 者

︒ 明 三 年 没

︑午年

五 五

゜ 東岳筆疇日﹃束岳先生筆g﹄は安永五年刊︒

冊︒引用部は巻之六゜

祖彼

. .

.  

劣 者 也 原 文 は 国

字︒﹁狙裸束涯二先生匹也而

狙裸は堂にあり束涯は室にありこれ其別なり南郭春台ニ

子匹也而南郭は戸にあり春台は門にあり蘭隅周南二千匹

也而皆廊蕪の下にあり金華宇士新

二子

匹也而皆門脇を鎖

んで其中に入ことあたはず宇氏蚊劣等なり﹂とある︒

筆疇又日﹃束岳先生筆間﹄巻之六゜

士新:遠甚﹁伊人平生獨只酉洞博覧を胡乱に傲慢し

て執拗掠撥なることを自知伐せず狙裸先生に酎して旗妓

を構て強て勝負せんと欲せり此心を持して徒に群占を引

て妄意に論語を繹故共説乏然として適従する所なし占今

華儲経他註例に曽てこれなきことなり文七耳亦精熟に至れ

りとは見がたし大氏褐潤舒腸の色これなき故其綴紺結構

する所所聞樗歴殺接古文辞の閥失なひを作ること更に哀

むべし明困集当世識者これを論駁明弁する者又已にかく

のごとくなるときは則狙裸先生に不及こと甚遠きことな ハ巻ナ り﹂とある︒

唄餃遺枇煮澤悴琴況基銘紋野寸成岱交絣不ヤ

旦 且 且 且 ぃ 旱

七年宇先生痘虻汎虻文 4 杓遺冷其門人庁徽猷

1 , 1 1  

浄 訪 以 攻 瀦 ︐ 意 荒 令 文 虻

3

絡爵流唸可レ孤ふ

K

災人刈慕甚益が其臨困只税 m 岱

5人史ふ経7

 

き が 追 雀 如 迅 這 紋 紋 に

` 芥 ぽ 怜 絃 層 注 愚

t

同 き

B. 士 欲 孤 塁

﹁ 乃 祖 夫 議 ぷ 澳 然 唸 羞 之

9 9 . ,  

J

︑以払行む免水其紋セ赦組以出紺心製以尖

9, 1, 1,

1

一篇冬冬〖

明 銘 叙

﹃明磁先f一遣稿﹄巻之八

﹁ 琴

所先

生位

磁銘

﹂ ︒

澤村琴所は彦根藩上︒元文四年没︑立年五卜四゜

野 子 賤 野 村 束

屯︒彦根藩伯︒天明四年没︑立年六十

¥o 

琴所剛稿﹃琴所稿剛

﹄︵ 宝

二年

︶︒ 二

巻拾遮一巻

二冊︒見返しに

﹁宇 士

新先生評脚﹂とある︒附録として

釈怨明撰

﹁ 琴

所先生行状﹂︑明阻撰

﹁ 琴

所先生紘磁銘﹂︑

(11)

野村東屯撰﹁故処士琴所澤先生薙誌銘﹂が載る

︒︵

参︶

宗政五十緒﹁沢村琴所の行状

﹂ ︵

﹃江

戸時代上方の地域と 文学﹄所収︑一九九二年刊

︶ ︒

書其後云前註中︑明困撰﹁琴所先生砥函銘﹂のE

ぃ 後

野村束屯﹃涵園集前編﹄︵明和七年刊︶巻之六﹁

F1

琴所

先生墓砥銘後

﹂ ︒

先生⁝文云︿本文異同﹀なし︒ちなみに﹃明殴先生 遺稿﹄所収のr点晦銘と比べるとかなり短くなっている︒

吾先冬な各菱菜恥忍士未消灼む帷装点

9 9  

術 書 馴 団至睾ふ甚基吾姐患子氏兄弟其培 べ 附

J'

ふ芯島

邑 慮 い 立 ︐ 為 語

一 望 牛 自

仁 豆 薙 ギ

︱ f

梓キ成面

仁 王 丸

天履仁天沼恒庵︒稲臣︒伊藤︵島︶氏を一時名乗る︒ 没年享年未詳︒天沼恒庵と原念祖斎は︑大変親しく︑ 互いの詩文集にその名は数多く登場

特に

屯ぃ

簡か

﹃宇士朗遺稿﹄や﹃名公四序評﹄の貸借の様子が窺える

︵﹃

恒庵

文稿

﹄四

﹃念祖斎遺稿﹄四

︶ ︒

論語考⁝履仁手﹃論語考﹄巻之四からノ の

三巻三冊

︵里仁から薙也篇︶は︑#和二年に刊行︒千賀輯の跛文 によれば︑大典禅師が究政十年江戸に糀在した折︑校正 を行っていたものを︑禅師没後志を継いで出版したとい

補注①宗政五十緒﹁ノーバードイエソチソ図内館と所蔵

F)

﹂ ︵

﹃近世京都出版文化の研究﹄所収︑一

九八

二年刊︶

によれば︑宇野家の文屯

r lは︑子孫が京都上賀茂神社の宮

司座田氏にあずけ︑現在は鎌介訪岡八幡宮に存するとい

②﹃明殴先︑︶稿﹄には︑二種類の版が残る︒﹃先哲

J談﹄の草稿である﹃日本仰林談﹄の中には

﹁明霞遺

稿八巻典師行輯而校刻也近頃師贈之朝鮮為削其傍繹

又謀其遣漏詩文各一

巻 名 明 殴 餘 稿 以 附 本 集 後 而 師 前 所題序悉改正之﹂の一章が見えるが︑〇印がつけられ版 本では削除されている︒確かにこの記述の通り︑寛延元

273 

(12)

年の初版本に付す石川麟洲・釈大典の序文ともに︑再版

では版面がかわり︑合わせて初版になかった墓磁銘が付

されている︒また︑初版本文の訓点・送り仮名は︑再版

ではすべて取り除かれている︒更に﹃明霞先生稿餘﹄と

して︑巻上詩八十二首︑巻下文九首が加えられている︒

版元は共に﹁平安書陣田原重兵衛﹂であるが︑再版に

は刊年がない︒﹃日本儒林談﹄の記述に従えば︑明和元

年頃か︒ちなみに﹃日本儒林談﹄には︑前掲以外にも

﹁土新墓磁銘井序権中納言菅原家長撰之﹂といった版本

では削除された箇所を数多く見ることができる︒

︵高

橋昌

彦︶

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