九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
先哲叢談聚議 : 連載その一
雅俗の会
http://hdl.handle.net/2324/4755949
出版情報:雅俗. 1, pp.264-274, 1994-02-28. 雅俗の会 バージョン:
権利関係:
先 哲 叢 談 衆 議
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︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ‑ l ‑
= ‑ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱
︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ‑
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︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱
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︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱
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︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ‑ l ‑ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱
︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ‑ ︳ ︱
︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ‑ ︳ ︳
︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱
︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ‑
= = ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱
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︱
﹃先哲叢談﹄は︑幕臣で儒家であった原念斎が︑自ら
集めた本邦学芸家数百人の文献資料や伝承を元に︑近世
期の儒学者七十二人にしぼり︑その行状と業績を述べ立
てた漠文体伝記集成である︒八巻四冊の大本として︑文
化十四年は春以降︑江戸慶元堂和泉屋庄次郎を筆頭に数
陣から出版された︒はやく後編追刻の計画を立て︑執箪
も緒に就いていたが︑念斎は文政三年三月十九日に︑四
十七歳で没した︵佐藤一斎﹁原公道墓銘﹂︶︒その主著と
なった﹃先哲叢談﹄は︑当時はさることながら今世紀も
学芸史考証や教化啓蒙の具として︑しばしば用いられ続
けて
きた
︒
.
原念斎の養子原徳斎は︑近習番の名跡とともに︑父の
遺志を継ぎ後編を綴る抱負もあったか今は知れないが︑
雅 俗 の 会
当主の逝去と同じ三年三月に︑原家は︑金十一両と引き
換えに︑家蔵の﹃先哲叢談﹄板木株式いっさいを書陣慶
元堂に売り払った︵﹃松沢老泉資料集﹄︶︒板木譲渡との
前後︑その因果関係もまだ詳らかにしないが︑徳斎は相
続のこの一年の間に︑職務上の罪過を犯し︑少なくとも
三年間の閉居に処せられるという憂き目をも見た︵写本
﹃念祖斎遺稿﹄文政六年序︶︒八年になって︑慶元堂主
人は徳斎ではなく︑その知友︑儒者・東條琴台に後編の
執筆を頼んだ︒琴台には︑すでに儒林伝数巻の稿があり︑
それを﹃先哲叢談﹄前編の体裁に合わせ︑また重複を避
けることによって︑後編に仕立てることを引き受けた︒
十一年の冬︑慶元堂が琴台を徳斎の許へ携え︑﹃後編﹄
の出版を承知するよう要請する頃には︑その執箪は粗々
八連載 その一>
終えられていたらしい︒徳斎は二人の要請を受け入れる
ばかりか︑資料として︑先人の遣稿と︑資料集﹃史氏備
考﹄まで提供したが︑琴台によればこれは参照しなかっ
たという︵﹃後編﹄目次︶︒﹃先哲叢談後編﹄八巻四冊が
出刊されたのは文政十三年であった︒
琴台はただちに﹃続編﹄の執筆に取りかかったらしい
︵﹃嫌堂日暦﹄文政十三年九月︶︒しかしその出版に漕ぎ
着けないまま︑天保改革中に取り締まられ︑ついに嘉永
三年に自著﹃伊豆七島全図﹄が発禁となってからは幕府
瓦解までに︑著述出版を差し止められたことはよく知ら
れるところである︒明治十六年に﹃先哲叢談続編﹄十二
巻六冊が東京で発売される頃には︑琴台の没して五年目
にあたり︑原念斎による前編の開板をへだてること六十
六年
であ
った
︒
本連載では︑﹃叢談﹄シリーズのうち︑さし当たり原
念斎の﹃先哲叢談﹄前編を取り上げ︑毎回︑担当者を替
え︑所収の儒者伝一篇乃至二篇の注釈を施す予定である︒
主に︑各条に展開される事柄の典拠をただし︑念斎の用
いた材料をできる限り精確に指摘することを目標とする︒ 著者によれば︑その事柄に﹁皆依拠有り︒然して章を逐て出典を記すは︑その煩に勝へず﹂︑ゆえに出典のほとんどを省略したという︵凡例︶︒著者の時代にあって当たり前の姿勢だが︑今日︑近世学芸史の宝庫である同書を利用する側からすれば︑隔靴掻痒の感はなはだしいものがある︒記述の明らかな誤謬もあり︑同書からしか窺い知れない事実も交々に多く述べられている故に︑無条件にはたよれる性格の書物ではない︒出典明記の煩を厭わず︑むしろそれを使命とするのが本連載の意図である︒
ただし︑事柄の典拠とは︑念斎が依ったと思われる文
献の追跡にとどまり︑その文献の史実にかなうか︑否や
の信憑性については︑必ずしも詮索するわけではないこ
とを断っておく︒その作業は︑各人物の伝記研究へ委ね
るとして︑ここでは先ず︑﹃先哲叢談﹄そのものの成立
を解明することに専念したいためである︒そのためには︑
原念斎が没後徳斎の許へのこした行状・墓誌集﹃史氏備
考﹄︵四十六巻四十六冊︑浄書本︑静嘉堂文庫蔵︶に参
照することもあり︑念斎の机辺に備わったであろう雑多
な書巻をどれほど見出せるかに目標の達成がかかるに違
265
た は
゜
^
談﹄が依拠した文献等の指摘を
談﹄の本文︑
をはさんで後に依拠した文献の本文を掲げた︒
一︑必要に応じ︑伝記については︵伝︶︑参考文献について
︶として入れた︒又︑
補 注 は
︑ 後 に ま と め て 記 し
﹃先 哲
︿凡 例﹀ 一︑底本には︑文化十三年九月刻︑江戸和泉屋庄二郎・同金
右エ門・大坂秋田屋太右衛門・京都植村藤右衛門の四罪が
列記された奥附をもつ刊本︵高橘昌彦所蔵︶を使用した︒
一︑本文は﹃先哲叢談﹄を條ごとにわけ︑底本を縮小複写し︑
そのまま載せた︒
一︑本文の後に︑注釈箇所の見出しをゴチックで掲げ︑ド柄
を記
した
︒ 一︑注釈は︑
なう
文異同については前に﹃先哲﹁︑ ︒
│ ﹂ に行 いない︒読者各位からのご示教ご斧正を大いに賜りた︑
い ゆ え ん で あ る
︒
︵ ロ バ ー ト キ ャ ソ ペ ル
︶
宇鼎⁝平安人菅原家長撰﹁処上明磁宇先生経磁銘﹂
︵﹃明磁先生遣稿﹄再版本巻頭・
﹃事 実文 編﹄ 一︳ 一七
・
﹃史氏備考﹄︱二︑以下﹁経磁銘﹂と略す︶にほぽ同じ︒
但し︑その郷貫を﹁近江野州人﹂とする︒自身の著占に も﹁近江﹂と記している︒明叩世は四男二
女の
三男︒俗称
三平は占筒などより確認できる︵﹃古今名家尺頑文﹄等︶︒
また
︑極楽寺過去帳には﹁一到知天居士宇野文助男
三平
﹂
とある︵﹃京都名家坦給録﹄大正十二
年刊
︶︒
ゑ 菜
紺
9C
"
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︐
喜谷盃屠角倉輿主凡運叱士祈自
"
少
気 意
§ ⁝
i 傘 和 国
置 ︳ ︱ ;
畠 胃 出
□
靡巧 年 ︱ 一 令 ぶ
宇野明霞
︵巻 之七
︶
士新父:運漕父は安治︑母は片岡氏︑
﹁鉦磁銘﹂に
は家業について記載なし︒連漕業者とするのは﹁自謂其
家隷
船司
空﹂
︵﹁
贈子
季子
序﹂
・﹃狙裸集﹄十一︶による
ものか︒だが︑﹃日本詩史﹄巻三には﹁子銭家﹂︵金融
業者︶とあり︑﹁宇野家は其先近江長箔の人︑豊臣時代
京に来り両替を業とし︑子孫相緞都下の改商なりしが惜
しむべし︑本年を以て絶家に帰せし由﹂︵栖松院住職談
﹃京都名家墳墓録﹄︶とも伝わっている︒また︑
﹁宇
野
三平
兄ハ永原屋久右衛門卜云フ︒先祖ハ江州永原村ノ人
ニテ
︑
宇野
姓多
︑ソ
﹂︵
﹃閑
散余
録﹄
二︶
︑﹁宇上新ハ近江
ノ人︑永原勘右衛門卜云テ永原ノ人也
﹂ ︵ ﹃
拙古
先生
窄記
﹄︶
の記市から屋号が知れ︑﹃京羽二重織留﹄︵元禄
二年
︶
巻之六を捜すと﹁両替屋﹂
の中に﹁油の小路中立碑ル
町永原屋久兵衛﹂の名を見つけることができる︒
向 井 道 洲 伯 者
︒ 享 保
/ 年 没
︑店千フ十六︒明阻に
﹁祭向先生文﹂︵﹃明応先生逍稲﹄︿究延元年刊﹀巻之八︶
などの詩文あり
︒︵伝︶石
川麟洲撰
﹁泊洲先生行状
﹂
︵﹃
石堺
先生
文紗
﹄上
ほか
︶︒
繹 大 典 俯 侶︒享和元年没︑
享年
八ト
︱︱
‑︒
明阻
の門
人︒
︵参︶小吊文鼎﹃大典禅師﹄に明殴との交流が詳しい︒
書燈記大典﹃北禅遣草﹄︵文化四年刊︶巻之五所収︒
門人天沼恒庵等によって編集刊行︒
太田見良⁝可知已︿本文異同>宇先生ー先生︒太田
見 良 医 家
・大 洲 藩
︵
﹃ 古 今 . . . . t : , 1
紐緊定便貌﹄視家
t1
家
悶家
之部
︶︒
之 —I
二 時 敷 士 ← 丁 ー ロ 曰
に 人 巴 新 太 奇 E
ニ・ 凩 作 と 餘
沖 ~-rI)和都 文 あ 年 投~·不 厖
ノ る
応見讀
人 南 0 ‑‑, 不 者 " 書,9
ノ 川 筵 丸 」 有 足 諺 金 函 苓 ト ニ 不
天 渓
銘 左 ~'‑ 馬 命
、 ‑ ,
‑ 9
子 閑 に l中1不 戸 I
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J関
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‑r"乎録
朝 ' 野 有ヵ ← タ 三 鈴
出 ^ 筆
テ 天 研 乎~,年。
歩 明 間
/‑ ‑
打 一 、
, , 1 も i
; : 三
267
李 王 龍
︵
代の古文辞学者︒
祖 彼 南 郭 荻 生 狙 裸 悩 者
︒ 保 十 三 年 没
︑ 年 六 卜 三 ︒ 服部南郭邪詩人︒宝歴九年没︑か年七十ヒ︒共に
日本の代表的古文辞学者︒
大 潮 禅 師 僧 侶
︒明和五年没︑江年九
︱
‑
︒
大潮が明
太沖ガ病者ヲ治セルト︑谷左仲ガ文ヲ撰ルト︑此
三ヲ
見クル人ナシトイヘリ︒﹂
と あ る
︒ 香 川 太 沖 儲 医
︒ 号
修庵︒宝膀五年没︑享年ヒ
三 ︒
谷左中
t J J
足︒
号藤
山︒
安永二
年 没
︑ 年 七 三 ︒
州令王孔定見只衷祖昧さ訥章所り珠閏知
1︑初社な朗憚兒指羨i
復︳ 田文 鳥書
5
僕
捻 ︐ 恐 父 も
. ,
.
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︱
︱
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―•91ー1-――しq,1
就[湘名叩屯鳶然企〖冬
i副糾t岱紺潟沌
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ふ ︐ 熊 浴 ー 作
新ぷ青]元美驀天さ月へ呪ぷ 繊 3 叉ぎ火光な朗吏包氣士
か
'︳ 而 迩 寺 人 大
央必 爵文‑岡
i ‑ a t o ぷ
︱ 秤 ク 論 東 叱 炊 紬 が 求
‑ ' 之 纂
触者集ぎ歪ク得む而﹃刈憶守直︱則和か呵鱗︶と王世貞︵元芙︶︒共に中国明
磁に唐音を教える様は乎賀中南﹃学問捷径﹄︵安永八
年刊︶巻中に﹁呼火口乾呼雪歯寒と云ふことあり︒火音
はホウなり︒ホウと云へば口中あたAかになる故に口乾
くと云ふ︒雪の音はシと云へば歯に風しむやうなり︒故
に歯寒しと云ふ︒大潮和尚この言を宇野三平の前にて唱
へら
れし
かば
︒
三平取りあへず呼虎風生と云れたりとて︒其
の俊抜を歎ぜられたり︒虎の音フウなり︒﹂などとある︒
復田文悲書﹃明囮先生遣樅﹄巻之八所収︒田文忍は
田中大観︒京都の偏者︒明磁に師事︒享保二十年没︑亨
年二十六︒︵伝︶﹁田文認経磁銘﹂︵﹃明硲先生遺稿﹄巻
之八
僕 ︶
始・
:夷
者
︿本文異同﹀思之ー念之︒
大潮⁝元美髄
﹁典
大潮
禅師
占︵
第二
古簡
︶﹂
︵﹃
明企
脳餘﹄巻下︶に︑﹁師謂鼎文得元芙髄﹂とある︒
為人⁝為非
一日
:.
虚
賓 姓氏解初版は元文五年刊
︒二 巻二冊︒巻首に著者名
なし
︒高辻総長の跛文中に﹁宇鼎﹂とあることによって 著者が明殴とわかる︒ 過庭紀談原念祖斎の祖父双桂の著︒明和五年成立︑ 天保五年刊︒五巻五冊︒巻之三に﹁宇上新ノ姓氏解︑仮 名卿紙ナレドモ甚好︑ソ﹂として詳しく引いている︒双桂 は明磁に就いて学んだ︒ 松本慎位者°号恐山︒天保五年没︑享年八十゜ 以 近 江
:士新意究政七年刊の璽訂本を述べたもの︒ 本文一丁目に﹁近江宇鼎士新著﹂と入る︒寛政七年六月
朔の松本惧の序文が二
丁分
︑巻頭に加えられ︑其の中で
﹁張修姓之説固不埃言此可憾也已﹂と述べている︒
﹃姓氏解﹄巻で詳しく論じている
︒
稲 黙 斎
﹃先達遣事
﹄ ︵ 明和四年刊︶で
以 頃 九
t‑!江
対 系 圭 屯 人
aふ
心 之賣久ボ
布さ研紋然呼含束之 は﹁江村萬蔵投於如土
F1其
姓 氏 日 見
{ ‑
新話及宇氏家 庭因忽問乃翁是公宜父敷上新而云余家父無虚宜突菓蔵黙
然﹂ ︵
割注は除く︶とある︒江村某は伊藤家から江村家
に8
に入
った北海のこと︒明八年没︑年七十
六 ゜
上杉謙信偉﹃明殴先生遣稿﹄巻之六所収︒
年四十八明阻は元禄十一年五月二十日生︒延二年 四月十七日没︑享年四十七︒妻子無し
︵ ﹁
墓謁銘
﹂ ︶ ︒
然世
: ・
祖彼仁斎は伊藤仁斎︒京都の儒者︒宝永二年 没︑万年ヒ十九︒例えば原双桂は﹁元密以来︑彬彬多文 限之士突︑有若伊仁斎物狙裸宇士新
﹂ ︵ ﹃ 双桂集﹄巻
六 ︶
269
と 三 人 を 並 べ て 論 じ て い る。
延
̲.̲ 宰
塁
太和閤明 狙裸門 四 の 年 刻
再゜ 仙者゜
‑ 延-~
録巻付共 年没四
二 亨年
ff~ ノ、‑
﹁対客論文﹂中の三乎:
卑下也
なし
作祭文 ︒
⁝褒揚之﹃明磁先生遺稿﹄巻之八﹁祭三河物
先生文﹂及び同巻之三﹁
哭物先生四十韻
﹂︵ 五言
排律
︶
をさ
す︒
杉以成
⁝興
書
﹃ 明 殴 稿 餘
﹄ 巻 下
﹁ 輿 杉 以 成 内
﹂ ︒
杉
以成は未詳︑明四の門人か︒
僕稲
: ・
之有︿本文異同﹀なし︒
興芥彦章
書﹃明困先生遣稿﹄巻之八所収︒芥彦翔
芥川丹邸︒京都の伯者︒明殴に師市︒天明五年没︑享年
七十
六゜
夫物夫子:
測 也
︿本文異同﹀なし︒
答玄海上人
書
﹃ 明 磁 稿 除
﹄ 巻 下 所 収
︒ 玄 海 ヒ 人
崎大音寺︵浄土宗︶の僧︒狙裸門と交流があった︒
謂洛⁝願也︿本文異同﹀なし︒ 節︒
長
︿本
文異
同>
271
/卜 七゜ 原 田 東 岳 偏 者
︒ 明 三 年 没
︑午年
五 五
゜ 東岳筆疇日﹃束岳先生筆g﹄は安永五年刊︒
冊︒引用部は巻之六゜
祖彼
. .
.
劣 者 也 原 文 は 国
字︒﹁狙裸束涯二先生匹也而
狙裸は堂にあり束涯は室にありこれ其別なり南郭春台ニ
子匹也而南郭は戸にあり春台は門にあり蘭隅周南二千匹
也而皆廊蕪の下にあり金華宇士新
二子
匹也而皆門脇を鎖
んで其中に入ことあたはず宇氏蚊劣等なり﹂とある︒
筆疇又日﹃束岳先生筆間﹄巻之六゜
士新:遠甚﹁伊人平生獨只酉洞博覧を胡乱に傲慢し
て執拗掠撥なることを自知伐せず狙裸先生に酎して旗妓
を構て強て勝負せんと欲せり此心を持して徒に群占を引
て妄意に論語を繹故共説乏然として適従する所なし占今
華儲経他註例に曽てこれなきことなり文七耳亦精熟に至れ
りとは見がたし大氏褐潤舒腸の色これなき故其綴紺結構
する所所聞樗歴殺接古文辞の閥失なひを作ること更に哀
むべし明困集当世識者これを論駁明弁する者又已にかく
のごとくなるときは則狙裸先生に不及こと甚遠きことな ハ巻ナ り﹂とある︒
唄餃遺枇煮澤悴琴況基銘紋野寸成岱交絣不ヤ
旦 且 且 且 ぃ 旱
七年宇先生痘虻汎虻文 4 杓遺冷其門人庁徽猷
1 , 1 1
浄 訪 以 攻 瀦 ︐ 意 荒 令 文 虻
3
絡爵流唸可レ孤ふ
Kー災人刈慕甚益が其臨困只税 m 岱
5人史ふ経7し
'
ー
.
き が 追 雀 如 迅 這 紋 紋 に
` 芥 ぽ 怜 絃 層 注 愚
t
む同 き
B. 士 欲 孤 塁
﹁ 乃 祖 夫 議 ぷ 澳 然 唸 羞 之
9 9 . ,
否
J︑以払行む免水其紋セ赦組以出紺心製以尖
9, 1, 1,
︑1
一篇冬冬〖
'明 銘 叙
﹃明磁先f一遣稿﹄巻之八
﹁ 琴
所先
生位
磁銘
﹂ ︒
澤村琴所は彦根藩上︒元文四年没︑立年五卜四゜
野 子 賤 野 村 束
屯︒彦根藩伯︒天明四年没︑立年六十
¥o
琴所剛稿﹃琴所稿剛
﹄︵ 宝
暦
二年
刊
︶︒ 二
巻拾遮一巻
二冊︒見返しに
﹁宇 士
新先生評脚﹂とある︒附録として
釈怨明撰
﹁ 琴
所先生行状﹂︑明阻撰
﹁ 琴
所先生紘磁銘﹂︑
野村東屯撰﹁故処士琴所澤先生薙誌銘﹂が載る
︒︵
参︶
宗政五十緒﹁沢村琴所の行状
﹂ ︵
﹃江
戸時代上方の地域と 文学﹄所収︑一九九二年刊
︶ ︒
書其後云前註中︑明困撰﹁琴所先生砥函銘﹂のE
ぃ 後
・
野村束屯﹃涵園集前編﹄︵明和七年刊︶巻之六﹁
F1
琴所
先生墓砥銘後
﹂ ︒
先生⁝文云︿本文異同﹀なし︒ちなみに﹃明殴先生 遺稿﹄所収のr点晦銘と比べるとかなり短くなっている︒
吾先冬な各菱菜恥忍士未消灼む帷装点
9 9
術 書 馴 団至睾ふ甚基吾姐患子氏兄弟其培 べ 附
﹃J↓'
﹄
'
︐
ふ芯島
邑 慮 い 立 ︐ 為 語
一 望 牛 自
仁 豆 薙 ギ
︱ f
梓キ成面
仁 王 丸
天履仁天沼恒庵︒稲臣︒伊藤︵島︶氏を一時名乗る︒ 没年・享年未詳︒天沼恒庵と原念祖斎は︑大変親しく︑ 互いの詩文集にその名は数多く登場
︒
特に
屯ぃ
簡か
ら
︑
﹃宇士朗遺稿﹄や﹃名公四序評﹄の貸借の様子が窺える
︵﹃
恒庵
文稿
﹄四
・﹃念祖斎遺稿﹄四
︶ ︒
論語考⁝履仁手﹃論語考﹄巻之四からーノ の
三巻三冊
︵里仁から薙也篇︶は︑#和二年に刊行︒千賀輯の跛文 によれば︑大典禅師が究政十年江戸に糀在した折︑校正 を行っていたものを︑禅師没後志を継いで出版したとい
ぅ゜
補注①宗政五十緒﹁ノーバード・イエソチソ図内館と所蔵
和
F)
﹂ ︵
﹃近世京都出版文化の研究﹄所収︑一
九八
二年刊︶
によれば︑宇野家の文屯
r lは︑子孫が京都上賀茂神社の宮
司座田氏にあずけ︑現在は鎌介訪岡八幡宮に存するとい
ぅ゜
②﹃明殴先︑︶稿﹄には︑二種類の版が残る︒﹃先哲
J談﹄の草稿である﹃日本仰林談﹄の中には
﹁明霞遺
稿八巻典師行輯而校刻也近頃師贈之朝鮮為削其傍繹
又謀其遣漏詩文各一
巻 名 明 殴 餘 稿 以 附 本 集 後 而 師 前 所題序悉改正之﹂の一章が見えるが︑〇印がつけられ版 本では削除されている︒確かにこの記述の通り︑寛延元
273
年の初版本に付す石川麟洲・釈大典の序文ともに︑再版
では版面がかわり︑合わせて初版になかった墓磁銘が付
されている︒また︑初版本文の訓点・送り仮名は︑再版
ではすべて取り除かれている︒更に﹃明霞先生稿餘﹄と
して︑巻上詩八十二首︑巻下文九首が加えられている︒
版元は共に﹁平安書陣田原重兵衛﹂であるが︑再版に
は刊年がない︒﹃日本儒林談﹄の記述に従えば︑明和元
年頃か︒ちなみに﹃日本儒林談﹄には︑前掲以外にも
﹁土新墓磁銘井序権中納言菅原家長撰之﹂といった版本
では削除された箇所を数多く見ることができる︒
︵高
橋昌
彦︶