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教育目的についてのSchleiermacherの見解

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教育目的についてのSchleiermacherの見解

竹  岡  幸  一

Schleiermacher's View-Point on the Purpose of Education Koichi Takeoka 197 Schleiermacher教育思想の全体構造を叙述するに先立って,教育学,教育の課題・目的につい ての彼の思想の特質と,その特質を根拠づける彼の形而上学的論理を素描せんとするのが本小論の 目的である。 1.

He止baumは, Schleiermacherが同時代の教育学者Wagner, Graser, Schwarz等から本質 的に区別される点は前者においてほ「人間存在の個性的形成は,その素質の完全な発展と同時に 社会にまで形成されるときにのみ,真の意味において可能である」1)とされた処にあると述べ,質 に, Schleiermacherが単に個人的観点からではなく,歴史的社会的現実の立場から「教育の課 題」について「包括的な見解」をいだいていたと説いている2)。このHeubaumの指摘する如く, Schleiermacherは,人間の現実の生活・成長についてのリアルな直観に基づいて,教育の課題を 「個性」の完成におくと同時に,人間の成長を現実的に規定している「社会」の視点から教育の課 題を規定し,人間が歴史的に形成してきた社会的現実に積極的,創造的に働きかけ得る能力の育成 を教育の基本目的としたのである。換言すれば,啓蒙期の思想家に見られる如く,抽象的規範の体 系から教育目的をひき出したり,人間の現実の生活を超越して「人類」とか「世界市民」 (Welt-bdrger)とかの類概念を基軸にして教育目的を定立し,その結果,極めて個人主義的な立場に陥る ことなく,人間の社会的現実(特に民族統一体としての国家)が持つ歴史的課題の視点から教育の 目的を考えた処に彼の教育思想の特色があると考えられる。成程,彼の教育学における教育目的の 規定は抽象性をまぬがれぬものであることは否定できないが,しかし,その教育思想は,現存の歴 史的社会的現実の立場から教育の目的を定立していかねはならぬことを我々に示唆する点において 歴史的に大きな意義を有したものと言えるであろう。そして更に,人間の個性の完成も亦,社会的 現実の課題に対応することなくしては不可能であることを洞察していたのは彼の卓見と言わざるを 得ない 1813年から14年にかけての「教育学講義」の中で「教育の課題は人間を個性化すること である。教育的努力の終点においてはじめて人間は個性的存在たり得る。これが教育の最高の勝利 である。」 (P. S., S. 424)と述べられているが, 1820年から21年にかけての「講義」では,この 個性的完成の課題と結合して, 「教育は,人間を,特殊な種々なる社会のために形成しなければな らぬが,しかし,同時に,その社会の不完全性に対抗できるカ(Kraft)と自由(Freiheit)31とを

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生徒のなかに発展させなければならぬ。」 (P. S., S. 508)と述べられている。教育の目的規定にお いて,個人の個性的完成(-人格的完成)と「社会-の教育」とが相即的であることは,言うまで もなく,歴史的社会的現実の課題に取組むことなくしては人間の人間としての成長は不可能である ことをSchleiermacherが洞察していたことを示すものであり,その意味は現在の我々にとっても 重要である。更に彼の教育目的の規定においては,個々の人間存在と特殊なる個々の社会とが緊張 関係において把握され,社会の独善的な在り方が否定され,それは常に人頓社会という最も包括的 な社会-の超出の契機をはらむものとして存在しなければならぬと考えられている点が重要であ る。たとえば,国家社会という具体的な歴史的現実の個人に課する教育目的は,その社会にのみ妥 当する普遍性のない独善的なものであってはいけない。それは,人類のすべてが,人間社会のすべ てが一定の歴史的段階においてほ共通に目的とせねはならぬ普遍的理念の特殊的表現としての理念 でなくてほならないのである4)。結果的には,政治的自由主義の立場から国家主義的な教育目的 は,彼によっては,否定されているのである。個々人は,社会の課題・目的に対応し,その社会の 課題・目的は人類全体の課題・目的に対応するものでなくてほならない。即ち,個人と社会,特定の 社会と人類とが調和しなければならないとするこの教育の課題・目的の規定を原理的に基礎づける 思想的根拠を以下において展開しなくてはならない。その叙述から,又,我々はSchleiermacher の教育思想が構想する教育学の学的性格を察知することができるであろう。 2. 彼は,教師と生徒との個人的関係のなかに教育現実をみるのではなく,社会における「古き世 代」の「若き世代」 -の働きかけの事実のなかに,換言すれば,社会的伝承の事実に教育現実をみ たのである (P. S., Vorl. 1826. S. 3-5)c Lかしこの事実を,そのままの形において教育現実 であるということはできない。教育は,社会生活から結果する自然的影響と異なって, 「秩序」・「聯 関」をもつものであり,明確な目的意識のもとに遂行される機能でなければならぬ(A.a. 0., S. 125-   即ち,社会生活一般における世代間の働きかけ自体が既に「技術的性格」をもつもの ● であるとするならば,教育とよばれる機能は,より「技術的」な働きかけでなくてはならない。よ り「技術的」であるということは,先づ第一に目的意識・理念の明確性を意味する (A.a.0., S. 5)。若し民族,社会の盛衰が世代間の働きかけの技術性に依存するとするならば,教育は単に個人 的な意義をもつものではなく,社会にとっての重要な機能として考えられねばならない。即ち,教 育とは,世代から世代-の伝承をより効果的ならしめ,社会の持続と発展とを可能ならしめる「技 術」 (Kunst)でなければならぬということになる。そして,その「技術」の体系が教育学というこ とになる。この意味から, Schleiermacherは,教育学を,国家の進展を目的とする政治学と並列 して,倫理学の課題を遂行していく「技術学」として規定しているのである(A.a.0.,S.8,10)c 何故なら,他者-の働きかけの行為はすべて Schleiermacherにおいては,倫理的行為と考えら れているからである。教育学は,政治学と連けいして,倫理学5'の原理・課題を社会の場に実現し

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竹  岡  幸  一 〔研究紀要 第25巻〕 199

ていかねはならぬ実践の学ということになる。しかし,この規定をより明確にするためには,倫理 学において展開される学問の区分についての論述を考察せねはならぬ0

「知」は「存在」の「表現」 (Ausdruck)であり,また逆に「存在は知の叙述(Darstellung)で ある」 (G. E. 1816. Allgemeine Eml. II, S. 4)c 「知」と「存在」との対応関係が考えられて いる限り,学問の性格・意義を知るためには,その対象となる存在一般を考察せねはならぬ。先 づ,存在一般は「理性」 (Vernunft)と「自然」 (Natur)とに大別される。 「存在」におけるあら ゆる対立は,この両者の対立に包括される。したがってこれは「最高対立」 (der hochste Gegen-satz)である(A. a. 0., S. 8)c Lかしこの対立は絶対的対立ではない。既に世界が創造され, 世界の倫理化の歴史的過程が始まっている以上, 「自然」は「理性」と交錯(Ineinander)せる自 然であり, 「理性」は「カ」 (Kraft)として自然に内在せる理性である。 「理性」と「自然」との絶 対的対立は,したがって単に仮説的なるものである(A. a. 0., Ill, S. 13-17)c 「存在」の価値

の程度は,この「理性」と「自然」との交錯の度合によってはかられる。最下級の存在は, 「理性」 との交錯が最小限にとどまっている「単なる質量」 (die bloBe Masse)であり,宇宙創造の原初に おいて考えられる「死せる質量としての自然」 (die Natur als tote Masse)ではあり得ない。そ れは仮説的なものに止まる。又,他方「最高存在」 (das hochste Sein)は,交錯の最大限なるも

のであって,本来的意味におけるそれ,即ち,対立の絶対的統一として存するものは(a.a.0., II, S. 5f.),未だ理念としてあり,我々に直接与えられているものではない。 「理性」は「自然的理性」 であり, 「自然」は「理性的自然」であって,両者は相対的対立において存する。世界の倫理化の歴 史的過程は, 「自然」と「理性」との相互の働きによって,相対的対立から絶対的統一に至る無限 の過程であるが,この過程が未だ完結していない限り必然に,存在一般を表現する「知」の体系と しての「学」は, 「自然の学」 (die Wissenschaft der Natur)と「理性の学」 (die Wissenschaft der Vernunft)とに区分される(A. a. 0., S. 9. G. E. 1812/13. Allgemeine. II, S. 60-61)0

しかし, 「存在」における「理性」と「自然」とは相対的対立において在るものである以上,この 両者の学は,相対的に区別されるのみである。即ち,発展しつつある存在一般を,前者は「自然」 の側から,後者は「理性」の側から表現したものである。故に究極においては,両者の学は一に帰 せねばならぬのである。すべての「特殊学」は,この二つの「主要学」・に包括せられ,教育学は, 先づ, 「理性の学」,即ち精神科学に属するものであるがしかし, 「理性」と「自然」とは,又それぞ れ「力」 (Kraft)と「現象」 (Erschemung)とに分たれる。この対立は又相対的であり,各存在に おいて両者は同時的に存在するものである。この「カ」と「現象」との同時的存在(das Zugleich) が「一般的に」,即ち「カ」として見られた場合,それは「存在」の「本質」 (Wesen)であり, 「特 殊的に」,即ち「現象」として見られた場合,それは「存在」の「現存」 (Dasein)である(G.E. 1816. Allg. Einl. II, S. 8-9)。かくて精神科学は, 「倫理学」と「歴史学」とに区分される。倫 理学は, 「理性」と「自然」との交錯・惨透の過程を「理性の行為」として6',即ち,既に「理性」

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交錯・惨透の過程を「理性」の「現象」として, 「自然的理性」の「現存」を表現するものである。 教育学は,この二つの学の中間に位するものであって,従って理念的なるものと経験的なるものと を相互に関聯させる「技術学」として規定される7)。註7)に引用せるSchleiermacherの技術に ついての概念規定からして, 「技術」としての教育は,倫理的原理にもとづいて「理性」と「自然」 との合一過程を深化していく実践である。 「理性」が「自然」との「結合」 (Emigung)において, 「自然」の中に自己を顕示することを可能ならしめる実践である。略言すれば,理念の社会的現実 化である。教育学が「倫理学」と「歴史学」との中間に位置づけられたということは,教育学が理 念の社会的現実化をその使命とする実践の学として規定されたことを意味する。 「最高存在」が「理 性」と「自然」との絶対的統一であり, 「存在」の各面を表現する各特殊学は, 「最高存在」の表現 である「最高学」8)に帰一すべきものである限り9),教育学はあらゆる「存在」と「学」の目的を促 ● ● ● ● ● ● ● ● ● 進する実践の学ということになる。そして理念の社会的現実化といっても,教育は,個々の人間形 成を直接の対象とする限り,更に,教育は倫理化の世界過程の基本的作用としての意義を持つ。と いうのは,倫理的なるものの全体は「人間理性」の働きの結果であるからである10)。即ち, 「理性」 は「自然」との本源的な合一において「人間本性」の自発性の面に「意志」として,受容性の面に 「悟性」として自己を措定したのである11)。したがって「人間本性」における「理性性」 (Vern凸n-ftigkeit)が世界の倫理化のための「根源的なもの」といえるのである12)。そして,この「理性」

の自己措定は類としての人間にではなく,個としての人間存在(das menschliche Emzelwesen) にである13)。 (G. E. 1812/13. Allg. Einl. Ill, S. 66.昏75)。世界の「倫理過程」 (das ethische ProzeB),即ち, 「理性全体」と「自然全体」との交錯過程を進展せしめる「基本的カ」 (die ele-mentalische Kraft)は,従って,個人の理性行為にあると言わねばならぬであろう(A. a. 0., J■ S. 67.ァ77, 80)c故に, 「理性」の「象徴」 (Symbol)であり同時に「機関」 (Organ)としての人 間の育成をその直接の課題とせる教育学並びに教育は,世界の「倫理過程」の基本的作用と規定さ れ得る。かくて我々は,教育学並びに教育の課題,或いはその一般的意義を規定したのであるが, しかし,より具体的な規定に進まねばならない。 「理性」と「自然」との相対的対立が主張され,従って, Kant哲学におけるが如き「自然法則」 と「倫理法則」との本質的区別が否定されで4',倫理学が「自然」の中に働く「理性」の「カ」を 表現するものと規定されたことは,教育学にとっていかなる意味をもつのか。それはSchleier-macher教育学の教育目的の具体性と実践性を表わす。即ち,教育の理念の歴史性,社会性が指摘 されているのである。 「理性」は「自然」と既に合一し, 「自然」に働きかけている「理性」であ る。 「当為」・「規範」は現実存在において働いているものでなくてはならない。理念・「当為」は, 歴史的社会的現実の所産として相対的なものである15)。 Schleiermacherは, Kantの「定言命令」 を否定して16)サ道徳法・ 「当為」の歴史的相対性を主張し,単なる「当為」の体系としての主観的合 理主義的倫理学 -Kant, Fichteの倫理学を指す-に対し,それは, 「理性と自然との交錯」並

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びに「両者の分離の消失」を「理性の行為」として表現するものではなく,単に両者の分離(Ause-竹  岡  幸  一      〔研究紀要 第25巻〕 201

inander),従って「非存在」 (Nichtsein)を表現するにすぎない。 (G. E. 1816. Allg. Einl.含93)。 かかる倫理学は, 「理性行為における否定的側面」のみを表現して「理性」を「カ」として,即ち 現実の理念-の可能性を把握するものではない。実在的客観の把握を基礎とせずして主観的に法則 を定立することは知識の破壊であると反駁しているのである17)。 「法」 (Gesetz)は「存在」を規定 する限りにおいて「法」である。 「存在」を規定し得る「法」は「現存在」・「現象」,即ち歴史的社 会的現実のなかに働いている理念の認識から生れなくてはならぬ。単なる主観の構成物であっては ならない。倫理学が「自然」の中に「力」として働く「理性」の表現でなくてはならぬということ は,かかることを意味している。絶対-の道は, Schleiermacherにおいてほ,相対の徹底になく てほならないといい得る。何故なら,最高なるものは, 「理性」即「自然」, 「カ」即「現象」, 「一 般」即「特殊」として対立の絶対的統一であるが故である18)。かくて,教育の理念の相対性が主張 されると同時に,その理念の現実規定カが要求されるのである。そして,教育学の普遍妥当性がそ の理念・目的構成の点において否定されるのである19)教育学の妥当範囲は,一定の「倫理的見 解」が支配する一定の歴史的社会的現実に限定せられたのである。このSchleiermacherの考え は,その後,近代歴史学派の人々によって実証的に具体的に展開せられたのであるが29)しかし, Schleiermacherの理念の相対性の主張は,歴史的相対主義を意味するものではない。この点を詳 しく論じる余裕を筆者は今有していないが,簡けつにいうならば,対立の絶対的統一を我々は無限 に志向しなければならぬことを彼は意味しているのである。そして,それに至る道は,少なくと ち,主観的に絶対的なるものを構成することではなく,所与の客観的現実の要求する理念の現実化 に徹底することにあることを,その倫理学で展開される彼の世界観が示唆していると考えられ.る21)。 教育学の普遍妥当性の否定は,教育学が技術の学として,所与の客観的現実の特殊性を顧慮して, 普遍的意義をもつ教育の一般的理念を特殊化した原理とその実現方策の手段の体系でなければなら ぬことを意味しているのである。換言すれば,教育学の実践的性格が要求されているのである。 ● ● 更に,前述の如く,教育学は政治学と並列して-これは明らかにPlatonの影響であるが-倫理学の原理を現実に実現していく学と規定されたが,この規定の意味も重要であると考えられ る。というのは,現実の社会における教育という機能は,他の社会的諸機能との関聯のなかで働い ている。とくに政治との関係が直接的である。国家社会における教育は,国家の政治的課題を何等 ● ● かの形で反映している。この反映を,即ち教育の目的を現実に規定している政治的課題・意図を自 覚的に明確化することは,教育学の重要な課題である。この課題を教育が果していくことによっ て,現実の教育はその歪みから脱却し,正しい教育目的を現実的に設定していくことができる。教 育と政治との関係を観念的に切断して,教育の機能をそれ自体で独立した機能として把握すること -教育の中立性の主張-紘,教育現実の歪みを永続化することになる。教育学が政治学と並列 する(koordmieren)という Schleiermacherの言は,この意味において重要である。 Schleiermacherは,その世界観的根拠からして教育学,並びに教育の課題・目的を一定の歴史 的社会的現実の観点から把握するのであるが,社会と個人との関係についての彼の思想から,教育の

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課題・目的を一定の歴史的社会的現実の立場から考えるという彼の見解の意味を,更に追求した い。 3. Schleiermacherの教育思想においては,人間の成長にとっての「社会」 (Gemeinschaft)の意 義が高く評価されており,従って, 「教育学講義」 (1820年から21年の)においても「人間は社会 的存在であり,人間のあらゆる内的なものは,人間との交わりにおいて生成発展する」 (P. S., S. \ 505)とのべられている。これは,彼における教育方法の原則となる命題であるが,この意味から ち,教育の一つの課題として,教育は一定の社会の持続と進展とを目的として個人を社会にまで教 育しなければならない。社会の伝統的文化の消化吸収が,教育の一つの具体的課題とされている。 だが,この「社会-の教育」は,個人に対して一律的・抑庄的なものであってはいけない。一定の 社会が倫理的存在として存するためには,それは「最高存在」の「像」   としてなければなら ない。 「最高存在」は諸対立の絶対的統一として, 「理性」と「自然」との「完全な惨透と統一」の 極において成立するものである。 「一般と特殊の純粋な同時存在」として在るものである。従って 社会は,個の否定において成立するものであってほいけない。それは,あくまで独白な個々人の内 的統一体としてあらねはならぬ。ここで内的というのは自発的,自主的という意味である。彼にお いてほ,存在は一般に倫理存在として在るためには,特殊的・個別的存在として在ると同時に,一 般的・普遍的なるものを表現乃至内に含んでいるものでなければならぬ22)。従って一定の社会が設 定する教育の目的・課題は「個性の教育」と矛盾するものであってほならないし,また他方におい て,その教育目的は社会の自己超寛の契機を含むものでなくてほならない Rousseauの教育論に おける重要な教育目的は,人間を単なる職業人に育てることでなく,人間をして人間たらしめるこ とである Kant倫理学の基本命題は人間を手段としてではなく目的自体として取扱うことであ る。近代思想におけるこの人間尊重の思想を継承して, Schleiermacherは, 「社会-の教育」と 同時的に「個性の教育」を強調するのである23)。この教育目的についての思想は,具体的には,教 育が現存の社会-の適応力を育成することをその基本的課題とするのではなく,社会の不完全性を 超克していく,換言すれば,社会改革の根源カとならなければならないという思想に発展する。 「社会-の教育」ということは,個人をして現存の社会にとって有能な人間たらしめることを意味 するのであるが,しかし,単に現存の社会の維持機能として教育が把握されているのではなく,社 会改革の重要な機能として教育の役割が考えられているのである24)教育は,所与の社会の不完全 性を認めることはできない。教育が社会機能としての役割を充全に果さんがためには,教育の場が 公正な社会批判の場として構成されなくてはならぬ。この意味においてSchleiermacherは,社会 の不完全性を克服していくことができる「カ」と「自由」,即ち認識と実践力乃至技術能カー(「技 術」とは, Platonにおけると同じく Schleiermacherにおいては理念を現実化し得る能力を意味 す)を個々人のなかに育成していかねばならぬと主張しているのである25)。現存の不完全な社会を

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竹  岡  幸  一      〔研究紀要 第25巻〕 203 維持することを基本課題とする教育は,必然的に人間の個性を圧殺する。この場合,いうまでもな く人間の諸能力の充全な発展は期待でき得ない。社会の不完全性の克服をその基本課題とする教育 においてはじめて個性の教育が保証される。何故なら,人間の人間としての成長は,社会の正しい 歴史的課題の遂行に取組むことによってのみ保証されるからである。自らの住む社会的現実の問題 性を認識させ,その問題解決-の主体的情熱を感じせしめ得る教育のみが,被教育者の正しき人格 的成長を可能ならしめ得るのである Schleiermacherにおいて「個性の教育」と「社会-の教 育」とが相即的に主張されているのはこの意味においてである。 「教育に対する国家の職分」という彼の論文は.上述の教育の課題についての見地を具体的に示 すものとして在る。そこにおいて彼は,国家による国民教育の課題を次の如く限定する。即ち,国 民教育の基本的課題は,民族内における階級的分裂を止揚して民族全体のより高き内的統一と自由 を確立することでなくてほならない。国家が支配階級-の従属の関係を打切って「真に統一した国 家」を樹立しようとする場合にのみ,国民教育-の国家の積極的関与が正当化される。即ち,被支 配階級の政治的解放にも拘らず,その階級が「自覚的に目的をたてること」ができず,又自ちの人 間的能力を高めることに自主的に努力できない状態にあるとき,政府は国民の教育に直接に干渉せ ざるを得なくなる。国家による教育が,専制的な国家にみられる如き,下層階級の抑圧と上層階級 の保護を目的とせるものであってはならない26)。そして, 「個性の神域」を国家が侵犯して,単なる 「画一性」 (Gleichformigkeit)を強要するものであってはならない.それは国民教育における国 家機能の限界を超えることになると主張されているのである27) この国家による教育の課題規定 紘, Condorcetの公教育論28)にみられる如く,国家権力の国民教育-の不当な干渉を排除しよう と意図すると同時に,人間の自由と平等との確立という人類にとっての普遍的な歴史的課題に対応 していることに我々は着目しなければならない。この論文の詳細な分析の記述を筆者は意図的にさ けたのであるが, Schleiermacherの論述を通していえることは,国家,社会はその構成員に対し て自らの絶対性を主張するのではなく,その不完全性の超克を教育という機能に期待しなければな らないということである。教育は,社会の「可能な改革の源泉」 (P.S., Vorl. 1826. S. 154)とし ての意味における社会的機能でなくてほならないのである。現存の社会秩序の単なる維持強化に終 始する教育は, 「人間性」の発展を妨害し従って「善の理念」に反するものとして(a. a. 0., S. 45f.¥ Schleiermacherによって否定される。その「教育学講義」においては教育における自由と 平等の原則が執物に主張される。彼によれば,教育の機能は「知識・技術」 (Fertigkeit)の形成 と, 「心術」 (Gesmnung)の育成とをはからねはならぬが,その両面の何れかにおいて生ずる成長 ・発達の差異は全く内的必然的なものでなくてはならない。即ち,社会的強制力,それを反映する 教育によって成長・発達の不平等が生ずるようなことがあってはならない29)。又,個々人の外的境 遇乃至身分的差異によって,その「内にひそむカ」 (mnere Kraft)が充全に陶冶されないという ことがあってはならない(a. a. 0., S. 42-45)。更に,教育方法の原則として教育は常に人間の 内にひそむものの発展を「助成」 (Unterstutzung)することを第一原理としなければならないの

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であって, 「抑圧」 (Gegenwirkung)的な方法であってほならないと徹頭徹尾主張されている(a. a. 0., S. 74-167)。これらの具体的な教育的見解との関聯のなかでSchleiermacherの教育目的 についての見地を考えた場合,一定の歴史的社会的現実の立場から教育の課題・目的が設定されな くてはならぬと主張されたこと,従って「社会-の教育」が主張されたのは,不完全な社会を合理 化したり,社会における支配的な階級の利益のために現存秩序の維持を教育の基本課題に設定する ことを決して意味していないということは明らかであるだろう。そうではなくて,逆に,人間の自 由と平等の確立という一定の歴史的発展の段階においては人類にとっての普遍的理念を現実化する 機能として,人間社会の不完全性の超克を教育の基本課題とせねはならぬことが意味されているの である。教育理念の歴史的社会的特殊性の認識から教育学の普遍妥当性が否定きれたのも,特殊的 ・相対的な教育理念が決してそれ自体において理性的乃至倫理的として是認されたのではない。倫 理学において「理性」と「自然」との「絶対的統一」は理念的なものであると述べられた。理念的 なものであるということは課題として在るという意である。そうであるならば,特殊的・相対的な 教育理念は,常に絶対-の自己超克の契機を内にはらむものでなくてはならない。そのことは国 家,社会による教育が,その具体的在り方において少なくとも自由と平等の原則を貫き,人類的課 題に対応することによって可能となる。教育学の普遍妥当性の否定は,主観的な思惟体系から教育 目的を演緯することを戒め,客観的現実が示唆する可能性として教育の理念がなくてはならぬこと を意味している。 「自然」と結合して, 「カ」として「自然」に働きかける「理性」を倫理学は表現 しなくてほならないという命題が基礎づけている如く,教育の理念は客観的現実に対する規定的な カとしてあるものでなければならない。従って,第2節の終りで述べた如く,教育学は実践の学と して,理念の客観的現実化のための手段体系でなければならぬのである。しかし,これだけの意味 だけではなく,一定の歴史的社会的現実において設定される教育目的・課題は,普遍的理念の特殊 的表現としてなければならぬことを意味しているのである。教育目的の相対性,特殊性が肯定され たのは,実践的必然性からであって,それは常に普遍的な教育理念としての要素をもつものでなけ ればならぬ。相対的な特殊的な社会の教育目的それ自体が,人間に対して絶対的なものとして設定 されることは許されないのである Schleiermacherにおける相対性肯定は一般に,相対性の止揚 契機となければならないのである。たとえば, Comeniusがその「大教授学」において,万人に対 してすべての知識を付与することによって抑圧された民衆を政治的にも解放しようとしたこと, Condorcetが法的に保証された政治的平等を実質化すること,人間の権利意識の確立,人間の身体 的・知的・道徳的能力の充全な育成,等を公教育の目的とし,それらを個々人の幸福と人類全体の 利益という観点からとらえているこれらの教育理念は,現存の我々によっても普遍的意味をもって いる。このような普遍的理念・一般的理念が,それぞれの歴史的社会的現実の特殊性によって具体 的な形態をとらねはならぬということである。一般的理念は未だ抽象的である。それは物的形態を とらねはならぬ。理念的なるものとは,自然と結合せる理性が自然に対し「カ」として働いている ものであるということは,理念の具体化・形象化と同時に社会的実践性を要請しているのである0

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P H 也 剤 J q M ■ m 刊 朝 川                       ま い 毒 川 責 召 い 蓋 い . 量 M u 瓜 叩 竹  岡  幸  一      〔研究紀要 第25巻〕 205 たとえば, Comeniusの上記の一般的理念は,教育学によって,具体的社会における教育の機会均 等の原則に発展せしめられると同時に社会制度的保証に裏付けられなくてほならないのである。人 間の全面的発達という一般的理念も,それが実践的なものに高まるためには,全面的発達を保証す る一定の社会での具体的な教育の制度・方法が明らかにされねばならぬ。このことによって一般的 理念は,はじめて社会的に意味のある実践的な理念となり得るのである。教育学が倫理学の授示す る一般的原理を現実化する技術学として規定されたことは,一般的・普遍的と考えられる理念を物 的・制度的なものに形象化することを教育学はその学的使命としなくてはならぬということを意味 している。人生の普遍的理念が具象化され社会制度的な保証を獲得することによって,理念は我々 の実践原理となり,現実の社会に対する現実的な力となってその相対性を克服せしめていく。教育 学の普遍妥当性の否定は,このように教育目的の社会的実践的性格を意味するものと考えねはなら ぬ。理念・目的の特殊性とは,単に特殊であるということではなく,およそ理念的なるものは具体 性と実践性とを獲得しなければならぬということを意味しているであろう。 社会的機能としての教育は,その日的・課題の点において,特殊的であると同時に一般的である ことによってその構成員の人格的成長を保証することができ,同時に人間社会全体の進歩に貢献す ることができるということを, Schleiermacherの見解が,我々に教えているのではなかろうか。 以上の論述からして,教育の目的・課題について,並びに教育学の性格-とくに理念の点にお いて-についてのSchleiermacherの見解が,ほぼ明らかになったと思う。一定の歴史的社会 的現実の立場から教育の目的・課題は設定されるべきであり,従って教育は社会的機能として一定 の社会の維持発展に貢献するものでなくてはならぬ。そのことから教育学も,歴史的社会的に相対 的なるものにならざるを得ない。しかし,倫理学において展開される彼の世界観,存在論との関聯 から考えた場合,教育の目的・課題は,たとえば国家主義的な教育におけるようなものであっては いけない。不完全な社会を維持強化するために,特殊的・相対的な教育目的を社会の成員に対して 絶対化するようなことがあってはならない。このような教育は「人間性」の発展をさまたげるもの である。社会的課題を自らの課題とする教育は,常に又,個々人の個性・人格の発達を保証するも のでなくてはならぬ。そのためには,社会機能としての教育は,自由と平等の原則を教育の具体的 在り方のなかに貫徹させていくと同時に,人類の普遍的な歴史的課題に対応するものでなければな らない。現存の不完全な社会-の批判を保証する教育のみが,人間の人格的成長を可能とし,同時 に人間社会の普遍的課題に答えることができる。この意味において, Schleiermacher教育思想に おいては教育の基本課題は,社会の不完全を改革し得る認識と実践力を個々人のなかに育てていく ことでなくてほならないということになる。 「教育とは人間を世界にまで導くと同時に,人間をして 世界を形成せしめることである」 (die Erziehung setzt den Menschen in die Welt, insofern sie die Welt in ihn hineinsetzt; und sie macht ihn die Welt gestalten, insofern sie ihn (lurch die Welt laBt gestaltet werden.) (P. S., Aphorismen z. P. Nr. 72. S. 492)

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の諸社会で有能に活動できる能力をもたねばならないと同時に,単にそれだけではなく,その社会 の不完全性を止揚し得る能力を有しておらねばならない。社会的機能としての教育は,この倫理的 課題を果していく基本的機能として在らねばならないのである。 今日, 「善の理念」にしたがって「人間をして世界を形成せしめる」ためには,教育の目的・課題 は具体的にどうあらねはならぬかということは,勿論,我々自身が考えねはならぬ問題である。教 育の目的・課題についてのSchleiermacherの形式的見解のみにしか本論ではふれることができな かった。しかし,我々の社会が階級的対立の社会であり,現実に機能している教育が支配階級の階 級的エゴイズムのためにある限りは,教育目的・課題の在り方についてのSchleiermacherの所論 は,多くの有益な示唆を我々に与えるものであることを附記しておく。 ● 本論で示されたSchleiermacherの見解が,教育方法論,学校制度論のなかで具体的にいかに展 開されるかが,次に残された問題である。 参考文献略記号

P, S. - Schleiermachers padagogische Schnften ; hrsg. v. Platz. 1902. ●

S. W. -Schleiermachers Werke, Auswahl in 4 Bde. 1910.

G. E. -Schleiermachers Grundriβ der philosophischen Ethik; hrsg. 1841 v. A. Twesten. Neuer Abdruck, v. Fr. M. Schiele. 1911.

1) Rein; Encyklopadisches Handbuch der P畠dagogik. VI. Schleiermacher. II. (c) S. 120.ここ

で言われている「社会」一(Gemeinschaft)とは,具体的には, 「教会」, 「国家」, 「自由なる交際(Verkehr) の社会」, 「知の社会」を指す。

2) A. a. 0., S. 119-121.

3) 「カ」 (Kraft)とは認識を意味し, 「自由」 (Freiheit)とはその認識の実現を可能ならしめる実践九 乃 至技術力を意味す。

4)この点についての具体的論述は, ^Ueber den Beruf des Staates zur Erziehung. (gelesen in der Plenarsitzung der Koniglichen Akademie der Wissenschaften am 22. Dezb. 1814)." In : S. W.,

Bd. I.を参照。尚,拙稿「教育の自由について-Schleiermacherの見解を中心として-」その(-)0 10頁以下参照。 (鹿児島大学教育学部「研究紀要」第9巻,人文社会科学篇(1957))

5)以下の論述が証明すると思うが Schleiermacherの「倫理学」は「当為」・「規範」の体系ではなく, 人間の理性によって形成された「価値物」 (G也ter)の全体相を表現するもので,一種の文化哲学とも考え

られる。彼の倫理学は, 「実質的価値の倫理学」 (G也terethik)と名づけ得られる。 6) G. E. 1816. Allg. Einl. Ill, S. 13. G. E. 1812/13, Allg. Einl. II, S. 61.昏28. 7) Ethik 1816. Einl.ァ109. In:S. W., Bd. 2, S. 549f.

技術についてのSchleiermachen白身の規定は以下の如し wDas regelgebende oder technische Verfahren ist die Praktische Beziehung des Beschaulichen und Erfahrungsm細Igen auf

einan-der, und liegt auBer der Wissenschaft也berhaupt auf der Kunst. Sein Gegenstand ist jede sitthch bestimmte einzelne Einigung von Vernunft und Natur, wie sie sich in dem lhr schon geeinigten Natur gegen die noch widerstrebende Natur, und es mittelt aus durch vergleichende Beobachtung zum Behuf des handelnden Eintretens in ein solches Gebiet, unter welchen

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Umst畠nden und Bedmgungen der Widerstand am leichtesten oder schwersten gehoben wird, und die Vernunft sich der Natur am vollst畠ndigsten und leichtesten bem畠chtigt. Beispiele : Erziehungskunst, Staatskunst u. a. m." (A. a. 0., S. 550)

8) G. E. 1816. Allg. II, S. 5f. G. E. 1812/13. Allg. Einl. II, S.

9) G. E. 1816. Allg. Einl. I, S. If., S. 10.ァ61. G. E. 1812/13. Allg. Einl. II, S. 61.

10) w---ist die Gesamtheit alles sittlichen ftir-sich-zu-Setzende die Gesamtheit der Begriffe von

den Wirkungen den menschhchen Vernunft in alien irdischen Natur." (G. E. 1816. Die Lehre

von hochsten Gut. Einl. S. 23.ァI).

ll) G.E 1812/13, Allg. Einl. Ill, S. 66.ァ70. Vgl. G. E. 1816. Die Lehre v. h. G., Einl., S. 23. ァ3, S.24.ァ5.

12) 「理性のすべての行為に先立って,自然の中に力(Kraft)として存在する理性」は, 「人間有機体におけ る理性の存在」である。したがって``jades wirkliche Einssein der leidenden Natur und der hand-elnder Vernunft auf dieses Urspriinghche zuriickgefiihrt wird." (G. E. 1816. Allg. Einl., Ill, S. 14.ァ83, 84.) Vgl. G. E. 1812/13. Allg. Einl., Ill, S. 62.ァ39.

13)この表現の中に,我々はSchleiermacherの「個性」尊重の思想が基礎づけられていると考える。 14) Ueber den Unterschied zwischen Naturgesetz und Sittengesetz. 1825. In: S. W., Bd. I. 15)この点については,拙稿「Schleiermacherの世界観について」その 14頁以下参照(鹿児島大学研

究紀要第8巻。人文社会科学篇(1956)) 16) A. a. 0. In:S.W., I, S.402ff.

17) Ethik 1816. Einl.ァ95. In:S. W., Bd. 2, S. 545.

18)最高なるものは wein reines Zugleich des Allgemeinen und Besondern"である(G. E. 1816.

Allg. II, S. 7.ァ41.) 19) P. S., Vorl. 1813/14. S. 423, Vorl. 1826. S. 19-29. その主な穀述は1826年の講義にある。要旨は以下の如し。 教育は,社会の一機能であり,従って教育において実現され得る原理乃至理念は一定の歴史的社会的覗 実において是認されたものでなくてはならぬ。なるほど,教育は,ある理念を所与対象(個々人)の中に 再創造していく過程である以上,所与対象の特殊性によって,その具体的在り方をかえなくてはならない。 しかし教育である以上,抵抗をこえて善なるものを実現していかなくてはならない。故に,教育の在り方 を第一義的に規定するものは,所与対象の特殊性にあるのではなく,実現されるべき「思塀的原理」,即ち 善の理念の特殊性である。したがって,一定の「倫理的見解」 (sitthche Einsicht)が支配する領域に教 育学の妥当性が限界づけられる(P. S., Vorl. 1826. S. 27f.)0

20)たとえば, W. Dilthey; Geschichte der Padagogik. Grundlimen eines Systems der Padagogik. In : W. Diltheys gesam, Schriften IX. 1934.

M. Frischeisen-Kohler ; Bildung und Weltanschauung. 1921.

21)与の点のSchleiermacher世界観の意味理解にとって,木村素衛氏の以下の言葉は,示唆的であるo 「歴史的な限界が明示されるといふことは,そのものが歴史的実在のうちに置かれることを意味し,そ してこのことはそのとき初めてそのものが真に具体的な在り方に於て置かれるということを意味するもの にはかならないのである。歴史的実在のうちに置かれることに依って,ものの意義は限界づけられると共 に,同時にまた却って成長と発展とのいのちを与えられるのである。歴史的実在はいのちを養ふ豊鏡な土 壌である。そのうちに置かれることはものの意義を単に限定し相対化するに止まるのではなく,却ってこ れを其の永生に高めることにはかならない」。 (「国家に於ける文化と教育」 15頁。岩波書店。) 22) 「個性の尊重」,個人の人格の尊重ということは,近代教育思想の中核的理念と考えられるが, 「倫理学」 における存在論はこの理念を形而上学的に基礎づけている。

(12)

Vorl. 1826. S. 36.) 「教育学講義」の中で,人間の個性的在り方を基礎づける論旨の要約は以下の如し。 神以外の存在一般は, 「一般と特殊との対立」において存在する。即ち,各人間存在は「人間」として 一般であるが,しかし単なる「人類」ではあり得ない。更に, 「種」, 「民族」等の特殊的限定を含む。動植 物についても同じであるOだが高次な存在は,他と代置し得い「特質」 (Eigentiimlichkeit)をもつ(P. SりVorl. 1820/21. S. 497f.)。即ち,人間は他の被造物と異なり,自然からの一般的規定に止まることな く自己自身の内的カから逆限定をなす(A.a. 0., S. 500)。独自な存在としての個は,自然による外から の一般的規定と自己自身からの個的限定の独自な統一体としてある.このことは叉, 「受容性」 (Rezeptivi-t畠t)と「自発性」 (Spontaneitat)の対立として表現される (A. a. O.)。 「人間本性一般」 (die allge一 meine menschhche Natur)は,即日的統一体としてではなく,独自な個の産出によってその存在性の次 元を高めなくてはならぬ。何故なら,存在の高次性は,その分化と統一の広深性によって決定されるから。

wDie Erziehung soil so eingenchtet werden, daB beides 〔Erhalten und Verbessern〕 in moglichster Zusammenstimmung sei, da6 die Jugend t也chtig werde einzutreten in das, was sie vorfindet, aber auch tiichtig in die sich darbietenden Verbesserungen mit Kraft einzugehen."

(P. S., Vorl. 1826. S. 32.)

25) P. SりVorl. 1813/14. S. 423f., Vorl. 1820/21. S. 508.

26) Ueber den Beruf d. S. z. Erziehung. In: S.W., Bd. I, S. 509ff.我々はここにフランス革命当時 の進歩的教育思想の継承をみる。

27) A. a. 0., S. 517ff.

Condorcet ; Ropport et projet de decret sur rorganisation g色nerale de Tinstruction publique, presentesえrAssemblee nationale, au nom du Comite d'lnstruction publique. 1792.

29) 「知識・技術」の形成に関して総括的に以下の如く述べられている。(この事は当然, 「心術」の形成にも妥 当する)0 wDas ganze Geschaft der Erziehung ist so zu teilen, da6 am Ende eines jedem Ab_

● ●

schnittes und beim Ubergang in einen neuen die Entwicklung der Ungleichheit und die immer

mehr sich selbst bestimmende Aussicht auf die Region, die jeder einnehmen wird, deuthch

erkannt werde als von dem Einzelnen selbst, seinen Anlagen und seiner freien Selbstth如igkeit ausgehend, nicht als lhm von der Erziehung gewaltsam aufgedrungen, oder vorenthalten.?J5

(P. S., Vorl. 1826. S. 152.)また「心術」の育成に直接関聯して以下の如く述べられている。 ``Die Un一 gleichheit in der Entwicklung der Gesinnung soil nie rein als Werk der Erzieher erscheinen, nie das Werk lhres Willkiir sein, sondern ihren Grund haben in der Freiheit derer, die erzogen

参照

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