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第五章 映画による教育の郷土教育的要素の考察

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第五章  映画による教育の郷土教育的要素の考察

  映画は 20 世紀の偉大な発明の一つであり、映像と音声によって人類及び人類が生きる環境を忠実に 記録するものである。映画は簡易な光学・機械・化学・物理変化を通して、人類の活動記録を長期にわ たってフィルムに保存する。従って、映画はタイム・カプセルのような機能を有し、映画を通して過去・

現在・未来の世界に行ったり来たりすることができる1。また映画は動く画像であり、その意味で躍動的 美術とも言える。ヨーロッパでは「第八芸術」と認識されており、その領域には文化・科学・芸術・教 育・媒体などが含まれる。

  ドキュメントを含むほぼ全ての映画はドラマツルギー2が意図的・無意識的に使われ、その創出したキ ャラクター・物語・仕草・会話・場所・表象・音楽・効果音などが創作者・制作者によって「真実の世 界」を意図的・無意識的に反映し、それぞれの文化的価値観が秘めている。つまり、映画というものは 相対的に「真実の世界」を客観的に反映できる3。言い換えれば、一本のハリウッド映画が観客に与えた ものは、カリフォルニアの風景やアメリカ的価値観であり、台湾の「真実の世界」ではなく日本的価値 観でもないのである。従って、日本の台湾領有時代における映画諸事情を研究することによって、より 客観的に当時の「真実の世界」に近づけると考えられる。

  しかし、映画による教育は一般的に社会教育分野に属されているイメージが強いため、一般社会教育 の一種として第四章の「社会教育における郷土教育的要素の分析」に入れる項目であるべきだと考えら れるが、本章は何故社会教育の分野の一つではなく、映画による教育、つまり映画のみを取り上げたと 言うと、映画が発明されたのはちょうど台湾の日本統治時代の始まり(1895(明治 28)年)前後に相 当していることと、その後新しい娯楽として台湾に導入されたが、いつの間にか社会教育のツールに留 まらず、学校教育の教材としても利用されていたことが判明したため、つまり専ら社会教育分野のもの ではないということから本章を立ち上げたのである。

そこで、19世紀末に制作された映画はいつ、どのように、どのような形で台湾に現れたのだろうか。

また、映画は台湾の日本統治時代においてどのように扱われ、台湾の教育にどのような影響をもたらし たのだろうか。郷土教育は、定義によれば地方文化教育・農村教育・愛国教育と分けられるが、地方文 化伝承の一環としての映画教育は、日本時代ではどのような形で推進されていたのだろうか。本章は台 湾における映画の歴史変遷、映画に対する法令制限と共に、上述の様々な問題を分析していくと同時に 多文化教育的考察を行う。なお、映画作品のタイトルやその説明内容に現在では不適切な表現だと思わ れる用語もあるかもしれないが、本論文では本来の表現を採る。

第一節  「活動寫真」としての草創期から宣撫時期 第一項  台湾における映画の濫觴と教育との結びつき

活動寫真と称されていた映画が台湾に初めて上映されたのは、1900(明治 33)年であった。当時日 本が台湾を領有して5年が過ぎ、臺北在住の日本人がほぼ3万人に増え、日本人社会も次第に形を整え つつあった。従って、臺灣總督府は歓楽街の他に、社会教育的機能を含めた健全な娯楽の場が必要だと 考え、清国時代に建てられた登瀛書院を淡水館という公民館に改修され、同年6月に義太夫や忠臣蔵の 芝居、手品、手踊りなどに混じり、フランスの「幻画協会リュミエール」という映画制作会社が制作し た短編の活動寫真、例えば『軍隊の出發』や『汽車の發着』、『海水浴』、『職工の喧嘩』などが「淡水月

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例余興」として上映された4。これは台湾で初めての映画活動であり、観衆からの大喝采ぶりを台湾日日 新報にも報道された。しかし、大多数の被植民地と同じように、その観衆は全て台湾在住の日本人有力 者や官吏とその妻たちであった。

1900 年から映画活動が台湾に現れはじめたが、映画自身が新しいものであるため、映画の内容や上 映場所に関して制定された法規や規則などがなかった。新聞や出版以外のメディア内容を規制する法規 は、最初は台湾全島を含む法規ではなく、地方の県令として制定された。それは1901(明治 34)年7 月 14 日に発布された臺北縣令第十二號の「劇場及寄席取締規則」である。条文の中に、建築物の規模 や消防器具の設置、防臭剤の散布などの衛生事項の他、政治的言動や治安・社会風俗の危害への禁止な どといった上演内容に対する規定も含まれている。

日本内地では明治末期から大正時期において、映画は児童教材としての討論がなされていた。文部省 は通俗教育調査委員會の調査成果によって、1911(明治 44)年に「幻燈映畫及活動寫真フイルム審査 規程」、1913(大正 3)年に「幻燈映畫及活動寫真フイルム設定規程」を議決した。その他、民間の教 育組織である帝國教育會は通俗教育部を設置し、文部省と内務省に「映畫取締建議」を提出したことが ある5

こうした情勢に中で、台湾でいち早く映画内容の審査・検査に関心を持ったのは、教育者であった。

当時の『臺灣教育會雜誌』によると、ベルリン市の学務委員会会長であるドラング氏が、「最近の流行 活動寫真は小學生の教育に有害」や「ベルリン市は小學生を商業的活動寫真館より引き離すため、毎週 教育的活動寫真の上映會を開催する豫定」などと言及した6。その後も日本内地の映画と通俗教育に関す る報道が続いた。例えば「通俗教育は直接に道徳教育を施行する手段であるため、誤解されないであろ う…<中略>…通俗教育というのは一般男女が通俗的に容易く学術や技芸などの知識を身に付く手段 である」7(大阪時事新報より)や「社会通俗教育奨励」8、「世俗教育の改善」9の提言(『臺灣教育會』

雑誌より)などが挙げられる。このように、この時期において台湾で映画と通俗教育の関連性は常に話 題となっていたが、社会風俗に対する害悪の恐れや児童教育に対する悪影響の可能性などが強調されて いた。従って、映画に対する法規は未だ制定されてはいなかったが、それを期待する声が存在していた と考えられる。

第二項  映画の媒体的機能と映画による教育事業の展開

  映画が1900(明治33)年に台湾に登場はしたものの、初めて一般大衆の生活に入り、都会区で認め られたのは、1904(明治37)年から1905(明治 38)年頃であると考えられる。1904(明治 37)年、

世界各国で映画制作がなされており、日露戦争が始まると、欧米諸国から大勢のカメラマンが旅順など の戦地に駆けつけ、撮影をしていた。欧米の他に、南米のブラジルやチリでも日露戦争の記録映画が興 行されていた。戦争が続行中なので、当時撮影されたフィルムは直ちに現像され公開され、「大好評」

を博した。当時の臺灣日日新報によると「當夜より基隆福樂座に於て日露戰争大幻燈が興行せる。仁川・

旅順の海戰を始め、日露戰争寫真及び兩國將士の肖像、其の他寫真數百種」10や「臺北座の活動寫真は 非常の大入にて中入頃には既に札止の盛況といふに記者も一夜立觀」、「評判に違はず場内は立錐の餘地 なき」、「面りに於て實景を觀る心地したり」11などと報道された。こうして戦争の写実映画は、早くも 人々の最大の娯楽の一つとなり、映画産業にも活気をもたらした。また、映画というものに娯楽だけで なく、実況を報道する媒体的機能を有することは、普遍的に社会に認知された。

  1907(明治40)年、臺灣總督府のバックアップによって高松豊次郎が制作した『臺灣紹介活動寫真』

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が公開された。この映画は「鐵道旅行と地方漫遊」、「基隆港及び金山」、「臺北の撮影」、「蕃界の撮影」、

「蕃人の状態と當局者の苦心」という5部からなっている。簡略に言うと、前の4部はドキュメンタリ ーで日本内地の人々に受け入れられそうな台湾という異国情緒が溢れる風景となっており、總督府によ って整備された基隆港も映し出されている。しかし、第5部の「蕃人の状態と當局者の苦心」は、領台 後何年にもわたって繰り返された土匪鎮圧の出来事を再現したドラマであり、統治側の「蕃人征伐」と いうのはやむを得ないことと日本の原住民統治政策を正当化したものとなっている。この作品は台湾で 巡回上映され、總督府の意志を伝達する役割を果たした後、同年に東京・上野で開催された「東京勸業 博覧會」でも上映され、一定の台湾観を日本内地の民衆に植えつけていった。

この時期は日本統治当局が台湾を領有する初期であり、統治秩序の形成や産業の開発が最優先課題と なる時期であったため、映画は教育・宣撫用の記録映画が大半を占めている。その代表的な映画は前述 した『臺灣紹介活動寫真』の他、大正天皇の即位の儀式を記録した『御大禮活動寫真』が挙げられる。

この映画は臺灣教育會活動寫真部によって1915(大正4)年から翌年にかけて、台湾各地の公学校でく まなく上映されていた。1901(明治 34)年に発会した臺灣教育會は、日本語教授法の研究と台湾人の 同化教育を活動内容とした組織であり、1914(大正 3)年から映画の制作や巡回上映を始めた12。従っ て、学校及び地域の組織を通じ、台湾人に対して映画による教育工作が本格化したのはこの頃であると 考えられる。

第二節  同化方針と反植民運動としての映画教育活動 第一項  臺灣總督府各部署による映画制作

台湾領有の初期において、日本政府は統治秩序の形成や産業の開発に没頭し、初等教育や社会教育事 業については未だ普及していないと言える。しかし1910年代中盤以降、植民統治が次第に安定し、1919

(大正8)年10月に武官総督を廃したことによって、内政の実施が重視される時代を迎えた。1代目文 官総督である田健治郎は同化政策を確立し、「内地延長主義」を施行し、台湾島民を教化して「忠良ナ ル國民ヲ育成スル」という教化善導13を施政方針として全力に教育事業を推進していた。國語の普及が 最も喫緊の教育課題であるため、耳で聞くより目で見る直観教育のほうがより容易にその教育的成果を 得ることができる14ため、總督府は映画による教育をも積極的に推進するようになった。そこで、臺灣 教育會活動寫真部をはじめとする臺灣總督府各部署は様々な映画の制作に着手し、民間においても第一 次世界大戦後の「民族自決」という思潮の影響を受けて台湾人民族運動が盛んになり、その活動の一部 となった映画の制作・巡回上映も行われ始めた。

  1918(大正7)年に臺灣總督府文教局に巡回活動寫真班が設置され、臺灣教育會の撮影などに協力し、

1922(大正 11)年に臺北州廳衛生課からの委託で『チフス豫防』などの衛生教育に関する映画を制作 し、予防注射や食物衛生管理の重要性などを宣伝するため、台湾全島で長期にわたって活用された。總 督府警務局理蕃課もその年から台湾原住民の文化的行事や郷土の近代化などに関する映画を制作し始 めた。例えば『花蓮港廳の蕃人の同窗會』、『新竹州大溪郡前田蕃および臺中州能高郡下蕃人家長會』、『臺 中州各郡および臺北州羅東郡の頭目會議』、『臺中州能高郡過坑蕃人の家の建て替え』、『臺北州、臺中州 の蕃人の墓地建設』、『臺中州東勢、能高兩郡および高雄州屏東郡の蕃人の斷髪』、『臺中州能高郡の蕃人 の夜學』、『臺南州阿里山蕃の公衆便所設置』、『臺北州蘇澳郡蕃童教育所同窗會』、『新竹州猴猴蕃頭目會 議』、『新竹州大湖郡北勢蕃國語練習會』、『臺北州蘇澳郡東澳移民地の蕃人の神社祭典擧行』などである

15。殖産局特産課は、台湾特産品であるバナナ、茶葉、パイナップル、砂糖などに関する作品を制作し

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ていた。財務局税務課は納税の重要さを説いた『内地人と本島人の融和』、交通局逓信部は『郵便局の 實況』を制作した。鐵道部運輸課は『阿里山の櫻』、『淡水線沿線』、『霞海城隍廟の祭』、『南國縦貫』、『臺 灣山脈を行く』など郷土の地理や文化的行事などに関する映画を制作し、臺灣警察協會は『新高山』、『タ イヤル族の一日』などを制作していた。1923(大正 12)年、後の昭和天皇である皇太子が台湾を訪問 し、その記録映画が文教局と臺灣教育會映画班によって制作された。各地の歓迎ぶりと共に、民族名を 掲げた原住民の人々が民族衣装を着て隊列に並び、皇太子を出迎える姿などが撮影されたものである。

第二項  臺灣文化協會と美臺團

上述した殖民当局の制作した同化色を帯びた映画と対照的に、『誰之過』16や『情潮』17などの台湾人 による映画制作も次第に増えていった。この中に最も重要でかつ啓発的機能を持っていたのは、台湾最 初の「文化建設委員会」とも言われる臺灣文化協會である18。19世紀末期から20世紀初期にかけて、

民族自決という世界的風潮を受けて日本内地に自由民権思想と社会主義運動が興り、また1919(大正8)

年3月1日に同じ日本の植民地である朝鮮では「萬歳事件」(または3.1独立運動)が起こり、当時東 京に留学していた台湾留学生にも大きな影響をもたらした。1921(大正10)年10月17日、こうした 東京の台湾留学生を中心に、台湾文化を向上させるために新しい文化運動を起こすことを標榜した「臺 灣文化協會」が創立された。初期の臺灣文化協會の活動は、①会報誌の発行、②讀報社の設置、③各種 の講習会の挙行、④夏季学校の開催、⑤文化講演会(台湾全島の巡回講演)、⑥文化話劇運動、⑦「美 臺團」による社会教育映画の巡回上映、などがある。

  臺灣文化協會は啓発活動に従事し、主な活動として台湾全島を回って文化講演会を開いた他に、より 郷土の人々に新しい知識を吸収させ、民族意識を高揚させるため、映画巡回上映班を組織した。当時の 専務理事である蔡培火は映画の大衆に対する教育的影響力を重視し、1925(大正 14)年秋に東京で映 写機と記録映画、社会教育映画を十数本購入し、台湾に持ち帰った。その後、教育者経験を持つ臺灣文 化協會の青年会員3人(1人は機械を操縦し、2人は弁士を担当する)を訓練し、活動寫真班を組織し た。その活動寫真班は台湾の美化と民度の向上を目指すため、「美臺團」と名付けられた。

  1926(大正15)年4月、美臺團は臺南の大舞台戯院で一回目の上映会を行ったが、満員だったため 上映日を一日延長した。その後は南部から徐々に臺中州や臺北州を巡回・活動し、各地の民衆に大いに 歓迎されていたため、半年後の9月に上映班がもう一班増やされ、主に南部の小さな町や農村を回って いた。僻村まで上映活動を行っていた美臺團は、民衆の人気が非常に高く、上映会は殆ど満員だった。

田舎では映画が珍しかったことも一因と考えられるが、弁士による政府批判を兼ねた解説、また毎回上 映を始める前に必ず合唱する、國語ではなく福佬語による美臺團の団歌(詳しくは本論文第四章第四節 第一項を参考すること)もその人気に拍車をかける要素であったと考えられる。

こうした映画上映会において民衆を沸かせた最大のポイントは、弁士による解説であると考えられる。

臺灣文化協會の機関紙である臺灣民報によると、美臺團による上映会の告知には街庄名や日にち、弁士 の氏名が細かく列記されているが、肝心の映画のタイトルは記されていなかった19。つまり観客の関心 は、映画よりも弁士の弁舌に向いていたと考えられる。当時美臺團の映画『母と子』を鑑賞した経験を 持つ李筱峰の祖母の話によると、この映画の弁士を務める林秋梧は、「…この母親を見て下さい。彼女 は教育を重視している。子どもの教育だけでなく、男に対しても女に対しても平等に教育を重視してい る。従って、我々も勉強しなければならない。男だけでなく女も勉強しなければならない。勉強しない と永遠に帝国主義の奴隷になってしまう」と力強く「解説」したという20。そのため、弁士の解説及び

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上映活動はしばしば監視の警察に中断された。こうして美臺團の活動は津々浦々に展開され、台湾民衆 に広大な影響をもたらしたが、臺灣文化協會の左右分裂によって僅か2年余りで終息した。

第三項  映画検閲制の開始と『日本統治下の臺灣』

1923(大正 12)年の関東大震災を契機に、日本映画の制作が急速に増えていき、台湾でも大型の映 画専門館の新世界館や芳乃館が建てられ、日活(「日本活動寫真株式會社」のこと。1912年創立)や天 活(「天然色活動寫真株式會社」のこと。1914年創立)の作品も上映され始め、日本映画の配給体制が 整っていった。しかし、前節に述べたように、当時映画上映に関する法令が未だ完備されておらず、各 地の法規も異なったため、ある地でカットされたシーンが他の地ではそのまま上映されるといったこと もあった。州廳が各自の基準で取り締まることによって様々な弊害が生じたことは、警察だけでなく映 画業者にとっても不利益であった21

こうした問題を解決するため、1926(大正 15)年7月に府令第五十九號「活動寫真フィルム檢閲規 則」が制定された。この法令で注視しなければならないのは、当時まで演劇などの他の大衆娯楽と包括 されてきた映画はこの法令によって区別され、内容への取り締まりが強化されたからである。すなわち、

この検閲規則施行後、映画は新聞紙や書物などの出版物と同等視され、娯楽的要素だけでなく、表現・

宣伝の道具でもあると考えられることになった。また、この法令は1年前(1925年5月26日)に日本 内地で制定された内務省令第十號「活動寫真フィルム檢閲規則」と内容がほぼ一致している。こういっ た連動的な法令制定は、映画というメディアが台湾島内の統一した法令によって規定され、その検査標 準も日本内地と同じ段階に達したと意味する。その後、この法令は映画検査に対する基本法となった。

その背景には、娯楽としての映画が如何に社会に受け入れられていたかということと、前述した臺灣文 化協會の美臺團が台湾人民族運動の一環として普及するようになったことに対する懸念の2つの要素が 考えられる。

臺灣總督府によって1935(昭和 10)年に開催された「始政 40 周年記念臺灣博覧會」は、日本の台 湾領有以来最大規模の文化宣伝イベントである。その主旨は台湾が日本に統治されてからの地方施設と 郷土文化の進歩を誇示することである22。博覧会に向けて臺灣總督府が記録映画『日本統治下の臺灣』

を制作した。これは台湾では初めてのトーキーの記録映画で、その内容は3部からなっている。第1部 は1895年に日本軍が台湾を平定したときの足跡であり、第2部は高雄から澎湖島馬公港へと至る海軍 の駆逐艦の活動を記録したものであり、第3部はこの年(1935年)の6月20日に日台間の電話が開通 した様子、などを含む始政40周年記念行事の記録である。

  『日本統治下の臺灣』はそれより 28 年前に制作された『臺灣紹介活動寫真』と趣旨がほぼ同じで、

官民が協力して撮影に当たり、軍部が映画撮影のために軍事演習を行い、撮影場所も多数・多岐にわた り、産業・教育・交通・自然・名所旧跡と都市の様子などを網羅し、台湾の発展を誇示するためのもの である。記念行事の記録では、始政40周年を記念して選ばれたミス台湾の黄鳳、『怪紳士』23の主演女 優で台湾を代表する美人と言われた李彩鳳、台北森永製菓営業取締役の娘の吉川栄美子の3人の美女を 登場させた24。台湾人女性を2人登用することで、台湾が既に日本と融和し、日本の一部として発展し つつあることを強調しようとしたと考えられる。「内地延長主義」や「内臺融和」などの教育方針に沿 って行われてきた成果とも言える。

第三節  政府側による映画の全面的統制

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第一項  映画の輸出入制限と「映畫法」の施行

  前述した「活動寫真フィルム檢閲規則」の施行によって、映画の検閲が台湾全島に統一的に行われた 後、次の重点は台湾内外における映画の輸出入であった。1931(昭和6)年に発生した柳条湖事件(満 州事変)によって世界各国が日本帝国の拡張に反感を抱え始め、また日本もその2年後に国際連盟を脱 退したため、国内外には大きな変化が起こりつつあった。こうした中で、ヨーロッパ留学から帰国した 映画監督の牛原虚彦は、外国人が日本及び日本の政策に対して歪めたイメージを抱いていることについ て、映画の対外国問題として提起している。また、ヨーロッパ視察から帰ってきた立憲政友會の岩瀬亮 も、日本文化に関する外国製映画を鑑賞して「屈辱」的な体験をしたと発言している。こうした雰囲気 の中、1933(昭和 8)年に行われた第64 回帝國議會では、外国映画に影響を与えることは難しいが、

少なくとも「正確に作られた日本製映画」を輸出することによって「意図的なひねくれと歪曲」に対処 することは可能だと結論を出した25。その後、日本内地では1935(昭和10)年10月21日に内務省令 第63號「輸出活動寫真フィルム取締規則」が制定され、台湾では翌年1936年7月28日に台湾版の法 規である府令第61號「輸移出活動寫真フィルム取締規則」が制定された。

  「輸移出活動寫真フィルム取締規則」が制定された後、「今まで輸出した映画の中に、遊廓や物乞い などが映画のシーンに入ったことによって国家の威信を損ねる結果となったものや、軍事内容が入った ことによって日本の侵略主義の表れとなり、国際親善の阻害となったものがあるため、それらの映画の 輸出を妨げ、国益を擁護することはこの規則の要点である」26と、この法令の制定理由を報道する記事 が『臺灣警察協會雜誌』に載せられており、当時の社会的背景が垣間見える他、その後の映画制作の大 きな方針は「国益を擁護する」ことになり、つまり「国策映画」の誕生である。

映画の輸出入に対する制限が加わった後、1939(昭和14)年4月5日に勅令第667號「映畫法」が 頒布された。それは戦前日本内地の映画検査や映画統制を論じる際に、最も重要な法令である。この法 令は当時ドイツの映画法から啓発を受けた革新派の官僚たちによって制定されたもので、映画に関する あらゆるハードとソフトを積極的に管理しようとしたものであった。脚本の事前検閲、映画館入場者の 制限、制作と配給の許可制、文化映画とニュース映画の上映義務付け、俳優・監督・撮影技師の登録制 などがその内容であった。映畫法の登場によって、国内で制作される映画も、外国から輸入される映画 も、完全に政府によって掌握・管理されることとなり、それは映画産業が全面的な統制を受け始めたこ とと意味した。但し、同じ植民地の朝鮮では映畫法の代わりに「朝鮮映畫令」(制令第1号、1940年1 月4日)が制定されたが、台湾では施行されていなかった。その理由は不明であるが、台湾では映畫法 の代わりに前述した「活動寫真フィルム檢閲規則」と「輸移出活動寫真フィルム取締規則」と1939(昭 和14)年6月23日に制定された「活動寫真フィルム檢閲規則取扱規定」27を映画の基本法としている。

第二項  映画とメディア全般に対する「積極的行政」

  日中戦争が勃発した翌年、1937(昭和12)年8月24日に臺灣總督府は内地の内閣情報委員会を倣っ て「臨時情報部」を設置したが、この段階では「情報における重要事務の連絡と調整の管轄」がその職 権であったため、メディアを直接に左右することはなかった。1941(昭和16)年12月に太平洋戦争が 勃発した翌年1942(昭和17)年1月23日に、臺灣總督府が発布した訓令第7號・第8號によって總 督府に「情報課」と「情報委員部」を設置することになった。そこで注目しなければならないのは、情 報課の職権を規定する「臺灣總督府官房情報課分掌規定」である。規定の第 4 条では、「啓發係」は新 聞・出版・国民運動などのメディアを指導することができると規定している。また、第5条では「藝能

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係」は①映画・演劇・演芸による啓発・宣伝及びその指導に関する事項、②文学・美術・音楽・その他 の文芸一般による啓発宣伝及びその指導に関する事項、を管轄すると規定している。従って、映画を含 む全てのメディアを取り扱う政策の方針は、この時点より従来の検閲を中心とした「消極的行政」から、

啓発・宣伝を含む統制を中心とした「積極的行政」に転換したのである。

  こうして台湾の映画界が統制されていく中、1938(昭和13)年5月4日に頒布された勅令第316號 の「國家總動員法」に合わせ、共同輸入・共同購入・共同販売という目的を達するため、台湾では様々 な組合が組織された。例えば国民文化の向上や国策の貫徹、皇民化の促進などを実施項目とした「臺灣 映畫配給業組合」、その他に台湾巡回業者による「臺灣巡業興行組合」や總督府保安課の斡旋によって 結成された「臺灣興行組合」などがある。しかし、メディア統制を最も象徴する組織の一つは、1941

(昭和 16)年 9 月に總督府情報課によって設置され、各州における映画団体の連絡機関として「時局 に対応し、映画による啓発・宣伝を徹底的普及」を目的として設立された「臺灣映畫協會」である。そ れまで各州廳にあった巡回上映を主体とする映画団体を統轄し、臺灣教育會もその傘下に収められた。

つまり、学校や地方団体などでの巡回上映や記録映画の撮影の調整一本化することになった。またも映 画や演劇など全ての芸能活動を統括・統制する「臺灣興行統制會社」もメディア統制を最も象徴する組 織の一つである。

第三項  戦時体制下の映画情勢

台湾では中国映画の輸入は禁止されていなかったが、満州事変以降年々減少する傾向にあり、1937

(昭和12)年以降はより激減した。それには「輸移出活動寫真フィルム取締規則」の施行、昭和12年 の日中戦争の勃発、國語教育(初等教育と社会教育を含めて)の普及によって日本映画を楽しめる層が 育ってきたことなどが考えられる。

日中戦争が勃発した後、劇映画にも短編映画にも「擧國一致」や「銃後を護れ」などという大きな文 字(現在のテロップに相当する)が冒頭に挿入されるようになった。また、トーキーニュース映画(以 下ニュース映画)の制作は盛んになり、朝日・毎日・讀賣・同盟、そして臺灣日日新報を含む地方日刊 新聞の六社連盟などが「支那事變特報」に関連するニュース映像の上映を競っていた。台湾では台北の 芳乃館が最初にニュース映画の上映を始めた。同年、ニュース映画の台湾全島配給網の完成を目的とし た「臺灣ニュース映畫會」が発足し、配給された映画は映画館が多い台北でも連日超満員であったとい う28。1940(昭和15)年に日本内地に設立された「日本ニュース映畫社」(後の日本映画社)によって、

台湾の都市部を含む全国に同じニュースが行渡るようになった。しかし、地方の街庄では總督府や地方 政府が購入した『膺懲の聖戰』(朝日新聞社制作)や『輝く皇軍』(毎日新聞社制作)、『戰火の上海』(朝 日新聞社制作)などの特集物が繰り返し上映されていた。こうした映画はいずれもニュース映像を編集 して「皇軍の奮戦」を伝え、戦意を向上させる趣向のものである。

1941(昭和16)年9月、前述した臺灣映畫協會が成立された。その主な活動の一つには、「臺灣映畫 月報」と称されるニュース映画を月に一本、文化映画を2ヶ月に一本制作し、それを映画館に配給する ことであった。臺灣映畫協會が発足した同年 11 月に、台湾人に対する志願兵制度発表の際の祝賀行列 をニュース映画として撮影した。翌月の 12 月に太平洋戦争が始まると、ニュース映画への関心は急速 に高まり、更に一ヶ月後の1942(昭和17)年1月に臺北公會堂で行われた真珠湾攻撃のニュース上映 会では、日本人だけでなく、多数の台湾人青年男女が長蛇の列をつくり、深夜まで列が途絶えなかった。

こうした上映会が功を奏し、同年2月1日に志願兵の受付が始まるや、たちまち志願者は20万人にも

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達したことから見ると、映画の影響力の大きさが窺える29。その後、1943(昭和18)年に臺灣映畫協會 は志願兵をテーマとした『戰争と訓練』(全 8 巻)を制作した。これは台湾の日本時代おける最後の映 画制作となった。

この時期に制作された重要な映画は他に、1936(昭和 11)年の『嗚呼芝山巖』30や『南國の歌』31、 1937(昭和12)年の『望春風』32、1940(昭和15)年の『支那の夜』33、1942(昭和17)年の『海の 豪族』34、1943(昭和18)年の『サヨンの鐘』35などがある。

第四節  映画と郷土教育との関係分析

  以上を見てきたように、映画ははじめから政治的道具として扱われていたわけではなく、その性質は 時代の変遷や技術の発展、統治側か民間側のニーズなどによって変わることが分かる。臺灣總督府が初 めて映画に対する全島的検閲系統を確立したのは1926(大正15)年で、それを完全に掌握し、また情 報課を設置して国家体制の一部として組み入れたのは、1942(昭和 17)年のことである。ここでは、

各時期における臺灣教育會や總督府文教局によって制作された教材用映画と一般教育映画の内容を論 じ、台湾郷土教育との関係を考察していく。

    第一項  宣撫時期における臺灣教育會の教育映画制作

  臺灣教育會は1901(明治34)年に発会し、もともと日本語教授法の研究と台湾人の同化教育を活動 内容とした組織であるが、映画の持つ影響力を見出して1914(大正3)年から映画の制作や巡回上映を 行い始めた。1917(大正6)年10月の『臺灣教育』184 期の「會報」の「通俗教育部門が撮影した活 動寫真」によると、『古亭庄新店湖畔に於ける遊泳状況』や『圓山動物園』など台湾の郷土現状を紹介 するタイトルが並んでいる36。また、1921(大正10)年8月の『臺灣教育』231期の「臺北通信」の「通 俗教育宣傳活動寫真部門の動き」によると、臺中州の名勝である日月潭の日の出と明月、新竹州の製茶・

採茶の状況が撮影された37とある。

  1917(大正 6)年11月の『臺灣教育』185 期の「會報」によると、臺灣教育會が臺中州で開かれる 衛生展覧会より映画の制作委託を受けた後、「マラリヤの發生・感染ルートをドラマ化し、宣傳活動寫 真を撮影した」38と映画の制作に協力したことが書かれた。従って、この時期において臺灣教育會は一 般教育映画の他に、警察の管轄範囲である衛生方面の社会教育映画の撮影に協力していたことが分かる。

    第二項  「日臺共學」方針下の教育映画

  1922(大正11)年、「日臺共學」を標榜する「新臺灣教育令」が頒布され、公學校と小學校の修業年 限や教育内容などが統合され、同化教育の路線が更に確定されることになった。1924(大正 13)年 3 月に刊行された『臺灣教育』261期の「宣傳映畫に著いて」では、臺灣教育會が撮影した映画タイトル の一覧が載せられており、その総数は84 種101 巻である39。それらのタイトルを見ると、同時期の公 學校の教科書内容と連携しているものが多く、郷土教育の教授法である「一般教材の郷土化」と「郷土 の教材化」が見受けられる。以下は同時期に使用されている國語教科書、また地理科や修身科など他教 科の教科書の課の内容とそれらの郷土教育映画との関連性を製表したもの(表 1 参照)である。なお、

ここでの分類も第三章の國語教科書と同様に、一本の映画に1つ以上の属性を持てばそれぞれのカテゴ リーに属させる分類法を採る。

(9)

表1:1924(大正13)年に制作された郷土教育映画と同時期の國語教科書の内容との連携

映画類別 郷土教育に関連する映画のタイトル 國語教科書における関連課 補遺

地理風景、

レジャー 施設

『臺灣廻り』、『阿里山及嘉義製材所』、『日月潭』、

『新高登山』40、『東海岸事情』、『東海岸斷崖道 路』、『圓山動物園』、『新店溪下り』、『嘉義慈萬 院』、『澎湖島』、『南寮ヶ濱』、『基隆海水浴場』、

『高雄海水浴場』、『中央山脈飛行機横斷(機上 撮影)』、『紅頭嶼』、『雪ノ大屯山』、『霧社附近』、

『美果實ル南ノ島』

「臺灣(7-5)」、「臺東だよ り (7-23)」、「 新 高 山

(10-4)」、「 阿 里 山 鐵 道

(10-12)」、「臺灣 の木材

(12-9)」など

地理教科書

「臺灣地方

( 一 )」、

「「 臺 灣 地 方(二)」、

「臺灣地方

(三)」41な ど

郷土行事、

祭り

『城隍廟祭典』、『北港朝天宮祭典』、『扒龍船競 技』、『蕃人踊り』

「おまつり(5-15)」

--

インフラ 建設

『臺北市ノ變遷』、『阿里山及嘉義製材所』、『基 隆海水浴場』、『高雄海水浴場』、『中央山脈飛行 機横斷(機上撮影)』、『松山感化院』、『臺灣ノ交 通』、『嘉南大圳工事ノ状況』、『花蓮港上陸』、『神 戸ヨリ基隆ヘ』

「榕樹の物がたり(6-27)」、

「臺北(7-28)」、「昔の旅

(9-4)」、「埤圳の話(9-7)」、

「阿里山鐵道(10-12)」な ど

--

郷土産業、

実業教育

『美果實ル南ノ島』、『臺灣ノ製腦』、『臺灣ノ糖 業』、『臺灣ノ牧畜』、『臺灣ノ捕鯨』、『臺灣ノ鹽 田』、『臺灣ノ製茶』、『出礦坑ノ石油』、『豊原製 麻會社』、『臺灣ノ米作』

「茶(7-13)」、「塩ト砂糖

(8-14)」、「 臺 灣 の 果 物

(8-20)」、「樟腦(9-10)」、

「臺灣の農業(11-25)」、「臺 灣の木材(12-9)」、「製糖工 場を見る(12-25)」など

理科と實科

(工業科、

農業科、商 業科)の教 育實際化と 連携42

一般教育、

衛生教育

『臺灣ノ教育』、『松山感化院』、『基隆臨海學校

(附屬小學校)』、『蕃童教育』、『コレラ豫防宣 傳』、『マラリヤ豫防宣傳』、『腦脊髓膜炎豫防宣 傳』、『臺灣ノ衛生施設』

「啞おしの學校(9-15)」、「臺灣 の衛生(12-13)」など

理科の教育 實際化と連 携43

社会教育

『コレラ豫防宣傳』、『マラリヤ豫防宣傳』、『腦 脊髓膜炎豫防宣傳』、『臺灣ノ衛生施設』、『防火 宣傳(高雄州)』、『圓山動物園』

「爪と齒(6-26)」、「平和な 庄(10-21)」、「臺灣の衛生

(12-13)」など

青年団体や 部落振興會 の活動内容 と連携44

日台連帯、

皇国史観

『臺灣ノ教育』、『基隆臨海學校(附屬小學校)』、

『蕃童教育』、『新高登山』、『神戸ヨリ基隆ヘ』、

『臺灣神社』、『東京罹災民基隆着状況』、『大正 十三年一月二十六日御結婚當日臺北市民奉祝ノ 状況』

「 基隆きいるんか ら 神戸か う べへ ( 一 )

(10-2)」、「基隆きいるんから神戸か う べ

(二)(10-3)」など

修身教科書

「 臺 灣 神 社」45など

  上表(表1)を見ると、台湾の自然風景をそのまま映し出す「地理風景、レジャー施設」項目に属す

(10)

る映画数が 18 本で最も多く、國語教科書や地理教科書の内容と連携しているものも多く見られ、直観 教育による教育實際化・郷土化が大いに推進されている時期であると見受けられる。それに次いで「イ ンフラ建設」項目と「郷土産業、実業教育」項目はそれぞれ 10 本の映画が属され、政府側が経済的基 盤の形成と実業人材の育成に対する重視が覗える他、日本の植民地経営の宣伝にもなっている。「一般 教育、衛生教育」項目と「社会教育」項目に属される映画はほぼ同じで、普段地方の青年団体や部落振 興會が行っている公共的活動との連携が見られる他、1920 年代では衛生条件の改善が地方にとって未 だ重要な公共的事業であったことも垣間見ることができる。「日台連帯、皇国史観」項目に属される映 画は8本あり、更にそれを細分化すれば皇国史観に関連しているのは『臺灣神社』と『大正十三年一月 二十六日御結婚當日臺北市民奉祝ノ状況』の2本のみである。同化方針が行われているにも関わらず日 台の結び付きつまり連帯関係、また皇室関連の内容を多く出されていなかったのは、この時期が大正デ モクラシーの真最中で民主主義や自由民権が高唱されている時代であるのだと考えられる。しかし、台 湾の郷土文化を最も反映する「郷土行事、祭り」項目は4本しかおらず、またそれと連携している教科 書内容が國語教科書の「おまつり(3-5-15)」だけであるため、同化方針が確実に進まれていると見受け られる。

以上の教育映画が制作されて約3年後、1927(昭和2)年6月の『臺灣教育』300期の「大正十三年 學租財團補助金之事業」の中には撮影一覧表が付いており、その内容は各種の講習会・演習会、祭典、

事業状況などに関するものであり、全部で26種43巻がある46。その中に郷土教育に関するものは、『通 宵海水浴場』、『新店水害状況』、『臺北ニ於ケル水害状況』、『呉鳳祭状況』、『新店ニ於ケル林間學校』、『慈 聖宮祭典』、『臺灣』などがある。『新店水害状況』と『臺北ニ於ケル水害状況』に関して『總督閣下災 害地巡視』が作られており、『花蓮港蕃人能高團對總督府野球試合』や『芝山巖三十年祭及常日ノ状況』

などを見ると、同化時期の「内臺融和」という教育方針が覗える。

翌年1928(昭和3)年10月の『臺灣教育』314期の「昭和二年學租財團補助金之事業」にも撮影一 覧表が付いており、全部で19種30巻ある47。『大覇尖山ノ初登攀』や『阿里山口ヨリノ新高登山』、『東 臺灣』、『幸福ノ農民』、『北港郡農事組合防風林宣傳劇』、『淡水青年講習會』など公學校の教科書教材や 社会教育事業に関するものが見られる。しかし、その同時に制作された『本島人ノ祝賀行列』や『御大 葬當日ノ臺北市』、『全島中等學校長臺灣神社芝山巖参拝』、『朝香宮殿下御旅行』など皇室関係の映画も 10巻制作され、当年度の制作総数の3分の1を占めている。これを見ると、1920年代後半から映画に おける同化教育方針が強められたことが見受けられる。

以上の臺灣教育會や總督府各官署による教育映画制作の動きとその内容を見て、前述した民間の臺灣 文化協會の美臺團による社会教育映画の巡廻上映活動を加えると、1920 年代は映画による教育活動が 最も勃興している時期であると分かる。その時期はちょうど台湾の郷土教育運動の真最中で、映画によ る教育活動も「官民並立かつ対立」という構図で推進されていった。しかし、こうした構図が1930年 代に入ると、左翼運動団体の終息と共に映画による教育活動は全て政府側が掌握することになり、映画 に対する統制も強くなっていったのである。

    第三項  時局変化と共に変化する映画教育の位置づけ

1930(昭和5)年2月の『臺灣教育』331期の「臺灣教育會昭和三年度會務報告」の「社會教育活動 寫真ノ撮影及映寫」では、『龜山を訪ねて』や『高砂島ノ御大典』などといった台湾郷土の紹介と郷土 行事の記録を中心とした教育映画が多く、委託撮影の 5種を含んで全部で 19 種41 巻である48。1931

(11)

(昭和6)年2月の『臺灣教育』343期の「昭和四年度會務報告」の「社會教育活動寫真ノ撮影及映寫」

では、郷土教育に関する映画は『島の唄』や『伸び行く臺灣の工業』、『臺灣林業の譽れ』の6巻で、全 10種29巻の約5分の1しか占めていなかった49。その代わりに、『川村總督帝大、角板山視察』や『石 塚總督巡視畫報』、『東伏見宮妃殿下御來臺』、『陸軍記念日模擬戰』などといった皇室や軍部絡みの映画 が目立ち、同化教育方針から皇民化運動に軌道を転換している最中だと分かる。

1932(昭和7)年4月の『臺灣教育』357期の「雜報」では、国定教科書に現れる日本内地の名所や 旧跡などの実況を撮影し、そのフィルムを各学校に教材として提供すると書かれている。その内訳は、

『東京』、『京都』、『大阪』、『横濱』、『鎌倉』、『基隆より神戸へ』、『名古屋』、『明治神宮』、『日光』、『奈 良』など全部10種11巻で、総呎数は約8450呎である50。また、この記載によって臺灣教育會は教科 書用の映画を撮影・提供していたことが分かる。

1932(昭和 7)年7月の『臺灣教育』360期の「映畫教育」特集の「臺灣に於ける映畫教育」では、

台湾における公學校・小學校向けの教材と日本内地向けの教材が紹介されている。台湾の公學校・小學 校の教材映画の内容は、前述したように日本内地を紹介するものがメインとなっている。しかし、同特 集の「國定教科書に現れた臺灣教材映畫(内地用)」51では、「理想的な台湾イメージ」の輸出が見られ、

例えば「台湾は良いところであり、水稲は一年二回収穫できること」や「珍しい台湾果物」、「東洋一の 嘉義製材所」などがその代表的な内容である。それは内地の青少年に台湾に対して正確な認識と理解、

いわゆる正しい台湾像を持たせるために制作したのだと考えられる。

しかし、『臺灣教育』の映画制作に関する記事は1932(昭和7)年以降、次第に減少していった。そ の原因の一つには、満州事変以降の時局変化によって映画教育の位置づけも変化するようになったこと が挙げられる。『臺灣教育』343期の「映畫の使命」では、「映画の第一使命は、営利主義の手から救い 出すことである。すなわち、最善最良の状況において映画を社会・国家のものに回帰させることである」

52と書かれており、当時の雰囲気を垣間見ることができる。もう一つの原因は、大阪毎日新聞社臺北支 局が映畫圖書館臺灣支庫を設置した53ことによって教育映画が別ルートで供給できるようになったこと 考えられる。その後、前述したように映画に対する統制化が進み、映画における通俗教育的・郷土教育 的要素が減らされていき、その代わりに愛国教育に関するものが主流になりつつあった。

こうした戦時体制下の映画として、最近出土された『南進臺灣』54が挙げられる。この『南進臺灣』

という映画は、臺灣教育會ではなく民間の實業時代社長の永岡涼風と財界の日本社主筆の枠本誠一が臺 灣總督府からの協力を得てから撮影計画が進められた映画である55。『南進臺灣』は2つのバージョンが あり、オリジナル版は1937(昭和12)年初頭に撮影され、同年4月に東京を含めて全国の映画館で公 開される予定であった56が、同年7月に勃発した日中戦争と共に台湾が戦時体制へと移行し、また皇民 化運動の開始などの要素によってこの映画は新しいバージョンの撮影に着手し始めた57のである。現在 出土しているのはオリジナル版の『南進臺灣』であり、台湾の産業やインフラ建設、風景などの紹介が 主な内容である。映画の冒頭に原住民たちが民族衣装を身にまとい、舞踊をしているシーンと共に「皆 さんが想像してゐる台湾の姿でせう」のテロップと解説が付き、その次に歴代の臺灣總督の銅像が次々 と出てきて「明治二十八年六月十七日台湾總督始政以来四十餘年」や「新興の台湾」などのテロップと 相まって、次に第 17 代總督である小林躋造が行進している男女青年たちに敬礼しているシーンが続い ている。その後はモダン化している台北や台湾各地の景観や名産などの紹介が続き、最後は「南へ!南 へ!」というテロップ・解説で映画が終了した。この映画を見ると、確かに台湾の郷土風景や物産の紹 介などが入れられているが、映画の冒頭から出されたテロップの「新興の台湾」のように、日本統治下

(12)

のインフラ建設や近代化した台北などの政治的宣伝に終始しており、地方文化の伝承や農村文化など人 文的な郷土教育的要素が殆ど見られない。また「新興の台湾」と対照するために原住民の舞踊と「皆さ んが想像してゐる台湾の姿でせう」のテロップが出されたことは、原住民文化が「旧台湾文化=低俗的 文化」とされ、それを日本 40 余年の統治によって「新台湾文化=進歩的文化」に進むことに成功した のだと意味している。更に映画の最後のテロップである「南へ!南へ!」というのは、当時経済的封鎖 を受けている日本が「大東亞共榮圏」構想と同調しているもので、すなわち台湾を日本の南進基地とし て更に南洋へと「開拓する」ことである。言い換えれば、この映画は日本の台湾統治、原住民に対する 政策を含めたあらゆる政策を正当化したことによって、日本のこれからの南洋開拓すなわち南洋諸国へ の同化要請、または「大東亞共榮圏」そのものを正当化しようとしたのだと見受けられる。こうして異 なる文化に優劣を付けて同化要請を正当化していることは、多文化教育の根本趣旨に相反しているため、

この『南進臺灣』において多文化教育的要素がほぼ存在しておらず、残されたのは戦時体制下の愛国教 育的要素しかなかった。

  本章は日本統治時代と共に始められた映画の変遷とそれによる教育活動について郷土教育的・多文化 教育的考察を行ってきた。臺灣總督府は領台初期、映画をただの新しい娯楽と考え、映画産業を政府の 管轄下に置かなかった。しかし、總督府は様々な調査結果を通して、大正年間初期に「幻燈映畫及活動 寫真フイルム設定規程」などの法令を制定し、映画を通俗教育の一環として認知し始めた。その後、映 画の制作技術が進歩するにつれ、社会への影響力も漸次に大きくなり、映画の社会への影響力を總督府 は見直し、映画を政令の伝達手段として使うようになった。

  1920 年代に入ると、台湾では社会形態の実質的な変化が起こり、總督府によって伝染病の撲滅、衛 生条件の改善、死亡率の低下といった戦争や動乱がなく、安定した近代社会に発展しつつあった。更に 武官総督を廃したことによって、社会の安定と同化政策を主な方針とした同化時期を迎えた。1代目文 官総督である田健治郎は同化政策を確立し、台湾人を「忠良ナル國民」として養成するという教化善導 を施政方針として全力で教育全般を推進した。臺灣教育會活動寫真部をはじめとする臺灣總督府各部署 は様々な映画の制作に着手し始める一方、民間においても第一次世界大戦後の民族自決という思潮の影 響を受けて台湾人民族運動が盛んになり、東京の台湾人留学生を主体とした、台湾民衆の「知」を啓発 することを目的とした臺灣文化協會が発足し、その活動の一部となった映画の制作・巡回上映(美臺團)

も行われ始めた。こうして政府当局も民間団体も、映画による啓発・教育運動を大きく展開した。こう した運動が盛んになったのは、客観的環境が許された他に、台湾の持つ映画教育の特殊性が考えられる。

  日本は植民地教育を推進するため、初等教育について真っ先に國語傳習所を設置したが、社会教育面 では國語(日本語)による講演会だけで全く理解できない言語が使われているため、なかなか台湾人を 引き寄せなかった。そのため、言語と関係なく「動く映像」によって観客を自然に引き込むという映画 の特性ないし媒体的機能に着目し、總督府は衛生や納税、公共道徳の普及、思想善導などといった社会 教育または社会教化の手段として利用するようになった。台湾のような言語が異なるエスニック・グル ープが同じところで生活している状況では、國語を徹底的普及することは非常に難しく、長い時間が必 要だと考えられたため、言語による「耳の教育」より、目で見る直観教育がより容易に成果を得ること ができると考えられる。従って、映画の持つ直観教育機能は台湾で映画による啓発・教育運動が盛んに なった要因であると考えられる。

(13)

  郷土教育の方法として、直観教育と生活教育が重視されているため、映画の持つ直観教育機能はその 需要に応えている。大部分の台湾小学生は日本内地の状況を知らないため、例えば修身科の中心である 皇室のことや明治神宮、富士山などといった日本内地の風景や施設などの説明をしてもなかなか理解し てもらえない。こうした教授的問題に対し、映画による教育が必然的に必要とされ、昭和初期に提起さ れた「教育實際化・郷土化」という教育改革方針とも一致しているのである。また、「内臺融和」とい う教育方針を背負っている台湾郷土教育の映画教育は、映画の普及と技術向上と相まって1920 年代後 半から 1930年代初期にかけて、次第に目的が地方文化の伝承より「内臺融和」、「内地延長」に転換さ れるようになった。つまり台湾を国土の一部として見られるようになり、日本内地のような郷土教育が 実施されることになったのである。

しかし、1930 年代後半に入ると、学校教育や社会教育を含めて全ての教育体制が次第に戦時体制に 移行し、地方文化の伝承としての郷土教育に関する映画も次第に減少していった。郷土の定義は地方や 農村より「より大きな郷土」である国土・国家に変わっていくにつれ、映画というメディアも国家から の統制が強まり、国家体制に組み入れられるようになった。1937(昭和 12)年の日中戦争が勃発され た後、映画に内包されている地方文化教育や農村教育としての郷土教育的要素が消え去った代わりに、

愛国教育的要素が急増した。日中戦争の勃発前後に制作された『南進臺灣』は恰好の例である。「南へ!

南へ!」と高唱した『南進臺灣』は、日本の台湾統治、原住民に対する政策を含めたあらゆる政策を正 当化したことによって、日本のこれからの南洋開拓すなわち南洋諸国への同化要請、または「大東亞共 榮圏」そのものを正当化しようとしたのだと見受けられる。こうして異なる文化に優劣を付けて同化要 請を正当化していることは、多文化教育の根本趣旨に相反しており、地方文化の伝承として郷土教育的 要素どころか、多文化教育的要素もほぼ存在しておらず、残されたのは戦時体制下の愛国教育的要素し かなかった。こうした戦時体制によって映画政策に対する統制が進み、映画制作の創意も一元化されて いったため、映画は1920年代のような生命力が見られなくなったのである。

注釈(第五章):

1 鄭玩香『戰後台灣電影管理體系之研究(1950-1970)』國立中央大學歴史研究所碩士(修士)論文  2001 年7月  p1

2 大辞泉によると、戯曲の創作や構成についての技法や作劇法、戯曲作法を指す。または演劇に関する 理論・法則・批評などの総称、いわゆる演劇論である。

3 林洋編著『電影工業生死一令間』西拉美工作室  1999年  pp8-9

4 田村志津枝『はじめに映画があった  植民地台湾と日本』中央公論新社  2000年8月  p34

5 奥平康弘「映画と検閲」『講座日本映画2  無声映画の完成』岩波書店  1986年  p308

6 「内外彙報」『臺灣教育會雜誌』第68期  1907(明治40)年1月  pp56-57

7 大阪時事新報より転載「通俗教育について」『臺灣教育會雜誌』第112期  1911(明治44)年7月

8 『臺灣教育會雜誌』第103期  1910(明治43)年10月  p47

9 『臺灣教育會雜誌』第110期  1911(明治44)年5月  p46

10 「臺灣日日新報」1904(明治37)年4月15日

11 「臺灣日日新報」1905(明治38)年1月22日

12 前掲『はじめに映画があった  植民地台湾と日本』pp106-107

13 井出季和太『臺灣治績志』臺灣日日新報社  1937(昭和12)年  pp626-627

14 「社會教育より映畫問題を見る」『臺灣教育』第360期  1932(昭和7)年7月  pp47-53

15 前掲『はじめに映画があった  植民地台湾と日本』p175

16 臺灣電影研究會作品、全8巻、脚本・監督・主演劉喜陽、撮影李松峰。1925(大正14)年9月に大 稻埕永楽座で公開された。台湾史上初の資金から役者まで全て台湾人が担当する映画作品である。

(14)

17 文英映畫會社作品、制作張漢樹、監督川口(名不明)。1926(大正15)年公開。

18 陳郁秀『榮耀與寂寥 −台灣文化協會的年代−』(パンフレット)呉三連台灣史料基金會  2002年10 月  p3

19 「臺灣民報」1926(大正15)年5月號

20 前掲『榮耀與寂寥−台灣文化協會的年代−』DVD、チャプター6を参照すること。

21 臺灣總督府警務局『臺灣の警察』1931(昭和6)年  p229

22 奥田達郎編著『始政40周年記念臺灣博覧會誌』臺灣博覧會  1939(昭和14)年

23 臺灣映畫製作所作品、全7巻、監督千葉泰樹、撮影池田専太郎、1933(昭和8)年公開。

24 前掲『はじめに映画があった  植民地台湾と日本』pp225-226

25 Peter.B.High『帝国の銀幕  十五年戦争と日本映画』財団法人名古屋大学出版会  1995年  pp38-39

26 『臺灣警察協會雜誌』第250期  1936(昭和11)年9月  pp73-82

27 「活動寫真フイルム檢閲規則取扱制定ニ關スル伺」『臺灣總督府公文類纂』第11300號  1939(昭和 14)年

28 前掲『はじめに映画があった  植民地台湾と日本』p232

29 「臺灣映畫界の印象」『映畫旬報』1942(昭和17)年5月1日號

30 國粹映畫社・總督府文教局制作、全8巻、原作北畠現映、監督静香八郎、1936(昭和11)年公開。

31 日活作品、原作近藤経一、監督首藤壽久、1936(昭和11)年公開。台湾ロケ作品。

32 第一映畫製作所作品、全8巻、原作・脚本・台詞李臨秋、監督安藤太郎・黄梁夢、1937(昭和12)

年公開。同名の歌は最も有名な台湾歌謡と言われる。

33 東宝作品、監督伏水修、脚本小国英雄、主演李香蘭、1940(昭和15)年公開。

34 臺灣總督府・日活作品、全8巻、原作長谷川伸、監督荒井良平、1942(昭和17)年公開。

35 臺灣總督府・満映・松竹の合作作品、全8巻、監督清水宏、主演李香蘭、1943(昭和18)年公開。

「実話」に基づいた物語と同名の主題歌と相まって、大人気を呼んだ。そのストーリーは本論文第一章 を参照すること。

36 『臺灣教育』第184期  1917(大正6)年10月  p70

37 『臺灣教育』第231期  1921(大正10)年8月  p34

38 『臺灣教育』第185期  1917(大正6)年11月  p66

39 戸田清三「宣傳映畫に著ついて」『臺灣教育』第261期  1924(大正13)年3月  pp68-77

40 戦後の国民党政権によって「玉山」と改名されたが、当時は「新高山」と称された。それは富士山よ り高い山であったため、「新しい高山」という意味で名付けられたのである。

41 同時期に使用されている地理教科書にある「臺灣地方(一)」、「臺灣地方(二)」、「臺灣地方(三)」

と内容的にカバーし合っていると見られる。詳しくは本論文第三章第三節第一項を参照すること。

42 同時期の臺中州が推進している各教科の教育實際化運動と連携していると見られる。詳しくは本論文 第三章第四節第一項と第二項を参照すること。

43 同時期の臺中州が推進している各教科の教育實際化運動と連携していると見られる。詳しくは本論文 第三章第四節第一項を参照すること。

44 同時期の青年団体(青年會や處女會など)と部落振興會が推進している公共的事業と連携していると 見られる。詳しくは本論文第四章第二節と第三節を参照すること。

45 同時期に使用されている修身教科書に「臺灣神社」という課がある。詳しくは本論文第三章第一節第 二項を参照すること。

46 『臺灣教育』第300期  1927(昭和2)年6月  pp154-155

47 『臺灣教育』第314期  1928(昭和3)年10月  pp154-155

48 『臺灣教育』第331期  1930(昭和5)年2月  p13

49 『臺灣教育』第343期  1931(昭和6)年2月  p115-116

50 『臺灣教育』第357期  1932(昭和7)年4月  pp150-151

51 前掲『臺灣教育』第360期  pp50-51

52 前掲『臺灣教育』第343期  p74

53 「臺北市に於ける映畫教育施設」前掲『臺灣教育』第360期  p54

54 呉密察、井迎瑞編『片格轉動間的台灣顯影  國立臺灣歴史博物館修復館藏日治時期紀録影片成果』(國 立臺灣歴史博物館、2008年)DVDを参照すること。

55 「枠本、永岡兩氏が南洋考察」「臺灣日日新報」1935(昭和10)年2月5日

(15)

56 「臺灣日日新報」1937(昭和12)年1月28日の報道では「録音映畫“南進臺灣”來月末から撮影 に著手」と述べられている。

57 「新版「南進臺灣」を撮影」「臺灣日日新報」1940(昭和15)年4月14日

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