• 検索結果がありません。

『文反古』の成立 : 稿本から刊本へ

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2022

シェア "『文反古』の成立 : 稿本から刊本へ"

Copied!
19
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

『文反古』の成立 : 稿本から刊本へ

飯倉, 洋一

大阪大学大学院助教授

http://hdl.handle.net/2324/4741965

出版情報:雅俗. 9, pp.30-47, 2002-01-30. 雅俗の会 バージョン:

権利関係:

(2)

秋成の歌文集﹃藤簑冊子﹄の姉妹篇ともいえる消息文

集﹃文反古﹄二冊は︑文化五年五月の刊記をもつ︒従来︑

秋成伝の資料として重宝されてきたが︑これを作品集と

して読むことはほとんど行われていない︒模範文例集的

な和文集が盛んに出版されていた当時の文芸界の状況の

中でこれを見れば︑﹃文反古﹄が書簡文の手本としての

出版であったと考えるのは常識である︒松本柳斎の跛文

には﹁男もじ︵漠字︶しらぬどち︑ことかよはすによす

があるふみもやとおもふ給ふめるに︑さいはひに此ふた

て﹁とまれかうまれうひまなびのために︑木

まき をえ

﹂ はじめに

﹃文反古﹄の成立

ー稿本から刊本へ—ー 特巣◇写本と刊本

にゑらせんとおも﹂ったという︒漠文尺贖の書けない者

の﹁よすが﹂として︑また︵和文の︶﹁うひまなびのた

めに﹂と本書の意義を強調する︒もちろん秋成の書簡が

主となるわけだから︑秋成の和文の魅力を味わうべき出

版企画でも当然あったはずである︒

﹃文反古﹄はもともと︑﹃藤簑冊子﹄の一部として構想

されていたと考えられている︒かつて丸山季夫によって

1紹介され︑現在都立中央図書館特別資料室丸山文庫に収

ま る 文 化 二 年 刊

﹃ 藤 箋 冊 子

﹄ の 目 録 に

﹁ 第 七

﹁あまはせ使贈和共四十余章﹂とある︒昇道の撰した

凡例には︑﹁天はせ使の一とぢは︑難波の斉収法師が近

ごろのまめ心してこ4かしこにさぐりもとめて書つどへ

(3)

し︑其由どもそれの文の前しりへにおのれしるしてなん︑

あはせて七とぢとなせりき﹂と記している︒つまり昇道

の書集めた﹁天はせ使﹂なるものが︑﹃文反古﹄の原型

であったかという前提がそこにはある︒

天理図書館所蔵の﹃文反古稿﹄︵仮題︑天理図書館目

録および上田秋成全集に従う︶写本七冊は︑書簡以外の

文章や不完全なものを含む︒﹃文反古稿﹄は︑私に数え

ると八十四篇の文から成り︑﹁天はせ使﹂の﹁四十余章﹂

を大幅に上回っている︒刊本﹃文反古﹄所収の文章は上

冊五十六篇︑下冊三十三篇の合計八十九篇である︒出入

りがかなり認められるとはいえ︑五十数篇が重なってお

り︑天理本﹃文反古稿﹄は刊本﹃文反古﹄の稿本とみな

すべきである︒そこで﹁天はせ使﹂の位置づけが問題に

なるが︑﹃文反古﹄下冊の四番めの書簡の前書に﹁文化

三年仲秋より︵文化四年ノ

11

飯倉注︶春かけて﹂の文言

があり︑この書簡は年次は明記されないものの﹃文反古

稿﹄にも存在する︒したがって文化二年刊﹃藤籐冊子﹄

の目録に載る﹁天はせ使﹂の構想よりあとの文化四年以

後に﹃文反古稿﹄は成ったと考えられよう︵もとより

﹃文反古稿﹄の成立が一時になるものかどうかという問

題もあるが一応そのように考えておく︶︒﹁天はせ使﹂の

四十余章が刊本﹃文反古﹄の原型であるとすれば︑それ

は﹃文反古稿﹄よりも前ということになる︒つまり﹁天

はせ使﹂←﹃文反古稿﹄←刊本﹃文反古﹄の順であるが︑

﹁天はせ使﹂が﹃文反古稿﹄と全く関らないという可能

性ももちろんある︒なお後考をまちたい︒

本稿は︑﹃文反古稿﹄と刊本﹃文反古﹄を比較考察し︑

刊本化にあたってどのような書簡の取捨選択︑配列のエ

夫︑文章の改変が行われていたかを検討することで︑刊

本としての消息文集の意味について考えてみたい︒

﹃文反古稿﹄七冊は第五冊を除いて全て秋成自筆︒﹃上

田秋成全集﹄第十巻︵以下﹃全集﹄と称する︶の解題に

おいては丁付は﹁なし﹂とされている︒しかし︑原本を

実見したところ︑秋成の手でノドに丁付が記されている

ことが判明した︒現行の順序でこの七冊の丁付がどのよ

うにされているかを記せば︑次の通りである︵丁付のな 稿本から刊本へ

(4)

第一冊(+三ーニ十︶

第二冊︵三十ニー五十一︶

第三冊︵二十一i三十︶

第四冊︵三ーニ十九︑丁付なし︑三十︶

第五冊︵別筆・すべて丁付なし︶

第六冊︵三i+︶

第七冊︵二︑一︑丁付なし︑十二︶

﹃全集﹄解題は︑﹁若干整理しようとした跡もないでは

ないが︑順序というものも殆どなく綴じたといってよい

ものである﹂とする︒たしかに︑明らかになった丁付を

一見しても︑この稿本の時点でなんらかの編集意識が働

いていたとは思えない︒

﹃全集﹄は稿本所収書簡を刊本﹃文反古﹄に対応させ

る形で並べかえ︑刊本未収の書簡は後方にまとめて掲載

している︒﹃全集﹄本文に注記されている丁付は︑ノド

に記されている上記の丁付けではなく︑順序通りに数え い

部分

もあ

る︶

第六冊︵三t+︶

第七冊︵二︑一︑丁付なし︑十二︶

第一冊(+三ーニ十︶

第三冊︵二十一ー三十︶

第二冊︵三十ニー五十一︶

第四冊︵三ーニ十九︑丁付なし︑三十︶

第五冊︵別筆︒丁付なし︶

﹁六←七←一←三←二﹂と並べると丁付は連続する︒

また﹁四←五﹂も一連の物と仮定しうる︒これに新しい

記号(AiG)を与える︒AiEの部分を刊本の上冊に︑ G  F  E 

B  A 

ていった時の丁付である︒ところで﹃全集﹄五百十二頁

を見れば明らかなように︑第七冊末から第一冊冒頭にか

けて文章が連続している︒実は文章のみではない︒第七

冊末尾の丁付は﹁十二﹂︑第一冊冒頭の丁付は﹁十︱︱‑﹂

であって連続するのである︒このことをヒソトに稿本の

現状の順序を次のように並べかえてみよう︒

(5)

5  4  3  2  稿本 (A ) 

秋成から宇万伎ヘ

秋成から宇万伎ヘ

宇万伎から秋成へ宇万伎から秋成へ

宇万伎から秋成へ

←上6 上4

←上5 宇万伎から秋成へ

秋成から宇万伎ヘ

秋成から宇万伎ヘ

←上3 上2

← ー 1

宇万伎から秋成へ

鵜殿余野子から宇万伎ヘ

宇万伎から秋成へ 刊本

F

Gの部分を刊本の下冊に相当するものと考えてみよう︒

以下稿本の各冊を

AiG

の記号で呼ぶ︒

AiG

所収の書簡︵書簡でないものもあるが︶に通し

番号を打つ︒同様に刊本所収書簡には上冊下冊それぞれ

で通し番号を付して︑稿本と刊本を対照してみよう︒稿

本所収の書簡の順序は以下に示すように刊本の書簡の順

序と︑出入りはあっても︑ほぼ対応していることは注目

すべきである︵唯一の例外は稿本

6 4 ←刊本下

3 2 の森川竹

窓宛

書簡

︶︒

ここで刊本化にあたって削除されたもの︑増補された ものがわかるように︑同一の書簡を上下揃え︑稿本になくて刊本にあるものは︑稿本の箇所にXと記す︒逆に稿

本にはあるが刊本では削られたものは刊本の箇所にX

付す︒また稿本から刊本へ継承されているものは←で示

す︒なお書簡には前書のないものもあるので︑書簡の内

容は差出人と宛先人で示す︒ただし月次消息や非書簡文

はその限りではない︒︵︶内は内容についての補記で

ある︒このようにすると︑刊本化にあたっての削補の状

況が一目瞭然となるだろう︒なお刊本で増補された書簡

はゴシックで示す︒

(6)

(C  

(B   21  20  19  18  17  16  15  14  13  12  11  10 

︐ 

8  7 

あし 曳の

﹂︵

﹁か べ草

﹂序 文?

兼渡堂﹁貝よせの記﹂宇万伎序文

秋成から物問人へ

(C にま たが る︶

秋成から人の女へ︵手習︶

︵其

二︶

︵其

三︶

︵其

四︶

︵其

五︶

︵其

六︶

︵其

七︶

︵其

八︶

︵其

九︶

︵其

十︶

︵其

十一

︵其

十二

X  X 

6宇万伎妻八代子から宇万伎ヘ

←上

10

←上

1 1

←上

12

←上

13

←上

1 4

←上

15

←上

16

←上

17

←上

18

←上

19

←上

2 0

←上

2 1

上2

2 X  X  X 

上 8

上9 ←

l 7

 宇万伎妻八代子から秋成へ

秋成から菊屋兵部へ︵宣長著作のこと︶

秋成から菊屋兵部へ︵宣長のこと︶

秋成から人の女へ

︵其

二︶

︵其

三︶

︵其

四︶

︵其

五︶

︵其

六︶

︵其

七︶

︵其

八︶

︵其

九︶

︵其

十︶

︵其

十一

︵其

十二

蓋庵から秋成へ

︵手

習︶

(7)

(E ) 

(D  

34  33  32  31  30  29  28  27  26  25  24  23  22  X  X  秋成から細合半斎ヘ 細合半斎から秋成へ 秋成から慧遊尼ヘ ﹁必ずよゆかではあらじ﹂︵断章︶ 秋成から河内の山里人へ 秋成から琴子へ 秋成から琴子へ 秋成から琴子へ 秋成から蔵庵ヘ 薦庵から秋成へ 信美から秋成へ 秋成から羽倉信美ヘ 秋成から小沢蕨庵ヘ

X  X 

3 1

あるひとから秋成へ

3 2

秋成からある人へ

X  X 

X  X  X  ←上

2 8

薦庵から秋成へ

←上

2 9

秋成から薦庵ヘ

←上

3 0

秋成から琴子へ

23

上2

4

上2

5

上2

6

←上

27

秋成から蓋庵ヘ

蓋庵から秋成へ

蓋庵から秋成へ

秋成から蓋庵ヘ

秋成から蕨庵ヘ

(8)

37  36  35 

秋成から大沢清規へ︵清規母のこと︶

x  x 

秋成から御内の人々へ 秋成から御内の人々へ

X  X  X  X 

x  x 

x  x 

3 3

上3

4

3 5

上3

6

3 7

3 8

3 9

4 0

4 1

4 2

︵公則卿のこと︶←上

4 3

︵公則卿のこと︶←上

4 4

上4

5

4 6

4 7

4 8

上4

9

上5

0

←上

5 1

蓋庵から秋成へ

秋成から蓋庵ヘ

蓋庵から秋成へ

蓋庵から秋成へ︵瑚瑳尼のことか︶

秋成から蓋庵へ︵瑚瑳尼のことか︶

秋成から蓋庵へ︵瑚瑳尼のことか︶

蓋庵から秋成へ︵瑚瑾尼のことか︶

阿称尼から秋成へ︵瑚瑳尼のことか︶

秋成から阿称尼へ︵瑚瑾尼のことか︶

蓋庵から秋成へ

秋成から御内の人々へ︵公則卿のこと︶

秋成から御内の人々へ︵公則卿のこと︶

正親町公則から秋成へ

秋成から公則ヘ

公則から秋成へ

公則から秋成へ

秋成から公則ヘ

公則から秋成へ

秋成から大沢清規ヘ

︵瑚

瑳尼

のこ

と︶

︵瑚

瑳尼

のこ

と︶

(9)

(F ) 

56  55  54  53  52  51  50  49  48  47  46  45  44  43  42  41  40  39  38 

河内の足立尼から秋成へ

秋成から河内の足立尼ヘ

環中長老から秋成へ

秋成から環中長老ヘ

秋成から十時梅涯ヘ

秋成から大田南畝ヘ

秋成から斉収へ

昇道から秋成へ

秋成から昇道へ

秋成から斉収法師へ

秋成から実法院へ

秋成から兼腹堂へ

秋成から吾妻へ立つ人へ

秋成から谷直射ヘ

秋成から谷直射ヘ

秋成から大館高門へ

秋成から長谷川長保妻へ

秋成から森川竹窓ヘ

秋成から清原豊常ヘ

← 下 4

←下5

←下6 ←上

5 5

←上

5 6

Fl 

←下2

←下3 ←上

5 3

昇道から秋成へ

←上

5 4

秋成から昇道へ

X  X 

←上

5 2

秋成から十時梅匝ヘ

x  x  x 

秋成から実法院へ

秋成から兼腹堂へ

秋成から吾妻へ立つ人へ

秋成から谷直射ヘ

秋成から谷直射ヘ

秋成から長谷川長保妻へ

秋成から竹窓へ︵*歌のみ︶

秋成から某人︵豊常︶

(10)

(G  

7 4 73  72  71  70  69  68  67  66  65  64  63  62  61  60  59  58  57 

秋成から森川竹窓ヘ

秋成から長谷川長康へ

秋成から呑湖堂へ

︹月次の文︑手ならふ人に︺

かへし︹ 二

︹二︺のかへし ︺

︹ ︱ ︱ ‑

︹ ︺

︱︱

‑︺

のか

へし

︹ 四 ︺

︹ 五 ︺

秋成から重政︵長谷川長保︶秋成から小川布淑ヘ布淑から秋成へ布淑から秋成へ秋成から布淑ヘ秋成から布淑ヘ秋成から長谷川の女へ

←下

10

←下

11

←下

12

←下

13

←下

1 4

←下

15

←下

16

←下

17 X  X 

←下8

下︐

←下

32 X  X  X 

x  x 

︹ 二 ︺

︹二︺のかへし

︹ ︱ ︱ ‑

︹ ︺

︱︱

‑︺

のか

へし

︹ 四 ︺

︹ 五 ︺ かへし ︹月次の文︑手ならふ人へ︺ 秋成から森川竹窓ヘ 秋成から難波の人へ 秋成から長谷川長保妻へ ←下7秋成から長谷川長保へ

(11)

84  83  82  81  80  79  78  77  76  75 

︹ 六 ︺

︹ 七 ︺

︹ 八 ︺

︹ 九 ︺

︹ 十 ︺

︹十︺のかへし

︹十

一︺

︹十一︺のかへし

︹十

二︺

︹十二︺のかへし

↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  下 下 下 下 下 下 下 下 下 下 下 下 下 下 下 33  31  30  29  28  27  26  25  24  23  22  21  20  19  18 

後述するように稿本

7.8

の文章は﹃文反古﹄の稿本

とは別のものと考えた方がよいだろう︒また稿本

6 4 の森

川竹窓宛書簡だけは刊本での位置が違うのだが︑この書

︹ 六 ︺

︹ 七 ︺

︹ 八 ︺

︹ 九 ︺

︹ 十 ︺

[+︺のかへし

︹十

一︺

[+‑︺のかへし

︹十

二︺

︹十二︺のかへし

松本柳斎から秋成へ

秋成から柳斎ヘ

秋成から某人へ︵難波にて︶

秋成から大田南畝ヘ

秋成から柳斎ヘ

簡の部分は稿本に丁付けがないことから︑編集の構想か

ら一時期外れていたものが︑あとで取り入れられたとも

考えられよう︒

(12)

このように

AiG

と並べた稿本の書簡の順序と刊本の

書簡の順序は︑ほぼ対応しており︑稿本を削補すれば︑

刊本の形になる︒稿本自体に一部欠損があったり︑刊本

へいたるまでにいくつかの曲折があったことは確かであ

るが︑稿本と刊本を並べ︑各書簡の削補の様相から編成

意識を辿る試みはなされてもよいだろう︒

稿本は︑丁付を欠いているところもあり︑Gが他箪と

いうこともあって︑ある時点の構想を直に反映している

ものと言うには躊躇せざるをえない︒取り合わせた部分

もあるだろう︒しかし︑大雑把に言えば︑故人を含め︑

友人知人を網羅的に︑あまり偏りのないように配置して

いるといえよう︒

稿本Bには﹁﹁かべ草﹂と題する﹂﹁文稿類の序に相当

するかと思われる﹂︵﹃全集﹄解題︶一文

(7 ) と︑

﹁か

ベ草二の巻﹂と巻名を記したあとに続く﹃貝よせの記﹄

︵木村兼股堂著︶の宇万伎序文︵8

︶︑ それ に﹁ 物問 人﹂

への答で歌学びについて述べた文章

(9

)

がある︒これ

らは連続したものではないが︑7と8は﹁かべ草﹂とい

う︑一時期構想されていた文集︵秋成の文章だけではな 2く宇万伎らの文章も含めたものであろう︶に関わるもので

ある

9

は ︑

C

に文章が続き︑丁付も連続するから

﹃文反古稿﹄に含まれると考えてよい︵刊本では省かれ

るの

だが

︶︒

刊本の構成

稿本にあって刊本で削除された書簡群は二十八通であ

る︒これらの書簡が削除された理由は一律ではないと思

われる︒問題は刊本がどのような方針で編まれようとし

ていたかであって︑それに相応しくないものが除かれた

と考えるべきである︒人物をあげると加藤宇万伎︵*︶

が一通の他︑羽倉信美︑琴子︑惹遊尼︑細合半斎︑足立

尼︑環中︑南畝︵*︶︑斉収︑大館高門︑小川布淑︑長

谷川長康︵*︶︑呑湖堂である︒*を付した人物は他の

書簡が入っているが︑その他は刊本化によって姿を消し

た人物である︒秋成周辺で文化五年時にも生存している

人の書簡が多いということは言えようか︒

次に刊本化にあたって増補された書簡は三十三通で

ある

(13)

2︑4︑8︑9︑

2 2 ︑

2 3 ︑

2 4 ︑

2 5 ︑

2 6 ︑

3 1 ︑

3 2 ︑

3 3 ︑

3 4 ︑

3 5 ︑

3 6 ︑

3 7 ︑

3 8 ︑

3 9 ︑

4 0 ︑

4 1 ︑

4 2 ︑ 4 5 ︑

4 6 ︑

4 7 ︑

4 8

4 9

5 0

9︑

2 8 ︑

2 9 ︑

3 0 ︑

3 1 ︑

3 3

増補された書簡は多く上冊にあるということが注目さ

れよう︒ここで刊本上冊の構成を挙げてみよう︒これら

を見ると︑いくつかの書簡群に糠められることに気づく︒

加藤宇万伎関係︵上1

7)

菊屋兵部︵本居宣長︶関係︵上8

9)

月次消息︵上

1 0

2 1 )

小沢薦庵関係︵上

2 2

2 9 )

薦庵および瑚羅尼関係︵上

3 3 i 4 2 )

正親町三条公則関係︵上

4 3

5 0 )

秋成周辺の人々︵上

5 1

5 6 )

そして刊本において増補された書簡は︑ほとんど秋成

に親しい故人との往来であった︵ここで故人というのは

文化五年以前の物故者を指す︶︒安永六年没の加藤宇万

伎︑享和元年没の菊屋兵部︵荒木田末偶︶︑享和元年没

の小沢蔵庵︑寛政十二年没の正親町三条公則︑宇万伎は

下 上

秋成が敬愛した師であり︑薦庵は晩年に心を許した数少

ない友人であり︑公則は秋成が親しく仕えた公卿であっ

た︒稿本から刊本への編成の変化を見ると︑上冊は秋成

の特に敬愛する人々を記念する書簡を中心に編成しよう

とする方向が明らかに窺えるとしてよいだろう︒

宇万伎関係では︑鵜殿余野子から宇万伎宛という︑秋

成の関らない書簡が増補されている︒秋成宛か秋成出の

手紙の集成という編成方針を曲げての特別な編入である

が︑それだけ宇万伎への思い入れの強さがよく顕れてい

る︒その結果冒頭には大坂の任はてて江戸へ帰る宇万伎

を慕い名残り尽きない秋成の手紙︑次に江戸から大坂城

番へ向け出発する宇万伎を気遣い心揺れる余野子の手紙

となって︑宇万伎を慕う東西の書簡が配されたことになっ

たのである︒宇万伎関係は合計七通︒

菊屋兵部こと荒木田末偶︵椙︶については︑その手紙

の内容が模範文例とするには︑あまりにも特異な内容で

ある︒末偶は宣長門人で︑秋成との連絡役を果たしてい

た人物︒その末偶に宜長批判を示した二通であって︑こ

れが増補された理由はその手紙の内容にあるといって間

(14)

違い

ない

たが

いうまでもなく宣長は秋成終生の論敵であっ

その論敵も享和元年に没している︒ここには屈折

した宣長追悼の意が籠められていると見るのは僻目であ

ろうか︒宜長と秋成の対立は︑秋成の認識では伊勢人と

京・難波人の心性の差異に基づくものであった︒刊本の

︑︑

前書で﹁伊勢人末偶へ答﹂とあえていうところも意図あっ

てのことだろう︒

蕨庵関係は刊本で増補されたものが十三もある︒単な

る和歌の贈答もあるから︑数の割りに丁数を費やしてい

るわけではないが︑それでも大幅な増補である︒﹃藤簑

冊子﹄﹃文反古﹄の出版に関ったと思われる人々は︑松

本柳斎.釈昇道をはじめとして蔵庵の門人であったり蔽

庵と関わりの深い人々が多い︒もちろん秋成自身も親し

く交わっていたことは周知の事実︒薦庵関係の書簡の大

幅な増補は︑必然の要請であったかもしれない︒また

3 3

は︑秋成の妻瑚雅尼が没した寛政九年冬の蔵庵秋成の贈

答であるが︑

3 5 から41にかけての書簡も瑚雅尼の︑その

追慕に関わるものと推定される︒秋成はここにさりげな

<妻の追悼を記念する書簡を編成したのであろう︒

また正親町三条公則との往来が六通増補されている

︵ 上 4 5 t 5 0 )

︒一連の往復書簡の後に︑﹁かやうによませ

たまひしとて︑人みなをしみたいまつる君なり︒新中納

言︑正三位︒御よはひ廿八にて︑斃去有しなり﹂と説明

され

る︒

こうして刊本上冊には︑秋成が親しく交わった中でも

特にその死を切実に秋成が受け止めたであろう人々︑と

くに宇万伎.薦庵.瑚難尼・公則にまつわる書簡が大幅

に増補されたことになる︒結果として刊本上冊はそれら

の人々への追善記念書簡集となったといえるだろう︒

それでは刊本の下冊についてはどうか︒先に見たよう

に下冊については削除はあっても増補されたものは少な

く︑上冊のような明瞭な編集意図が見えない︒大坂人が

多いことが目につく程度であるが︑これとて意図的であ

るかどうかわからない︒しかし上冊に秋成に親しい物故

者の書簡に予想以上に力を注ぎ過ぎたために︑下冊が丁

数を少なくせざるをえなくなったという事情はあるかも

しれ

ない

上下合わせて本書の意味を考えて見ると︑本書は模範

(15)

文例的消息文集としての普遍的価値よりも︑秋成の私的

な書簡集の側面が強い︒ただ上下ともに月次消息を入れ

ているところに︑模範文例集としての要素を残している︒

これは鵜殿余野子の﹃月なみ消息﹄︵文化四年刊︶を意

4識した面もあっただろう︒

和文としての意義

もちろん個々の書簡は和文で記されているわけであっ

て︑文章として鑑賞すべき作品であったこともまた確か

である︒たとえば上冊

5 5 の実法院宛書簡を挙げよう︒実

法院とは京都西八条の大通寺内に存在した塔頭であり︑

妻瑚雅尼の死後供養を依頼した寺で秋成と関係の深いこ

5とは︑浅野一一一平の報告に詳しい︒上

5 5 の書簡は土師方観

が秋成の陶像を作っておくって来たのを当惑して実法院

に置いてくれと依頼する内容である︵本文は板本による

が︑濁点を補い︑一部句読点を改める︶︒

にくさげなるものもたせ参らす︒いづこの隈にもお

かせたまへ︒土師がたのまぬ事して︑御寺を煩はし 奉ることよ︒あはれ破くだけよかし︒土にかへらむをとおもひつ4︑えこぽたぬ心きたなさよ︒

薦蟹のあなうと世には在わびてかけとむべくはお

もはざりしを

と︑うちなげかる4

にな

む︒

自像を贈られ困惑しながら︑これを壊すことは出来な

いという微妙な自意識を和文で叙して秀逸である︒とこ

ろで︑秋成には同じ実法院の法全宛に︑自己の肖像を預

け置く依頼をする似たような書簡がある︵注5浅野稿に

紹介︶︒文中に﹁七十二齢ノ老病心ハ乱レズ﹂とあって

文化二年次の書簡とわかるものである︒必要部分を濁点

を私に付して引用する︒

0

前 日 申 入 候 老 ガ 肖 像 先 達 テ 御 預 申 オ キ 候 ヲ 西 福 寺 主 是 非 二 当 寺 二 納 ベ ク 申 サ ル ヽ 也 院 主 御 留

主ニハイカゞナル事ナガラ必党無論ノ長物二候ヘバ

何トゾ西福寺へ遣ハサレタク願奉ル也︒

(16)

候体で書かれた実用の文章であり︑これと比べれば

﹃文反古﹄所収書簡の表現意識はやはり高い︒手紙を雅

文で書くこと︑それ自体が既に書き手に一種のポーズを

とらせることになる︒雅俗論の立場から言えば︑和文消

息は俗事を雅文で記す訳であるから︑書き手には自ら雅

6人たるべき意識が必然的に伴うのである︒したがってこ

れらの書簡を読む者は︑秋成の私的な交友のありさまを

垣間見るという楽しみを持つ一方︑その文章の雅趣を味

わうことができるのである︒

そして︑これらの雅文で認められた文章は︑書簡であ

りながら︑鑑賞されるべき和文として一人歩きする︒刊

本下

3 1 所収の﹁大田南畝子に西役をおくる文﹂が天理図

書館蔵﹃秋成文稿﹄の中に見えることは﹃全集﹄が指摘

するが︑他にも大阪府立中之島図書館が所蔵する︑継紙

に書かれた秋成自筆の文章は︑稿本

5 5 の﹁森川︵竹窓︑

飯倉注︶の女の病してあると聞て︑なぐさめがてらにと

ひやる﹂︵これは刊本では下5に歌の部分のみ抄出され

る︶と刊本下4の﹁文化三年の仲秋より春かけて︑瑞竜

山下の我香火院西福精舎にやどりてあるほどに︑波速人

のもとへ年の暮におくりし文﹂︵これは稿本によれば

﹁長谷川のめの許に﹂とある︶の二つの書簡から成る︒

前者は﹁右は森川がめの病気を問つる文也﹂とあり︑後

者は﹁是はふるとしそれの日長谷川のめのもとへいひや

りし文也﹂と本文末に注される︒おそらく秋成が求めら

れて認めた文章であり︑和文﹁作品﹂であるといえよう︒

また︑刊本化にあたって︑書簡の文章を改変する例が

少なからず見られるが︑これは単なる訂正ではなく︑

﹁作品﹂としての意識的な改変であると思われる︒

たとえば︑刊本上3の宇万伎書簡を︑稿本と比較する

と︑改変した部分が少なくない︒稿本を元に︑刊本化に

あたり削除した部分を︻︼に︑加筆した部分を︽︾

に入れて示してみよう︒表記の違いや句読点については

無視 する

初春の御たよりを︑鶯も翅にかけてはやく来たりぬ︒

たび麻といへど︑ふる郷の荒し垣ねには︑︻いと︼

︽立︾かはりてめづらかになん︒︻古草まじりたれ

若菜何くれはつかながらおひ出たる︽を︾︑後の便

(17)

に見せ︻たて︼まつ覧︒千秋よろづ代かたみにつ4

みなかりし事など︑︻かうしき/\に︼︽こなたかな

た︾聞えかは︻し侍る︒︼︽すほどに︑事しげくて︾

御交り︻に︼は先︻おきぬべし︼︽おこたりぬ

︾ ゜

この改変は︑刊行化にあたって文意などを解りやすく

するなどの最低限の処置ではなく︑﹁添削﹂といっても

よいものである︒たとえ師の手紙であろうと︑秋成はこ

れだけ表現にこだわった︒﹁古草まじりたれど﹂を削除

し︑﹁かうしき/\に﹂を﹁こなたかなた﹂に︑﹁おきぬ

べし﹂を﹁おこたりぬ﹂に改変するのはやはり雅文のこ

とばにこだわる処理だといえよう︒師の文章のありのま

まを残すより︑和文﹁作品﹂としての意匠を重視したの

である︒大胆といえば大胆であるが︑公刊される以上は

完璧な雅文にして披露するというのは︑実は師へ最大限

の敬意を示す行為なのかもしれない︒

上冊5は宇万伎宛﹁馬の鼻向に奉る文﹂である︒大坂

城番の任を終える宇万伎の出立にあたって細合半斎や木

村兼腹堂らと船遊びを催す計画を示して勧誘する内容の

左門

いふ

加忍

いふ

このかみさあらば兄長いつの時にか帰り給ふべき︒

ゆき月日は逝きやすし︒おそくとも此秋は過 文章だが︑その一部をやはり同様な方法で稿本と比較して

見よ

う︒

44もに︑猶名残の御物がたりうけたまはるべ

く︑舟は大城の北の岸に︑朝とく︽より︾よせさせ

侍︻らむ︼︽るべく︾︑︻必よおぼした4

せた

まへ

︽ねがふは其日はいつと承らばや

︾ ︒

今日ならずとも

︻其日︼聞えさせたまへ︻かし︼︒

ここでは︑雅的表現とはまた違う改変の狙いがあるの

ではないか︒﹁必ずよおぼした4せたまへ﹂から﹁ねが

ふは其日はいつと承らばや﹂へ︒この改変によって刊本

では︑あたかも甘えた弟が兄に約束の日を迫るような文

調になっている︒これを読むと︑私は﹃雨月物語﹄﹁菊

花の約﹂で︑左門が宗右衛門に再会の約束を迫る場面を

想起せずにはいられない︒

(18)

五 む す び

さじ

左門云︒秋はいつの日を定めて待っべきや︒

やくねがふは約し給へ︒

秋成と宇万伎の交わりは︑旧作﹁菊花の約﹂の左門と

宗右衛門の交わりに比すべきものだという秋成のメッセー

ジを読み取るのは深読みかもしれない︒それでもこの改

変で切迫した秋成の師への思いが表現されることになっ

たのは否定できないだろう︒

以上︑本稿では天理図書館所蔵の稿本のノドに丁付が

見出されたことから︑稿本を再配列し︑刊本化にあたっ

ての取捨選択のありさまを示して︑その編成の狙いを明

らかにするとともに︑刊本化にあたっての文章の改変に

ついてもわずかながら検討した︒編成にあたっては︑月

次消息を上冊下冊に配する模範文例集としての建前を堅

持しながらも︑大幅な増補によって︑秋成がその死を切

実に受け止めた故人の追悼書簡集の意味合いを︑とくに

上冊で持たせたことを明らかにした︒また私的な書簡の 2 

やりとりを公刊するにあたり︑それが和文で記されてい

るからには︑もはや書簡をありのままに残すという記録

性よりも︑いろんな意味での文芸性が重視されたことは︑

わずかな事例でも明らかにしえたと思う︒他の例も検討

すべきであるが︑今後を期したい︒

本稿では︑﹃文反古﹄における秋成自身の関与につい

てはあえて言及しなかったが︑少なくとも﹁添削﹂の様

相を見た時︑秋成が本書の成立に関ったことは疑えない︒

宇万伎書簡に﹁添削﹂することができるのは︑この時点

で秋成以外に考えられないからである︒

古典文庫第

4 7 冊﹃春雨物語﹄(‑九五一年︶所収

﹁秋成落穂ひろひ﹂︑のち﹃国学史上の人々﹄(‑九

七九年︑吉川弘文館︶に収録︒

﹁かべ草﹂の構想や題名について秋成と森川竹窓

の間にやりとりのあったことは森銑三﹁上田秋成雑

記﹂︵﹃森銑三著作集﹄第二巻所収︶に紹介されてい

(19)

6  5  4  3  る︑国会図書館所蔵の森川竹窓編﹃ゆきかひ﹄に附載された﹁余斎文﹂によって知られる︒

﹃安々言﹄などにその認識が窺える︒拙稿﹁秋成

と分度ー﹃安々言﹄試論ー﹂︵﹁文学﹂一九八六

年七月号︶参照のこと︒

月次消息は︑消息合︵消息文を番いにして勝敗を

争う歌合に準じた催し︶など︑寛政期ころからの和

文の流行を背景とした︑和文習練のための一形態で

あり︑﹃文反古﹄刊行の一年前に刊行された鵜殿余

野子の﹃月なみ消息﹄が有名である︒なお田中康二

﹃村田春海の研究﹄︵二

000

年︑汲古書院︶第一部

第一章を参照のこと︒

浅野三平﹃上田秋成の研究﹄(‑九八五年︑桜楓

社︶第一章三﹁上田秋成の晩年││実法院宛書簡を

めぐってー﹂︒

拙稿﹁和文の思想ー雅俗論の視点ーー﹂︵季刊

﹁文

学﹂

6巻第3号︑一九九五年七月︶

参照

関連したドキュメント

Abbreviation: s-IgG4: Serum IgG4; HT: Hashimoto Thyroiditis; GD: Graves’ Disease; RT: Riedel Thyroiditis; IgG4: Immunoglobulin G4; IgG4+cells: IgG4-positive plasma cells;

environmental consequences of automobile lifetime extension and fuel economy improvement: Japan's case. Economic System Research, vol. Does product lifetime extension increase

In this thesis, feasibility study on the stable operation of the conduction-cooled superconducting magnet for high intense muon beam line (COMET-PCS) regarding the coil

 Positioning  linguistic  landscape  in   the  multilingual  campus  context,  this  study  enriches  people’s  understanding  of   linguistic

The concept used for this study is based on the cultural based contextual backgrounds of westerners existing within the construct of the Japanese host culture..

The study of non-anonymous Internet communication on social media confirms that the same trend is also present in this area of natural language, and that

These aspects are particularly relevant in Chapter 2, where we conducted a development and validation of a high-throughput method for metabolite analysis using

A small surface coverage via gold nanoparticles obtained by HPS-Au (2-3nm), evaporated Au (2-3nm) and APG-Au (1nm and 1.5nm) sparsely dispersed on ITO can act as