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奥宮慥齋の霊魂自由論

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(1)

論 文

はじめに

1「人民平均の理」諭告について

(1)慥齋の行動

(2)草稿を書いた人物は慥齋であること

(3)慥齋と板垣退助との関係

(4)「人民平均ノ議」草稿 2「人民平均の理」諭告の内容  3 3つの例

(1)「喩俗 人間霊魂自由権利訳述」

(2)「皇朝身滌規則」

(3)「人間交際論」

おわりに

はじめに 奥おくのみやぞうさい

宮慥齋(1811 - 1877)(1)についての論考は 多くはなく,主なものとして大久保利謙の民選 議員設立建白に関する小論「愛国公党結成に関 する史料―奥宮慥齋の日記から―」(2),片岡弥 吉の高知藩に配流された浦上キリシタンのこと を扱った論考「中野健明の高知巡視と奥宮慥齋 のキリシタン教諭について」(3)がある。最近,

島善高によって明治以降の慥齋の日記及び主な 著作が翻刻されている(4)

明治 3 年 12 月 24 日高知藩によって発表され た「人民平均の理」諭告は,四民平等を基調と する藩政改革の理念を示しているが,平尾道雄 はこの藩政改革を「指導者たちのいだく理想主 義は明治 7 年(1874)以後立志社を中心とする 民間運動として発展したのであって,明治の自 由民権運動は高知の藩政改革を止揚したものと も考えることもできるわけである。」(5)と,自由 民権運動に繋がるものとして高く評価してい る。この諭告は,従来大参事板垣退助の責任の もと,権大参事福岡孝弟によって成されたもの とされていたが(6),本稿では,その草稿は大属 であった奥宮慥齋によって書かれたものである ことを示す。また慥齋は板垣退助とも親しい関 係にあり,明治 3 年の高知藩改革に深く関わっ ていたこと,さらにこの諭告の草稿は,単に慥 齋によって書かれたというだけでなく,自由の 根底が「霊魂」であるという慥齋の考えが色濃 く表れたものであることを明らかにしたい。さ らに仏教,儒教,神道さらにはキリスト教にも 通じたと云われる慥齋の「霊魂」についても解 釈を試みる。

*早稲田大学大学院社会科学研究科 博士後期課程5年

杉 山   剛

─ 「人民平均の理」諭告を通して ─

奥宮慥齋の霊魂自由論

(2)

1 「人民平均の理」諭告について

(1)慥齋の行動

高知藩は政府の宣教使の設置を受けて,明治 2 年 11 月藩内に諭俗司を設けた(7)。慥齋は明治 3 年 1 月 10 日五等官諭俗司都教に任ぜられ(8), 同年 3 月 9 日から 4 月 17 日まで藩内西部地方 を巡回した(9)。明治 3年 1月 3日に発せられた「大 教宣布の詔」の基本理念である,「祭政一致」「惟 神之大道」を一般に知らしめることは必要不可 欠のことであった。

慥齋は西部地方巡回の終えて間もなく,明治 3 年 5 月 15 日神祇官に奉職するために東京へ 向けて高知を発ち(10),同年 6 月 27 日神祇官権 大史を拝命している(11)。このころ高知藩では藩 政改革が進行中であったが,同年閏 10 月 24 日 板垣退助が大参事,福岡孝弟が権大参事になる と改革は加速された(12)。在京中,慥齋は板垣か ら藩政改革の協力を求められて,それを承諾し た(13)。このころの日記には板垣の名前が数回出 てくる(14)。同年 11 月 25 日願いによって慥齋は 神祇官を辞し(15),板垣らとともに同年 12 月 10 日高知に帰り(16),同 15 日高知藩大属書記係を 拝命(17),そして同 24 日「人民平均の理」が発 せられた。

(2)草稿を書いた人物は慥齋であること 高知市民図書館の平尾文庫には「人民平均の 理」諭告の草稿が存在するが(18)これが慥齋に よって書かれたものであることを示そう。

まず,第一には,この楷書で書かれた草稿と そのころの慥齋の楷書で書かれたものを比較す るとその字体の特徴は全く一致する(19)。それ故 これは慥齋が書いたものであることは明らかで

ある。

ちなみに,この草稿は朱で訂正されて部分が 数ヶ所あるが,その訂正文を福岡孝弟の楷書で 書かれた文書と比較するとその特徴は,ほぼ一 致するので(20),この諭告文は,福岡の責任で出 されたものであろうことが確認できる。

これでこの諭告は慥齋によって書かれたもの であることは判明したのであるが,付け加えて 第二の理由として,この諭告が発せられる前の 慥齋の日記を見ると,役所に出勤して諭告を書 いている様子が記載されている。明治 3 年 12 月 16 日から 20 日までの日記(21)全文を示そう。

十六日,晴,出官,拮据匆忙,草喩告文,晩帰 十七日,出官,改竄草稿,謀岩崎生推敲,夜帰 十八日,寒甚,出官,頻議改正事,橋本同僚建白大 禄更削議,余亦同之,参政不可,余又論之,遂不決,

夜醸雪,宿江口,是日岩崎生又草喩文

十九日,出官,出余及岩生喩文,乞裁批,参政遂取 余稿,夜宿江口,有祖祭

二十日,晴,朝訪弘田・竹村,出官,喩文脱稿,夜 退食,帰布山

この日記中岩崎生,高橋同僚がどのような人物 かは不明であるが,慥齋は諭告文を草し,参政

(22)が慥齋の稿を選び,翌日それを完成させた として,慥齋が諭告文を書いたことは明らかで ある。「人民平均の理」諭告が発表されたのは 12 月 24 日であるので,明治 3 年 12 月 16 日か ら 20 日の間に準備されていた諭告は「人民平 均の理」諭告であると考えて間違いないであろ う。

第三の理由として,慥斎が林有造(1842-1921)

(23)に宛てた「与権大参事林有造書」(24)という

(3)

文章が残されている。これは内容から,慥齋が 明治 4 年,林有造に送った数十条の建策に添え た文章であると思われる(25)。その中に

無幾遂辞官,同諸公就国,客冬発大改革之令,僕承 乏於書記之職,頻草告諭布令

と書かれている部分があり,神祇官を辞して高 知に帰って,昨年冬,大改革の令が発せられ,

その時から慥齋は大属書記の職を引き受け,頻 りに「告諭布令」即ち諭告を草したとある。日 記には,明治 3 年 12 月から翌年にかけて「草 諭告」と書かれてある箇所がいくつか見受けら れ(26),その最初のものがこの「人民平均の理」

諭告である。

以上で「人民平均の理」諭告の草稿は,明治 3 年 12 月慥齋によって書かれたものであるこ とが明らかになった。

では次にこの諭告には慥齋の考えが入ってい るかどうかが問題となるが,それを考える前に,

慥齋が藩政改革と深く関わっていたことを見る ために,板垣との関係及び「人民平均ノ議」草 稿について検討しておこう。

(3)慥齋と板垣退助との関係

慥齋と板垣退助は高知藩の改革を通して親し い関係があったようである。

「人民平均の理」が発せられて間もない明治 4 年 1 月,西郷隆盛,大久保利通,木戸孝允等 の一行は,薩長土の三藩による親兵献上の相談 の為,高知藩を訪れた。会談の結果,話が纏まっ て板垣は一行を追って同年 1 月 23 日出京の為 高知を発ったが,その時慥齋は日記に歌を詠ん でいる(27)

送板垣大参事適東京

同じくハ君と御殿の山さくら 花ちらぬ間に我も遊 はむ

続けて「整頓書籍以為慰」と書かれており,共 に藩政改革に携わった板垣が不在になってしま う残念な思いが感じられ,親しい関係があった ことを暗示している。

慥齋と板垣との間の関係が何時から始まったか ははっきりしないが,「人民平均の理」諭告が 発せられる以前,慥齋の日記明治 3 年 8 月 2 日 条には

晴,早起,藤川三渓来云,欲訪板垣氏,即价之,板 生適疾,不遇(以下略)

とあり,慥齋は板垣に,藤川三渓なる人物を仲 介している位であるから,この時既に,板垣と は相応の親しい関係があったと見るべきであろ う。

前出の「与権大参事林有造書」には,板垣と 福岡が協力して藩政改革に当る時,板垣の使い が来て協力を要請され,慥齋は葛藤の結果引き 受けたことが書かれている(28)。慥齋は板垣の要 請によって神祇官を退職し,高知藩大属の職に 転じたのである。

板垣が高知在住の重臣たちと話し合うため に,東京を出発する直前の明治 3 年 9 月 12 日,

慥齋は板垣を訪問し,日記に「終夜談話」(29)

していることも親密な協力関係を示唆してい る。

(4)「人民平均ノ議」草稿

(4)

高知市民図書館奥宮文庫に慥齋の書いた「人 民平均ノ議」草稿(30)が残されている。これは「人 民平均の理」諭告と違い,具体的な施策が示さ れたもので,4 項目の条文についてそれぞれ理 由が示されている。例えば始めの2項目につい て少し長いが次に引用する。

一,士族文武ノ常職ヲ止メ,同一人民中ノ族類ニ帰 スル事

一,官員兵隊ヲ立ルハ官等官禄ヲ以テ士族卒平民中 ヨリ撰択スヘキ事

右案,夫士ハ徳川氏武治ヲ以テ天下ヲ封建シ,藩国 各士ヲ養テ君臣ヲ結ヒ,護衛ノ武職トシ,級禄ヲ与 ヘ,以テ之ヲ世襲シ,又其平民ト域セサル者トス,

今日 朝政一新,藩国其士民版籍ヲ

朝ニ帰シ,群縣ノ体ト成,華族士族ヲ分ケ従来ノ君 臣ヲ止メ,猶宇内各国開明ノ地ヲ参シ,務テ旧習ノ 固陋ヲ除キ,進歩日新ス,然ニ士族人民ノ一類ニ帰 スト雖モ,文武ノ常職ヲ帯テ官員ト成リ兵隊ト成ル,

亦多ク士族ニ限ル故,平日士大夫ノミ専文武学課ノ 責メアッテ,農工商ノ如キハ人民同一ノ智識ヲ拓ク ヘキノ責ナシ,是其開明諸国ノ無キ所ニシテ,人爵 ヲ以テ天爵ヲ奪フノ甚キ者ト謂ヘシ,今日ニ至テハ 此陋習ヲ一洗シ,士ノ文武常職ヲ止メ,同一人民中 ノ族類ニ皈スヘシ,唯士族タル者如斯ナラハ,却テ 其常職ニ慣安シ,徒ニ坐食スルノ弊ナク,人民各其 智識ヲ研究シ,勉励報国ノ志アルヘキハ天職タルヘ シ(他の2項目は省略)

板垣は同年 9 月 14 日に東京を発ち,「高知に 帰ると連日会議を開き,藩政の今後について検 討を重ねた」。(31)この「人民平均ノ議」草稿は その内容から見て,この時に討議された案文で あろうと思われる。

先に述べたように同年閏 10 月 24 日板垣は改 めて高知藩大参事に就任し,ついで少参事福岡 孝弟は権大参事になった(32)。成案を得た板垣と 福岡は上京し,同年 11 月 7 日藩知事の名で政 府に 7 項目の改革文を提出した。この 7 項目を 見ると先の草稿に対して項目は増えているが,

説明を付け加えている程度で内容は殆ど変わっ ていない。板垣は殆ど原案を押し通したので あった。この「人民平均ノ議」草稿が慥齋によっ て書かれた時期は,慥齋は同年 9 月 14 日に板 垣等と高知には行っていないから,それ以前と いうことになる。

「人民平均ノ議」草稿が慥齋によって書かれ た時期などを見ると,この藩政改革の動きは,

今まで板垣と福岡によって為されてきたと云わ れていたが,慥齋も深く関わっていることが分 るであろう。

2 「人民平均の理」諭告の内容

ここでは慥齋が草稿を書いた「人民平均の理」

諭告(33)の内容を検討する。冒頭の文には

夫レ人間ハ天地間活動物ノ最モ貴重ナルモノニテ,

特ニ霊妙ノ天性ヲ具備シ,知識技能ヲ兼有シ,所謂 万物ノ霊ト称スルハ固ヨリ士農工商ノ隔モナク,貴 賎上下ノ階級ニ由ルニ非サル也

とあり,人間の本性として「霊妙ノ天性」が備 わっていることが強調されている。人間が士農 工商の隔てもなく平等であることの理由は「霊 妙の天性」を備え,「知識技能」を持っている からだと云う。

また,「人民平均」つまり四民平等の改革を 断行する理由として,普仏戦争の例を引いて,

(5)

フランスが「其ノ都府長囲ヲ受ケテ猶屈」しな かったように,我国が「万国ニ対抗シ,富強ノ 大業ヲ興」すには,国民が報国の責任を持ち,「人 民平均」の制度を敷くしかないとしている。

この「人民平均の理」諭告の内容は次の2つ のことが柱になっていると考えられる。

(イ)王政復古,富国強兵

(ロ) 自由平等の原理としての人間本来の「霊 妙ノ天性」

このことを示す例として,途中「自主自由の権」

を与える,と述べる箇所を引用してみよう。

当藩今日大改革ノ令ヲ発スルハ固ヨリ 朝旨ヲ遵奉 シ 王政ノ一旦ヲ掲起セント欲スルカ故ニ,主トシ テ従前士族文武常職ノ責ヲ広ク民庶ニ推亘シ,人間 ハ階級ニヨラス貴重ノ霊物ナルヲシラシメ,各自ニ 知識技能ヲ淬励シ人々ヲシテ自主自由ノ権ヲ与ヘ,

悉皆其ノ志望ヲ遂ケ使ルヲ庶幾スルノミ

この文中前半が(イ)であり,後半が(ロ)で あることが分るであろう。後半では「自主自由 ノ権」を与える根拠を,人間は階級に関係なく

「貴重ノ霊物」であることとしている。「貴重ノ 霊物」は「霊妙の天性」を持つ人の言い換えで あると考えられる。

筆者が注目するのは,この自由平等の根拠と しての「霊妙の天性」であり,これが慥齋の考 えと思われる。このことを示すために慥齋の書 いた文書3例を示そう。

3 3つの例

(1)「喩俗 人間霊魂自由権利訳述」

「喩俗 人間霊魂自由権利訳述」(34)という題 名の文章がある。末尾に「晦堂老人自識」とあっ

て慥齋の自筆であり,書かれたのはその日付け から「人民平均の理」諭告が発せられた約2ヶ 月半後の明治 4 年 3 月 8 日である。

慥齋はその少し後の同年 3 月 18 日から 4 月 8 日まで,諭俗司官員として藩内東部地方を巡 回している。題名の始めに「喩俗」とあるのは この関連を示すものであろう。また「訳述」と は「訳 ( わけ ) を述べる」と解釈出来る。この 文書は自主自由の根拠を明確にしている点で重 要である。

自主自由の根拠を「人民平均の理」諭告では

「霊妙の天性」と云っているが,ここでは別の 表現を使っている。冒頭の部分を示そう。

人間ニ固有ノ天性霊魂ト自主自由ノ権ヲ与ルト 云訳

人間ニ限リ,天神ヨリ不測ノ霊魂ト云ヲ賜ハリ,

天地間ノ所有万物ヲ自由自在ニ我ガ物トシ,其使役 ニ供スルハ,今更云迠モナク,万古相カハラサル通 義ナレトモ(以下略)

慥齋は最初に人間の持つ「霊魂」を措定してい る。その「霊魂」を次のように説明している。

扨其霊魂ト云モノハトノ様ノ物ニテ,今何処ニテ,

今何処ニ住シテトノ様ノ面体ナルヤト細カニ尋ネ見 ルヘシ,人々今日視モ聴クモ言フモ思フモ,皆何処 カラスルヤラ,誰カラサスルヤラ知ラスニ,視ント 思ヘハ直ニ目カ視,聴ント思ヘハ直ニ耳ガ聴キ,言 ントスレハ早口ガ受取リ,動カントスレハ五体ガ動 キ,考思フ事ハ心ニ思慮スル抔,ヨクヨク省ミテ見 ルヘシ,実ニ不思議奇妙ナルモノニ非スヤ,是必ス 其本シテ主人アリテ,コレヲ統ヘ司ルモノナクテハ 叶ハヌ筈ナリ,是所謂,霊魂ニテ即天神ヨリ分チ賜

(6)

ハリシ天性本心ナリ天性本心霊魂異名同物ナリ,

この文章及び最後の割注から「霊魂」は「天 性本心」と同じものだと云う。この文章をよく 読むと,慥齋の云う「霊魂」とは一般に使われ る意味(35)とは異なり,個の中に実体を認めな い仏教の「空」(36)を土台とする概念と考えられ る。視覚,聴覚,言語,行動,思考などの人間 活動の空性を表しているので唯識で説く四智(37)

における成所作智(38)に相当すると云える。深 遠な哲理をこのように具体的な言い方をするの はめずらしい。慥齋が実際に深い認識をもって いたことの証拠であろう。実は,これと同じよ うな表現が石田梅岩の『莫妄想』の中にあり(39), 慥齋は若い頃熱心に心学を学んでいたことがあ るので(40),その影響があるのかもしれない。

次には

コノ霊魂ハ,凡ソ人間ト生レシ限リハ,知愚賢不肖,

貴賎男女ニカキラス,一同ニ完全無疵ナルモノナレ トモ(以下略)

と「霊魂」は知愚貴賎男女に関係なく「完全無 疵」と云っているが,それは即ち,先ほどの四 智に則して云えば一切の相対を絶した完全円満 な大円鏡智(41)を表していると解釈することが 出来る。このように慥齋の云う「霊魂」は仏教 の根本義から解釈できる。つまり,「人民平均 の理」諭告の中の「霊妙の天性」の考えは,仏 教の本質に通ずる深い解釈が出来るのである。

この後,「霊魂」即ち「天性本心」の教育は 幼児の時から重要であるとして多くの語を費や し,「自主自由」とは「近事洋学家ノ云出シタ ル言ニテ,昔ハ聞カサリシト云モノアリ,大ニ

不然,古今皆ヨク云事ニテ,ソレト気ノ付カヌ ハ餘リ自由ナル故也」と云い「夫自主自由ノ四 字ヲ委ク訳スヘシ」として福沢諭吉の『西洋事 情』二編巻之一,「例言」の文章を引用して説 明している(42)

英語に「リベルチ」ト云ハ,先自由自在ト云義ニテ,

漢訳ニコレヲ自主トモ自得トモ自若自主宰任意寛容 従容ナトノ字ヲ当テタルヨリ出テ,元初ハ天性本心 霊魂ノ條理ヨリ縁ヲ引イテ云言ナリ

上記文中最後の「元初ハ天性本心霊魂ノ條理ヨ リ縁ヲ引イテ云言ナリ」だけが慥齋の文であり,

他は福沢の引用である。これによって慥齋の云 う「自主自由」とは「天性本心」即ち「霊魂」

の土台があって,そこから導き出されたものと 解釈できる。

この文の最後には,「自由」とは,確かな証 文があれば借金の返済を迫ることが出来るよう な,正しいことをどこまでも主張できる「独立 不羈」で「束縛」のない道理であり「コレヲ惣 シテ人間ノ自主自由ノ権ト云テ,是天帝ヨリ御 許ヲ受ケ来リ,天下晴レテノ権利ナリ」として

「言忠信行篤教則雖適夷狄不可棄」(43)という孔 子の言葉を引いて締め括っている。

改めて全体を考えてみると,この文章は「自 主自由」の概念を「霊魂」即ち「天性本心」を もとに詳しく説明したものと考えられる。すな わち,明治に入って新しく導入された「自主自 由」の土台は「霊魂」と云うものであると主張 し,その「霊魂」を詳しく説明し,福沢の解釈 を引用しつつ,最後に孔子の言葉で終らせてい る。ここで云えることは,この文書の内容は,

先の「人民平均の理」諭告が自由と平等の根拠

(7)

を「霊妙の天性」としていることと同じ構造を 持っていると云うことである。ということは,

この文章の「霊魂」即ち「天性本心」は「霊妙 の天性」と同じものを指しているのである。分 り易く示すと

霊魂(「喩俗 人間霊魂自由権利訳述」)

 ∥

天性本心(「喩俗 人間霊魂自由権利訳述」)

 ∥

霊妙の天性(「人民平均の理」諭告)

となる。

これが書かれた時期は,前出のように同諭告 が発せられたすぐ後であることも,この文書が

「人民平均の理」諭告の説明であることを裏付 けている。その解釈は福沢諭吉によって導入さ れた西洋的「自由」を儒仏の本質的な精神の中 に見出すものである。この文書が書かれた目的 は,文末に「有所感」(44)と記されているが,弟 子に講義するためのものであったかも知れない が,この考えが当時開催されていた私塾(陽山 塾)(45)及びその直後の 3 月 18 日から 4 月 8 日 まで行われた東部地方巡回にも,影響を及ぼし たであろうことは想像に難くない。

(2)「皇朝身滌規則」

この「皇朝身滌規則」(46)は慥齋が明治 5 年 3 月に教部省に入った後,明治 6 年 7 月教部省か ら刊行されたものである(47)。ここにも「霊魂」

という語によって「人民平均の理」諭告と同じ 内容が書かれている。

慥齋は明治 4 年 3 月 18 日から 4 月 8 日にか けて実施した東部巡回の際,大教宣布の一環と

して,この「皇朝身滌規則」を神官を集めて指 導していた(48)。「皇朝身滌規則」は春秋 2 回の 祓除身滌を行う具体的なやり方を示すものであ る。慥齋は明治 3 年 10 月から 11 月にかけてフ ル ベ ッ キ(Guido Herman Fridolin Verbeck,1830-1898)(49)と頻繁に交流して意見を 求めた(50)。官版「皇朝身滌規則」にはフルベッ キの跋文が付いている。慥齋はこれを「悔過自 新」の道として重要視し,政府にも働きかけた 可能性がある(51)

この「皇朝身滌規則」が書かれた時期ははっ きりしないが,フルベッキと交流を持ち始めた 明治 3 年 10 月頃には「題言」「規則三章」は既 に書かれていたと考えるべきであろう。

その内容を見て行こう。はじめに人間観が示 され,その必要性が述べられている。

題言

人間ハ特ニ天神ヨリ霊魂ト云モノヲ分賜リテ,天地 間ノ活動中ノ最モ貴キ物ナレハ,所謂天地人三才ト 並称スル徳アル此ヲ以ナリ,故ニ智慧ノナルモ意欲 ノ逞シキモ。亦禽獣等ニ比スレハ深ク且大ナリ,其 霊魂天性ノ侭ニ率フテ善ニユクヲ神髄ノ神道トモ人 道トモ称シ,其知慧意慾モ亦隨フテ愈善ニ進ムモノ ヲ君子トモ善人トモ云,若シソレ形気ノ侭ニ任セテ 悪ニ流ルヽヲ私欲トモ非道トモ称シ,其知慧モ亦隨 フテ愈々悪ニ進ムモノヲ小,人トモ悪人トモ云,実 ニ恐ルヘキモノハ人間ナリ(以下略)

ここでも始めに慥齋の人間観である「霊魂」が 示されている。冒頭の一文は先に「人民平均の 理」諭告冒頭の「夫レ人間ハ天地間活動物ノ最 モ貴重ナルモノニシテ,特ニ霊妙ノ天性ヲ具備 シ」と比べて,「霊妙の天性」が「霊魂」に表

(8)

現が替っているだけで,内容がだいたい同じで あるであることに注目したい。つまり,ここで 言う「霊魂」は前節(1)で見た「天性本心」

と同じであり,かつ「人民平均の理」諭告の「霊 妙の天性」と同じものである。

ここで慥齋を理解する上で重要な「悔過自新」

という語について述べておこう。上記の引用文 の後,祓除身滌の具体的な事柄を述べた「規則 三章」が続いている。そのはじめの部分は次の ように示されている。

(前略)此ヲ能々省ミ精々悔ヒ改メ,真心ニ神明ニ 誓ヒ奉リ所謂今日ヨリ始テ罪ト云罪ハ有ラシト祓ヒ 清メ,只管悔過自新スルヲ要スヘシ(後略)

ここに「悔過自新」が出てくるのであるが,こ の「皇朝身滌規則」は自らの反省を神道の形式 で行なうものであり,「悔ヒ改メ」「悔過自新」

を図る道である。フルベッキは跋文の中で「余 土州の人奥宮某か記せる神道の略書を読み,殊 に竒絶を覚ふ」と慥齋のこの書に関心を寄せ,

「抑世上億萬の蒼生,真神よりこれを見れハ,

尽く罪科に汚れさるものなし,此罪科を一掃せ んと欲せば,祓除の法を行ふへき事,但此法を 行ふハ即各人其己を創造せる造物主即真神に致 すへき本務なるを以,各自ら之を行ふへく」と 云ってキリスト教の立場から,慥齋の云う「悔 過自新」を肯定しているのである。神道の内容 を持つ「皇朝身滌規則」についてフルベッキの 賛同を得たことは驚きであるが,キリスト教を 防御しようとする大教宣布運動の一環である

「皇朝身滌規則」をキリスト教徒に認めてもら おうとすること自体,一般には有り得ないと思 われる。慥齋はキリスト教においても普遍的な

真理を認めていたと考えられるのであり,フル ベッキにおいても慥齋の「悔過自新」の道を高 く評価したことは,彼自身も同様の深い見識を 持っていたことを証明するものであろう。

(3)「人間交際論」

この「人間交際論」(52)は慥齋が,福澤諭吉の 著した『西洋事情』外編に触発されて書いたも のである。かなり長文のもので,『西洋事情』

外編を最初から数行づつに分けて引用したもの を本文として,それに解釈を加えたり,用語を 解説したりしているものである。最初の題名は

「人間交際往来」で明治 4 年 12 月に書かれたが 明治 5 年春,朱書きで訂正されたものは題名が

「人間交際論」となっている。

「人間交際論」の中で慥齋は自主自由につい て

自主自由ノ権トハ,人間ノ天ヨリ得テ,人ノ許ス自 然ノ権力ナリ,自主自由トハ,身其主将トナリテ,

自由自在ニ為スヲ得ルコトナリ,是モト霊魂天性ニ 根サシテ,人々ニ各自ニ具ハリタル当前ノ権柄ニテ

(以下省略)

と述べている。ここでもまた「自主自由ノ権」

は「霊魂天性ニ根サシテ」と云っていて,先に 述べた「人民平均の理」諭告の内容の柱(ロ)

自由平等の原理としての人間本来の「霊妙ノ天 性」,と同じ内容を示している。もっとも,こ の説明文の後には割注があって,このことは「喩 俗 人間霊魂自由権利訳述」に詳述していると 書いているので,当然 3 章の(1)節で述べた ように「人民平均の理」諭告の内容と同じであ る。

(9)

ここで慥齋の人間に対する認識が,引用した

『西洋事情』外編の認識と根本的に違うことを 付言しておこう。この「人間交際論」の冒頭は 次のようになっている。

夫人間ハ,天神ヨリ,靈ア ニ マ魂氣力性質ノ三ツヲ賜ハリ テ生レシモノニテ,此三ツヲ以テ外物ノ性ニ應シ,

能ク交際ノ道ヲ盡シ,幸ニワガ身命ヲ全クスルヲ,

人間の一生涯ト云ナリ 

これは福沢諭吉の『西洋事情』外編の引用文で あるが,元はこうなっている(53)

人の生ずるや,天より之に與ふるに氣力を以てし,

之に附するに性質を以てし,此氣力と性質とに由て,

外物の性に應じ,以て身を全まつたうして朝露の命を終るこ とを得るなり。

『西洋事情』外編では人間を気力と性質の二つ として定義しているが,慥齋は霊魂,氣力,性 質の三つとして,さらに霊魂に「アニマ」とい うルビを付っている。その後の説明に慥齋は,

本文は「福沢氏ノ翻譯セシ西洋事情外篇等ニ據 テ,之ヲ抜萃シ,毫モ愚説ヲ攙入スル者ニ非ズ」

として自分の説を入れてないというがどう考え たらよいのであろうか。

ここには慥齋の考え方が表れていると考える べきなのである。それは,3 章の(1)節で述 べたように「霊魂」とは空性を土台とする人間 の根源的なものであるため,人間の大前提であ り,その属性に関係なく,普遍的な真理として,

『西洋事情』外編に書かれていなくとも,当然 認められるべきものであるというのが理由であ ると考えられる。また,霊魂に「アニマ」とい

うルビをふったのは,慥齋がキリスト教の中に,

先に示した霊魂の意味と同等のものを認めたの が理由であろう。これは福沢訳の『西洋事情』

外編には全くない考えであり,霊魂という語に,

仏教,儒教,神道,キリスト教の中に通ずる人 間存在の本質を見る慥齋の考えによるのであ る。

おわりに

本稿では,「人民平均の理」諭告は下書きを 慥齋が書いたこと,また慥齋は板垣と親しい関 係があり,明治 3 年の藩政改革に深く関わりを 持ち,「人民平均の理」諭告には,慥齋の考え である「霊魂」に基づく自由論が入っているこ とを示した。慥齋の考えは同諭告の自由平等の 原理が「霊妙ノ天性」即ち「霊魂」に基づき,

その「霊魂」とは「天性本心」や「霊妙ノ天性」

と同じものであり,その本質は「喩俗 人間霊 魂自由権利訳述」において,仏教や儒教にも通 じ,「皇朝身滌規則」において神道にも通ずる ものであった。キリスト教については少し触れ る程度に止めたが,慥齋はフルベッキとの交流 を通して「霊魂」と「アニマ」は本質的に同じ であるという確信を持ったように思われる。慥 齋の「自由」の理解は,このように仏教,儒教,

神道,キリスト教を通じた本質的な認識を伴っ たものであった。

福沢諭吉は「リベルチ」(liberty)の翻訳に 苦しんで結局「自由」と訳したが,福沢におい て,政治的圧制からの解放という文脈で語られ るこの語の訳の可能性に「霊魂」はなかった。

我国に西洋思想が流入し,江戸時代の身分制の 解放を宣言した「人民平均の理」において,拠っ て立つところの自由論とは,慥齋においては「リ

(10)

ベルチ」(liberty)の「自由」ではなく,儒・仏・

神・耶に通じた霊魂自由論だったのである。こ のことは,経済的,軍事的にはもちろん社会制 度,思想的にも圧倒的に優位に立っていた欧米 に対して,ともすれば自己を見失いがちになる 当時において,なお本質を見失わず深い認識を もち,進取の精神を持っていた慥齋の真面目を 見る思いがする。鈴木大拙の晩年の文章に自由 について述べたものがあるが,そこで大拙は「明 治の初期といえば,何もかも西洋かぶれという わけではなかった。国粋だとか,日本主義だと か,愛国心だとか,東洋君子国などといって騒 いだ人もあった。しかしその諸説はいかにも浅 薄で,深いところには触れていなかった。」(54)

と云っているが,ここにその慥齋と云う,確固 として,浅薄でない深いところに触れた例証を 見出すことは,決して小さなこととは云えない だろう。慥齋が「人民平均の理」諭告を書いた 明治 3 年 12 月の時点では中村正直の『自由ノ理』

も訳されてはなく,西洋的「自由」の概念が得 られるのは,書物では福沢の『西洋事情』初編,

外編,二編だけであった。慥齋はいち早くそれ を取り込み,儒・仏・神・耶に通じた深い認識 の上に立って「人民平均の理」諭告を書いたの であった。

慥齋が儒・仏・神・耶に通じていたと始めて 云ったのは子息奥宮正治であった(55)。「人民平 均の理」諭告にはそのような精神が土台となっ ていたのであり。それが「霊魂」に基づく自由 論であったのである。

板垣退助監修の『自由党史』は「人民平均の 理」を自由民権運動の嚆矢と位置づけている。

自由民権運動の理論家中江兆民は慥齋の弟子で あるが,「人民平均の理」諭告の下書きが慥齋

によって書かれたことが分った以上,慥齋と自 由民権運動との関連を探ることは次の課題とな ろう。

〔投稿受理日 2010.9.25 /掲載決定日 2011.1.27〕

⑴  奥宮慥齋は文化 8 年(1811)7 月 4 日土佐国布 師田に生まれた。名は正由,号は慥齋,晦堂,外 物外史など,通称は忠次郎,後周次郎と改めた。

父は土佐藩士奥宮弁三郎正樹。国学和歌を田内菜 園に学んだ。天保 3 年 22 歳の時,再度江戸に出 て佐藤一斎に師事し,王陽明の学説に触れて帰国 した。南学の伝統ある土佐において,はじめて陽 明学を主唱し,少壮有為の若者が集まった。安政 6 年藩校の教授並びに藩主山内豊範の侍読に抜擢 された。明治 3 年高知藩において諭俗の任に当た り,同年 6 月東京に出て神祇官権大史となった。

同年の終り頃,藩政改革に当るため高知に帰り,

大属を拝命した。明治 5 年教部省に任官し,後八 等出仕,後,大録に任ぜられ,大教院の大講義を 兼ねた。神儒仏,キリスト教にも通じ,著書も多 い。明治 10 年東京にて 67 歳で病没している。

   なお詳しい履歴は「故奥宮正由履歴書類 贈位 申請時」(東京大学史料編纂所,請求記号 維新史 料引継本 - 追加 -20)及び「奥宮正由(文部省三止)」

(国立公文書館マイクロフィルム資料,請求記号 2A-40-5- 贈位 119)にある。

⑵  日本歴史学会編『日本歴史』1989 年 1 月号,

108-110 頁。

⑶  『キリシタン研究』第五輯,1959 年,151-186 頁。

⑷  ①「奥宮慥齋日記」明治時代の部(一),『早稲 田社会科学総合研究』,第九巻三号,2009 年 3 月 25 日発行。

   ②「奥宮慥齋日記」明治時代の部(二),『早稲 田社会科学総合研究』,第一〇巻一号,2009 年 7 月 25 日発行。

   ③「奥宮慥齋日記」明治時代の部(三),『早稲 田社会科学総合研究』,第一〇巻二号,2009 年 12 月 25 日発行。

   ④「奥宮慥齋日記」明治時代の部(四),『早稲 田社会科学総合研究』,第一〇巻三号,2010 年 3 月 25 日発行。

(11)

⑸  平尾道雄『維新経済史の研究』,高知市立市民 図書館発行,1959 年,186 頁。

⑹  宇多友猪『板垣退助君伝記』第一巻,2009 年,

455 頁に「この諭告文は蓋し福岡の手になるもの である。」とある。平尾道雄によって書かれた高 知新聞編『土佐百年史話』1968 年,『土佐藩』

1965 年,『維新経済史の研究』1959 年にはこの諭 告文が紹介されているが誰が書いたかという記載 はない。

⑺  高知市民図書館,平尾文庫,受入番号 28,『修 史餘録 28 維新篇』,一六の明治 2 年 11 月改革の 職制表に「喩俗司」と記載がある。

⑻  高知市民図書館,平尾文庫,受入番号 383,「鷹 雑記Ⅱ」,36 頁。

⑼  高知市民図書館,奥宮文庫,受入番号 7‐47「西 巡紀程 天 稿本」の冒頭部分,また同文庫 7 ‐ 45「西巡紀程 第二集 晦堂老人蔵」4 月 17 日条,

いずれも翻刻は注 ( 4) の②。

⑽  高知市民図書館,奥宮文庫,受入番号 7‐48「東 京日記」5 月 15 日条。

⑾  同上,6 月 27 日条。

⑿  山内家史料『幕末維新』第 13 編第 16 代豊範公 紀,1988 年,278 頁。

⒀  高知市民図書館,奥宮文庫,受入番号 48 - 1,「慥 齋先生遺稿 」巻上の「与権大参事林有造書」の 中に「僕亦仮出仕朝班匆皇不暇(中略)時板垣参 事使某来説,曰子欲翼朝廷耶将扶藩制耶,余笑曰 方今維新四海一家何朝藩之云耶,若以其情乃雖僕 駑駘不欲復受一藩羈束也,君有復我者必在墨陀堤 上耳矣,雖然人生有命唯其所在而尽犬馬之力焉,

苟不棄我吾豈匏瓜乎,無幾遂辞官同諸公就国客(以 下略)」とあり,神祇官に勤めていた慥齋が板垣 の要請によって結局,高知藩の藩政改革に協力す る様子が述べられている。

⒁  高知市民図書館,奥宮文庫,受入番号 7‐48「東 京日記」中,明治 3 年 8 月1日から,慥齋が高知 に帰るために出発する 12 月 2 日までの間,板垣 の名前が出てくるのは 5 回(8 月 2 日,9 月 12 日,

10 月 23 日,閏 10 月 22 日,11 月 20 日)。

⒂  高知市民図書館,奥宮文庫,受入番号 7‐48「東 京日記」11 月 25 日条。

⒃  同「東京日記」12 月 10 日条。

⒄  同「東京日記」12 月 15 日条。

⒅  高知市民図書館,平尾文庫,受入番号 25,『修

史餘録 25 維新篇』の中の「諭告」(1-5 頁)。

⒆  上記(A)と,明治 6 年 3 月下旬に書かれた慥 齋自筆「宗旨問答」(奥宮文庫,受入番号 3-19)(B)

の中で,慥齋の書き方が比較的他と異なる,文字 5 個を選んでくらべてみると,その特徴は全く同 じであり,それらは同一人の筆跡と見ることが出 来る。

 (A)1 頁 3 行目「能」─(B)2 頁目 3 行目「能」

 (A)1 頁 7 行目「與」─(B)1 頁目 2 行目「與」

 (A)3 頁 1 行目「国」─(B)1 頁目 7 行目「国」

 (A)2 頁 5 行目「欲」─(B)3 頁目 8 行目「欲」

 (A)2 頁 1 行目「革」─(B)10 頁目 7 行目「革」

⒇  訂正文と比較したものは,高知県立図書館所蔵

(コピー史料)『東京大学史料編纂所々蔵 南路志 続編稿本二十三』の中の「朝官拝命次第 従四位 福岡孝弟」と題された「福岡孝弟略履歴」。これ は福岡の履歴書であるため,自筆であることは疑 いがない。(A)の訂正文を(a)とし,「福岡孝 弟略履歴」を(C)とする。訂正した文の文字数 が少ないので 3 例しか挙げられないが,それぞれ の文字を比較すれば,それぞれの特徴は一致し,

(a)と(C)の作者は,ほぼ同一人物であること が分る。

 (a)2 頁 1 行目「所」─(C)2 頁目 10 行目「所」

 (a)2 頁 1 行目「以」─(C)2 頁目 10 行目「以」

 (a)3 頁 1 行目「民」─(C)18 頁目1行目「民」

 高知市民図書館,奥宮文庫,受入番号 7-49「備 忘日録」。

 参政は旧役職名で大参事であった板垣のことと 思われる。

 林有造は土佐国幡多郡宿毛村(高知県宿毛市)

出身の政治家,自由民権運動を推進した。逓信大 臣,農商務大臣を歴任。明治 4 年欧州視察の旅か ら帰ると 5 月 15 日に高知藩少参事に任命され,6 月 15 日に高知藩権大参事に栄転し,9 月になっ て大参事となった。(高知新聞社編『土佐百年史 話』,1968 年,浪速社,283-284 頁参照)

 高知市民図書館,奥宮文庫,受入番号 48-1「慥 齋先生遺稿,巻上」の中にある。この文章は写し であり原本は不明。

 林有造が権大参事であったのは明治 4 年中のこ とであった。注(23)参照。数十条の建策につい ては,この文章に書かれてあるのみでその内容及 び原本は不明。

(12)

 明治 4 年 1 月から 8 月までに限って慥齋の日記

「備忘日録」(高知市民図書館,奥宮文庫,受入番 号 7-49)から拾ってみると,2 月 4 日「草布告文」,

2 月 18 日「草喩俗文」,6 月 15 日「草喩文」,6 月 18 日「草教喩文」,6 月 20 日「書喩文」,7 月 10 日「草喩文」,7 月 13 日「草喩文」,7 月 16 日「草 喩文」と云う文字が見える。

 高知市民図書館,奥宮文庫,受入番号 7-49「備 忘日録」1 月 23 日条。

 「一日板垣参事使某来説,曰子欲翼朝廷耶将扶 藩制耶,余笑曰方今維新四海一家何朝藩之云耶,

若以其情乃雖僕駑駘不欲復受一藩羈束也,若有復 我者必在墨陀堤上耳矣,雖然人生有命唯其所在而 尽犬馬之力焉,苟不棄我吾豈匏瓜乎,無幾遂辞官,

同諸公就国」

 高知市民図書館,奥宮文庫,受入番号 7‐48「東 京日記」明治 3 年 9 月 12 日条。

 高知市民図書館,奥宮文庫,受入番号 6-94「人 民平均ノ議」。

 高知新聞社編,『土佐百年史話』,1968 年,浪 速社,247 頁。

 注(12)参照。

 丁野遠影編『土佐藩政録』,歴史図書社,1980 年,

625-630 頁,を参照した。(また『自由党史』〔上〕,

岩波文庫,1957 年,29-31 頁,にもある。)慥齋 の草案とは多少の字句の修正のみで基本的な内容 はほとんど変わっていない。

 高知市民図書館,奥宮文庫,受入番号 4-53「喩 俗 人間霊魂自由権利訳述」,翻刻は注 (4) の④ 64-67 頁。

 広辞苑(新村出編,岩波書店,1998 年第 5 版)

には「①肉体のほかに別に精神的実体として存在 すると考えられるもの。たましい。②人間の身体 内にあって,その精神・生命を支配すると考えら れている人格的・非肉体的な存在。病気や死は霊 魂が身体から遊離した状態であるとみなされる場 合が多く,また霊媒によって他人にも憑依しうる ものと考えられている。性格の異なる複数の霊魂 の存在を認めたり,動植物にも霊魂が存在すると みなしたりする民族もある。」とあるが①②双方 とも存在と云っているので,実在を仮定している。

 中村元・紀野一義訳注『般若心経,金剛般若経』

(岩波文庫,2009 年)21 頁には「空」の説明とし て,「『何もない状態』というのが原意である。こ

れはまたインド数学ではゼロ(零)を意味する。

物質的存在は互いに関係し合いつつ変化している のであるから,現象としてはあっても,実体とし て,主体として,自性としては捉えるべきものが ない。これを空という。しかし,物質的現象の中 にあってこの空性を体得すれば,根源的主体とし て生きられるともいう。この境地は空の人生観,

すなわち空間の究極である。」とある。

 『広説仏教語大辞典』中巻(中村元著,東京書籍,

2001 年)684 頁「四智」には「②仏の智慧で   大円鏡智・平等性智・妙観察智・成所作智をいう。

唯識の理に入るための四つの智慧」とある。

 同『広説仏教語大辞典』中巻 874 頁「成所作智」

には「なすべきことをなし遂げる智。五智(また は四智:筆者注)の一つ。けがれのうちにある前 五識を転じてこの智を得る。この智によって人び とを救済して作すべきところのことを成ずる。」

とあり,前五識とは眼・耳・鼻・舌・身であるが 言語,行動,思考も含めて空性を体認することと 考えれば成所作智と考えられる。

 日本思想大系 42『石門心学』,岩波書店,1975 年発行の中の「莫妄想」(103-115 頁)の 108 頁。

 慥齋が 24 歳の時,即ち天保 5 年(1834 年)3 月 5 日の日記には「朝早起微雨舂く,巳後市川氏 を訪う(中略)よりてまた心学を論ず,頗る省悟 あり,傳習録一二枚許読取,夜ことなし,例の常 磐町へ詣ず,夜にいろいろと思い困じて竟に一大 疑団を醸す,こは都鄙問答によりて起りし疑なり,

胸中判然たらず,いとくるし」(高知市民図書館,

奥宮文庫,受入番号 51,「慥齋先生日記三」の中 の「甲午日録」)とあり,心学に取り組んでいた ことが伺える。

 同『広説仏教語大辞典』中巻 1104 頁「大円鏡智」

には「大円鏡にすべての像がそのまま映しだされ るように,すべてのものをありのままに現し出す 仏智をいう。」とあり,また「①唯識説では,仏 になって煩悩ある心を転じて得る煩悩のない智を 四つに分けた,四智の中の一つをいう。有漏雑染 の法を離れて初めて得る無漏の智であり,その智 体は清浄にして,一切の諸法はつねにこの上にあ らわれ,満徳円満であるという。(以下略)」とあ るので大円鏡智と考えられる。

 『福沢諭吉全集』第 1 巻,岩波書店発行,1958 年,

486 頁。

(13)

 『論語新釈』(宇野哲人著,講談社,2001 年)

466 頁に「言忠信,行篤敬,雖蛮貊之邦行矣」と あり,この部分の通釈は「誠ほど物を感動させる ものはない。言が忠信であり,行いが篤敬である ならば,言行共に誠があるから,自然に人を感動 させて,中国は言うに及ばず,南蛮北貊の遠い邦 でも滞りなく行われて,人から信じ悦ばれる。」

となっている。

 正確には「辛未春三月八日有所感録時久霖新霽 蜩声初発頗覚欠呻午眠 晦堂老人自識」となって いる。

 慥齋は前出の日記「備忘日録」によれば,明治 4 年 1 月 11 日,高橋,浅川生の訪問を受け「談 陽貴山廃寺為義塾之事」とあることから,私塾(陽 山塾)を作る相談をし,同 2 月 18 日条には「未 後会陽山,講祓滌規則,聴徒凡二十人許」とあり,

この日から講義を始め,同 2 月 22 日,同 3 月 2 日,

同 3 月 17 日,同 5 月 7 日,同 10 月 27 日に講義 をしたことが日記に記されている。

 高知市民図書館,奥宮文庫,受入番号 2-67「皇 朝身滌規則」,翻刻は注(4)の③ 72-74 頁。高知 藩で行われたことがある関係上藩の史料にもあ る。それは「高知市民図書館,平尾文庫,受入番 号 27,修史餘録 27 維新篇,11 潔身滌略式制定」

また「平尾文庫,受入番号 30,修史餘録 30 維新篇,

47 皇朝身滌規則」にもある。

 この文章の末尾に「一千八百七十年十二月第廿 七日明治六年七月得官許上梓 大山祇神社宮司兼  権大講義 木村信兢」とある。

 高知市民図書館,奥宮文庫,受入番号 7-49「備 忘日録」3 月 18 日条に「喩告大旨且示神官於祓 除潔祭」とある。

 アメリカ=オランダ改革派宣教師。御雇顧問。

1830 年 1 月 23 日オランダに生まれる。1952 年渡 米,ニューヨーク州オーバン神学校に学ぶ。日本 への宣教の呼びかけに応じて 1859 年(安政 6 年)

長崎に上陸した。以後長崎奉行所管轄の済美館,

佐賀藩の致遠館で長崎留学の子弟の教育にあたっ た。明治 2 年 2 月東京に招かれ,大学南校頭取と なり,太政官政府の顧問として外交・教育・法律 制度の諮問に応じて献策した。慥齋がフルベッキ と会ったのはこの頃であろう。(『国史大辞典』第 12 巻,吉川弘文館,1991 年 366 ‐ 367 頁を参照 した。)

 前出「東京日記」明治 3 年 10 月から 11 月の間 でフルベッキの名前を探すと,10 月 13 日,閏 10 月 12 日,同 19 日,同 26 日,11 月 4 日,同 7 日 に見える。

 拙稿「高知における大教宣布」-奥宮慥齋の活 動を通して-『社学研論集』第 14 号,2009 年,

早稲田大学大学院社会科学研究科発行,328 ‐ 331 頁参照(なお 329 頁右の段 17 行目「岩倉具視」

は「三条実美」の間違いなのでここに訂正する)。

 奥宮慥齋の人間交際に関する文章は,奥宮文庫 の中に6種類ある。

 ①受入番号 2-11「人間交際往来」上  ②受入番号 2-25「人間交際論」下  ③受入番号 2-56「訓蒙人間交際論」

 ④受入番号 3-58「訓童人間往来」

 ⑤受入番号 6-54「人間交際論」

 ⑥受入番号 6-88「人間交際往来」

 本稿では③を参考にした。

 『福沢諭吉全集』第 1 巻,岩波書店発行,1958 年,

389 頁。

 鈴木大拙著,『新編東洋的な見方』,岩波文庫,

2010 年,66-67 頁。

 奥宮正治 口演「土佐に於ける王学の系統」『陽 明学』第丗参号,鐵華書院,1897 年,3 頁。

(14)

参照

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