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田中友次郎

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田中友次郎

Uber Bismarcks Bundnisangebot an England

vom Jahre 1889

TOMOJIRO TANAKA

筆者は昭和12年九大学生の頃小林栄三郎教授(当時講師)が, 1889年ビスマルクに対英同盟 申込の事実があったことを一言されたのを印象的に記憶している.その後筆者はビスマルクの 外交政策を噛るようになってからも,この事実について余り立ち入った叙述を行なった概説書

に触れたことがなく,漫然とした疑問を抱いたまま放任していた.しかし其の具体的な内容に いくらかでも接してみたいという本格的な関心が昨秋来強まり,入手できる限りの参考文献に 眼を通して曲りなりにもまとめ上げたのが,この小論文である.

この対英同盟申込については,ビスマルク自身の回想録「思慮と追憶」 (Gedanken und Ermnerungen. 1898年刊, 2巻,第3巻1922年刊)のなかでも,カイゼル・ヴィル‑ルム二 世の回想録「事件と人物(Ereignisse und Gestalten 1878‑1918. 1922年刊)のなかでも,

どうしたわけか全く触れられていない.我が国で此の方面の恐らく最も詳細な概説書は,曽っ て林健太郎教授が史学雑誌にその内容を紹介されたことのある神川彦松博士著近代国際政治史 (昭和24年刊)であると思われるが,同書下巻のI.帝国主義時代史pp. 289‑291において, この同盟申込についてやや具体的に叙述されている.便宜上その叙述を次に要約する. 「ビス マルクは1888年8月駐英ドイツ大使‑ツツフェルト(Hatzfeldt)に対し,イギリス政治家 と,フランスに対する英独の提携につき,意見の交換を行なうよう訓令した. 1889年1月改め て大使に訓令し,イギリス首相ソ‑ルズベリー(Salisbury)に対し,理由を付して対英同盟 の申込をなさしめた.同年1月15日大使はソールズベリ‑に会ってこの申込を行なった. 1月 29日(筆者注,これは26日の誤植)ビスマルクは,議会演説でイギリスを『ドイツの古きかつ 伝統的の同盟国』と呼んで,親密の情を表明した. 5月下旬ビスマルクの長子‑ルベルト・ビ スマルク(Herbert Bismarck)外相が,サモア(Samoa)問題の協議や,新帝ヴィルヘルム 二世のイギリス訪問の打合わせのためロンドンを訪れた際,ソールズベリ‑は事情を述べて, 申込を丁重に拒絶した.ビスマルクは失望し,いよいよイギリスを『同盟無能力者』とみなす

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ようになり,この批判はドイツ外務省‑の遺訓となって,後継者たちに少なからぬ影響を与え るに至った.思うに1889年,独露関係は1887年におけるよりも遥かに良好であり,ビスマル クの同盟申込の目的は,イギリスとの提携を一層,正式化してフランスの復讐を防止し,かね

° ° ° ° e ° ° ° ° °

てロシアの万一の危険にも備えようと考えたのである.」

さて以上の要約のうち,・・・(筆者の加筆)の部分はきわめて疑問である.すなわち,果 して「ビスマルクは失望し」たのか? 「ビスマルクの同盟申込の目的は」果してそうであった のか?事実は正に逆ではなかったか?この点後段で論及することとする.

筆者はまずこの対英同盟申込事件の客観的事実を改めて以下にやや詳しく論述したい.アイ クに依ると,ビスマルクは1879年イギリス首相デイズレーリ(Disraeli)に対し,駐英ドイツ 大使ミュンスター(Miinster)を通じて,ロシアに対抗しての独嘆のイギリスとの同盟につき 探りを入れイギリス首相が大いに乗り気なのを知った後,口実を設けて,大使に命じ,それ以 上この問題に触れることを禁じたことがあったが,(注1)1889年のこの対英同盟交渉は,それ以 来10年ぶりに行なわれたこの種の交渉である.

さてこの1889年の対英同盟交渉に先立って紛糾しこの交渉に関連ありと推測される国際的事 件の一つは,既述の「要約」でその名称のみに触れた「サモア問題」である. 「この島は南太 平洋ポリネシア群島中の大諸島で1860年頃‑ンブルグの商館ゴーデフフロイ(Godeffroy) が始めて此処に足場を得たが, 1878‑79年合衆国,イギリスおよびドイツが原地の王との諸条 約によって,それぞれ一つの石炭供給基地に対する権利を得た.」腫2)紛争はすでにこの時に根

ざしている.この問題については, ‑ーゼルマイアの「第二帝国外交史1871‑1918」のなかの

「平和宰相時代」の第三部が次のように論じている. 「1887年8月(筆者注, 25日および24 日. Vgl. ibid. S. 136)におけるイギリスの対ロシア関係についての‑ルベルト・ビスマルク のソールズベリー卿とのロンドン討議の折,この両政治家問においてサモア問題についてもま た討論が始められた.その際卿は, 『イギリスの放任政策』にも拘わらず,ドイツがマリ‑ト ア(Malietoa.筆者注,アメリカの支持するサモア王,ドイツ軍艦でサモアから追放されてい

た。)について行なうであろうところのものを認めることを確約した.サモアは卿には少しも重 要ではなかった.だが卿は,オーストラリア植民地に対する顧慮からして,このことを公然と 言明することができなかった.」(注3)さて,この会談の折へルベルト・ビスマルクは卿に対し,ア メリカ人は「今や,太平洋をアメリカの湖水とみなしている如くに,モンロ‑主義を解釈しよ うと欲している.アメリカ人は‑ワイのみならずサモアとトンガ(Tonga.筆者注,オースト ラリアの東北約2,500キロ,サモアの西南約500キロ)の諸島をもまた,オーストラリアをめざ す将来のパナマ運河への中継地としてアメリカの勢力下に置かんと欲している.その上今やす でにオーストラリア植民地の合衆国との今後の共和主義的親睦と連携とについて夢みているア メリカ人空想家たちが存在している.」(注4)と語ってアメリカを非難している.

1888年11月中頃サモア駐在ドイツ領事クナッペ(Knappe)は,コルグェト艦,,01gaHをサ モアのUpolu港にさしむけ,同年12月18日には,アメリカ軍艦の艦長から内密の支持を受け

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ている土人たちとの間で血なまぐさい衝突をひき起した.(注5)この衝突前後におけるサモア問 題についての詳しいアメリカの政治情勢に関して, ‑ンス・ウルリヒ・ヴェ‑ラ‑の,アメリ

カ議会文書を始めとする多数の文献を駆使した卓抜なる論文「1889年:アメリカ外交政策の転 回点‑近代汎アメリカ主義の初まり‑サモアの危機」は,次の如く論じている. 「1888年 末サモアに対するアメリカの態度を取り巻いているこの神経過敏的に緊張した雰囲気のなか で,メイン州出身上院議員Fryeは議会において問題を取り上げた.アメリカ人ならば誰一 人として,合衆国が『サモアの独立』に重大な利害関係を有していることを否認する人はない であろうという彼の論拠に基き,上院が太平洋における最近の発展を討究すべきを決然として 要求した. 『サモア諸島は,同諸島がそのなかに横たわっており又貿易の中心を成している太 平洋の一部の要めとなっている.』強国の威信に訴えて,ドイツの行動が明示しているどとき

『侮辱を瞬時たりとも』耐え忍ぶことは出来ないと,彼は結論した.彼の動機は即刻受入れら れた. 1週間の後,上院外交関係委員会は,サンフランシスコ商工会議所の緊急を要する陳情 書を受取った.その中で, 『サモアに対するドイツ政府の侵略的方針はアメリカの利益にきわ

めて有害なものとして』特徴づけられている.ワシントンがこの上さらに消極的なままである とすれば,ドイツは‑ワイにもまた手を伸ばすのだと,この陳情書は宣言している.合衆国は

『要するに,太平洋の島々に対するそのふさわしい勢力』を防衛せねばならなかった. 、 、 、

㌔ 、何れにせよ大統領Clevelandもまた一層激しい抗議を考え始めた.

なお,さらに大きな重荷‑の内政的重圧が積み重ねられるに先立って, 1889年1月5日ワシ ントンはサモアに関する公然たる敵意にみちた報告を手に入れた.ドイツ領事はベルリンから 受けた指示を公然と無視してタマセセ(Tamasese.筆者注,マリートアに謀反を起した元の

サモア副王)支持のために,戦時国際法を宣言していたからである.ドイツの海軍陸戦隊が, アメリカ商人からライフル銃と弾薬とを供給されたマタ‑ファ(Mataafa.筆者注,マリート アの婿)一派の武装解除を行なおうとした時,突然戦闘が始まり,この戦闘はドイツ軍部隊の 明らかな敗北をもって終り, 50名の兵士が死傷した. 、、\、、同日(1月5日)アメリカ太 平洋艦隊司令官Kimberley提督は, 『準備のできた艦』をサモア‑向けて派遣するよう命ぜ られた.ドイツ大使v, Arco‑Valleyは1月10日アメリカ外務省に公式に衝突について報知し た.午後Clevelandはごく限られた側近者たちの問で何を為すべきかを協議した. 、 、 、 、

・合衆国は『サモアに対する独占権にせよ政治的覇権にせよ,これを獲んとするドイツのいっ さいの企図を激しく非難した。』1月11日Kimberleyはそれに応じて訓令を受けた. 、 、 、 \

・この間1月11日から14日までサモア駐在アメリカ領事Sewallは上院委員会で発言し,南太 平洋におけるアメリカの地位のさし迫った喪失をはっきりと警告した. 1月15日大統領は,国 民に対し『これまでの協定に矛盾する如き,サモアに対するドイツの権勢的地位の』きわだっ た『優越』を訴えた.」 (注6) (この日は実に,駐英ドイツ大使がガソ‑ルズベリ‑に同盟申込 を行なった日である!)

一方「ドイツ領事は1889年1月5日ドイツ外務省に打電して,サモア諸島に対する英米の委

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任を取得する時機の到来を告げた.しかしビスマルクは債事の言動を,,furor consulans"

(領事の怪物)として非難し,領事を更迭させた.」(注7)さて,以上の如きドイツに対するアメ リカ側の激しい憤りの雰囲気のなかで,すなわち, 1888年と1889年との交この緊張の時期に, ビスマルクの対英同盟申込の処置がとられようとしていたのである.

過去において再三ビスマルクは,イギリスの議会主義的政治形態ゆえにイギリスとは確固た る同盟関係に入ることが不可能であると言明した.今や彼は, 「1889年1月5日から7日まで大 使ハッツフェルト伯がFriedrichsruh (筆者注, ‑ンブルグの東約50キロ,いわゆるザクセン

の森の申.ここに豪壮な邸宅があったが1945年の爆撃に遭い,今は小さく再建されている.) に彼を訪ねて滞在している問に,大使に対し,近々の機会をソールズベリー卿との内々の討議 に利用し,もって卿に対し,英独が斉しく望んでいる平和,または,単にそのなかで両国が来 たるべき戦争の危険の大きさに応じてその軍備を整えることのできる期間は,両国がある一定 の期限内で両国のうちの一国に対するフランスの攻撃を共同して防衛することを約束する英独 条約の締結によるより以上に確実に到達されえないという帝国宰相の確信を表明すべきを命じ た.」(ij三8)さらにビスマルクは,ロンドンの大使あて追送した1889年1月11日付書簡のなかで, 1.脅威はフランスのみであり, 2.イギリスは,仏・米・露と相背馳せる利害関係にあり, 5.アメリカは孤立的立場にあることについて次の如く論じている. 「両友好匡廿pイツ,イギ

リスにとっての一つの脅威的要素は,双方の隣国フランスのみである. 、 、 、、、イギリスは フランスとの外に,アメリカおよびロシアと相背馳する利害関係を有っている.しかしこれら 諸国との戦争,二国との同時に起る戦争さえもイギリスにとっては,フランスがイギリスの敵 国の同盟国である場合のみは,死活的危険となり得る.アメリカの態度もまた,アメリカ当局 が孤立しまたフランスの経済的または精神的援助なしにイギリスとの決裂を敢行せねばならな

いことを考慮せざるを得ない時,イギリスに対し一層慎重となるであろう. \、 、、、アメリ カはその将来の政府の極端愛国主義的傾向とイギリスに対するそのこれまでの非友好的態度を ば,万一の場合のフランスの支持を保障されていない時に当り,戦争に訴えての実践に移すこ とを好まないであろう.」(注9)かくてビスマルクはさらに続けて, 「フランスが近々1, 2年ま たは5年の経過のうちに,両国のうち一国を攻撃する場合ドイツ政府とイギリス政府は相互的 援助を行なうことを約束すべきであり,またドイツ帝国にとって議会の決議なくして拘束的な ものとなるであろうところのこの条約は,イギリス議会に提出され,ドイツ帝国議会に公然と 報告されるであろうということ」(注10)を補足的に確言した.

そこで‑ッツフェルト大使は,さし当り帝国宰相の名においてのみ,ソールズベリーに対 し,この考えに近づくことが可能であると思うかという質問を発し,一方では,この考えの実 現性について彼のイギリス大友人たちのなかの権威ある人々に対し慎重に探りを入れる必要が

あった. 「たとえ卿が申込を拒絶するとしても,卿の政策に対する私の信頼と卿の人格に対す る友誼とは決して動揺させられないであろう」(注11)という言葉が,前記1月11日付大使あてビ スマルクの書簡にすでに示されていたが,ソ‑ルズベリーとしては申込の件につき,ビスマル

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クがこれまでカイゼルの名において話す立場になかったので,それだけ一層ためろうことなく 自分の意志を表明することができた.

事実帝国宰相あて1889年5月22日付長子‑ルベルト・ビスマルク外相の書簡が示している如 く,(注12)ビスマルクの処置は元来カイゼルの意図に基づかないもので,後述する如く,カイゼル

‑の報告は,ヘルベルトのイギリス‑の旅立ち(5月20日)直前に行なわれている.ビスマル クの処置の外見上の結果は次の如くであった.すなわちソ‑ルズベリ‑は5月22日,ロンドン 来訪中の‑ルベルト・ビスマルクに対し, 「英独同盟は確かに,両国にとって又欧州の平和の ために最も有益なものであろう.しかしながら私と私の同僚は,この理念の遂行を不適当なも のとみなしている.何となれば,その場合議会の多数派は崩壊し,従って内閣は互解させられ るであろう.」(j+:13)と言明した.ヘルベルトはこれに答えて, 「我々は,あなたが我々になんら の確答を与えることはできないであろうということについて覚悟ができている.そしてあなた はそのことが両国の良好な関係に少しも影響を与えないということを知っている.」(注14)と述べ た.それに対しソ‑ルズベリ‑は, 「私はこの申込に非常に感謝している.そして私はなお生き 永らえて,この申込に実際に応ずることを私に許す時節にめぐり合うことを願っている.」(注15)

と語り,さし当りできるだけ示威的にドイツと提携する以外に何も為すことはできない旨を告 mm

以上述べ来ったアメリカの政治情勢と対英同盟申込の内容と経過とを省みるとき,ビスマル クの処置は,これまで20年近くにわたり帝国宰相の外交政策史上とられて来たやりかた,ある いは主張されて来た見解と一見矛盾しているように思われる節があり,特にこの同盟申込が,

「アメリカ議会の南米研究委員会および議会決議を表徴として1880年代の中頃に始まり,しか も1889年初めて明らかに性論となったアメリカの新らしいラテンアメリカおよび太平洋政策」

(注16)となんらかの関係がないかとの疑問が生ずる. ‑ーゼルマイアは,この疑問に答えて,ど スマルクの対英同盟申込の「意図は,イギリスとの現存せる友誼をなお一層深め,それに依っ て,サモアのための合衆国との不可避的対決に際してイギリスの外交的支持を確保すること以 外ではほとんどあり得なかった.」(注17)と断定している.当時の英米関係は, ‑ーゼルマイアが 言及している如く,(注18)南北戦争後,決して余り友好的なものではなかった.例えば1880年1 月8日付ワシントン駐割ドイツ大使Kurd von Schlozerの外務省あて文書は,このことを特 徴づけている.いわく, 「私がニカラガまたはメキシコまたはある他の地域における我々の特 殊のドイツ的利害の代表として当地の政府に協力または外交的支持を提議する時は,これまで ほとんどその度毎に,最大の好意を見出した.しかしイギリスが関係するや否や全く即坐にヤ ンキーの昔からのイギリス人友人に対する嫌悪が現われる.そして星条旗が仮りにも外交的活 動において英国旗の傍らに同盟国として登場するという考えは,あらゆるアメリカ大政治家に とって,ある恐るべきものを有っている.」(注19)さらに又パウル・クル‑ケはその論文「ビスマ ルクとソールズベリー,一つの外交的決闘」のなかで次の如く論じている. 「この申込は,坐 く無理する処なく,ビスマルクが‑カ年来すなわち1888年1月の彼の探り以来処ってもって親

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密を強化せんと努力せねばならなかった政策の輪郭内に存している.彼は‑力年間継続された 友好的態度によってソ‑ルズベリーをもまた味方につけたものと信ずることができたのであろ う.イギリスの冷淡さを和らげさせるための一層の論拠を探索して,ビスマルクは一つの新ら しいことがら,すなわちサモア紛争による対合衆国共同利害を見出していた.彼は1889年2月 5日ベルリン駐割イギリス大使Maletに向い,ドイツとイギリスとの政府が完全なる意見の 一致をみるということをアメリカ合衆国もまた認識するとすれば,それはいかに有用であるか を印象づよくほのめかした.」云々(注20)

以上‑ーゼルマイアおよびクルーケはビスマルク対英同盟申込みの動機として,サモア紛争 に関しイギリスの支援を得ることに重点を置いているようである. 1889年4月29日からビスマ ルクの招請による英米独間サモア問題のためのベルリン会議が開かれたが,アメリカ国務長官 Blaineが,これより先首席代表Kassonに対し, 「もしドイツとイギリスが共通した処置を

主張する場合は,どんなことがあっても,三国の平等の権利が侵害されない,時間的に限られ た規定が見出さるべきである.」(注21)と訓令していることは,この間の事情を暗示している.に も拘わらずクルーケは, 「ロンドン政府がビスマルクの同盟申込を受入れるためには,すべて の前提条件が欠けていた.ドイツ人の研究において,ドイツの乏しい資料のゆえに論争の余地 ある様々な解釈が行なわれている. 1889年1月の申込は,ロンドン文書の中で利用し得る資料 によってもまた,明らかに直接的動機から生じてはいない」(注22)と断わり,クルーケはここで, メ‑ラー(Moeller)の論文を参照するよう指示している.

さて筆者はメーラーの論文のなかに,きわめて啓蒙的な, 1889年対英同盟申込みの真の意図 を推測することができるが,この推測の一助として当時のイギリス側の対ドイツ感情について 少しく触れることとする.

イギリス人史家ビ‑ズリ‑は1938年その論文「英独関係史,ソ‑ルズベリ‑卿と1885‑1895 年」のなかで,およそ次の如く論じている. 「1885‑1895年には英独問に協調努力を要する切 迫した課題はなく,良好な協調が実在していた.協調を維持・培養・仕上げする必要があった にすぎない.この時期のGladstoneを含めてのイギリス人を,反ドイツ的だとみなすのは誤

りである.当時の自由派に属していた私の体験から,自由派は反ドイツ的とは異なったもので あったと証言できる.」(注23)次いでビーズリーは,ビスマルクの対英同盟申込のいわば消極的理 由と思われることがらに論及している.いわく, 「自由派はイギリス人,ドイツ人を民族的に観 て根本的に同質,従って自然に親密であるよう義務づけられているとみなした. 、 、 、 、 、イ ギリス人は,当時の他のヨーロッパ人以上にドイツ人を信用した. 、、、、、イギリスにとっ て80年代,ドイツとの同盟のみが考慮に価いした.」(注24)さらにいわく, 「ソールズベリーは曽

って1885年6月2日付書簡においても,ビスマルクに対し,ドイツとの緊密な協調を再建する ことの並外れた意義を認め,中央アジアにおけるロシアとの緊張にも拘わらず,断固として平 和を欲求した.」(注25)次いでビ‑ズリーは,ソ‑ルズベリ‑が国際的立場を恐れていた点につき 次の如く論じている. 「ソ‑ルズベリ‑はビスマルクの同盟申込の重要性に深い感銘を受け

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た.彼は孤立の絶壁を恐れた.彼の確信によると,イギリスは曽って1885年にはこの絶壁の縁 に立っていたのである.彼は,大陸の指導的国家のそのように明らさまな,また心からの申出 の絶対的拒絶を引受ける心構えもなければ引受けることもできなかった.今やひとたび与えら れた,憲法に基づく妨害がなかったら,彼はその上なお,考えられない従属がそれから生ずる

ということなしに,イギリスをその孤立の危険から決定的に解放する取り決めが見付け出され ることを望んでいたのである.」(注26)

なお又,ビ‑ズリーは, 80年代後半,ソールズベリーがいかにフランス政策を恐れていたか を次の如く論証している. 「彼は80年代後半,フランスの勢力を打破り,当分その永久に穏や かならざる又挑発的な政策を終らせる戦争を招かないよう望むことは往々にして困難であると 述べている.彼がいわばこの発作を驚くべき又啓発的な公然性をもって表明したのは1888年 8月25日付Victoria女王あて書簡のなかにおける以上のものは決してない.彼はフランスの 政策を除いてはなんら心配の根拠はないと述べている. 『フランスは依然としてたえずイギリ スの最大の危険であり,又あるにちがいない.』」(注27)そこでビーズリーはさらに論旨を次の如

く発展させている. 「ソ‑ルズベリーは第二次内閣の終り(1892)まではフランスをドイツ以 上に取扱いにくいと考えており,一方では80年代を通じてビスマルクを大きな『耐火性のブロ ック』にたとえ,必然的にある程度ドイツに傾き,ドイツを頼りとした.こうしてソールズベ リ‑揺,ビスマルク時代の終りには英独関係を同盟国の関係とみなしていた.」(注28)

以上イギリス側とくにソ‑ルズベリ‑の対ドイツないしビスマルク感情が,ビスマルクの 1889年対英同盟申込の前提条件むしろ基本的要因であったことは,推測するに難くない.

しかるに,先に一言したメーラ‑の論文すなわち, 「1889年のビスマルク対英同盟申込」(注29) は,この申込の原因ないし動機についての一般ドイツ人史家の見解から離れて,申込の真相に つき実に啓蒙的な卓抜なる論述を展開している.筆者にとってその論旨の一部については,に わかに首肯Lがたい,むしろ「こじつけ」と思われる節がないでもないが,それは全般的に観 て納得させるに足るものであり,格別の興味をそそるものである.そこで筆者は以下この論文 を第‑の参考として,私見を交えつつ,対英同盟申込事件についてのビスマルクの真の狙いを 中心に論究することとする.

さて,ビスマルクの欧州平和のための巧妙きわまる同盟の演技は1887年5月の地中海協定 (英項伊), 1887年6月の独露二重保障条約の締結をもって頂点に達し,露仏の結合は不可能 であった.当時ドイツは領土的に「飽食」 (satunert,ビスマルク自身の言葉)しており,ロ シア,フランス,オーストリア,イタリアは帝国主義的目的をめざし,イギリスは,アジア, アフリカでの帝国主義政策のため,ヨ‑ロッパの平和を欲していた.一方ビスマルクの老年期 政策は依然として現実的なドイツの利害政策を求め,対ロシア友好政策の必須性を認めてい た.従って性界政策上イギリスのフランスと並ぶライバルたるロシアを顧慮する以上,イギリ ス‑の一層の依存は不可能であり,ビスマルクは同盟にあらざる対英友好関係を願望してい た.既述の如く,彼は1879年ひとたびイギリス‑探りを入れたことはあったが,同盟は不可能

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であった.その理由は第‑に,独露友好維持のため,第二にイギリス国内の政党内閣ゆえであ S3

だから1889年におけるビスマルクの対英同盟申込は,確かに注目に価いする驚くべき事件で ある.この申込を完全な外交的敗北なりと批判するのが,既述の神川博士はもとよりドイツ人 史家の一般論のようであるが,この驚くべき事件の全体を改めて関連的に追求することとす る.

さて, 1888年6月におけるカイゼル・ヴィルヘルム二世の即位は,外交政策的に観て一つの 刻み目であり,彼の即位以来平和政策の基礎がゆらぎ,反ロシア的好戦的な参謀総長ヴァルデ ルゼー(Waldersee)のカイゼル‑の影響力が強まった. (カイゼルの父フリ‑ドリッヒ三位 が自由主義的であったためビスマルクとも折合わず,カイゼルにも嫌われていた事実は,碩学 イギリス人史家G. P. Goochがその名著「現代史1885‑1914」..History of Out Time."

P. 54f.完全修正,改版1946.‑のなかで力説しているところである.)ビスマルクは1888年5月 (日付不詳)の書簡(注30)で,即位直前の皇太子に対ロシア戦争の不得策を説き,この戦争は 無条件的に両面戦争となる点を指摘している.但し彼はこの書簡で対フランス戦争に一語も触 れていない.また独仏戦争の有害性について一語も触れていない.ビスマルクは,欧州の平穏 を斉らすためには,外交的に対フランス戦争の準備をする覚悟をしていたのである.(注31)上記 書簡で,やがて即位する皇太子に態度決定を押しつけたのは,ビスマルクの洗煉された政治的 技価である.しかし皇太子は1888年5月10日付返信(注32)のなかで,ビスマルクから彼の手中に 与えられた責任から逃れた.とはいえ帝位更迭と共に戦争の危険,露仏同盟成立の危険も高ま った.ビスマルクはオ‑ストリア・ロシア同盟のありうることを認めた.すなわち,当時,皮 ドイツ的なフランス・オ‑ストリア・ロシア同盟は,有名な1755年フリードリッヒ大王当時の オーストリア宰相Kaunitzによる仏嘆同盟以上に容易に生まれる可能性があった.ビスマル クは, 1888年10月ロシア駐割ドイツ大使シュヴァイニッツに対し,二重保障条約(満5カ年期 限)の延長が得策かどうかについて疑問を語っている.(注33)オーストリアにもロシア駐劉大使 Wolkensteinの如く,ロシア,フランスとの諒解を望む人々がいたのである.(注34)

かかる可能性に対する英独同盟の意義は重大であった. 1887年11月22日付ビスマルクのソ‑

ルズベリーあて私信は,末だ同盟に言及していない.(注35) 1888年8月に至って始めて協定の考 えが現われている.すなわち, 8月21日付国務次官Berchem伯のハッツフェルト大使あて書 簡(注36)のなかで,イギリスがいつの日か「信頼できる同盟国」となり得る可能性が示唆されて いる.ビスマルクの1889年1月11日付大使あて書簡は,既述の如く,さらに力強い一歩を進め て,公然たる同盟の申込を訓令したのである.この書簡には一義的に同盟申込以外のものは認 められない.しかもこの件は余り秘密にしておかれなかったので,ヴァルデルゼ‑もこれを聞 き知った. 1月16日へルベルト・ビスマルク外相はシュヴァイニッツ大使に, 「この申込はロ シアにショックを与えることはないと思う」と付言した.(注37)

カイゼルが初めその内情を知らなかったこの同盟申込の形式は,明白・単純な点でビスマル

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ク的ではなかったが,申込者が,拒絶によって少しも気を悪くしないと補足した点に依って確 かにビスマルク的である.彼はこの書簡で,カイゼルの知らない申込だから,断わられても余

り重大ではないと記している.この申込には,いわば「ソ‑ルズベリーに逃げ道が残されてい た.拒絶されるだろうとの希望に重点が置かれていた.」(注38)この書簡についてのマイエルのこ の解釈には客観性があり,要するに,ビスマルクのこの申込に当っての確信には深い意味があ る.彼はすでに地中海協定に際しても,秘密にしておくことに賛同したのであり,(注39)彼が仮 りに,この申込の取り決めを真に欲していたら秘密にしておいたはずである. 「この申込のや りかたが,ソールズベリーに取り決めの決心をさせることとはならずして,取り決めを拒絶す ることを理解させることとなった.」(注40)

この申込を以上のように解釈するとすれば,ビスマルクの真意ないし目的は何であったの か?推測するに,それは第一に,ソ‑ルズベリ‑に信頼のできる印象を喚び起こそうとした こと,第二に,イギリス議会の承認を求めることに依って,この取り決めを困難にし,その上 妨害させると同時に,ビスマルクが晴れがましい形式の同盟に殊に熱心であるかの如き印象杏 強化せんとしたことである.それゆえ,拒絶されても,ドイツにとっては,同盟を実現したの

と同じ又はより好都合な作用が生じたにちがいなかったのである.

こうして,メ‑ラ‑も論じている如く,ソールズベリ‑にとって,ドイツと提携せんとの意 志はむしろ強化され,公然たる条約以上の政治的資産となった.仮りに申込が成就した場合,

ヨーロッパ大陸における反作用は別としても,イギリス国内に激しい反対が生じたと思われ る. 「対英同盟申込は実質上失敗ではなくて高度の成果となった.」(注41)ソールズベリーは拒絶 により一層ドイツ‑接近した.

1月16日付‑ッツフェルトから帝国宰相にあてた書簡によると,このことを裏書するかの如 く,シールズベリーは1月15日大使に向い, 「私はビスマルク殿下の申込のなかに,英独はヨ ーロッパの平和のために両国の固い団結を追求し又これを願わしいものと思っているという新

らしいそして貴重な証拠を認めている.」(注42)と言明した.ベッカーも指摘している如く,(注43)

「にがい失望」論に対しドイツ人史家はなんらの典拠を示していない.それどころか,ハツツ フェルトの報告書に対する「ビスマルクの欄外注」(注44)が証明している如く, 「私はこの問題 全体を極秘に取り扱い,さし当り女王に伝えようとほ思わない」と大使に述べたソールズベリ

‑の言葉は, 「ビスマルクにとって極度に快適なものであった.」(注45)それゆえビスマルクは, 長子へルベルト外相をしてその行動を継続した.既述の如く, 1889年5月へルベルトはロンド ンに赴き,ソ‑ルズベリ‑に対し, 「私たちの側では,私たちがやはり決してイギリスを頼り にすることができないとすれば,イギリスは恐らく孤立に留まり,責任を負わねばならないで あろうという確信を抱かざるを得ない.」(注46)との,軽い脅迫を行なった.この軽い脅迫も要す るに,ビスマルクと同じ目標をめざしたもので,ソールズベリ‑に対し,ビスマルクがこの取 り決めにいっさいを託している如き印象を強化し,同時にソールズベリーの抵抗を高めたので ある.いわばへルベルトも粗い手段で父と同じすばらしい演技を行なったのである.ソ″ルズ

(10)

ベリーの回答はビスマルクを満足させた.彼は,,casecheant" (まさかの時)の取り決め以 外のなんらの取り決めを欲していなかった.すなわち,仮りにこの申込の取り決めがフラン スに向けられたものであっても,ロシアを不気嫌にし,対仏同盟へと駆り立てたからである.

「彼は対ロシア友好の放棄をいささかも欲せず,従ってイギリスとの公然たる結び付きを欲し なかった.」(注47)但し,メ‑ラ‑が, 「まさしく,ソールズベリ‑とさらになお彼の同僚を驚ろ かせた大月旦な,公然たる同盟の申込は,イギリスにおける行動の秘密保持をあらゆる場合に,

『秘密の』条約において可能である以上に保障する一手段であった.この点に関してもまた取 扱いのすべてが,堂々と,ソ‑ルズベリ‑の常に用心深い,人を容易に信じない傾向を目的に

編成されていた.」(注48)という論理は,筆者には,余りにも穿ちすぎた「こじつけ」の感がす る.

それはとにかくとして,この同盟申込の異常なまでの老槍さは,後になってからカイゼルも またこの件に引込まれたという結果として生じている.既述の如く最初の処置は全くカイゼル が知ることなしに行なわれた.カイゼルは, ‑ツツフェルトがソ‑ルズベリ‑に対してビスマ ルクの最初の処置を為した後に初めて,しかも帝国宰相が彼の「計画」の失敗をすでに文書で 知った時初めて聞かされた.すでに1月20日以前にビスマルクは,イギリス首相が公然たる同 盟を避けたということを知った.しかしカイゼル‑の報告は, 5月20日‑ルベルトのイギリス への旅立ち直前に,しかもなお,イギリスとの公然たる同盟が行なわれるべきであるという意 味において,始めて行なわれている.そしてカイゼルは対英同盟に同意したのである.(注49)ヴ ァルデルゼ‑がその回想録中の188?年5月25日の記事で, 「フランスに対する」ではなくて

「ロシアに対する」島国との同盟を追求すべきであると補足している(注50)のも,彼の願望から 生まれた思いちがいであり,(注51)カイゼルが対英同盟に直ちに同意した理由もこの点から推察

される.

こうしてビスマルクは,カイゼルに対してもいわば,真の目標を重んじない政策を営んだと 言うことができる.ビスマルクのうわべだけの計画は,真の目標を,ソールズベリーに対して のみならずカイゼルに対しても不得要領のままにしておくことを狙っていた.すなわちこの計 画は,内政的側面をも有していた.当時カイゼルは,公然たる同盟が可能であり,ビスマルク

は同盟を欲しており,同盟はイギリスが反対したら失敗すると信じていたように思はれる.だ からこそビスマルクは,同盟は実現しないであろうということをすでに確実に知ってからよう やく初めて,この同盟の可能性を示したのである. (それゆえ,ビスマルクが既述の1月11日 付‑ッツフェルトあて書簡の末尾に近く, 「私はカイゼルを拒絶的回答の前に曝したくない」

(注52)という本来の動機づけを述べているが,今やこの動機づけは無視されたわけである.)以 上の推定の根拠は,既述の如く,カイゼルが皇太子時代からヴァルデルゼーの影響力を受け,

ロシアに対する予防戦争の考えに支配され,(注53)従って反ロシア的な対英同盟には乗気であっ たということである.

それゆえ,申込に対する拒絶は,カイゼルをしてイギリスに対し冷静ならしめ,いわばイギ

(11)

リスのカードに余り高く賭けない決心をさせた.又この拒絶はビスマルクにとってカイゼルを して対ロシア友好政策に復帰させるための手段であった. 1889年8月カイゼルが母方の祖母ヴ ィクトリア女王治下のイギリス‑旅行した後もなお,同年12月4日ヴァルデルゼーは,迷いか ら覚まされて,次のように記している. 「カイゼルは帝国宰相の技緬によって,疑いもなく完 全にロシアの陣営に進入させられた.それゆえ私の確信によると,カイゼルにはなお多くの迷

いからの目覚めが前途に横たわっている.」(注54)

こうしてビスマルクの行動は,ソールズベリ‑,カイゼルに対し完全な成果を収めた.英独 交渉を心配していたツァ‑ ・アレキサンダ‑三世に対しては,ビスマルクは1889年10月15日付 駐伊ドイツ大使Solms‑Sonnenwaldeあてのものと同じ内容の同日付ハッツフェルトあて訓 令のなかで,次の如く述べている. 「いかなるイギリス政府も議会の承認なくして他の強国と の同盟を結ぶことは不可能である.ドイツはイギリスと多くの共通した利害を有っており,ド イツのイギリスに対する伝統的関係は,イギリスとのあらゆる紛争を締め出しており,従って イギリスの強国としての地位が維持されているということは,ドイツにとって死活的な利害関 係を有っている.この事情は自然に生じたものであり,英独間の同盟を余計なものとしてい る. 、 、 、 \ 、アレキサンダー皇帝は私の通報によって全く満足していることを言明し,彼の 側では決して(筆者注,オーストリアを)攻撃することはないであろうと付言した.」(注55)

それゆえ, 1889年1月の独創的な対英同盟申込は,三つの側面に対して得策であった.すな わち,第一に,ソ‑ルズベ1)‑を一層ドイツ‑近づけた.第二に,カイゼルをしてイギリスの 友誼に対する激しい獲得努力を警戒させた.第三に,ツァーをして独露間友誼の永続を確信さ せる可能性をビスマルクに与え,しかもそれは可能となった.こうして, 「失敗した」公然た る同盟はビスマルクに,得がたい切札を与えたということ!ができる.しかもこの同盟申込は誰 をも欺いたわけではなく,不誠実でもなかった.ビスマルクは既述の如く,ソ‑ルズベリ‑の 拒絶を予測し,また拒絶を欲した.従ってビスマルクの行動に,オンケンの説く如き「他界史 的影響力」(注56)を認めることはできず,ましてや,ラ‑ファールの如く,彼の行動を「ビスマ ルク外交政策の完全な新方向づけ,すなわちロシアからイギリスへの方向転換とみなす」(注57) ことはできない.それは単に, 「ビスマルクが1889年8月17日の閣議において称した如く,イ ギリスを三国同盟そのもののなかに引き入れることなく,三国同盟の味方につけようとする目 標のための10カ年にわたる努力」(注58)のなかでの,新しい‑意外にもそれは目標によってで

はなくて,申込まれた公然たる同盟という大胆な手段によって失敗することとなった‑転回 にすぎなかったと考えられる.

今やビスマルクは,両面戦争の場合ソ‑ルズベリーを味方にすることをこれまで以上に期待 できるに至った.彼はヴァルデルゼ‑のカイゼル‑の影響が存する限り戦争を打算せねばなら なかったのである.ビスマルクは老帝および咽喉店にとりつかれた皇帝の時代には,対仏戦争 を欲しなかった(注59)が,ヴィルヘルム二健の時代には必らずLもこの戦争に反対しておらず, 平和主義ないし静寂主義のビスマルクは歴史叙述者の作り事にすぎない(注60)と言われている.

(12)

それゆえにこそ, 1889年対英関係を一層親密にしたものと推論される.しかしビスマルクは, 二重保障条約を顧慮して,フランスに対する挑発を欲しなかった.(注61)

要するに,ビスマルクの1889年1月の行動は原則的に新らしいものではなく,単に大胆な行 動によって新らしいに止まっている.この同盟申込は,英露の問に在って後方に引込んでいな い,つまり自己の動向と相手の対抗とについての大胆な打算という点で特に注目をひくもので あり,この点で,ビスマルクが真の目標を敵にも友邦にも秘していた1864年のシュレスヴィヒ

。ホルシュタイン政策を想起させる.実に1889年ビスマルクは自己の真の目標を長子‑ルベル ト以外, ‑ツツフェルトにもシュヴァイニッツにも全く秘していたのである.以上のように考 察すると, 1889年対英同盟申込は,動機としてのサモア紛争からはなれて,又失敗失望論を超 越して,全く高等政策的な曲芸であったとみなすことが出来るであろう.

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(昭和46年9月50日受理)

参照

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2.1 節で述べた XML データベースとして eXist XML データベース(eXist) [5]が広く用 いられている. eXist は, データベースの機能に加えて,図 2.2