田中友次郎
Der Ausbruch der Marzrevolution und Bismarck
TOMOJIRO TANAKA
一,まえおき
Otto von Bismarck (1815.4.1‑98.7.30)が1848年の三月革命に遭遇したのは,彼が第‑
回の州連合国会(Vereinigter Landtag.プロイセン王国内8州の州諸身分の代表者たちから 成り立っている.)においてザクセン州騎士身分選出代議士として処女演説を始めてから9カ 月,やがて満33才の誕生日を迎えんとする時であった.彼がプロイセン首相兼外相(1862‑71) として,さらにドイツ帝国宰相(1871‑90)として,いわゆるJunker (地主貴族)の利害を 代表する典型的な保守反動政治のチャンピオンでありHohenzollern王朝の封建的忠臣であ ったことは周知の事実である.かかる性向はすでに青年時代から著しく,講壇社会主義経済学 者シュモラ‑の言を借れば, 「かのウォーターロ‑の戦の年に生まれ,熱情的な祖国愛とプロ
イセンおよびその英雄に対する誇りをば自己の相続財産として全力をあげてその若い精神の中 に沈潜せしめ,学生時代早くも『熱狂的ユンカ‑』として人々の注意をひいていた」(注1)ので ある.
彼がプロイセンの政治家として本舞台に乗り出したのは,上述の如く1847年以来のことであ り,特に彼は, 「三月革命でドイツの(・ ・印は筆者.)政治家となったのであり,帝国創設と 帝国創設者は始めて遊近し,急激に衝突した. 3月18日はこの若い夫(注1847年7月28日 Johanna von Puttkamerと結婚.)を彼の家庭の平和から引きさらって烈しい自衛へと赴か せた」(注2)のである.換言すれば, 「三月の大革命,彼の待機と願望の時期の終りがやって来 た.革新の流れがビスマルクをも捉えてしまい,長い準備の静寂から,彼の運命であり彼の運 命がその死に至るまで留まっていた公共の生活,行動の生活‑と押し出して行った」(注3)ので ある.この点に三月革命のビスマルクの生涯にとっての転機としての意義が認められる.そこ で筆者はこの小論で,ドイツ連邦議会所在地フランクフルト駐割プロイセン使節(1851‑59), 駐霧大使(1859‑62),駐仏大使(1862),さらに首相兼外相,帝国宰相えと輝やかしい外交的 経歴を辿るべき運命の基点となった三月革命勃発直後旬日余にわたるビスマルクの言動, 「実
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にその性格に由来する彼の政治的な見解と実践」(注4)とをつぶさに探究し,できる限り鮮明に 描写したいと考える.
さて,三月革命当時彼は未だ一介のプロイセン陣笠代議士にすぎず,従ってその言動も,国 会での幾たびかの発言,家族への書簡,交友の回想録などに拠るはかは殆んど知られていな
い.ただし唯一つ彼の回想録たる「思慮と追憶」 (Gedanken und Ermnerungen.第1, 2 巻1898年刊,夢3巻1919年刊)の第1巻第2章,,Das Jahr 1848" (SS. 23‑60)の中でかな り詳細に語られている.元来回想録は,回想者自身にとって都合の悪い事柄をいっさい省くの が通例であるから,史料としての価値はそれ丈少ないものとなっている.例えば,三月革命で はプロイセン軍の銃撃による戦死者は200人以上に上っているが,ビスマルクの回想録の中で は,この点には全くふれられないで,彼は一途に,バ1)ケ〜ド戦における民衆による「兵士た ちの殺害」のみに憤激している.しかし,回想録の叙述の中で彼の極端な保守反動的思想は余 りにも蛾烈に画かれており,後年帝国議会で社会主義者法(1878)を成立せしめるに当っての ビスマルクの「妄想狂的反自由主義者」(注5)の姿は,すでにこの革命直後の青年政治家の言動 に躍如としている.革命勃発直後の彼については,この回想録の外では,恐らく最も著名な3 巻より成るErich Eyckの,,Bismarck" (1941‑44)が,やや詳しくふれているが,むしろ 同じく3巻より成る1912年刊ポール・マテ(Paul Matter.フランスの法学博士,セーヌ裁判 所枚事)の「ビスマルクと彼の時代」 (Bismarck et son temps)の舞1巻等5章,,Bismarck et la revolution de 1848" (PP. 97‑149)が遥かに詳しく触れている.筆者の入手できた他 のビスマルクの言行録とも言うべきもろもろの著作には,主にビスマルクの回想録または書簡 から,一部分は彼の国会での発言から,あるいは交友の回想録からの断片的な引用が見られる に留まっている.そこで筆者は,三月革命勃発直後旬日余にわたるビスマルクの言動につい て,彼の回想録を「経」とし,マテの論述を「緯」として,ビスマルクの書簡,国会での発 言,交友の回想録などを参考に,この小論をまとめてみることにした.
二,三月革命勃発直前のプロイセンの情勢
フランスにおいてルイ・フィリップの王政を倒した二月革命はドイツにも忽ち波及し,その 波は,国内に数年来革命的な興奮の種を堆積していたプロイセンにも激しく打寄せた.すでに 二月革命前から新しい諸要求はプロイセンのインテリ・学生・市民・労働者のなかで遠雷のよ うな響きを立てており, 「進歩的な人々の中には,プロイセン国王フリードリッヒ・ヴィルヘ ルムⅣ世に対し,州連合国会の周期制,この国会の二院制議会‑の変革を勧める者さえあっ た.」(注6)当時世襲皇帝党領袖ピーダーマンも「時代は夕立前のような重大さである.何かが起
りそうな気配がする」(注7)と洩らしている.
3月7日すなわち, 1月17日以来新刑法典審議のために開かれていた州連合国会委員会を国 王が解散したその翌日,ベルリン市内Tiergartenの森や各街路で数日間にわたり扇動や集会 が行なわれた結果として,ベルリンでもまたいわば革命の序曲が始まった.すなわちこの目,‑
つの上奏文が青年たちによりベルリン市民の創こおいて,出版・言論の絶対的自由,集会結社 の自由などを要求するために作成された.当時憲法問題はもちろんドイツ統一の問題と結びつ いていたが,国王は初め,彰済たる立憲政治の要求に譲歩しない決心であったため,上奏文持 参の代表者たちとの応接を断って市民の反感を買い,以来数日間市内の騒ぎが増大し, 13日に は軍隊による労働者たちの逮捕事件が起り,国王はこの時点でいくらか譲歩しようと決心し た.特に一方で国王はドイツ統一の問題に熱狂的な関心を抱いていたため1848年3月14日, 州連合国会を4月27日ベルリンに招集するとの勅書を発し,その中で次の如く訴えた. 「我々 はオーストリア帝国政府と協同して,我々のドイツ連邦諸国に対し,現在の困難なまた危険に みちた情勢下で祖国ドイツの安寧が要求している方策について共同の協議会を開くよう勧め た.そして我々は,この協議会がドイツ連邦の真の革新‑と到達し,同時にドイツ国民がドイ ツ連邦の中で真に連合させられ,自由な制度によって強化され,しかも革命と無政府との危険 に対しても,これまでより劣ることなく防衛され,曽っての偉大さを再び獲得し,同時にドイ ツが欧州において己れにふさわしい地位につくということに,我々の全力を挙げんと決心して いる.我々のこの努力の成果がいかなるものであろうとも,いづれの場合にも,我々の諸国の ための方策は,その遂行のためには我々の忠誠なる諸身分の協力を必要としているということ
によって条件づけられている.従って又我々は一般に,現在の時期のどとき重大な決定的時期 においては,我々の諸身分との連合においてのみ力強さを感ずるがゆえに,我々は州連合国会 を本年4月27日首都ベルリンにおいて開く決心をした.」(注8)
しかし同日夜最初のバリケードがベルリンのKurstrasseとSpittelmarktの角に築かれ, これは外衛兵により破壊されたが,翌15日他のバリケードが王宮に隣接するBreitstrasseや Spree河の橋々などに築かれ,兵器販売店からの掠奪事件,王宮への投石による内庭兵たちの 負傷事件が起った.同日のウィーン革命によるMetternichの逃亡,オーストリア帝位継承者 フランツ・ヨゼフI世の国民の要求への屈服は,ベルリンの不安を一層増大した.この雰囲気 のなかで「17日には出版物の検閲除去をふくむ暫定的法律が発布された.」(注9)
三,革命の勃発
宿命の3月18日は晴天で,あたかもこの日ライン州代表団の熱烈な請願により国王の勅書が 布告された.思うに, 「15日のウィーン革命の成果は,プロイセン国王にとっては,ドイツの 先頭に立って,ドイツ国民に対し,憲法に基づく自由の総括とみなされる一切のものの履行を 約束する義務を負わせるものに見えたのである.」(注10)当日ベルリン市民たちは,噂への好奇心
と楽しい外出気分に誘われたが,談話の中心地,王宮前の広場はベルリン市民に貸与解放さ れ,気の立っている熱烈な,あるいは不安げな数千の群集で覆われ,国王に対し歓呼の声がざ わめき,口笛が吹き鳴らされた.発布された勅書は,時態に鑑みて州連合国会を4月2日にく
り上げることを宣言し,国王の将来のドイツ政策およびプロイセン政策のプログラムをふくむ 次の如き内容のものであり,反革命派のビスマルクに大きな衝撃を与えた国王のふるまいであ
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った. 「我々が3月14日,我々のドイツ連邦諸国に提議できるドイツの革新がプロイセンに対 してもまた必然的に義務づける方策を我々の忠誠なる諸身分と合同して決議するために本年4 月26日かれらを招集した時,我々は,同じ時刻ウィーンにおける諸々の大事件が一方では我々 の提議の遂行を容易にしているが,他方ではこの提議の遂行の早急化を必須的ならしめるであ ろうということを予知できなかった.今や,かの重要な事件の後我々は殊に,プロイセンの面 前においてのみならず,ドイツの面前において, ‑それは神の意志である. ‑やがて,又 となく緊密に結合せる国民が,我々のドイツ連邦諸国に対し為さんと決議した提議はいかなる ものであるかを声高く明らさまに表明するよう心を動かされているのを感ずる.とりわけ我々 は,ドイツが諸国の連合から連邦国家へ変形することを望んでいる.我々は,このことは,請 侯の国民との連合のなかにおいてのみ遂行され得る連邦憲法の再編成を前提としているという こと,従って暫定的な連邦代表はすべてのドイツ諸国の諸身分から構成され,遅滞なく招集さ れねばならないということを是認する. ‑我々は,かかる連邦代表は,すべてのドイツ諸国 の立憲制に基づく憲法を必然的に要求し,同時に,連邦代表の構成員は対等に相並んで座席を 占めるということを是認する. 、、、\、.我々は祖国全ドイツにおける普遍的なドイツ人居 住権および完全な任意移住権を欲している. 、 、 、 、 、.我々は,祖国全ドイツのために出版 の自由の濫用に反対するに当ってと同じ確信をもって,この自由を提案する. 、 、 、 、 、.我 々の諸々の意図の遂行が我々の諸国における蹟曙と妨害とを最少限に止めるため,また我々が 我々の諸国の憲法に必要とみなしている諸提案を益々発展させるため,我々は州連合国会の招 集を早め,内閣に委託して本年4月2日この招集を行なわせんと決意した.」(注11)
この勅書の布告は,たとえその言葉の表現がいかに体裁をつくろっているにしても, 「プロ イセン国王が余儀なく革命‑屈従した」(注12)ことを公示したものであり,この布告のめざまし た歓呼の声は測り知れないほど大きく,前述の如く王宮前広場の群集は口々に最愛の国王を呼 んだ.彼がパルコニ‑に現われた時拍手喝采は止まなかった.群集のアンコールにも拘わら ず,ひとたび引下った国王は仕事にかかるため決然として引込んだ.国王の大臣たちは平静を 取戻そうと力めた.しかし内相Bodelschwinghは日頃の冷静さを失ない,ベルリンの軍司令 官Pfuel将軍は,この危急の瞬間にも拘わらず,彼の個人的仕事に励むためFrittwitz将軍 に軍隊の指揮を託した.兵士たちは,不手際にも,さらに残酷にも王宮前の広場を群集から請 け戻そうと力めた.群集は熱狂的となり,ある程度の押し合いへし合いの混雑が生じた.恐ら く偶然に2発の銃声がとどろいた.群集は四散脱走したが,実にこれがベルリン暴動の契機と なったのである.
広場に近い諸街路にいた市民たちは銃声を聞いて一斉射撃だと思い,バリケ‑ドが造られ た.最も平和的な住民たちさえも,革命の恐怖に戦いた.学生・芸術家・商人たちが車を転覆 させ,街路の敷石をはぎ, 2つの大砲には石や鉄屑の弾が詰められた.射手たちは街路や片隅 や屋根の上に身をひそめたPrittwitz将軍はその全兵力1万4千と大砲36門を用いて市街戦 を指揮し,バリケ‑ドを取り払い,翌朝諸要地を制圧した.国王はこの急な突発事件に肝をつ
ぶし,不安に駆られて,恐らく頭脳の冒された狂人のように(注1857年には事実精神病にか かり王弟ヴィルヘルムが摂政した.)王宮内をさまよった.彼は暴徒を屈服させることを主張 するかと思うと,鎮圧を猶予するように望み,大臣以下の周囲の人々をいらだたせた. 19日朝 5時発砲中止を命じ, 「親愛なるベルリン市民あて」の布告を作製した.いくつかのバリケー ドは依然抵抗を続けていた.国王の弟プロイセン親王(ヴィル‑ルム,すなわち後の皇帝ヴィ ルヘルムI世)は武力鎮圧を主張したが,内相は譲歩を勧めた.国王は内相および大臣Arnim 伯と秘かに協議した結果,市民を慰撫する決心をして, 19日朝11時ベルリンからの軍隊の撤退 を命じた.
19日昼国王は新内閣を造り, Arnim伯が首相兼外相となり, Camphausenも入閣した (29日には早くも後者の内閣が生まれるのである).群集は依然として血瞳い勝利に興奮させ られ,強硬派ヴィルヘルム親王の邸宅を没収して国有財産となし,市民の武装を強要した.さ らに群集はバリケード戦で死んだ人々の屍を王宮の前に運び, 200以上の棺が王宮のバルコニ ーの前に並べられた.この重大な危機に当り群集は,国王が下に降りて来て,犠牲者の前で脱 帽して礼をすることを督促した.国王はそれに応じ,彼は今や自主的に行動できない身となっ た. 21日,国王は謝肉祭におけるが如く,大臣・将官たち,熟狂した学生たちに取り囲まれ て,厚紙で掃えた王旗・花輪と共に, 「この日からプロイセンはドイツに変化した」 (注. 3月 21日彼の国民にあてた布告の言葉.)ということを誓うためにベルリン市内を騎行した.
四,ビスマルクの反革命的行動
これより先,パリ二月革命の噂は,当時ベルリンの西およそ100キロ,郷里Schonhausen 村のビスマルクを驚かせ憤慨させた.彼は3月1日,フランスでの事件はすべて危険なもので あることを許されないとでも言った調子で, 「ライン河を越えて進む」(注13)ときっぱり明言し ている.そして後備隊の将校として出征するために必要な金を用意した.彼はフランス軍が 移動しないことを聞き知って少しは落着いた. 3月8日彼はPommern州の領地にいる兄 Bernhardあて次の如き手紙を書いた. 「現在の政府がパリを保持できる限り,私は戦争を信 じないし,同様に同政府の欲望を信じない.同政府は予想されたように,社会主義的な,また は全くその逆の扇動によって動揺させられ,同政府もその後継内閣も全く金を持たず,国家的 破産が信ぜられているので,誰も同政府に信用貸しを行なう者はない1792年の諸々の理由, 金の代役となり得るギロチン,とりわけ共和主義的狂信が欠けている.ギロチンは通用せず, 人々は他の死刑の遣り方でギロチンに取り換えている.すなわち狂信は末だ遠ざかっており, 若し我々が戦争宣言をしないならば,狂信は高まりにくい.」(注14)とは言え彼は,フランスから
ライン河を越えて危険が迫っていることを疑わなかった.
ビスマルクは, 3月18日および19日の事件についての初めての驚くべき報せを, Scho‑
nhausen村の隣接地主たるWartensleben伯の邸で聞いた.ベルリンの婦人たちがこの邸に 避難して来たのである. 「彼は初めの瞬間は事件の影響力に対して敏感であるというよりもむ
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しろ,街路における『兵士たちの殺害』について憤激した.」(注15)この憤激について,エリッヒ
・アイクはそのビスマルク史のなかで次の如き感銘ふかき叙述をしている. 「我々が1カ年半 の後書かれた,三月革命犠牲者たちの墓地Friedrichhein訪問に関するビスマルクの手紙『私 は死者たちを決して許すことは出来ない. 、 、 、 、 、かれらが私の祖国から作り出したものを 観る時,私の心臓は毒薬でふくれ上り,これらの破壊者たちは、 、 、 、 、』を読む時,我々は 彼の憤激苦悩について一つの映像を思い浮べることが出来る.」(注16)彼はこの憤激に駆られつつ
も政治的には,国王が自由な立場にさえ在ったら間もなく事態を制圧するであろうと考えた.
彼は暴徒の手中に在ると噂されている国王の救出を緊急の課題であると認めた.
20日Schonhausenの農民たちが次の如く報せた. ‑派遣員たちが4分の3マイルはな れたTangermtindeからやって来て,その町で行なわれたように,教会の尖塔の上に,革命 的な黒・赤・金の3色旗(注.すでに3月9日ドイツ連邦議会は,禁止されたまま熱心に求め
られていたこの連邦旗を採用し1866年まで用いられた.又現在西ドイツおよび東ドイツもこ れを採用している.)を掲げるよう要求し,拒絶されたら援兵をつれて再びやって来ると.
‑彼は農民たちに,抵抗する意志があるかと聞いたら,かれらは異口同音に力強く「ありま す」と答えた.そこで彼は農民たちに,町の者たちを村から追出すように命じた.女たちも熱 心に協力してこれを果たした.次いで彼は,教会に在った黒の十字架のついた白旗をプロイセ ンの戦功章たる鉄十字勲章の形にして,尖塔に掲げさせ,また村中に現存している武器弾薬を 捜査した.その際約50挺の猟銃が発見された.彼自身,旧式の2, 3の猟銃を合わせて20挺所 有しており,騎馬の使丁JerichowおよびRathenow両名に命じ火薬を取りに行かせた.
次いで彼は妻と共に近傍の村々に赴き,農民たちが国王を助けるためにベルリン‑行こうと 勇み立っており,殊に,彼の父の連隊で「騎銃兵」曹長だったNeuermarckのKrauseが熱 狂しているのを知った.彼の一番近くの隣人だけがベルリンの運動に同情しており,ビスマル クが田舎で戦いの火蓋を切るのを非難し,農民たちが実際に行進を始めるようなことがあった ら,自分は進んでかれらを鎮撫するつもりだと言明した.ビスマルクは答えた. 「あなたは, 私が冷静な男であることを御存じですが,あなたがそんなことをするなら,あなたを銃殺しま す.」 ‑彼は言った. 「あなたはそうは為さらないでしょう.」 ‑ビスマルクは答えた. 「私 は名誉にかけた言明を約束します.あなたは,私がこの約束を守ることを御存じだ.だから放 っておいて下さい.」
ビスマルクは何はさておき独りでベルリンの西南およそ30キロのポツダムに赴いた.ポツダ ム駅で, 19日まで内相だったBodelschwinghに会った.彼はビスマルクとの対話に際し,
「反動派」とみなされることを望まなかった.彼はビスマルクの敬礼にフランス語で次のよう に答えた. 「私に話しかけないで下さい.」 ‑ビスマルクもフランス語で答えた. 「私たちの 地方では農民たちが起ち上りました.」 ‑やはりフランス語で「国王のためにですか.」 ‑ フランス語で「そうです.」前内相は両手で涙あふるる両眼を抑えながら, 「この綱渡り師よ」
と言った.ビスマルクは市内の衛成教会のそばの植民農場で近衛歩兵連隊の露営を見出した.
彼は連隊の人々と話をし,撤退命令に対する憤激と新たな戦闘に対する熱望とを知っていくら か愉快さを覚え期待を抱いた.運河に沿っての帰り道で,これより先軍隊との交際を求めてお り,ビスマルクに向って脅迫的な話をしたスパイらしい民間人たちが,あとをつけていた.彼 はポケットの中に四連発短銃を持っていたが,かれらに対しては必要としなかった.彼は,友 人であり国王の甥フリードリッヒ・カール親王(1828年生まれ.)の軍事師範として宮殿内に 住んでいるvon Roonを探し出して,彼の許に泊った.この将校はビスマルクに情勢をよく 知らせた.二人は,暴徒との談判の折虐待されて負傷したMollendorf将軍,およびベルリン で指揮をとったPrittwitz将軍をホテル,,Deutsches Haus"に訪ねた.ビスマルクは両将軍 に対し農民たちの気分を説明し,両将軍は彼に対し19日朝までの経過について詳細に伝えた.
両将軍の話とベルリンからのその後の報道は,国王は自由な立場に置かれていないという彼の 確信を強めたのみであった.
ビスマルクより年長であり彼より冷静に判断したPnttwitz将軍は次のように述べた. 「一 人の農民も我々の許に送らないで下さい.我々は農民を必要としません.兵士を十分に有って います.むしろ馬鈴薯と穀物を,できたら金も送って下さい.と申しますのは,私は軍隊の糧 株と給料とが十分に手配されているかどうかを知らないからです.若し援軍がやって来た場合
は,私はこれを撃退するようベルリンから命令を受け,それを実行せねばならなくなるでしょ う.」ビスマルクは, 「それでは国王を連れ出しなさい!」と言った.将軍は答えた. 「それは 大した難事ではないでしょう.私は充分に強力でベルリンを占領できます.しかしその場合再 び戦闘を行なうことになります.国王が被征服者の役割を引受けるよう我々に命令した後にお いて,我々は何をすることが出来ますか.私は命令がないのに手をつけることは出来ません.」
ビスマルクはこの事態に当って,自由な立場に置かれていない国王から期待できない行動命 令を他の方面から得ようとの考えに到達し,プロイセン親王を同志に引入れようと企てた.彼 はそのためには,その承諾を必要とする親王妃Augustaの許に行くよう将軍から指示され て,親王の所在を知るために妃を訪ねた. (注. ,,Gedanken und Erinnerungen"の刊行者 Horst Kohlの注によると, 「妃は3月18日事件の後, 19日朝反動派の夫君と共にベルリン西
郊Spandau経由Pfauemnsel孔雀島‑に逃れた.夫妻はそこで3月22日に別れ, 親王はイギリス‑逃亡,妃はポツダムに赴き,その子供たちと宮殿に引越した.それゆえ,ビ スマルクの妃とのこの会談の日は3月23日以前ではない.」(注17)従ってビスマルクのAugusta との会談の日付についてはビスマルクの記憶ちがいであるか,それとも次に述べるカール親王 の手紙の日付‑3月21日‑が誤まっていると考えられる.)妃はビスマルクを中二階の召使部 屋に迎え入れ,唐桧材の椅子に腰かけたまま,懇噸された報せを拒み,激しく興奮して,息子 の権利を守ることが自分の義務であると言明した.かくてビスマルクはプロイセン親王を引入 れることが出来なかったので,フリードリッヒ・カール親王を試し,親王に対し,王室が軍隊 と接触を維持し,そして国王陛下が自由のきかない立場に在る場合は,王命がなくとも問題の 核心そのものの為に行動することが,いかに必要であるかを言い聞かせた.親王は激しく感動
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して,自分の考えはビスマルクの気持に非常に合っているが,このことを実行するには若すぎ ると感ずる.そして政治に介入している学生たちの例に倣うことはできない.事実それらの学 生たちより年長ではないのだからと答えた.その時ビスマルクは,国王を獲得する企てを行な わんと決心した.
カ‑ル親王はポツダム宮殿でビスマルク‑,身分証明書および,次のような開封の手紙を与 えた. 「私の熟知している持参人は,兄君たる国王陛下に親しく陛下の御健康をお伺い申上げ,
また如何なる理由から,私のくり返しての自筆の『私はベルリンへ来てはならないかどうか』
との質問に対し30時間来なんらの御返事がないのであるかについて礼‑報告するようにとの命 令を受けています.ポツダム1848年3月21日午後1時プロイセン親王カール」
ビスマルクはベルリンへ向った.彼は前年の州連合国会以来多くの人々により顔を知られて いたので,ひげを剃り,多彩な記章をつけた幅広い帽子をかぶるのが得策であると考えた.予 期している謁見のために燕尾服を着た.ベルリン停車場の出入口に,バリケード戦士に対する 寄付金を求める一つの丸鉢が置かれ,その側にマスケット銃(一種の火縄式小銃)を肩にかつ いだ背の高い民兵が立っていた.下車の際出会った彼の従兄弟v. Bismarck‑Bnestは財布 を取り出した.ビスマルクは, 「人殺しには何も与えないがよいぞ」と言った.そしたら彼 は,警戒のまなざしをビスマルクに投げながら, 「ではあなたは歩兵銃が恐ろしくないのか」
と言った.
王宮のなかの民兵は,あそこに何の用があるのかと訊ねた.国王あてのカール親王の手紙を 渡さねばならないという彼の答えに対して歩哨は,信用しない限つきで彼を熟視しながら,そ んなことは在り得ない,親王は恰度国王のそばに居られると言った.それゆえ親王は彼より先 にポツダムを出発したのであるにちがいなかった.歩哨はビスマルクの携えている手紙を見せ るように求めた.手紙の内容は危悦のないものであったから,彼はそれを見せた.そこで歩哨 は彼を放任したが,王宮の中へ入れなかった.旅館,,MeinhardHの一階で,窓の中にビスマ ルクの知合いの医師が横たわっており,ビスマルクはその窓の方‑歩み寄った.其処で彼は, 国王へ言いたいと考えていたことを国王あて書いた.彼はその手紙を携えてBoguslaw Radziwill侯の許へ行った.侯は国王の許‑自由に出入りしており,その手紙を国王‑手渡し できた.その手紙の内容の要点は次の如くであった. ‑革命は諸大都市に限られており, 国王がベルリンを去るや否や地方において支配者となる. ‑国王は回答をくれなかったが, 後日ビスマルクに向い,自分は粗末な紙の上に下手に書かれたその手紙を,自分が当時入手し た同情と忠誠との最初のしるLとして大切に保存していると言った. (注.この手紙は現在ま で発見されていない.)(注18)
ビスマルクが戦闘の跡を観るために街を歩いていると,一人の見知らぬ人が彼に, 「あなた は追跡されているのを御存じですか」とささやいた.菩提樹の下で他の一人の見知らぬ人が,
「ついて御出でなさい」とささやいた.ビスマルクは彼に従って小城壁街に入った.彼はそこ でビスマルクに「旅へ出なさい.そうでないと,あなたは逮捕されるでしょう」と言った.ビ
スマルクは, 「あなたは私を御存じですか」ときいた.彼は「そうです.あなたはビスマルク 氏です」と答えた.危険がどの方面から彼を脅やかしているのか,警告がどの方面から来てい るのか,ビスマルクは少しも知らなかった.見知らぬ人はすぐに彼の許を去った.一人の浮浪 児がビスマルクの後ろから, 「見ろ,あいつは,ああフランス人のみなりをしている」と叫ん だ.これは,その後の調査によって彼に思い出された言葉であった.彼の全然剃ってない長い
あごひげ,つばの広いソフト帽と燕尾服は,その少年には異国風の印象を与えていたのであ る.街路はがらんとして居り,一台の馬車も見えなかった.ただ仕事着をつけ旗を持った二・
三の団体が歩いており,その一つはフリ‑ドリッヒ通りで,月桂樹の枝で飾ったバリケード戦 の‑勇士の何かある種の小凱旋式のお伴をしていた.
ビスマルクは警告をうけた為ではなく,ベルリンではなんら活動の地盤を見出さなかったの で,同日ポツダム‑戻りMollendorf, Prittwitz両将軍と再び自主的行動の可能性を協議し たPrittwitzが, 「この自主的行動をどのようにして始めるべきか」と言った.ビスマルク は,座席のそばに在る開いたままのピアノで歩兵の攻撃前進を弾き鳴らしたMollendorfは 涙を流しつつ傷の痛みに耐えかねて,ビスマルクの首に強く抱きついて, 「あなたは,そのこ とをいつ我々にお世話できますか!」と叫んだ.ビスマルクは, 「お世話はできませんが,あ なたが命令なしにそれを為す場合,一体あなたには何が起り得ましょうか.国王はあなたに感 謝し,国王もまた結局は」と答えたPrittwitzは言った. 「あなたはWrangel, Hedemann 両将軍が行を共にするかどうかの確証を私‑提供できますか.私たちは未だ軍部における意見 の不一致を進めて反抗となすことは出来ません」と.ビスマルクは,それを調査することを, つまり両軍団長の意向を探るために,自らMagdeburg ‑赴き,また腹心の者をStettinへ 送ることを約束した. ,StettinのWrangelからは, 「Prittwitzの為すところのことを私も行 なう」との回答が来た.ビスマルク自身は「一先ずベルリンに行った.彼はバリケ‑ド戦での 死者たちの盛大な埋葬式に参加した.この式では全市が悲嘆にくれ,行列のあとには国家,大 学・アカデミーの団体が続き,パルコニ‑の国王は彼の大臣たちに取り囲まれ,白い‑ンカチ で両眼を拭いていた.ビスマルクを除いてすべての人々が感動していた.」(注19)それは兎に角彼 は, Magdeburgで余り良い結果を得なかった.彼は最初Hedemannの副官たる若い少佐に 対してだけは共鳴させることができた.しかし少佐はやがて,旅館にいる彼の許にやって来 て,不快な出来事と老将軍の物笑いを受けることを免れさせるために,直ちに出発するよう乞
うた.老将軍はビスマルクを叛逆者として逮捕させようとしているというのであった.
彼はやむなくSchonhausenに帰り,農民たちにベルリン‑の武装行進は得策でないことを 理解させようと試みたが,農民たちは,彼が革命の妄想に感染させられたのではないかと疑っ た.そこでビスマルクはかれらに対し, Schonhausenおよび他の村々からの代表者たちが,
自ら観察しPrittwitzと恐らくは王弟プロイセン親王と会談するために,彼と共にポツダム
‑旅行すべきであるという提案をして,受納れられた.かれらが25日ポツダム停車場に着いた 時,ビスマルクが,自由の身ではないとてその救出のためこれまで画策して来た国王が,折り
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Lも其処に到着し,群集によって好意的雰囲気の中で歓迎されていた.ビスマルクは伴なって いる農民たちに向って, 「そこに国王がいられる.私は君たちを国王に紹介しよう.私は国王と 話をする」と言った.しかしかれらは怖気づいてそれを断り,忽ち後ろの列の中に退いた.彼 は国王に遠くから恭しく挨拶した.国王は誰だか知らないで答礼し,宮殿‑赴いた. 「ビスマル クは国王に随い,大理石の広間の中で国王が近衛軍団の将校に向けている演説を聞いた.」(注20) この際国王の述べた「余はベルリンでは,軍隊とはなれて以来決して自由ではなく安全でもな かった」という言葉の意味を全く曲解して, 「余は余の市民の保護の下における以上に自由で 安全なことは決してない」という意味だと考えこみ, 「プロイセン国王たる者がその将校たち の真唯中に在って決して耳にしなかったであろう程の,また恐らく二度と耳にしないであろう 程の不満の声とサーベル鞘の突き上げとが生じた.」(注21)ビスマルクは農民たちと再会し,傷つ
けられた感情を抱いてSchonhausenに帰った.
当時プロイセン王国内各地で,すなわちKonigsberg, Aachen, Trierでバリケ‑ドと小銃 戦を伴ったベルリン型の暴動が勃発L Posen地方の暴動は,軍隊によっての鎮圧に2カ月 を要した.この間Frankfurt am Meinで予備議会(Vorparlament)が開かれ,全ドイツの 使節や名士たちが,未来帝国の路線を準備するために集合し,感動的な盛大な議論が闘わさ れ,同時に全ドイツは一種の熱病に支配された形ちであった.
やがて4月2日,先に3月18日布告の勅書の中でプロイセン国王によって約束された第2回 州連合国会が開会され,ビスマルクもザクセン州代表者の一人として4月1日ベルリン着,こ れに参加した.代議士たちは,ベルリン市民に対する恐怖によってよりもむしろ,それ以上に ヨーロッパの情勢によっで怯えさせられていた.かれらは,内閣を支持するため満場一致でい っさいを尽くす決心をしていた.新議長Camphausen首相は,会議に対する歓迎の辞の後, 政府の二つの提案布告を朗読した.その第一は,プロイセン憲法についての申合わせのために 招集できる会議を目的とする選挙法の草案をふくみ,その第二は,将来のプロイセン憲法の‑
致せる原理,出版事項および裁判制度における改革,国民および将来の国民代表のいくつかの 基本的権利の確立に関連していた.ビスマルクはこれより先,旧来の絶対主義国家が崩壊した のを痛憤の念をもって眺めており,この国会において彼の感情をそのように表明した.
すなわち,布告の朗読の後直ちにLichnowsky侯が国王あての感謝上奏文を提案し,その 提案がほとんど満場一致で受入れられた後,侯が,さらに上奏文の即刻の審議のための委員会 が数分問のうちにその草案を提出するように,この委員会を選出せんとの第二の提案を為した 時ビスマルクは,かかる不当な性急さに抗議するために立ち上って次のように発言した. 「私 は,この会議において絶えず配慮されている品位というものに対して,我々は会議の処置を慎 重に行なうべきだという責任があり,また,ふさわしさという単純な規範(Regel)に対し て,我々は殊に最後的にここに招集されているがゆえに,我々のこれまでの慣例から決して逸 脱してはならないという責任があると信じます.我々はこれまでやはり,あらゆるそのような 単純な規則(Gesetz)を委員会に委託しました.この委員会はこの規則を落ち着き払って審議
し,会議の他の日にこれを提出しました.私はこの瞬間のどとき重大な瞬間においては,これ までなおプロイセン国民を代表するという栄誉を担っているこの会議の表現は,上奏文の審議 に際し,私の個人的感情によると,ふさわしさの規範からはなれている性急さをもって敢えて 処理することを許さないために十分に重要な行動であると信じます.」(注22)
しかしLichnowskyの提案は,圧倒的多数をもって採択され,委員会が構成された.間も なくして,会議が中止されている間に委員会は上奏文の草案を提出した.この草案において, 内閣に対する国民の信頼が表明されたが,国王に対しては,次のような諸々の事項に関して国 民の将来の代表に法案を提出させるという与えられたる確約ゆえに,又となく盛んな謝辞が報
いられた. ‑出版の自由,個人的自由,自由な結社集会権の保障,裁判官の地位の独立,戟 判所管轄区外裁判所・領主裁判権および御料地警察権の廃止,刑事事件における特にいっさい
の政治的事件および出版法・新聞条例違反に対する陪審裁判をふくむ公開のまた口頭による裁 判,いっさいの宗教的信仰告白に対する平等の政治的および市民的権利,指揮者の自由な選出 をふくむ普遍的な市民兵制,民衆的な,間接選挙に基づく国民のいっさいの利害を代表する選
挙法,全立法における又国家財政における国民代表の単純多数をもってする決定的協力,大臣 の責佳,憲法に対する軍隊の宣誓‑.以上は,ブルジョワ的自由主義的近代国家の理念綱領 峯殆んど包括しており,当時すでに,都市を地盤とする資本家ときびしく対立していたユンカ ー的保守主義のチャンピオン,ビスマルクのもとより徹底的に嫌悪する処であった.
果して彼は,国王以上に王党的な急進王政復古の立場から,絶対多数者の賛成を得ているこ の草案が票決されるに先立って,彼の拒否的態度の論証を次の如くに発言した. 「私は上奏文 に反対投票をするであろう少数派の一人であります.私は,この反対投票を根拠づけ,あなた 方に,私は上奏文が将来計画である限り,私は他に仕方がないという唯一の理由から(爆笑お こる.) 、 、 、 、 、直ちにこれを受入れるということを明言するために発言の許可を求めまし た.
自由意志ではなく,事情の圧迫に駆り立てられて,私はそうするのです.すなわち私は,こ の内閣は現在の情勢から秩序ある合法的な状態へ我々を導き得る唯一の内閣であります.そし てこの理由から私は,この内閣に対し私に可能なささやかな支持を到る処で捧げるでありまし ょう.しかし私をして上奏文に反対投票をさせるところのものは,最近生じているものに対す る喜びと感謝との表明であります.過去は葬られています.そして私はあなた方の中の多くの 人々以上に痛恨の念をもって,王冠そのものがその棺の上に土を覆われた後において,過去喜 めざそうとのなんらの人力も存在していないことを悲しく思います.しかし私が事情の圧迫に 強制されて上奏文を受諾する時,私は依然として,私がそれに感謝し私が少なくとも誤った道 だと思わざるを得ないものを喜ぶべきであるという偽りによって州連合国会における私の活動 から身をひくことは出来ません.今ふみ出されている新しい道程上で唯一の祖国ドイツが幸わ せな状態,または単に合法的に秩序だてられたものにすぎない状態にせよ,これに到達するこ とが現実に成し遂げられた場合,私が事態の新秩序の創始者に対し私の感謝を表明できる瞬間
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が到来するでありましょう.しかし,今はそのことは私にはできません!」(注23)
ビスマルクは引続き,過去の栄光と前途の危機を叫ぼうと欲したが,感動に打ちひしがれ て,激しいむせび泣きによって断ち切られた言葉を中止せねばならなかった.彼の偏狭ではあ るが真実のこの苦悩は,彼の最も対立している敵手たちさえ同情して握手を求めにやって来る ほど感銘を誘うものであった.(注24)しかし提出されたままの表現様式の上奏文案が,ほとんど 満場一致で可決された.
五,むすび
二月革命を契機として勃発した三月革命直後のドイツ連邦および,オーストリアと並んでそ の主力を成しているプロイセンにおける彰滞たる自由主義的民主々義的憲法欲求の潮流の中 で,プロイセン絶対主義王朝的な保守反動の化身たるビスマルクの言動,すなわち国王をベル
リン革命派の手から救出せんとの企てを中心とする,さらに国王から期待できない行動命令を 他の方面から得ようとする,さらにまた国会における言動そのものは,彼の生涯にとっての画 期的政治的修練の意義を別としては,既述の、どとく概ね失敗かつ無意味に終った.一方, 1848 年の中頃から再び強力となったオーストリアを中核としロシアのニコラスI世を「中欧の救済 者」とする保守反動の流れも,さすがに二月革命・三月革命の成果として, 1815年ウィーン条 約以後20年代のメッテルニヒ支配下の保守反動ほどの絶対主義を帯びるを得ず,経済的にはも ちろんのこと,生半可ながらドイツの政治的社会的思想的近代化をもたらし,以来ドイツ国民 の努力は憲法制定問題を去って,専ら統一運動に向けられ,この運動はビスマルクに対し,ド
イツ統一の指導権をオーストリアからプロイセン‑移さんとの最大の政治的課題を,彼の胸中 に抱かしめることとなるのである.思うに1848年中頃からの反動革命の勝利は,なんらビスマ ルクの微力に負う処ではなくして,その勝利の要因(注25)はH, 5月18日開かれた有名なフラ ンクフルト国民議会が,いかに高潔博学の士の大集会であったにせよ,議論に終始して次第に ドイツ国民の信頼を失ったこと,日,暴動を起した諸階級の利害関係のくいちがい,すなわち 地方的な又信仰上の,さらにオーストリアでは,民族的な矛盾対立が,あらゆる自由主義的民 主々義的欲求よりも一層強力となったこと,臼,ドイツの市民および農民は,かれらの最も重 要な利害についての立法に満足し,また労働者の余りにも急進的な要求にいたく驚ろかされて 革命に離反したことなどである.
これより先5月,ビスマルクが三月革命勃発直後ポツダムにおいてPrittwitz中将と行なっ た対話を回想しつつ, Schonhausen地方在住の友人たちの連署を得て同中将あて送った次の 手紙(荏.回答を得られなかった.およそ43年の後1891年3月18日D. von Meyerinck中将 が「軍事週報」の補巻の中で,ビスマルクのこの手紙の趣旨に答えているが,もちろん時期遅 れであった.(注26))の内容は,ビスマルクの三月革命観を心ゆくまでに明確に表現しており, 特に,勢力関係についての慎重な打算配慮に基づく「現実主義外交政策家」の範たる彼が,革 命勃発当時革命派の動きにあれほど悲憤憤慨していたにも拘わらず, 5月の時点ではもはや,
欽定憲法的な統治組織には必らずLも反対していないことを推測させるものであり,筆者はこ の手紙の内容をもって小論の結びとする.いわく,
「その胸中にプロイセン人の心臓が鼓動している人々はすべて確かに,我々署名者と同じ く,新聞の論難を憤激の情をもって読みました. 3月19日以来の最初の数週間国王の軍隊は, 戦闘中その義務を忠実に遂行し,その受けた撤退命令に対して軍事的訓練と克己との卓絶せる 実例を示したということに対する報いとして,この論難に曝されました.新聞がしばらく経っ た後これよりも妥当な態度をとった時,その理由はこの同じ優勢な党派において,その後生じ たその正当な事態認識のなかに存しているというよりもむしろ,新しい事件の急速な動きが 旧い事件の印象を背景‑押しのけ,またこの党派の人々が勿体ぶって,軍隊の最近の行動の ために(注.プロイセン軍は4月23日,デンマルク国王の併合計画に反対して支援を求めた Schleswig公国を一時的に占領した.)以前の行動を寛恕しようと欲しているということに存 しています.その上ベルリンの事件についての最初の諸情報をほとんど耐えられない憤激の情 をもって受取った農民たちにおいては,あらゆる方面から又なんら大した反論なく,一部分は 新聞によって一部分は選挙の折に国民を説得している密偵によって流布されている曲解が,固 定化し始めています.そのため農民たちの中の気立てのよい人々がすでに,無理からぬことな がら,ベルリンの市街戦は,国王がこれより先行なった譲歩を奪い取るために,ひどく誹話さ れた王位継承者(注.王弟プロイセン親王)の承認および意志をもって,またはそれなくし て,軍隊により計画された遣り方で惹き起されたものと信じています.一人としてもはや,ほ とんど他の側‑の心構え,筋道を立てた国民説得を信じようとはしていません.我々はこの虚 構が,事件の真の経過の,証拠をもっての証明による詳細な叙述がこれに反論しない場合,少
なくとも下級の国民諸階層の意識のなかで長い間には歴史となるということを恐れています.
と申しますのは,いっさいの予断を許さない時代の流れの中では今日明日にでも,過去につい ての説明がもはやなんらの共感を見出さないほどに,その重要性によって民衆の注意を要求す るところの新しい事件が生じ得るからであります.
我々の見解によりますと,住民がベルリン政治運動の不純な源泉に関して,又これと並ん で,三月革命の勇士たちの闘争は,口実としている目的の達成のためには,すなわち陛下によ って約束されている立憲制度の防衛のためには,不要なものであったということに関して,全 住民が多少なりとも啓蒙され得るとすれば,それは住民の政治的意見に対しわめて重大な影響 を及ぼすでありましょう.閣下はかの事件に際して行動した名誉ある軍隊の司令官として,我 々の判断によると,この事件の真相を納得のゆく方法で解明するのに特別に適任であられ,又 解明できられるのであります.このことが我々の祖国にとっていかに重要であるか,又その際 軍隊の栄誉がいかに甚だしく増大するであろうかという確信が,御職務上の顧慮が許す限り,
ベルリン事件の綿密なまた証拠書類を備えた叙述を軍事的観点から出来る限り速かに公表せ しめられるようにと恭しく且切実に御願いする時,失礼の御詫びに役立つにちがいありませ ん.」(注27)
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注
1. Schmoller, Gustav von: Charakterbilder. S. 29.
2. Marcks, Erich: Otto von Bismarck. S. 20.
3. Marcks, Erich: Bismarcks Jugend 1815‑1848. S. 451.
4. Schmoller, G. v.: ibid S. 28.
5. Klein‑Hattingen, Oskar: Bismarck und seine Welt. S. 383
Treitschke, Heinrich: Deutsche Geschichte im 19. Jahrhundert. Bd. V. S. 646.
7. Biedermann, Friedrich: Mein Leben und Stiick. Zeitgeschichte. Bd. I. S. 216.
8. Kohl, Horst: Die politischen Reden des Fursten Bismarck. Bd. I. S. 41.
9. ibid. S. 42.
10. ibid. S. 42.
ll. ibid, S. 49.
12. Vgl. Sybel, Heinrich von: Die Begriindung des Deutschen Reiches. Bd. I. S. 103.
13. Bismarckbriefe 1844‑1870 (Originalbriefe BismarclCs an seine Gemahlin, seine Schwester und andere. Leipzig. 1876) S. 57. (Vgl. Matter, Paul: Bismarck et son temps. Tome I.
S.103)
14. Bismarckえson frsre, 8 mars 1848. (Vgl. Bismarckfriefe S. 58. Matter, Paul. S. 103.
Stein, walther: Bismarck. S. 9)
15. Hagen, Maximilian von: Bismarck. S. 68.
16. Eyck, Erich: Bismarck. Bd. I. S. 85f.
17. Kohl, Horst: Gedanken und Erinnerungen von Otto Fust von Bismarck (1922). Bd. I. S.
26. Randbemerkung.
18. Matter, Paul: Bismarck et son temps. Tome I. S. 112. Note en marge.
19. Roon, Albrecht von: Denkwurdigkeiten. Bd. I. S. 167.
20. Gerlach, Leopold von: Denkwurdigkeiten. Bd. I. S. 148.
21. Wolff, Bernhard: Berliner Revolutions ‑Chronik. Bd. I. S. 424.
22. Schiissler, Wilhelm: Bismarck, Die gesammelten Werke. Bd. X (1972). S. 16 f.
23. ibid. S. 16 f.
24. Bismarck, Herbert: Fiirst Bismarcks Briefe an seine Braut und Gattin. S. 111.
25. Kleinberg, Alfred: Die europ云ische Kultur der Neuzeit. S. 121 f.
26. Voiglanders Ouellenbiichern (1912). No. 7.
27. Bismarck‑Jahrbuch VI. S. 8 ff.
(昭和47年9月29日受理)