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田中友次郎

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ラサールの「閲兵演説」とゾーリンゲン電報

田中友次郎

Lassalles "Heerschaureden" und das Solinger Telegramm

TOMOJIRO TANAKA

右派社会主義の指導者,全ドイツ労働者協会(der Allgemeine Deutsche Arbeiterverein, 略してADAV, 1863年5月23日ザクセン王国のライブツイヒにて創設)の会長ラサール (Ferdinand Lassalle, 1825‑1864)と,一一保守的ユンカーの代表, 1862年9月以来のプロイセン 王国首相ビスマルク(Otto von Bismarck, 1815‑1898)とは, 1863年5月12日(または13日)

に初めて会談を行なった.その論題は副次的には,労働者に苛酷な間接税について,主題として は,ラサールのアジテーションの中核たる普通直接選挙権についてであったと推定される.ちな みにプロイセンでは,三月革命の反動期たる1849年以来三級選挙法(Dreiklassensystem)す なわち,直接納税額に基づいて国民の一部分に対してしか投票権を与えず,しかもWahlmann (代議士選挙人)をまずUrw芝hler (原級選挙人)によって選出する間接選挙であった. (長崎 大学教養部紀要人文科学第15巻, 1974,拙稿「ラサール,ビスマルクの第‑回・第二回会談につ

いて」 p. 15参照)

なお,口付けは分らないが同年6月8日以後6月なかごろまでの間に第二回会談が行なわれ, その論題の中心となったものは,同年6月1日緊急勅令として布告され発効し,自由主義的な皇 太子を始めとする性論のごうごうたる非難をあびている新聞条令(Pressordonnanz)であった

ことは確かであると推定される.

なおまた,当時ドイツ連邦には国民協会(volksverein)なる保守的団体が存在していた.

この協会は1849年の帝国憲法を擁護する立場から1859年秋成立したものであった.ところでベル リンに集中している保守派の唯一の大衆組織たるプロイセン国民協会に対し,その精神的優越性 により,また保守的な右派の「十字新聞」 (Kreuzzeitung)編集者として大きな影響を与えて いたのは,ヘルマン・ヴァーゲナ(Hermann Wagener, 1815‑1889)であり,ビスマルク は,このヴァーゲナーの原始ファシスト的な社会形態,社会的保守的な革命的独裁の未来国家を 説く,急進的な一方的な態度によって,ブルジョワ自由主義的な進歩党(Fortschrittspartei)

が圧倒的多数を占める議会によるよりも,むしろ遥かにひどく締めつけられていた.

さてラサールは1863年6月なかごろベルリンから旅立ったが,以来10月初めまでベル))ンには

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居なかった.なお, 「5月23日ADAVの創立から6月27日ラサールのスイス旅行出発までの1か 月間は協会に組織的側面を与えるのに十分であった。」lそこで6月27日には,ライブツイヒ中央

委員会で,化学者でありADAVの共同創設者であり副会長であったダマー(Dr. Otto Dammer, 1839‑1916)が,会長代行を勤めることとなった. (10月7日まで).とくに注目すべきことであ るが, 10月20日にはプロイセン衆議院議員のWahlmannが, 10月28日には衆議院議員が新た に選ばれることなっていた.

ラサールはこの選挙戦を前にして着々と計画的にアジテーションの準備を進めていた.ラサー ルの8月27日付けベルギー西岸の都市オステンデからの友人‑ンス・フォン・ビューロー(Hans von Biilow, 1830‑1894,作曲家)あての手紙のなかに示されている親密な次の言葉は,やがて 9月下旬頃行なわれたラサールの演説の歴史的評価にとってきわめて重要である. 「9月の末私 はな,るほど幸せではないが,それでも興奮を覚えることでしよう. 9月20日私はデュッセルドル フへ向って出発します.私はデュッセルドルフ,ゾーリンゲン,エ‑バーフェルト,バルメン, ケルンで集会を開き,そこで容赦ない遣り方で,最近数か月間の様々の醜悪な行為(注,進歩党 の言動をさす.)について意見を述べようと思います.私が心のなかで陵いている憤怒の一部だ けでも洩らすことができるとすれば,人々にだけでなく建物にも火がつくことでしよう.」2

この火をふくばかりの熱情に駆られたラサールが9月下旬ごろライン流域に在る彼のアジテー ションの三つの牙城におけるADAVの集会で彼の演説,,Die Feste, die Presse und Frankfurter Abgeordnetentag"3によって,選挙戦のために初めて彼の雄弁を揮っていた時, それは近づきつつある,上述の衆議院議員逸挙というプロイセン内政史上の重大決定の時期に当 面していた.メ「リングはこの時の演説の内容についてあらまし次のように述べている.

「ラサ・‑ルは, 9月20日にバルメンで, 27日にゾ‑リンゲンで,そして28日にデュッセルドル フで,かねて計画していたライン地方の労働者の閲兵(Heerschau)をし,かれらに,ただ一人 海岸を散歩しながら練り上げた演説をした・4=その演説は,世論の三つの特徴としての祝祭,新 聞およびフランクフルト代議士大会を取扱ったものであった.ラサールは,自分のアジテ‑ショ ンの政治的起源を,すなわち,かの三つの特徴で新たに確証されたブルジョワジーの愚かさに対 する非難を,演説の糸口とした.進歩覚の祝祭とその新聞に関して言うならば,ブルジョワジー

が危い橋を渡るまいとする限り,かれらが祝祭をやった遣り方,新聞を新聞条令のもとに屈服さ

せた遣り方は,かれらの政策全体と文句なしに一致していた.しかしラサールが,この政策を権

柄で役に立たないと非難し,進歩党の祝祭と進歩党の新聞に対して半株な噸笑をあびせかけたこ

ともまた,論理的に正しかった.政治的反対派の祝祭の資格は,かれらが行なっている反対の本

質にかかっている.祝祭が,行動し打撃を与えることのできる政策に伴なうもの‑ 『昼の労働,

夜の客,辛苦の過日,楽しい祭り』というゲ‑テの言葉の意味での‑ならば,祝祭は有効なア

ジテーションの手段であって,その正しさは疑問の余地がない.しかし,それが政治的活動の代

行をし,行動力が全く欠けていることを馬鹿騒ぎの乾盃でごまかそうとするものならば,それは

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ラサ‑ルの「閲兵演説」とゾーリンゲン電報 3i

いかにきびしく批判しても,しすぎることのない堕落した手段である. ‑一一‑‑.閲兵演説の重 点は,その第三節すなわちフランクフルト代議士大会(注.フランクフルト国民議会をさす・

1848年5月18日開かれたが,議論に終始し,次第に国民の信頼を失ない. 1849年6月完全に閉鎖 された.)の批判であった.ラサールは, 1849年の帝国憲法(Reichsverfassung)を反動的ユ

‑トピアで,決してプロレタリアートの旗印Lにすることのできないものである,としている.

さらにこれに加えてラサールは言っている.進歩党と国民協会員は,ひとたびこの旗印Lを択ん だ以上,オーストリアの連邦改革案5を『無下に否定することのできない』ものとする非論理に よって,自分たちを笑いものにすることは許されない. 『進歩党員たちは,フォン・ビスマルク 氏を恐れ入らせるために,諸侯に秋波を送っている.かれらは,ドイツの諸侯に婿びることによ って,ビスマルク氏を威嚇しようと望んでいる.これが,この哀れむべき人たちの手段だ!6我

● ● ●

々がもしフォン・ビスマルク氏と一戦を交えるとしても,正義の要求によって,交戦中にも我々 は,氏は男(ein Mann)であり,前者は女のくさったの(alteWeiber)だと,告白せざるを 得ないだろう!そして曽て女のくさったのが,ほかの方面に秋波を送って,ひとかどの男を恐 れ入らせた例はあったことがない.事実ビスマルクは,進歩党員に答えるのに,早期の解散を以 てした.7』8

来たるべき選挙に対する労働者の態度を,ラサ‑ルは次のように規定している. ‑労働者は 選挙の結果に対し,原理的にはなんらかかわりがない.普通選挙権は未だないか,もはやないの であって,プロイセン憲法はまだ一日も法的に存在したことはない.それは一連の違法に基づい ており,・国王は,これを利用して1848年4月(注. 8日)の法律を廃止した.誓約した結婚がな んらかの法的根拠によって無効とされるならば,祭壇での誓いが無意味であるように,プロイセ ン憲法にかけてなされる誓いは無意味である. 1849年の修正議会以来,プロイセンにはなんら法 律上の議会は存在せず,プロイセン議会は非合法的な収奪者の集まりにすぎない. ‑‑‑‑‑・.労 働者は闘争の対象であるプロイセン憲法に関し,原理的にはなんら利害をもたないだけでなく, 反動であれ,進歩党員であれ,等しくかれらに無縁の闘争に関しても,原理的には利害をもたな

い.しかも,もちろんかれらにとっては,進歩党と反動の問の闘争がつづくことは戦術上きわめ て大きな利益であり,それゆえ,進歩党の勝利が無条件的に確実でない処ではどこででも,労働 者は比較的弱いこの党に投票すべきである.反動と進歩党との問の闘争がつづくのは労働者の利

益であるが,しかしその一方が他方に勝つことではなくて,ルタ‑がロ‑マ教皇に反対して立上 った時にフツテンが言ったように,両者が相互に喰い合い,つぶし合うことが利益である,9と.

‑要するにブルジョワジ‑が,反動に劣らず労働者に対し敵対的であること,労働者の利益は, この両者を相互に戦わせ,支配階級の問の闘争から生ずるすべての利点を利用することにあった.

『どんな方法にせよ』 (,,Sei es auf diesem, sei es auf Jenem Wege")10転機が訪れるな

らば,労働者は自分の独力で普通選挙権を戦い取るか,ビスマルクがクーデターによってそれを

付与するだろう.いかなる場合にも労働者は,普通選挙権に少しも耳をかさないブルジョワジー

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の徒党的利害には,いささかも気を使う必要はない・」11

思うに三級選挙権が実施されている限り,ライン地方においてさえ,創立間もないADAVの 候補者たちも国会に選出するいかなる種類の見通しをも存在しなかった.それゆえ選挙戦におい

てはほとんど唯,連合している自由主義的なグループと議会的に全く無力な保守主義の与党とが 互いに対抗したにすぎなかった.ラサールが上述のどときアジテーションを通じて熱情的に努め たように,新らしい党派を創設しようと望むならば,このことは,ラサールの危険性を初めから 認識しており,彼の政治的誠実さをあらゆる機会に中傷妨害した進歩党,の犠牲においてのみ生 まれ得たのである.今やラサ‑ルは,進歩党が政府に対し必死になって抵抗しようとしない12が ゆえに,進歩党に立ち向かい,同党の,いっさいの政治闘争に対する無能を確証し,同覚の生存 権を奪うと同時に,彼自身欲すると否とに拘わらず戦術的にビスマルク政府の政策を支持し,そ

のことを明らかにせねばならなかった.上述の閲兵演説で, 「女のくさったの」である進歩党に 対して,ビスマルクの「男らしさ」に対する彼の満足に,明瞭な表現を与えなかったにしても,

ラサールのこの戦術は覗い知られるのである.

果たして, 9月27日ラサールがゾーリンゲンでこの演説を行なった際の集会は,取るに足らな いナイフによる刺傷行為13のために警察によって解散させられることとなり,ラサールは周知の どとく,警察の長官たる「進歩覚の市長」トリップ(Trip)についてビスマルクあての電報で不 平を訴え, 「いっさいの法的根拠なくして」行なわれた処置に対し, 「最もきびしい最も迅速な法

的補償」を懇願するために,この事件を利用した.

1863年9月27日ゾーリンゲンからベルリンのビスマルクあてに発せられた電報(dasSolinger Telegramm)の文面は次の通りである.

「進歩党員たる市長はたった今,銃剣で武装した10人の憲兵と抜刀した数人の警官の先頭に立 って,私によって招集された労働者集会を,なんらの法的根拠なくして解散させた.結社法 (Vereingesetz)を引合いに出して抗議したが無駄であった.民衆‑射撃練習ホ‑ルの大講堂 内の約5000人とさらに大講堂の前にいた数千人とは‑かろうじて暴行を耐え忍んだ.私は憲兵 と,私が逮捕されたと信じている一万人の民衆とによって電報局‑運ばれた.エーバーフェルト の労働者たちの旗は没収された.最も厳正迅速な法的補償を乞う. F.ラサール」 14

さて,ラサールの思想家・政治家としての業績を過大だと思われるほどに極めて高く評価して

いるメーリンクが,ラサールのこの打電については,次のような苛酷なはど痛烈な批判を加えて

いる. 「この電報はラサールの大失敗だった.悪魔を悪魔のおばあさんに訴えてはならない.革

命家たるものは, 15年にわたって結社および集会の権利をはなはだしく迫害した上,今後とも迫

害するであろう封建的反動の担い手に,進歩党員であれ,またほかの誰であれ,誰かがこの権利

を害なったからといって,それに対する償いを求めてはならなかった.もちろんビスマルクは,

求められたような処置をとらなかった.警察権を勝手に行使した自由主義的官僚を罷免するどこ

ろか,封建的官僚制は,かかる人物をむしろ悔い改めた罪人として,三倍も歓迎するだろう.人

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ラサールの「閲兵演説」とゾーリンゲン電報 33

間ラサ‑ルについては,彼が進歩党によって激怒させられて賂思慮な行動をしたことは,弁解の 余地があるが,それだけに政治家ラサールは,彼の仇敵の仕事を助けるべきではなかった.」15

しかしラサ‑ルのこの打電措置をメ‑リングのように一面的に単純に解釈批判することは,栄 たして妥当であろうか.仮りにこの打電措置によってマイナスの面が生じたにしても,ラサール 自身にとっては彼なりに打算考量するところがあっての行動ではなかったか.ベルンバルト・ベ

ッカーは,ゾ‑リンゲン電報ののち10月11日付けフランクフルトからのラサ‑ルあて書簡のなか で,次のように述べて暗にラサールの行動を支持している. 「あなたのアジテーションにとって 時点は非常に幸せに選ばれており,またあなたはとてもすばらしく未来革命を危倶のない形ちで 健間にもたらしたので,一つの党派が我々に抵抗することはむずかしいでしょう.この好都合な 選挙のみがあなた‑の我々の信頼を目覚めさせるにちがいない.しかしこれまでの成果がまた, あなたが革命のヴァレンシュタインであることを示している.あなたはビスマルクをこれまで欺 いてきたし,今なお大ドイツ主義者たちとローマ教皇全権論者たちとを欺いている.かれらは, すべてのこれらのごろつきどもを喰い尽くす鷲の子の育成を助ける一方では,まさしく校滑であ り我々を利用しようと考えているのです!」16ナアマンに至っては,この電報事件は, 「ラサール, ビスマルク交渉の後半期の序曲を成している.」17 「ゾ〜リンゲン電報は,ベルリンをめぐる新た な闘争のための序曲を奏することとなったがゆえに,一つのシンボルにまで高められた.」18と, 率直にその意義を評価している.

一方,ヘルマン・オンケンは,ラサールの電報と演説とについて, 「電報によるこのような処 置はいっさいの民主々義的慣行を侮辱するものではあるが,演説は確かにまた,ほとんど『共同 の敵意と類似した権力本能とにより永い問結びつけられた両敵手(ラサール,ビスマルク)の接 近を直ちに実現しよう」との唯一の目的を持っていた.」19と批判している.しかし,ナアマンも,

「この電報は,一般に誤って,普通選挙権と組合とについての交渉の糸口のための慎重な試みと 見なされた.」20と指摘しているどとく,こんにちでは,ラサ‑ルが噴暖に思いついたこの電報は, 個人的関係の開始のためには最早必要ではなかったと断定できる.ビスマルクは, 6月1日布告

した新聞条令以来の反動的方策によって広汎な大衆のなかでほとんど信用を失っていたような時 期であったため,ラサールが彼に接近しようと決心さえすれば,ビスマルクとの交渉の道は直ち に開かれていたのである.従ってナアマンは,この点に関して次のどとく論じている. 「先ず第 一に,騒々しい大集会を解散させた市長のいわゆる干渉がどうして,直接ビスマルクあての電報 をひ、き起したのみならず,特別の話し合いの基礎を提供することとなったかが,珍らしく驚嘆を 誘うのである.しかしラサールが同じテーマでベルリンの労働者に呼びかけ(Ansprache)を 始めているのを我々が知る時,我々の驚嘆は理解に変るはずである.」21確かにラサ‑ルは,

,,An die Arbeiter Berlins" (10月14日配布)の冒頭で次のように呼びかけている. 「ベルリ ンの労働者諸君!私のライン流域のアジテーション旅行からここ‑戻って, ,,VolkszeitungHと

,,Berliner Peform"が諸君のなかに広めていた嘘について諸君のまなこを開かせることが,私

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の最も切実な義務である!ゾ‑リンゲンで一万の労働者が全ドイツ労働者協会の原則に向って 歓声をあげ,その会長としての私に対し,ライン流域でこれまで例をみない凱旋行列を準備して いる時, ‑一一・上にあげた二つの新聞は,いくつかのライン流域の新聞の嘘の報道を複製したの である.これらのライン流域の新聞によると,武装警官が国民の憤激に対して私を保護すべきで あったとのことである!」22

しかしナアマンは,この電報事件について,さらに詳しく次のように論及している. 「ベルン

‑ルト・ベッカーが,閲兵演説はラサ‑ルにより手ほどきとしてビスマルクにおいて決定的なも のとなり,その点で多くのことがビスマルクに生じたのだという標語(Losung)を伝達した.

人々はつねに,ラサ‑ルのビスマルクに対する関係は,普通選挙権導入を目的とする交渉のため にゾーリンゲン電報から始まったものと想定するゆえ,ベッカーのこの標語伝達はとくに,この 電報事件にラサールの人生行路の頂点を認める人々にとって明白なものと思われた.しかしベッ カーの陳述にしてまさしくこのことほど疑がわしいものはない.そして,この陳述はただ,きわ めて様々なまたしばしば相反する諸理由から非常にうまく好ましいゆえに常にさらに一層ふれ廻 わされる.次に示すペッカ‑のこの陳述は,ベッカーが尤もな目的のために作成したがゆえに, 非常に尤もらしいのである. 『ラサ‑ルは,湯治場からの帰途に際しきわめて不安な状態に在っ た.彼はおよそ1000名の協会員たちと何を始めることができるのか.そのうえ,ドイツの昔から の民主主義はその全くの脆弱と無関心(Gleichgiiltigkeit)とをすでに暴露していた.労働者 たちが怠慢な態度をとっている間に,‑教養ある人々もまたラサ‑ルを全く見捨ててしまっていた.

しかし労働者たちが協会から遠ざかっており,昔からの民主主義者たちがラサールの期待にそわ ず,また進歩党と国民協会との人々が彼の反対を軽視した時,彼が打ち負かされていることを直

ちに宣言するのを望まなかった時,ラサールには,プロイセン内閣の面々に直接はたらきかけよ うという一つのことが残されているにすぎなかった.』ラサ‑ルがドイツへの帰途ラインで行な う考えだった,湯治場で練り上げられた演説は,この点を狙っていた.ラサ⊥ルがこの演説を出 版のために書きしるした時,彼のデュッセルドルフの友人ダスタフ・レヴィ(Gustav Lewy, 荏. ADAVの会計係)に次のように言った. 『私がそこlに書いているものを,私はただベルリン

にいる二,三人の人々(em paar Leute in Berlin)あてに書いているのだ.』ラサ‑ルのこ の言葉は閲兵演説批判のための鍵を与えている.」23

ところで,上述の,,einpaar Leute in BerlinHとは,誰をさしているのかについてマイア

‑の所論でははっきりしていない.彼は次のように述べている. 「このアジテ一夕‑が彼の電報 によって獲得しようと欲したものは恐らく,首相を正式に強制して,彼が彼の協会の会計係に告 白しているどとく,主としてベルリンにいる二,三の人々をめあてに決められていた彼の演説の 内容を知ってもらうためであった.ビスマルクがここで,演説者がたとえ依然としていくらかの 慎重さをもってではあるにせよ,いま前進するよう駆り立てんと欲している方向を指示している

個所に注意を払ったということは,確かにラサールにとって全く特にかかわりがあった.」24しか

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ラサールの「閲兵演説」とゾ‑1)ンゲン電報 35

しナアマンは,この,,ein paar Leute in Berlin"について,次のように論断している. 「ベ ルンバルト・ベッカーがレヴィのそばに居たのは,閲兵に先立つ日においてのみであり,それ以 後ではなかった.ペッカ‑はここでは,他の場合には彼の叙述を非常に重要なものとなしている ADAVの文書の写しを引合いに出していない.彼は聞いたのだと主張している.すなわち彼の 耳に入ったというのである.ここで,我々がベッカーの文書に示した我々の好意的信頼は終る.

そして我々は次のように質問せねばならない.ラサールがこのころ(恐らく, ‑スMoses Hess,注. 1812‑1875.ラサール派‑を除いて.)誰かにビスマルクとの彼の面識について示唆 を与えたというなんらかの証拠が存在するのか.我々はその卑劣な密告がマルクスによって徹頭 徹尾忘れられなかったグスタフ・レヴィ(注.曽ては, 1847年ロンドンで結ばれた共産主義者同 盟の一員であった.)を考量する.それともラサールはむしろ,,ein paar Leute in Berlin"

なるこの言葉または類似の言葉において,閲兵が計画的にそれ‑の真の序曲となったベルリンの 包囲(Zernierung Berlins)を暗示しているのかも知れないのではないか.ラサ‑ルはこのこ とを確かにはっきりと十分に言っており,25彼の特別の小冊子26のなかで,ベルリンの労働者そ のものに向って述べた.それゆえ,,ein paar Leute in Berlin"は,ラサールの演説から勇 気をふるい起すべきベルリンにいる彼の信奉者であった. ‑それは意味を与えている!」27

さらにナアマンは,ゾーリンゲン電報の意義について次のどとく論じている. 「幾千人ではな くても幾百人がラサールのビスマルクあて打電という象徴的な行為の目撃者であり,この行為に おいて彼は,昔からの自由主義的民主主義的概念は時代遅れの立場であることをはっきりさせた.

労働覚は自主独立的に存在しており,・おのれの利益をめざしている.同覚は進歩党に対抗して突 如としてビスマルクの保護を求めたのである.」28

そこでナアマンは,この電報の意義をさらに具体的に次のどとく指摘している. 「ラサールは, ゾ‑リンゲン市で起ったこの種の事件にプロイセン首相が直接干渉する権限をもっていないこと, すなわち一種の審級順序(einer Instanzenweg)が存在しているという全事態は,ビスマル

クになんら関係がないということを徹底的に知っていた.ラサールはこの訴願でなんら直接的な 回答を得なかったし,また確かにほとんど回答を期待しなかった.彼のこの行為は,とりわけ彼

自身の協会に対する示威運動であり,彼はこの示威運動をプロイセン王国内のゾーリンゲンにお

いては確かにあえて享受してもさし支えはなかったが,ザクセン王国内のライブツイヒにおいて

ならばおそらく思いとどまったであろう.この電報の意義は,一一・・・演説そのものにおいて言わ

れていることを直接適用することであった.というのは,閲兵は,ベルリン征服のための範例と

なるべきであり,ベルリンの労働者をライン流域の範例によって刺激し,ベルリン労働者の成果

によって進歩覚を畏締させるべきであった.ビスマルクは,ゾ‑リンゲンにおけると同様の混乱

を防止すべきであった.というのは,ベルリンでは拳とナイフは末だビスマルクの意のままにな

らなかった.そのようにして,この電報は,ビスマルクを以てしての間接的アジテーションの頂

点である.組織の促進はここでラサールの直接的目標となり,組織の原則(Organisations‑

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prinzip)は今や縛めて彼の行動を支配し,偉大な実験が決定的な現実となった.ラサールは今 や真に労働者の指導者であった.ゾーリンゲン電報と共に新たな未聞の原則が社会民主主義的戦 術として布告された.すなわち労働者が組織化し,あらゆる適当な手段を利用することである.

最初の目標は組織である.」29

このときに当り, 「確かに,協会そのものは,注目すべき発展をとげた. 1863年秋プロイセン における協会員の数は1000名で, 1か年以内にほとんど5倍になった.」30ラサール自身, 11月29 日付けモーゼス・ヘス(ケルンにいるADAVの代表者)あての手紙のなかで,ベルリンの協会 員数について次のように述べている. 「私は確かに西カルムック人(Westkalmiicker,注.蒙古 人の一派.優勢なベルリンの進歩党に対する蔑称)のそばに留まり,かれらが欲するものに着手 しようとも,かれらから土地を戦い取らねばなりません.我々は今ここベルリンで約210名の協 会員を有しています.もちろんそのうち20ないし30割ま敵であり, 30名は好奇心をもった者であ るが,にも拘わらず少なくとも120割ま全く熱心な協会員であり,そのうち更に少なくとも50名 は実に熱狂的であります.それゆえ,ケルンにおけるよりも遥かに大きなベルリンでの困難と益 々はげしくなる恐るべき敵視にも拘わらず,私はここで頑張っています.」31

しかし既述の組織化が現実の政治的権力となるためには,あくまでも普通直接選挙権のビスマ ルクによる付与が前提である. 「三月革命に際しベルリンにおける3月18日, 19日の暴動は,翠 隊の銃撃により約200人に及ぶ死者を出したが,この衝撃のもとに, 3月18日の勅書のなかで, 無定見なロマンティスト,フリードリッヒ・ヴィルヘルム4世によって約束された第2回州連合 議会は,同年4月2日開会され, 4月8日の議会で,普通選挙権を実施すべき旨の法律が定めら れた.しかるに同年なかごろから始まった反動化の流れのなかで, 1849年5月30日欽定による三 級選挙権が発布されたのである・」32ゾーリンゲン電報当時ラサールの脳裡に去来していたものは,

「1848年4月8日の普通選挙権を導入した法律は,こんにち依然として正当性をもっている.」33 という観点であり,それゆえ,一方でラサ‑ルは,示威的な打電によって,ビスマルクによる普 通選挙権付与を一層正当化しようと企てたのであると推定される.

ラサールはゾーリンゲン集会後,デュッセルドルフ演説で声がすっかり出なくなり, 10月7日 ベルリンに帰った.しかし彼はこのため,さらに10月12日の最高裁における弁論(荏.ラサール は, 1862年4月12日の講演,,Arbeiterprogramm"のために検事によって告発されていたが, 結局100タ‑ラーの罰金ですんだ.)のような個人的事情に妨げられて,彼が改めてビスマルクを 頼った時, 10月20日のWahlmann選出のための選挙はすでに過ぎ去っているという政治的事 情も考量せねばならなかった. 「ラサールはベルリンに帰って以来ベルリン労働者獲得のための アジテ‑ションを始めた. ‑一・一一.当時ラサ‑ルの勢力はベルリンでは弱体であり,進歩党の 影響下に在る労働者が多かった.進歩党は警察の援助を受け,ラサ‑ルのアジテーションを失敗

させるための手段として,第一に会場追出し,第二にはげしい擾乱工作を行なった.ラサ‑ルは

ライン流域での経験を思い出して,彼の信奉者の固い中核を作るために,まず非公開の会議を開

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ラサールの「閲兵演説」とゾ‑リンゲン電報 37

いた.しかしすでに10月22日の第一回の集会で,騒擾を起すことができるようにと偽名を協会員 名簿に書きこんでもぐり込んでいた11名の進歩党員を彼は摘発しなければならなかった.」34

その翌10月23月ラサ‑ルはビスマルクに対し,打電のやむなきに至ったゾ〜リンゲン事件の経 過を口頭で説明させてもらいたいとの切なる願いを行なった.その手紙の文面(オリジナルの草 塞)は次の通りである.

「閣下,私は定期刊行物から,ゾーリンゲン市長が同地での事件について歪曲した報告を届け たにちがいないということを知っています.35

私の例の電報を直接閣下に宛てる決心をさせたのと同じもろもろの理由がこんにち,私を誘っ て閣下に対し親しく詳細な説明(Aufklarungen)36をすることができたらとの願望を一層つよ く懐く決心をさせています.それゆえ閣下が‑月曜の晩を除いて‑閣下に一番好都合な会談 の時(Zeit)37をお決めいただきますれば,私は喜こんでそれに従います.

たった今,私のライン演説G.Die Feste, die Presse"etc.)の,デュッセルドルフで起った 押収のニュースが届いています.敬具F.L.」38

首相は即日自筆の返書を書き,翌24日ラサールに会う約束をし,正午または夜8時いづれかの 時間を選ばせた.その文面(オリジナル)は次の如くである.

「拝啓貴下が明日正午に,またはこの時間にど都合つかねば明晩8時にど来訪の栄を得れば 有難く存じます.敬具Ⅴ.ビスマルク」39

ラサール,ビスマルク会談の第二の段階を開いた10月24日のこの会談の内容については,資料 から得る直接的な解明は,重要なものではないようである.なお,上記のラサール書簡にも暗示 的に触れられているように, 「ラサールは,この会談が行なわれる直前;デュッセルドルフの検事 局によって,彼が一般に憎まれている政治家(荏.ビスマルクのこと.)について非常に追従的な 意見を,その中であえて述べたとて演説を法律的に差押えられたという知らせを受けていた.同 様にこの時ベルリンの検事局も,ラサールがその中で,彼の協会を頑固に拒んでいるベルリンの 労働者階級40を進歩党と離間させるために,首都の進歩党新聞によって不充分に述べられている

ライン流域での事件を利用しようと企てた10月14日配布の小冊子,,An die Arbeiter Berlins,, を押収したばかりであった.」41

それゆえマイアーは10月24日の会談の内容について次のような直ちに納得できる推論を行なっ

ている. 「我々が,いくらか前にすでに,その他の処では警察が異議を唱えたことのなかったラ

サールの演説「今や何を為すべきか?」 (,,Was 、Nun?日, 1862年11月以後.)がケーニヒスベル

クにおいて,ラサールがその中でビスマルクを侮辱したという理由で押収されたということを考

量する時,ラサールが今,それにも拘わらず非常に好意的に彼を求めていた,彼によって表向き

侮辱された人に対し,大臣にとっては決して好ましくないわけではない彼のアジテーションに警

察と裁半[]所のがわから加えられた無数の迫害妨害に対抗してこれを話題にしたということはど明

白なことがらはない.」4,2さらに,ナアマンはこの会談のビスマルクにとっての意義について,次

(10)

のどとききわめて鋭い洞察的な叙述を行なっている. 「ビスマルクは,ラサールの著作物を妨害 しないよう検事たちに回状を公布しようとの誘惑的な提案を試みた.ラサールは,それによって, 反動による彼の庇護が公然と証明されることとなるがゆえに,当然拒絶せねばならなかった.43 それゆえビスマルクは,おのずからラサールに対する圧迫手段を掌中に収めた.というのは,ラ サールが迫害について苦情を申入れるや否やビスマルクは,この提案に立ち帰って,依然として ラサールに責任を負わせることができたからである.実にビスマルクは申入れを拒絶する必要さ えなかったのである.」44一方,ラサ‑ルがこの会談によって得たもの,そしてまたこの会談に際 して回避したものは,会談内容についての既述のマイア‑の推定が暗示しているように,かなり 精確な評価を受けている.すなわち, 10月24日の会談の成果として,ラサ‑ルは,決定的な数週

間における彼のアジテーションを実施できたのである.この会談以後数週間のうちにも内政にお いて,二人にとって会談の材料として役立ち得る様々な事件が生じていた.にも拘わらず,二人 がそれらについて何を語ったかは,唯一つ残存している11月17日付けラサールのビスマルクあて 書簡45のなかにさえ何一つ反映されていない.

以上ラサールの「閲兵演説」とゾーリンゲン電報,およびその成り行きについての論述の結び として,次のように総括することができるであろう.

(1)ラサール,ビスマルクの直接の会談は, 1864年1月末または2月初め,すなわちドイツ・

デンマルク戦争勃発直前を最後として終るのであるが,ラサールの「閲兵演説」は,彼の政治的 スローガンたる普通直接選挙権の獲得をライン流域の労働者大衆に訴えて大成功を博し,彼の労 働運動のためのアジテ‑ションの最も輝やかしい時機をプロイセン王国内外に宣明したものであ った.そしてこの「閲兵演説」は,ラサールがみずからを,ラサール,ビスマルク両者にとって の共同の敵たるブルジョワ自由主義的進歩党の不倶戴天の敵として公然と宣言するに至った最初 の本格的なアジテーションであった.

(2)ゾーリンゲン電報は,ラサールがライン流域でのアジテーションの大成功に励まされて, プロイセン王国の首都であり,王国内各都市各地方に対し大きな影響力をもったベルリン獲得の ために,ベルリンの二,三のラサール信奉者に彼の所信を宣言すると共に,ビスマルクを利用し てのベルリン労働者への呼びかけの端緒を成すものであった.

(3)ラサールのベルリン征服は結局失放したのであるが, 「閲兵演説」とゾ‑リンゲン電報は

ラサ‑ルの労働運動史上において独特の重要な意義をもっている.すなわち,ラサールはこの演

読,この電報に表徴されているその後のアジテーションを通じてビスマルクとの関係交渉を絶え

ず利用することにより,警察・検事局の弾重を牽制すると同時に,労働者の階級意識・闘争意欲

を止むことなく覚醒高揚させ,こうしてラサールによって注ぎこまれた労働者の正常な息吹きの

流れは,ナショナリズムの騒音のなかに掻き消されがちであったドイツ・デンマルク戦争(1864

年2月〜8月),普嘆戦争(1866年6月〜8月)および普仏戦争(1870年7月‑1871年1月)の

時期における一時的な沈滞期を除いて,ラサ‑ルの急死(1864年8月31日)後も,シュヴァイツ

(11)

ラサールの「閲兵演説」とゾ‑リンゲン電報 39

ァー(Johann Baptist von Schweitzer, 1834‑1875,弁護士)らを始めとする後継者に率い られたラサール派として,力強く生き続け,社会主義左派のベーベル,リープクネヒトの率いる アイゼナッハ派との1875年のゴータ合同大会における発展的解消‑と到達したのである.

1 Shlomo Na'aman, Lassalle, 1970, Verlag fur Literatur und Zeitgeschehen GmbH, Hannover, (以下Na'amanと略記す・る.) S.653.なお,シュロモ・ナアマンは1912年生まれ,イェ ルサレム大学のB. A.およびM. A.,テル・アヴィヴ大学の社会史の教授であり,彼の著作には,細 い活字にて900余ページにおよぶこの大著のほかに,ラサールとユダア精神との結びつきに関する研究 書,,Ferdinand Lassalle Deutscher und Jude", 1968.および,,Die Konstituiernng der deutschen Arbeiterbewegung 1862/63." ,,Darstellung und Dokumentation", 1975.

その他がある. (Cf. Verlag fur Literatur und Zeitgeschen GmbH発行の,,Archiv fur Sozial Geschichte" Jahrbuch der Friednch ‑EberトStiftung ‑ Bd. n, 1962, S. 370, Bd. XV, 1975, S.ナアマンは筆者の知る限りでは,現代におけるラサール研究の第一 人者である.

2 Gustav Mayer編,,Ferdinand Lassalle Nachgelassene Briefe und Schriften (以下 Nachlassと略記する.) 6Bde.,再版1967. Bd. 5,S. 221f.ダスタフ・マイアー(1871‑1948) は, 1922‑1933年ベルリン大学の民主主義史および社会主義史の教授であり(Cf. Brockhaus Enzy‑

klop五die, 1966‑1975, 21 Bde.),メ‑リング,ベルンシュタイン,オンケンと共に20世紀なかごろま でのラサ‑ル研究の四大家の一人である(Na'aman, S. 873).

3 Eduard Bernstein編,,Ferdinand Lassalle Gesammelte Reden und Schriften" (以 下Reden und Schriftenと略記する.) 12 Bde., 1919‑1920, Bd. IE, S. 339‑400に載っている・

ェドゥアルト・ベルンシュタイン(1850‑1932)は修正主義(Revisionismus)的社会主義の開拓者.

4それゆえ,この三牙城でのラサール演説を「閲兵演説」 (,,Die Heerschaureden=)とよぶ.

(Na'aman, S.哲学者であり社会民主主義的ジャ‑ナリストの経済学者アルバート・ランゲ (Albert Lange, 1828‑1875)は,バルメンにおける集会に深い感銘を受けて,フランクフルトの ,,Stiddeutsche Zeitung"のなかで次のように述べている・ 「ラサ‑ルがかれの登場を閲兵と名づけた のは,決して思い上った誇張ではない.いつか射撃手と体操家の大軍が憲法擁護のために出陣するかど

うかは疑問の余地があるとしても,ラサ‑ルの労働者の大軍‑それが成立するならば‑が,ドイツ の現行憲法を古いままにしておくことはなく,少なくとも王第,王冠,星,その他のガラクタをのけて しまうことだけは確かである.」 (Franz Mehring, Geschichte der deutschen Sozialdemok‑

ratie (1897‑1898)のDiez Verlag Gmb H (Berlin)版, 1960, 2 Bde. ‑以下Mehringと略 記するBd. n, s. 101.なお,フランツ・メーリング(1846‑1916)はマルクス主義的歴史家.

5 「オーストリアの提案では連邦分立主義の確立が問題であった.」 (ibid. S. 92)

6 「進歩党員たちは=‑‑‑この哀れむべき人たちの手段だ!」というラサールの言葉をナアマンも 引用している(Na'aman, S. 662)

7 1863年5月27日, 「ビスマルクは国会演説で,衆議院が内政的関係においてのみならず外交的関係に おいても国土を傷つけたといって非難することをやめず,国会の解散を宣言した.」 (Bismarck Die gesammelten Welke 1972, Bd. 10, S. 183)

8 Reden und Schriften, Bd. m, S. 379

9ラサールの書いた戯曲,,Franz von SickingenH (1858年作, Reden und Schriften Bd. I, S. 149‑345),のなかには.参謀Ulrich von Huttenのこの言葉はみられず,ただ, Franzが,

「もしそうなったら,わしは大胆に皇帝および帝国と争うことができる」と言ったのに答えて, Ulrich

(12)

が, ,rその場合にはロ‑マにとってひどい衝撃であり,福音(Evangelium)にとっては突破口になる.

何はともあれ更に」と答えている個所があるのみである.(Cf. ibid. S. 237) 10 Reden und Schriften Bd. HI, S.

ll Mehring, Bd. H, S. 96‑9

12プロイセンのブルジョワジーが暴動によって政府に抵抗したのは,三月革命が最後であり,以後絶え て見られない. 「ブルジョワジ‑は,プロレタリア‑トの要求に対する恐怖のため,また団結の欠除そ のもののため.この‑挟(注.三月革命をさす.)の根本的な政治的完全利用の機会を失い,それ以来 依然として,せいぜい奮起して議会の野党となるにすぎず,反徒としての地位に満足したのは,この‑

蝶が最後であった.」 (Alfred Kleinberg, Die europ云ische Kultur der Neuzeit. S. 122) 13 「ラサールが口を開くや否やそれを妨害しようとする進歩党員の企ては,またもや粛芽のうちに摘み

とられたが,二,三の激昂した労働者は,興奮のあまり.つまみ出された妨害者の若干をナイフで傷つ けた.」 (Mehring, Bd. 1, S. 101)

14 Gustav Mayer, Bismarck und Lassalle Ihr Briefwechsel und Ihre Gespr云che,1928,

(以下Bismarck und Lassalleと略記する・). s.この電文は,ベルン‑ルト・ベッカー (Bernhard Becker, 1826‑1882, ADAVの組織者の一人,ラサ‑ルの死亡直後の後継者)の ,,Geschichte der Arbeiteragitation Ferdinand Lassalles"のなかの写しに拠る.この写し は,権威ある文書..Braunschweig 1874" S.105 fに拠っている.ペッカ‑はADAVの文書集を 意のままに使用した. (Bismarck und Lassalle, S. 62 Anm.)

15 Mehring, Bd. H, S. 102 16 Nachlass, Bd. 5, S.

17 ,,Archiv紬r sozialgeschichte" Bd. n, (1962)所載の論文Shlomo Na'aman, Lassalles Beziehungen zu Bismarck Ihr Sinn und Zweck.サブタイトルZur Beleuchtung von Gustav Mayer's ≫Bismarck und Lassalle≪ (以下Beleuchtnngと略記する.) S. 73 18 ibid. S.74

19 Hermann Oncken, Lassalle 4. Aufl. 1923, S.ヘルマン・オンケンは, 1928‑33年,ベル リン大学教授.

Beleuchtung, S. 73 21 ibid.S.74

Reden und Schriften, Bd. W, S. 17 Na'aman,

24 Bismarck nnd Lassalle, S. 28f.

25ラサールは10月8日,革命的民主主義的詩人ヘルヴェーク(Herwegh)あての手紙のなかで, 「私 はただ今からベルリンの包囲に着手します.」と述べている. (Carl Griinberg編Archiv fur die Geschichte des Sozialismus und Arbeiterbewegnng, 15 Bde. 1910‑1930,再版1966 (以下 Griinbergs Archivと略記する.) Bd. I, S.134.カール・グルユンベルク(1861‑1940)は, 1909

‑1924ウィーン大学の経済学教授.

26 1863年10月14日ADAVの名においてベルリンの労働者に向って配布された16,000部の呼びかけ (Ansprache),すなわち,,An die Arbeiter Berlins (Reden und Schriften, Bd. IV, S. 15‑

57に載っている.)をさす. 「この16,000部は直ちに押収された.」 (Griinbergs Archiv, Bd. EL S.

135)

27 Na'aman, S.

Na'aman, S. 668 i.,ラサールのこの遣り方は,相互的な思惑と利用との点で,日本史上で名高い 石田三成と徳川家康との間の史実を想起させる.関ガ原の役の前年に当る「慶長4年(前田)利家の病 残は,秀吉の計画を画餅たらしめると共に,武将党をして三成襲撃の機会を得せしめた.三成は家康の 許に投じてわずかに身を完うしたが,これよりその居城佐和山に龍居することとなった.本来三成は家 康の勢力発展に対する第‑の反対者であり,曽ては家康の暗殺を企てた位いであるが,家康がこれを助

(13)

ラサールの「閲兵演説」と・/‑リンゲン電報 n

けたのは後に利用するためであり,彼もそれを予知して身を投じたのである・」 (栗田元次著,綜合日本 史概説下巻P. 466)

Na'aman, S. 669 Mehring, Bd. II, S. 135

31 Griinbergs Archiv, Bd. W, S. 136

32長崎大学教養部紀要人文科学第13巻(昭和47年)所載拙稿「三月革命の勃発とビスマルク」 p. 4ト49 参照

Bismarck und Lassalle, S.

34 Cf. Mehring, Bd.I. S. 106 f.

35 「ゾ〜T)ンゲン市長の属する進歩党は,一枚の電文を手に入れ,これによって,ラサールがビスマル クと手をにぎっているという嘘を,尤もらしく見せかけることができた.」 (ibid. S. 102)

36マイア‑によると,ここでは初めそのはかに, ,,iiber jenen Hergang"と書かれてあったが,ラ サールにより抹消された.

37マイヤーによると,ここでは初め, ,,Tag und Stunde"と書かれていた.

38 Bismarck und Lassalle, S.

ibid.S.

40当時ベルリンでは機械製造業がきわめて繁栄して,機械工たちは高賃金を支払われていた.かれらは 進歩党的な,,Volkszeitung"の影響下に在った. (Cf. Mehring, Bd. I. S. 105).ラサールの1863 年9月30日付けの,この新聞の編集局あての手紙(Kopie von der Hand Moses Hess)は,同紙 を,,das Lugenblatt"だとして難詰している. (Cf. Nachlass, Bd. 5, S. 231 f.)

41 Bismarck und Lassalle, S. 29 f.

42 ibid.S.30

43ラサールは1864年2月9日付けビスマルク側近ツイーテルマン(Titelmann)参事官あての書簡の なかで,近日中に刊行される彼の経済学的主著,,Herr Bastiat‑Schulze von Delitzsch, der okonomische Julian oder : Kapital und Arbeit"の押収予防措置を求めて, 「フォン・ビスマ ルク氏は,二人が(昨年) 10月ライン演説の押収について話し合った際,私の書き物‑というのは, それは当然民衆の評判になるでしょう.‑は,仕問に害を及ぼすことがあり得ると私が思わないなら ば,王国の検事たちにあてて,私の書き物を迫害しないままでおくようにと命ずる回状さえ出そうと私 に提賀されました・私はこれをお断りしました・そして私は今でもただ当地の検事あての口頭による厳 命を要望しているだけです.」云々と述べている. (ibid. S. 106)

44 Na'aman, S. 677

45 Bismarck und Lassalle, S. 64 f.

(昭和51年9月24日受理)

参照

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