田中友次郎
Lassalle und Bismarck im Januar 1864
TOMOJIRO TANAKA
筆者は先に長崎大学教養部紀要人文科学第15巻(1974)所載の拙稿「ラサール,ビスマルク の第一回・第二回会談について」のなかで, 1863年5月, 6月における両者の関係を中心に, さらに同紀要第17巻(1977)所載の拙稿「ラサ‑ルの『閲兵演説』とゾJ)ンゲン電報」のな かで同年9月, 10月における両者の関係を中心に論述した.筆者はさらに進んで本稿において 両者関係のクライマックスともいうべき1864年1月における具体的な実態・推移を明らかにし
ようと企てている.ラサールのめざす処は,上述の両論稿においてもすでに示唆したどとく, ビスマルクを利用しプロイセンにおける普通直接選挙権を基本的大前提条件として政府の補助 による生産協同組合を設立することであった.すなわちラサールによると,無産階級はこの選 挙権を拠り所にして,意識的に自主独立的な政治活動により権力を獲得し,もって国家を強制
して生産協同組合を建設させ,こうして,彼のいわゆる「賃銀の鉄則」つまりプロレタリアー トが僅かにその露命をつなぐために絶対的に必要な報酬という惨めな現状からかれらを解放す ることが,彼の天職であった.彼にとって又となく重大なこの普通直接選挙権をラサールがい かに渇望していたか,それに関連しての政治活動の自由,弾圧排除のためにビスマルクを利用 すべくいかに狂奔したかは,本稿叙述の経過のなかで,明らかに看取認識され得ることと思う・
従って,筆者の知る限り,末だわが国においてはもとより,恐らくドイツにおいても順序だて て詳論されなかった此の点に本稿叙述のささやかな意義が存在していると考えつつ,以下直ち
に本論に入ることとする.
プロイセンにおいては1863年11月以来シュレスヴィヒ・ホルシュタイン問題が大問題となっ
て他の諸問題のなかに割り込んできて,政府と衆議院のブルジョワ的自由主義的な圧倒的多数
派たる進歩党との問で激しい意見の対立をひき起した. 1864年1月8日と9日ベルリンで,政
府は前年の5月27日以来ふたたび議会を解散し,巨額の貸金についてもろもろの大銀行と交渉
し普通直接選挙権を付与しようと意図しているという噂が流れた. 1 「ラサールは,ビスマル
クのこの意図を,首相は従がわせやすい議会の強力な国内政策的支持が創り上げられてしまう
ことなくして来たらんとする外交政策的紛糾に入り込むことを恐れたものと解釈した.」 2そ こでラサールは1月9日ビスマルクあての手紙によって,選挙法の公表とラサールの作った条 文(Text)の確認が首相により親しく聞き届けられるようにとの切実な請願を行なった・そ の手紙(オリジナル)の文面は次の通りである.
「閣下!直ちにさし迫っている衆議院の解散と普通直接選挙権の同時的な付与の噂が流れて います.
この噂がとにかく根拠をもっているならば私は,いづれにせよ,選挙法の公布前に,さらに 選挙法の条文の確定前でさえ閣下に話をいたしたく切に願わねばなりません.非常に重要な諸 理由が私にその決心をさせています.そして私は,上記の場合,閣下にとって会談に好都合な 時間をお知らせ下さるよう願います.敬具F.ラサ‑ル」 3
ビスマルクはこの願いに快よく応じ, 1月12日ラサールを迎え入れ,それと同時に両者間で プロイセンにおける普通直接選挙権とビスマルクの可能な付与とについての会談が決定的な段 階に入ったがどとくに思われた.ラサールがこの会談の翌日(1月13日)ビスマルクにあてた手 紙から推測して,二人はその会談に際し選挙の遣り方の詳細な点にいかに深く熱中したか,ビ スマルクは,この機会に実際,選挙の棄権は阻止されねばならないということに,いかに強い 関心を表明したかが判るのである.ラサールはこの日,1月12日,この権力者を,久しい以前から 駆り立てて進ませようと望んでいた道程上に踏みこませることが,今や遂に成功するであろう との決然たる期待を懐きつつWilhelmstrasseに在る外務省のビスマルク首相の許を辞去した・
上述の1月13日(水曜日)付けラサ‑ルのビスマルクあての書簡(ラサ‑ルの親友ロタール
・ブーバーの写しによる. )の全文は次の通りである.
「閣下!特に私は,被選挙権は絶対的に全ドイツ人に与えられねばならないということを閣 下にもう一度切に説き勧めることを,昨日忘れたのを残念に思っています・測り知れない勢力 財(ein immenses Machtmitter),ドイツの現実的F道徳的』 (,,moralisch")征服!
選挙の遣り方(Wahltechnik)については,私はさらに昨夜フランスの全立法史を読み直し て,フランスでは余り合目的々なものを見出しませんでした.しかし私は熟慮をも重ねて,令 や確かに十分,閣下に対し投票断念並びに投票打ち壊し(Stimmenzerbrockelung)の防止の ための望ましい魔法の処方(Zauberrezepte)を提示できる立場に在ります.この処方の徹底 的効果には少しも疑う余地がありません!
従って私は閣下のがわでの一夜の会談日時決定を期待いたします.しかし私は,我々が邪魔 されることのない夜をお選びになるよう切にお願いします.私は選挙の遣り方について,さら にまた他のことがらについて閣下に語るべき多くのものを持っています.そして妨害を受けな い,いっさいを尽くした討議は,情勢の切迫せる性醇に照らして実際に非社交的な要求であり ます.
閣下のど決定を期待しつつ敬具F.ラサール」4
次いでラサールは,確かに1月16日の晩だと推定されねばならない時点でビスマルクの在所 を訪れ.彼の起草した選挙法についての原案を首相に手渡した(iibergab).5この原案の上の 表題は, ,,Punktationeǹ̀ (規約案)となっている.この原案については1月12日の会談の折
ラサールがビスマルクに励まされて起草したのか,自発的に起草したのかは判らない・おそら くこの,,Punktationen"に添えられたと思われるラサールのビスマルクあて書簡(写し)の 文面は次の通りである.
「土曜日夜〔1864年1月16日〕
ポツダム荷13
閣下!私は急き立てはしないはずでしたが,外的な事件が力強く急き立てます.従って私が急 き立てるのをお宥し下さい.私は閣下に対しすでに水曜日に,私が望ましい『魔法の処方』
‑徹底的効果を持っている魔法の処方を発見したと書きました.私たちの最近の会談には, 私の信ずる処では,最終的に,決定的な結末が引き続くでありましょう.私が同様に信ずる処 では,この最終的な決定はもはやこれ以上猶予できませんので,私は明日(日曜日)の夜8時 半閣下のもとに立ち寄ることをお赦し下さい.閣下がこの時間にお差支えがありましたら,他 のできる限り近い時間を決めて下さるようお願いいたします.
敬具F.ラサール」6 さらに,ラサールに敬服していたバツツフェルト伯爵夫人の手による,,Punktationen"の 写しも遣っているが,その全文は次の通りで,現在の我が国の選挙法に比較しても興味ふかい ものがある.
「1.普通直接選挙権が導入される.
2.国土は10万人づつの選挙区に分けられる.各選挙区は2人の衆議院議員を選出する.選 挙区の制定は施行法によって公けにされるであろう.
3.各選挙区はさらに,各選挙区の各部分が少なくとも500人の登録選挙人をふくむという 標準で区分される.各選挙区の各部分は,内務大臣の指令によって決定されるであろう.
4.選挙人は.自分の住家を持ちまたは3か月以上在住している市町村において完全な公民 権を持っている,国法による成人のプロイセン人である.
5.完全な公民権を持ち25才に達した全ドイツ人は被選挙権を有する.
6.各人は,選挙区で選ばれ得るためには,みずからその選挙区の候補者として登場せねば ならない.このことは,該当者が遅くとも選挙の行なわれる10日前に選挙区の県知事に,文書 で立候補を通知することによって生ずる.
7.遅くとも選挙の前8日には県知事は,県庁によって推薦された候補者並びにみずから名 乗りをあげて登場したすべての候補者を公示せねばならない.
8.投票は秘密である.投票は,選挙区の各区分のうちの最も人口の多い市町村で行なわれ,
すべての選挙人が選挙管理委員長に折りたたまれた紙片を渡すことによって生ずる.選挙人は
選挙行為をする前に,その紙片の上に二人の候補者の名前を書き,委員長はそれを彼の眼の前 で投票箱に投入する.その際委員長はただ,紙片のなかにはなんら第二の紙片が折り込まれて いないということを確かめねばならない.
9.選挙人は,選挙管理委員の記録係りによって,しかもアルファベット順に呼び出される.
選挙人がその義務を果たすと,記録係りは即座に選挙人名簿に印しをつけなければならない.
10・出頭し,た全選挙人がその投票義務を果たしたのち直ちに,投票箱を空にし'投票内容の 確認が行なわれる.
ll.すべての投票用紙は,直接候補者を名乗っていない候補者を記入している限り(第6 項)無効である.
12.候補者として名乗り出たそのような候補者の立候補が官庁によって(第7項)公示す るのを忘れられていたということに依って,彼への投票は無効とはならない.
13.投票内容については直ちに記録がとられ,その記録は委員長によって大声で読み上げ られ,委員長および全選挙管理委員によって署名され,選挙区の中心地における,県庁によっ て任命され公示された選挙管理委員長に送られる.
14.選挙区の長は,選挙区各部分の全投票記録を受取ってから遅くとも2日後には,彼に よって前以て公示された公開の集会で,また選挙区の当該中心地における選挙管理委員の出席 の下で,全投票記録を朗読し,各候補者に投ぜられた票数を大戸で総計し,結果を公示せねば ならない.
15.選挙日はすべて,当該選挙区の全範囲にわたって法定の金曜日である.
16. (注.法定の金曜日という)この規定は, 14項に言及している,選挙区の中心地におけ る投票結果の確認の日には関係がない.
17.病気により,または少なくとも投票行為の2日前に始められた旅行により,または選 挙当日始められた,しかし止むを得ない理由のために生じた旅行によって妨げられることなく して,相互に引き続いている投票行為において自分の法律上の投票義務を2回果たさなかった 選挙人はすべて, 10か年の選挙権喪失をもって罰せられる.
18,これを識別するのは,普通選挙権の規定に従って資格のある刑事裁判官のことがらで ある.
19,投票総数の,しかも無効票を算大しての過半数を集めなかった人はいづれも,衆議院 議員に選ぼるべきではなく,衆議院議員として布告されてはならない.
20,候補者のいづれもが,投票の過半数を集めなかった時,または一人だけが集めた時は, 選挙区の区長によって,未だ片付かない衆議院議員選挙に関して8日以内に,新たに行なわれ
る選挙日が公示される.
21,この二回目の選挙に際しては,すでに一回目の選挙に際し候補者として名乗り出なか
った人は誰も,候補者として登場できない.
22,これに反して,候補者のいずれをも相対的少数のために失格したものと見なさるべき ではない.
23,二回目の選挙においてもまた,選出すべき衆議院議員の2人または1人にとって過半 数が生まれない時は,同じ規定の下で三回目の選挙が行なわれる.
24,三回目の選挙に際してもまた過半数が生じない時は,議会の任期の継続する間,片付 けられない衆議院議員のポストのためのその選挙区の選挙権は休止する.
25,議会の任期の継続は2か年である.次のことによって選挙法の側面を掩護す(flan‑
kieren)7べきである.
1.意義などについての声明によって.
2.新聞条令(Pressgesetz)8によって.
ここで次の点が注目さるべきである.
a)検事局と(まさしく!)その機関は,国事犯や謀反の直接的扇動または統治規定に対 する暴力的反抗の場合を除いては,新聞またはパンフレットを法律上有効な判決以前に あらかじめ押収してはならないということ.
b)新聞の編集者と出版者とに対する免許の必要性の廃止.
3.電信に対する方策(Telegraphenmassregel).
注意せよ日公布と選挙そのものとの間には丸6か月の期間がおかれねばならない.」 9 思うに,以上のような原案の上にしるされた表題,,Punktationeǹ̀なる用語は,ラサール がこの原案に一つの形態を与えたのであり,彼はこの形態について,ビスマルクとの1月12日 の会談に基づいて,大臣の見解と本質的には一致していると予想したのであるとの説を真実ら しいものにしている.プロイセンにおける全ドイツ人は被選挙権を保持すべきであるというラ サールの提案にビスマルクは確かに同意したものと推定される.しかしビスマルクは,彼の閣 僚によって反対された「移動式選挙事務室」 (ambulantes Wahlbiiro)10案に暗示されている ように,非常にエネルギッシュに,政府に有利な投票権の行使を強制しようと望んだにしても, 彼が公民権の10か年間剥奪のどとき強制的脅迫について,ラサールが1月13日付けビスマルク あて書簡のなかで自画自賛したように, 「投票断念並びに投票打ち壊しの防止のための望まし い処方」を認めたかどうかは,極めて疑がわしいのである.この保守的な首相ビスマルクがラ サールの方策以上に政府に有利なもろもろの方策を胸に秘めており,彼にとって眼目であった ものは,政府がわ候補者たちのためにのみ役立つものであったということは,当然考えられる ことがらである.
それはとにかくとしてラサールは, 「将来の拡大された選挙法に与えるべき形態についてよ
りも遥かに熱情的に,この選挙法を憲法のなかに盛りこむことのできる手続き(Weg)につい
ての考えに刺激された.というのは,誰一人として,この手続きは断固として,たとえ革命の
真只中に通じるのではなくても,革命の縁を通って革命に通じているということを疑い得る者
はなかったからである. 」 ll
ラサール自身は,この非常違憲行為についてすでに久しい以前からはっきりした見解を持っ ており, 1863年10月14日の呼びかけ,,An die Arbeiter Berlins"のなかで改めて初めて説明 している. 1864年1月現在係争中の彼に対する国事犯訴訟は主として,この説明に由来してい るのである.ラサールはこの呼びかけのなかで,大要次のように論じている. 「現在のプロイ セン憲法は私には初めから不当なものと見なされる.というのは,この憲法は,同様に承認さ れた三級選挙権と同じく,当時正当に存在していた普通選挙権に基づいて選ばれなかった議会 によって承認されたものだからである.プロイセン憲法は,私自身もそのなかに数えている急 進的民主主義者の見解によると,唯の一日として正当に存在したことはなかった.この憲法は 欽定(Oktroyierung)によって導入されたものゆえ,欽定によって再び廃止され得るもの だ.このことが生ずるとすれば,普通選挙権をふくんでいた1848年4月8日の法律は自動的に ふたたび効力を有することとなる. 」 12
ラサールはこの観点に基づいて,既述のどとき1863年11月シュレスヴィヒ・ホルシュタイン 問題激化以来,事態の力がビスマルクを強制してプロイセンにおける普通直接選挙権を承認さ せることに依って,彼のアジテーションに急速な成果をもたらす方向転換を期待していた.従 って, 1864年1月12日ビスマルクとの会談に際しても,首相をこの目標の方向へ駆り立て前進 させることが彼の主要目的であった.
それにも拘わらずビスマルク自身は当時,この意図に対して必らずLも同調的態度をとった と思われない.とにかくビスマルクはラサールのこの意図について, 1878年9月17日帝国議会 において, 「私はいまだかって欽定によって普通選挙権を導入するというような途方もない考 えを起したことはない」 13と弁明している.この弁明については当然, 1850年1月31日のプロ
イセン憲法そのものはビスマルクにとって嫌なものではなかったこと,および彼にとって専ら 選挙法の変更が問題であり得た14ことが注目される.しかしビスマルクが当時,非常違憲行為
(Staatsstreich)なる言葉を口にしたにしても,本来ただ選挙法の変更だけを考えていたの である.ラサールさえさし当り,実現するにしても恐らくそれ以上のものを可能だとはほとん ど考えなかったことと推察される.ビスマルクは, 1863年10月28日の総選挙に至るまで新たな 選挙毎に非常に不愉快な議院構成をもたらしている現存の選挙権をきわめて根本的に嫌がって おり,従って時機をみて,なんらかの様式で,さらになんらかの方法で選挙権を変更したいと いう重大な問題に取りかかり始めていた.進歩党が実に圧倒的に優勢な衆議院においては,彼 の念頭に浮かんでいるような普通選挙権は,合憲的手段で実現できるものではなかった.普通 選挙権は当然,従順な多数派を政府に供給するためのいっさいの保証を彼に提供する選挙改革 によってのみ彼に役立った.
「この点について到達する結果をビスマルクはすでに(注, 1862年5月末駐仏大使としてパ
リ着任以来9月に至るまでの)チュイレリー宮殿における彼の外交的活動の折に研究する機会
を得ていた.ナポレオン三世が普通選挙権を扱ったような遣り方は確かに,ドイツにおいて民 主主義と労働者階級との社会のなかにまで普通選挙権を不評判なものにしていた.それゆえビ スマルクが普通選挙権を試みようと欲するならば,彼にはただ欽定(Oktroyierung)の道の みが残されていた.そして彼がこの意図に気をとられているということは,当時ベルリンの教 養ある人々のなかでささやかれていた. 」 15それゆえ,例えばテオドール・フォン・ベルン‑
ルディ(Theodor von Bernhardi)は,ビスマルクはすでに1863年初めヴィルヘルムー世に対 してこの提案を行なったが,そのことについて国王に冷たくあしらわれたと主張している. 16
「他のがわからもまた,ヴィルヘルムー世は,憲法に拘束されていると思ったがゆえにビス マルクに反対したということが確認されている.今やビスマルクもまた,事情が命令的に要求 していると仮定して,彼の国王の意見を変えさせようとの希望を放棄しなかったとしても,彼 はこの問題でラサールと会談している数週間のうちに,やはり国王の反対というこの障碍をま じめに計算に入れねばならなかった.ビスマルクはこのことをラサールに対しても隠しだてし なかったように思われる.少なくともWanderer̀̀のなかの有名な記事17は,首相が彼の訪 問客ラサールに,国王はみずからを拘束されたものと見なし,公然たる違憲に対して彼の同意 を決して与えることはないであろうと確信したと主張している.」18
付与(Oktroyierung,この語には「欽定」の意味もある.)の問題に対するビスマルク自身 の原則的な立場については,彼の1864年12月23日付け覚え書(Denkschriften)1*及び1866年 5月25日付け覚え書20のなかで行なわれた詳論が高度の意味を持っている.これに先立ち「内 務大臣は1864年の末ごろ選挙区制度の変更をすでに提案していた.この変更は,各選挙区に団 体的基礎を与え,個々のサークルを自主的な選挙団体として構成することとなっていた. 」 21 この局部的提案に際してビスマルクは上記1864年12月23日付け覚え書のなかで,なるほど付与 を原則的には拒絶していないが,にも拘わらず, 「衆議院の政府に味方する保守的多数派が選 挙から生まれるという比較的大きな蓋然性を,それから期待され得ないなんらかの方策を携え て法令の途上に進むこと」 22は,きわめて考慮を要するものであると明言している.ビスマル クは, 「さし当り通常の立法の道を歩み,しかも選挙区区分の変更のためのみならず,衆議院 議員の選挙に関する現存の規定の徹底的改革のために,正常の道を歩むこと」 23を一層得策で あると見なしている.注目すべきは,普嘆戦争勃発に先立つ1866年5月25日付けの第二の覚え 書の時期において事態はその点で,プロイセンが普通選挙権の実現の下におけるドイツ連邦改 革のためのイニシアティブをまさしく握ってしまっていた時, (注,普填戦争後1867年2月12 日プロイセンで普通選挙権に基づく初めての衆議院議員選挙が行なわれた. )すでに本質的に 異なっていた.
ビスマルクは1864年当時においては彼のその後の態度とは反対に, 「プロイセンにとっての
選挙人をふくむ従来のZensuswahlgesetz (租税の割当に基づく選挙法)に相対してドイツに
とってのそのような選挙法を維持することは,おそらく不可能であると見なした・1864年の初
め,独創的な国法的なもろもろの思想がビスマルクの心のなかで追いかけ合っていたころ,彼 は過渡期として,プロイセンでドイツのために選ばれた人々に同種のプロイセン代表の役を勤 めさせる可能性をも,さらに,このことが実現しない場合,プロイセンだけのために現存選挙 様式の普通選挙権‑の修正をめざして議会を召集する可能性をも考量した.ビスマルクはその ような議会においては,現在の圧倒的多数の進歩党は,たとえビスマルクが現在の議院の無効 を断固として宣言しないにしても, ‑彼にとっては,そのような宣言はもちろん合憲的では ない. ‑おのずから消滅するであろうと考えた. 」 24
さて,既述の1864年1月12日のラサール,ビスマルク会談, 1月13日付けラサールのビスマ ルクあて書簡および1月16日提出のものと推定される,,Punktationen"の内容は,すでに言 及したごとく,ビスマルクが遠くない時点で普通直接選挙権を付与しようとのプランをきわめ て熱心に考量しているという確信をラサールに与えたことを物語っている.殊に1月16日付け
ビスマルクあてラサールの手紙は,このことを明瞭に示している.
一方,ラサールは1864年1月に至ってもなお,彼に対する告訴事件のため悩まされていた.
ラサールは1863年11月3日付け警視総監ベルヌト(Bernuth)あて訴願状25の「注釈」 26のな かで膳激吐露しているどとく,名誉望損されたとするシェリング(Schelling)検事の告訴に よって煩らわされていたが,さらに1863年9月のライン流域におけるいわゆる「閲兵演説」
(Heerschaureden)が原因となって,この演説の文書がデュッセルドルフで押収されていた.そ の取調べのためのデュッセルドルフの予審判事の前への強制的拘引を避けるため,ラサールは 1864年1月21日,またもや27ビスマルクを頼ることとした.もちろんこのこともラサールのアジ テーションないし戦術の一環と見なされる.この件についてナアマンは次のごとく論じている.
「闘争の激化にとって,ラサールが困惑して,恐るべき審級順序(Instanzenweg)の道を 進んだということは特質的である. (Fur die Verscharfung des Kampfes ist bezeichnend, dass Lassalle一一).仮りにこの審級順序が実施されて成功しなかったとすれば,この審級順 序は,彼を半ば合法から非合法へと追いこんだであろう.28彼は,予審判事に対抗して司法大 臣に,さらに司法大臣から内閣全体へ頼ったのである. 」 29思うに, 「これらの訴願状のなか で,ラサールは独特の戦術を遂行している.つまり彼は,上級裁判所は逆に当該裁判所の態度 へのいっさいの干渉から遠ざかるのを望んでいたのに,下級審に対して上級審を強化してもら いたかった. (一方ビスマルクは,内閣全体あてのラサールの訴原状30を利用し尽くすことに より,内閣全体におけるビスマルク自身の権能を証明しようとしたのである. ) 」 31
そこで,ラサールは1864年1月21日ビスマルクあて書簡を出すのに先立って,その前日すな わち1月20日,司法大臣(Lippe)伯あて訴願状る提出している.こんにち遣っている「写し」
によると,その全文は次の通りである.
「閣下!予審判事の拘引状に対する迅速なる阻止を求めを緊急の請願並びに,デュッセルド
ルフのリュツェラ‑‑ (Liitzeler)王国予審判事についての訴願.
閣下,私は次のどとき又となく緊急な訴願状を提出せねばなりません. ‑
私のライン演説,,Die Feste, die Presse und der Frankfurter Abgeordnetentag̀̀のた めに,デュッセルドフの王国裁判所(K. Ratskammer)は,私に対する刑法典第100粂およ び第101条に基づく審理を開始しました.この審理において私は先ず,法規に従い,デュッセ ルドルフ裁判所の請求で当地の都市裁判所により審問を要請され,しかも結局審問されました.
私は先日突然デュッセルドルフ王国予審判事の出頭命令書の送達を受けました.この命令書 のなかで私は,追加して新たに審問期日1月18日に,しかしこのたびはデュッセルドルフへ, しかも強制的な拘引状の予告の下で召喚されました.
すでに病気によって‑さらにこの理由で当地の王国裁判所は,私に対する未解決中の国事 犯訴訟において保釈金と引換えに私を釈放しました. ‑きびしい冬に旅行に出るのを妨げら れたので,私はリュツェラ‑予審判事殿に請願書を出しました.そのコピーをここに同封いた します.
私が少なからず驚いたことには,今確かな筋から,予審判事はそれにも拘わらず私に対する デュッセルドルフ‑の強制的な拘引状を発し,それは私が閣下あてこの訴願状を書いている時 刻までにすでに当地に着いているか又は直ちに着くであろうということを聞いています.
このことについての私の訴願理由は二つであります.
I,私の見解によると,ここに現存する場合においては私に対する拘引状を決して発するこ とはできません.すなわち,刑事訴訟法第91条の第3段落によると,予審判事は,いかなる身 分の人であれ,体刑または加辱の刑を伴なう違反の嫌疑をかけられたすべての人に対してのみ ,拘引状を発すべきであり,それゆえただ刑事訴訟法においてのみ拘引状を発すべきで,軽罪 訴訟(Korrektionelklage)においてではありません.
全く同様に刑事訴訟法第94条によると,予審判事は(もし可能な場合) ,事件が体刑または 加辱の刑または軽罪投獄(emprisonnement correctionel)を伴なう時にのみ,拘引状を発す
ることができます.
それゆえ軽罪投獄は,拘引状を根拠づけるためには少なくとも訴訟の必然的な結果であらね ばなりません.
しかしこのことは現在,実情ではありません.というのは,私がそれに基づいて告発されて いる刑法典の第100粂および第101条は,事実単なる罰金で解決できるのであり,通常,慣例に 従って解決するのですから.
第91条の第1段落および第2段落もまたこの見解に少しも矛盾していません.なぜならば, 第1段落が「 (出頭)令状を彼の権限である(,,qu'il appartiendra")そのような他の令状 に変えて訊問した後を除いては』と結んでいる時,確かにまさしく,,qu'il appartiendrà̀
という言葉のなかに,なんら決定的なものはなく,私がすでに引用したかの他の規定を参照す
るよう指示しています.第2段落『もし容疑者が欠席した場合,予審判事は彼に対し拘引状を
発する』も,同様に私に適用され得ません.というのは,非常に立派な理由に基づいており私 を当地で審問させるようとの求めを伴なっている予審判事あての申し出では確かに, F欠席す るJ (,,faire defautH)と同一視され得ないからであります.
Ⅱ,しかし人がまた,予審判事はきわめて頻繁に審問したり,拘引状を発することができる と仮定しようと欲するにしても,やはりそのために,デュッセルドルフと当地との距離が非常 に大きく,その告発は,その上たいてい罰金になるだけのそのような告発である場合,予審判 事はこのことを為すべきではありません.そうではなくて,このような場合予審判事は,すで に10月におけるこの訴訟32においても審問がそうであったように,妥当な方法で請求によって 審問を始めさせねばならないでしょう.
容疑者に対し,ここから1回, 2回, 3回の審問のためデュッセルドルフへの旅行によって 50, 100, 150タ‑ラ‑の費用をかけさせ,一方有罪の判決そのものはたいてい僅かに法貨50ク ーラーになり,またはなり得るので単なる審問よりも少ない扱害であるということは,閣下に は非良心的なことと見なされませんか.
私は閣下に対し,以前予審判事白身によって選ばれた,請求により私をベルリンで審問させ るという道を放棄して,突然選ばれた,デュッセルド7‑の出頭命令および拘引命令のこの計 画は,私への進歩党の憤怒と迫害欲を彼の根拠としているということを主張しようとは思いま せん.私はこのことについて見解を立てることを閣下ど自身に任せます.しかし私はいずれに せよ,かの拘引状のなかには,上述の事情の下では,たとえ職権の法的濫用はないにしても事 実上の渡用があるということを主張したいのであります.
閣下は国家における訴訟指揮の最高の官憲であり,刑法典第57条によると予審判事の最高長 官であられるゆえ,私はそれに相応して閣下に対し次の提案をさし向けます.
I,前記の拘引状に対する禁止の最も好意的な最も迅速な命令授与,たとえば当地の当該裁 判所および警察の官憲の仮通告について.
Ⅱ,王国予審判事の,事情の上からきわめて不適切な処置に対する同判事あて適切かつ断固 たる叱責を加えることについて.
敬具F.ラサール」33
以上の1月20日付け司法大臣あての訴願状に引き続いて,ラサールがその翌1月21日付けビ スマルクあてに出した請願書34は次の通りである.
「閣下,私がただいま司法大臣殿に送っている,写しとして同封した訴願状から,結果とし て単なる罰金に帰する訴訟(それは私のライン演説のためであります. )において,進歩党に 熱狂しているデュッセルドルフの予審判事が,これまで彼が為したところでは,要請によって ベルリンで私から聴取させる代りに,審問のために私を強制的にデュッセルドルフへ拘引させ ようと欲しているということをど推察下さい.
それは,詳適して同封しましたように,私はそのような訴訟での審問期間のためにデュッセ
ルドルフへ旅行するのとは全く別のことを為さねばなりませんので,いかなる場合にも決て屈 従しない純粋のchikane (注,英語.トランプのbridge遊びで,切札の一枚もない手に当
った人に与えられる点. )であります.
それにも拘わらず,司法大臣段が禁止令を直ちに与えない場合,拘引状はすでに当地に在る か又は今にも到着するにちがいありませんので,あるいは当地の当局が指令を受け,問題は, 非常に不快な結果となることもあり得ます.それゆえ私は何卒リッペ伯爵殿と最も迅速にど相 談下さいますよう願います. ‑
閣下が先日届いた原案を改めてお調べ下さるとすれば,私はお知らせをお願いし,同時に, これまで単に暗示していた電信に対する方策35を失礼ながら閣下に一層くわしく説明いたすで ありましょう.この方策はいづれにせよ最高の重要性を持っています.
敬具F.ラサール」36 以上の手紙に対してビスマルクがどんな処置をとったのか,具体的なことは不明であるが, 後述することがらから推して,司法大臣あて遅くとも1月29日までになんらかの連絡をしたこ
とだけは確かである.
司法大臣リッペは1月24日, 1月20日付けラサ‑ル書簡に対し以下のどとく,直接みずから これに介入することを避けた,いわば逃避的な回答をしている. 「写し」によると,その全文 は次のどとくである.
「本月20日付け貴下の訴願に対し次のどとく通告します.デュッセルドルフのリュツェラー 予審判事が,貴下の報告のように,貴下に対してデュッセルドルフ審問局において刑法典第 100粂および第101条に基づき,係属中の審問において出頭命令を発した時,ライン地方刑事訴 訟の規定に従って容疑者の審問は通例,審問に携さわっている予審判事によって行なわれるべ きであり,請求された裁判所によるかかる審問が適当と見なされるかどうかは,いづれにせよ, 彼の義務に従った考慮と決定に任せられている場合,同判事についての訴願にはなんらの理由 も存在しない.出頭命令(mandat de comparution)の布達は,刑事訴訟法のここで単独 に決定的な第91条の第1段落に一致しており,欠席(defaut)の場合の拘引状(mandat d'amener)の予告並びに布達は,同条第2段落に一致している.それに基づいて貴下を召喚 している第91条の第3段落は,犯罪の告発に際して,前もっての出頭命令なくしての拘引状の 即刻の布達を規定しているが,それによって,あらゆる処置に際して容疑者が出頭命令に決し て服従しないという場合に対する拘引状の布達を規定している第2段落と決して矛盾しない.
第94条と第91条の最後の1段落が宣言している,そして通例容疑者の審問後初めて発すべき, 逮捕状(mandat d'arrst)または拘引状(mandat de depot)の布達については,現在問題は
ない.
貴下が出頭命令によって日取りを決められた期限に欠席したことを,本年1月12日付け貴下
から予審判事にあてられた書面によって,この書面の写しを貴下の訴願状に添付されたのと同
じく,適当な十分な遣り方で正当化されたのだということもまた,承認され得ない・
貴下自身によって引用された刑事訴訟法第57条によると,予審判事は第一に首席全権委員 (Generalprokurator)の監督下に在り,貴下の訴願を首席全権委員に提出すること,または予 審判事の処置に対して適当な上訴を行なうことは,貴下に任せておかねばならない・
司法大臣伯爵リッペ」37 そこでラサールは1月28日さらに司法大臣あて次のどとき訴願状を提出している・その「写 し」は次のごとくである.
「拘引状に対して執られた取消し請求に関する最終的決定まで拘引状執行の最も迅速な停 止についての緊急の訴願
閣下は私に対し,先ず第‑に王国首席全権委員への依頼は,刑事訴訟法第57条に基づいて私 のことがらであると回答された.この依頼は,私が遠隔に在り,拘引状はいつの日にでも執行 され得るものだから,得策ではないと思っていたものであります.
閣下の回答のために,また今や拘引状も当地の裁判所に着いているので,私は直ちにケルン に在る王国首席全権委員に,かの拘引状の取消しを求める,証拠を述べた訴願を提出しました・
ここに当該の郵便物受取証を添付します.
私はいま閣下に対し,正規の審級順序による事件の最終的決定まで拘引状の執行を停止して 下さるよう切にお願いいたします.
しかし私は閣下に対し,今にも拘引状の執行が行なわれ得ますから,私‑の好意あるご回答 を最も迅速に与えて下さるのと同じく,当地の官憲に適切な指示を発して下さるようお痛いい たします.敬具F.ラサー」38
ラサ‑ルの訴願状に対する1月31日付け司法大臣の回答(写し)は次のごとくそっけないも のあでった.
「貴下に対しデュッセルドルフの予審判事から発せられた拘引状に関する本月28日付け貴下 の訴願に対し,司法大臣は,貴下に対して係属中の審問の法的経過に干渉できないことをくり 返し通告いたします.
司法大臣伯寄リッペ」39
これに対しラサールは1月31日付けで司法大臣あて,さらに粘りづよくしかも理路整然とし た文面の訴原状を提出している. 「写し」によると,その全文は次のどとくである.
「ケルンのライン地方公訴院(Rheinischer Anklagesenat)の決定まで予審判事の拘 引状に対して禁止令を与えるよう求める緊急の訴願
閣下,私は,予審判事の拘引状に対する本日の閣下の回答のために私が予審判事の拘引状の 取消しを求めるケルンのライン地方公訴院に対して執った訴願に関する書留の郵便物受取証を 同封のうえ恭んでお届けいたします.
閣下が第57条にも拘わらず王国首席全権委員がやはり拘引状を取消す権限を有するものと見
される時,いずれにせよケルンのライン地方控訴院(Rheinisher Appellationsgerichtshof) の公訴院はこれに対して権限を有する官庁であります.
というのは,予審判事は,このことに依って最高のものではあり得ません.予審判事の処置 に対してなんらかの抗告はさし支えないものであります.メルラン(Merlin,注. Philippe Antoine, 1754‑1838‑総裁政府治下で刑法を編集. 1801年以来最高法院検事総長.王政復古 で亡命. )の予審判事目録第16巻P.128と,同所を引用している1822年8月1日のパリ破棄 院の判決をど参照下さい,
それゆえ私は関下に対し,ライン地方公訴院あて拘引状の取消しを求めたこの法的手段に基 づいて,ライン地方公訴院の決定まで拘引状の執行に対する禁止令(Inhibitorium)を出して 下さるよう恭んで請願いたします.
私は,禁止令はなんら『審問の法的経過への干渉』ではなくして,逆にただ,最終的な,そ の実施後もはや取り消されない処置に対抗して執られる法的手段が持たねばならない法的な停 止効果のみを意味しているということを,はっきりと申述べます.
事件の切迫した性質に鑑みて最も好意的な即刻の決定をお願いいたします.
敬具F.ラサール」40 しかしこれに対する司法大臣からの回答は,またもや至ってそっけないもので,しかも遅れ て2月5日付けとなっている. 「写し」によると,その回答はごく簡単に次のどとくである.
「本年1月31日付け貴下の訴願に対し,‑2月2日現在では,貴下に対し本年1月31日付 けの私の処置を参照されるよう指示するだけであります.司法大臣伯爵リッペ」 41 ラサールは一方,司法大臣あての第二回目の訴願の翌日,すなわち1月29日さらに,知り合 いのツィーテルマン(Zitelmann)参事官あてに次のような手紙(オリジナル)を出して,司 法大臣による拘引禁止令を求めている.
「ただいま警官オットー(Otto)氏がやって来て,この間司法省の官房から訴願申入れの証 明が到着しているにも拘わらずまた私によりすでに以前にベルヌト氏に送付された医師の証明 書にも拘わらず,ベルヌト総監殿によって私はやはり今夜強制的にデュッセルドルフへ移送さ れると言明しました.
非常に重大な突発事件が生ずることがあり得ますので,何卒司法大臣殿の禁止令を直ちに得 られますようお願いいたします.
勿々(Eilighst)42 F.ラサール」 43
上記のラサール書簡と同じ1月29日付けで警視総監ベルヌトがビスマルクにあてた次のよう な簡単な文書の写しが遣っている.
「ベルリン, 1864年1月29日,命により今日のところラサールの移送を中止します. 」44
その翌1月30日付けベルヌトからビスマルクへあてた次のような同じく簡単な文書の写しが
遣っている.
「ベルリン, 1864年1月30日,ラサールは裁判医により旅行不能と診断され,移送は行なわ れません. 」45
以上の文書によって,ラサールに対する拘引状についてビスマルクから司法大臣‑の執行中 止の指示があったことが推定される.しかしこの点についてラサールは未だ疑念を懐いていた ことは,次の手紙によってはっきり断定される.すなわち,目付けはないが,上記ベルヌト文 書の写しと同じく1月30日(土曜日12時,ベルリンにて. )と確定できるラサールのツィーテ ルマン参事官あての次のような文書(オリジナル)が通っている.
「拝啓私がすでに昨日聞いたところでは,司法大臣はなるほど禁止を指令したが,大臣の 回答は未だ到着しません!大臣あての訴願の結果ではなく,この訴願は延期の効果を及ぼさね ばならないにも拘わらず,ベルヌト氏はこの訴原を顧慮する決心をしないまま,私は専ら医師 の証明書のために末だここに屠るのです.証明書がなかったら,私はすでに昨夜デュッセルド ルフへ連れ去られていたでしょう. ‑司法大臣はやるとすれば,おそらく今日中に処置の禁 止を指令することでしょう!!
あなたは,私に(mich)46忍耐を要請しているが,忍耐すべきはむしろ警察であります.
私はもう一度切実に,司法大臣のがわで禁止令を速めることを願います.私は首席全権委員に 向ってこの拘引状の取消しのための正しい道を選んでいるのだから,大臣は確かに決して拒絶 することはできません.
敬具F.ラサール」47
上述のどとくラサールは拘引状の件に悩まされてビスマルクや司法大臣の尽力を頼みつつ, 一方では同時的に,ドイツ・デンマルク戦争がまさに勃発しようとして, (注. 2月初め勃発)
これに伴なう情勢の急変48に際し,最終的に,普通直接選挙権導入のために,ビスマルクを相 手に,全くいちかばちかの賭けを試みたのである.すなわち,ハIyツフェルト伯爵夫人の手に
よる「写し」としてのみ存在している文書であるが,ラサールは1864年1月末か2月初めビス マルクと会談して即日,一種の痛切な悲しみさえ催おす目付けなしの手紙(1864年1月未か2 月初めベルリンにて. )のなかで,首相に普通直接選挙権の付与を,やはり戦争前に行なうよ
う切願した.その手紙の全文は次の通りである.
「閣下!閣下が余りに忙がしそうに見えたので私が続行するのを真に欲しなかった今日の
会談は,私を強制して,空想的と見なされる危険を冒して,閣下が尊重されるであろう,また
閣下に役立つと思われるであろうところの,もういちど私の魂の底から響き出ている警告を行
なわせます.閣下は普通直接選挙権を戦争前に与えねばなりません(mussen) ,49というのは,
閣下は戦争中にも戦後にもこの選挙権を与えることは出来ませんから.戦争中には与えること
はできません.というのは閣下自身が認められたように,この選挙権を戦争中に与えること
は,弱体の印しとなって現われるでありましょう.そして人々はこの選挙権について閣下に感
謝する代りに,ただ閣下に反対する立場に変るでありましょうから.
戦後にも与えることは出来ません.私は沢山のその理由のなかからただ一つだけを挙げまし ょう.閣下は,欲していられる総てを平時にはなぜ出来られるのか.すでに昨年5月私は閣下 に対し,対外戦争が起らない限り,我々の国土は最悪の絶対主義さえも甘受するであろうとい うことをなにゆえ認めたのか.私は閣下に対し.最悪の絶対主義は最初の戦争によって崩壊す るであろうとなにゆえ言ったのか.50
平時には個人的生活の利害が徹底的に優位を占め,国民の気分を無頓着主義にして,情勢は 閣下の欲していられるどとくであり得ましょう.
ある期間の,ある範囲のいっさいの戦争によって,全く反対の気分が生じます.全く異なっ て高められた雰囲気がつくられ,公共生活の熱情が今や平時における個人生活の熱情と同様に 支配的となります.
その後生ずる国民のこの公共的気分(offentliche Stimmung)紘,新聞のいわゆる「世論」
(,,offentliche Meinung‖)と混同されるということは徹底的に許されません.
閣下がこの国土に対し閣下の現在の消極的態度をとっていられる限り,この気分を起させよ うと欲することは,私には冒険的以上のものに思われます.閣下は戦後にはもはや選挙権を与 えることは出来ないでありましょう.というのは,戦争がいくらかの期間といくらかの範囲と をもった戦争となる場合,すでに戦争中に暴動と反乱とが勃発するでしょう. ‑そしてこれ を防止することは,誰に対しても天命として与えられていません.閣下がこれを仮定し承認し, 軍事力をもって暴動・反乱を征服してさえも,新たに市民の血が流されるやいなや事態の全 発展は変化し,閣下によって欲せられたものは不可能となります.二つのがわから.その場合 閣下の人柄のなかに流血の原因を認めて閣下を辞職させるか,それとも,このことが起らない 場合,もはや勧めて普通選挙権に頼らせることの出来ない国王のがわから.なお一層大いに国 民のがわから.というのは,初めて新たに市民の血が流れると,国民感情によって閣下の政府 との,さらに王国とのいっさいの結びっきが一般に不可能となり,歴史はおそらく決して迅速 ではないが宿命的な経過を辿るでありましょう.
私はくり返し言いますが,政府に対する現在の嫌悪が依然として国民のなかに存している限 り,我々が僅かながらいくらかの期間といくらかの範囲とをもった戦争を行なう時,これらの 反乱が起るでしょう.
事態は,それからその暗いあらかじめ決まった経過を辿るでしょう. ‑そして私がおそら く責任があると感じている唯一の幻想は,できたらこれらの悲しむべき経過を避けようと願い 企てることであります.
私はこれ以上言えませんが,閣下は,ここであらかじめ述べられたことが,私のきわめて悲 しむべき満足ではあっても,生じて来るのを見られるでありましょう.
人々は死後に備えて,出征する前に家事の整理をします.
閣下は普通直接選挙権を付与されるでしょう.さもなくんばもはや決して付与されることは
ないでしょう!
この請合いに対し私は.これまでいくらか誇るべき理由を持っている私の歴史的洞察力の栄 誉全体を賭けてさし支えないと信じます.敬具F.ラサール」 51
ラサールがビスマルクに以上のような我々にとって感銘ふかい警告を向けたその同じ日に, 既述のどとくすでに二人の間の,文書によって証明し得る限りの最後の会談が行なわれていた・
思うに,ラサールの上記ビスマルクあて書簡が示すように,ラサ‑ルはたとえ,当時における 近い将来についてつねに思い違いをしていたにしても,我々は,その後のドイツ並びに広くヨ ーロッパ労働運動史上における深い感動を与える諸事件によって,この偉大な民衆の友ラサ‑
ルの歴史的洞察力を認めざるを得ないのであり,なおまた仮りに,我々がこの最後の会談にお ける意見交換並びに上記ラサール書簡のビセマルクに対する反響についての真相を知ることが できたとしたら,いかに興味ぶかいことであろう.しかしこの点について史料が欠けているた めに,この会談の内容・経過を再構成して陳述することは下可能に近いのである.ただ, 「こ の会談はドイツ・デンマルク戦争勃発の前E=こ行なわれたものだと設定することができ,また この会談において,シュレスヴィヒ・ホルシュタイン問題についての問答が行なわれたことも 容易に推定できる‑.なおまた,場合によっては,この会談の機会にビスマルクにより,
シュレスヴィヒ・ホルシュタイン問題は,まさしくプロイセン選挙法の改正と全く同様に, ドイツ連邦改革の途上においてのみ解決されるという真実のアクセントをおびた発言が行なわ れたかも知れない. 」 52いずれにせよラサールは,付与を急き立てることによっても,今では もはやビスマルクのがわになんら共鳴的な反応を見出すことはできなかったと言うことができ る.そしてこの失敗がラサールの心にいかに激しい衝撃を与えたかということは,ラサ‑ルの 上記書簡につづくビスマルクあて2月1日付けの,付与について一言も触れていない彼の訴願 状(オリジナル) 53が,そのため一層感慨ふかくこれを暗示している.
ラサールは既述のどとく確かに,彼の政治的綱領の眼目の実現に非常に近づいていると信じ ていたので,くり返して強調すべきであるが,ドイツ・デンマルク戦争がまさに勃発せんとす る時に当って生じた反動は,彼に深い幻滅を感じさせた.それにも拘わらずビスマルクに対す るラサールの個人的な仲は,二人の会談の結末によってさし当り影響を受けなかった.前にし るしたどとく史料欠除のため残念なことながらラサール,ビスマルクの最後の,証明できる会 談の目付けをも,従ってまたラサールが同じ日に首相あてに書いた手紙の目付けをも正確には 決められていないのである.色々の点から綜合して,目付けを1月末日だと仮定すれば,ラサ
ールは次の過(2月7日)においても先週におけると同じく,ビスマルクに対し書面54によっ て,警察についての叉司法についての助力を求めることを躊躇してはいないことが認められる.
すなわち,ラサールは例の拘引状問題について2月7日に至ってもなおビスマルクの動きを知
らず,拘引を禁止するようビスマルクに訴願し, 「おそらくビスマルクのおかげによって」 55
結局この目的を果たしたのである・あお,ドイツ・デンマルク戦争勃発後の両者の関係につい
ては稿を改めて詳しく論述したい.
読
1この点については, Paul Wentzcke und Julius Heyderhoff, Deutscher Liberalismus im Zeitalter BismarcksのなかのRobert von Mohlあて1864年1月8日付けHeinrich von Sybel書簡(Eine politische Briefsammlung, Bd. I, Die Sturmjahre der preussisch‑
deutschen Einigung 1859‑1870, bearbeitet von Julius Heyderhoff 1925, S. 208)参照 2おそらく現代におけるラサ‑ル研究の第一人者たるテル・アヴィブ大学教授Shlomo Na'aman,
Lassalle (1970, Verlag fur Literatur und Zeitgeschen, Hannover,以下,,Naaman"と略 す)S.701
3 20世紀前半におけるラサール研究四大家の一人Gustov Mayer, Bismarck und Lassalle, Ihr Briefwecchsel und ihre Gesprache (1928, Berlin u. Stettin, verlag T. H. W. Dietz Nachf.,以下,,Bismarck und Lassalle"と略記する.) S. 80
4 ibid.S.81
5ナアマンは, 「急いで送り届けた」 (in Eile einschikte) (Na'aman, S. 701)と述べているが, 前後の事情から察して, 「手渡した」が,正確だと思われる.
6 Franz Stein, Bismarck‑Jahrbuch, Bd. [V, (1899) S. 166のオリジナルに基づいた写しによ る. (Bismarck und Lassalle, S. 81f.)
7マイアーによると,オリジナルには二行のアンダーラインが引かれている.
8マイアーによると,ラサールによりアンダーラインが引かれている.
9 Bismarck und Lassalle, S. 82 ff.
10 ibid.S.36 ll ibid. S.41
12 ibid. S. 41, Cf. Eduard Bernstein編Ferdinand Lassalle Gesammelte Reden und Schriften 12 Bde. (1919, Berlin, Paul Cassirer版) Bd. IV, S. 41
13ロストク大学教授Wilhelm Schiisslerら編, Otto von Bismarck Die gesammelten Werke 15 Bde. (1972, Berlin) Bd. ll, S. 608
14 Cf. Richard August, Bismarcks Stellung zum parlamentalischen Wahlrecht, (1917, Leipzig), S. 43
15 Bismarck und Lassalle, S. 42 16 Cf. Richard August, ibid. S. 44
17ウイ‑ンで刊行されていた,,Der Wanderer"の1869年6月17日付け(Nr. 166)の記事をさす.こ の記事は,元ウィーン大学教授Carl Griinberg (1940年穀)編, Archiv fur die Geschichte des Sozialismus und Arbeiterbewegung 15 Bde. 1966, Stuttgart, Verlag W. Kohlhammer 再版, (以下,,Griinbergs Archivと略記する.) Bd. IV, S. 90‑99に載っている, 20憧紀前半にお けるラサ‑ル研究四大家の一人Hermann Onckenの報告,,Publizistische Quellen zu den Beziehungen zwischen Bismarck und Lassalle"の一部分として, ibid. S. 95‑99に載って いる・この記事のなかに次のような個所がある.ラサールの二回目のそして最後のビスマルク訪問は 1864年夏に行なわれた. (この叙述は誤りであるibid. S. 98 Anm.)‑・・‑. 『しかし(オースト リアとの)この戦争は不可避であり,とにかく晩かれ早かれやって来ます.』とラサ‑ルが言った.
『もちろん起り得ることだが,我々が自国内で依然として衆議院と戦争をやっている現在,我々にと
ってそれは不可能です・』とビスマルク氏が言った・ 『では普通直接選挙権を付与(oktroyieren)
して下さい.こそしたら進歩党はやっつけられます.』 『そうですが,同時に憲法に対する誓約を破っ
たと言われます.』 『 (現在の)憲法は法律上有効ではなく,誓約は拘束力がありません.』とラサー
ルが答えた. 『しかし国王は拘束されていると思っていますので,公然たる憲法違犯に対し決して彼 の同意を与えることはないでしょう.ドイツ連邦改革の途上においてだけ,この問題とシュレスヴィ ヒ・ホルシュタイン問題とは解決されます.』一一.」 (ibid.S.98).なお,ナアマンは, 「ヘルマ ン・オンケンさえも,まさしく信頼できないジャーナリズムの文献を考慮に入れた・」 (1962年 Hannover, Verlag fur Literatur und Zeitgeschen発行,,Archiv fur Sozialgeschichtè̀
Jahrbuch der Friedrich‑Ebert‑Stiftung Bd. II, S. 55‑85に掲げられたナアマンの論 文,,Lassalles Beziehungen zu Bismarck ihr Sinn und Zweck"サブタイトル,,Zur Beleuchtung von Gustav Mayers ≫Bismarck und Lassalle≪"一一以下この論文を
,,Beleuchtung"と略記する‑S. 56)と言ってオンケンを批判し,さらに「,,Der Wanderer"
のなかの記事のごとき極めて空想にとんだ叙述の引用は, E.ベルンシュタインによって全く不当に も非難されなかった.」 (ibid. S. 56)と言って,ベルシュタインをも批判している.
18 Bismarck und Lassalle, S, 43
19初めての公式提議と思われるビスマルクの意見発表(Votum) ,すなわち「衆議院議員の選挙につい ての現在の規定の徹底的改革」 (ibid. S. 35)
20ビスマルクが彼の閣僚に対して提示したもの. Acta generalia betreffend die Bildung des Hauses der Abgeordneten, Bd. Ill, Abt. A, Titel V[II(Preussisches Staatsministerium) 21 Bismarck und Lassalle, S. 43
22 1864年12月23日付けビスマルク覚え書の用語(ibid. S. 43) 23同じく上記覚え書の用言吾(ibid. S. 43)
24 ibid.S.44 25 ibid. S. 65‑77
ibid. S. 70 f. Anm.
27本稿の冒頭に触れたゾ‑リンゲン電報は,ラサールによるビスマルク依頼(又は利用)の典型的な例 である.
28 「‑‑・彼を半ば合法から非合法‑と追い込んだであろう.」という言葉は,同年2月5日付けラサー
ツツ
ルのビスマルクあて書簡の追伸のなかの「‑‑保護を加えて下さらなければ,私は断固として立て銃 の姿勢をとり,事態の欲するがままに成り行きに任せます.」 (ibid. S. 105)というラサールの決意 に暗示されている.
Beleuchtung, S. 77
30全内閣あての公式の訴願状の現存しているオリジナル(Bismarck und Lassalle, S. 90‑96)は, 実は, 1864年2月7月付けとなっている.そしてこのオリジナルには, 2月5日付けラサ‑ルあて司 法大臣回答書(ibid. S. 102)の内容の批判をも含まれている.それゆえ, 2月1日付けビスマルク あて訴願状と「同時に閣下の手許に送付された,王国の全内閣あての公式の訴願状」 (Cf. ibid. S.
89)の内容は, 2月7日付けのものとは少なくともいくらか異なっていたものと推察される.
31 Beleuchtung, S. 77
32ラサ‑ルは1863年10月12日,第二審の判決で罰金となった(Na'aman, S. 868) Bismarck und Lassalle, S. 97 ff.
34この手紙については,オリジナルのほかに,ハッツフェルト伯爵夫人の手になる「写し」が存在して いる. (ibid. S. 85 Anm.)
35ラサールは,既述のどとく,ビスマルクあて書簡のなかでこの方策についてすでに言及しているが, この方策は,すでに触れた男ラサ‑ルの,,Punktationen"の最後の「選挙法の側面を掩護するための 第3項目」をさしており,その具体的な内容は,ナアマンによると, 「おそらく通信事務の国有化を 意味していると理解される.」 (Beleuchtung, S. 68)
Bismarck und Lassalle, S. 85 37 ibid.S.99f.
ibid. S. 100 f
ibid.S.101 40 ibid.S. 101f.
41 ibid. S. 102