ルドルフ・ブーフナー
「1871年の敗北に対する
フランスの精神的反動」について
田中友次郎
独仏戦争後第一次大戦勃発に至るまでの欧州国際外交発展史上顕著な‑事実 は,フランス人の対独復讐心がいかに強烈かつ持続的であったかということで ある.それは次の一・二の例によっても明らかに感知される処である.例えば 名著「耶蘇伝」で知られる宗教史家ルナン(Renan)教授は, 1871年の書簡 のなかで次の如く痛論している. 「我々のこの不快なる歴史をして出来得る限 り急速に終らしめよ.我々は,唯今いっさいを譲歩してもよい.平和条約に署 名してもよい.然しながら死に至るまでの憎しみ.たゆみなき用意.たとえロ シアのあらゆる要求に対する無制限的譲歩を伴うにしても同盟を結べ.唯一の 目的.生に対する唯一の衝動.ゲルマン民族の塞滅」.(注1)また例え ば,第一次バルカン戦役交戦国間調停のため, 1913年初め駐ロンドン大使会議 が開かれていた当時, 2月25日付ロシア大使ベンケンドルフ(Benckendorffj の本国宛報告は,フランスの好戦的態度を次の如く強調している. 「すべての 列強のうちフランスのみは戦争をロにするを欲せず,それにも拘わらず大した 遺憾の念なくして戦争を眺めることが出来るであろうということは,私の確信 である. ‑‑・ (このロンドン会議において)私が観察し得る限り情勢は,すべ ての列強が平和のためにほんとうに尽力しているということである.然しなが ら総ての列強のうち,戦争を又とない平静さを以って引受けるであろう処のも のはフランスである」.(注2)思うに,第一次大戦前独仏間外交史の発展は,
「1871年の敗北に対するフランスの精神的反動」の把握を抜きにしては,その 内面的真相を絶対に捉えることはできない.ここに紹介せんとするウユルツブ ルグ大学教授ルドルフ・ブ‑フナ‑博士(Dr. RudolfBuchner)の論文,,Die Geistige Reaktion Frankreichs auf der Niederlage von 1871〃(注3)は,
この意味において我々にとって極めて貴重なかつ興味深き成果である.なおブ
‑フナ‑のこの論文は,その副題として,,zu einem Buch von C. Digeon"
と断ってある如くに, 1959年パリで刊行されたクロード・ディジョンCClaude Digeon)著「フランス人から観たドイツの脅威」
(La crise allemande de la pansee frangaise. 1870‑1914)の紹介批 判を中心にその論旨を進めている.その内容は,この論文の題目から予想され た以上に綜合的包括的であり,着眼が斬新独創的で啓発的である.私はブーフ ナ‑の本論文をその内客に従って,序説2節,本論9節および結論にまとめて 以下にその大要を紹介することとする.
序説
① 1871年敗北のフランスに与えた史上まれなる精神的ショックと,このショ ックの投じた諸問題への回答の多様性。 ‑
「おお,よき敗北よ. ‑・‑・災厄よ祝福されてあれ. ‑・‑・我々はその生みの子 だ.」‑
ロマン・ロラン(Romain Rolland)の小説,,Jean ChristopheHのなか で,フランス精神の代表者オリヴィエ(Olivier)青年は,そのように叫んで いる.何となれば敗北というものは,エリートたちを新たに鍛え上げるからで ある.オリグィ工の言葉の底を流れているものは, 1866年生まれのこの作家の 幼少時代の体験である.実際,一国民が, 1871年のフランス人以上に敗北を深
く感受し精神的にこの敗北と激しく対決したことは稀であった. 1814年および ユ815年の敗北については,フランスを敗北させるためには欧州の一半の同盟を 必要としたのだという意識が慰めとなった.然るに, 1870/71年の戦争はフラ ンス人の‑隣国人に名を成さしめた.ベルリン攻略をめざした1870年7月の対 独宣戦の興奮につづいて, 1792年4月の対墳宣戦の如く祖国を「侵略」から解 放せんとのいっさいの必死の試みが,ドイツ人の軍事的政治的強力さのために 失敗した時,苦しい覚醒が現われた.そしてフランスは殆んど戦勝国の諸条件 に従って平和条約を結ばねばならなかった.それは,・最大の影響力を有する心 理的ショックであった.このショックの投じた諸問題は, 10年間にわたりフラ
ンスの最高頭脳の所有者たちの心を奪った.我々を打倒したドイツ人とはどん な民族なのか.ドイツ人の本質,ドイツ人の思想,ドイツ人の感情は我々のそ れらとどんな違いがあるのか.ドイツ人の優越は何に基づいているのか.我々 はドイツ人から何を学ぶことができるか.何を学ばねばならないのか.我々は
いつの日にドイツ人に遜色なきに至るのか.我々はいつ失ったものを奪いかえ すことが出来るのか.これら諸問題への回答は,極度に様々な結果となった.
すなわち,各人の育って来た精神的素姓と政治的傾向とに従って異なっている が,然しながらまたこの両者を生ずる世代(Generation)に従って異なって いる.もろもろの回答は,相互に無関係に存在するのではなく,また1871年か ら1914年に至る半世紀たらずの政治的諸事件と無関係に並存するのでもなく, 衝撃と成果, 「挑発」と「応答」, 「命題」と「反命題」との対立のなかに発展
した.
(2)これらの回答の,複合した捉えがたい推移の全体的叙述‑近代史理解の 鍵‑揺,デイジョンの「フランス人から観たドイツの脅威」における, 国民的心理の動力学的把握により始めて企てられた。 ‑
我々はこれまで,この複合した捉えがたい推移の全体的叙述を手に入れては いない.例えば,ジーブラ(Ziebura)の「1911‑1914年のフランス世論にお けるドイツ問題」 (1955)の如き科学的価値を有する個別的研究が行なわれて いるに過ぎない.さて,フランスの一流・二流・三流の文学作品および七つの 指導的な評論雑誌の文学的政治的時評においては,実際に全体としての精神生 活が‑それがある他の国土におけるよりも遥かに多く反映している.何とな ればフランスにおいては,他の国土におけるよりも一層濃厚に精神生活と文化 生活実に政治生活そのものが文学生活であるからだ.そこで,私の知っている 限りの第一の偉大な試みのための本,すなわちある決定的問題に関する論争を 通じて,一国民全体の国民的心理を,半世紀近くにわたる殆んど総てのその色 合い,潮流および傾向において,実に静力学的偉大さとしてではなくその動力学 において,つまり時代の諸事件によって惹き起されたる凡ゆるその変動性にお いて把握し説明せんとの試みのための著述が生まれている. ‑要するに,従 来ほとんど企てられなかったが19世紀および20世紀史にとっては欠くことの出
来ないような,文学的衣装をつけた歴史的民族心理学が問題である.こうした 歴史的民族心理学なくしては近代史を理解することはできない.フランス革命 が民衆を政治的なものとなして以来,エリートたちのみならず全体としての民 族もまた拠ってもって歴史的推移に回答するところの心理的諸反動が,再び急 変して政治的行動となっている.すなわち,これらの心理的反動は,その認識 なくしては更に立入った歴史過程を理解しないままで留まるところの動因とな
っている.
本論
①同書第2章‑ 「現実逃避」の文学たる「愛国的」文学に基づく1870年以 来の邪悪なドイツ人映像,および1919年以後のドイツにおける現実逃避の
フィクション,スローガン。‑
徹頭徹尾根本資料から汲みとられたディジョンの豊富な材料については,暗 示的描写さえ不可能であって,特に重要な点を二・三摘出するに止める.第2 章は, 1870年以来の年代の芸術的にたいてい全く価値のない「愛国的」文学か ら,ドイツ人兵士の,一般にドイツ人の映像を,今日フランス国民に映ってい る如くに描写している.それは,またとなく邪悪なものとして画かれ,ゆがめ られている全く感動的な映像である.ディジョンの描写は細目にわたり,ドリ ンゲンベルクの学位論文「1870!71年独仏戦争におけるフランス人から観たド イツ国映像の変化」(注4)に対しても多くの補足を行なっている.然しディジョ ンは,これらの文学を正しく理解している.すなわち,これらの文学は,現実 洞察を求める努力から発しているのではなくして,現実から逃避せんとの願望 から発している.それは一種の逃避文学(eine literature d′vasion)である.
この文学は「国民的規模の恐るべき劣等感」から説明される. 「これらの愛国 的虚構」は社会的機能を有している.すなわちそれは,傷をいやすこと,病人
の気をまざらすことである. 1919年以後のドイツは,より少ない程度において ではあるが同じことがらを体験した.すなわち,傷をいやし,政治的故障,従 って精神的故障を自ら慰めんとの同じ願望から,ドイツ人が打明けることを欲 しない一層苦しい現実の心理的もみ消しのために,陰険なフィクション,さら
に「戦場で負けるな」というスローガンが生まれたのである.
㊤ 1870年まで支配的であった,純精神的なドイツに対する好意的理憩化を含 んだスタール夫人のドイツ観は,その後も抹殺されず,むしろ夫人のドイ
ツ観に対し,圧倒的に否定的なドイツ観が対立した。 ‑
精神的に比較的要求の多いジャーナリズムにおいてもまた,これに似た事象 が生ずる.実質上1870年まで依然として支配的であった,純真な情趣ゆたかな 純精神的なドイツの好意的理想化を含んでいるスタール夫人(Madame de Sta61. 1766‑1817)のドイツ観(荏.,,De l′Allemagne." 1810)は,精神的 なもの,政治的なもの,そして物質的なもの(経済的なもの)の三者がそのな かにおいて斉しく綜合観察されたる,よりよい精選されたドイツ観に取って代 られてはいない.むしろフランス人は,常に幻影であるかそれとも何れにせよ 時代遅れである処のこの映像すなわちスクール夫人のドイツ観に,しばしば, 全く圧倒的に否定的な映像を対立させている.例えば訊刺画家フエダン
(Feydan),作家サン・ヴィクトル(St.Victor)の如きがそうである.殊 にカロ(Caro)を初めとする多くの人々の解釈,すなわち,スタール夫人と カントとの夢幻的道徳的なドイツと,フランス人がヘーゲル,ビスマルク,プ ロイセンと同一視してい残酷な権力欲・征服欲にもえたドイツとの二つのドイ ツが存在するという解釈は,示唆に富んだものである(この場合‑‑ゲルは, ディジョンの判断によると, 「ものすごく誹諾されている」).ディジョンは 透徹力ある分析によって,この理論は,ドイツの実情から生まれたのではなく して,フランスの内面的心理的欲求から生じたのであるということを明示して いる.この理論は,ドイツに対する従来の思いちがいを説明し,未来に対し て,確かな地歩を占めるのは「良き」ドイツであるか,それとも「悪しき」ド イツであるかを未解決のままにしておいた.そしてフランス人に対し,フラン スの精神的影響下に在った18世紀の無力なドイツを理想化することを可能なら しめた.そこで次の如く付言することが出来る.すなわちこの理論は,大多数 のフランス人に対し,ドイツ人に向い,ドイツ人自身がずっと以前に所有しま た自明的なものとして要求したところのもの,つまり多くのフランス人がドイ ツ人に対して承認することを欲しなかった統一的国民国家を,ドイツ人に本質
的ならざるものとして否認することを可能ならしめた.
③ミシュレのドイツ統一国家否認と,対独戦争のショックによるルナンのド イツ観および国民観の激変0 ‑
ミシュレ(Michelet.歴史家1798‑1874)は,進んでこの否認をなした人々 の一人である.ドイツに対する彼の「率直な愛」は,彼の愛国心と悲劇的な矛 盾に陥った.殊にルナンはこの否認者の典型である.ディジョンは,尊敬せる
ドイツとの戦争のショックの下におけるルナンの精神的発展を,特に重要な一 章のなかで叙述している.ルナンは注目すべき諸点において,ドイツの資料か ら供された従来の彼の見解を,ありきたりのフランス人のために放棄した.叉 は少なくとも修正した.例えば, 1882年のルナンの有名な定義づけ,すなわ ち, 「国民とは何か.一種の日々の人民投票」に対し, 1870年以前には国民の 本質についてのドイツ人の見解にむしろずっと一致していた全く他の定義づ け,すなわち, 「人民「peuples)は,ただ血統(race)および言語のおおよ その共通,歴史の共通,利害関係の共通によって構成されている自然的集団で ある限り存在している」なる定義づけが先行している.この例にみる如く,ル ナンの国民概念は,フランス人の国民概念とドイツ人の国民概念との激しい対 立のなかで,エルザスをめぐる闘争を通じて練成されたのである.かくて上述 の1882年のルナンの感銘深い定義づけは,絶対的な認識価値を有しているので はなくて,情勢により,また或程度まで目的によって条件づけられたものであ る(この点に関してはブーフナ‑の1961年発表, ,,Die els浅ssische Frage und das deutsch‑franzosische Verhaltnis im 19. Jahrhundert.りなる論 文あり).
④反ゲルマニストたるデイジョンのフユステル評, 「彼の反ゲルマン主義は 1871年敗北前にすでに始まっていたが,敗北が新たな力強い動機となり, モラスの徹底的国家主義にまで強い影響を及ぼした」。 ‑
デ′ィジョンは,フランスおよびドイツにおける,,Germanist"たち,すな わち,フランスの(そして一般にヨーロッパの)発展においてゲルマン的要素に 大きな‑往々にして過大な‑影響を帰するところの歴史家たちへの対抗に おいて,彼の先輩たちより多くの政治的側面を観ている.例えば先輩モノ
(Monod. 1844‑1912)は,フユステル(Fustel de Coulanges. 1830‑89.
ストラスブール大学,のちパリ大学教授)の反ゲルマン主義に対する1871年敗 北の影響を否定した.何故かというと,彼の反ゲルマン主義はすでに彼の1869 年のストラスブール大学での講義に含まれているからである.然し,ディジョ
ンが指摘する如く,フユステルは成程1870年以前において封建制度すなわちフ ランス(そしてヨーロッパ)中世の決定的表徴がゲルマン的起源に発すること を否定したが,彼は,後に極めて激しく論争した自由主義者たちと共に,ゲル マン民族は「フランス人に個人的自由並びに個人的責任,さらに自由な労働の 諸原理」を斉したという見解を代表している.この見解と彼の後年の見解との 間には,極めて遠い隔りがある. ‑何となれば,フユステルはその比較的後 年の著述のなかで,現代の第一流の科学者ガンスホ‑フ(Ganshof. 1895‑.
ベルギーの歴史家,ガン大学教授)(注5)が始めて最近確証した如く,徹底的に Romanist (注.フランスの,そして一般にヨーロッパの発展においてローマ 的要素に大きな影響を帰するところの歴史家)となった.それゆえ,ディジョン が推定した如く,フユステルにおける反ゲルマン的反動は恐らくすでに1870年 前に始まっていた.然しディジョンが同じ個所で付言している如く, 「戦争が 彼に対し,ゲルマン主義に反掩する新たな力強い動機を与えた」ことは確かで ある.そしてフユステルの反ゲルマン主義は,モラス(Maurras.注. 1868‑
1952.ドレフエス事件で活躍.王政独裁を理想とする超国家主義,反ユダヤ反 民主々義を主張.第二次大戦では反ドイツ主義の立場から微妙な立場に立った が,実質的に,ナチスに協力した)にも強い影響を与えるに至ったのである.
①デイジョン著作の一章「ドイツに関する新たな見解」の内容1885‑90 年頃におけるフランス人ドイツ観の変化。他の一章「新たな大学とドイ
ツ」の内容‑大学教授たちの1871年敗北に対する反動。 ‑
ディジョンは,二つの重要な章「ドイツに関する新たな見解」および「新た な大学とドイツ」において,フランス人の1880年代以後の精神的発展を示して いる.すなわち, 1885年から1890年に至る頃若干のフランス人たちは,ドイツ 国が強固となって居り,また経済的政治的に一層強大化しているということを 意識するようになった.それゆえドイツに対する彼等の判断は,従来の綱要か
ら著しくそれている.他の一章は, 「大学教授たち」の1871年敗北に対する反 動を扱っている.すなわち彼等はしばしば, 1866年と1870年との成果を単にプ ロイセンの教師にのみならず1806年の敗北から生まれた新たなフンボルト流の ドイツ大学に帰せねばならないと信じ,またこの実例に倣わんとしている.そ のようにして或部分はひどくドイツ科学の範に従って方向を定める一連の学術 雑誌(例えばモノの,,Revue historique")が現われた.さらにまた研究目 的のためにドイツ‑派遣される例えばセニョボス(Seignobos. 1854‑1942.歴 史家)やジュリアンCJullian. 1859‑1933.古代学者)の如き極めて卓越した 人々をふくむ若い学者たちの非常に批判的な多数の報告書が現われた.
㊥ 「1890年の世代」には,ドレフユス事件によって分割された二つのフラン ス,すなわち徹底的な復讐忘却と,この忘却に対するバレース,モラスら の国家主義的反抗,が存在する。 ‑
「1890年の世代」は例のドレフエス事件によって分割される.すなわち,
「二つのフランス」が存在している.ドイツに対するこの両フランスの態度 は,対照的である.すなわち,一方では徹底的な忘却,他方ではまさしく此の 忘却に対する国家主義的反抗.この反抗は,バレース(Barrとs. 1862‑1923.
小説家,評論家,政治家)およびモラスにおいて頂点に達している.ディジョ ンはこの二人のために啓発的な章節を当てている.彼は,従来の論者以上に鋭 く,バレースがその自己崇拝においてのみならず,この自己崇拝より発する国 家主義においてもまた,フィヒテ,ヘーゲルおよび‑ルトマン(Hartmann.
1842‑1906.ドイツの哲学者)にいかに甚しく依存しているかを苦心して叙述 している.ディジョンによると,バレースの大地と死者との崇拝,世界的人道 主義に代えるにフランスに対する彼の国粋的限定は,ドイツの国家主義が1806 年の敗北から生まれたのと全く同様に意識的に1871年の敗北から生まれたもの である(バレ‑スおよびモラスの国家主義の影響と発展との研究のためには,
ディジョンが使用しなかった1933年刊Walter Frankの,,Nationalismus und Demokratie im Frankreich der 3. RepublikHが最も詳しい叙述を行 なっている).
⑦同書の一章「ドイツの脅威」の内容。 ‑世紀の交以来高まったドイツに
対する不安。 ‑
全く斬新な内容ゆえに殊に重要なディジョン著作の一章,,La menace all‑
emandeHは,およそ世紀の交以来フランスにおいて高まっている脅威の感情 を叙述している.この脅威の感情は,フランスの指導的精神の有ち主たちを促 して独仏関係の将来に関する意見発表を行なわせている1895年と1902年との二 つの「意見の問い合せ」の比較において具体的に明白となっている.ドイツの 植民地発展と高まっている経済的優位との認識は同時に,フランス人の新たな 国家主義の観念と結付き,ドイツのローマン主義は,フランス人の精神を低下 させて,今や復讐観念(Revanche‑ldee)とエルザス・ロートリンゲン問題よ りも大きな重力を有して居り而も反ドイツ的方向づけという同様の意義におい て作用しているドイツに対する不安と化してしまった.
@この不安を激化させた第一次モロッコの危機は, 7ランスの立場にとって ヒットラーのプラ‑グ占領と同様の意義を有するショックであった。 ‑ この不安は1905年のヴイルヘルム二世のタンジェール上陸と第一次モロッコ 危機とによって驚くほどに激化した.ディジョンの詳論から次のことが明らか となる.すなわち,ドイツおよび将来の戦争に対するフランスの立場にとっ て,第一次モロッコ危機には1939年ヒットラーによるプラ‑グ占領と同じ様な 意義が帰せられる.この危機は,多くの人々に戦争を不可避的なものと思わし める‑何となれば,彼等は戦争以外にはドイツの圧迫に対してなんらの庇護 をも認めなかったから, ‑深刻なショックであり,ペギ(Peguy.注. 1873
‑1914.戦死.熱烈な愛国詩人),プシカリ(Psichari.荏. 1883‑1914.戟 死.愛国的作家)の如き人々の心内で思いもよらないエネルギーを,確かに国 民的激情の真の発作までをも惹き起したところの,しかもロマン・ロランの元 来親独的な思想のなかにまで破壊的な影響を残したところのショックであっ た右翼(国民の大多数)の反動の深さは,ディジョンの叙述により充分に認 識され,一方運命に抗せんとする左翼の必死の努力は,先にあげたジーブラの 論文において巧みな包括的叙述が行なわれている.
(りデイジョンの著述に対するドローツの批判‑この著述により7ランス国 家主義の偏狭国防をよく窺い知ることができるoプーフナ‑の感想‑
この傾向はドイツ国家主義の,一般に全欧国家主義の一種の疾病でもあ る。‑
ディジョンの著述全体から受けた印象をドローツ(Droz)は, 1960年刊「ベ ルギー言語学評論」 G.Revue beige de Philologie"〕 38号のなかで,類をみ ざるほど巧みに次の如く述べている. 「読者は‑‑・ドイツに関するフランス人 の判断の平凡さによって, ‑‑・またこの判断が吹き込まれる拠り所たる組織的 計画的な偏見によって,さらにまたこの判断が表現するところの邪推ぶかいま た偏狭固障な国家主義によって意気消沈させられている.フランスは,諸外国 の宿命と偉大さとを究明することの全くできない,また克服できないKomp‑
lex (強い感情をおびた概念の複合体)によって支配された‑一・日我中心の国 家として現われている」.そしてさらに, 「フランスは,ドイツに対する過度 の驚嘆‑‑・と盲目的組織的な憎悪とのいづれかを遺ぶことができなかった(す なわち,この両者を混同させていた)ということが明らかとなる.そして人々 の注意をひくところのものは,殊に,判断における標準と客観性との絶えざる 欠除である」.
我々はこの論述に対して全く賛同できる.ドローツは疑いの余地なき実例を 引用している.それゆえ,ディジョンの著述は,我々ドイツ人がまたフランス 人が事物を正しく観ることに貢献している.思うに,ドイツの国家主義は, 19 世紀および20世紀において標準と限界とを失っていたのみならず,フランスの 国家主義も全く同様である.ドイツの疾病ではなくして欧州的疾病が問題なの である.フランスは,他の欧州諸国に比べて一層才智豊かな流儀でこの欧州的 疾病を有している.然しフランス国民は,他の欧州諸国民とほとんど同じく根 本的にこの疾病に冒されている.この欧州的疾病が殊に運命に打ちのめされた 諸国民を, ‑例えばドイツを1806年以後なお温和な形式で,フランスを1870 年以後すでに本質的により烈しく,ドイツを1919年以後最も烈しく(というの
は,平和条約と1919年勝利者の戦後政策とは,フランスの国家主義的疾病の作 用のなかで1871年よりは遥かに邪悪なものであったから.) ‑公然と襲うの である.
結論
デイジョンの研究と成果は,政治と精神生活との相互作用を精神生活の面 から模範的に叙述しているゆえ, 1870‑1914年のフランス史・ドイツ史・
欧州史の叙述,さらに第一次大戦勃発の根本原因の理解に不可欠のもので あり,一種の開拓者的労作である0 ‑
要約して我々は次の如く結論することができる.すなわち,将来1870年から 1914年に至るまでのフランス史・ドイツ史または欧州史のいかなる叙述も‑
たとえ純政治史であっても‑ディジョンの研究と成果との利用なくしては考 え得られない.何となれば彼の研究と成果とは,政治と精神生活との相互関係
・相互作用を精神生活の面から模範的に叙述しているからである.我々はディ
\
ジョンの範例が流派を起すことを期待できる.すなわち, 1914年から1945年に 至るまでの又それ以後のフランス史発展の同様に根本的な,同様に精選され た,同様に容赦ない叙述が切実に必要であり,同時にドイツのこれとの相対物 もまた痛切に必要である. ‑ジーブルク(Sieburg.注. 1893‑‑.ジャーナ
リスト.文化史家)の著述のなかで, 1815年から1870年に至る時代のために, 歴史叙述の,少なくとも部分的領域に関するドイツの側面がすばらしく研究さ れている. 1870年以後の時代のためには,これと比較できる労作が全く欠けて いる.然しかかる労作は絶対に不可欠のものである.我々が,右翼から左翼に 至るまで,すなわち,極端な国家主義から平和主義に至るまで広範囲にわたり 独仏両側面のもろもろの精神的および心理的反動を見渡し,それらの相互的重 力のなかでこれを評価できる時始めて,また我々が,国民的心理の変化‑徹 底的に存分に把握されたこの変化‑を独仏双方において認識し理解した時始 めて,我々は,決して誰にも望ましくない1914年の欧州的大災厄の根源を理解 することを期待できるのである.そのように観ると,ディジョンの著述は一種 の開拓者的労作である.この労作はフランスにおいて一派を起し,ドイツにお いて文芸学に対し呼出し信号的作用を与え,文芸学の方面でまたかかる民族心 理学的研究を取上げるに至らしめるかも知れない.
注(1) Professor Fr. Ehringhaus und Wolf gang Hermann: Geschichte der
neuesten Zeit (1871‑1928). Die Grundziige der Aussenpolitik der Grossm云chte auf Grund der neuesten Veroffentlichungen. P. 2.
(2) ibid. P. 82
(3) Historische Zeitschrift herausgegeben von Theodor Schieder und Walther Kienast. Band 195. Heft 3 Dezember 1962.
(4) W. Dringenberg: Die Wandlung des franzosischen Deutschlandbil‑
des im Deutsch‑ Franzosischen Krieg 1870/71. Diss. 1940.
(5) Caratten del secolo W in occidente: Settimane di studi del centro italiano ‑・‑Spoleto 5. 1958. 319.
(昭和39年9月30日受理)