• 検索結果がありません。

田中友次郎

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "田中友次郎"

Copied!
13
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

メーリングのビスマルク観 田中友次郎

Mehrings Ansicht uber Bismarck

TOMOJIRO TANAKA

Franz Mehring博士は1846年プロイセン王国Pommern地方のSchlaweに生まれ, 1919年 ベルリンで没した.父は元士官,退役後税務官吏,母は旧い貴族の娘であった. 1866年ザクセ ン王国のライプチヒ大学に入り, 1868年ベルリン大学に移り,その翌年Lassalleの著書に接し て大きな影響を受け∴さらに民主主義的新聞,,ZukunftHの創設者Johann Jacoby,その編集長 反ビスマルク政策のDavidWeissと交わって一層大きな感化を受けた.こうして,いわゆる

ブルジョワ民主主義者として実社会に乗り出したメーリングは,ビスマルク時代をふくむ二十 数年にわたる深い理論的世界観的な内面的葛藤ののち遂に,ビスマルク退官の翌年1891年ドイ ツ社会民主党に入り1901年末以来,,Leipzige Volkszeitung"紙の政治的指導を引受け,この 新聞をマルクス主義的理論紙にまで高め,同党の最も著名な人物の一人となった1914年7月 第一次大戦が勃発するに先立って,同党の主流となった社会排外主義とは逆に飽くまでも帝国 主義戦争に反対した.大戟垂, Rosa Luxemburgと共にドイツ社会民主党左派(1916年以来 ,,Spartakusbund"と呼ばれた.)の機関紙..Internationale" (1915年4月発刊)を編集した.彼 は1917年社会民主党幹部会の政策に反対する人々と共に独立社会民主党を創立したが,大戦直 後1918年12月Rosa, Karl Liepknechtらと共にこの党から分れてドイツ共産党(Spartakusbund

の系統)を設立した.このように彼は入党以来一貫してマルクス主義に徹底していた.

メーリングは第一次大戦後,とくにスタ‑リン時代は,観念的ラサール主義者として低く評 価されたが,第二次大戦後西ドイツにおけると異なり,東ドイツでは非常に高く評価されてい る.例えば,西ドイツ版の,,Brockhaus Enzyklop云die" (Bd. 12. 1971)は,メーリングを「独 立社会民主党の代議士として,またドイツ社会民主党の歴史家として唯物史観の重要な代表者 であった.」 (S. 347)と,簡単に紹介しているが,東ドイツのWilhelmPieck教授は, 1960年 版の「メーリング全集」の序文のなかで次のどとく詳しく紹介して,メーリングを極めて高く 位置づけている. 「フランツ・メーリングの著作は,総ての人にとって重要であり,興味があ

る.フランツ・メーリングのドイツ労働運動史,ドイツとくにプロイセン史‑その中には

(2)

『ドイツ社会民主主義史』, 『か‑ル・マルクス‑彼の生涯の歴史‑』および『レッシソ グ』などの尤大な著作がある. ‑に関する数多くの書物,パンフレットおよび論文は,̲ドイ ツ史研究のための重要な業績である.それらは科学にとって極めて価値のあるものである.と いうのは,フランツ・メJ)ングは,広汎な,唯物史観の立場から為された歴史研究によって 優れた成果を達成し,これに依って,社会発展の真の原動力を発見するのを助けているからで ある.同時にフランツ・メーリングは,真の科学が,新らしいもののための闘争においての み,日々の課題との結びつきにおいてのみ真に有効になり得るものであることを示した.労働 運動にとって,彼の業績は,新らしい認識のための不断の源泉であり,日々の闘争のためによ

りよく武装しようとするならば,総ての勤労者,とくに凡ゆる党および国家の活動家がわがも のとしなければならない,ドイツ革命運動の光栄ある伝統の仲介者である.」云々(Wilhelm Pieck, Vorwort zu Franz Mehring Gesammelte Schriften, Bd. I. S. 5.)我国でも殊に京大 名誉教授出口勇蔵博士は,次に述べるメーリングの「ドイツ社会民主主義史」邦語版の紹介文 の中で, 「全体の歴史の動きを客観的に,しかも確信をもって捉えたものは,本書以後果たし てあるだろうか.この意味で本書は, 19世紀ドイツ史に関する有力な古典の一つである.」と 激賞していられる.

さて,メ‑リングの最近版「ドイツ社会民主主義史」 (Geschichte der Deutschen

Sozialdemokratie, I. H.以下単にi. n.と略称す.)の初版は1898年ビスマルク(1915‑98.

1862‑71プロイセン首相1871‑90帝国宰相)の没年に4巻として性に出ており,その後内容 が訂正され新構成の下で1903‑4年第2版が出され,その後1922年までに12版を重ねた.最 近に至り,メーリングに対する評価が高まったためか, 38年ぶりに1960年ベルリンのDietz出 版書店版として出された.それはi. n.両巻計1534貢から成る浩袖な叙述内容であり,メ‑

リングのビスマルク観を綜合的に察知するためには,筆者の知る限り唯一の重要な典拠となっ ている.去る1968‑69年「ミネルヴァ書房」から出た京大教授足利末男博士ら4氏の共訳は, いくらかの個所についての批判すべき点はとにかくとして,昭和初期に春秋社から出て筆者も 利用したことのある誤訳の多い訳書と異なり,ミスプリントもほとんどなく,さすがに4氏の 学界における地位にふさわしく,訳文平明しかも格調高く,原著の面目をよく発揮しているも のと敬服のほかはない.筆者もこの拙文作製に当り大いに参照させていただいた.

ところでビスマルクは一般に,世界外交史上最大の政治家と称せられているが,同時に他面 では,ポーエンツォレルン家とユンカーとの利害のみを代表し,内政上における文化闘争の失 激,殊に社会民主党弾圧とその挫折において稀にみる悪名を馳せた保守反動の巨頭として印象 づけられている.確かに, 1879年10月19日から彼の退官後半歳1890年9月30日に至るまで,ほ

とんど12カ年にわたり実施された社会主義者(鎮圧)法(Sozialistengesetz)については,比較 的穏やかな史家といえども,その制定の遣り口と施行との理不尽さ苛酷さをひとしく認めてい る処である.ましてや既述のどとき経歴思想の持ち主たるメーリングの眼には,ビスマルクが 身はドイツ帝国行政の頂点に位いして祖国の歴史の近代化民主化を逆行させようと企てている

(3)

メ‑リングのビス ̄マルク観 19

不倶戴天の元兇として映じたことは,火を見るよりも明らかである.殊にビスマルクが「飽く なき大衆の搾取家」 (E. S. 282)であったがゆえに,なおさらのことである.筆者はこれから

「ドイツ社会民主主義史」のなかに画かれているメーリングのビスマルクについての映像を具 体的に観察抽出綜合して行きたい.この場合我々はメーリングを「傾向的な」史観の持ち主た るがゆえにそのビスマルク観を頭から不当なもの的はずれのものとして拒否すべきではない.

なぜならば史観はそれぞれの史学者によって異なっているゆえ,メーリングを「傾向的」とし て無下に論断することは,研究者としてむしろ自らの「傾向的」偏狭さを告白しているに過ぎ ないからである.この点についてメーリング白身も芸術を例に採って次のように指摘してい・

る. 「プロレタリアートの『傾向的芸術』は,根本的には,ブルジョワジーの『純粋芸術』よ りも明白であり,頁実である.ブルジョワジーの『純粋芸術』なるものは曽て存在したことが なく,それは,反動の作り出したものにすぎず,ブルジョワ階級の意味においてすべて『傾向 的な』,ブルジョワジーの偉大な革命的詩人に反対するためのものであった.」 (n. S. 664).

根本的な問題は唯,その主張が実証的客観的事実に基づいて論ぜられているかどうかであり, このような事実に基づかないで叙述された人物観の相異は,論者の史観や思想や立場によるの であって,その当否は要するに読む人の判断による外はなく,他面,論者の史観や思想や個性

の鯵み出た人物観には,それなりに独特の興味をそそるものがある.

我々はビスマルクの健界史上楽日をみない外交的業績にややもすれば眩惑されて,その内政上 の失策,ことに徳性の面から観たその俗物的人格を見落すきらいがある.筆者は主にビスマル

ク外交史の研究に携さわっているゆえ,殊にこの種の先入観に捉われているのではないかと強 く自省している.そこで筆者は以上のような考え方を前提として,いよいよ本題に入ることと する. (以下「 」内はすべてメーリングの叙述そのままを引用したものである.)先ずメーリ

ングの観たビスマルクの広い意味での人格ないし人柄のうち, ‖メーリングが高く買ってい る点あるいは長所として認めていると恩われる点を指摘し,次に, ejメ‑))ングが非難して いるビスマルクの諸傾向を挙げ,最後に, Ejメ‑リングが最も激しく且しばしば嫌悪侮蔑し ているビスマルクの下劣な利得欲,敢えて言えばその並びなき地位と名誉と権勢とのなかに併 存していた内心の物欲,経済的食欲さについて諸々の例証によってこれを提示することとす る.しかし既述のごとく,読者がこれらを殊にEjの例証をどの程度まで批判ないし肯定される かは,もとより筆者の予測Lがたい処である.

‖この点については,尤もなことながらビスマルクは言うに価いするほどの評価を受けては いない.強いて拾い出しても次にあげるが如く僅かに5個所で,そのうち,メーリングがビ スマルクの卓抜な認識力を真に高く認めているのは,最後に述べる唯の1個所にすぎない.

①相手に対する洞察力. ‑すでに三月革命(1848)時代「実務的なユンカーであるビ スマルクは,̀ヘッセン選帝侯国の大臣vonGagernとの5分間の対談のあとで,ブルジョ ワたちより正しく彼を見抜き, 『全くの馬鹿者』であり『無駄口屋』であると評した.」

(I. S. 368).

(4)

⑧ 1863年の対嘆政策における大胆さ. ‑‑首相ビスマルクが衆議院をやりこめる時の

「図々しさ」 (Dreistigkeit) (H. S. 112)は,プロイセン国王ヴィルヘルムI世の寵遇を 得た理由となったのであるが,この図々しさは度々発揮された1863年ドイツ問題が持ち 上がった時,オーストリアはその主張している連邦原理に基づくドイツ連邦の改革を審議 するためドイツ諸侯会議をフランクフルトに招集した.これに反対するビスマルクは,

「その論証の凡ゆる大胆さ(Gewagtheit)によって,オーストリア外交を手も足も出なく し,諸侯会議をその分権的連邦改革ともども,それにふさわしい歴史のゴミの山のなかへ 片付けてしまった. 、 、 、、 、けれども,ビスマルクを怒らせるために中小国家の君主に 婚びへつらい,自己自身の原理を捨ててしまう(オーストリアの)外交は,極めて近視眼 的であった.ビスマルクは,そのような小さな針で刺されて参るような人物では決してな かった.」 (U.S.92.f.)

⑨ 1863年11月デンマルク国王死後のシュレスヴィヒ・ホルシュタイン両公国問題におい て,ビスマルクが他のドイツ連邦諸国を操るに当っての無類の巧妙さ.(I. S. 109).

④普墳戦争直後の南ドイツ諸邦に対する巧妙な政策‑1866年普項戦争以後南ドイツ諸 邦は,ヨーロッパの列強顔をすることも出来なかったし,フランスもしくはオーストリア の従属国となることも出来なかったが,この「海千山千の政治家」 (I.S. 253)は, 「極 めて巧妙にこの状況に適応した政策を行なった.」 (I. S. 239).

㊨ 1862年秋,憲法問題について,首相就任直後のビスマルクがこれを権力問題として捉え たのは,ラサ‑ルの見解と一致し,何といっても素晴らしい. ‑ラサールは,憲法問題 についての見解を次のように要約している. 「この問題はほんらい法の問題ではなく,力 の問題である.一国の現実の憲法は,その国に存在する現実の,事実上の力関係のなかに しか存在しない.成文の憲法が価値と持続力とを持つのは,それが社会のなかに在る現実 の力関係の,正確な表現である場合だけである.」 (I. S. 666).ラサールのこの言葉は, 現代日本の憲法第九条の解釈と各政党代議士数の勢力関係を考える暗示唆する処が大き

い.但し,政府・自民党は,プロイセンの絶対主義的色彩の強い欽定憲法を解釈するビス マルクを遥かに凌ぐ,黒を白だと言い張る民主的平和憲法の横車的解釈を行なっている点 は弁別すべきである.さて1862年の秋ビスマルク内閣提出の軍事予算案が憲法違反では ないかとの問題につき,ビスマルクはいみじくも次のように主張した. 「憲法は結局,立 法を行なう三者(注.内閣,衆議院,貴族院)が持っている予算決定の際の諸権利を規定 していない.それは相互的譲歩に委ねられている.その中の一部が『空論的絶対主義』

(doktrin蕗rer Absolutismus)を信じて凡ゆる妥協を拒絶するとなれば,その時始めて,梶 力を握っている部分は自らの考えに従って行動に移らなければならない.なぜなら,国家 の営みは一瞬といえども停止させられるわけには行かないからである.」 (I. S. 680).こ の主張はラサールの言葉の真実性を明示しているもので, 「ビスマルクの考え方に対して はどのような異論が唱えられるとしても,彼が憲法問題を,それが現実にあるがままのも

(5)

メーリングのビスマルク観 21

のとして,すなわち現実の権力問題として捉えたことだけは,天晴れと言わなければなら ない.」 (I. S. 680),

E)ビスマルクはプロイセン首相として,特に帝国宰相として,史家が「ビスマルク時代」

(Zeitalter Bismarcks)の呼称によって特徴づけているように,天才的外交政治家の名を当時 すでにドイツにおいてのみならず世界中に謡われていたが,メーリングにとっては,先ず三 月革命後のドイツ統一問題についても, 「せっかちな封建主義者」 (I. S. 365)ビスマルク

は「古色蒼然たる馬鹿話しをする目立った存在」 (I. S. 499)にすぎず,ビスマルク風のド イツ帝国建設さえも, 「けちな統一」 (I. S. 689)であり,急進的な聖書批判の史家Bauer が称したように,それは「歴史ではなくて挿話であると呼ぶのが適切」 (I. S. 118)であっ

た.そして曽ては「1850年代抜け目のない巧みさで,官僚的封建的反動内部の争いのなかを 泳ぎ,」 (I.S. 651).出仕街道をJTa調に走りつづけたビスマルク,、すなわちこの「天才的政 治家」 (genialer Staatsmann)の名称を,メーリングは皮肉的軽蔑的に5個所で用いてい る(E. S. 222. 397.434. 460. 615).確かにビスマルクは周知の如く「極めて実利的な現 実政策」 (I.S.450)家であったにしても,稀にみる「謀略外交」 (U.S.373)家であり,

「愚かな権力濫用」 (H. S. 518)者であり, 「生来の暴力好き」 (I. S.203)であり, 「むき 出しの暴力を頼りとし」 (II.S.549),さらに「ルイ・ナポレオンを凌ぐボナパルト的ペテ ン師」 (n.s. 220)であって, 「反動的偏狭さ」 (II.S.648)をもって, 「新聞の買収」 (Ⅱ.

S.612)を初めとして,全ドイツのみならずスイスを中心に, 「ヨーロッパの半ばを毒して いる買収とスパイの全容を帝国議会で曝露された」 (I. S. 650)こともあった.彼はすで に1854年ドイツ連邦議会において(注.彼は1851‑59,フランクフルト駐在プロイセン使 節.)主唱者となって,労働者団体による政治運動の抑圧を義務づける反動的特別法を決議し ていた(I.・S. 541)が, 1878.年以来の社会主義者鎮圧法の適用に当っての「むどたらしい 弾圧と陰険な遣り口」 (H. S. 514)には,言語に絶するものがあり, 1878年11月28日発布の ベルリン戒厳令は,その「卑劣さ」 (I. S. 516)の頂点を示すものであった.

しかもビスマルクは名にし負う「雄弁」 (II. S.463)家であり, 「実務家」 (II. S.489) であり, 「実際的政治家」 (H. S. 442)であって, 1878年5月11日のHodelによる皇帝暗殺 未遂事件を「煽動的実際的観点からつかみ」 (II. S. 494),さらに同年6月2日皇帝に重傷 を負わせたNobiling博士の事件を,野党‑の又とない「ボナパルト的攻撃の機会に利用し て」 (丑. S.・497),不当苛酷にもこれを社会民主党の責任に帰し,鎮圧法の議会通過をいわ ば強奪したのである(注. 「皇帝暗殺未遂事件とビスマルク」と題する拙稿, 1952年九大の

「西洋史学論集」第一輯所載).他方ビスマルクは1864年以来典型的な「独裁者」 (n. s.

295. 330)となり, 「19世紀の終りになって,神聖同盟の時代のドイツの俗物さえも耐えられ ないような遣り方で統治しようとした,ビスマルク絶対主義の腐り切った建物」(I S. 659) を築き上げた.ビスマルクが「歴史上に名を知られている系累のうちで恐らくは最も無能な 長男(注Herbert伯.1886‑90外相)に多くのことを委せてしまい」 (H. S. 657),文筆家た

(6)

ちに,曽てメロヴィング王朝と並んでカロリング王朝があったのと同じように,ポーエ1/

ツォレルン家と並ぶ「ビスマルク王朝が存在する」 (I. S. 657)と皮肉られたことや,ビス マルクが鎮圧法案の‑目的として, 「神聖な家族制度を維持するため」 (II. S. 657)と謀っ ているのに,帝国議会で社会民主党の代議士Grillenbergerにより,ビスマルクの息子の一 人が当時ある人妻を誘惑した事実を曝露されて,ビスマルクはその復讐のためニュルンベル グ組合印刷所発行の無害な労働者用手帳を禁止して破産の一歩手前まで追込んだこと(Ⅱ・

S. 565)は,ビスマルク独裁の一面の性格とその公私混同ぶりを明示している.加うるに, 裏の「社会政策問題について全く無知」 (H. S. 614)であり1880年代の帝国官報による保 護並びに救済方策の発表,疾病保険,傷害保険,養老保険なども総て鎮圧法(鞭)に対する

「始」 (II. S. 583)にすぎず,ビスマルクが議会で強調した彼の社会主義は,慈善で労働者 の眼を眩ませ,もしくは宮廷の従僕をして年金を当てに従順にさせる「慈善社会主義,また は従僕社会主義」 (Almosen‑oder Lakaiensozialismus) (II. S. 115)とでも名づけるほかはな い代物であった.彼は結局「社会問題で行きすぎをやって自滅」 (I. S.256)した男であ

り,一般に, 「封建的で野蛮な考えにうっとりとし,近代文化については何も知る処なく」

(U.S. 651),噸笑的に言うと,これは, 「確かにPuttkamer (プロイセン内相)とビスマ ルクの歴史的な不運であった.」 (II. S. 651).

さらにまた,ビスマルクの独裁ぶり,その絶対主義的我欲は止まる処を知らず,自由主義 者フリードリッヒ3位(在位3カ月)夫妻への復讐さえも敢行し,勅書の起草者Geffcken 教授をして絶望的なビスマルク批判の言辞さえ吐かせた.すなわち1888年3月90才の老骨 が没して皇太子が即位したが,57才の新帝は既に咽喉痛のため余命いくぱくもないのに, 「ビ

スマルクは皇太子や太子妃から受̲けた数十年来の無力ではあるが頑強な抵抗に大きな復讐を するため,シルク‑ットをかぶった愛国主義的愚衆をけしかけ,孤立無援の皇帝と皇后に反 対させ,人間の浅ましさの限りを尽くした乱痴気さわざを起させて,ゲフケン教授をして,

『この人物の生涯において,一体高遠な精神が見出されたことがあろうか』という嘆声を発 せしめたのである.」 (I. S. 654). 〔注.ドイツ史の大家にして「第一次大戦の原因について のイギリス文書」の編集者イギリス人G.P.Goochは,次の如く述べている. ‑ゲフケ ンが先帝フリードリッヒ3世の日記からの数節を発表し,先帝がドイツ帝国創設において, 一般に信じられているよりも優れた役割を演じたということを示そうと企てた時,ビスマル

クはその発表を担造だとして公然と非難し,皇帝(ヴィルヘルム2憧)は彼の宰相(ビスマ ルク)にこの発表について報告するよう命じた.この報告は,皇帝の父(フリードリッヒ3 世)についての思い出を傷つける陳述に満たされていたにも拘わらず,この統治者(ヴィル ヘルム2世)の承認を得て発表された.そして裁判所が反逆罪の告発についてゲフケンを無 罪とした時,起訴者側によって用意された事件の全書類が印刷された.こうしてこの宰相 (ビスマルク)は昔からの怨みを晴らしていたのであるが,皇帝に対しては何の弁解もなさ れなかった.皇帝の母(故フT)‑ドリッヒ3世の皇后)の悲しみと怒りは,ホ‑エンツォレ

(7)

メーリングのビスマルク観 23

ルン帝国崩壊の後発表されたヴィクトリア女王(皇后の母)あての諸々の手紙の中で反映さ れた.〕 (G. P. Gooch: History of.Our Time 1885‑1914. p. 54. f.).

Cj青年ビスマルクはゲッティンゲン,ベルリン両大学に学んだ後, 1836年ベルリン市裁判所 試補,ついでアー‑ン,ポツダム両県庁の試補を勤め, 1839年母の死後職を辞して,北部プ ロイセンPommern地方に在る父の領地Kniephof (現在東ドイツ国内)の経営に従った.

「当時クニープホーフの経営は不振であった(借金で首が廻らず,経営資金も信用もないま まの落ちぶれた領地だった. ‑I. S. 236)が,ビスマルクの指導の下にこの領地の収益 は著しく高まった. 」 (,,Bismarck" herausgegeben von Walther Stein im Jahre des hunde‑

rsten Geburtstags Bismarcks und des grossen Iくrieges 1915. S. 9).しかもビスマルクは晩 年にはベルリンの東北約300キロ, Varzin (現在ポーランドの行政Tに在り.)における広大 な領地に加えて, ‑ンブルグの東およそ30キロ, Friedrichsruhに三階建二列の宮殿のような 邸館(1945年の爆撃で破壊され,現在平凡な二階家が建っている.)に付属する「 ,000ヘク タールにおよぶ領地を所有し,ドイツ最大の地主の一人となった」 (Erich Eyck: Bismarck.

Bd. 1. S. 12)のである.この点につき筆者は昭和43年九大での西日本史学会の折, 「この いわゆるザクセンの『森の哲人』も実は物凄い利殖蓄財術にたけた俗物の半面があったと思

う.」と発言し,出席者の吠笑をひき起したことがある.とにかくこのような蓄財術の前提 条件たる経済的利得欲が政権獲得者にありがちな彼の権勢欲(荏. 1890年3月カイゼルに対 する高姿勢のため激突し,その意志に反して下野した時のいきさつを想起されたし.)に劣 らず,ビスマルクの人格の大きな構成要素を成していたことは,推察するに難くない.以下 15項にわたりビスマルクの経済的食欲さについて例証することとする.

①先ず次のような事情から,拠って来たる処の久しい血統的遺伝的な強欲さが考えられ る. 「ビスマルクはAltmark地方(ベルリンの西およそ100‑150キロ)の零落したユンカ

‑の一族の出である.この一族の家系を遡ると, 14位紀,当時の富裕な都市Stendal (ア ルトマルク地方の中心地)の素封家(荏.素は空しい意.爵禄・封土がないのに,その富 は封土あるに等しい金持biirgerlicher Patrizier)に辿りつく.後年のビスマルクは,文 化闘争(政府とカトリックとの争い.)の名誉を高めるために,この祖先を時代精神の一 種の先触れに仕立てようとした.つまり彼は,迷信を脱したその祖先がカトリックの聖職 者たちと衝突し,その結果シュテンダールから追われた,と主張したのであるが,彼が実 際に隔性遺伝的な衝動を体内に感じていたにせよ,その衝動を宗教の分野に持ち込んだの

はまずかった.往時のNikolaus Bismarckがシュテンダールで生きようが死のうが,カト リックには痛くも輝くもなかったであろう.彼を生地から永遠に追放していたものは諸ギ ルドの反乱であり,彼および数人の同類による庶民‑の苛酷な抑圧と,市金庫の私物化と が,その反乱を呼びさましたのである.とはいえ彼は,不正な財力に物を言わせて,庇護 者をつかむことが出来た.当時のWittelsbachの選帝侯(同名の城にちなむ家名.バイエ ルン公)は,彼から大金を借りていたので,彼に‑城を与えて,彼をアルトマルクの小貴

(8)

族の一人に取り立てた.この種の出仕は14位紀では今より珍らしかった.だからビスマル ク家の祖先が老槍な商人だったことは確かである. 、 、 、 、 、彼が手に入れた土地は狩猟 に適していたので, 16世紀にホーエンツォレルン家によって奪われ,ビスマルク家はその 代償として,教会や修道院から剥奪された土地を得た.こうして祖先はビスマルク自身 に,田舎貴族としての身分相応の生活を, 19世紀にもどうにか維持できるほどのいくらか の土地を残してくれていた.」 (I. S. 649. f.).

㊥メーリングはI.のS.42で,労働者の惨状に関連し,始めてビスマルクに触れている が,ビスマルクの上述のような隔健遺伝的傾向は,すでにここで暗示的に言及されてい る. ‑ 「1848年に至ってもなお,ユンカーであるビスマルクが公然と理想状態として讃

° ° ° ° ° ° ° ° ° ° °

美した処によれば,日傭い労働者は彼の領地クニ‑プホ‑フで,ビスマルクから見てさえ

° ° ° ° ° ° ° ° ° ° °

僅かの現物給付(...は筆者付加)と1日の賃金分‑夏期には男4 Silbergroschen (注.

1 S.は30分の1 Taler.約10分の1 Mark),女3 S.,冬期にはそれから男女ともl S.

を減じた額‑と引換えに働き,しかも年間を通じて男156日分と女26日分を無償で苦役 しなければならなかった.」

㊨ 1850年3月2日のプロイセンにおける領主・農民関係の調整弁済に関する法律は,人民 に思いきり多額の金を払わせるものであったが,この法律に対するビスマルクの不満は, その生得的無意識的貫欲さを早くも明示している. ‑ 「ある官庁統計家の計算によれ ば1816年から1865年までの全『農民解放』は,東エルベの農民たちにとって合計2億 1,386万1,035タ‑ラーについている.しかしこの計算は余りに低額すぎる.というのも, この統計家は1シェッフェル(注.地方により異なる50‑180リットル)のライ麦を1 タ‑ラーとしてしか見ていないし,耕地1Morgen (約8.100平方メートル)を20タ〜ラ

‑,森林1M.を10タ‑ラ‑としてしか計算していないのだから.東エルベの農民は彼ら の祖先が自由な民として住んでいた土地の一部を取り戻して凪課を免れるようになるため に50年間に10億マルクをユンカーに支払ったと言えば,恐らくかなり真実に近いであろ う.この世界的に有名な『社会改革』の裏面で暴力や論計によってプロレタリア‑ト‑と 転落させられていった何千人もの農民は,この数に入っていない.にも拘わらずユンカー

の欲望は,なお飽くことを知らなかった.騎士領領主はプロイセンの立法によって『19位 紀の最下層民(Paria)』としての扱いを受けている,とビスマルクは嘆き悲しんでいる.」

(I. S. 550).

④ビスマルクは三月革命から1850年代にかけて封建的特権維持の努力に加えて,フランク フルト駐在プロイセン使節(1851‑59)として莫大な資本主義的利潤に目覚め,この利潤 獲得を実践した. ‑ 「ビスマルクは革命時代に,最もエソカ‑らしいユンカーを演じ, 健康で空腹な胃から出て来る凡ゆる知恵を働かせて封建的特権を守った.彼はブルジョワ

ジーの唱えるドイツ統一を嫌い,それはプロイセンのユンカー支配に対する致命的な危険 であると考えた.こんな立派な闘士に,反革命が月桂冠を惜しむはずはなかったOlmiitz

(9)

メーリングのビスマルク観 25

会議(注1850年11月ウィ‑ンの北およそ100キロ,オ‑ストリアのこの地でロシア,オ ーストリア,バグァリア,ヴユルテンベルクらの同盟の圧力によって,プロイセン王フリ ードリッヒ・ヴィルヘルム4性は,その北ドイツ連邦の計画を放棄した.)への感激をビ スマルクが吐露したことは,ロ‑マン主義者たる国王の眼を彼に向けさせた.国王から見 て,面目をつぶしたプロイセンを再建ドイツ連邦議会で代表し擁護する者としては彼は最 適であった.富裕な商業都市フランクフルトに着任した貧乏なユンカーは,資本主義世界 が,律義なユンカーの心臓を縮みあがらせるほどに嫌らしくはあっても,十分に魅惑的な 展望を提供することを悟った.その展望に比ぶれば,東エルベの砂地での封建的な農民い じめは,けちな儲け口でしかなかった.ビスマルクはロスチャイルド家と交誼を結んだ.

そしてロスチャイルド家のベルリンでの代理人Bleichroderがビスマルクの些少な財政の・

面倒を見た.しかしだからといってビスマルクが,ユンカーを脱却したわけではなかっ た. 、 、、 、、このユンカーは彼の階級の遺産を,大いに受け継いでいた.恵まれた食 秩,無遠慮にくちばしを突っ込む意志,そしてこれと密接に関連して,歴史を観る視野の 狭さ.その眼は,商売や事業には抜け目がないくせに,民衆の生活の原動力に対してはま るで盲だった.」 (I. S. 650).

⑤ 「殊にビスマルクは,彼の階級が近代ブルジョワ社会のなかで掲げた封建的な要求を承 けて,穀物関税,火酒醸造業や製糖業者への寄付(荏.ビスマルクのようなユンカーの兼 業者が儲ける.),その他の方法で, 『国民精神に反して補償金をひねり出す』 (注.ラサー ルの著書『既得権の体系』のなかの用語)術にたけていた.」 (I. S. 618).

㊨ 1862年9月成立したビスマルク内閣は,搾取への障害を除くことに全力を挙げ, 1853年 以来の工場法さえをも有名無実にしようと企てた. ‑ 「ビスマルク内閣は,資本家的搾 取に対する凡ゆる障害を取り除くことに一生懸命だった.この内閣の社会改良的・国家救 済的活動は,前任者の下で未だ存在していた国家による工場監督の痕跡を除去することを 以って開始された.」 (I. S. ll).しかもビスマルクは1863年秋にはラサールの労働運勤 に関連し時代遅れの教授たちと歩調を合わせて, 「大衆収奪の諸計画」 (Massenpliinde‑

rungsplane) (I. S. 97)を企てた.

⑦独仏戦争後にビスマルクは多額の賞与金をもらい,一挙に,工業経営を行なう大地主と なり,さらに,有名な泡沫会社ブ‑ムで大儲けをした.すなわち,独仏戦争後フランスか

らドイツに払われた50億タ‑ラ‑の賠償金の一部は,賞与金として支払われたが, 「ビス マルクは豊かな賞与金によって,半ば破産した小貴族の代表者から,資本主義的・工業的

に経営を行なっている大地主,すなわち封建的・ギルド的廃城の除去に非常な関心を持っ ている階級の代表者となった.その上,彼のボナパルト的本能は,資本主義世界を賭博の・

世界に変えてしまった泡沫会社設立ブームが,大がかりな詐欺を可能にしたことで,気持 よくくすぐられていた.」 (II. S. 393).従って1870年代中頃,保護関税を要求する大工業 家たちは,ビスマルクを先頭とする「保護関税を要求する地主たちという巨大な同盟者を

(10)

見出していた. 、、 、、 、保護貿易のアジテーションに政府は物分りのよい反響を示し た.ビスマルグは大工業家であり,また大地主でもあり,この俗人に魂を吹きこんでいる 守護神は,こうして(経済恐慌のために)重大な苦境に立たされたブルジョワジ‑,ユン

カーの両階級と憂いを共にした.」 (II. S. 455).

⑧ドイツ統一後の帝国議会でマルクス主義的な社会民主党の勢力は増大の一途を辿った が1877年同党代議士団が議会に提出した労働者保護法案は,大工業家とくにビスマルク

によって,いわばその息の根を止められた.ビスマルクは極言すれば「大衆からの掠奪 者」 (n.S.474)であり, 「彼の心臓は,自由のために,掠奪の自由のために激しく脈打

っていた.」 (E. S. 475).

⑨思いきり大衆から搾取しようと考えている冷酷きわまる人間ビスマルクは1878年峻烈 な社会主義者鎮圧法案作製に当り,その内容が未だなまぬるいとて官房を叱責している.

‑ 「1878年社会主義者法案の規定は恐ろしく苛酷なものであったが,ビスマルクの眼に は未だ十分に苛酷なものとは言えなかった.思いきり大衆から搾り取ろうと考えていた彼 にとっては,大衆の先頭に立って聞こう者にはいくら厳しい猿ぐつわをはめても,遣りす ぎにはならなかった. Kissingen (注.フランクフルトの東約100キロ,彼の愛好した温泉 町.郊外の宏壮な建物の二階に彼の用いた三つの部屋が今も残っている.)からの手紙で, この冷酷きわまる人物は官房に対し,法案を早く発表しすぎたばかりに,もっと厳しい条 項を織り込むことが出来なくなってしまったではないか,と叱りつけている.」 (I. S.

505.f.).

㊨ 1878年10月19日鎮圧法案が皇帝暗殺未遂事件を悪用したビスマルクの卑劣巧妙な議会操 縦によって成立,弾圧が実施された後,ビスマルクはやはり私利のため物価を高め,厳し い戒厳状態さえ実施して,貧しい民衆や消費者大衆から血税を奪うこととなった. ‑

「帝国議会は,いわゆる財政・経済改革の名の下に,ビスマルクが大工業家や大地主と山 分けをする取引所になり果て,これら三頭同盟のそれぞれが消費者大衆の膏血を分けあお うとした.長期間にわたる不快な討論の後,大工業家は鉄と繊維の関税を,大地主は穀物 と家畜の関税を,ビスマルクは財政関税をポケットに収め,この取引の結果民衆は凡ゆる 生活資料の高騰と1億3,000万マルクの新税という犠牲を払わされた.」 (n. S. 522). 、

・、、、 「ビスマルクのような大人物(反語)には,このような儲けがあるからには,カ ノッサ詣でや地方分権の前に頭をさげること(荏.すべての剰余金のドイツ帝国内各邦‑

の分配を認めたことをさす.)ぐらい,なんということもなかった.」 (II.S. 523).なお, 鎮圧法の下でベルリンを始め各都市に実施されている戒厳状態のクライマックスは1879 年から1880年への変り目で,チューリンゲン,オ‑バ‑シュレジエソなど各地方が飢餓に 襲われ, 「今まで救済者ビスマルクを信じていた貧しい民衆の眼が開かれた.もうこれ以 上生命が保てないまでに搾り取られていた彼らは,保護関税,財政関税という新らしいペ テンを途方もなく敏感に感じとっていた. 、 、 、 、 、ビスマルクのような才気のある政治

(11)

メーリングのビスマルク観 27

家にできることは,戒厳状態を一層きびしくすることであった.」 (H. S. 533).

㊨ 1884年5月,鎮圧法の延長が議決された時,冷酷無比などスマルクは新らしい搾取の対 象として植民政策を持ち出して来た. ‑ 「総ての冷酷な地主のなかで最も冷酷であった この東エルベのユンカーが,農村プロレタリアートの労賃を引上げるにちがいない無産日 傭い労働者の海外移住を,どうして容認できたであろうか.だが今や始まったのは商業植̲

民地(注.ビスマルク時代1884, 5年から始まったドイツ植民地は,ほとんど総て移住植 民地ではなかった.)を‑新らしい,最もひどい搾取の場を‑求める資本主義の活動 であり,それならば話しは別であった.」 (II. S. 594. f.).

⑲同じく「儲ける」政策であってもGuizotのような無欲さが欠けていた. ‑「188&

年3月13日,ビスマルクは植民政策に関する帝国議会の討論のなかで,労働者保護立法の 代りに百万長者の培養を旗印Lとして掲げたが,実際にはビスマルクの百万長者の育成

は,ギゾ‑の『儲ける』 (Enrichissezvous)の票Ij窃であって,ただギゾ‑のような個人的 無欲さがビスマルクには欠けていた.」 (n. S. 615).

㊨ 1885年社会民主党右派の綱領は,ビスマルクの愛好する利潤を甚しく脅やかすものであ った. ‑ 「1885年社会民主党のなかに生じた戦術上および理論上の争いを見て,ブルジ ョワジーは大いに喜こんだが,ビスマルクの現実感覚は,それに長くはだまされなかっ たViereckは,いわゆる『右派』の綱領を社会主義者鎮圧法の廃止,無条件の結社の自 由,およびイギリスを模範とする工場立法という要求に曽て定式化したことがあるが,こ れは,ビスマルクにとっては,これらの要求が彼の愛好する利潤を直接に攻撃するもので あるだけに,財産の共有そのものよりも更に大きな恐怖であった.」 (II. S. 625).

⑲ビスマルクは1885年4月1日の誕生日を祝うための公けの募金の半分以上を,私用に使 い,しかも自分の貴欲さは棚に上げて,代議士が党の金庫から日当を得ているのを告発し て敗訴した. ‑ 「ビスマルクの70才の誕生日を祝うため,なんらかの大きな国家的目的 ̄

をめざす募金が始められ,何千人という貧しい労働者からさえも,愛国心の厚い経営者は 何プェニヒかを無理に取り上げた.ところで200万ないし300万マルクが集められた時,ど スマルクは,その半分以上を自分のものとし,自分の祖先が失なった世襲地の一部をそれ で買戻した.さらに彼の崇拝者をして恥づかしい思いをさせたのは,この天才が自由主義 党(注1884年3月成立.ビスマルクの嫌いな皇太子の庇護を受けていた.)および社会 民主党の帝国議会代議士に対し一連の裁判を行なわせ,プロイセン国法の古くさくなった 条項をもとにして,これらの代議士が党の金庫から得ている日当を『名誉に反する』利益 として強制的に取り上げようとしたことであった.」 (荏.ビスマルクは敗訴した.) (II.

.S.626).

㊨ 1885年末,ビスマルクを始めとするユンカーの儲けのため火酒専売についての法案を出 して,議会と忽ち衝突,否決された. ‑ 「この専売は国家財政およびユンカーの懐ろを 肥やすためであった.すなわち,火酒の原料生産は専売から除かれるが,生産者にヘクト

(12)

リットルあたり平均35マルクの価格(最低30マルク,最高40マルク)が保証されることに なっていた.他方, (当時の)ヘクトリットルの市場価格は24マルクであった. (注.この 法案が通過した場合,ビスマルクは国家財政を肥やすためには,専売価格を‑クトリット ルあたり少なくとも35マルク以上にする予定だったと推定される.)ユンカーに対してこ れがいかに気持のよいことになるかは,例えば奥ポメルン農場で月々900ヘクトリットル を生産できる火酒醸造業者ビスマルクをみれば分る.」 (荏.この専売は,ユンカーたちさ え,いきり立った世論の前に恥をさらすのを恐れて賛成せず1886年3月27日3人を除い た全員で否決された.) (II. S. 627).

以上は,メーリングのビスマルク観につき,彼の「ドイツ社会民主主義史」の各所に見らる る描写を片鱗たりとも見落すことなきよう慎重な注意を払いっつ検索し,具体的にビスマルク の人間性と言行とをまとめ上げた結果である.そこで,これを簡単に要約すれば,およそ以下 のどとくである. 1‑

ビスマルクによる近代ドイツ帝国の建設は,余り意味を持たない.とはいえ,ビスマルクは 人を観る明があり,実利的現実主義的謀略政策によってドイツ連邦諸国並びに諸外国を巧妙に 凍り,プロシア国会およびドイツ帝国議会に対しては図々しく大胆に対応した.一方,すでに 青年時代領地を経営した当時借金に苦しめられながら,巧みな処置によって破産を切り抜けた 事実のなかには,農民搾取のきびしさの一面が窺われる.さらに三月革命(1848)時代の言動 に見られるように,彼は典型的なユンカーとして心底から封建的保守的思想に凝り固まった男 であり,反動的偏狭さを持った暴力好みであり,しかも出世のための遊泳術にたけ,雄弁術に 卓れていた.大南業都市フランクフルトに駐在するプロイセン使節時代(1851‑59)から大規

模な資本主義的利潤追求精神にめざめ,これを実践し始めた. 1862年プロイセン首相となって からは,ナポレオン3世を遥かに凌ぐボナパルト的ペテン師となり,彼の愛好する利潤を害な

う労働者保護のための工場法制定には絶対反対だったくせに,労働者懐柔のため普通選挙法を 実施したが目的を果たさなかった.とはいえ特に独仏戦争直後彼は大地主兼大工業家にのしあ

閉teia

しかし一方,マルクス主義的社会民主党の勢力が帝国議会の選挙毎に増大したのに対し,歴 史を観る視野が狭く,真の近代的社会政策について全く無理解などスマルクは,今や大地主, 大資本家の代表者として,大衆の先頭に立って聞こう人々を抑えつけて大衆からの収奪を確保 するという目的のために,権力を濫用し,新聞を買収し,欧州の一半にわたってのスパイ桐を 張って,社会民主党の弾圧を企てた.偶々1878年皇帝暗殺未遂事件が起ったのを口実に,卑劣 障険な遣り口で鎮圧法案を通過させ,以来彼の退官まで11カ年半にわたり峻烈苛酷な弾圧を実 施したが,全くその意図と反対の結果を招いた.思うに1880年代の彼の諸々の社会政策も鎮 圧法という鞭に対する飴にすぎず,人道主義的真情に基づくものでは全くなかった.さらに, 帝国宰相ビスマルクは俗悪な独裁者で公私を混同し,権勢欲に駆られて残酷なまでに復讐心が 根づよく,これを遂行した.特に隔健遺伝的とも言うべき経済的食欲さが,大衆に対する飽く

(13)

メーリングのビスマルク観 29

ことを知らない搾取者としての,殊に独仏戦争後はこれに加えて大地主的強欲さと資本家的利 潤追求の妄執者としての,この「天才的」大外交家の人格のなかに常に併存していた.

以上のどときメーリングのビスマルク観に対し,筆者も虚心坦懐客観的にビスマルクを考察 する時,残念ながら少なくともある程度は,明鏡に映じた否定Lがたい彼の人格の半面のビジ

ョンとしてこれを肯定せざるを得ない.従ってこの観方からすれば,彼の生まれた1815年のウ ィーン条約以後19世紀史の舞台に際立った個人格,すなわち圧制のチャンピオン,メッテルニ ヒ,似而自由主義の立役者ナポレオン3健および史上空前の大外交家ビスマルクという三巨頭 のうち,道徳的意味では,むしろビスマルクが最も痛烈な批判に曝さるべき人物ではないかと 思われる.

(昭和48年9月29日受理)

参照

関連したドキュメント

二月は,ことのほか雪の日が続いた。そ んなある週末,職員十数人とスキーに行く

インドの宗教に関して、合理主義的・人間中心主義的宗教理解がどちらかと言えば中

地方創生を成し遂げるため,人口,経済,地域社会 の課題に一体的に取り組むこと,また,そのために

ところで、モノ、ヒト、カネの境界を越え た自由な往来は、地球上の各地域の関係性に

 しかし、近代に入り、個人主義や自由主義の興隆、産業の発展、国民国家の形成といった様々な要因が重なる中で、再び、民主主義という

私が点訳講習会(市主催)を受け点友会に入会したのが昭和 57

リカ民主主義の諸制度を転覆する﹂ために働く党員の除名を定めていた︒かかる共産党に対して︑最高裁判所も一九

その後、反出生主義を研究しているうちに、世界で反出生主義が流行し始め ていることに気づいた。たとえば『 New Yorker 』誌は「 The Case for Not