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八世紀前半ロンドンの秘密婚

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Academic year: 2022

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(1)

h四 ::̲  ‑=‑‑

はじめに

フリートのぺ豆録簿について

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G r i f

f i n  

 

│︱じ一四 アレクサンダー・キース

A . K

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とメイフェア礼拝常ン

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まとめー~秘密婚とロンドンI 1

八世紀前半ロンドンの秘密婚

フ リ ー ト と メ イ フ

ェ ア

直 ︵

lS  4 

573  (香法'96)

(2)

従って挙式されることを義務づけた︒

さら

に︑

あると思われる︒ え ︑

フリートとメイフェア︑

改めて言及しないので︑ ここに一八世紀前半のロンドンの秘密婚の二つのセンターがあった︒

堂︑監獄の礼拝堂が秘密婚に使えなくなった一七︱二年以後はフリート監獄の特許自由区域︵ルール区域︶

ハイド・パーク・コーナー近くにあるメイフェア礼拝堂が秘密婚のセンターであった︒

について︑筆者は﹁秘密婚とイギリス近代︵四・完︶﹂

本稿の目的は︑﹁秘密婚とイギリス近代(│̲︵四・完︶﹂を執筆後に惰者が人手した資料と執筆後に発表された新研

﹁秘密婚とイギリス近代︵四・完︶﹂ のなかで詳細に検討

ですでに言及された問題を本稿で

﹁秘密婚とイギリス近代︵四・完︶﹂を合わせて参考にしていただくことを希望する︒

一八世紀前半のイングランドにおいて︑ 究をもとに︑前稿を補うことにある︒従って︑ リートで挙式された秘密婚︵フリート婚︶し

た︒

れたマリッジ・ハウスと︑

は じ め に

一六

とは い どのような婚姻が秘密婚と称されたのかを簡単にみておくことは必要で

一 六

0

四年の教会法

( C o n

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f   1

60

4)

は︑婚姻予告による教会挙式婚と許可証による教会挙式 婚を正規の婚姻と定め︑当事者の一方が住む教区教会もしくは礼拝堂で午前八時から︱二時までの間に共通祈緯書に

二︱歳以下の未成年者の婚姻には親もしくは保護者に婚姻同意権を認 めている︒上記の規定に違反して挙式された婚姻には公開できない秘密がある

( c l a

n d e s

t i n e

) ということから︑

四年の教会法に違反して挙式された婚姻が秘密婚と称された︒しかし︑秘密婚は違法であるが︑有効な婚姻とみなさ

に建てら フリート監獄の礼拝

15  4 ‑574 (香法'96)

(3)

フリートとメイフェア(栄原)

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とは大きく異なっている︒

しか

し︑

従っ

て︑

フリートの登録簿について

﹁現 在形 の合 意﹂

フリートの婚姻登録簿とは︑マリッジ・ハウスの経

第一ー巻第一号

第一一巻一―-•四合併号第_ご巻第一り方第 一七五三年のハ

(2 ) 

であって︑教会儀式ではないからである︒

イングランドでは︑婚姻予告による教会挙式婚と許可証による教会挙式婚という二つの正規の婚姻と並ぶ 第三の婚姻として︑秘密婚は下層の人達ばかりでなく広範な人達によって受容されていた︒しかし︑

ードウィック婚姻法

(2

G 6

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I .  

C .

  3

3)

は全ての秘密婚を無効とし︑前者の二つの教会挙式婚を有効な婚姻と定めるこ

とで婚姻の一元化をなしとげた︒

( l

)

拙稿﹁秘密婚とイギリス近代(│︵四・完︶﹂︵﹁香川法学﹂

1年 ︶

( 2

) 詳しくは︑拙稿冨前掲論文

H

( 3

)

秘密婚がハードウィック婚姻法によって禁止されるに至るプロセスについて︑

フリートで挙式された婚姻であっても︑

フリ—卜で挙式された婚姻を記録する婚姻登録簿は教区の聖職者によって一定の様式で記載される教区簿冊

ト監獄にある婚姻登録簿に記入されていたが︑監獄内での秘密婚が禁止された一七︱二年以後にフリート監獄の特許 自由区域のマリッジ・ハウスが秘密婚のセンターとなってからは︑秘密婚を挙式させた僧侶達やマリッジ・ハウスの

経営者達によって婚姻登録簿がつけられ︑保管された︒従って︑ れた︒婚姻を成立せしめるのは︑当事者の

拙稿﹁前掲論文

その婚姻はフリートの婚姻登録簿に記録され︑婚姻証明書も発行された︒

フリート監獄の礼拝堂で秘密婚が挙式されていた頃にはその婚姻はフリー

15‑・4 ‑575 (香法'96)

(4)

ハードウィック婚姻法の施行によって︑

ッジ・ハウスからすでになくなっていたわけである︒ O f でに失われたものもあり︑正確なところは不明であるが︑現在︑ たメモやノートをもさしている︒ 営者達が自分達の店で挙式された婚姻を記録した登録簿ばかりでなく︑僧侶達が挙式させた妍姻をその場で書き留め

f i c e で保存されている︒秘密婚が学式された教会や礼拝常の婚姻登録簿のなかには後に整理されて公刊されたもの フリートの婚姻登録簿は未公刊のまま保存されているようである︒

バーンJ.

S.

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1フリートの登録簿

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一八一ー一年にロンドン主教裁判所の

登記所

R e

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o   C

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t   o f   L on do

n に保管されたフリートの婚姻登録簿についての最初の調在報告内と

フリートの婚姻登録縛からの抜粋ばかりでなく︑

として婚姻登録簿を管即したマリッジ・ハウスの経常者達の経歴の調介︑

フリート婚が関係した重婚裁判の記録なども収められている︒

重な文献である︒

ハードウィック婚姻法によって一七五四年二月二五日以後にフリート婚が禁止されたのちに︑

ートの婚姻登録簿がロンドン主教裁判所の登記所に保管されるに全るまでのプロセスを知ることができる︒

の婚姻登録簿はマリッジ・ハウスの経営者達によって保管された私的な帳簿にすぎないこともあり︑

三二年にすでに売買されていたことが知られている︒

購入され︑裁判所に提出された︒

Re co rd   その一部は一七

フリートの婚姻登録簿の一部はハードウィック婚姻法施行前にそれを保管するマリ

フリートのマリッジ・ハウスは営業できなくなり︑閉店に追いこまれた︒

フリートの婚姻登録簿は重婚の証拠として訴訟当事者によって

フリート この文献から︑

フリ

事 ︑

バーンの研究はフリート婚の実態を知るうえで胄

さら

に︑

フリート婚に関する当時の新間叫

いうべきものである︒バーンの研究には︑

フリートの僧侶達や書記

︵一

八三

三年

も多 いが

00

冊ほどの登録簿が公文書館

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フリートの婚姻登録簿は私的な帳簿にすぎないのである︒

これらの登録簿のうちす

15 ‑4 576  (香法 '96)

(5)

フ リ ー ト と メ イ フ ェ ア (束原)

法の施行前に学式された秘密婚を証明したい人達によって利用されていた︒

15 

G e

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l i   O

v e と再婚後︑

七七三年︑ L

a n

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そ の 一 方 で

︑ 施 行 後 で あ っ て も

︑ 施 行 前 に 挙 式 さ れ た フ リ ー ト 婚 を 証 明 す る た め に 婚 姻 登 録 簿 を 必 要 と す る ラドゲイト・ヒル

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H i e

l l のハーフ・ムーン・コート

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Mo

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にフリートの婚姻登録簿を保管する数件の店が開かれた︒﹁ウィグモア博士

D r .

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︑エバンス

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s ︑ランドウ

キ ャ ロ ウ

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ウ ド モ ア

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d の登録簿がハーフ・ムーン・コートのランドウ師の渇記のところにありよす

L

出されたりした︒

タ ウ ン シ ェ ン ド というようなビラや広告が これらの婚姻登録簿が一

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紀 に 人 っ て ロ ン ド ン 主 教 裁 判 所 の 登 出 所 に 保 管 さ れ る に 至 っ た こ と は バ ー ン の 研 究 か

O l

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い う 女 性 か ら

00

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冊の登録簿を購人したが︑

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・ ペ ン

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  Iというマリッジ・ハウスの経営者︑

オリーブは

iノンド・アン

の相続人達から婚姻登録簿を購入したトーマス・オーエン

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と ︑

一七 九三 年︑ ャミン・パントン

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P a

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と い う 人 物 が フ リ ー ト 婚 が 争 点 と さ れ た ロ イ ド 対 パ ッ シ ン グ ト ン 事 件

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(3 ' 

P a

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の 証 拠 を 得 る た め に 大 情 の フ リ ー ト の 婚 姻 登 録 簿 を 買 い 集 め た こ と で あ る

︒ パ ン ト ン は オ リ ー ブ

M r

s .

客引をしていた女性であった︒リリーの死後︑彼のマリッジ・ハウスを引き継ぎ︑彼

︑よ

1

1

ドこ 士口 昏し こ︒

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オリーフ

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オ ー エ ン の 死 後

︑ 彼 の 遺 言 に よ っ て 婚 姻 登 録 簿 は オ リ ー ブ の も の と な っ た

︒ 彼 女 は

︑ ジ ョ ー ジ

・ オ リ ー ブ

﹁フリートメイフェア︑

そしてミ ニコル・スクェアのウィート・シーフ

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S h

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f で ︑

ント

M i

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で挙式された婚姻を含む全ての登録簿の原本﹂を保管した︒そして︑それらの登録簿はハードウィック婚姻

L i l l

y のもとで召使として働き︑

ジョシア・リリー

J o

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それは市貼として一トンを越える大口軍の買物であ

ら明らかであるが︑

そこに全るまでの経路は必ずしもはっきりしない︒

はっきりしているのは︑

ノーデス

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ブ レ イ フ ィ ー ル ド

B r a y

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d

多くの人達がいる︒

この人達のために︑

しか し︑

ベンジ

4  577 (香法'96)

(6)

リッジ・ハウスの経常者達が記入して保管する婚姻登録簿である︒前者は後者の登録簿に書き写されたが︑後者の登

フリートの登録簿には一一種類ある︒

等な婚姻の証拠としてみなされたことはないが︑家系訴訟

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や重婚の告発において︑フリートの婚姻登録 簿は︑周知の事実を記録する登録簿としてではなく︑供述

D e

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として婚姻を証明する証拠能力が認められて

L t  

︱つは婚姻を挙式させた僧侶達がつけたメモやノート類であり︑もう一

という立場で一貫していたとは言い難い︒ 登録簿と婚姻証明内に求めねばならない︒そのうえ︑門巾者よりもむしろその後の世代に求められた︒両親もしくはそれよりも前の世代の婚姻の証拠として︑婚姻登録簿が認められるべきかどうかが訴訟の場で争われている︒

ハードウィック婚姻法の施行前に︑大法官︑

ドウィックが婚姻の証拠として提出されたフリートの婚姻登録簿を証拠として認めないばかりか︑それを秤って破り 捨てたという話は有名である︒しかし︑その後の裁判所の対応がフリートの婚姻登録簿を婚姻の証拠として認めない

フリートの婚姻登録簿が周知の事実を記録する登録簿として教区簿冊と同

つは

リート婚を争点とする訴訟が牛じていたからである︒施行前に挙式されたフリート婚は婚姻の証明をフリートの婚姻

フリート婚の証明は一八世紀後半以後にはフリートで挙式した

フリートの このように

フリートの婚姻登録簿が公的機関で保存されたのは︑

ハードウィック婚姻法の施行前に挙式されたフ

判所の登記所に保管された︒その後︑ ﹁一﹂ハ八六年から一七五四年までフリート監獄及びその特許自由区域における婚姻登録を含

む一連の文献を公益のために

1^ 一 ハ

0

ポンド六シリング六ペンスで﹂購入し︑

ド ︑

II

 

コックスから政府が

一 八

パントンはこれらの婚姻登録簿を全て購人したわけである︒

パントンは一八

0

一年に死亡したが︑婚姻登録簿は娘 に遺贈された︒その後︑パントンの娘は一八一三年にウィリアム・コックス

v V .

Co

x にそれを譲渡したので︑

フリートの婚姻登録簿はロンドン主教裁

一八

0

年にはフリートの婚姻登録簿は公文書館へ移されている︒

̲,̲ 

15‑ 4 578  (香法'96)

(7)

フリートとメイフ」ア(如原)

証明内は彼らの親達をじ号ばせるために一七ーー七年一

ンと詞所の未婚女性︑メアリ・バーンズが婚姻した︒

(l ) 

一月五日と記した︒

一七

1

九年

六月

0

し︑男は︑婚姻費用を支払い指輪を手に人れるために金銭を工面するという口実で女だけを残して出て行き︑戻って 来なかった︒そこで︑ジョン・リリーはその女を﹁ブル・アンド・ガーター﹂

彼女がその男と結婚したかのように証明内をげえた︒

から自分の家に連れて行き︑

ハノーバー・スクエアのセント・ジョージ教区の独身男性の庭師︑

ジョン・ネルソ ジョン・フロード

︵ 僧

侶 ︶

その女に

一七四二年四月︱

‑ 1

火曜日

一組の男女が

﹁ブ ル・ アン ド・ ガー ター Bu ll

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ar

te

r﹂

にや

って

来た

︒し

バーンの研究から︑典型的な事例を引用する︒

ウスの経営者達が僧侶達のノートにもとづいて︑あるいは婚姻に立会ったときに記録したものと思われる︒覚書が記

されている婚姻はフリート婚全体のなかではほんの一部分にすぎないが︑フリート婚の現実を知ることができるので︑ の様々な事情を記した枕内が登録簿に記載されているからである︒

これらの就茸口2

︑登録簿を管理するマリッジ・ハ ロうまでもない︒

にもかかわらず︑フリートの婚姻登録簡が我々を引きつけるのは︑

フリート婚にかかわる当事者達 いずれにせよ︑

フリートの婚姻登録簿に記載された婚姻について︑

その伯憑性に多くの疑いがもたれていたことは

侶や証人が記載されたケースもある︒

が多いという疑間が出されている︒

特に

婚姻

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者の住所については︑

現住所ではなく出身地を記載したケース

もしくは身分などが記載されている︒ 録簿は婚姻証明内の発行のために利用された︒

フリートの婚姻登録簿には︑婚姻の日付︑当事者の氏名︑住所︑職業

これらの項目が全て常に記載されたと限らないが︑

それ以外にも式を司った僧

15  4  579 (香法'96)

(8)

性のエリザベス・カッチ︒

(6) 

一七二八年七月口五ロ

テュワートと同所の未婚女性︑

ケンブリッジのセント・ジャイルズの寡夫の靴屋︑

(5) 

11.‑U 

‑ t i ‑

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ri:!

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‑[

証明内に半ギニー︒

︵残

りは

︶ 二人はグリーンウィッチのイースト・レーンで結婚し︑

ウィッチの未婚女性︑バーバラ・レインズ︒

(4) 

一じ二九年三月二日

ウエストミンスターの独身男性のスクワィア︑

ドクターと私で等分した︒

ント

メアリ・ニュジャ

ジョン・フロード

ジョシア・ウェルシュと未婚女

ジョン・ゴードンとケントのグリーン

ジゴン・フロード

︵ 僧

侶 ︶

ニギニーを支払った︒内記に五シリング︑二通の下皮紙の その後︑妍姻の証明のために五ギニーを得た︒

セント・マーチン・ラドゲイトの独身男性のチココレート作り職人︑

カミング氏が私に半ギニーを与え︑花婿をみつけるように頼み︑全費用を支払った︒僧侶にニシリング六ペンス︒

夫にも同額︒私自身には五シリング六ペンス︒ 明甚は一七二八年︱

月日付とする﹂1; 1

とあ

る︒

ラルフ・シャドウエル

証明内に一致する登録と事実に一致するもう

一七二八年八月四日に登録され︑

婚姻も八月四日日曜日に行われた︒

ボーンのルス・エイガーが婚姻した︒

(3) 

一七二八年三月一日

︵ 僧

侶 ︶

︵ 僧

侶 ︶

サムエル・ス

婚姻の登録は八月四日であるが︑

余白に

︶ 

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つの登録がある︒

﹁ 証 ジョン・フロード

)¥ 

︵ 僧

侶 ︶

ハノ︶バー・スクエアのセント・ジョージ教区のクリストフア︶・マーチンとマリー

15 

580 (香法 '96)

(9)

フリートとメイフェア(梨原)

(10) 

メアリ・ジョーンズ︒

結婚に一

0

シリング︒書記にニシリング六ペンス︒登録に一シリング︒証明内にニシリング六ペンス︒

二人は夜一︱一時に結婚し︑私の家で同食した︒私はさらに一シリング六ペンスを得た︒

ハノーバー・スクエアのセント・ジョージの独身男性の荷馬車厨︑

︐ 

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ドと同所の未婚女性︑

一七

二八

年一

︱一

月一

0

パトリック・フィッツジェラルドとセント・

ジョン・フロード

ホーバーンのセント・アンドリュースの独身男性の水夫︑

リ・ロバーツ︒

(8) 

一七二七年︱二月二三日

・フィールズの未婚女性︑

ジェイルズ・イン・ザ

ッド

ボロ

̀9 メアリ・スプレ

(7) 

一七二七年一二月

ー...

L I  

セント・マーチン・ラドゲイトの直夫の靴附︑

婚姻に五シリング︒書記に一シリング︒証明内に一シリング︒その男は彼女との結婚のために五シリングをもらっ たが︑私はそのうちの一シリング六ペンスを得た︒上記の男はよく結婚する︒

ショアディッチの寡夫の靴屋︑

一ポンド五シリングが支払われた︒僧侶に五シリング︒

リチャード・アームストロングと未婚女性のメア

ジョン・フロード

1 1 )  

{2  

その男に五シリング︒私自身に一五シリング

ウエルシュ氏の説明は一七二七年五月八日︑

一七二七年︱二月

1 1  

L

近衛師団のラルフ氏とハーグローブ氏によってもたらされた︒

ウィリアム・ソルケル

ジョン・フロード

ウォルター・ジェーンズとセント・

挙式費用を支払うためにニギニーを私に与えた︒僧侶に七シリング六ペンス︒花婿に六シリング︒残額を私自身に︒

二三日をみよ︒ 二人は婦人のために夫を準備し︑

︵ 僧

侶 ︶

︵ 僧

侶 ︶

︵ 僧

侶 ︶

そのあとの全ての

lS ‑‑‑4 581 (香法'96)

(10)

(l

) 

ハンフリーズとクラーケンウェルのセント・ジェームズの寡婦︑

6,   (2 ) 

ファウンティン

F o

u n

t a

i n

の地下室にて︒

(11) 

ジャイルズ・イン・ザ・フィールズの未婚女性︑グレース・ベニット︒

この結婚は秘密にされた︒婦人は彼女が寡婦である期間に寡婦給与を得られるからである︒

ホートン︒

シ ェ フ ァ ー ド

・ ア ン ド

・ ゴ ウ ト

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d   G oa t にて

︒ 教 区 官 吏 達 が 逮 捕 令 状 に よ っ て そ の 男 を 連 れ て 来 て

︑ 彼 女 と 無 理 や り 結 婚 さ せ た

︒ コ ヴ ェ ン ト

・ ガ ー デ ン の セ ン ト

・ ポ ー ル の 独 身 男 性 の 大 工

︑ ジ ョ ン

・ キ ン グ と 同 所

︵ 翌 メイデン・レーンの男の家で行われた︒女は病床にふしていた︒

一七四五年四月一八日

グロヴナー・スクエアのセント・ジェームズの独身男性のスクワィア︑

J .  

S.  B u

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  1 83 3,  p .  

45 . 

` ︐ '  

︐ ' ︐  

の未婚女性︑ダイアナ・ニコルソン︒

エリザベス・グリーンウッド︒

一七四一年

一月 五日

(12) 

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,

サリのヨールの独身男性の労働者︑

リチャード・

ロバート・パーカーと同所の未婚女性︑

クランプトンのマリッジ・ハウスにて︒

ジェーン・スパロウ︒

結 婚 に 五 シ リ ン グ

︒ 証 明 内 に

9 9  

︱︱ .‑

9

̲ '  

一七

0

年四月二八日

ケントのルーサムの独身男性のジェントルマン︑ セント・ジェイルズの貧民監督官︑シリング︒

ジ ョ ン

・ フ ロ ー ド ハナ

ヘンリ・マーサーと同所の寡婦︑

︵ 僧

侶 ︶

︵ 翌 クラーク氏によって連れて来られた︒

1 0  

15  4 ‑582 (香法'96)

(11)

(N) 

(全)(‑,;,) 

(L'"))  R. L. Brown, The Rise and Fall of the Fleet Marriages. in R. B. Outhwaite (ed.). Marriage and Society: Studies in the 

Social History of :¥farriage, Europa Pub., 1981. p. 117. 

J. 

S. Burn. op. cit., pp. 41‑42. 

Ibid .. pp. 40‑41. 

:: ,¥ ,.L ,\芸~=:::s0=--,.LS忘姦茫噂岳葉80令全,:::-~="'―,.Li"一ふ~,.L呈~;'心ロャ,\ヽド・ら一--.:;'t<King's Arms」心二'"ヤ

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i:'‑";‑‑1"'0 L. W. Wyatt (茫茎)」(Ibid .. p. 50.) 

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凌旦.‑,i)..lJで二いや母ぐ‑i'.‑::(Ibid .. p. 83)

Ibid .. p. 43 

.Lーやゞ・ヤーH,¥こ:-~'

S姦老竺こ~~I'(Ibid.. p. 39.)

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l(‑N) 

(X) 

(C':) 

(三)(::::) 

(~) Ibid., p. 42. 

Ibid., p. 44. 

P. C. Y nrke (ed.), The Life and Correspondence of Philip Yorke 

Octagon, 1977, vol. 2. p. 58. 

J. 

S. Burn, op. cit .. pp. 81‑91. 

R. L. Brown. op. cit., p. 124.  Lord Chancellor HardwickeCambridge,1913, Rep. 

(96,¥Hi 

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8S

│,t│,  Sl 

1 1 

(12)

2( 2 5 )   ( 2 4 )

 

( m )  

( 2 2 )  

.七四/年七月四日のデイリー・ホスト

Da il Py os tに次のような出巾が掲載された︒ぶ几週の卜睛日︑

教区の教会委員が白分逹い責任を免れるためにフリート始の費川を支払い︑ムーア・フィールズでバイオリンを弾いているアムブロ ーズ・タリ

Am br os eT al ly

0

シリングをりえた︒社と将来の家族をシ

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アディッチに定住させ るためであった︒彼らは儀式が行われるのを監視するために教区宜吏を送り込み︑儀式が学釘されるのを見屈けさせた︒このシ︱

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の教区の狭址なやり方と不正規な結婚の^小中ーな詞

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助と奨励におそれ人る以外にない︒﹂

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55

5 6. ) 

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5 4  

務の支払いから免れるために︑

彼に半ギニーをりえたことも址明された︒

陪審は厭告勝高い評決をドした︒﹂

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S 1 

Journalに載っている。「―七q~几年.一月一

 

Ja me

sHopmanを厭告とし︑ジェーン・ハンター

Ja ne Hu nt er を被告とする高訟がじ府裁判面で審即された︒被告が伯務を作ったとき︑被告は近衛歩兵連隊の兵じ︑マターソン

l¥ Ia tt er so n という男と結婚していたことを証明した︒

しかし他方で︑

マターソンにはそのときに生仔している林がおり︑

被告が彼と結婚し︑情

( 1 9 )

 

J .   S.   Bu rn . 

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45 . 

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5354. 

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15 

( 1 8 )

 

( 1 7 )

 

( 1 6 )

 

4 ‑584 

( 1 5 )

 

( 1 4 )

  ︵ い ︶

(香法'96)

(13)

フリートとメイフェア(栗原)

トルマンであった︒ ﹁秘密婚とイギリス近代(│︵四・完︶﹂を執筆後に︑

事情が具体的に示されている︒

一 七

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ニー一七一四

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19 92

)が出版された︒

そのうちの四つの事例にフリート婚がかかわっている︒

しかし︑ここではそのうちの一つの事例︑

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G r i f

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1七︱二\一七一四を紹介するだけにとどめたい︒これ

はストーンが大主教裁判所

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の裁判記録をもとに事件の順末を再現したものである︒

者達は上層身分に属する貴族やジェントルマンの子供達である︒未成年の当事者達が親の同意なしにフリート婚に訴

この時代の上層の人達の婚姻慣習が事件の顧末に用くのしかかった事件でもある︒

七︱二年の法律によって秘密婚をフリート監獄の礼拝堂で挙式することができなくなり︑

この事件はこの間のフリート婚の実態を知りうる点でも注目

される︒以ドでは︑

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s からこの事件を紹介するが︑

脚注を省略したことを予めお断りしておく︒

﹁二代目グリフィン卿の法定相続人であるエドワード・グリフィンは︑

校に通っていた︒彼はハーパー

H a

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兄弟と親友となった︒ハーパー兄弟の父親はダービーシャの資産のあるジェン

ハーパーは

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供達の教行のためにラグビーに家を移していた︒

ィンはハーパーの家に頻繁に出入りし︑ 特許自巾区域のマリッジ・ハウスで挙式され続けたが︑

エドワードはラブレター

それ以後︑秘密婚は監獄の その

ため に︑ そこで二人の友人の姉エリザベスと親しくなった︒

一 七

0

七年から一七

‑ 0

年の三年間ラグビー

一部分を省略したことと︑原文の頁を示す細かい

えたことから事件が始まるが︑

この事件の当事

エドワード・グリフ

これには一六六

0

年から/じ

I i :

.一年までに生じた二四の秘密婚の事例研究が含まれており︑

秘密婚にまつわる様々な

G r i f f i n   v .   G r i f f i n  

15‑ 4  585 (香法'96)

(14)

ねた

が︑

ないと言うので︑ 大に対応した仕方を明らかにしている︒

その一時間に生じたことは数人の証人達から再現することができる︒

二人は最初にフリート監獄に虹行した︒

V y

s e

に会った︒ドクター・バイスは挙式させることで有名な僧侶であり︑重禁固の囚人であった︒しかし︑彼は新し い法律によって脅かされ︑秘密婚を挙式させる機会を失っていた︒彼は若い二人に許可証を持っているかどうかを吟

二人を結婚させることを拒否した︒

家の他の人達に言わないように頼んだ︒ ックニーの馬車に乗り込み︑出かけていった︒

フリート監獄の特許自由区域に住ん

その話はフリートの婚姻業が法律の圧力の増

そこで二人はドクター・バイス

D r .

しかし、彼はドクター・ドレイパーDr•

Dr ap er

という

彼の友人を紹介した︒ドクター・ドレイパーは監獄外の特許自由区域にいるので︑新しい法律のもとで危険を冒すこ ともなかった︒彼は秘密婚を挙式させて生計を立てる債務囚であるが︑

二年

間︑

一時間後に戻って来たエリザベスは︑

メアリに自分が出かけたことを

人だけで出かけることを︑彼女の友人︑ 同意もなく︑秘密に﹂結婚することに同意した︒

一七︱二年四月二

0

日の

夜︑

エリザベスが遅い時間に若い男性と 四月までに︑

二人は ところで七週間滞在した︒ピーコックの家に滞在中︑エリザベスはほぼ毎日エドワードの訪問を受けた︒ 準備をしていた︒三月には︑エリザベスは父親の同意を得て︑ロンドンの友人︑

ピーコックという裕福な商人の娘の

エドワードはオックスフォードでの学生生活を終え︑

ロンドンに移ってグランド・ツアーの

を書

き︑

それを二人が教会にいる時に祈頑書に入れて渡した︒

フォードに移った︒二人は一年以上も再会しなかったが︑

一 七

0

年 ︑

その とき

︱ ‑

0

歳であった︒二人は真剣に求婚を始めたが︑﹁その求婚を各々の親達には秘密にしておくこと﹂

一七︱二年の初めに︑

二人は深く愛し合うようになった︒そこで二人はあまりにも愚かな決断をした︒ で同意していた︒

一七︱二年

﹁二人の親達の

メアリ・ピーコックが注意したのを無視して︑彼女はエドワードとともにハ

エドワードは一九歳の大学生で︑エリザベスは エドワードはラグビーを去り︑

一四

オックス

15 ‑4 " 586 (香法'96)

(15)

フリートとメイフェア(栗脱)

姻を完成させた︒ 日

後︑

エリザベスはエドワードと結婚したことを侍女に告白し︑彼女の援助を求めた︒四月二九日︑

エドワードが訪ねて来て︑

一 五

エリザベスはラグビーの父の家に戻った︒

エド

その数 録し︑同時に︑ 八﹂と書いた︒それは二人が乗って来て︑

二人を待っているハックニーの馬車の番号であった︒

エドワードはその証

罰を免れるための巧妙な努力であった︒

話によれば︑午後八時から九時の間に︑ドクター・ドレイパーはグリーン・アーバー・コート

Gr ee nA rb ou r  C

o u

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  にある彼の家で二人の身分のある人達と一人の従僕の訪間を受け︑三人は彼に会うために階段を登っていったとのこ とである︒二人は彼に二人を結婚させるように頼み︑彼が許可証があるかどうかを専ねると︑

バイスは︑自分は僧侶であるが︑現在はフリートの重禁固の囚人であることを説明し︑自分に代わって二人を結婚さ

せることをドレイパーに頼んだ︒そのために︑

明書を発行するとき︑ ドレイパーはただちに彼の部屋で許可証なしに一一人を結婚させた︒証

ドレイパーは印紙のない白紙の証明書を取り出し︑

それに記入した︒しかし︑

その後のドレイ パーの裁判所での証言では︑証明書には自分の名前が記入されたが︑自分で記入したのではなく︑自ら記入した場合 には︑先の議会の法律の印紙条項によって重罪の訴追を受けるおそれがあると感じていたと説明している︒それは刑

エドワードは婚姻の証拠を強化するために、証明書の裏に「証拠•

NO . 

六 明書をエリザベスに手渡した︒ドレイパーも︑彼によって挙式された全ての婚姻を記録する彼の手帳にその婚姻を記

フリート監獄にある登録簿

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s にその婚姻を登録した︒それは﹁ドクター・ドレ

イパーの登録簿Dr•

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﹂と言われている︒

二人はピーコックの家に馬車で戻り︑そこで別れた︒

一週

間後

︑ ハーパーの家に数日間滞在することになった︒このときに二人は公の仕方でその婚

フリートのドクター・バイスのところから来た﹂と答えて︑

バイスからの手紙をドレイパーに手渡した︒その手紙で︑

エドワードは﹁自分は

し)

f?:l 

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15 ‑4 ‑587 (香法'96)

(16)

明るみになった︒ドレイパー師も婚姻の証人として出廷した︒

エドワードの全ての手紙が提出され︑

達が親の同意なしに求妍することは考えられないことであり︑

まして結婚はなおさらである︒何も知らない二人の父 親達の間で婚姻の経済的条件をめぐって交渉が始まった︒グリフィン卿はエリザベスの婚姻分与産として二

000

ポ ンドを要求したが︑彼女の父親は一

000

ポンド以卜の支給を拒否した︒婚姻分与産の交渉は難航した︒その結果︑

エリザベスはエドワードから結婚を拒否された︒⁝⁝⁝

エドワード・グリフィンはメアリ・ウェルデン

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と結

婚し

た︒

ル総督である上地胄朕の娘である︒数ヶ月後︑

裁判所にエドワード・グリフィンを訴えた︒その訴訟は一^人の婚姻の有効性を証明することを意図していた︒

エリザベス・グリフィンは夫婦の権利の回復を求めてロンドンの

E

フリート婚︑婚姻の完成︑

しかし︑裁判所もハーパー家の人達も︑

一七一三年八月︑ 一

七一

︳一 年六 月ま でに

︑ 結婚ではなく求婚の吟が広がり始め︑

ワードの滞在の最初の晩︑

女がそれを持って行くと︑彼は侍女にエリザベスが自分のところに来るように伝えるように頼んだ︒侍女はエリザベ スが彼の部屋に人り︑鍵をかけるのを日撃した︒一

. ‑ 0

分後に︑彼女は鍵をはずして︑侍女を部屋に招き人れた︒侍女 これは合法的なフリート婚であった︒二つの内面の登録がある︵私的な手帳︑脊録簿︑証明内︶︒

の記

録︑

エリザベスは侍女にワインとオレンジをエドワードの部屋に持って行くことを命じた︒侍

1よ ︑

こオー

‑.人の父親達の耳にも届いた︒

公の床人りが婚姻の有効性をさらに仔えるものであること それによって車夫がフリートヘ行ったことを確認するためにたどられる︒

結婚式の証人であった︒ラグビーの侍女は婚姻の完成の証人であった︒ が広く信じられているという証拠である︒ は二人が裸でベットで一緒にいるのを日棺した︒

メアリは先のベンガ その後の親達の間の経済的交渉などに関わる話が

もう一人の婚

じ流階級では店い人

ドレイパーとエドワードの従僕は

ハックニーの馬車

̲ ̲]̲ 

15  4 

588  (香法'96)

(17)

ゾ リ ー ト と メ イ ゾ ェ ア I

と宣告した︒

その

後︑

一 七

の男を開したことは明らかであるが︑

たった一人の証人しかいないという理由で︑

裁判所はその婚姻は証明されない

上訴は取り下げられた︒﹂ パーの侍女の証言︑

こ ︑

' ,  

‑ ' ( ' J ,

  フリートに連れて行った馬巾の番号︑ たに署名された印紙付きの証明書︑

そし

て︑

従っ

て︑

た婚姻の登録だけを受け人れていることを知った︒その蒸留酒製造業者がドレイパーの登録簿はフリート監獄の隣の

その

後︑

弁渡士はある酒場でドレイパー師に会った︒

ケットから取り出したので︑

弁設士はもう一枚の公式の婚姻証明内を書いてもらった︒今度は自分で署名し︑

ハーパー側の証拠は︑僧侶の証言︑彼の

F

帳にある登録の

Tナし︑最初の署名のない印紙なしの証明書︑新

一七

︱一 一年 四月 二

0

日にエドワードとエリザベスをピーコックの家から 一ヒ一二年四月二九日に婚姻の完成を日撃したというラグビーのジ

Jン・ハー

フリート婚を明記したエドワードのエリザベス宛の手紙などである︒証拠の唯一の欠陥 は婚姻の第二の証人であるエドワード・グリフィンの従僕が発見されなかったことである︒グリフィン家の人達がそ

ハーパー家の人達はその判決を大主教裁判所に上訴したが︑

( 1

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  1 99 0.

)の砧仇釦︹にあたる︒さらに︑もう^冊の続編として︑離婚の

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ドレイパー師は五シリングの印紙付きのパーチメントをポ

﹁ブル・アンド・ガーター

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r﹂にあると教えたので︑

その弁護士は登録簿をそこで発見することができ

が︑調府の結果︑

議会の法律が厳罰のもとで印紙付きの許

n J i

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のない婚姻を禁止した後は︑

この登録簿は法律に従っ

の近くの蒸留酒製造業者によってつけられているフリートの婚姻登録簿にその登録をみつけることはできなかった 氏とともにフリートに行き︑ドレイパー師の手帳を調べ︑

姻の証人であるエドワードの従僕を捜し出すことはできなかった︒

それを写しとったと証汀した︒その弁護士は︑

監獄の人口 ハーパー家の人達に雇われた弁殿十がピーコック

5  4 ‑589 (香法'96)

(18)

名は五月一日から一五日間そこで定期市が立ったことに由来する︒

Ha ym ar ke tからこの地に移され︑一七六四年まで続いた︒定期市が開かれていた時代はメイフェアが高級住宅地と

して発展をとげた時代にもあたり︑時には騒動に発展しかねない定期市の開催は︑富裕な住民達の苦情の種であった︒ ーナー

Hy de Pa rk   Co

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の近 く︑

一六八六ー八八年に︑

この定期市はヘイマーケッ カーゾン・ストリート

Cu zo nS

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t にあった︒

メイフェア

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という地

フリートと並ぶもう一 ( 5

)  

つの秘密婚のセンターはメイフェア礼拝堂である︒

メイフェア礼拝常はハイド・パーク・コ

︵シリーズ比較家朕

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19 93 .) も山口印

5

( 2

) 一七︱二年は三月

‑ . 1 1 1 1 を .

J C 日とする旧暦が使われていたので︑ー一しロ一年の初めに﹂という叫述はあとの脈絡からみて→目然 であるが︑原資料︵裁判品録︶を確認できないのでそのままにした︒

( 3

) フリート監獄の特許自由区域は︑ラドゲイト・ヒル︑オールド・ベイリ︑ソリート・レーン︑フリート・ディッチに圃まれた地域 とそれらの通りに面した地域であったとはわれている︒しかし︑ドクター・ドレイパーの住むグリーン・アーバー・コートはフリー ト・レーンの北︑シー

JI

ル・レーン

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e にあるので︑フリート監はの特許自由区域は実際にはかなり仏い範圃に及んで いたと息われる︒フリート監はとその特許自由区域について︑拙稿﹁秘密婚とイギリス近代︵四・完︶

L 7香川法学ー第一.九巻第

三号︶一

0

九ー

^ 4

八頁を参照︒

( 4

) 双方の家族間の交渉は︑L

流家族の婚姻慣習である婚姻継承財産設定

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のためになされた︒婚姻継承財虻設

定の歴史的怠義について、拙稿ーイングランドにおける家父長制家族の変容をめくってー~継承財産設定を中心にしてー~」(比較

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大学出版部

1九九

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19 92 . p

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161 

16 9.

アレクサンダー・キース

A . K e i t h

とメイフェア礼拝堂

M a y F a i r   C h

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15 590 (香法'96)

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