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一 九 世 紀 後 半 の 慣 習 国 際 法 に つ い て

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(1)論. 説. 一. 二. 五. 事例の検討. 判例の検討. 学説の検討. 島. 田. 一九世紀国際法としての慣習法 口 結. 日. 8. 四. 一九世紀後半の慣習国際法について. 序. 一九世紀前半の国際法 学説. 三 一九世紀後半の国際法 e. 序. ロ ヨーロッパ国際法の終焉. 一. 征. 夫. 五九. 現在われわれは︑国際法について語るとき︑ その国際法はいつ頃から始まり︑ その後どのように変わりあるいは 一九世紀後半の慣習国際法について︵島田︶.

(2) 早法七四巻四号︵一九九九︶. ︵1︶. 六〇. 変わらないものとして︑理解してこの用語を使うのであろうか︒現在につらなる国際社会が一七世紀の中葉以降に. 成立したことは良く知られているが︑それ以来国際法はどのような変遷をたどって︑現在の姿を形づくってきたの であろうか︒. 本稿は︑国際法の約三五〇年の歴史のうち︑特に︸九世紀後半における慣習国際法に的を絞って︑この時期に存 在した慣習法がどのように理解されていたのかを明らかにすることを目的とする︒ ︵2︶. 筆者は︑別稿において︑慣習国際法の要件の一つである﹁法的確信﹂が実は一九世紀末にようやく現われたにす ︵3︶. ぎないことを論証した︒本稿は︑特にその前段階である一九世紀後半期の慣習国際法がどのように理解されていた のかを考察するものである︒. ︵1︶島田征夫﹁慣習国際法の形成と法的確信の要件﹂︵大畑篤四郎・住吉良人編﹃二十一世紀の国際法﹄︵宮崎繁樹教授還暦記念︶. 八年︑一〇〜二頁注25参照︒. 成文堂︑一九八六年︑所収︶一八七頁︒なお︑国際法の起源について︑たとえば︑柳原正治﹃ヴォルフの国際法理論﹄有斐閣︑一. 性あるいは諸国の合意をあげる︒太寿堂鼎﹃領土帰属の国際法﹄東信堂︑一九九八年︑三三頁参照︒. なお︑太寿堂教授は︑一八世紀末に先占が無主の土地を獲得する慣習法上の原則として確立した根拠として︑合理性および一般. 参照︒. らである︒>●︾︒U 9ヨ簿ρ暴鳴9ミ愚妹黛O§むミき〜ミ鳴§§§匙卜貸ドお浮Pミ︒それ以前の慣習国際法については︑たと えば小森光夫﹁国際法の学説における慣習法概念の位置づけの変遷﹂法学論集︵千葉大学︶第五巻第一号︵一九九〇年︶七頁以下. ︵3︶ 本稿が特に一九世紀に焦点をあてるのは︑一九世紀より前には慣習形成の詳細について論じた学者はいなっかたと言われるか. ︵2︶ 同書︑ 一八五頁以下︒. 九九.

(3) 二. 一九世紀前半の国際法. 一九世紀後半の国際法に対して︑一九世紀前半の国際法はどのように理解することができるのであろうか︒一九 ︵4︶ 世紀の学者の学説を見る前に︑まず一八世紀後半の代表的学者であるヴァッテルの所説を引いてみよう︒. ﹁諸国が結びうるさまざまな約束は﹃協定国際法﹄または﹃条約国際法﹄と呼ばれる新しい種類の国際法をつ. くり出す︒条約は締約当事者だけしか義務づけないことは明らかであるから︑﹃協定国際法﹄は普遍的な法では ︵5︶ なくて特別な法である⁝⁝︒﹂︵緒論第二四節﹁協定国際法または条約国際法﹂︶. ﹁長い慣行によって確立されそして諸国が一種の法として相互に遵守する若干の準則や若干の実行は﹃国際慣. 習法﹄または﹃諸国の慣習﹄を形成する︒この法は相互間でそれを遵守する諸国の黙示の合意︑またはいわば黙. 示の協定に基づいている︒したがって︑明らかにこの法はこれを受諾した諸国のみを義務づけ︑﹃協定法﹄と同 ︵6︶ 様に普遍的ではない︒⁝⁝﹂︵緒論第二五節﹁慣習国際法﹂︶. この︑慣習法の成立に黙示の合意を要件とする考え方は﹁黙示的合意説﹂と呼ばれる︒黙示的合意説は︑スアレ ︵7︶. ス︑グロティウス︑ヴォルフの流れを汲むものである︒諸国にとって︑慣習法は普遍的なものではなく特別なもの. であり︑一般的に拘束力をもつのは自然法のみであるとされた︒ちなみに︑モーゼルも︑神の法︑自然法のあと ︵8︶ で︑条約と慣習法をあげている︒. 六一. つぎに︑一九世紀の前半から中葉にかけて活躍した国際法学者の法源論を見てみよう︒自然法をより重視する学 一九世紀後半の慣習国際法について︵島田︶.

(4) 早法七四巻四号︵一九九九︶. 者からあげてみる︒ ︵9︶. マニングは︑法源として︑まず自然法をあげ︑さらに慣習︑条約をあげる︒. 六二. ケントは︑国際法の淵源を︑神の法や自然法に従って形成されかつしばしば国際道徳として知られる国際的行為 ︵10︶. ︵U︶. の規則と︑世論が命じかつ合意および慣行によって確立される規則とに大別する︒そして︑後者が実定国際法を形 成するもので︑固有の国際法として知られていると述べる︒ ︵12︶. クリューバーは︑国際法の淵源として︑まず条約をあげ︑類推︑自然国際法と続ける︒ ︵13︶. ホイ!トンも︑まず国際法の淵源として︑権威ある学者︑つぎに条約等をあげている︒ ザールフェルトは︑法源として︑条約︑慣習法︑類推をあげている︒. 以上の引用を見ると︑この時期の国際法は一入世紀の学者の影響が強かったこと︑したがって法源として自然法 4︶ ︵1. ︵15︶. をあげる者が多く︑ついで条約をあげ︑慣習法︵または慣習︶をあげる学者は一部にすぎなかったことを特徴とし. てあげることができる︒つまり︑この時期は︑自然法主義から実証主義への移行期と呼ぶのが適当であろう︒. 柳原教授は︑ヴァッテルは一九世紀中葉まで広く読まれ︑かつ判決で引用されたが︑注目されたのは︑国家慣行にすぎず︑国. 際法の理論体系としては影響力を持たなかった︑と述べる︒柳原︑前掲書︵注1︶︑二八八頁︒. ︵4︶. ︒鴇℃議一ぎぎ巴おω﹄謹﹄伊訳は︑つぎのものを参考にした︒ヴァッテル研究会訳・山手治之監修﹁国際法︑ 鳴ミき偽﹂謡︒. ︵5︶︵6︶ζ●号く鐘①一ト鳴bミ妹魯︒りO§勲ミキ軌ミ嘗砺魯避卜竃さ殊ミミ 愚黛蔚ミ雲90§§誉魁§賊﹄き誉Gり魯吻さ誉虜. §亮〜. すなわち諸国民と諸主権者の行動および事務に適用される自然法の諸原則︵一︶﹂立命館法学第七二号︵一九六七年︶︑二二一頁︒. く○一︒8︵お8︶もや8?Sこの黙示的合意説がヴォルフにも見られることについて︑柳原︑前掲書︵注1︶八五︑二二八︑二六三. ︵7︶>●くR魯○ωρ.︑国暮ωSど轟鴇Φ一の窪毯αOo一9漏ωひq毎且α①ω§一<RのΦ一一曾<α一ぎ霞8崔凶9窪O霜3嘗Φ一霞①o算の.︑.

(5) きω匁塞§誉魯⇔§§婁§恥ミ愚蕊防簿§§隷ミミ偽蕊ωぎ肉菩駄§の−§駄. 頁参照︒なお︑グロティウス以降の学者の位置づけと︑その批判については︑柳原︑同書︑一八Oー一頁注78参照︒ ︵8︶いい冨・ω99毒αω鋒NΦαのωくα鱒㊦旨8窪ω. う︒松隈清﹃国際法史の群像1その人と思想を訪ねて﹄酒井書店︑一九九二年︑二九七頁︒オッペンハイムは︑モーゼルは自然法. 映註囲巽無鄭§藁↓亀﹂ωき9嵩ミも℃る山ρ条約と慣習を強調したことから︑彼は﹁実証主義学派の真の創始者﹂と呼ばれたとい. ミー﹄Sミ&欝. ︒鮮また︑モーゼルについては︑柳原前掲書 くo一レー勺80Φ㍉08も︒o. に全く関心がなかった︒というのは︑彼にとって︑国際法は実定法のみで︑それらは国際慣習と条約に基礎を置いていたからであ. ︵注1︶︑四三頁 参 照 ︒. る︑と述べる︒い○薯Φ呂①一日kミ鳴ミ◎職§匙卜. ちなみに︑すでに一八世紀後半に実証主義的に国際法を説明したと言われるマルテンスは︑法源として明示・黙示の協定︑慣行. ったが︑歴史的に国際慣習と条約を基礎に作られる実定国際法に関心があった︑とする︒O薯①昌虫Bき§. Po︒伊なお︑辻健児. をあげている︒オッペンハイムは︑マルテンスは時々実定国際法の間隙に自然法を引用するなど︑自然国際法の存在を否定しなか. コ九世紀前半期における国際法の法源論︵一︶﹂佐賀大学経済論集第二三巻第四号︵一九九〇年︶七頁参照︒. 9︒び網い臼︾びα冤﹂o︒09℃℃︒O山O曾. 9ミミ§鷺き︒つ§導鳴卜§黛さ融§Gつも①毛①α︒ξω●>ヨ○ρ一︒︒刈㎝もP①①●. いい困害9向ミ愚黛§ミ⇔§§ミミqミる●>亀一甜o<8ρ中霞9馨鋤舞一︒︒卸署﹂.また︑辻健児﹁クリューベルの国際法. 映§妹︑砺Goミミ§欝建§﹄ミミミ禽軌§ミト亀ドお<. ︵9︶譲●9匡睾三轟 ︵10︶. 理論ー一九世紀初期の法実証主義﹂佐賀大学経済論集第一八巻第三・四号︵一九入五年︶︑一四一〜二頁参照︒辻教授は︑タリュ. ︵H︶. ーベルの国際法理論には︑自然法思想に基づく説明と法実証主義に基づく説明が混在しており︵一六二頁︶︑ホイートン以上に自. 然法思想の影響が強く残っていると評価する︵一六三頁︶︒また︑クリューベルは︑マルテンスとホイートンの間の最も秀れた学 者であり︑実質的にマルテンスの後継者とされる︵エハ三頁︶︒. 辻健児﹁ヘンリー・ホイートンの国際法理論における法実証主義﹂佐賀大学経済論集第一四巻第二号︵一九八一年︶︑一二ー三︑. ︵12︶甲譲げ88P箋鳴ミミ砺駄﹄ミ鳴§§§ミト§る邑Φ血︒薯拍ω鍔養㊦昌︒ρ一・︒︒ω﹄一㎝●. 一二頁参照︒辻教授は︑ホイートンを法実証主義者と評価するが︑自然法も国際道徳として国際法の基礎に位置づけているとする. くo一9一. 一〇︒OP℃℃﹄O−曽●. 六三. ︵二四頁︶︒なお︑ウォーカ:は︑一九世紀末の著書で︑ホイートンの法源の分類をあげている︒り︾薫巴冨び﹄舘駐o燵黛覧ミ ト貸ミ黛さ職§︒う. 一九世紀後半の慣習国際法について︵島田︶.

(6) 早法七四巻四号︵一九九九︶. 六四. ︒8﹄ドザールフェルトは︑国際法の概念の説明のさ 勾ω墨匡①一90ミ醤辱塔織ミG︒魯無価ミ砺駄8恥ミ愚禽的罫§図q毒ミN8ミ砺しo. いに︑ヨーロッパ国際法という語を用いると同時に︑文明諸国の語も用いている︒きミ﹄H. ︵13︶. ︵辻︑前掲論文︵注8︶︑一三頁︶﹁当時は国際社会全体に妥当する自然法に代わる統一的な実定国際法を模索していた時代であっ. ︵14︶ 辻教授の言をかりて︑この時期の自然法と実定法の関係をまとめると︑コ九世紀前半は自然法論の急速な後退期である︒﹂. ︵た︶⁝⁝︒﹂︵一五頁︶﹁⁝⁝内容的には実質的に実定国際法の訂正を行いながらも︑自然法を何らかの意味で国際法の基礎である. っており︑他方ですべての国家を拘束する実定国際法が少なく︑自然法を無視しては一般国際法を説明するのが困難であった︒﹂. と当時の多くの学者が述べた所に一九世紀前半期の実証主義の特徴があると言えよう︒この時代は自然法思想の影響がまだ強く残. 三 一九世紀後半の国際法. 太寿堂︑前掲書︵注3︶︑五九頁参照︒. ︵辻健児コ九世紀前半期における国際法の法源論︵二︶﹂佐賀大学経済論集第二七巻第一号︵一九九四年︶一四頁︶と言えよう︒ ︵15︶. e学説. 以上のように︑一九世紀前半の国際法については︑一部に実証主義国際法の思想が認められる学者もいるが︑一. 般に自然法主義の思想が支配的であったといってよい︒ではそれが︑一九世紀も後半に入るとどう変わるのか︒つ ぎにこの点を見てみよう︒. この点については︑案に相違して︑自然法主義の思想がすぐにはなくならず︑依然として根強く残っていたこと に注目しなければならない︒例をあげよう︒. まず︑フィリモアは︑法源として実定法である成文法と慣習をあげると同時に︑主要な法源として︑神の法.

(7) ︵16︶. ︵α三8冨名︶をあげている︒そして︑この神の法は自然法を含み︑キリスト教の法として知られている︑と著して いる︒. ︵17︶ ハレックも︑条約を︑神の法︑歴史︑ローマ法等の最後にあげるにすぎない︒ ︵18︶ プラディエール・フォデレは︑まず歴史をあげ︑続けて条約︑慣行︵拐濃Φ︶︑国内法︑判例などをあげている︒ ︵19︶ カルヴォも︑国際法の法源の説明の第一に︑国際法学者の著作︑つぎに条約︑歴史︑判例などをあげている︒ ︵20︶ ローレンスも︑まず偉大な学者の著作︑つぎに条約︑捕獲審検所などの判決をあげている︒ ︵21︶ ホールは︑権威ある国際的慣行︵拐謎Φ︶と条約をあげている︒. 以上の引用で分かるとおり︑一般にこの時期の国際法学の実証主義者は︑自然法の存在と効力を否定せずに︑国. 際法の法源としては︑慣習と条約を強調すると言われている︒一口に言って︑一九世紀後半の国際法は混乱期にあ ︵22︶. ︵23︶. った︒何がその原因であったのかと問えば︑その大きな理由の一つに︑ヨーロッパ国際法の非キリスト教世界への. ヨーロッパ国際法の終焉. 拡張︑特にアジア諸国の国際社会への加入があったことは確かである︒. ⇔. こうした国際法の非キリスト教世界への広がりを見て︑国際法は果してヨーロッパ特有のものなのか否かが問わ. ︵24︶. れ始めた︒実際に一八七〇年代には︑国際法学会で︑ヨーロッパ慣習法が東洋の諸国に適用できるか︑が問題とな った︒. この点を︑国際法学者の著書のタイトルに注意して見てみると︑一八世紀から一九世紀の中頃まで︑﹁ヨーロッ. 六五. パ国際法﹂という語をタイトルにもつ著書が多く現われている︒しかし︑一九世紀も後半になると︑それらは姿を 一九世紀後半の慣習国際法について︵島田︶.

(8) 早法七四巻四号︵一九九九︶. 六六. 消す︒同時に︑プラディエール・フォデレの著書﹁ヨーロッパおよびアメリカの国際公法﹂が現われ︑そのタイト ︵25︶ ルからも︑当時の国際社会の広がりがうかがい知れる︒. しかし︑前述の書物の内容︑特に法源について見てみると︑それら書物にはこの時期に非キリスト教国が国際社. 会に加入した影響はほとんど認められない︑といって良い︒その理由を考えてみると︑第一に︑新しく加入した国. 家が少数であったため︑新しい国際社会と古い国際社会の量的な差が﹁法﹂を変えるほどには著しいものではなか. った点︑また︑ヨーロッパ国際社会の結びつきが歴史的・文化的にきわめて強く︑かつ新しく入った国々の力が必. ずしも強くなく︑一方が他方の加入を承認するようなかたちをとったため︑国際社会が質的に変わったとは意識さ. れなかった点をあげることができる︒つまり︑質・量ともに︑ヨーロッパ国際社会をカバーしていた国際法の内 ︵26︶ 容︑つまり法源はほとんど変化を受けなかったと言えるのである︒. ヨーロッパ諸国は︑一九世紀の中頃迄は︑国際社会のメンバーは︑﹁キリスト教国﹂だけであると信じていた︒. 一九世紀中葉の一部アジア諸国の加入後︑実際にはこれらアジア諸国をどのように扱うかが問題となっていた︒つ ︵27︶. ︵28︶. まり︑その方策は︑回答の一つとして非キリスト教国家を対等な国家と位置づけない︑同じ仲間とみない態度であ ︵29︶. った︒そして次第に﹁キリスト教国﹂であることの代わりに︑﹁文明国﹂であることを国際社会のメンバーたる資. 格として要求するようになっていった︒すなわち︑国際関係を形成する相手としては認めても︑対等な相手として ︵30︶. 忌︒り愚§﹄ミ鳴§§§ミト§口︒︒おも﹂㎝︒. は認めないという考え方︑欧米諸国に都合の良いこうした考え方の前提を︑表現を変えて︑﹁文明国﹂という基準 に置き換えたので あ る ︒ ︵16︶戸雷一一一ぎo戦ρ9§§鳴ミ.

(9) ︵17︶. ︵19︶. 爵§魯.ω﹄ミ鳴§隣職§ミト. O碧評ΦぴくOH一口o︒OρOO●㎝9鴇︶Oド §ω巳9.げ蜜ω●じ. ΩO巴<ρ卜鳴b頴9妹﹄ミ鳴ミ&帖§ミ暴餌ミ尉ミ職︑ミ蛛避ミ訴o日Φ一ふ︒蝕 ﹂o ︒霧もPまo︒. ちなみに︑後述のパケット・ハバナ号. ︵18︶コ零餌象R山○αRρSミ軌融魯b頴9妹﹄ミ鳴§§oミヘ︑§誉恥ミ愚噺§庫山ミ豊ミき唇oヨΦ一口︒︒︒ o ㎝もるO●. ↓︒いい帥薫お蓉ρ寒鳴︑\き偽骨壽︒う馬﹄ミミ醤. 一︒︒3もワ伊. 融§ミト貸ドω巳9こ這Oρ℃づ●Oド. 黛ミ算幾の誉融︒り鉛愚ミミ鳴O§試肉愚o試妬藁藤い四類国儀49ω﹂胡−嵩oo一唱︒oo8︒. 事件判決では︑カルヴォは︑現在のいかなる国際法学者よりもより広範かつより価値のある名声を得ていると紹介されている︒. ︵20︶. トルコ︑日本︑中国︑ペルシア︑タイなどの加入である︒田畑茂二郎﹁国際法秩序の多元的構成︵一︶﹂法学論叢第四七巻第. たとえば︑筒井若水﹁現代国際法における文明国の地位﹂国際法外交雑誌第六六巻第五号︵一九六八年︶︑四四〜五頁参照︒. ︵飢︶譲国︒国四F﹄§§蹄鳴§悩ミ鳴§禽帆§ミト§﹂浮①. ︵23︶. ︵22︶. その議論について︑廣瀬和子﹁国際社会の変動と国際法の一般化−一九世紀後半における東洋諸国の国際社会への加入過程の. 三号︵一九四二年︶︑三八九頁︒. 法社会学的分析﹂︵寺沢一他編﹃国際法学の再構築・下﹄東大出版会︑一九七八年︑所収︶二二九頁以下および藤田久一﹁東洋諸. ︵24︶. 国への国際法の適用1一九世紀国際法の性格﹂︵関西大学法学部編﹃法と政治の理論と現実・上巻﹄関西大学法学部百周年記念論. ooo9 ℃層&ザo. 文集︑有斐閣︑一九八七年︑所収︶一四八頁以下参照︒﹄§§§誉魯蚕諜慧ミ魯bミ母﹄ミミ§無筑§ミ﹄o一﹂﹂o︒胡−︒︒︒ も ︶閃&餓○⇒. 前注18参照︒ちなみに︑当時のヨ!ロッパ国際社会のメンバーの数を見てみると︑たとえば︑一八一五年にはわずか二一力国. づo信<①一一Φ四びみの①ρHONoo. ︵25︶. ︵アメリカ合衆国を含む︶にすぎず︑これはまさに︑..窪Φ貯且ξ︵9召広○蕊︶︑︑と呼ぶにふさわしい︵なお︑後にドイツとイタリ. 三二頁︶︒また︑サヴィニーは︑﹁国際法は︑⁝⁝特にキリスト教的ヨーロッパ諸国内に成立する⁝⁝︒﹂と言う︒サヴィニー︵関. アに統一される諸国を除くと︑わずか一〇力国とされる︒芹田健太郎﹃普遍的国際社会の成立と国際法﹄有斐閣︑一九九六年︑二. 西学院大学法学部サヴィニー研究会訳︶﹁現代ローマ法体系︵七︶﹂法と政治第一七巻第二号︵一九六六年︶一二八頁︒なお︑著書. のタイトルの変遷については︑カール・シュミット︵新田邦夫訳︶﹃大地のノモス・下﹄福村出版︑一九七六年︑三一五〜九頁参. 六七. しかし︑一九世紀も後半になると︑たとえばブルンチュリが︑国際法はヨーロッパに限られず︑その支配領域は人にふれる限. 照︒. 一九世紀後半の慣習国際法について︵島田︶.

(10) 早法七四巻四号︵一九九九︶. 六八. り︑全地球に及ぶと述べるなど︑新しい方向を模索する学者が現われることになる︒旨Q田巷駐oごFb禽ミ◎譜§鳴ズq忘ミ惹ら戴. この点︑カール・シュミットは︑﹁一八九〇年頃まで国際法というものは︑特別にヨーロッパ的な国際法なのであるという見. 駄ミ亀蔑詳賊試§盟鼠§鴇ωθ︾鼠囲餌閃ρ一〇〇﹃oo℃P爵σ. ︵26︶. の間に︶ヨーロッパ国際法︵ヨーロッパ公法︶が地球全体をつつむ普遍的国際法に拡大したという︒田畑︑前掲論文︵注23︶︑九. 解が支配的していた︒﹂と述べている︒シュミット前掲書︵注25︶︑三︸五頁︒シュミットはまた︑一八九〇年より︵約五〇年ほど. 的﹂性格を失っていった︑と述べる︒︾︒Z霧3雲β餌O§魯鳴国刷Gりむ健魚導鳴卜隣ミ蔓さ職§勲おくる. お9い℃﹂09. 六ー九七頁参照︒また︑ヌスバウムは︑ヨーロッパ国際法の拡張の過程で︑国際法はモーゼルとマルテンスが付した﹁ヨーロッパ. ︵27︶島田︑前掲論文︵注1︶一八九頁の注18の部分参照︒当時のヨーロッパ社会のアジア諸国の見方については︑住吉良人﹁第三. ちなみに︑文明と非文明に関する当時のヨーロッパ人の意識を知る手掛りとして︑ベルギー国王レオポルドの言葉を引いてお. スト教国のみを対象としていたことについて︑田畑茂二郎﹃国際法︵第二版﹀﹄岩波書店︑一九六六年︑六八頁注1参照︒. 世界と国際法︵一︶﹂法律論叢第五〇巻第二号︵一九七七年︶︑三九〜四一頁参照︒一七〜一八世紀の国際法は︑ヨーロッパのキリ ︵28︶. のことは︑あえていうならば︑この進歩の世紀にふさわしい十字軍なのである︒﹂︵シュミット︑前掲書︵注25︶︑二九八頁からの. こう︒﹁文明がまだ浸透していない地球の唯﹃の部分に文明をもたらすこと︑全住民の上におおっている暗黒を突き破ること︑こ. 廣瀬教授は︑﹁キリスト教諸国の時代﹂から﹁文明諸国の時代﹂への転換点を一八五六年に置いている︒廣瀬︑前掲論文︵注. 引用である︶. ︵29︶. こうした考え方は︑一八七〇年代の国際法学会のテーマ﹁ヨーロッパ国際法の東洋諸国に対する適用可能性﹂に関する﹁東洋. 24︶︑二二頁参照︒. 諸国との国際関係は文明の程度によって異なる﹂との言や︑人類を文明人︑野蛮人︑未開人に分類し︑実定国際法は野蛮人︑未開. ︵30︶. 田畑︑前掲書︵注27︶︑七六〜七頁注3参照︒芹田健太郎﹁人−近代法から現代法への展開﹂︵岩波講座﹃基本法学5⊥貝任﹄一九. 人に対して適用の義務がない︑とのロリマーの考え方に端的に表われていると言える︒廣瀬︑前掲論文︵注24︶︑一三六頁参照︒. ただし︑文明国の語はザールフェルトの著作にすでに見られる︒前注13参照︒. 八四年︑所収︶四一四頁参照︒.

(11) 四 e学説の検討. 一九世紀国際法としての慣習法. 一九世紀後半の国際法学者も︑自然法思想を即座に無視できない環境におかれていたが︑何人かの学者は慣習法. を重視する考え方を明らかにしている︒たとえば︑ロシアのマルテンスの著書には︑法源として第一に国際的慣. 1︶. 行︑第二に国際条約があげられており︑国際的慣行︵拐甜o︶について︑﹁国際関係のために︑常に同一の事情の中 ︵3 で継続的にしてかつ終始一貫した適用があることに基づいて確立される規則を国際的慣行という︒﹂と述べ︑さら につぎのように続け る ︒. ﹁法の観点からは︑国際的慣行は等しく大変に重要である︒一国内で確立した慣行が︑その慣行に従う人々が. 道徳観・法律観の共有と本質的利害関係の共有とにより相互に結びつけられていることを示す場合には︑同様に. 国際的慣行について︑すべての国によるそれら慣行の遵守は︑文明諸国の利害関係が相互的であることと諸国が. 2︶. 共通に法を尊重していることを示すと言うことができる︒この利害関係の相互性とこの法の尊重が︑現在の国際 ︵3. 法の基礎なのである︒﹂. ︵33︶ つまり︑彼の慣習法に関する考え方については︑慣習法という語を用いていないものの︑﹁黙示的合意説﹂から 一歩すすみつつあったということができる︒. 六九. 残念ながら︑これが︑当時の国際法学者の一般的傾向でなかったことは︑ホールもカルヴォも︑慣習法に全く注 一九世紀後半の慣習国際法について︵島田︶.

(12) 早法七四巻四号︵一九九九︶ ︵34︶. ︵35︶. 七〇. 意を払っていなかったこと︑またホルツェンドルフが︑ドイツ歴史学派の影響を受けていたにもかかわらず︑慣習 法と条約を主要な淵源としてはあげなかったという事実によっても︑裏づけられる︒. このことは何を意味するかと言えば︑この時期︑学者にもヨーロッパ国際法の拡張とその影響について︑はかり. かねている姿勢が垣間見られるのではあるまいか︒つまり︑国際法の適用範囲の非ヨーロッパ世界への広がりとい. う事実を︑どのような形で国際法の中に受け入れるべきかについて︑学者も判断がつきかねていた︒そう思えるの である︒. ⇔判例の検討. 学者が判断をつけかねていた中で︑現実に国際法の新しい傾向に直面しなければならない者がいた︒それが︑裁. 判官であった︒彼らは︑法の不存在や未成熟のままといってすますわけにはいかなかったのである︒彼らがどのよ うな考え方でこの場面に対処したのかをつぎに見てみよう︒. 慣習法の問題を実際に扱った︑一九世紀後半の判例はきわめて少なく︑正面からこの問題を扱ったものとして. は︑以下に紹介するアメリカの連邦最高裁判所のものが主なものである︒その第一はスコチア号事件︑第二はパケ. ット・ハバナ号事件である︒この両事件は︑確かに国内裁判所の判決だが︑慣習国際法を中心的問題とした点およ. び︑関係する慣習法の形成に当時の国際社会のほとんど全ての国が関与していた点だけを見ても︑これらの判決が アメリカ一国だけのものでないことは︑明らかである︒ ︵36︶. まずスコチア号事件だが︑発生は一八六七年で︑判決の出されたのは五年後の一八七二年である︒この事件の判 決の説明に入る前に事件の背景に簡単にふれておこう︒.

(13) アメリカ人のフルトンが汽船を発明したのは一八〇七年で︑その後汽船が次第に帆船に取って代わるようになる. が︑イギリスは︑汽船のスピード化と汽船・帆船の両用による船舶事故の防止を主たる目的として︑一八六三年一. 月九日に枢密院令で︑海上衝突防止規則を定めた︒フランスは︑これにならって同年六月よりイギリスの管轄権の. 内外を問わずこの規則がフランス船にも適用されることに同意している︒またアメリカも︑翌六四年四月二九日 ︵37︶. に︑この規則を承認し︑その後同年末までに︑大西洋で海運を営むほとんど全てを含む︑世界の主要な商業国家で. ある三〇力国以上がこの規則を採用した︒本件はこうした背景をもって発生したものであった︒. 一八六七年四月八日の深夜︑大西洋の公海上で︑アメリカの帆船バークシャi号とイギリスの汽船スコチア号が. 衝突して︑アメリカ船バークシャー号が沈没︑そのさいに沈没の原因がスコチア号側の過失にあるとして︑バータ. シャー号側がアメリカの国内裁判所に損害賠償を請求した︒一・二審とも被告が勝訴した後︑連邦最高裁判所で審 理されることになった︒. 同裁判所は︑まず衝突の発生した場所とその時点での法は何であるかを問題にした︒そして︑その法はアメリカ の法でも︑イギリスの法でもなく︑海洋法つまり国際法であると結論した︒. アメリカの連邦最高裁判所が問題としたのは︑この事件に適用されるのは︑一八六三〜六四年にかけて世界の商. 業国家がイギリスのつくった新しい規則を採用する以前に存在した古い海洋法︑これは︑灯火を舳先に一つ付ける. だけのもので︑この古い海洋法なのか︑あるいはその規則が各国に採用された後に生じた新しい法︑これは︑マス. トと左右両舷に合計三つの灯火を付けるもので︑この新しい法なのかであった︒同裁判所は︑前述の事実を考慮し. 七一. て︑一入六三年以後に生じた新しい法を本件衝突が起こった当時の法としてみなさざるをえない︑との結論に達し 一九世紀後半の慣習国際法について︵島田︶.

(14) 早法七四巻四号︵︼九九九︶. 七二. た︒ここで重要なのは︑一八七二年三月二五日の判決において︑慣習法についてつぎのように述べられている点で ある︒. ﹁⁝⁝衝突が起った場所の法および衝突が起った時点の法が何であったのかという問題が依然として残る︒そ. れは︑合衆国の法でも︑イギリスの法でも︑また両国政府の共同の規則でもなく︑海洋法であったことを認める. ならば︑この海洋法は︑世界の商業国家が一八六三年および六四年の規則を採用する以前に存在した古い海洋法. なのかあるいは︑それらの規則が採用された後に変更した法なのか︒単一の国家が海洋法を変更できないことは. 疑いない︒海洋法は︑普遍的義務を有するものであって︑一〜二の国の国内法が世界に対して義務を創ることは. できない︒全ての国際法と同様に︑海洋法は︑文明社会の共通の合意に基礎をおいている︒海洋法が効力を有す. るのは︑それがいずれかの大国によって規定されたからではなく︑それが行動の規則として︑一般的に受け入れ. られてきたからである︒その起源が︑航海の慣行上かもしくは海洋国家の法令上かまたはその両者か︑どのよう. なものであれ︑それが海洋法となるのは︑商業界を構成すると言える諸国家の一致した是認による場合に限られ. る︒一般的に行われかつ法的効力を有する慣行の多くは︑疑いもなく︑ある一つの国家の実定法規にその起源を. 有した︒その法規は︑当初限られた効果しか有しないが︑一般に認められると︑普遍的義務を有するようにな った︒﹂︵傍点筆者︶. ︵38︶. このように述べて︑判決は︑その例として︑ロドス海法︑ルイ一四世の法令などを列挙し︑さらにつぎのように つづける︒. ﹁これらすべてのものは︑その起源のためにではなく︑そのようなものとして受け入れられることにより海洋.

(15) 法となった︒そして︑一般的な合意が国際法を是認するのに有効でないとすれば︑文書上の絶えざる変更と航海. の必要性が求める海事規則の発達が決して起こりえないことは自明である︒航海上の規則の変更は行われた︒海. 洋国家の明示的または黙示的な一致した合意によるのでなければ︑それらの変更はどのようにして達成されたの. であろうか︒それゆえ︑われわれは︑一八六三年一月九日のイギリスの勅令と翌年のアメリカの議会法で言及さ. れている航海規則が︑大西洋上の海運業をにぎるほとんど全てを含む世界の主要な商業国家の三〇力国以上の国. によって義務的規則として受け入れられているのを見れば︑われわれは︑それらを︑部分的には少なくともまた ︵39︶. これらの船舶に関する限り︑海洋法として︑そして︑原告の訴えのある衝突の発生した時点で法であったものと して認めざるをえない︒﹂︵傍点筆者︶. この判決では︑慣習法に関するつぎの二点に注意すべきであろう︒第一は︑慣習法が全世界に通用する﹁普遍 ︵40︶. ︵41︶. 的﹂義務を設けるとしている点︑つぎに︑三〇力国以上の国々の国内法という国家実行の積み重ねが一般的合意を ︵42︶. 形成し︑これが第一の点とあいまって︑一九世紀前半に支配的であった﹁黙示的合意説﹂からすすんで︑慣習法形. 成の要件となりうるものを示している点︑である︒まさにこの二点が︑一九世紀後半の慣習国際法の発展の方向を 示しているといっ て よ い で あ ろ う ︒. また︑この判決では︑﹁文明社会︵の共通の合意︶﹂という言葉が使われているが︑先の三〇力国の中に非キリス ト教国︵トルコ︶が入っていることと無関係ではないと考える︒. つぎに︑パケット・ハバナ号事件は︑米西戦争の最中の一入九入年四月に発生した︒スペイン船籍の沿岸漁船パ. 七三. ケット・ハバナ号とローラ号が︑キューバ沿岸で操業中にアメリカ軍艦によって掌捕され︑アメリカに曳航され没 一九世紀後半の慣習国際法について︵島田︶.

(16) 早法七四巻四 号 ︵ 一 九 九 九 ︶. 七四. 収後競売された︒本件は︑パケット・ハバナ号側が︑先の掌捕が違法であるとして︑同船と積荷の売却の中止およ. び損害賠償を請求したことから発生した︒ちなみに︑本判決はフロリダ南部地方裁判所の上告として下されたもの である︒. 本件では︑鮮魚の捕獲と運搬を業とする沿岸漁船が︑戦時捕獲から免除されることが国際法の規則︵慣習法︶で. あったか否かが争点となった︒裁判所は︑数世紀前から始まる英仏米普などの諸国の古い慣行を紹介し︑これは礼. 譲の規則にすぎないとする意見もあることを認めつつ︑﹁それ以来経過した一〇〇年の期間は︑もともとは慣習ま ︵43︶. たは礼譲︑礼儀または譲歩であったかもしれないものを︑文明諸国の一般的合意によって国際法の確立した規則と. して成長させうるのに十分すぎる︒﹂︵傍点筆者︶と述べた︒そして︑一九〇〇年一月八日の判決はつぎのように述 べて︑この規則が慣習国際法として確立している︑と結論した︒. ﹁国際法はわが国の法の一部であり︑これにかかわる権利の問題がその決定のために提起される時にはいつ. も︑国際法は適切な管轄権を有する裁判所によって確認︑実施されなければならない︒このため︑条約︑規制す. る行政上・立法上の法令または判決がない場合には︑文明諸国の慣習や慣行︑またこれらの証拠として︑多年に. わたる研究︑調査︑経験により取扱う主題によく通じることになった学者や注釈者の著作が参照されなければな. らない︒こうした著作は︑何が法であるべきかという著者の推測のためではなく︑実際にどんな法が存在するの. ︵44︶ かの信頼できる証拠のために︑裁判所が依拠するのである︒﹂︵傍点筆者︶. ﹁この問題に関する先例や典拠についての検討は︑今日では明確な条約その他公の法令とは関係なく︑文明諸. 国の一般的合意により︑漁具︑糧食︑貨物︑船員を含めて︑武装せず誠実に鮮魚の捕獲と運搬とに従事する沿岸.

(17) ︵45︶. 漁船は︑戦利品としての捕獲から免れるということが︑貧しく勤勉な人々に対する人道と交戦国の相互の便宜の. 考慮に基礎をおく国際法の確立した規則であることをわれわれに十分に示しているように思われる︒﹂︵傍点筆 者︶. ︵46︶. このように述べて︑裁判所は︑本件の掌捕が違法なので︑地方裁判所の判決を破棄し︑船舶と積荷の売却収益 を︑賠償と費用とともに原告に返還するよう命じた︒. この判決でまず注目すべきは︑アメリカだけでなく︑フランス︑アルゼンチン︑イギリス︑ドイツ︑スイス︑オ ︵47︶. ランダ︑オーストリア︑スペイン︑ポルトガル︑イタリアなど︑当時の重要なヨーロッパ諸国の学者の意見を著書 を参照しながら検討していることである︒ ︵48︶. つぎに︑先例として前述のスコチア号事件判決を下敷きにしていることである︒つまり︑スコチア号事件判決の. 先に引用した部分をそのまま引いていること︵ストロング判事の言︶︑﹁文明諸国の一般的合意﹂の語を用いている ︵49︶ ことなどにより︑当時の慣習法の形成要件を示している点である︒. さらに︑この判決でいっそう注目すべきことは︑先の規則が国際法上確立していることを確認するさいに︑裁判 ︵50︶ 所がその証拠の一つとして︑非キリスト教国の一がこの規則を国内法上採用している事実をあげている点である︒. この非キリスト教国とは︑わが国のことであり︑事実とはわが国が一八九四年の日清戦争の開始に際し︑日本帝. 国捕獲審検令を制定して︑捕獲審検所を設置し︑さらに捕獲規程を制定した事実を指す︒ちなみに︑明治二七年の ︵5 1︶ ﹁捕獲規程﹂第三条は︑﹁左記ノ敵船ハ傘捕スヘカラス﹂として︑沿海漁船をあげている︒こうした指摘は︑この時. 七五. 期の国際法の環境︑つまり国際社会に新しく加入したアジアの国︵日本︶がヨーロッパ社会の動向を注視していた 一九世紀後半の慣習国際法について︵島田︶.

(18) ︵52︶. 早法七四巻四号︵一九九九︶. ︵53︶. 七六. だけではなく︑欧米の諸国も︑新しく加入した国がヨーロッパ国際法をどのように受け入れつつあるのかに注目し ていたことを︑如実に物語るものと言えよう︒. では何故この時期に︑慣習国際法の形成要件に関して︑学説や判例においてこの程度の注意しか払われなかった. のか︒この点について︑政治犯罪人不引渡の原則の慣習国際法化をめぐる問題を取りあげて︑そうした理由やその. 背景について考えてみたい︒ここで︑政治犯不引渡の原則を取りあげるのは︑一九世紀後半に︑この原則が慣習法. 化したとの有力な見解があり︑前述の検討の結果が︑この問題を別の側面から評価するのに役立つと考えるからで ある︒. 政治犯不引渡の原則は︑一入三三年に実定法上の規則として初めてベルギーの国内法に定められた︒この原則. は︑その後ヨーロッパ諸国の条約や国内法の中に次々と採用されていった︒しかしながら︑一八四〇〜六〇年代に ︵54︶. は︑この原則を認めない大国が存在した︒そして︑﹈八七四年一〇月三︵一五︶日についにこの原則を認めなかっ. た二つの大国︑ロシアとオーストリアが︑両国間で逃亡犯罪人引渡条約を結び︑この原則を採用することになっ た︒. こうした国際状況を背景に︑前述のスコチア号事件において︑アメリカの裁判所が新しい規則の慣習法化を認め. たさいの判断基準を適用してみると︑一入七〇年代の後半以降︑つまりロシアとオーストリアがこの原則を承認し. た後には︑政治犯不引渡の原則が慣習国際法の規則として認められた︑と結論づけることができる︒この結論は︑. スコチア号事件とパケット・ハバナ事件におけると同様︑諸国の慣行の積み重ねと合意︵黙認︶が慣習法を形成す. るという原則に一致すると言ってよい︒さらに重要な点は︑慣習法の形成に大国が大きな役割を果たしており︑大.

(19) ︵55︶. 国の動向が注視されていたという大国中心の事実的要素の確認と︑この時期の慣習法形成要件として︑法的確信. ︵心理的要素︶の存在は問題にする必要がないということである︒つまり︑この時期は事実的要素のみが慣習法形成. の要件とされていたのである︒これは︑国際社会がヨーロッパとアメリカに限られることを前提としてのみ言いう ることであろう︒. 国事例の検討. こうしたヨーロッパやアメリカの国際社会の動向は︑国際社会に新しく仲間入りして間もないわが国にも︑直接 ︵56︶ 間接に影響を与えずにはおかなかった︒その証拠の一つとして︑ここでは︑金玉均亡命事件を見ておこう︒. 金玉均は︑一八入四年に甲申の政変に敗れて︑朝鮮より日本に亡命した︒朝鮮側の執拗な引渡請求に対し︑わが ︵57︶. 国は︑これを断固拒否する態度を貫いた︒そして︑朝鮮側へ回答するさいに︑政治犯不引渡の原則にふれて︑﹁我. 政府ハ世界一般慣習之法二従テ事ヲ処スルニ外ナラス﹂と言い︑また﹁凡ソ犯罪人交付ノ問題ハ古来萬国交際上ノ ︵58︶. 習慣アルアリテ通常犯罪人ト錐モ交付条約アルニアラサレハ交付セサルヲ以テ通規トシ政事上ノ犯罪人二至ツテハ. 右条約アルモ殆ト交付セサル習慣ナルコト﹂と述べ︑この問題は︑日韓両国だけの問題ではなく︑欧米諸国も関心. をもっており︑諸国の習慣に反すれば︑将来各国との交際上差し障りがあるはずである︑と断固とした態度をとっ. ている︒これはまさに︑国際社会に新しく参加を認められたわが国が︑欧米諸国が政治犯不引渡原則を慣習法とし て認めていたことを︑確認しそれを守ろうとしたものと考えることができる︒. しかし︑この事例から見ても︑この時期に慣習国際法形成の﹁新しい﹂要件について︵﹁新しい﹂ということは︑. 七七. 従来のヨーロッパ社会に支配的であった﹁黙示的合意説﹂に代わる新しい︑という意味で︶︑当時の諸国の間に明確な意 一九世紀後半の慣習国際法について︵島田︶.

(20) 早法七四巻四号︵一九九九︶. 七八. 識あるいは意見の一致があった︵あるいは︑わが国がそれを知っていた︒︶とは到底思えない︒一九世紀後半がおしせ. まった時期においても︑事情は同じであったと思う︒. それは何故かと問えば︑やはり当時の国際社会が相変わらず欧米中心であって︑欧米諸国の慣行の積み重ねがあ. り︑かつ合意︵黙認︶があれば︵事実的要素の存在の確認のみ︶︑慣習法の成立と言いうるのであって︑こうした慣. 習法形成の規則を変えなければならないほど社会が変わったという意識がなく︑従来の伝統を変えるには機が熟し. ていなかったという事実をあげることができる︒言い換えれば︑ヨーロッパ社会は︑新しく加入した国々が存在す. 古代ローマの慣習法が基づく市民の﹁暗黙の合意﹂については︑恒藤恭﹃羅馬法に於ける慣習法の歴史及理論﹄弘文堂書房︑. ︒︒. ることを知っていたにもかかわらず︑まだそれらの国と正面から対等につきあわなければならないとは考えていな かった︑あるいは︑実は対等につきあいたくなかった︵と言うべきか︶︒ ︵31︶悶己①霞餌旨Φ拐Sミ誌魯bミ畦﹄ミミミ職§ミ︶早注鼻身知仁ωω①℃賃︾寂○口・ ︒︒︒︒ G も︒漣︒. ︵33︶. ︵32︶ 導凝 ℃﹄お●. 前注19︑21参照︒. 一九二四年︑一九二〜九頁参照︒ ︵34︶. ︵3 5︶ 男<︒=o崔N①&o誌抽さ§織辱§趣魯︒う§§ミミ偽ミ9ω9一﹂o︒o︒㎝もづ●o︒ω.. いる︵署︒謡堕8︶︒そのほかには︑女王対ケイン事件︵罰タ囚身P一八七六年イギリス女王座裁判所判決︑Sぎト匙ミ霜魯ミ貧. ︵36︶ 串妻︒卑侭鴨︶§鴨卜亀ミ黛さ職§︒う−O霧爵boミミ§貴§駄≧ミ舞ぎα8︑﹂O認も︑この二つの判例を法源の項であげて. 国蓉ぽ2R9︿芭OP<o一﹄﹂o︒ミもや8︶がある︒同事件は︑ドイツ船とイギリス船がドーバー海岸の二・五カイリ沖合で衝突︑. れ︑管轄権なしと判示された︒そのさい︑慣習法について︑つぎのように述べられた︒たとえば︑﹁私は︑単一の国家は︑条約あ. イギリス船が沈没︑ドイツ船の船長がイギリス船の乗客の一人を殺害したかどで訴えられたものである︒裁判所の管轄権が争わ. るいは明示の合意︑またはそれにより影響を受ける一以上の国により黙認される刑事管轄権の現実の行使によって証明される何ら.

(21) かの統﹃的︑﹃般的そして長く続いた慣行︵仁鋸鵯︶によるのでなければ︑﹇公海上の﹈他国の船舶に対して刑事管轄権を行使す. よるその管轄権の長く継続した現実の行使によって確立されそして是認されてきた︒﹂︵内Φ一ぎPω4§駄りも﹂竃︶﹁拘束力を持つ. る権利を有しないと考える︒⁝⁝制限的な⁝⁝管轄権は︑管轄権が主張されたすべての他の国々によって黙認されるなら︑一国に. も﹄8︶﹁これらの水域を扱. ためには︑法は︑それに拘束される国々の同意を受けなければならない︒この同意は︑条約によるか︑諸政府の一致した承認によ. り明示的な場合もあろうし︑確立した慣行による黙示的な場合もありうる︒﹂︵08浮貫Pρい愚幾. 慣習国際法に関する争点を扱ったわが国の裁判所の例としては︑ユン・スウギル︵ヂ秀吉︶事件についての一九六九年一月二五. う能力は︑本来的な権利や固有の権利から生ずるのではなく︑他国の黙認から生ずるのである︒﹂︵㌧黛駄●も﹄ミ︶. 日の東京地方裁判所の判決︵判例時報五四三号︑一九六九年二月二一日︶がある︒ある規則の慣習国際法性を論ずる場合︑まず慣. ン事件の東京地裁判決については︑判例時報五四三号三三頁参照︶︒ここに︑アメリカの連邦最高裁判所の判決を検討・分析する. 習法形成の要件は確認されるわけであるから︑国内裁判所であっても︑慣習国際法の議論は大いに注目すべきものである︵先のユ 意義が十分ある の で あ る ︒. ンブルク︑ハノーヴァー︑ハワイ諸島︑ハイチ︑イタリア︑リューベック︑メッケンブルタHシュベーリン︑モロッコ︑オラン. ︵37︶ オーストリア︑アルゼンチン︑ベルギー︑ブラジル︑ブレーメン︑チリ︑デンマータ︑エクアドル︑フランス︑ギリシア︑ハ. ダ︑ノルウェi︑オルデンブルク︑ペルー︑ポルトガル︑プロシア︑ローマン諸国︑ロシア︑シュレスヴィッヒ︑スペイン︑スウ. き罰︒. ﹄黛駄●. oま● 一冷℃●o. ェーデン︑トルコ︑ウルグアイの三一力国である︒q§躰民蟄&8の愚ミミ鳴Oミ試肉愚o誌﹄︒鍔毒国ρqψ刈︒︒歯ト≦毘山8=. ︵38︶. 翰︑︑ヤ﹄昏博くo一・鳶︵一︒器︶も︒①①○︒︒. ミ笥も独貸ミ層<OM︒ρ︵一りOOン戸一㎝雪タンツも︑スコ. 七九. マクギボンは︑同事件で裁判所は︑同意のほかに黙認の役割も認めているとする︒Hρ寓8笹ぎoP.︑O拐8ヨ㊤蔓H暮Φ旨甲. 一九世紀後半の慣習国際法について︵島田︶. ︵41︶. ぎ9導鋤ぼ8巴い. チア号事件では︑国内法が一般国際法の慣習規則をもたらした証拠となったとする︒いr囚琶押.︑臼箒Z餌εお90房8ヨ餌員. げ鋤ω一ω8賊H⇒冨﹃P頭岳○昌巴い餌名一昌けげΦ勺Oω学ゑ曽﹃譲Oユα矯鳩鴇寒§ミ融独ミ貸赴Oミミト. ︵40︶ ライトは︑本件に言及し︑海洋諸国がイギリス議会が制定した規則に一般的承認を与えたとする︒O●譲ユ閃耳..O仁ω8ヨ器曽. ︵39︶. −.

(22) 早法七四巻四号︵一九九九︶ oω巳網Φ鷺︸一〇零︶P一島■ 鼠o昌巴い鋤毛斡⇒血︾oρ焦①ωo①昌8︑︑︑bo脂目ソo. 八O. ︵42︶ この点で︑この時期の慣習法の形成につき︑﹁法的確信︵信念︶﹂に言及するのは正しくない︒たとえば︑田畑茂二郎・ 太寿堂. 47. 46. 45. 44. 43 ). ). ). ). ). ) 』黛. ㌧窯. 』黛. 還匙. ワ認o︒6︒. Poo認︒. 駄こ唱や器O−o︒ω︒. 斜戸o ︒︒ も 9本稿七二頁の三行目〜一四行目の部分である︒. 尉駄蜜黛翁のミ辱ミミ鳴Oo黛詠肉愚o轟勲o§亀妹こω仁胃9昌09一〇. 0P. このあたりの事情について︑安達峯一郎﹁国際法研究に就て﹂国際法外交雑誌第一一巻第三号︵一九一二年︶︑二一〇⊥頁参. 海軍大臣官房﹃海軍制度沿革﹄巻一七ω︑一九七二︵原本一九四四︶年︑五八九頁︒. o. O㌫σ 9f雲嘆㊤59Φ8マ ︵50︶. ︵1 5︶. 黛ミ. 愚︒9磨霊R餌8措NgPHO9. 一頁︒ヌスバウムも︑非キリスト教国の中では唯一日本は日清戦争後に大国に列せられることになった︑と述べる︒Z霧筈きβ. ことを実証した︒それによって︑日本を受け入れるパーティーが行なわれた︒﹂と述べている︒シュミット︑前掲書︵注25︶︑三二. 一九〇四年にはヨーロッパの強大国たるロシヤとの戦争での赫々たる勝利により︑ヨーロッパ的な戦時法規の規則を守ったという. ︵53︶ ちなみに︑カール・シュミットは︑当時の日本と国際社会の状況について︑﹁日本は︑一八九四年にはシナとの戦争により︑. 照︒. ︵2 5︶. 0NQ マ9. ロスは︑ 同事件で裁判所は漁船を捕獲から除くとの慣行が次第に国際慣習法の規範に発展したことを認めている︒く①a8ω9. マクギボンは︑同事件でも︑裁判所は黙認の機能を認めているとする︒家碧臓喜oP8るFの唇轟8房貴℃﹂餐フェアド. 蟹嘆餌βoけの一PPo︒謡︒. また︑この事件では︑一八六四年のイギリス法制定から三年しか経過していない点にも注目すべきであろう︒この点に︑ 法的確. 鼎編﹃ケースブック・国際法︵増補版︶﹄有信堂・高文社︑一九八○年︵スコチア号事件︶︑五頁︒. 信が要件になっていない時代の慣習法形成の一つの特徴があるように思われる︒. 48. 導匙●︸PGoらo一.. 駄. ↓誇勺餌ρ¢9①類普餌昌餌︒↓ぎビo圷q蕊妹&曽禽8の§薦ミ軸Oミ註肉愚o講︑魯.翼. 49 ).

(23) ︵ 5︶ 4. ○勺鋤霞ざOo虜亀箋&鳴織SN籍骨のミ暗︒り鳩くo一︒置oo︵一〇 〇週〜誤︶︸も.曽P. ︵55︶ 芹田健太郎﹁政治犯罪人不引渡原則の確立−歴史的・実証的検討﹂国際法外交雑誌第七一巻第四号︵一九七二年︶︑七四頁が︑. 則の形成過程︵二Y完﹂法学論叢第九五巻第三号︵一九七四年︶︑六四頁参照︒. この時期の慣習法の成立について︑﹁法的信念﹂の存在に言及していることは︑適当でない︒なお︑西井正弘﹁政治犯罪人不引渡. 同事件については︑たとえば︑大畑篤四郎﹁金玉均の政治亡命と日本﹂早稲田法学第五︸巻第︸・二号︵︸九七五年︶︑ご二. 同上書︑第一九巻︑明治一九︵一八八六︶年︑五二四頁︒この件に関するこれ以外の日本側の回答については︑島田︑前掲書. 結. 一九世紀後半の慣習国際法について︵島田︶. 八一. 特に一八八五年のベルリンでのコンゴ会議以後︑ヨーロッパ列強の海外発展と膨張は急激に高まり︑それにともな. 一九世紀末は︑こうした状況に大きな変化をもたらす変革の時期を迎えつつあった︒一八八○〜九〇年代以降︑. ︵黙認︶という要件としてまとめることができる︒. まり︑一九世紀前半期までの﹁黙示的合意説﹂からすすんで︑大国間の実行の積み重ね︵一致︶と他の諸国の合意. ︵59︶. 結論的に言えば︑一九世紀後半の慣習国際法については︑事実的要素のみがほぼ固まったと言えるのである︒つ. か︑どのように理解されていたのかについて︑特に二〇世紀の慣習法理論との違いを明らかにしようと試みた︒. 一九世紀後半の慣習国際法について︑学説を紹介し︑判例と事例を検討し︑それがどのような状態であったの. 四. ︵注56︶︑八一頁 参 照 ︒. ︵58︶. ︵57︶ 外務省編纂・外務省蔵版﹃日本外交文書﹄第一八巻︑明治一八︵一八八五︶年︑一二五頁︒. 三頁以下参照︒そのほかの文献については︑島田征夫﹃庇護権の研究﹄成文堂︑一九八三年︑八二頁注2参照︒. ︵56﹀. 原.

(24) 早法七四巻四号︵一九九九︶. ︵60︶ って列強の世界各地における植民地獲得競争と対立もまた苛烈をきわめることになった︒. 八二. 事実︑こうした国際環境の中で︑アジアの片すみの国々が着々と地歩をかためつつあり︑正式に国際舞台へ登場. する機会をうかがっていた︒それは︑まもなく一九世紀の終わりには現実のものとなった︒その画期的な出来事と. して︑一八九九年の第一回へーグ平和会議があげられる︒同会議には︑ロシア皇帝の招請に応じて全世界から二六 ︵61︶. の国々が集まり︑欧米諸国にまじって︑日本︑中国︑メキシコ︑ペルシャ︑シャムの五力国が参加したが︑このこ. とは︑国際法の歴史に新しい一ぺージを記したものと言っても過言ではない︒わけても︑わが国の国際社会へのめ. 2︶. ざましい進出は︑目をみはるものがあった︒この時期︑わが国が一八九四年の日清戦争の勝利を機に︑一入九七年 ︵6 までに不平等条約の改正を実現し︑一九〇〇年の義和団事件に際しては︑欧米列強七力国に伍して共同出兵を行な. ったという事実は︑ヨーロッパ国際法だけが国際法ではなく︑新しい国際﹁法﹂を非ヨーロッパ諸国のために用意. しなければならなくなった時代の幕開けを告げるものと言える︒このように︑ヨーロッパ諸国は︑非キリスト教国 を国際社会の完全に対等なメンバーとして待遇しなければならない事態に直面した︒. ここに遂に一九世紀末をもって︑ヨーロッパ国際社会とヨーロッパ国際法の時代は︑事実上終りを告げた︒そし. て︑二〇世紀になると︑現在に直接つながる国際法理論の普遍化︑特に慣習法が︑一九世紀前半までの自然法に取. って代わって一般国際法として適用される時代がいよいよ始まることになったのである︒二〇世紀の慣習国際法. は︑装いを新たに登場する︒それが︑慣習国際法形成要件のいっそうの明確化と慣習法の普遍化なのである︒. ︵59︶ 一入一五年から一九一四年にいたる一世紀間は︑主としてイギリス︑フランス︑プロシア︑ロシア︑ハプスブルタ帝国の五大. 国が︑ヨーロッパの諸事件を支配した時期であった︑と言われる︒岩波講座﹃世界歴史︵近代7︶1近代世界の展開四﹄第二〇巻.

(25) シュミットは︑一九〇七年の第二次ハーグ会議に比べると︑第一次ハーグ会議はまだヨーロッパ的であったと言う︒シュミツ. 岩波講座﹃世界歴史︵近代9︶1帝国主義時代1﹄第二二巻︵一九六九年︶︑九一頁︒. ︵一九七一年︶︑一一五頁︒. 1︶. ︵6. ︵60︶. 八三. 一九九一年度および一九九一一年度の早稲田大学特定課題研究助成費︵個人研究︶を頂いた︒ここに謝意を. 筒井︑前掲論文︵注2 0︶︑四一四頁参照︒ちなみに︑前掲・拙稿︵注1︶の一八九頁のリスト 2︶︑四一頁︒芹田︑前掲書︵注3. ト︑前掲書︵注26︶︑三二一頁︒. の言を参照︒. 2︶. ︵6. 本研究に対して︑. 表する︒. ﹇付記﹈. 一九世紀後半の慣習国際法について︵島田︶.

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参照

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