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有田の文様−17世紀中頃〜後半の窯場の様相と文様 の変化−

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有田の文様−17世紀中頃〜後半の窯場の様相と文様 の変化−

著者 野上 建紀

雑誌名 金大考古

巻 47

ページ 1‑7

発行年 2005‑02‑01

URL http://hdl.handle.net/2297/2967

(2)

1 はじめに

 肥前の陶磁器生産の基本的な技術が朝鮮半島より 導入されたものであることは疑いないが、磁器創始 段階よりその磁器製品のスタイルは中国磁器を目指 したものであった。当時の文様の絵手本としては、

同時代の中国磁器や「八種画譜」などの書画を用い たと考えられているが、必ずしも忠実に模倣するの ではなく、適宜省略したり、アレンジしたり、また、

各文様を組み合わせたりしたものが多い。しかし、

17 世紀前半の段階においては、景徳鎮の磁器をめざ しつつもまだ技術水準が及ばず、品質的に競合した のはむしろ中国南部の福建省あたりの製品とされる 磁器であり、中国磁器の代用品としての性格が強かっ た。

 その後も肥前の磁器は江戸時代を通して、中国磁 器の影響を受け続けたが、17 世紀中頃より肥前独自 のスタイルを確立していった。本稿では 17 世紀中 頃~後半の有田の窯場の様相とともにその文様の変 化をみていこうと思う。

有�田�の�文�様

- 17 世紀中頃~後半の窯場の様相と文様の変化-

2 17 世紀中頃~後半の窯場の様相と文様の変化

(1640-1650 年代)

 1640 年代頃になると、中国国内の混乱により中国 磁器の輸入が激減し、市場の空白を生み出した。そ の結果、中国磁器の代用品としての役割がさらに高 まることにより、中国磁器の文様などを積極的に導 入しようとする。祥瑞の影響で丸文や地文が流行す るのもその現れであるが、その一方で色絵技術をは じめとした新しい技術の導入も始まり、1650 年代頃 に有田では技術革新がおこる。それによって景徳鎮 の製品の水準に匹敵する製品が生産されるようにな る。

 この技術革新が製品の文様に与える影響が大き かったことはいうまでもない。例えば素焼きを行う ことで素地の吸水性が高まり、精緻な文様も釉の中 ににじまずに描かれるようになる。墨弾き技法の開 発で精緻な白抜き文様を描くことを可能にした。ま た、ハリ支え技法の開発によって、皿の表面だけで なく、背面まで模倣することが可能になった。背面 にまで気を配るようになった結果、裏文様や高台内 銘款を入れることも一般的になる。その他、文様に 直接関わりない技術であっても製品の品質そのもの が向上すれば、文様も品質に応じたものを描くよう になる。

 一方、市場の空白を生み出したのは日本国内だけ

1 2 3 4 5

Fig.1 掛の谷2号窯跡出土製品  野上 建紀(有田町文化財課)

 �金�大�考�古

 ����

�第 47 号

金沢大学考古学研究室  2005 年 2 月 1 日

(3)

ではない。海外市場においても同様であった。肥前 磁器の海外輸出は 1640 年代には始まっているが、

当初は製品に国内向けと海外向けの区別はない。ベ トナムなどで出土する染付日字鳳凰文皿は 1640 年 代後半には生産が始まると推定されるが、海外向 けに限って生産されたものではない。当初は文様の 一つとして受容したものであり、そのため、種類も 多いし、他の文様と組み合わせている例も少なくな い。しかし、1650 年代になると製品の精粗の差はあ るものの種類としては少なくなり、概して規格化さ れていく。掛の谷2号窯などは外山地区で染付日字 鳳凰文皿(Fig.1-1,2)を大量に生産した窯の一つで あるが、掛の谷2号窯の染付日字鳳凰文皿(口径 14

~ 16cm)は同窯出土の他の文様の染付皿(口径 11

~ 13cm)に比べて一回り大きなものとなっている

(Fig.1)。ベトナムのホイアンなどで出土する中国磁 器皿は口径 15 ~ 16cm 程度のものが主であることが 指摘されており(大橋 1997)、掛の谷2号窯の染付 日字鳳凰文皿はそうした需要を反映し、規格化され たものであろう。

(1650 年代中頃~ 1660 年代)

 1650 年代中頃以降、海外輸出がより盛んになり、

とりわけ 1656 年の海禁令以降、海外輸出は本格化 することになると海外需要を強く意識した製品を 生産するようになる。染付見込荒磯文碗・鉢などは その代表的な海外向け製品である。日字鳳凰文皿と 異なる点は、生産当初より単なる文様の受容ではな く、海外需要のための製品として模倣されている点 である。天狗谷B窯 11 室奥壁下、中白川窯物原5層 段階の出土製品(Fig.2)はそうした時期のものであ り、モデルとなったのは比較的近い年代の中国磁器 であった。

 染付見込荒磯文碗・鉢なども生産当初は複数のモ デルを模倣したためか、文様の種類も豊富であるが、

周辺諸窯で量産される段階になると種類や大きさが 絞られ、画一化していく。

(1650 年代末~ 1670 年代)

 1659 年以降、オランダ東インド会社から大量注文 を受けるようになると、直接、見本をもとに生産さ れるものが現れる。この場合、モデルとなったのは むしろ 16 世紀末~ 17 世紀初に大量にヨーロッパな どに渡った景徳鎮の芙蓉手皿の類であった。中白川 窯物原3層段階の染付芙蓉手皿などがそれに該当し、

これらは中国磁器を忠実に模倣することが要求され

1650-1660 年代 中白川窯跡物原5層出土 1

2

3

4 5

6 7 8

9

10

11

「□応歳」(1652-1654)銘

Fig.2 天狗谷窯跡・中白川窯跡出土製品 

(4)

1

2

3

4

1650 年代末 -1670 年代 中白川窯跡物原3層段階

5

6 7

1650-1670 年代 中白川窯跡出土 柴田コレクション(佐賀県立九州陶磁文化館所蔵)

9 1650 年代末 -1670 年代 中白川窯跡物原3層段階

柴田コレクション(佐賀県立九州陶磁文化館所蔵)

8 10 11

柴田コレクション(佐賀県立九州陶磁文化館所蔵)

1650 年代末 -1670 年代 中白川窯跡物原3層段階

Fig.3 中白川窯跡出土製品及び伝世品(柴田コレクション) 

(5)

1 2 3

1660-1670 年代 中白川窯跡床面出土

11 10-2 12

4 5

6 7

9

10-1

8 1660-1680 年代

外尾山4号窯跡物原3層出土

Fig.4 中白川窯跡・外尾山窯跡出土製品

(6)

6

5

3

2

8 7

1660-1680 年代 外尾山3号窯跡出土

1

柴田コレクション

(佐賀県立九州陶磁文化館所蔵)

1660-1680 年代 外尾山窯跡出土 柴田コレクション

(佐賀県立九州陶磁文化館所蔵)

4

Fig.5 外尾山窯跡出土製品及び伝世品(柴田コレクション) 

(7)

て い る(Fig.3-1 ~ 4)。 そ の 一 方 で 中 白 川 窯 物 原 3層段階や同時期と推定される外尾山3号窯の出土 製品の中には日本的な文様が数多く採用されている

(Fig.3-5 ~ 11、Fig.4-1 ~ 3,8 ~ 12、Fig.5)。17 世紀前半の製品の中にも中国磁器に見られない日本 独自の文様が見られるが、文様の和様化に拍車がか かるのはこの頃である。文様の和様化については大 橋康二氏がすでに論じており、1650 ~ 1670 年代に は海外からの注文は別として、一層、日本独自の意 匠が次々と出現すると指摘し、例として雪輪、波千鳥、

富士山、栗、蜘蛛の巣、水車、鮎、芝束、木賊、ワラビ、

雨降り、若松などの文様をあげている(大橋 2001)。 最も海外需要を意識する時期に、一方でこうした文 様の和様化が進むことは興味深い。

 こうした文様の和様化が進んだ背景には、17 世 紀中頃以降、モデルとなる中国磁器の輸入が減少し たことにより、他産地あるいは他産業の製品の文様 を積極的に取り入れるようになったことがまず大き な要因としてあげられよう。そうした他産地の一つ としてあげられるものは京焼である。染付ではない が、色絵の仁清手や京焼風陶器など京焼の影響を受 けて肥前で生産されたものは少なくない。他産業の 製品については具体的な考古資料をあげることはで きないが、現存最古の雛形本として知られる寛文7

年(1667)刊「新撰御ひいなかた」の中に見られる 染色の図案に共通する意匠をもつ製品が多く見られ ることから、当時、国内で流行していた日本的な文 様を肥前磁器が積極的に取り込んでいることは推測 できる。また、幕末には紀州商人によって、漆器が 大量に持ち込んだことが知られるが(史料 1)、その 紀州商人がいわゆる江戸通いを始めるのが寛文年間 頃という(史料2)。紀州商人は黒江塗の漆器を船積 みして伊万里に至り、その帰り荷に肥前磁器を積み、

江戸で直売していたとされる。寛文年間頃には遠隔 地間の商品流通はいよいよ盛んになりつつある時期 であり、江戸市場と肥前の生産地を直接結ぶ商人の 介在はその需要の反映を容易にしたと思われる。ま た、紀州商人が積極的に持ち込んだ漆器がどのよう なものであったか不明であるため、相互の製品間の 影響関係は明らかではないが、中国磁器の代用品と して磁器市場の中でのシェアの拡大から、漆器や木 器などを含めた食器の分野におけるシェアの拡大を 目指すようになる時、文様や形も和様化へ向かうの ではないかと思われる。

 また、中白川窯や外尾山窯で出土する日本的な文 様を描いた製品は、線描きも精緻であり、濃淡のあ る濃みも丁寧である。それらの窯で出土する東南ア ジア向けはもちろんヨーロッパ向けの海外向け製品

Fig.6 中尾上登窯跡・永尾高麗窯跡・江永窯跡出土製品

1 2 3

4 5

7

6 1650-1660 年代

中尾上登窯跡出土

1660-1680 年代 中尾上登窯跡出土

1670-1680 年代 江永窯跡出土

1660-1680 年代 永尾高麗窯跡出土

8

(8)

よりも上質なものが多く、少なくとも染付に限れば 日本的な文様を描いた製品が最も上質な製品の部類 に属する。文様の和様化は中国的な文様から日本的 な文様へという単純な文様の変化ではないようであ る。すなわち、17 世紀中頃の技術革新は肥前全体の 生産技術の水準を押し上げたことは確かであるが、

同時に窯場間の技術差も大きくした。その技術水準 の差による質的な分業によって、窯あるいは窯場ご とに対象とする需要を絞り込むこととなり、より特 定の需要を反映しやすくなった。その結果、技術水 準の高い有田の窯場は、相対的に高い品質と価値を 求める需要層を対象とすることとなり、文様の和様 化はそうした需要の反映であろう。いち早く流行の 文様を取り入れる工夫が求められた結果であろうと 思われる。

 この段階に至り、肥前磁器もようやく中国磁器の 代用品ではなく、独自のスタイルを確立する段階に 入ったと言える。そして、1670 年代になると、ヨー ロッパなどへの輸出向けの製品の中にも肥前独自の 文様やアレンジを行うようになる。染付芙蓉手皿の 構図や文様も肥前独自のスタイルに変化していく。

それは色絵において顕著であり、いわゆる柿右衛門 様式、あるいは少し時代は下がるが金襴手様式など 独自の様式を展開していく。そして、代用品でなく なった肥前磁器は、17 世紀末に中国磁器の再輸出が 本格化するようになっても国内市場を奪われること はなかったし、ヨーロッパ向けにおいても一定量の 需要を確保し続けることになる。

 一方、東南アジア向けの製品については、相対的 に技術水準の低い有田周辺の磁器諸窯でも大量に生 産されたものである(Fig.6)。これらの窯場は質よ りも量が重視される需要層を対象とした窯場であり、

有田の文様を模倣しながら、文様の簡素化と粗雑化 を容認した量産を行った。そのため、1650 年代頃に 規格化あるいは画一化した製品の文様はやがて形骸 化していくものが大半で、肥前独自に文様が考案さ れた例は少ない。あくまでも中国磁器の代用品でし かなく、中国磁器の再輸出が本格化するとすぐに市 場を奪われる結果となったようである。言い換えれ ば、代用品であったため、独自のスタイルや文様が 生まれにくかったということであろう。

3 おわりに

 17 世紀前半の段階では中国磁器の文様を模倣する か、あるいはアレンジすることが、市場の需要に対 する主たる対応であった。文様ももちろん中国スタ イルが主となる。まだ、有田磁器の技術水準が中国 磁器に及ばず、市場の需要も中国磁器の代用品とし

ての需要であったためであり、有田そのものもそ れを目指したためでもある。

 しかし、17 世紀中頃の技術革新によって、有田 磁器は中国磁器と同等品となり、さらには国内需 要に対して文様の和様化を図り、中国磁器とは異 なる独自のスタイルを確立するようになった。そ の背景には単なる技術的な問題だけではなく、技 術革新と海外輸出の本格化がもたらした肥前全体 の質的な分業により、多様な需要をより反映しや すくなったことがあげられる。17 世紀中頃の文様 の変化は有田磁器が中国磁器の代用品としての地 位からの脱却を示しており、以後、有田磁器が肥 前磁器全体の文様・造形をリードしていくことに なる。

史料 1

「一、民間飯椀ヲ用いる事、他邦はすべて陶器を用い るべし。封内の者は陶器に食すれば微運などと俗説致 し、すべて紀州椀及び根来椀・大坂椀・輪島椀・彦山椀・

京椀を用う。此の価金も少なからず。然して紀州椀売 り数人一戸一戸に売り弘むる事、毎年おびただし。」(倹 法富強録)

史料 2

「(前略)肥前の器殊にたくみにして諸国にまされり。

寛文の頃紀伊国有田郡宮崎荘箕島村の沽客(商人)、 同国黒江の産物なる漆器を船に積みて遠く肥前に赴 き、其帰るさに彼陶器を多く贖ひ得て、はじめて江戸 に送りしより次第に関東の諸国に拡まり、ここに八代 大樹公の御許しを蒙り、紀伊家御蔵物陶器方と称して、

商業商策の基を開き、其恩沢に潤ふて既に百年あまり 四五十年とぞ、(後略)」cf. 慶応3年(1867)に閑樹 園老人が記したと伝えられる。

参考文献

荒 川 正 明 1996「 大 皿 の 時 代 - 近 世 初 期 に お け る 大皿需要の諸相-」『出光美術館研究紀要』第2号 p71-103

荒川正明 1998「白い器に描かれた富士山-江戸時代 前期の陶磁を中心として-」『日本の心富士の美展』

NHK 名古屋放送局 p236-245

大橋康二 1992「古伊万里の器の普及」『和様の意匠  古伊万里』朝日新聞社 p3-7

大橋康二 1994『古伊万里の文様』理工学社

大橋康二 2001「柴田コレクションの魅力と有田磁器 の真髄」『柴田コレクション(Ⅶ)- 17 世紀、有田 磁器の真髄-』佐賀県立九州陶磁文化館 p292-298 国立歴史民俗博物館 1998『陶磁器の文化史』

前山博 1990『伊万里焼流通史の研究』

参照

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