九世紀末・十世紀初の政治の考察
著者 森田 悌
雑誌名 金沢大学教育学部紀要.人文科学・社会科学・教育
科学編
巻 23
ページ 256‑241
発行年 1974‑12‑20
URL http://hdl.handle.net/2297/47694
第23号 昭和49年 金沢大学教育学部紀要
256
九 世 紀 末・十世紀初の政治の考察
森
田
悌
小稿では前稿﹁九世紀ヰ期の政治の一考察﹃を承けて九世紀
末から十世紀初にかけての政治について若干の考察を試みる︒こ
の時期の政治は延喜二年三月に発布された一連の重要な官符に集
約されており︑早く平安中期の段階において﹁延喜聖代﹂として
貴族に回顧され後代に至っても村上治頂の天暦期と併せて讃美を
こめ﹁延喜天暦の治﹂と称されてきたが︑近代史学の成果では表
面的な文運隆昌の陰で律令体制の動揺が一段と深刻化していた時
代と理解するのが一般的であり︑かつ近年の研究によれぽ延喜の
国政改革をそれに先行する寛平の政治と関連づけて理解し深刻化してきている律令支配の困難を打開しようとする最後の大規模な
試 み
であるとともに十世紀以降の支配体制を展望する新機軸を打
出してきていることを明らかにしている︒律令支配を困難に陥い
れ た
要因の一は各方面における律令地方行政の弛緩であり他は権
門の在地進出およびそれと在地有力農民とが結託して国務に対桿
するようになったことでともに八世紀段階から既に見られた傾向
時を経過した九世紀中期以降顕著となっている︒かかる律令支配 ヨ であるが︑旧稿で指摘したごとく特に弘仁後半と承和中期の異常
の困難を解決することを課題としたのが藤原良房・基経による初
期摂関政治で︑前稿で指摘したごとく弘仁末来以来顕著な良史登
用策とそれによる簡政の推進で一応の政治的安定を齎らしていた
の
であるが︑抜本的な解決策も打出せず現実には危機の度合いが
深まっていたのである︒権門の在地進出と有力農民による国務対
桿 に つ い て
追喚︑争致斗乱﹂すがごとき事態が既に貞観初年の摂津国から報 いえぽ︑在地で王臣家人が国郡の差科に従わず﹁強加
告されているが︑かかる趨勢が更に昂進し寛平三年六月十七日官
ら
符によれば近江国で諸院諸宮諸家使らが﹁不由国司︑閑入部内凌礫
百姓︑略奪田宅妨取調庸﹂し同六年十一月三十日官符では﹁無頼好
猜 三 延喜五年八月二五日官符では播磨国で﹁院宮諸家偏就田宅資財之事︑ 類猶称王臣家之人︑放縦暴猛不従国郡︑侮慢牧宰騒擾所部﹂し 不 経国宰直放家符︑召捕郡司雑色人等︑勘責禁固殆過囚人﹂と述べ
て
いる程である︒寛平八年四月二日官符ないし延喜五年十一月三
日官符によればこのころ財物の事で在地の農民が権門を頼って訴
訟したり権門の方でも使人を派遣して弁定していたとあり︑両者
の緊密な関係とそれが律令行政機構にとってかわりつつある状況
を示している︒更に権門の在地進出の地域性についてみても︑承
和末から貞観初にかけての段階では主として京畿ないしその周辺
に限定されていたのに対し九世紀末になると東国のごとき辺境に お い
ても著大となっている︒元慶八年八月四日勅では上総国で前
司子弟ないし王臣子孫のごとき富豪浪人が﹁対桿国宰︑陵冤郡司﹂
したとあり︑昌泰から延喜にかけて東国を掠劫した備馬の党事件
も東国へ進出してきた王臣家人による駄馬強雇の一種と見倣すべ
む
きで︑かく律令支配を因難ならしめる事態が質量ともに深刻さを
四 七
四 八
増していたのが九世紀末であった︒かかる権門の在地進出の激化
の背景には前稿で指摘した良房・基経による初期摂関政治期にお
ける大土地所有抑制策の実質的な廃棄が考えられよう︒少くとも
良房・基経治政期には権門の進出を抑止することを意図する立法
の少いことが指摘されてよい︒
か
かる危機に直面しそれを克服することを課題としたのが寛
平・延喜の治であり︑それを集約的に示すのが先述したごとく延
喜二年三月の一連の官符奪﹂
囚応勤行班田事
⑧
応禁止田租徴頴事
O
応調庸精好事
◎応聴交替一度延期事
⑧応依式修造前司時破損官舎駅家器佼池溝国分二寺神社事
⑧応停止臨時御厨並諸宮王臣家御厨事
◎
応停止勅旨開田並諸院諸宮及五位以上買取百姓田地舎宅占請
閑地荒田事
佃応禁断諸院諸宮王臣家仮民私宅号庄家貯積稲殻物事
ω
応禁制諸院諸宮及王臣家占固山川藪沢事
からなる九力条で構成されている︒上横手雅敬氏の整理に従えば︑
ね ㈹〜⑧官符は律令的地方行政の励行を指示し⑧〜田官符は権門の 在 地
進出を抑制する内容から成っている︒先学の研究により明ら
か
にされているごとくこれらの官符は九世紀を通じて出されてき
た
政令の総決算という意味をもち︑特に⑥官符は謂ゆる最初の荘
園整理令として研究者の関心を惹起しこれを中心に分析が加えら ぬ
れ
てきており︑研究史の整理も高田実その他の諸氏が詳細に展開
されている︒従って小稿では研究史を整理することはしないが︑重要な内容を含む上横手雅敬・高田実両氏の所説を中心とした先
学の学説の検討を行っておきたい︒まず上横手氏の研究からみて
いくと︑寛平−延喜の国政改革を当時の支配貴族層内の動向と関 とする権門と律令俸禄制に依存せざるを得ない源氏・国司層を含 連づけて理解され︑私的大土地所有を展開している藤原氏を筆頭
む中下級貴族との徴妙な対立過程としてこの時期の政治を把えて
いる︒前者は律令最高官僚として表面的には律令制の維持に努め
つ
つも大土地所有をも保護せざるを得ないという矛盾した立場に
あり後者は一貫して大土地所有の展開を抑え律令制の維持と俸禄
制の十全な実施を目指し︑叙上の支配の困難に対処する為の政策
に お い
て前者が権門の進出に対し比較的寛容で国司への監察強化
を通じて地方行政の励行を意図したのに対し後者は国司に対し寛
策を以て臨み権門への抑制を積極的に推進したとされた︒上横手
氏は宇多親政下の寛平期においては菅原道真を登用して反藤原11
反権門的政策が基調をなし道真を追放して藤原時平の主導権が確
立した延喜以降においては反権門的政策が放棄された訳ではない
が国司への監察が強化されていることを明らかにし︑この前後に
おける政策とその担手とを彩やかに示されたが︑氏の所説にも問
題が無い訳ではない︒氏は延喜・天暦期を通じて一貫して調庸正
税その他の律令的収取の確保が中下級貴族は勿論藤原氏を含め大
多数の貴族の要求で︑班田の施行を軸に地方行政の励行と権門と
在
地有力農民との結合を断つことを意図したものとして寛平・延
喜の国政改革を把握されているが︑このころの班田は戸籍に基づ
く方式ではなく計帳を提出して調庸を済ましている者にのみ班給
し隠首のごとき調庸を遁避していた者は対象外とし没収した絶戸
田や班田の遺田は賃租に出して無身戸口の調庸に代替する方式で
身役たる調庸の地税化も進展しており︑律令地方行政の励行と
い っ
ても本来のそれとは大分運庭を有していることが注意されね
ぽならないと考える︒後論するが︑九世紀中期以降戸籍計帳の制
が実態と遊離し形式化の傾向を示していたのである︒㈹官符で律
令収取方式の維持が図られているかの如くであるが実際には改変
されつつあったのであり︑かかる改変過程で延喜の国政改革が如
第23号 昭和49年 金沢大学教育学部紀要
254
何なる位置を占めていたかが問題にされる必要があると思う︒次
に
延喜の国政改革を打出した政治主体の問題について上横手氏は
対立を導かれた石母田正氏の見解を否定され︑皇室の豪族化とい ロシ
O
官符で指示している勅旨田の停止から積極的に皇室と藤原氏のう要素はこの時点では認められず律令体制の維持が皇室とか藤原
氏とかを越えた国家権力全体にとつての問題意識で︑そこから延
喜の改革も布告されたと説かれている︒同一趣旨の石母田説への ま ロ
批判は林屋辰三郎・村井康彦・高田実等の諸氏によっても展開さ
れ て
いるが︑この改革が貴族層全体の問題であったとするかかる
見解が一定の妥当性をもつことに疑いないとしても︑皇室・源氏
ないし藤原氏等からなる支配層内部の暗斗が延喜格発布の契機と
なっていることも否定できないだろう︒上横手氏の否定にも拘わ
らず論理必然的に考える限り皇室ないし源氏と藤原氏との対立を
重 視
する氏の論理からすればむしろ石母田説のごとき見解となっ
て然るべきだと考えるが︑この点については次節で私見を述べた
ヘ へ しと思う
貴族層内部の動向に視点を据えた上横手氏と異り高田実氏は土
地制度改革という点に力点を置いて考察をすすめ︑囚官符から律
令政府は十世紀初頭の段階で猶公民編戸11班田の施策を放棄せず
律令に規定する本来の土地政策の励行を求めていたとし︑O官符
に つ い て
詳細な分析を行っている︒㈹官符に対する高田氏の評価
の
不当ないし不十分性は上横手氏の場合と同じだが︑O官符に関
する高田氏の分析をみると︑⑦勅旨開田が人民を苛む存在である︑
◎権門と在地百姓が結託して庄家を経営しそれを拠点に国務に対
桿している事実を挟出し禁制を加えていると解釈し︑特に庄家経
営
が後の荘園と異ることを明らかにされ⑥官符を中心とした⑧
〜m官符が券契の有無というより寧ろ国務への妨害如何が整理の
基準になっていることを指摘し後の平安中期の場合と同一の意味
で荘園整理令を称するに相応しくないとされたのは説得的であ る︒但し単に権門の進出への禁制の指摘と庄家経営の分析のみで
は 不
十分で︑θ官符は㈹官符と関連させることにより従来と異っ
た 土 地
政策を打出していることが注意されねぽならないと考え
る︒これについては後節で述べよう︒また⑦に関する高田氏の論述はやや明瞭を欠いている︒すなわち氏は勅旨開田が人民を苛む
理由として大同元年七月七日勅に﹁今聞︑畿内勅旨田︑或分用公
水新得開発︑或元墾靖地遂換良田︑加以託言勅旨遂開私田﹂とあ
ることから推測して現地で勅旨開田ないし経営に当る国郡司らが
勅旨田庄家を独自に立て経済活動を営んだことを挙げているが︑
勅旨開田の不都合が仮に氏の説く国郡司による独自の庄家設立に
ありとすればそれを禁制すれば十分で開田停止にまで至る必要は
なかったのではあるまいか︒ここで勅旨田の開発ないし経営につ
い て
示唆的な史料として延喜主税式諸国本稲条和泉国の項に﹁勅
旨御税一千束﹂とあるのをとりあげてみたい︒関連史料のないこ
とからこの御税が如何なる用途の為に設定されていたのか確言は
できないが︑勅旨田の開発ないし経営の費用に利稲を充当してい
た の で む はないかと考えてみたい︒九世紀武蔵国で勅旨開田の為に
正税一万束を充当したことは周知の事であるが︑かかる例から推
して勅旨庄御税を叙上の如く推測してほぼ誤ないことと思う︒勅
旨開田が全国的に推進されたにも拘わらず勅旨庄関係の御税設置
を示すのが延喜式で和泉国のみであるのは︑恐らくO官符により
勅旨開田の停止措置がとられた結果御税の停廃が行われたことに
よるのであろう︒僅かに和泉国にのみ例外的に存続させられてい
たと考える︒本来の勅旨田の開発ないし経営はかく延喜式に痕跡
的に規定を残している勅旨庄御税から推測して一定数の出挙稲を
設定しその利稲により運営していたと思うのである︒出挙が﹁吏
民之苦﹂といわれ百姓にとり大きな負担であったが︑勅旨開田の
進展に伴いその為の出挙稲も加増されそれが人民にとり苛法と
なっているので停止するというのが⑥官符立案者の論理ではなか
四 九
五〇
ろうか︒高田氏のごとく国郡司による独自の庄家を勅旨田に設定
したことが不都合だというのではなく︑開田の為の出挙稲の増置
が過重負担となってきていることが原因だと推測する︒この点に
つ い て 村
ぐ目的でそれを支出して勅旨開田を行うのを停止したと解釈され 井康彦氏は正税為本を採る政府が国衙の正税の減少を防
たが︑氏の示唆に導かれつつ更に具体的には正税稲の他に雑稲の
一として勅旨庄御税が設置されており︑勅旨開田停止を出挙によ
る人民負担の軽減として把えられると思う︒十世紀以降になると
正税・公廃・雑稲の減省が諸国ですすめられるが︑その一環と考
えられよう︒但し村井氏が正税支出を不可能ならしめたとする国
衙財政の逼迫を強調されるのはやや従い難く︑O官符で﹁︵勅旨田
ノ︶新立庄家︑多施苛法︑課責尤繁︑威脅難耐﹂と述べているこ
とから人民負担の軽減を主として考えたい︒猶︑⑥官符では勅旨
田における庄の問題︵具体的には勅旨庄御税の問題︶とは別に勅旨田の存在そのものが百姓にとり不都合であったとして﹁錐占空
閑荒廃之地是奪黎元産業之便也﹂と指摘しているが︑この部分を石
母田正氏はその経営が奴隷制的な方式で人民の生活と矛盾してい
墾田・佃の経営を行っていたことと推測された︒しかし両氏説と たことによると考え︑村井康彦氏は国司が勅旨に仮託して私的な
もに根拠が不明瞭でむしろこの部分は承和六年閏正月二五日官符
ね 所引同五年八月七日官符に﹁勅旨井親王以下寺家所占墾田地未開
之間︑所有草木公私共令採之﹂とあるのが参照されるべきで︑未
開勅旨田が周辺の百姓の慣例的な入会いを妨げることがあり︑そ
れ が
「
黎
元ノ産業ノ便ヲ奪フ﹂という意味であったと考える︒か
かる事情は早くから見られ大同元年閏六月八日官符でも﹁応尽収
入
公勅旨井寺王臣百姓等所占山川海嶋浜野林原等事﹂を指示して
い
題
以上上横手・高田氏の所説を中心に延喜の国政改革について多
少の検討を行ってきたが︑問題は一連の延喜格の発布主体が何か ということと一見復古的な律令の原則の励行を求めているがごとき政令の真の意図がどこにあったかということである︒上横手氏
の
指摘では九世紀を通じて発布されてきた律令国家の政策の再確
認という以上を出ないし︑高田氏の見解でも班田の励行ないし権
門の進出の抑制ということで十世紀以降の新しい土地政策を創出
するものとして把握する視角が十分であると思われない︒次節以
下
でこれらの問題について考えてみたいと思う︒
先
に事書を列挙した延喜二年三月の一連の官符が発布される前
年の正月に菅原道真が太宰権師に既降されておりかつ延喜二年当
時醍醐天皇は十八才でしかなかったことから︑これらの格発布の
らの格の意図した一が上横手氏の説かれた国司への監察強化であ 主導権をとった者が左大臣藤原時平であることに疑いない︒これ
り他が上横手氏はもとより多くの論者の説く権門の在地進出への
抑 止
であったことに誤ないが︑もう一つの発布の意図として皇室
と藤原氏との間に介在する対抗ないし緊張関係を考える必要がな
い
だろうか︒云われるごとく㈹〜m官符はいずれも同趣旨の先行
立法を有しているのだが︑通常最も重要な官符と目されている⑥
官符についてみると勅旨開田の停止という従来の立法に見られな
い内容を含んでいることが注目される︒勿論勅旨田についての法
例 が
全然ない訳でなく先に触れた大同元年閏六月八日格では勅旨
田として占定された土地でも近隣の百姓にとり不都合な場合は収
公
することにしており承和五年八月七日齢でも未開段階の勅旨田
に は
百姓の入会を認める措置をとり勅旨田活動への制限を付して
旨田庄家の出挙稲の百姓に対する重圧の二つの理由を以て無条件 いるがバO官符では前節で述べた如く黎元の産業を奪うことと勅
に開田停止を令しており︑従来の立法と大分相異しているのであ
第23号 昭和49年 金沢大学教育学部紀要
252
る︒勅旨開田の停止と並んでO官符のもう一つの内容である権門 お
の田地経営の禁についていえば寛平八年四月二日官符で五位以上
の権勢家の私営田経営を全面的に禁止しておりその再確認ともい
えるが︑多数の改革立法が布告される寛平期において勅旨田関係
の布告はみられず︑その意味で勅旨開田停止令は㈹〜ω官符の中
でも特異な指示でありここに延喜格発布の意図を窺知するに足る
鍵があると思う︒結論的にいえば藤原時平による皇室への抑圧策
が出発点にあったと思うのである︒宇多天皇が菅原道真を登用し
て藤原氏に対抗しようとしていたことは疑いない︒天皇自身は光
孝源氏として臣籍降下し皇位に即く可能性が殆んど無かった所を
藤原基経により推載され践酢したのだが︑仁和四年の阿衡の紛議
で は基経との対立を深め御日記に﹁朕遂不得志︑柱随大臣請︑濁
世之事如是︑可為長大息也﹂と記しているのは周知の事である︒
良房以来専権体制を強めていた摂関家にとり親政的傾向を強めて
いる宇多天皇は邪魔な存在で基経は阿衡なる字句をとりあげ天皇
に 抑
圧を加えたのだが︑かかる基経の息男時平にとっても自立化
した場合の天皇ないし皇室の危険性は知悉されていたであろう︒
特に時平個人としては博士家出身の菅原道真が宇多上皇の推挙で右大臣となっており天皇・皇室の危険性を身に泌みて感じていた
を追放した余勢を駆って天皇・皇室への抑圧政策として打出した はずである︒かかる危険性を皇室に対して感じとった時平が道真
という面を一連の延喜格に観取してよいと考える︒
但しかかる私見の背景には⑥官符で停止された勅旨田が皇室の
私有地的性格をもちその増置に皇室の豪族化を見る石母田正氏の
所 説
が前提となつているが︑前節でも触れたごとく石母田説には
批判も多い︒その論点は⑧勅旨田開発が国家的事業で営料・労働
力に公役を用いかつ公水を利用している︑⑤その開発は公領の拡
大 再
生産を意味している︑および⑥国衙が経営に当る国営田的性
格を有している︑等だが︑勅旨田を公領と見るのは例えば大同元 年閏六月八日格で﹁︵勅旨田ヲ︶収入公﹂なる措置をとっていることから明瞭に誤である︒実例としても内蔵寮管下の勅旨田と思わ
田としている︒従って勅旨田は収公される存在で一応公領とは別 お れる平城京内の田地一六〇町を貞観六年に大和国が収公して輸租
個のものと見倣すべきだと思う︒開発・経営に当り公役・公水が
使用されているのは皇室の私的料地であるが故に採られた優遇措
置と解すことができよう︒◎の問題についても仔細に検討すると
必ずしも国衙が経営しているとは限らず内蔵寮が経営に乗出して
いる場合もあり︑国衙による経営は京畿を遠離かった遠隔地にの
み見られるようである︒またたとえ国衙の経営であつても収益が
皇室用途に宛てられているならば国厨田の如き通常の国営田とは
相異しているととるべきで皇室の私有地的性格を認めてよく︑国
衙
は単に経営を委任されていたに過ぎないと考えるべきだと思
う︒以上から⑧⑤◎三点ともに石母田説を覆えすに足らないと思
うが︑勅旨田は旧稿で指摘したごとく内蔵寮管下の皇室料地とし
係にあったのである︒平安初淳和・仁明両朝は天皇の権威の昂 て差支えなく︑その消長は皇室ないし天皇の権威の消長と相関関
まった時期だが︑両天皇の治政期である天長・承和期に爆発的に
勅旨田の設定が進められたことは石母田氏が既に指摘されてお
り︑更に示唆的な事として初期摂関政治を開始する藤原良房の専
権体制が確立してくる文徳朝以降になると勅旨田の設定が止んで
しまう︒勅旨田の設定を止めることになった契機を私は仁明崩後
利事﹂なる官符に求めるが︑仁明という良房にとりやや扱い難い カ 一ヵ月後に発布された嘉祥三年四月二七日の﹁応禁制山野不失民
天 皇
が崩御し甥の文徳が即位し指導性を発揮し得る立場で石母田
氏がデスポットとして規定された平安初の天皇・皇族の権威を封
込
める目的で画策したのだと思う︒かかる文徳朝における良房に
ょる嘉祥三年格と同一の意義を醍醐朝におけるO官符の勅旨開田
停止に認めることができると考える︒勅旨田の設定は天長・承和
五一
五 二 の
盛行期を過ぎたあと暫く見られないが︑光孝朝に入ると仁和元
已仁和二年には後院勅旨田を設定す福だど勅旨田の強化が図られ 年十一月十七日に﹁以帝龍潜時在畿内外国水陸田地︑皆為勅旨田﹂
て
おり︑恐らくかかる傾向が宇多朝にも継承されて皇室の経済的
基盤の拡充を齎らしそれが宇多親政を支える一つの背景になつて
い
たことと思う︒時平としては父祖以来の専権体制を確立する為
に
は皇室の弱体化を図る必要があり︑それが⑥官符の発布を導い
た
要因だと思うのである︒従前においても権勢家とともに院宮の
在 地
進出と経済活動が禁制の対象になっていたが︑ω官符では王
臣家院宮による山川藪沢の占固を禁止しているが同様の立法であ る寛平四年五月十五日格では院宮をあげておらず︑寛平期に比較
して延喜段階では院宮に対する締めつけを相対的に強化している
ようである︒院には勧学院・施薬院の如きもあるが重要なものと
して天皇脱展後の供御に当る後院が含まれており宮は中宮.東宮
等の皇室関係で︑延喜格はそれらへの禁制を強めているとみてよ
いと思う︒更に延喜五年には後院の停止が令されており︑石母田
氏が豪族化と表現された皇室の自立傾向に対し時平は一貫して抑
制の立場をとっていたのである︒
以 上
から私は延喜格が当時の貴族層全体の危機意識に出るとす
る上横手氏の見解の妥当性を認めつつも︑そこに藤原時平の皇室
対策をみ藤原氏による天皇の権威を克服し十世紀中葉以降の後期
摂関政治を確立していく過程の一道標と見倣し得ると思う︒かつ
て林屋辰三郎氏は延喜格の発布ど時平との関係を主導権云々の問
題
でなく左大臣という律令制の最高官僚としての立場で関与した
に
過ぎないと説かれたが︑疑いなく存在していた藤原氏と宇多天
皇との対立を考えれば両者間の緊張関係は醍醐朝にももちこされ
それが重要政策に反映したと考えるべきで︑延喜格の一中心たる
官
O
符を私見のごとく勅旨開田に絞って考察すべきであり林屋説は当らないと考える︒石母田氏は﹁貴族的王制﹂なる概念を適用 して摂関政治を把握されその特質として﹁天皇制が藤氏摂関政治 グヨト
の完全な附属物に転化し︑藤氏は摂関その他の顕職を独占するこ
とによって︑かつて天皇に帰属していたほとんどすべての政治的 お 権力を継承した﹂とされたが︑延喜の国政改革をその方向での大きな一歩と考えることができる︒経済的に皇室の実力を弱めその
自立化を不可能にする方向である︒延喜以降藤原北家が朝廷の儀
式等の費用を負担していることが村井康彦氏により指摘されてい
磁
ガ︑藤原氏が皇室を附属物化している状況を如実に示すと思う︒外戚関係から見てもこの時期時平は醍醐天皇の外戚家ではなかっ
たが︑妹穏子を納れて延喜三年十一月に皇子が生まれると翌年二
月には強引に皇太子に立宝斧戚家への布陣を進めており︑結果的
に
は時平の早逝により外戚となることはできなかったが︑天皇制を
藤原氏の附属物と化する方向で歩を大きく進めたのである︒もつ
ともかように﹁貴族的王制﹂の確立過程として平安前期の政治史
を 整 理
することに疑問も呈出されており︑佐藤宗諄氏は﹁貴族的
ぷ 王制﹂の存在を指摘することでなく﹁その具体的なあり方の検討﹂
が 必 要
であると指摘されている︒至極当然とも云える批判だが︑
延喜格発布の主体を明らかにし文言に明らかな律令地方行政の励 う行や権門の在地進出への抑制策とは別に布令の意図が奈辺にあっ
た
かを解明することも延喜格の性格を解明する為に必要であり︑
支配貴族層内の動向を明らかにすることも無駄でないであろう︒
それはともかく次節ではかく﹁貴族的王制﹂確立への一道標となっ
た 十
世紀初頭の改革が人民支配において如何なものであった土地
制度を中心としてみていきたい︒
国
本節では一見復古的な文言からなる延喜格発布により新しい土
地制度が創出されたか否か考えたい︒十世紀の土地制度といえば
第23弓 昭和49年 金沢大学教育学部紀要
250
坂本賞三氏が精力的に解明された免除領田制がありかつて氏はそ
の出発点を◎官符に求めたが︑O官符から論理必然的に免除領田
制を導けないとする高田実氏の批判もあり近著では⑮溶符を免除
領田制と結びつけることに否定的な見解を述べている︒免除領田
制の基礎には官省符庄はもとより公田・治田等をも記入した作り
スが国司支配への規制を行ったとされるが︑かかる基準国図の作成 かえを前提としない固定的な基準国図が存在しそれにより太政官
に つ い て
坂本氏は校田図ないし班田図と異なるもので延喜十五・
六年頃から備えられるようになったとされた︒しかしかかる見解
に
文書として残った上野国交替実録帳に昌泰三年の校田帳を最後に エ は重大な疑問も出されており︑泉谷康夫氏は九条家本延喜式裏
それ以降の田図の記載がなく延喜以降において校班田図と異る基
準国図の作成された形跡のないことをあげ︑校班田の際に作成さ
れねれる田図が基準国図の役割を果したとされたが︑その可能性は強
いようである︒延長三年八月二五日の伊勢大神宮司牒案に﹁︵於伊
勢国︶去延喜年中三郡令班田之日︑神社仏寺公田等坪々各被定置之後︑至干今日︑更無相論﹂とあり更に長承二年五月の伊勢国 ロ
大国荘田堵住人等解に﹁自承和二年迄丁延喜三年六十八年︑自延
喜以後二百計一年也︑是以自延喜班田之時以来︑戸与庄︑各数百
才之間︑無相論所令領掌来也︑︵中略︶昔賢王御時延喜三年立条里
定坪︑並已経二百借余年﹂とある︒延喜三年に班田が行われその
時作成された田図が以後長く国内の田地の帰属を示す基準図とし
て機能していた事が判り︑かかる伊勢国の場合からみても泉谷氏
田はその一例で他に康保元年十二月十九日の夏見郷刀禰解案に れ 符がどの程度実施されたかについてみると延喜三年の伊勢国の班 の見解を承認してよいと思う︒ところで班田励行を指示する㈲官
﹁延喜三年図注﹂とあり伊賀国でも実施に移されていたらしい︒ ノ史料で確認されるのは以上二国のみであるが︑㈹官符では班田を
済ましたばかりの国での施行を猶予しているので例えば昌泰三年
に
班田を行つたらしい上野国のごときもあることからかなり強力
に実施され︑延喜初年前後において多くの国で校班田が行われた
とみてよいのではあるまいか︒そしてこの時作成された校班田図
により土地帰属の明確化が強力に推進されたのである︒往々にし
て
㈲官符を復古的な律令貴族の観念的政治理念を示すに過ぎない
ととる場合があるが︑やや安易な把握だと思う︒ところで校班田
手続についてみると︑班田に先だつ校田事務について延喜民部式
に 「凡校田帳︑比校前帳︑若有損返其帳﹂とある︒﹁応諸国校田帳 准
拠大帳返却事﹂を指示する貞観四年六月五日格に基いて立てら
れ て
いる式条だが︑民部式には﹁凡諸国校田者︑皆校応堪見営之
田﹂ともあり︑前回の校田の時よりも見営田が減少している場合
は校田帳を中央で受理しない規定であった︒㈹官符では荒廃田の
増加と見営田の減少およびそれに伴う年々の租穀の減少を指摘し
て
いるが︑その来由は国司が班田の時以外校田帳の提出を求めら
れ て
いないことを利用して新しく開墾地を把握してもそれを太政
官に報告せず荒廃田のみ報告するという軒偽にあつた︒一国内で見営田が一方的に減少していくなどという事は災害の如き異例を
別にすれば人為的な好詐によるものとしか考えられないだろう︒
か
かる事態を打破する為に強力に施行されたと推測される㈹官符
は甚だ有効だったと思われる︒㈹官符では末尾で校田言上と租帳
の拘勘を厳しく令しており︑見営田の回復と租穀の増収が大きな
関心事であった︒観念的な指示というより太政官としては国司が
現 地
で実際に行っている支配の実態を知った上で出している対応
策であり︑すぐれて現実的であったとしてよいだろう︒
ここでO官符にもどると権門の在地進出を抑制する主旨で具体
的には院宮ないし五位以上家の田地舎宅の買得と閑地荒田の占請
を禁止し既存の庄家についても百姓に還与することを原則とした
が︑﹁元来相伝為庄家券契分明︑無妨国務者不在此限﹂という特例
を設けている︒かかる政令が実施に移される為には見営田の調査
五 三
五 四
が行われ庄家経営の現地における確認が為される必要のあること
は
云うまでもないだろう︒㈲官符による校田事業は⑥官符に云う
庄家経営の確認の為にも有効だったはずで︑この点において両者
は密接な関係を有していたと思われる︒先引伊勢大神宮司牒案な
いし大国荘田堵住人等解に延喜の班田の結果田地の相論が終息し
起し易い庄家経営もO官符により確認された上で存続を保証され たというのも︑延喜の班田が単なる班田に終らずとかく問題を惹
ることになり土地の帰属が明確化してきたことの反映ではなかろ
うか︒泉谷康夫氏の見解によれぽ⑥官符により国家が一般百姓に
田主権を与えたとされたが︑少くとも安定した田地支配を保証す
るという効果はあったであろう︒前節で引用した官符に﹁凌蝶百姓︑
司雑色人等﹂とあり早く八世紀の官符にも王臣家の出挙により田 略奪田宅﹂ないし﹁就田宅資財之事︑不経国宰直放家符︑召捕郡
宅を奪われた百姓が浮逃し窮弊に苦しんでいたと指摘しており︑
と結託して国務に対抗できることもあり有益な場合もあったが田 権門の出挙ないし庄田経営を通じての在地進出は百姓にとりそれ
宅を奪われ圧迫されることも多く必ずしも歓迎すべきことでな
く︑⑥官符はかかる権門の進出に対し歯止めをかける効果を有し
た の
である︒赤松俊秀氏の指摘によれば⑥官符を中心とする荘園
整理令は実施困難で間もなく挫折し権門の新立庄園も認められる ゆ ようになったとされたが︑伊勢国の場合のごとく庄公を含め土地
関係の安定を齎らしていたことに疑いない︒また延喜以降百姓治
田の立券が例外的な場合を除いてみられなくなり︑墾田を含んだ
家地として立券売買されている事が多い︒この来由を赤松氏は国郡司らが百姓の名による立券を妨害したからだとされたが︑その
ような事もあったかも知れないが︑⑥官符の内容と関連させつつ
施行された㈹官符による校班田過程で作成された田図が固定され
た結果その修正を来すが如き治田の立券を嫌う傾向があつたので
はなかろうか︒逆に立券を嫌う傾向から田図の固定が強固に維持 ない所である︒ を契機に田地の帰属が明確化しその固定化が図られたのはまず誤 されていたと考えることもできる︒いずれにしても延喜格の施行
猶︑戸田芳実氏は家地−家宅について考察され︑空閑荒廃地に
家宅地を設定することに対して律令法は積極的に規制せず百姓に
よる占取を妨げなかったと考え︑更に九世紀末十世紀以降になる
と家宅内の治開田化が進みそこに強固な所有権が発生して中世的 おザ
土 地 所有の基点をなしたとされた︒謂ゆる宅の論理である︒しかし家 宅 地
の占取と内部の墾開という事実は確認できてもそこを拠点に
強固な所有権が発生したとする占取も事実上の占取に過ぎないな
らぽ格別の法的保護を受けることはできず立券により始めて保護
されるようになったと考えられるのであり︑少くともその限りで国家の規制を免れなかったはずである︒環堵で囲まれた家宅地が
保護されていた事は︑例えば夫開地でも他人の開墾権を認めない あべとする天長四年九月二六日官符に徴しても明らかだが︑かかる保
護の前提として立券手続により国家の管下に入っていたはずであゑ立券の墜は例えば安倍乙町子家地売鵜に﹁合壱段之中議銅
擁頻﹂と記されて小る如く開田面積を明らかにしている場ム・が
あり︑当然の事ながら何らかの課税の対象となっていたと推測さ
れる︒従って家宅地にしても国家に把握され内部の治開田につい
て は 課 税
対象とされており墾田等に比して特に強固な所有権が確
立していたとは見倣し難いのである︒延喜以降における家宅地立
券の頻出はそれが公田・墾田等を固定させた田図の範囲外のもの
であり︑立券しても田図の変更を行う必要がなかったからではあ
るまいか︒固定された延喜初の校班田図外の墾田は家地として把
握され︑恐らく国司検田により年々調査され支配されていたと考
える︒猶︑家地の治田化に関連して戸田氏は寛平八年五月十九日 な 某郷長解写に﹁家地也︑而有地頭水湿︑不能為家地︑因弦任格旨
治開﹂とある格旨について不明とされているが︑家地の治開田化
第23呂・昭和49年 金沢大学教育学部紀要
248
であり先に触れた天長四年九月二六日格であろう︒この官符は最
初京城内のみを対象としていたが後には地域限定をはずされ平安
期を通じて重要な開墾関係の官符であったことは﹃法曹至要抄﹄
から窮知される所である︒
百姓田地舎宅の買取を禁止したことから︑治開田を含む家地につ 次に⑥官符で院宮ないし五位以上家による未墾地の占請ないし
い て
も六位以下の者が買得しており叙上の推測を確かめる事ができそ ゆ 実﹃平安遺文﹄所収の十世紀の家地立券例についてみるといずれ 立券できたのは六位以下の官人百姓であったはずである︒事
うである︒従って正式の治田としての立券は認めないが︑六位以下に対し家地という名目での治田の立券が実質的には大巾に認め
られていた事になる︒かく考えると赤松俊秀氏の百姓の名による
治田の立券の抑止が百姓にとり不利になるという指摘も直ちには
従い難く︑寧ろ庄田の拡大を抑止された権門と異なり六位以下は閑地荒田を占請墾開することができしかも家地という名目での立
券の途が開けていた訳で実質的には従前と殆んど変りがなく︑少
くとも建前上権門の圧迫が禁止された事から有利になった一面も
あったとも思われるのである︒在地で六位以下といえば郡司およ
びそれに近い人たちないし階層的にそれ以下の人たちで︑当然の
事ながら十世紀以降出現してくる検校・国目代・国司代のごとき
為に元来は中央の下級官人であったり国司代の如き国衙の雑人で 考察した事があるが︑令制郡司で講成されていた郡衙を補強する 非律令的郡司も含まれてくる︒これらの人たちについては旧稿で
あった人たちをして郡衙職員を兼ねしめ郡判に署判するように
なったもので︑延喜以降顕著になってきている︒延喜二年三月の
一連の官符が布告された約一ヵ月後である四月十一日の﹁応差使
雑役不従本職諸司史生己下諸衛舎人井諸司諸宮王臣家色々人及散 ね 位々子留省等事﹂を指示する官符では令制郡司が弱体化しており
それを補う為に散位や中央下級官人の如き有力者を郡司に差副し
て国郡の行政に当らせよと述べており︑非律令的郡司の全面的な
きは九世紀の官符で屡権門と結託して国務に対桿している事を指 登用を図ったものと思われる︒ところで散位・中央下級官人の如
弾されている人たちである︒すなわち反体制的な傾向をもった人
たちであつたが︑四月十一日格はこれらの人たちを地方支配機構
内に組織し体制化しようという試みであった︒結果としてこれ以
降非律令的郡司が大量にみられるようになりこの試みは成功した
訳
だが︑その原因としては⑥官符が上述の如く六位以下の人たち
に対して有利に機能する面があったという事が考えられてよいの
で
はあるまいか︒かつて河音能平民は延喜の国政改革について⑦
王臣家と富豪層との直接的政治的結合を切断し︑⑦公民編戸ー班
田ー人頭税主義を積極的に放棄し富豪層の経済的勝利を体制的に
容認し︑︵⑦すべての田地を公田として全一的に貴族国家権力の手 ロ
に掌握し富豪層も公田請作者と化したとされたが︑私も⑦につい
て
いえば正しい指摘であると考え更にそれを可能にしたのが◎官
符にみえる富豪層を形成すると思われる六位以下の人たちへの優
遇策であると思う︒⑦も尤もな指摘で延喜の班田自体既に戸籍によるのでなく計帳で見丁となっている者にのみ班田する方式で
あったと思われ︑実質的には土地課税へ切替えられている面が強
か
つ
た の
まっている名田宛作方式を国衙で採用したとも考えられよう︒ま お である︒この点についていえぽ九世紀中葉の荘園で始
た
㈹官符では校班田図を作成し土地の帰属を明確化し耕作者の権
利を保証する機能をもっていたと思われるのである︒◎について
は意味がとりにくいが︑富豪層を含め農民が公田請作者的性格を
もつかも知れないが家地にみる事実上の開墾活動と実質的な立券
が行われており︑延喜の校班田図に固定された公田はもとよりか
かる家地の開墾も無視すべきでなく︑それが十世紀以降の国衙支
配を支える基盤の一を形成していたのではあるまいか︒十世紀の
土 地
政策としては延喜初年の校班田図を固定し権門の庄田拡大を
五 五
五 六
抑える一方で六位以下の人たちの家宅地内開墾を奨励する方針が
とられていたとしてよいだろう︒勿論かかる政策が成功する為に
は権門と切離された人たちの再生産を維持する為の条件を国家の
側で準備する必要がある︒次にそれについて概観したいが︑その
前に次節で計帳・戸籍等の人身支配方式について一応みておきた
い︒
画
律令的収取は田租を別として個別人身負担を原則とする調庸・
正税等からなっている︒かかる収税を遂行する為には人頭税であ
ることから戸籍計帳で戸口を掌握し担税者を確定する事が不可欠
であるが︑九世紀の歴史に即してみる限り弘仁末あたりから人頭
課 税 ロ が困難となり旧稿で指摘した如く調庸正税の地税化が進めら れ て い
った︒その理由は律令的地方行政の弛緩であり具体的には
逃 亡
の続出や農民はもとより地方官まで巻きこんだ戸籍計帳の好
詐にあったと思われるが︑かかる趨勢に対して現実の収税方式としては田地割の課税を強め中央と地方との関係においては一定の
貢納確保を目標として課丁数の固定が図られ︑その結果として収税の台帳たる大帳の形骸化がす﹂んだのである︒現実の課丁数如
何は問題にならず︑固定化した大帳の課丁数が地方から中央へ京
上される貢納物の数量を示すパラメーターの機能を果したと思わ
れる︒十世紀初頭に作成された三善清行の﹃意見十二箇条﹄に﹁諸
国大帳所載百姓︑大半以上︑此無身者也﹂とあるのは大帳の形骸
化している状況を如実に示すとともに︑かかる形骸化した大帳であっても叙上のパラメーターの役割を果す事には問題がないので
ある︒中央での大帳勘査において課丁の誠沙を認めないとする規
定 が か
かる形骸化を招く原因でもあったが︑九世紀昧tなると数
十年に渉り勘査そのものを行っていない場合もあった︒元慶八年
り大帳から除棄しているが実態とは一応無関係な大帳面での操作 ロ 八月二八日に出羽国で課・不課併せて一九四九人を民部省符によ
で課口を除棄されることにより出羽国の中央に対する負担を軽減
するという意味をもった事であろう︒仁和元年三月五日に陸奥国
で
の留郡之丁を雑後に振替えるという処分も大帳面での操作で実
態とは一応没交渉である︒三善清行は﹃意見十二箇条﹄で備中国
下道郡週磨郷について言及し︑かつて吉備真備が下道郡大領を兼
任していた天平神護年中には課丁一九〇〇余人を数えたが三善清
行が寛平年中に備中介として赴任した時は九人に減少し延喜年中
に藤原公利が赴任した時は課丁が一人もいなかったという︒清行
は衰弊の甚しい事を嘆いているがいかに衰弊したといっても週磨
郷は﹃和名抄﹄郷でもあり十世紀初において壮丁が全然いなかっ
たとは考え難い︒計帳に登載された名前の課丁がいなかったとい
うことで帳簿上のすべての課丁が無身であったという事であろ
う︒清行は律令行政の依拠する帳簿類が現実から乖離している事
態を嘆いているのだと思われる︒仮に文字通り課丁がいないとな
れ ば
週磨郷以外においても同様の傾向を示しているだろうから備中
国の国務は不可能で国そのものとして消滅せざるを得ないはずだが︑そうならないのは清行の指摘が大帳の無身化の事だからであ
る︒九世紀末から十世紀初にかけて郷戸の課丁数を推測する史料
が
いくつある︒﹃類聚三代格﹄巻七郡司事の官符から元慶四年の讃
岐国那賀郡で一郷戸平均四・二人︑備前国磐梨郡で七・七人︑同
五
年備前国赤坂郡で五・八人︑同八年伊予国桑村郡で四.八人︑
久米郡で四・七人︑喜多郡で八・一人︑延喜二年阿波国戸籍で六・
○人︑同八年周防国戸籍で五・一人となり︑八丁以上を大戸六丁以
上を上戸四丁以上を中戸とする慶雲三年格にひき較べてもいずれ
も中戸以上で課丁数としたら平均ないしそれ以上である︒阿波国 ぬ と周防国の戸籍は男女比と年令からみて偽籍であることが明らか
だが︑帳簿上の課丁数を維持しているという点に関しては律令の
第23号 昭和49年 金沢大学教育学部紀要
246
原則に忠実であるといえよう︒現実の農民からの収税方式はとも
かくとして中央と地方との負担関係はかかる課丁数を媒介として
決められていたのである︒
以 上
から律令的収税方式が弛緩して九世紀末段階で制度本来の
戸籍計帳による収取はほぼその実を失っていたのであるが︑先に
事書を列挙した中の囚官符では猶戸籍の制を励行し班田実施を求
め て
いる︒それは如何に考えるべきであろうか︒高田実氏は理念
としての本来の班田制を律令政府が放棄することはあり得ないと
考え㈹官符はかかる理念を明らかにしているのだとしたが︑戸籍
計帳が形骸化しているという現実の中で︑また先にも触れた如く
班田が間延びになっているのにつけこんで荒廃地のみふやし新開
墾
地を報告しないという国司の不正を太政官で知悉しているとい
う事実を踏まえると︑氏の把握は観念的に過ぎると思われる︒私
は前稿で九世紀良史が計帳において有身で調庸を済ましている者
に の み
班田する方式を採用しつつあった事を指摘したが︑かかる
方式は﹃意見十二箇条﹄でも明確に提案されている所で︑それが
九
世紀末に一般化している事実を考慮してθ官符のいう班田は律
令の理念的班田と異り有身者のみへの給田であったと考える︒か
くして口分田耕作者と担税者とを一致させようとしたのであり︑
前節で述べた延喜の校班田による土地相論の終息もかかる措置の
反映と見倣せよう︒私は以上の様に考える事から先に紹介した河
音能平氏の⑦の論点に賛成するものである︒班田といつても調庸
納 入
の代償としてであり口分田の遺りは請作に出す方式で人頭税
主義の放棄と地税化をみてよく︑九世紀を通じてみられた人頭税
から地税への趨勢の総決算である︒
班田励行を指示する囚官符にも拘わらず実際の班田はかく律令
の
理念から遠ざかり変質したものであったが︑猶形式化した戸籍
計帳は十世紀以降においても作成されている︒その理由は形骸化したとはいえそれを墨守することにより朝廷貴族が伝統的律令支 配の正統性を主張し得るというイデオロギー的要請とともに︑帳簿に示された課丁数により地方国衙から中央への貢納物量を示し得るという機能を有したからである︒戸籍の偽籍ぶりは泉谷康 お 夫.平田歌二両氏の説かれた所で移貫者の二重記載や男口の女口
まで籍帳による戸口の掌握はほぼ事実に即していたがそれ以降は 化等の具体的なあり方が明らかにされ︑特に平田氏は八三〇年代
生 益
の附籍は行うが高令者を除いて死亡者の除籍を行わず八六〇
年代以降は生益の附籍も逓減し在籍者の凍結を図ったという興味
深い指摘を行った︒一般的傾向として氏の指摘は承認されるが︑
周防国戸籍からみるに移貫や隠首括出の摘発も行われていたよう
あ でそれにより不当に数多な女口を含む一方で課丁の維持は図られ
て い へぼね たようである︒九世紀前半においては不課口の増益も地方官
の功績となりま︑た不課の女口にもそれなりの班田が行われていた
の で
なくなるので女口の偽増もみられなくなりまた生益の附籍も怠 ぽ 女口の偽増が行われ︑九世紀後半になると不課口には給田し
られるようになったのであろう︒一定数の課丁にのみ関心が払わ
れ他の幼童や女口は︑極論すれば︑存在してもしなくともよく︑
延喜二年阿波国戸籍で女口の死亡は無実とのみ記すのに対し課丁
に つ い て は 死
亡年月日を記し差別している事実がその事を如実に
示す︒既年︶院政期に入った保安年間のものとされる和泉国大計帳
が
知られる︒郡名を異にしながら口数が同じであるなど実態に即
してないことは明らかだが︑そこに賎として奴脾の記載がみられ
る︒十世紀以降においては大計帳は戸籍により作られてい㌔ので
保安のころの戸籍に奴碑の記載があった事になるが︑延喜年間に放賎令が出されてい輪⇔で延喜以降の公帳に奴碑が記されること
はない︒にも拘わず和泉国大計帳に奴碑が記されているのは延喜
生コ澗以前の公帳がそのまま踏襲されてきているからではないかと
思う︒大計帳および更には戸籍の形骸化と実態からの遊離を示す︒
しかも形骸化が和泉国大計帳から判断するに延喜年間以前に始っ
五 七
五 八 て
いるという事が注目されてよい︒
猶︑平田歌二氏は十世紀の後半に郷制の大変革が行われ戸籍も
再編されたとし︑その根拠として﹃和名抄﹄郷と合致す禍測名が
十
世紀後半以降急激に減少する事乞長徳四年国郡未詳戸籍の男性
戸口掌握が実態に近いことをあげられ工い前者の論点についてい
えば平田氏が依拠された池辺弥氏の所説に対する坂本賞三氏の批悲があり︑池辺11平田氏は某郷として史料にでてくる郷をすべて
『和名抄﹄郷と同性格のものとして把えるという誤謬を犯してお
り︑不一致郷の多くが﹃和名抄﹄郷の分割単位でそれが﹃和名抄﹄
郷を継承していると考えれば十世紀後半以降の不一致率の急増を お
みるのは当らないのである︒長徳四年戸籍は一部は男口のみ他は
女
口
が優越する戸からなるもので︑かかる戸籍を根拠に立論する
の
は困難であり︑結局十世紀後半に郷制の変革と戸籍の再編をみ
る平田氏説は成立し得ないと考える︒私は戸籍計帳は延喜年間の
段階で形骸化しており︑あとはそれを踏襲していったもので現実
の収取とは没交渉で中央と地方との媒介をなすものとして形式的
なる課丁を数えると一戸平均四・○人で慶雲三年格の中戸に当 られた寛弘元年讃岐国戸籍では十七〜六三才の正丁次丁中男から れ に作成されていったのだと考える︒長徳四年戸籍と相前後して作
る︒讃岐国戸籍は阿波国ないし周防国戸籍と同様に課丁を中心に
作られており同性格と見倣し得るが︑長徳四年戸籍は戸ごとに男
口 の
みないし女口が優越していることから郷全体として一定数の
課 ぴ 丁を得るという操作が為されているのかも知れない︒或いは男
口 の み の 戸 は 天 長 五 年
五月二九日官符で﹁一嘔戸頭︑十男寄口﹂
という偽籍の跡かも知れない︒それはともかくほぼ同時期であっ
ても形式内容においてかなり相異する戸籍の作られていることが
判るが︑律令文書主義の弛緩も地域的な相異によりさまざまな偏りを伴いつつ進行したのであろう︒そして延喜以降の戸籍にあっ
て
は実態から遊離し一定数の課丁を示すことが目的で他の女口や
幼童については余り関心がもたれていなかったのである︒計帳に
してもかかる戸籍に依拠して作成されていたのであるから同様の
傾向を示していたはずである︒
(五)
前節では戸籍計帳の制の変質について略述したが︑最後に本節
で
はこの時期の人民支配の元締めたる国衙の役割について簡単に
述べておきたい︒
九
世紀の在地百姓が権門との結合を深めていたのはそれにより
国衙に対桿できたということもあるが︑再生産ないし勧農面で百
姓
る︒旧稿で指摘したことだが特に畿内ないしその周辺域では在地 ハ へが自立できず権門体制に入らざるを得なかったという事もあ
で 比
較的上層に属する郡司層にしても定安した経営を営んでいる
とはいえず段富の輩と称される人たちにしても農繁期に雇傭する り 田夫に喫食させる為﹁掲己家資﹂とあり退転するケースもあった
らしく︑また農業が自然条件に左右される度合いが大きか㌧た事
から災害・飢饅の影響は深刻で天長三年の良峯安世の奏状では河
内国で﹁前年之間︑水早相伍百姓凋痒︑或合門流移︑或絶戸死亡︑
風俗由廠長衰︑郡吏以之逃散﹂と指摘している程である︒かく不
安定な郡司・百姓の経営を支え再生産を可能にする条件の一を提
供したのが権門・王臣家の蓄えた莫大な稲穀で︑場合によっては
郡司を含め百姓らは出挙を通じてその蓄稲穀に与かり再生産を維持することができたのである︒弘仁十年と承和七年に政府は王臣 の 家の蓄稲穀を検封し強制的に飢民に借貸しているがともに飢饅時
の非常措置で︑しかもかかる権力の介入をまつまでもなく王臣家
の人たちは畿内・周辺域を中心とした在地へ出挙を通じて進出し
て い た の
である︒また勧農の最重要事項として古代日本の農業が
水田耕作を主とする事から水利灌概の確保がある︒かかる面にお
第23号 昭和49年 金沢大学教育学部紀要
244
い
ても権門が進出し百姓をその支配体制内に組込むことがあっ
た︒﹃日本霊異記﹄の説話に元興寺の僧が耕作していたところ﹁諸
を支配していぐ様子を示唆しているが︑延暦十九年二月三日官符 王等妨不入水﹂とある︒権門の人が水利施設の支配を通して百姓
で
益「国之道務在勧農︑築池之設本備概田︑如聞︑猜民好漁決掲
池水︑愚吏寛縦不加捉搦︑遂及秋冬池凋春水絶︑田疇荒廃損莫不
由斯﹂と述べ︑同様の趣旨の官符は以後も頻りに出されておりか
かる趨勢はますます強まっていたらしい︒かく出挙と勧農を通じ
て
百
よる両者の結合を断ち切る為には国家の側で百姓に対し再生産の 姓と権門とが結合を深めていたのである︒先述した⑥官符に
条件を保証する必要のある事は云うまでもない︒
ところで律令政府による百姓の再生産への配慮を見ると飢民へ
の
各種の農業指導からなる勧農策が出されており︑前者については 賑給や調庸運脚への救済対策などの救貧策ないし水利の保全や
天 長 十 年
束・小男小女一束の法定数を定めているが如くである︒灌概施設 ぬ 七月六日に飢饅時の賑給について大男三束・中男大女二
等につては︑当然の事ながら末端の小村落共同体で負担し得る程
度の修築作業は外部の介入をまつまでもなくその責任で行なわれ
て い た
はずで︑恐らく雑令取水慨田条の﹁須修治渠堰者︑先役用
水之家﹂を注釈した﹃令集解﹄朱説に﹁謂此軽柳時也︑臨時量宜
役耳︑不充径分︑又不求正中男也︑又不見日限﹂とある如く利用
者が適宜修築に当ったことと思われる︒かかる小規模な工事と異
り直接的な利用者のみでは負担し得ないような大工事の場合は営
繕令近大水条﹁凡近大水︑有堤防之処︑国郡司以時検行︑若須
修理︑毎秋収詑︑量功多少︑自近及遠︑差人夫修理︑若暴水汎溢︑
穀壊堤防︑交為人患者︑先即修営︑不拘時限︑応役五百人以上者︑
且役且申︑若要急者︑軍団兵士亦得通役︑所役不得過五日﹂が適用され︑太
政官ないし国郡司の差配により雑後を差発して行ったと推測され
る︒国家の領導による灌概施設の修築例を見ると︑弘仁十一年二 月十六日に﹁遣使築大和国高市郡泉池﹂き同十四年正月二十日に お
お 「新銭一百貫賜大和国︑充築益田池料﹂て天長三年正月二九日に 民 望 により﹁和泉国令築池五処﹂め同年二月十六日に﹁備前国停 田原池︑築神埼池﹂き同八年二月九日に百姓の願により﹁新築山
城国綴喜郡香達池﹂いている︒また著名な貞観八年の広野河事件
お の発端となった広野河の改修工事は尾張国が太政官に申請し百姓
を救済する為にとりかかったものであった︒これらはいずれも大
お 工事で負担の面で国家の支持が必要でありかつ技術的にみても木
工寮や修理職・防鴨河使等に置かれた多数の優秀な土木技術者の
支援が不可欠であつた︒十世紀北陸の庄園開発で中央から下ってき
き た算道を修めた人たちの活躍が知られるが︑かかる傾向は一貫し
て い た
であろう︒延暦十九年九月十六日官符で﹁富国安民︑事帰
良田︑良田之開︑実在溝池︑如聞︑諸国溝池︑多有不修︑田疇荒
廃︑職此之由︑宜令改既往怠成将来勤︑特立条例以懲違犯者︑諸
国承知︑存情修理︑自今以後︑惣計池堰︑載朝集帳毎年申官﹂と
述べているのは太政官による国司の水利修復事業への督励で池溝
帳の呈出により指導を強化している︒さらに天長二年十二月二一 日官符では﹁諸国溝池破損者衆︑修造之類︑毎年不息︑宜出挙正
税令充其料︑大国四万束︑上国三万束︑中国二万束︑下国一万束︑
須年中少破先尽用水之家︑若作物多数︑不堪修造︑支度勘録︑先
ら知られる如く従来部分的に行われていた池溝修理の為の出挙稲 言後用︑但先挙之国︑依件増減﹂と述べ︑﹁先挙之国﹂とある事か
を全国的に設置し経常費目化している︒かかる措置は延喜交替式
にも継承され九世紀を通じて現行法であった︒実際には必ずしも
国司が治水工事に励まずそれを指弾する官符が一再ならず発布さ
れ て
いるが︑律令国家としてはかく一貫して水利・勧農政策を
採っていたのであり︑一連の延喜格の中では⑧官符で池溝に関す
る交替式の条文の励行を求めており十世紀以降においても引継が
れ て いるのである︒
五 九