九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
[翻刻] 三宅亡羊の『履歴』
上野, 洋三
九州大学 : 教授
http://hdl.handle.net/2324/4741972
出版情報:雅俗. 9, pp.150-168, 2002-01-30. 雅俗の会 バージョン:
権利関係:
ご み ず の お ち ゅ う か も ん い ん さ き こ と う ぐ い ん こ の え さ き ひ さ
後水尾院の生母である中和門院前子は︑東求院近術前久
さ ん み や く の ぶ た だ
の三女であり︑三説院近衛信手と母を同じくする妹であっ
た︒後陽成院の准后として入内し︑曇華院瑞雲聖興女︵夭
逝︶を始めとして皇女七名︑後水尾院を始めとして皇子五
名に恵まれた︒第二皇子は︑前子の兄信手の養子として近 術家を嗣いだ本源自性院応山︑信尋︒第三皇子は高松殿と
よしひと称された好仁親王︒第四皇子は︑一条内基の錐子となり︑
はじめ兼返︑のち昭良と名乗り︑のち法鉢して恵観と号し
た︒第五皇子は︑十一歳で得度し︑南都一乗院を継承した
そんかく二品尊覚法親王︒
三宅
亡羊
︵
一哭
9 ‑ ‑
︿覧︶の年譜ともいうべき﹃履歴﹄に︑
この中和門院に関する記述が二度現われる︒一度目は︑寛
永七
年(
‑空
︱
‑ 0)
︑亡羊五十一歳の折︒
さ さ げ
6 9 ‑
︑中和門院様より︑金子十両︑大角豆夏切︑御拝領︒
[
翻 刻 ]
三宅亡羊の
﹃ 履 歴 ﹄
︵以下︑引用各条の頭︑及び文中カッコ内の
アラビア数字は︑﹃履歴﹄掲出の順序を示す︒︶
とある︒この年︑中和門院は五十︱︱︱歳︑この七月三日に亡
くなっているから︑逝去まぎわの贈り物ということになる︒
そして︑二度目は︑二年後︑寛永九年の項︒
7 3 ‑
︑近衛長山様︑御家督に御なり候事︒先師︑御同心
き さ い
なく︑度々御諌言の事︒中和門院様︑寄斎恩を︑七
わ す ら る ま じ き よ し お ほ せ ふ く め ら れ
代被忘間敷由︑被仰含候事︒
文中に﹁先師﹂﹁寄斎﹂と書かれるのは︑すなわち亡羊
のことである︒﹁長山様﹂は尚嗣︒元和八年の生誕だから︑
この年わずかに十一歳︒とすれば︑この家督に反対して︑
亡羊が﹁度々﹂﹁諌言﹂した相手は︑おそらく尚嗣の父信
尋であろう︒何故その必要があったのか今は知らない︒た
だし︑これに関連して︑中和門院が﹁寄斎恩を︑七代被忘
上
野
洋
間敷﹂と発言した相手もまたわが子信尋とすれば︑亡羊と
近術家の関りとが︑並々ならぬことであったことが想像さ
れる︒すでに中和門院の逝去後二年になるのに︑なおこの
一条が付記されるのは︑尚嗣の家督相続が︑かなり以前か
ら問題になっていたからであろう︒そして︑このような問
題に発言し関与し続ける亡羊の位置は︑どのようなものだっ
たのであろうか︒
﹃履歴﹄によれば︑ぇ
3 8 ‑
︑三貌院様へ︑廿八九の時分︑御目見へ︒
え厨山様︑二恵観様︑三高松様︒
御目見への先後︑如
此に
候︒
とある︒亡羊の﹁廿八九﹂歳は︑慶長十二年︑十三年︵一六
危ふ︿︶にあたるが︑﹃履歴﹄の記述に従えば︑その以前の
三︑四年ほどを︑俸禄三百石の約束で筑前黒田長政に仕え
てすごし︑京都に戻ったばかりの頃である︒身分の定まら
ない浪人ものの青年が︑どのような理由で︑何の目的があっ
て︑時の関白に﹁御目見へ﹂がかなったのであろうか︒さ
らに︑つぎつぎと︑時の天皇︵後陽成院︶の皇子たちと面
会することが可能だったのか︒
﹁御上洛の時節﹂とあるから︑同じ頃のことと思われる
が﹃履歴﹄には︑つぎのような記事も並んでいる︒
さいはひ
3 9 ‑
︑御上洛の時節︑乗輿は法度にて︑﹁幸︑御所様 方へ伺鑓出叫尻候﹂とて︑御叩町り候て︑御如即
あ そ ば さ る ぺ
L
可被遊とて︑御よろこび候へば︑四五日中に応山
様より伊賀殿へ︑被仰入︑御赦免の状来り候事︒
亡羊には︑輿に乗らなければならない事情があったのか
もしれない︒元和元年に大坂夏の陣の後︑京都へ凱旋した
徳川家康から︑面会の招請が来たときに﹁若年より病身︑
ぎ や う ぶ
行歩不自由﹂を理由に﹁仕官﹂を断った
( 4 2 )
記事
もあ
る︒
それで︑京都の町に乗輿禁止令が出た折にも︑ちょうどよ
い︑これを理由に近衛家にゆかりの﹁御所様方﹂へも行か
ずにすむ︑と喜んでいたところ︑近衛家から所司代板倉勝
重に申し入れて︑禁止令解除となった︑というのである︒
︹ 候︺
ここから考えれば︑近衛家の方が︑亡羊の﹁伺公﹂を必要
としていたのではないか︑と思われてくるであろう
︒
﹃履
歴﹄のつぎの一條も︑亡羊の支援があって行われたことと
見なければ︑ここに記録されている意図がわからないので
はないか︒慶長十四︑五年あたりに掲出される記事である︒
︹ 祥︺
3 7 ‑
︑山科︑安城寺へ応山様︹信尋︺御成︒二百四五十
人飯喫候者︑諸方より諸道具・菓子・肴︑来り候や
に候
事︒
このように多数の人出を催してまで︑近衛様の﹁御成﹂
を実現させることを︑亡羊は喜んでいた︑という︒
み ま ひ に ん
さふらへ
1 5 9
‑
︑三御所様御成候時︑見廻人多く候得ば︑御機嫌よ
<候
事︒
﹁三御所様﹂は近術信尋・一條昭良・高松好仁の三兄弟を
いう︒亡羊は信尋が藤堂高虎を津に訪ねたときも︑
(4
7i
4 9 ︑元和九年︶︑堺の南宗寺を見物にでかけたときも
( 5 8
︑
寛永四年︶︑供をして下向した︒
そのような亡羊の︑行動
の基本形を︑﹃履歴﹄は次の三箇條にまとめている︒
︹御 ︺
め
し お こ と わ お ほ
せあげられ
1 6 2
‑
︑三五所様︑御召候得ば︑用事候得ば御断り被仰上︑︹
候 ︺
︹候 ︺
御隙の時は即時御伺公候︒御使者よりさきへ御伺公
候事
︒
︹ 御︺
︹ 候︺
ごえん
1 6 3
‑
︑三五所様︑はれがましき方︑御伺公候得ば︑御縁
し
ひ な さ
れ ほ
に正座︒
強て御
□
台被成候得ば︑座敷へ御なをり候事
︒平生は頭巾にて安座
︒
ざ い け な り め
しつれられ
1 6 4
‑
︑三御所様︑在家へ御成︑御相伴に被召連候得ば︑
︹ 候︺
くわんぎよ
き た
<
御成よりさきへ御伺公︒還御被成︑御阪宅候事︒
急な招きがあった場合︑自分に手のはなせぬ﹁用事﹂が あれば断り︑手があいていれば即刻参上するという態度に は︑どこか気持のよい衿持が感じられるけれども︑一方で 侍座する場合は︑どこまでも
謙退を貫く︒ただしわが子ほ
ども年齢の違う﹁三御所様﹂に対してであるから︑﹁平生﹂ は﹁頭巾﹂をかぶったままゆったりとくつろぎ座している︒
し ふ
そこには年老いた師偵の面
影がただよう︒
そのような亡羊に対してであるから︑寛永十一年三月に 悪性の腫物に悩まされた亡羊が︑四十日ほど洛北﹁八瀬の
釜湯﹂で保餐したときには︑﹁三御所様﹂ばかりでなく︑
﹁八
ノ宮
︹知
恩院
門跡
良純
法親
王
︺﹂
﹁大
門様
︹大
覚寺
門跡
尊性
法親
王
︺﹂
までも見
舞の使者を遣
したという
( 8 7 )
︒
あとの二名もま
た後陽成院の皇子たちである︒
慶
長・元和期︑政治の中心がすっかり関東に転換しつつ ある頃︑天皇家であれ︑近衛家であれ︑京都の貴綴はすべ て経常的な財政難の状況にあった︒戦乱の余波の中で︑と
りあえず一年一年を生きのびて行くための不安の中にあっ
た︒
そのような時に︑招けば駆けつけてくれて︑行きたい
所には供をしてくれて︑出先に押しかける諸人に対しては︑
二百人が三百人であろうと︑飯を喫わせて乎然としている︑
でいり
そんな出入の人間がいたら︑これほど心強いことはあるま
い︒
中和門院が︑﹁寄斎﹂亡羊の﹁恩﹂を﹁七代﹂後まで も忘れてはならないと感謝したのは︑そのようなことでは
なかったか︒
亡羊と近術家との関
係は︑やがて伊勢藤堂
家との関係を
つくり出した︒
︑ づ み ど の
4 3 ‑
︑三十七八歳︒藤堂和泉殿へ御出入候事
︒近衛様に
はじめて始て御参会︒
亡羊の三十七︑八歳は︑元和二年︑三年︵云一六?一七︶にあ
たる︒
その頃︑藤堂和泉守高虎は︑何のために上洛して近 衛邸を訪問したのであろうか︒﹃寛政重修諸家譜﹄の藤堂 氏高虎の条によれば︑高虎は元和二年二月に徳川家康が死 去するに際して︱つの遺言を示されていた︒それは二代 将軍秀忠の息女和子を︑なんとかして入内させよ︑という ものであった︒天皇家と徳川家との縁組が︑家康にとって 最後に残された宿題だったので︑これを最も侶頼した高虎
に託したものである︒高虎の奔走が︑どのようなものであっ
たかは詳かでない︒
しかし和子入内は容易に実現せず︑よ うやく元和六年九月になって成立した
︒すなわち︑のちの
後水尾天皇中宮︑東福門院である︒﹃寛政重修諸家譜﹄で は﹁九月︑東福門院御入内のこと︑かねてより高虎うけた
まはりて︑こと整ひしかば﹂とばかり記し︑翌﹁七年六月︑
御入内のとき供奉に列し﹂たとあるが︑この数年にわたる
そうこくし朝幕間の交渉の断片が藤堂藩史﹃宗国史﹄の中に散見する︒
高虎は︑やはり︑天皇の弟であり︑摂関家の当主である 信尋と交渉を始めたものらしい
︒
ともかく元和三年秋八月
二十六日に上京した︒
そして次に掲げるのは︑既に交渉が
おおむね整ったのち︑﹁元和五年或は六年冬﹂と﹃宗国史﹄
の編者によって推定されている高虎宛信尋書簡の一部である︒
まうしあげさふら一︑其方書中之通︑天子︹後水尾天皇︺へ申上候へば︑一
あひととのひ
段と御満足の
事に候︒
いよ/\うつくしく相調候や
まうしつかはし
う に と 申 遣 候 へ
︑ と の 事 に 候
︒
一︑昨日は︑くさりのまにて︑八條どの︹智仁親
王︺
ふる
いり
まひ候て︑夜入候てまで︑大酒候つる
︒さりながら︑
我も人も行儀あしき
事
は︑すこしも候はず候つるま
4
可被心安候
︒徳勝院︑石
宗林なども︑参候つる︒きJ I
勝斎は︑ちとわづらひ候て参候はず候︒
サl J
ー遠
江︑
かつ
手 い
り
てへ
みま
ひ候
て︑
一だん︑きも入候つる︒
びん
ぎ候
はゞ
︑ ょ</\御礼被申候て︑可給候
︒リ匝図書もみまひ候
ほかて︑ことの外きも入候つる︒
︵中
略︶
一︑来春はめでたく︑無相違︑かならず/\御上洛候ベ
し
︒ め で た か し く
返々︑記即吉
左右待申候 十 一 月 廿 九 日 こ 泉州 文中︑八条宮智仁親王を招いての酒宴に筆が及んでいる のも︑信尋・高虎両者の交渉が︑心の交流にまで結
果
して
いるあらわれであろう︒そしてその段に︑当日出席できな
かった﹁き斎﹂の消息にまで触れていることが︑両者の間
における﹁き斎﹂三宅亡羊の位置と役割を︑端的に想像さ
せるものである︒亡羊と藤堂家との関係は︑高虎の嗣子高
次︵藤堂大学︶の代にも及んだ︒
初鶴一
箱︑
院御
所︹
後水
尾院
︺江
進上
候
︒則︑披露候処︑御知町乞
叩候
︒あ 由衷 等 に し 餌 剛 叩 如 ヽ
バ 四
町彰候︒
︑︑
委細︑自寄斎方︑可申達候︒かしく
ペつして返々当年は沙汰も未承候物に而︑別而満足之事候︒
九 月 廿 七 日 花 押
︵ 信 尋
︶
藤堂大学どのヘ
という一通などを見れば︑近術家と藤堂家との間にあって︑
﹁寄斎﹂亡
羊が︑後々まで必要不可欠の中継役を果してい
たことが想像されるであろう︒そこで︑﹃履歴﹄の中に︑
ぼ一︑東福門院様御入内°
外 は
泉州
公
︹藤
堂高
虎︺
︑御
内證
︑
ばいしゃ
く う け
たまはり
先 師 御 媒 酌 と 承 候 事
︒
との一条がある︒幕初における朝幕関係の︑大きな課題と
なった東福門院の入内一件は︑実質的には亡羊の存在あれ
ばこそ成就された︑というのである︒亡羊はそのことを︑
自分の養嗣道乙や門弟たちに︑こっそり語っていた︒
右を必ずしも亡羊の自慢話の行きすぎと片付けることも ないということは︑﹃宗国史﹄中の﹁累世記事
﹂に︑藤堂 家の側の証言があることで確かめられる︒それは︑元和七 年の和子入内のこと︑侶尋が寛永元年の東下に際し江戸藩 邸を訪問し︑焔途は津の城にも宿泊したこと︑さらに近術
邸が大破し改築を迫られた折に三千五百両の費用を提供し
たことの三条を挙げた上で︑﹁初中後︑御懇志之通事︑三
よ こ は ま な い き
宅亡羊︑相勤申候由︑横浜内記︑委細語申候﹂というもの
である︒横浜内記は同じ﹃宗国
史﹄の﹁功臣年表﹂に︑慶
長十三年の項に出て︑﹁五百石︑後二千石﹂とある︒藩の
重臣の一人であった︒
信尋の津城訪問に際して︑亡羊が接待のプラソを基本的
に作成したことは︑﹃履歴﹄
( 4 8 ) にも亡羊の側の証言が
あるから︑これら三条が︑藤堂家としても︑秘かに誇るべ
き事実であったことが︑認められる︒言うまでもなく藤堂
9じのちょうじゃ
氏は藤原氏であり︑関白氏長者たる近術家と強いつなが
りを持つことは誇りであった︒そして︑両者の間にあって
亡羊は︑必須の媒介的役割を果したものらしい︒
藤堂家は︑亡羊を何らかの形で召しかかえようとした︒
たつて
4 5
知行二百石︑可被遣由︑泉州︹藤堂
高 虎 ︺
御申候︒達而
御辞退候事︒
しかし亡羊はこれに従わず︑時に応じて高虎父子の諮問に
答えるという形をとった︒亡羊の嗣道乙もまた︑同じよう
な関係を原則としたようであるが︑その嗣詢節の代に至り︑
ついに︑京都住居のまま禄四百石で儒臣として仕えること
になったのであった︒
さて︑東福門院の入内について︑亡羊が尽力したことを
当然承知の上であろうが︑後水尾院も自然に亡羊との係り
をもつことになる︒亡羊五十一歳の寛永七年(
‑ ︱
︿
‑ ︱
1 0)
︑院は
姉小路公景を使者として︑﹃聯珠詩格﹄を托し︑訓読の点
をつけるよう依頼してきた︒半年ほどしてようやく十一月
の末に出来上り献上すると︑金子三枚を賜ることになった︑
という
( 6 7 )
︒同じ頃であろうか︑﹁十種香の札﹂を頂戴
し
( 6 8 )
︑翌八年には加えて﹁名香五種﹂と﹁鈍子三巻﹂
を﹁拝領﹂
( 7 1 ) した︒鈍子は︑のちに﹁亡羊どんす﹂と
して知られ︑また︑香道においては亡羊による新工夫が後
のちまで伝えられることになった
( 1 7
1 ) ︒寛永十二年には︑
院より﹁真綿廿把﹂
( 1 0 0
) ︑東福門院からも﹁羽二重十匹﹂
( 9 9 )
を﹁拝領﹂した︒
だが︑﹃履歴﹄の筆者が是非とも記録しておきたかった
のは︑むしろ︑寛永十年︑亡羊五十四歳の折に︑仙洞御所
で﹃徒然草﹄と﹃老子﹄を進講した一件であったろう︒こ
れより前︑京都所司代︑板倉周防守重宗の希望で︑永井日 向守直清・木下右衛門太夫延俊・五味備前守豊直らを前に﹃貞永式目﹄の講義をしたことがあった︒そのことを聞いた後水尾院の希望によってであろう︒重宗の発起で︑仙洞御所での進講が実現したのであった
( 7 8 )
︒
このとき心配されたのは︑無位無官の亡羊が︑上皇の前
に出ることであったが︑重宗が﹁不苦俵﹂としたので︑
実現したのだという︒当日は親眠の気分に溢れた︒
はじめ亡羊の声が聞えにくいというので︑院の希望で直
み す
前にまで座をすすめさせられ︑しかも﹁御簾の前︑四尺ほ
どあけ﹂て講釈することになった︒褒美は﹁銀子廿枚・蛾
瑣・幣申﹂を拝領したという︒中国宋代の隠士林和靖は︑
皇帝の招きを受けて︑その無位無官が問題になったとき︑
皇帝自ら﹁慮士﹂の号を授けたという︒こんにち︑洛北
たかがみね
鷹峰の三宅家墓地の中央に立つ亡羊の墓碑に﹁慮士亡羊子 之墓﹂と刻するのは︑おそらく右の故事に櫨る誇らしい仕
業であったろう︒﹃履歴﹄は︑
無官の者︑御前にて講釈候事︑先師︑張本︒
( 7 8 )
と記し︑併せて︑
こ と ご と し き ご き げ ん
天道にかなひ候とて︑事々敷御機嫌にて候︒
( 7 8 )
と書き留めている︒﹃徒然草﹄と﹃老子﹄が︑後水尾院の
前で︑地下も地下︑無位無官の人間によって講ぜられ︑こ
とこどく院の期待に添うて︑﹁御機嫌﹂よろしきを得たと
いうことは︑講者の栄誉であったばかりでなく︑﹃徒然草﹄
と﹃老子﹄にとっての幸運でもあった︒特に﹃徒然草﹄は︑
以後︑寛永から寛文にかけての五十年足らずの間に︑注釈
書を含めてその刊行本は三十五点を数え︑平安朝を代表す
る﹃伊勢物語﹄とともに︑日本の古典になってしまった︒
こんにち
以来︑今日までの流布本の大半の底本となったものが︑烏
丸光広の校訂を経た亡羊版下の慶長十八年古活字版である
ことも︑周知のことである︒
また版本にくらべて決して数多くない近世初期の﹃徒然
︑
︑
︑
︑
︑
︑ 草﹄諸写本の中に﹁伝中和門院本﹂﹁偏易本﹂などの亡羊
﹃履歴﹄に登場する人々の名を見出すことも偶然ではある
まい︒ことに偏易子は︑これまで伝記資料の稀な人物であっ
たが︑﹃履歴﹄によれば︑亡羊の住んだ長者町の隣人︑笹
屋宗閑の﹁息子﹂であり︑兄甚蔵とともに︑ふだんから亡
羊の門に﹁出入﹂して﹁弟子﹂同然であった︒兄は十六七
歳の頃に師弟の﹁契約﹂をして﹁四書﹂の﹁講釈﹂をたび
たびして聞かせた
(3 4. 35 .3 6)
とい
う︒
﹃履歴﹄の箪者は︑﹁平生被仰候﹂﹁承候﹂などとあると
ころを見ると︑直接︑日常的に亡羊に接し︑長期間にわた
りその言動を見つめてきた人物と推定されるが︑﹁道乙︑
御申候事
( 1 3
7 ) ﹂とあるから︑門人で養嗣となった道乙以
外の人間である︒また亡羊の宮中講義が︑無官の者の最初
このの例であると記す条
( 7 8 )
で︑﹁葬倫︹意林︺庵も此例と承
候﹂と付記するが︑朝山意林庵が後光明天皇に﹃中庸﹄講
義をした承応二年の例を話題にしているから︑それ以後︑
すなわち亡羊没の慶安二年よりも少なくとも四年経過して
から記録が形をとり始めたことがわかる︒その稿了はいつ
ともしれないが︑特に亡羊の青年時の行動について︑いく
つも曖昧な点や︑矛盾点が生じていることは否定しがたい︒
むしろその破綻や難解で読みにくい文章筆蹟などから︑寛
永期の一種なまなましい感覚が︑じかに伝わってくるよう
でもあるけれども︑ただいまは︑この豊かな年譜を︑とも
かくも読者に贈ることができることを︑よろこびとしたい︒
*翻刻にあたって︑句読点・濁点・ふり仮名・﹁﹂を
加え
た︒
*︹︺内は︑新たに補ったもの︒
*現状は︑改装・裏打済の巻子本である︒
*底本の所蔵者は︑三重県久居市︑山上尚男氏である︒
*小稿と関連して﹁三宅亡羊の遺書﹂︵﹃文学﹄二
0 0
二年一・ニ月号︶がある︒
正月十
︹本
文翻
刻︺
履歴
うけたまはり
l‑
︑天正八年庚辰︒御誕生
︒
元 日 と も 承 候
︒
二日とも承候︒定日は不存候︒
2‑︑十六歳之時︑祖父︑筒井順鹿婿若狭守殿辞世︑即に叡
り候
﹁残し置事も趾かし若狭なる後︹世の山の︺後の世ま ︒
でも
﹂ 住吉の社人︑一見候て︑読てきかせられ候得と︑ロロロ
得ば︑御よみ候事︑不成候て︑事々敷怒り趾かしめ候事︒
3‑︑慶長三年戊戌︒家君︑四十二歳宗岩老︑二月十六日御逝
去︒先師十九歳︒
ないしつ4‑︑堺御住居の時分︑内室有之と云々︒
は じ め お こ こ ろ ざ つ ね し
5‑
︑十九歳の時︑始て学に御志し候事︒無常ノ師︒
︹付
箋一
︺
まうす6文勢と申禅僧韓麟呼麟︑詩の平仄︑﹃三鉢詩﹄︑﹃錦繍段﹄
よ み な ら ひ こ の じ ゃ う ず
など御読習︒此時分より述作御上手と承候︒
しるしつかはし7‑
︑ 右 の 趾 豚 を 与 へ 候 社 人 方 へ
︑ 書 翰
・ 詩 な ど 記 遣
もんまう候処に︑文盲にて返答なく候事︒
り ん し よ く は あ り し だ い つ か ひ
8‑
︑鄭吝になく候て︑金銀御たくわへなく︑有次第遣
う り な り じ ぶ ん ふ る ま ひ
候事︒御やしきに瓜お成候時分︑人御振舞候て︑瓜畠に
ぎんはく瓜を銀薄にてだみ御振舞候事︒
ぢ ぷ せ う け ら い
9‑
︑十九歳の以後︑石田治部少輔家頼柏原︑金子十五両
こ し ぶ ぐ せ き が は ら き た や う
とやらん越候て︑武具用意いたし候て︑関原へ来り候様
ま ね と こ ろ う ち じ に
にと招き候処に柏原︑鹿長五年︑討死いたし︑金子十五
つかひ両︑遣料になり候と平生御物語候事︒
︹付
箋二
︺
10‑︑なつ一年︑東寺の空心因幡堂トカケモチに御仕へ︑
なされ正忌の御弔ひ被成候事︒
か う や の ぽ ば か り き ん が く
1 1 ‑
︑廿四五の時︑高野へ御上り候て︑五六年斗御勤学の
1 2 事 ︒
‑
︑岐阜中納言殿︑御入魂︒﹃徒然草﹄・﹃老子経﹄など
ち ゃ う も ん せ ら れ さ な だ
御講釈︑被聴聞候︒真田安房守︹昌幸︺も同前︒中納言殿︑
あそばされ正忌の御弔ひ被遊候事︒
1 3 ‑
︑廿四五歳の時︑黒田筑前殿︹長政︺へ御仕へ︒孫入八歳
めしつれられ被召連候︒
と が に ん し よ う に ん じ ん
1 4 ‑
︑筑前にて︑科人︑退散候て︑孫入を證人にとり︑人
か ひ き こ も と こ ろ け や ぶ さ ふ ら へ
家へ引篭り候処に︑先師︑門戸を御蹴敗り候得ば︑科人︑
と ら つ か
孫入を一方の手に執へ︑一方の手にて刀の柄に手をかけ
とら五六寸ほどぬき候を︑先師御つかまへ候︒﹁科人執へ候﹂よばさむらひしゅ
と御呼はり候得ば︑士衆走りこみ︑縛り候事︒
あ ひ だ お ほ か た
1 5 ‑
︑筑前殿︹黒田長政︺御仕への間は︑御講釈︒大形は御
祐筆︒岩崎とやらん祐箪︑文字数︑同じ事にて右六十か
き候得ば︑先師八十あそばし候事︒
1 6 ‑
︑長政公御供にて︑始而江戸御下向候事︒つかはさるるはづ
1 7 ‑
︑筑前にて︑三百石被遣筈の事︒
1 8 ‑
︑筑前に︑三四年︑御滞留之事︒
き き や う た う ち だ い も ん じ き う ゑ も ん
1 9 ‑
︑筑前より御阪京候て︑当地にて︑大文字や久右衛門
お や い へ は じ め て こ し
親の家へ始而腰御かけ候事︒
だ い お う じ む し よ あ ん じ つ む す
2 0 ‑
︑大徳寺前︑大應寺とやらんの墓所に︑庵室を結び︑
て せ ん は か も り
なく︑独住居にて御勤学︒朝夕の飯は手煎じ︑墓守
げ に ん
下人
ま う す よ し た ぎ や う さ ふ ら へ ぢ や う
御やとひ候て︑すけ申由に候︒御他行候得ば︑戸に鎖子︑
ふ り み づ か ら か ら か さ あ が
御おろし候て︑雨降候得ば︑自︑傘御さし︑天気上り候
になひ得ば︑傘荷櫓候て御阪り候事︒
が く い う と さ だ う じ ゅ げ ん や ぐ だ う
2 1 ‑
︑学 友は
︑土 佐︹ 長沢
︺道 寿・
︹岡 本︺ 玄冶
.愚 堂︹ 東︷ 是︺
.
こ の と き し ゅ く し よ か は ま う す ぺ く ぞ ん
正説とやらんと承候︒此時︑御宿処替り可申と存じ︑御
こうしやくせられ講釈︑﹃荘子﹄︒道寿︑﹃孟子﹄被講釈候︒両人︑なるほ
ど難問︑御思案候て︑不審御うち候︒
ぎ ろ ん お か ち か ち
議論は︑四分先師御勝︑六分道寿勝の勝負と︑平生御物 語候 事︒
︹付
箋三
︺
あ り に ん
法華坊主上人︑意趣有之て︑﹁いたづら者︑うけ人な
しに宿かり居申﹂由伊賀殿︹板倉勝重︺へ訴へ候得ば︑先
22
く じ ぱ お い で
師︑伊賀殿公事場へ御出候て︑いかにもうけなしには
つかまっらず
居 宿 不 仕 候 由
︑ 御 申 わ け 候
︒ 御 退 散 候 以 後
︑ 坊 主 を
ことごとしく事々敷︑伊賀殿御しかり候由に候事︒
くはしくかきつけ
承候様子御座候︒委書付がた<候︒
し よ ぢ
2 3 ‑
︑筑前より御阪京候て︑銀十枚御所持︑九枚にて﹃史
かひ記﹄御買候事︒
︹付
箋四
︺
ばかり
2 4
大徳寺にて二年斗禅学︒春屋国師︑参徒︒
2 5 ‑
︑ぎ叩尉.本満寺十三世・身延山二十一世︺とりもちにて︑
頂妙寺方丈に於て﹃老子経﹄御講釈︒即座にて︑無縁の
と こ ろ と ど こ ほ
者︑難問不審候処に︑滞りなく御答へ候事︒御講釈︑き4
ごとに候て︑世人褒美と承候︒
︹ 後
︺ さ ま
2 6 右御講談の時節︑御陽成院様上聞に逹し︑﹃廣聖義﹄
ま う す ま っ し よ え い ざ ん か は
御写し候事と申末書︑叡山の僧名は不存候印江孟如戸ヽ﹁換り
も ん ぎ あ る か い つ け ん よ み し か る べ し す な は ち
たる文義有之款︒一見候て︑読候て可然﹂と勅定候︒即︑
し ぶ ん あ
詩文を作り︑御上げ候事︒
2 7 ‑
︑耐叶野町大納言殿先師と御縁類と承候︑加乞厨御入魂︒
貧窮
の時
分︑
御合
︒
こ ひ つ れ う さ は じ め て
力も有之由に候事
か う ぐ
2 8 ‑
︑香具や浄治・古筆了佐・孝諄︑始而御上京の時分︑
ちさうまうす馳走申由に候事︒
つ か ひ げ に ん よ し の
2 9 ‑
︑御遣候下人︒男︑名不存候︒吉野住人︒草履とり︑
同︑吉︹野住人︺︒
や ど と こ ろ ぞ
んぜず
3 0 ‑
︑宿 所は 不存 候︒ 妙寿 院︹ 藤原 捏腐
︺の 前に
︑道 春︹ 林羅 山︺
じ ざ
・正
恰︹
堀正
意︺
・道
圃︹
那波
︺侍
座
先師束髪ノ時朱鞘ノ大脇指に御参会
候て︑先師歳旦の一絶︑﹁朝霞一氣唯混沌花自仁根大
お の お の ま
う
さ る ま じ
く極枝﹂各︑一覧候て︑﹁﹃大極枝﹄と被申間敷候︒
文義
つうぜざるまうされ不通﹂由︑被申候︒即先師︑﹃詩人玉屑﹄を請ひ︑全部うちこ
の ぎ
もとおんまうしの内披覧し︑﹁此義に本づき﹂御製作の由︑御申候得ば︑
ぎ三人共に︑﹁これにても︑義通じ申間敷﹂と被申候得ば︑
ひ ら ん せ ら れ ま う し ぶ ん
妙寿院︑﹃玉屑﹄被披覧候て︑﹁いつにも先師の申分た
とうてつし
ち申 候︒
文義透徹候﹂と御申候︒先師御退散候て︑三人
を︑妙寿院御しかり候︑と承候事︒
3 1 ‑
︑三十歳︒慶長十四年己酉゜
津軽越中殿︹信枚︺︑御供被成︑彼地︹弘前︺
御下向︑翌年
き ら く
三十 一
歳︑御飯洛︒
おしやくたく
で い
り
3 2 ‑
︑一条通りに御借宅︑出入候て︑極月廿八日に御やど
がへ
︒
3 3 ‑
︑其 後︑
長者町へ御移り︑
げん
三間
役︒
︹付
箋五
︺
ささ︹
閑︺
じつこん一︑篠や宗間と御入魂︒
一︑ 宗閑 子息 甚蔵
・偏 易︑ 35 34
おかひこれにより左右の隣家御買たし︒依之
出入
︒ 門弟 子︑
同前︒
一︑ 甚蔵 十六 七
歳︑事之外発明にて︑先師︑御弟子に
なさ
るぺ
し可被成と御契約之事︒四書講釈度々之事︒
3 7 ‑
︑山科︑安城寺へ︑應山様︹近
衛信 尋
・後
腸成
院皇
子
︺御
成
︒
二百四五十人︑飯喫候者︑諸方より諸道具・菓
子・
肴︑
来り候やに候事︒
さんみやくゐん
め み え
3 8 ‑
︑三貌院様︹近衛信巴へ︑廿八九の時分︑御目見へ︒
直 山 様 二
m
/即様
︹一
条昭良・後陽成院皇
子︺ 三高 松様
︹好 仁・
せ
ん ご か
くのごとく後陽成院皇子︺御日目見への先後︑如此に候︒
︹付
箋六
︺
じ よ う よ さ い
はひ39‑︑︹亡羊︺御上洛の時節︑乗輿は御法度にて︑﹁幸さまがた
つか
まつる
ま じ く
ひきこも
御 所 様 方 へ 伺 公 仕 間 敷 候
﹂ と て
︑ 御 引 籠 り 候 て 御
きうそくのそばさるべし休息可被遊とて︑御よろこび候得ば︑四五日中に應山
おほせ
いれ
ら
れ ご し
やめん様より伊賀殿︹板
倉勝 重︺
へ被仰入︑御赦免の状来り候
事 ︒
︹付
箋七
︺
︹腫︺
た ぢ ま
ゆいり40‑︑廿八九歳之時分︑種物保養のため但馬の湯へ御入
候
事 ︒
︹付
箋八
︺
よ し の は
ないつけん
4 1
廿八九歳之時分︑土口野の花御一見︒上下九人︒
4 2
‑︑
三 十 六 歳 乙 卯 元 和 元 年 権現 様︹ 徳川 家康
︺︑大坂御阪陣︒二条の城に於て
□
御休息 ︒
ごたいめんあるぺ
き よ し
じゃうしおほせくださ
れ と こ
ろ可有御封面由︑上使にて被仰下候処に︑御返答は不承候︒ 36
じゃくねん其後︑南禅寺他長老︹金地院崇伝︺へ御尋候て︑﹁若年より
ぎ や う ぶ ム シ こ と ぞ ん じ
病身︑行歩不自由口︒殊に不オ︑仕官いかゞと存候︒御
し や め ん お ほ せ あ げ ら れ た ま お ほ せ あ げ ら れ
赦免候様に︑被仰上給はり候様に﹂と被仰上候事︒
4 3 ‑
︑三十七八歳
藤堂 恥恥 殿︹ 高虎
︺へ 御出 入候 事° 近術 様に て始 て御 参会
︒ 4 4
應山様︑学道の師弟之御契約︑和泉殿被仰入候事︒
つ か は さ る べ き お ん ま う し た っ て
4 5
知行二百石可被遣由︑泉州御申候︒達而御辞退候事︒
4 6
四十四歳︒元和九年癸亥゜
せ つ ぶ く さ せ ら る す な は ち
︹藤堂高虎︺近習の衆八九人︑被切腹︒應山様︑即御や
とひ被成︑詫言に津へ御下向候事︒
お な り げ か う
4 7 ‑
︑應山様︑津へ御成候時分︑先師御ともにて御下向候 事 ︒
じふに
4 8
應山様へ︑泉州公︑御馳走之様子︑下川丹斎・十二や
そ う さ ひ し い う ほ ひ と り づ つ ご さ う だ ん
宗佐・菱や栄朱・外科友甫︑一人宛居間へよび︑御相談
候得ば︑いづれも泉州公本意に不叶︒先師被仰入候趣︑
︹近術信尋︺天気に入︑機嫌にて御座候事︒
そののち一︑其後︑先師御飯洛候て︑泉州公より右の相談の趣︑
ほ ん い げ ん ま い き や う ち ゃ
<
ぬしの本意に應じ候褒美として︑現米二百石︑京着にて
く だ さ る ぺ き よ し き た
可被下由︑飛脚来り候処に︑御辞退候て︑御うけなく候
事︒先師︑津へ御下り候事︒
この
4 9
此時分︑﹃古文真宝﹄講釈︒
︹付
箋九
︺
一︑南都諸白︑斗樽︒先師・栄朱・丹斎・友甫︑四人
つ か は さ れ こ こ ろ よ し あ し
︑ か が
ヘ泉州公より被遣候︒後日︑﹁酒試み候や︒善悪如何﹂
お た づ ね さ ふ ら へ じ ゃ う し ゅ ふ う み つ か ま つ り
と御尋候得ば︑三人ながら︑﹁いかにも上酒︒風味仕︑
か た じ け な き ま う し あ げ ら れ そ の の ち お み ま ひ
添﹂由︑礼被申上候︒其後︑先師御見廻の時︑泉州公︑
さ ふ ら ひ ま う さ ず つ か は す べ き
善悪御尋候得ば︑﹁くさり候てのまれ不申︑人に可遣
や う ご ざ な き わ ざ わ ざ
様も無御座にて候﹂由︑御申候得ば︑三人︑態︑御よ
び候て︑﹁軽薄賣子者﹂とて︑御しかり候︒先師は︑
ほ う ぴ
﹁正直︑有底に御申候﹂とて御褒美の事︒
︹付
箋十
︺
51‑︑行幸の年中︑銀子廿枚一度︑十枚一度︑金子十枚一
度︒泉州公より被進候︒帷子・呉服・樽.肴︑員数無
極候
︒
おいでさふらへ
52
‑
︑泉州公より御老中︑又は大名衆へ︑御役に御出候得
わ か た う き ば と も ま ゐ ら れ た っ て
ば︑若党八九人︑騎馬の武士︑供に被参候︒逹而御辞
退候得ば︑﹁泉州公御名代にて候得ば︑いかにも外見
よろしく見へ候てよく候﹂と御申候事︒
5 3 ‑
︑﹃三略﹄泉州公御聴聞にて︑御講談候時に︑現米五
し ん ぜ ら れ す な は ち
十石被進候︒即﹃十三経﹄御もとめ候事︒
5 4 ‑
︑四十七歳°丙寅寛永三年︒
諸経講釈︒﹃三鉢詩﹄同︒ 50
57
毛利美作殿
黒田 市正 殿︹ 高政
︺
始て御参会︒ しよ
ぢ せ ら れ き だ う
5 5 織田三五郎殿
︹長 好︒ 有楽 の孫
︺
︑被所持候︑虚堂
墨跡︒
金子三百枚にて泉州公御
□
口候
事︒
く さ ぺ や か た つ き ほ
り同人所持之草部屋肩衝︒金子千枚にて︑堀丹後殿︹
直 寄 ︺
か は れ と も き も い り
被買候︒ニヶ共に︑先師御肝煎゜
け ら い
三五郎殿より礼式に金子百三十枚︑可被進由︑家頼玄端
ぢ さ ん こ と ご と
し き ど き わ れ
ら
ロロ︑金子持参候得ば︑事々敷怒氣にて︑﹁我等をとり
うりあしらいにいたし候︒かやうの事にか4り金銀とり
さ う ら ふ せ け ん も ん ま う し よ ゐ
候は︑世間文盲なる人間の所為︒学者の所行にてなく候︒
た
つ て ま う し や う
ま う さ れ さ う ら ば ゐ さ
︑
逹而申うけ候様にと︑三五郎殿被申候はゞ︑委細は︑
み ぎ と ほ し や う か な は ざ る
右申通りに候︒生をうけ候人間に︑欲心はなくて不叶も
のに候︒手前の助成にもなり候得ば︑一枚にてもほしく
しよげ
ふ さ ふ ら へ ど
も う け ま う す ぺ く さ り な が ら え い た い
候︒学者の所業にそむき候得共︑可申請候︒去乍︑永代︑
ふ つ う た る べ き よ し ま う さ れ さ ふ ら へ い ち い ち
三五郎殿とは可為不通﹂由︑被申候得ば︑玄端︑﹁一々
こ と わ う け た ま は り と ど け き た く こ う じ ゃ う の お も む き
御 断 は り 承 届 候
︒阪宅候て︑三五郎殿へ御口上之趣︑まうL
き か す ぺ し か へ り ゆ き
可申聞﹂とて︑金子とり︑飯行候事︒
まうしうけざる
5 6 ‑
︑右之趣︑泉州公御き
4候て︑﹁なにとて不申請﹂と
い け ん や う す く は し く お ほ せ
︑ れ ら れ
て御異見候得ば︑様子︑いかにも委︑被仰入候事︒
︹付
箋十
一︺
堀尾 山城 殿︹ 忠晴
︺ 京極 修理 殿︹ 高知
︺
伊達
遠江
殿︹
秀宗
︺
︹付
箋十
二︺
一︑四十八歳︒寛永四年
Tg Po
︹宗 ︺
應山様︑堺南洲寺御見物︑御供︒
め し つ れ ら れ ほ う
こく二月廿九日︑門弟衆被召連︑豊国花︑御一見候時節︑
ど う だ う も た ろ う も ん
鎌田口徳庵︑弟子同道候て︑弁当持せ︑棲門石橋辺ま
まうしいれさふらへで被来︒先師御遊行候由︑茶や申入候得ば︑石橋辺よ
か へ ら る る よ し さ い は ひ お め に か か ら る ぺ き こ と
り被阪由に候事︒幸
︑花をも一見候て︑可被懸御目
事
せ じ ん
と︑世人評議候と承候事︒
一︑現米四十石四斗入百俵︑京つけにて泉州公より被進
候事
︒
︹付
箋十
︱︱
‑︺
四十九歳寛永五戌辰
ま う す さ ん げ う い っ ち ま う し
一︑九官と申唐人︑三教一致と申︑先師は各別との義
まうし論︒寄談にて︑唐人まけ申候事︒
6 2 ‑
︑五十歳己巳寛永六年
お へ や ず ま ゐ ご き こ く
藤堂大学殿︹高次︺︑御部屋住居の時︑御阪国候て︑伊
み ま ひ た い り う
賀に御居住候︑御見廻候て︑十四五日御滞留候︒金子二
枚・呉服一重・斗樽・肴︑被進候︒不残︑武藤八左衛門 二百 石取 町犀
幻配
崖れ
候事
︒
同年
四月十二日︑江戸御下向
°意
趣有
之事
に候
︒泉州公へ︑強
63 61 60 59 58
69 68 67 き異見︑被仰入意趣よくき上申候首尾あしく︑礼式微少︒
これより2つご御下向之意趣︑一々かきつけがた<候°自是以後︑末後まで
不礼
にな
り申
候︒
お い と ま い で ま う し く り や ま た い ぜ ん
6 4 ‑
︑四月廿七.日に御暇出申︑同年六月五日まで栗山大膳
さんきん殿︑江戸参勤にて︑黒田殿︹忠之︺長屋に栗山殿と御同居
候事
︒
たっ庸堪渭︑水戸様︹徳口げ渇託こしめし慣5
□
6 5候 ゜
達而御断はり候処に︑再三被仰入︑不得止︑御目見へ候事︒
な さ れ た き よ し な い し よ う
6 6
駿河様︹大納言徳川忠長︺へ御抱へ被成度由︑内證より被
こ と わ お ほ せ あ げ ら れ ち ぎ や う
仰入候得ば︑これも御断はり被仰上候︒知行にては千石︑
きうそく
現米にては五百石︑江戸御参勤中は京にて休息︑御阪国
候はゞ御国へ参勤︑勝手次第と被仰聞候︒
︹付
箋十
四︺
五十一歳︒寛永七年庚午゜
は じ め ご ろ あ ね が こ う ぢ ち ょ く し
五月初比︑法皇様より︑姉小路中納言殿︹公景︺勅使
れんじゅしか
く
も た く だ さ れ て ん さ し あ や う
にて︑﹃聯珠詩格﹄持せ被下︑﹁点をつけ指上げ候様
し も つ き す ゑ し ゅ っ た い あ
に﹂と勅定にて︑霜月末︑点出来候て︑御上げ候て︑
なされ
金子
︱︱
一枚
︑御
拝領
被成
候事
︒
法皇様より十種香の札︑御拝領︒
一︑中和門院様より金子十両︑大角豆夏切︑御拝領︒
︹付
箋十
五︺
五十二歳︒寛永八年辛未︒
こ ろ だ う い
つこう一︑十月上旬の比︑道乙公︑始て了清老︹三木氏︺の宅
に於て御参会︒
暴 風 一 夜 飽 吹 荒 我 曰 不 祥 人 曰 祥 破 屋 擁 袋 雨 難 禦 青 天 揚 枕 月 無 妨
なされ右之絶句︑御製作候とて︑御見せ被成候事︒
一︑純子三巻︑名香五種︑法皇様より御拝領︒
この
此法皇様より天拝のどんす三巻︒右は
な だ か き こ れ
世に名高亡羊どんすに相違無︒是は此
ちょっと段一寸御心添へ申入候事︒
7 2 ‑︑五十三歳︒寛永九年壬申゜
一︑正月十二日︑高松様︹好仁親王︺と堀川殿︹従三位康胤︺
と出入︒先師︑高松様へ御異見被仰上候て︑畢覚︑事済
候也
︒
か と く
7 3 ‑
︑近衛長山様︹尚嗣︒信尋の長子︺︑御家督に御なり候事︒
ど う し ん た び た び か ん げ ん
先師御同心なく︑度々御諌言の事︒
き さ い わ す ら る ま じ き よ し お ほ せ ふ く め ら れ
中和門院様︑寄斎恩を︑七代被忘間敷由︑被仰含候事︒
は じ め に ふ ぷ き こ し め し
7 4
‑︑藤堂大学殿︹高次︺︑始て御入部︒先師︑聞召候て︑
つ
お こ し
四月九日に津へ御越候て︑五月七日に御のぼり候︒御 71 70
︹別
筆︺