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[翻刻] 三宅亡羊の『履歴』

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(1)

九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

[翻刻] 三宅亡羊の『履歴』

上野, 洋三

九州大学 : 教授

http://hdl.handle.net/2324/4741972

出版情報:雅俗. 9, pp.150-168, 2002-01-30. 雅俗の会 バージョン:

権利関係:

(2)

後水尾院の生母である中和門院前子は︑東求院近術前久

の三女であり︑三説院近衛信手と母を同じくする妹であっ

た︒後陽成院の准后として入内し︑曇華院瑞雲聖興女︵夭

逝︶を始めとして皇女七名︑後水尾院を始めとして皇子五

名に恵まれた︒第二皇子は︑前子の兄信手の養子として近 術家を嗣いだ本源自性院応山︑信尋︒第三皇子は高松殿と

よしひと称された好仁親王︒第四皇子は︑一条内基の錐子となり︑

はじめ兼返︑のち昭良と名乗り︑のち法鉢して恵観と号し

た︒第五皇子は︑十一歳で得度し︑南都一乗院を継承した

そんかく二品尊覚法親王︒

三宅

亡羊

一哭

9 ‑ ‑

︿覧︶の年譜ともいうべき﹃履歴﹄に︑

この中和門院に関する記述が二度現われる︒一度目は︑寛

永七

年(

‑空

‑ 0)

︑亡羊五十一歳の折︒

6 9 ‑

︑中和門院様より︑金子十両︑大角豆夏切︑御拝領︒

[

翻 刻 ]

三宅亡羊の

﹃ 履 歴 ﹄

︵以下︑引用各条の頭︑及び文中カッコ内の

アラビア数字は︑﹃履歴﹄掲出の順序を示す︒︶

とある︒この年︑中和門院は五十︱︱︱歳︑この七月三日に亡

くなっているから︑逝去まぎわの贈り物ということになる︒

そして︑二度目は︑二年後︑寛永九年の項︒

7 3 ‑

︑近衛長山様︑御家督に御なり候事︒先師︑御同心

なく︑度々御諌言の事︒中和門院様︑寄斎恩を︑七

代被忘間敷由︑被仰含候事︒

文中に﹁先師﹂﹁寄斎﹂と書かれるのは︑すなわち亡羊

のことである︒﹁長山様﹂は尚嗣︒元和八年の生誕だから︑

この年わずかに十一歳︒とすれば︑この家督に反対して︑

亡羊が﹁度々﹂﹁諌言﹂した相手は︑おそらく尚嗣の父信

尋であろう︒何故その必要があったのか今は知らない︒た

だし︑これに関連して︑中和門院が﹁寄斎恩を︑七代被忘

(3)

間敷﹂と発言した相手もまたわが子信尋とすれば︑亡羊と

近術家の関りとが︑並々ならぬことであったことが想像さ

れる︒すでに中和門院の逝去後二年になるのに︑なおこの

一条が付記されるのは︑尚嗣の家督相続が︑かなり以前か

ら問題になっていたからであろう︒そして︑このような問

題に発言し関与し続ける亡羊の位置は︑どのようなものだっ

たのであろうか︒

﹃履歴﹄によれば︑

3 8 ‑

︑三貌院様へ︑廿八九の時分︑御目見へ︒

厨山様︑二恵観様︑三高松様︒

御目見への先後︑如

此に

候︒

とある︒亡羊の﹁廿八九﹂歳は︑慶長十二年︑十三年︵一六

危ふ︿︶にあたるが︑﹃履歴﹄の記述に従えば︑その以前の

三︑四年ほどを︑俸禄三百石の約束で筑前黒田長政に仕え

てすごし︑京都に戻ったばかりの頃である︒身分の定まら

ない浪人ものの青年が︑どのような理由で︑何の目的があっ

て︑時の関白に﹁御目見へ﹂がかなったのであろうか︒さ

らに︑つぎつぎと︑時の天皇︵後陽成院︶の皇子たちと面

会することが可能だったのか︒

﹁御上洛の時節﹂とあるから︑同じ頃のことと思われる

が﹃履歴﹄には︑つぎのような記事も並んでいる︒

さいはひ

3 9 ‑

︑御上洛の時節︑乗輿は法度にて︑﹁幸︑御所様 方へ伺鑓出叫尻候﹂とて︑御叩町り候て︑御如即

L

可被遊とて︑御よろこび候へば︑四五日中に応山

様より伊賀殿へ︑被仰入︑御赦免の状来り候事︒

亡羊には︑輿に乗らなければならない事情があったのか

もしれない︒元和元年に大坂夏の陣の後︑京都へ凱旋した

徳川家康から︑面会の招請が来たときに﹁若年より病身︑

行歩不自由﹂を理由に﹁仕官﹂を断った

( 4 2 )

記事

もあ

る︒

それで︑京都の町に乗輿禁止令が出た折にも︑ちょうどよ

い︑これを理由に近衛家にゆかりの﹁御所様方﹂へも行か

ずにすむ︑と喜んでいたところ︑近衛家から所司代板倉勝

重に申し入れて︑禁止令解除となった︑というのである︒

︹ 候

ここから考えれば︑近衛家の方が︑亡羊の﹁伺公﹂を必要

としていたのではないか︑と思われてくるであろう

﹃履

歴﹄のつぎの一條も︑亡羊の支援があって行われたことと

見なければ︑ここに記録されている意図がわからないので

はないか︒慶長十四︑五年あたりに掲出される記事である︒

︹ 祥

3 7 ‑

︑山科︑安城寺へ応山様︹信尋︺御成︒二百四五十

人飯喫候者︑諸方より諸道具・菓子・肴︑来り候や

に候

事︒

このように多数の人出を催してまで︑近衛様の﹁御成﹂

(4)

を実現させることを︑亡羊は喜んでいた︑という︒

さふらへ

1 5 9

︑三御所様御成候時︑見廻人多く候得ば︑御機嫌よ

<候

事︒

﹁三御所様﹂は近術信尋・一條昭良・高松好仁の三兄弟を

いう︒亡羊は信尋が藤堂高虎を津に訪ねたときも︑

(4

7i

4 9 ︑元和九年︶︑堺の南宗寺を見物にでかけたときも

( 5 8

寛永四年︶︑供をして下向した︒

そのような亡羊の︑行動

の基本形を︑﹃履歴﹄は次の三箇條にまとめている︒

御 ︺

あげ

1 6 2

︑三五所様︑御召候得ば︑用事候得ば御断り被仰上︑

候 ︺

候 ︺

御隙の時は即時御伺公候︒御使者よりさきへ御伺公

候事

︹ 御

︹ 候

ごえん

1 6 3

︑三五所様︑はれがましき方︑御伺公候得ば︑御縁

に正座︒

強て御

台被成候得ば︑座敷へ御なをり候

︒平生は頭巾にて安座

1 6 4

︑三御所様︑在家へ御成︑御相伴に被召連候得ば︑

︹ 候

くわんぎよ

御成よりさきへ御伺公︒還御被成︑御阪宅候事︒

急な招きがあった場合︑自分に手のはなせぬ﹁用事﹂が あれば断り︑手があいていれば即刻参上するという態度に は︑どこか気持のよい衿持が感じられるけれども︑一方で 侍座する場合は︑どこまでも

謙退を貫く︒ただしわが子ほ

ども年齢の違う﹁三御所様﹂に対してであるから︑﹁平生﹂ は﹁頭巾﹂をかぶったままゆったりとくつろぎ座している︒

そこには年老いた師偵の面

影がただよう︒

そのような亡羊に対してであるから︑寛永十一年三月に 悪性の腫物に悩まされた亡羊が︑四十日ほど洛北﹁八瀬の

釜湯﹂で保餐したときには︑﹁三御所様﹂ばかりでなく︑

﹁八

ノ宮

︹知

恩院

門跡

良純

法親

︺﹂

﹁大

門様

︹大

覚寺

門跡

尊性

法親

︺﹂

までも見

舞の使者を遣

したという

( 8 7 )

あとの二名もま

た後陽成院の皇子たちである︒

長・元和期︑政治の中心がすっかり関東に転換しつつ ある頃︑天皇家であれ︑近衛家であれ︑京都の貴綴はすべ て経常的な財政難の状況にあった︒戦乱の余波の中で︑と

りあえず一年一年を生きのびて行くための不安の中にあっ

た︒

そのような時に︑招けば駆けつけてくれて︑行きたい

所には供をしてくれて︑出先に押しかける諸人に対しては︑

二百人が三百人であろうと︑飯を喫わせて乎然としている︑

そんな出入の人間がいたら︑これほど心強いことはあるま

い︒

中和門院が︑﹁寄斎﹂亡羊の﹁恩﹂を﹁七代﹂後まで も忘れてはならないと感謝したのは︑そのようなことでは

なかったか︒

亡羊と近術家との関

係は︑やがて伊勢藤堂

家との関係を

つくり出した︒

(5)

4 3 ‑

︑三十七八歳︒藤堂和泉殿へ御出入候事

︒近衛様に

はじて始て御参会︒

亡羊の三十七︑八歳は︑元和二年︑三年︵云一六?一七︶にあ

たる︒

その頃︑藤堂和泉守高虎は︑何のために上洛して近 衛邸を訪問したのであろうか︒﹃寛政重修諸家譜﹄の藤堂 氏高虎の条によれば︑高虎は元和二年二月に徳川家康が死 去するに際して︱つの遺言を示されていた︒それは二代 将軍秀忠の息女和子を︑なんとかして入内させよ︑という ものであった︒天皇家と徳川家との縁組が︑家康にとって 最後に残された宿題だったので︑これを最も侶頼した高虎

に託したものである︒高虎の奔走が︑どのようなものであっ

たかは詳かでない︒

しかし和子入内は容易に実現せず︑よ うやく元和六年九月になって成立した

︒すなわち︑のちの

後水尾天皇中宮︑東福門院である︒﹃寛政重修諸家譜﹄で は﹁九月︑東福門院御入内のこと︑かねてより高虎うけた

まはりて︑こと整ひしかば﹂とばかり記し︑翌﹁七年六月︑

御入内のとき供奉に列し﹂たとあるが︑この数年にわたる

そうこくし朝幕間の交渉の断片が藤堂藩史﹃宗国史﹄の中に散見する︒

高虎は︑やはり︑天皇の弟であり︑摂関家の当主である 信尋と交渉を始めたものらしい

ともかく元和三年秋八月

二十六日に上京した︒

そして次に掲げるのは︑既に交渉が

おおむね整ったのち︑﹁元和五年或は六年冬﹂と﹃宗国史﹄

の編者によって推定されている高虎宛信尋書簡の一部である︒

しあげさふら一︑其方書中之通︑天子︹後水尾天皇︺へ申上候へば︑一

あひと

段と御満足の

事に候︒

いよ/\うつくしく相調候や

まうかはし

う に と 申 遣 候 へ

︑ と の 事 に 候

一︑昨日は︑くさりのまにて︑八條どの︹智仁親

王︺

ふる

まひ候て︑夜入候てまで︑大酒候つる

︒さりながら︑

我も人も行儀あしき

は︑すこしも候はず候つるま

4

可被心安候

︒徳勝院︑石

宗林なども︑参候つる︒きJ I

斎は︑ちとわづらひ候て参候はず候︒

l J

ー遠

江︑

かつ

てへ

みま

ひ候

て︑

一だん︑きも入候つる︒

びん

ぎ候

はゞ

︑ ょ</\御礼被申候て︑可給候

︒リ匝図書もみまひ候

て︑ことの外きも入候つる︒

︵中

略︶

一︑来春はめでたく︑無相違︑かならず/\御上洛候ベ

︒ め で た か し く

返々︑記即吉

左右待申候 十 一 月 廿 九 日 こ 泉州 文中︑八条宮智仁親王を招いての酒宴に筆が及んでいる のも︑信尋・高虎両者の交渉が︑心の交流にまで結

して

(6)

いるあらわれであろう︒そしてその段に︑当日出席できな

かった﹁き斎﹂の消息にまで触れていることが︑両者の間

における﹁き斎﹂三宅亡羊の位置と役割を︑端的に想像さ

せるものである︒亡羊と藤堂家との関係は︑高虎の嗣子高

次︵藤堂大学︶の代にも及んだ︒

初鶴一

箱︑

院御

所︹

後水

尾院

︺江

進上

︒則︑披露候処︑御知町乞

叩候

︒あ 由衷 等 に し 餌 剛 叩 如 ヽ

バ 四

町彰候︒

︑︑

委細︑自寄斎方︑可申達候︒かしく

して返々当年は沙汰も未承候物に而︑別而満足之事候︒

九 月 廿 七 日 花 押

︵ 信 尋

藤堂大学どのヘ

という一通などを見れば︑近術家と藤堂家との間にあって︑

﹁寄斎﹂亡

羊が︑後々まで必要不可欠の中継役を果してい

たことが想像されるであろう︒そこで︑﹃履歴﹄の中に︑

ぼ一︑東福門院様御入内°

外 は

泉州

︹藤

堂高

虎︺

︑御

内證

ばいしゃ

たまはり

先 師 御 媒 酌 と 承 候 事

との一条がある︒幕初における朝幕関係の︑大きな課題と

なった東福門院の入内一件は︑実質的には亡羊の存在あれ

ばこそ成就された︑というのである︒亡羊はそのことを︑

自分の養嗣道乙や門弟たちに︑こっそり語っていた︒

右を必ずしも亡羊の自慢話の行きすぎと片付けることも ないということは︑﹃宗国史﹄中の﹁累世記事

﹂に︑藤堂 家の側の証言があることで確かめられる︒それは︑元和七 年の和子入内のこと︑侶尋が寛永元年の東下に際し江戸藩 邸を訪問し︑焔途は津の城にも宿泊したこと︑さらに近術

邸が大破し改築を迫られた折に三千五百両の費用を提供し

たことの三条を挙げた上で︑﹁初中後︑御懇志之通事︑三

宅亡羊︑相勤申候由︑横浜内記︑委細語申候﹂というもの

である︒横浜内記は同じ﹃宗国

史﹄の﹁功臣年表﹂に︑慶

長十三年の項に出て︑﹁五百石︑後二千石﹂とある︒藩の

重臣の一人であった︒

信尋の津城訪問に際して︑亡羊が接待のプラソを基本的

に作成したことは︑﹃履歴﹄

( 4 8 ) にも亡羊の側の証言が

あるから︑これら三条が︑藤堂家としても︑秘かに誇るべ

き事実であったことが︑認められる︒言うまでもなく藤堂

9じのちょうじゃ

氏は藤原氏であり︑関白氏長者たる近術家と強いつなが

りを持つことは誇りであった︒そして︑両者の間にあって

亡羊は︑必須の媒介的役割を果したものらしい︒

藤堂家は︑亡羊を何らかの形で召しかかえようとした︒

たつて

4 5

知行二百石︑可被遣由︑泉州︹藤堂

高 虎 ︺

御申候︒達而

御辞退候事︒

しかし亡羊はこれに従わず︑時に応じて高虎父子の諮問に

(7)

答えるという形をとった︒亡羊の嗣道乙もまた︑同じよう

な関係を原則としたようであるが︑その嗣詢節の代に至り︑

ついに︑京都住居のまま禄四百石で儒臣として仕えること

になったのであった︒

さて︑東福門院の入内について︑亡羊が尽力したことを

当然承知の上であろうが︑後水尾院も自然に亡羊との係り

をもつことになる︒亡羊五十一歳の寛永七年(

‑ ︱

︿

‑ ︱

1 0)

︑院は

姉小路公景を使者として︑﹃聯珠詩格﹄を托し︑訓読の点

をつけるよう依頼してきた︒半年ほどしてようやく十一月

の末に出来上り献上すると︑金子三枚を賜ることになった︑

という

( 6 7 )

︒同じ頃であろうか︑﹁十種香の札﹂を頂戴

( 6 8 )

︑翌八年には加えて﹁名香五種﹂と﹁鈍子三巻﹂

を﹁拝領﹂

( 7 1 ) した︒鈍子は︑のちに﹁亡羊どんす﹂と

して知られ︑また︑香道においては亡羊による新工夫が後

のちまで伝えられることになった

( 1 7

1 ) ︒寛永十二年には︑

院より﹁真綿廿把﹂

( 1 0 0

) ︑東福門院からも﹁羽二重十匹﹂

( 9 9 )

を﹁拝領﹂した︒

だが︑﹃履歴﹄の筆者が是非とも記録しておきたかった

のは︑むしろ︑寛永十年︑亡羊五十四歳の折に︑仙洞御所

で﹃徒然草﹄と﹃老子﹄を進講した一件であったろう︒こ

れより前︑京都所司代︑板倉周防守重宗の希望で︑永井日 向守直清・木下右衛門太夫延俊・五味備前守豊直らを前に﹃貞永式目﹄の講義をしたことがあった︒そのことを聞いた後水尾院の希望によってであろう︒重宗の発起で︑仙洞御所での進講が実現したのであった

( 7 8 )

このとき心配されたのは︑無位無官の亡羊が︑上皇の前

に出ることであったが︑重宗が﹁不苦俵﹂としたので︑

実現したのだという︒当日は親眠の気分に溢れた︒

はじめ亡羊の声が聞えにくいというので︑院の希望で直

前にまで座をすすめさせられ︑しかも﹁御簾の前︑四尺ほ

どあけ﹂て講釈することになった︒褒美は﹁銀子廿枚・蛾

瑣・幣申﹂を拝領したという︒中国宋代の隠士林和靖は︑

皇帝の招きを受けて︑その無位無官が問題になったとき︑

皇帝自ら﹁慮士﹂の号を授けたという︒こんにち︑洛北

たかがみね

鷹峰の三宅家墓地の中央に立つ亡羊の墓碑に﹁慮士亡羊子 之墓﹂と刻するのは︑おそらく右の故事に櫨る誇らしい仕

業であったろう︒﹃履歴﹄は︑

無官の者︑御前にて講釈候事︑先師︑張本︒

( 7 8 )

と記し︑併せて︑

天道にかなひ候とて︑事々敷御機嫌にて候︒

( 7 8 )

と書き留めている︒﹃徒然草﹄と﹃老子﹄が︑後水尾院の

前で︑地下も地下︑無位無官の人間によって講ぜられ︑こ

(8)

とこどく院の期待に添うて︑﹁御機嫌﹂よろしきを得たと

いうことは︑講者の栄誉であったばかりでなく︑﹃徒然草﹄

と﹃老子﹄にとっての幸運でもあった︒特に﹃徒然草﹄は︑

以後︑寛永から寛文にかけての五十年足らずの間に︑注釈

書を含めてその刊行本は三十五点を数え︑平安朝を代表す

る﹃伊勢物語﹄とともに︑日本の古典になってしまった︒

こんにち

以来︑今日までの流布本の大半の底本となったものが︑烏

丸光広の校訂を経た亡羊版下の慶長十八年古活字版である

ことも︑周知のことである︒

また版本にくらべて決して数多くない近世初期の﹃徒然

︑ 草﹄諸写本の中に﹁伝中和門院本﹂﹁偏易本﹂などの亡羊

﹃履歴﹄に登場する人々の名を見出すことも偶然ではある

まい︒ことに偏易子は︑これまで伝記資料の稀な人物であっ

たが︑﹃履歴﹄によれば︑亡羊の住んだ長者町の隣人︑笹

屋宗閑の﹁息子﹂であり︑兄甚蔵とともに︑ふだんから亡

羊の門に﹁出入﹂して﹁弟子﹂同然であった︒兄は十六七

歳の頃に師弟の﹁契約﹂をして﹁四書﹂の﹁講釈﹂をたび

たびして聞かせた

(3 4. 35 .3 6)

とい

う︒

﹃履歴﹄の箪者は︑﹁平生被仰候﹂﹁承候﹂などとあると

ころを見ると︑直接︑日常的に亡羊に接し︑長期間にわた

りその言動を見つめてきた人物と推定されるが︑﹁道乙︑

御申候事

( 1 3

7 ) ﹂とあるから︑門人で養嗣となった道乙以

外の人間である︒また亡羊の宮中講義が︑無官の者の最初

の例であると記す条

( 7 8 )

で︑﹁葬倫︹意林︺庵も此例と承

候﹂と付記するが︑朝山意林庵が後光明天皇に﹃中庸﹄講

義をした承応二年の例を話題にしているから︑それ以後︑

すなわち亡羊没の慶安二年よりも少なくとも四年経過して

から記録が形をとり始めたことがわかる︒その稿了はいつ

ともしれないが︑特に亡羊の青年時の行動について︑いく

つも曖昧な点や︑矛盾点が生じていることは否定しがたい︒

むしろその破綻や難解で読みにくい文章筆蹟などから︑寛

永期の一種なまなましい感覚が︑じかに伝わってくるよう

でもあるけれども︑ただいまは︑この豊かな年譜を︑とも

かくも読者に贈ることができることを︑よろこびとしたい︒

*翻刻にあたって︑句読点・濁点・ふり仮名・﹁﹂を

加え

た︒

*︹︺内は︑新たに補ったもの︒

*現状は︑改装・裏打済の巻子本である︒

*底本の所蔵者は︑三重県久居市︑山上尚男氏である︒

*小稿と関連して﹁三宅亡羊の遺書﹂︵﹃文学﹄二

0 0

二年一・ニ月号︶がある︒

(9)

正月十

︹本

文翻

刻︺

履歴

うけたまはり

l‑

︑天正八年庚辰︒御誕生

元 日 と も 承 候

二日とも承候︒定日は不存候︒

2‑︑十六歳之時︑祖父︑筒井順鹿婿若狭守殿辞世︑即に叡

り候

﹁残し置事も趾かし若狭なる後︹世の山の︺後の世ま ︒

でも

﹂ 住吉の社人︑一見候て︑読てきかせられ候得と︑ロロロ

得ば︑御よみ候事︑不成候て︑事々敷怒り趾かしめ候事︒

3‑︑慶長三年戊戌︒家君︑四十二歳宗岩老︑二月十六日御逝

去︒先師十九歳︒

ないしつ4‑︑堺御住居の時分︑内室有之と云々︒

5‑

︑十九歳の時︑始て学に御志し候事︒無常ノ師︒

︹付

箋一

まうす6文勢と申禅僧韓麟呼麟︑詩の平仄︑﹃三鉢詩﹄︑﹃錦繍段﹄

など御読習︒此時分より述作御上手と承候︒

しるしつかはし7‑

︑ 右 の 趾 豚 を 与 へ 候 社 人 方 へ

︑ 書 翰

・ 詩 な ど 記 遣

もんまう候処に︑文盲にて返答なく候事︒

8‑

︑鄭吝になく候て︑金銀御たくわへなく︑有次第遣

候事︒御やしきに瓜お成候時分︑人御振舞候て︑瓜畠に

ぎんはく瓜を銀薄にてだみ御振舞候事︒

9‑

︑十九歳の以後︑石田治部少輔家頼柏原︑金子十五両

とやらん越候て︑武具用意いたし候て︑関原へ来り候様

にと招き候処に柏原︑鹿長五年︑討死いたし︑金子十五

つかひ両︑遣料になり候と平生御物語候事︒

︹付

箋二

10‑︑なつ一年︑東寺の空心因幡堂トカケモチに御仕へ︑

なされ正忌の御弔ひ被成候事︒

1 1 ‑

︑廿四五の時︑高野へ御上り候て︑五六年斗御勤学の

1 2 事 ︒

︑岐阜中納言殿︑御入魂︒﹃徒然草﹄・﹃老子経﹄など

御講釈︑被聴聞候︒真田安房守︹昌幸︺も同前︒中納言殿︑

あそばされ正忌の御弔ひ被遊候事︒

1 3 ‑

︑廿四五歳の時︑黒田筑前殿︹長政︺へ御仕へ︒孫入八歳

めしつれられ被召連候︒

1 4 ‑

︑筑前にて︑科人︑退散候て︑孫入を證人にとり︑人

家へ引篭り候処に︑先師︑門戸を御蹴敗り候得ば︑科人︑

孫入を一方の手に執へ︑一方の手にて刀の柄に手をかけ

とら五六寸ほどぬき候を︑先師御つかまへ候︒﹁科人執へ候﹂よばむらひしゅ

と御呼はり候得ば︑士衆走りこみ︑縛り候事︒

1 5 ‑

︑筑前殿︹黒田長政︺御仕への間は︑御講釈︒大形は御

(10)

祐筆︒岩崎とやらん祐箪︑文字数︑同じ事にて右六十か

き候得ば︑先師八十あそばし候事︒

1 6 ‑

︑長政公御供にて︑始而江戸御下向候事︒つかはさるるはづ

1 7 ‑

︑筑前にて︑三百石被遣筈の事︒

1 8 ‑

︑筑前に︑三四年︑御滞留之事︒

1 9 ‑

︑筑前より御阪京候て︑当地にて︑大文字や久右衛門

親の家へ始而腰御かけ候事︒

2 0 ‑

︑大徳寺前︑大應寺とやらんの墓所に︑庵室を結び︑

なく︑独住居にて御勤学︒朝夕の飯は手煎じ︑墓守

下人

御やとひ候て︑すけ申由に候︒御他行候得ば︑戸に鎖子︑

御おろし候て︑雨降候得ば︑自︑傘御さし︑天気上り候

になひ得ば︑傘荷櫓候て御阪り候事︒

2 1 ‑

︑学 友は

︑土 佐︹ 長沢

︺道 寿・

︹岡 本︺ 玄冶

.愚 堂︹ 東︷ 是︺

正説とやらんと承候︒此時︑御宿処替り可申と存じ︑御

こうしやくせられ講釈︑﹃荘子﹄︒道寿︑﹃孟子﹄被講釈候︒両人︑なるほ

ど難問︑御思案候て︑不審御うち候︒

議論は︑四分先師御勝︑六分道寿勝の勝負と︑平生御物 語候 事︒

︹付

箋三

法華坊主上人︑意趣有之て︑﹁いたづら者︑うけ人な

しに宿かり居申﹂由伊賀殿︹板倉勝重︺へ訴へ候得ば︑先

22 

師︑伊賀殿公事場へ御出候て︑いかにもうけなしには

つかまっらず

居 宿 不 仕 候 由

︑ 御 申 わ け 候

︒ 御 退 散 候 以 後

︑ 坊 主 を

ことごとしく事々敷︑伊賀殿御しかり候由に候事︒

くはしくかきつけ

承候様子御座候︒委書付がた<候︒

2 3 ‑

︑筑前より御阪京候て︑銀十枚御所持︑九枚にて﹃史

かひ記﹄御買候事︒

︹付

箋四

ばかり

2 4

大徳寺にて二年斗禅学︒春屋国師︑参徒︒

2 5 ‑

︑ぎ叩尉.本満寺十三世・身延山二十一世︺とりもちにて︑

頂妙寺方丈に於て﹃老子経﹄御講釈︒即座にて︑無縁の

者︑難問不審候処に︑滞りなく御答へ候事︒御講釈︑き4

ごとに候て︑世人褒美と承候︒

2 6 右御講談の時節︑御陽成院様上聞に逹し︑﹃廣聖義﹄

御写し候事と申末書︑叡山の僧名は不存候印江孟如戸ヽ﹁換り

たる文義有之款︒一見候て︑読候て可然﹂と勅定候︒即︑

詩文を作り︑御上げ候事︒

2 7 ‑

︑耐叶野町大納言殿先師と御縁類と承候︑加乞厨御入魂︒

貧窮

の時

分︑

御合

力も有之由に候事

2 8 ‑

︑香具や浄治・古筆了佐・孝諄︑始而御上京の時分︑

ちさうまうす馳走申由に候事︒

2 9 ‑

︑御遣候下人︒男︑名不存候︒吉野住人︒草履とり︑

(11)

同︑吉︹野住人︺︒

ぜず

3 0 ‑

︑宿 所は 不存 候︒ 妙寿 院︹ 藤原 捏腐

︺の 前に

︑道 春︹ 林羅 山︺

・正

恰︹

堀正

意︺

・道

圃︹

那波

︺侍

先師束ノ時ノ大脇指に御

候て︑先師歳旦の一絶︑﹁朝霞一氣唯混沌花自仁根大

極枝﹂各︑一覧候て︑﹁﹃大極枝﹄と被申間敷候︒

文義

つうぜざるまう不通﹂由︑被申候︒即先師︑﹃詩人玉屑﹄を請ひ︑全部うち

んまうの内披覧し︑﹁此義に本づき﹂御製作の由︑御申候得ば︑

三人共に︑﹁これにても︑義通じ申間敷﹂と被申候得ば︑

妙寿院︑﹃玉屑﹄被披覧候て︑﹁いつにも先師の申分た

とうてつ

ち申 候︒

文義透徹候﹂と御申候︒先師御退散候て︑三人

を︑妙寿院御しかり候︑と承候事︒

3 1 ‑

︑三十歳︒慶長十四年己酉゜

津軽越中殿︹信枚︺︑御供被成︑彼地︹弘前︺

御下向︑翌年

三十 一

歳︑御飯洛︒

おしやくたく

3 2 ‑

︑一条通りに御借宅︑出入候て︑極月廿八日に御やど

がへ

3 3 ‑

︑其 後︑

長者町へ御移り︑

げん

三間

役︒

︹付

箋五

一︑篠や宗間と御入魂︒

一︑ 宗閑 子息 甚蔵

・偏 易︑ 35  34 

かひ左右の隣家御買たし︒依之

出入

︒ 門弟 子︑

同前︒

一︑ 甚蔵 十六 七

歳︑事之外発明にて︑先師︑御弟子に

可被成と御契約之事︒四書講釈度々之事︒

3 7 ‑

︑山科︑安城寺へ︑應山様︹近

衛信 尋

・後

腸成

院皇

︺御

二百四五十人︑飯喫候者︑諸方より諸道具・菓

子・

肴︑

来り候やに候事︒

さんみやくゐん

3 8 ‑

︑三貌院様︹近衛信巴へ︑廿八九の時分︑御目見へ︒

直 山 様 二

m

即様

︹一

条昭良・後陽成院皇

子︺ 三高 松様

︹好 仁・

くのごと後陽成院皇子︺御日目見への先後︑如此に候︒

︹付

箋六

39‑︑︹亡羊︺御上洛の時節︑乗輿は御法度にて︑﹁幸

御 所 様 方 へ 伺 公 仕 間 敷 候

﹂ と て

︑ 御 引 籠 り 候 て 御

そばさるべし休息可被遊とて︑御よろこび候得ば︑四五日中に應山

やめん様より伊賀殿︹板

倉勝 重︺

へ被仰入︑御赦免の状来り候

事 ︒

︹付

箋七

40‑︑廿八九歳之時分︑種物保養のため但馬の湯へ御入

事 ︒

︹付

箋八

いつけん

4 1

廿八九歳之時分︑土口野の花御一見︒上下九人︒

4 2

‑︑

三 十 六 歳 乙 卯 元 和 元 年 権現 様︹ 徳川 家康

︺︑大坂御阪陣︒二条の城に於て

御休

息 ︒

たいめんあ

じゃうしおほ

可有御封面由︑上使にて被仰下候処に︑御返答は不承候︒ 36 

(12)

じゃくねん其後︑南禅寺他長老︹金地院崇伝︺へ御尋候て︑﹁若年より

病身︑行歩不自由口︒殊に不オ︑仕官いかゞと存候︒御

赦免候様に︑被仰上給はり候様に﹂と被仰上候事︒

4 3 ‑

︑三十七八歳

藤堂 恥恥 殿︹ 高虎

︺へ 御出 入候 事° 近術 様に て始 て御 参会

︒ 4 4

應山様︑学道の師弟之御契約︑和泉殿被仰入候事︒

4 5

知行二百石可被遣由︑泉州御申候︒達而御辞退候事︒

4 6

四十四歳︒元和九年癸亥゜

︹藤堂高虎︺近習の衆八九人︑被切腹︒應山様︑即御や

とひ被成︑詫言に津へ御下向候事︒

4 7 ‑

︑應山様︑津へ御成候時分︑先師御ともにて御下向候 事 ︒

じふに

4 8

應山様へ︑泉州公︑御馳走之様子︑下川丹斎・十二や

宗佐・菱や栄朱・外科友甫︑一人宛居間へよび︑御相談

候得ば︑いづれも泉州公本意に不叶︒先師被仰入候趣︑

︹近術信尋︺天気に入︑機嫌にて御座候事︒

そののち一︑其後︑先師御飯洛候て︑泉州公より右の相談の趣︑

ぬしの本意に應じ候褒美として︑現米二百石︑京着にて

可被下由︑飛脚来り候処に︑御辞退候て︑御うけなく候

事︒先師︑津へ御下り候事︒

4 9

此時分︑﹃古文真宝﹄講釈︒

︹付

箋九

一︑南都諸白︑斗樽︒先師・栄朱・丹斎・友甫︑四人

ヘ泉州公より被遣候︒後日︑﹁酒試み候や︒善悪如何﹂

と御尋候得ば︑三人ながら︑﹁いかにも上酒︒風味仕︑

添﹂由︑礼被申上候︒其後︑先師御見廻の時︑泉州公︑

善悪御尋候得ば︑﹁くさり候てのまれ不申︑人に可遣

様も無御座にて候﹂由︑御申候得ば︑三人︑態︑御よ

び候て︑﹁軽薄賣子者﹂とて︑御しかり候︒先師は︑

﹁正直︑有底に御申候﹂とて御褒美の事︒

︹付

箋十

51‑︑行幸の年中︑銀子廿枚一度︑十枚一度︑金子十枚一

度︒泉州公より被進候︒帷子・呉服・樽.肴︑員数無

極候

おいでさふらへ

52

︑泉州公より御老中︑又は大名衆へ︑御役に御出候得

ば︑若党八九人︑騎馬の武士︑供に被参候︒逹而御辞

退候得ば︑﹁泉州公御名代にて候得ば︑いかにも外見

よろしく見へ候てよく候﹂と御申候事︒

5 3 ‑

︑﹃三略﹄泉州公御聴聞にて︑御講談候時に︑現米五

十石被進候︒即﹃十三経﹄御もとめ候事︒

5 4 ‑

︑四十七歳°丙寅寛永三年︒

諸経講釈︒﹃三鉢詩﹄同︒ 50 

(13)

57 

毛利美作殿

黒田 市正 殿︹ 高政

始て御参会︒

5 5 織田三五郎殿

︹長 好︒ 有楽 の孫

︑被所持候︑虚堂

墨跡︒

金子三百枚にて泉州公御

口候

事︒

同人所持之草部屋肩衝︒金子千枚にて︑堀丹後殿︹

直 寄 ︺

被買候︒ニヶ共に︑先師御肝煎゜

三五郎殿より礼式に金子百三十枚︑可被進由︑家頼玄端

ロロ︑金子持参候得ば︑事々敷怒氣にて︑﹁我等をとり

うりあしらいにいたし候︒かやうの事にか4り金銀とり

候は︑世間文盲なる人間の所為︒学者の所行にてなく候︒

逹而申うけ候様にと︑三五郎殿被申候はゞ︑委細は︑

右申通りに候︒生をうけ候人間に︑欲心はなくて不叶も

のに候︒手前の助成にもなり候得ば︑一枚にてもほしく

しよげ

候︒学者の所業にそむき候得共︑可申請候︒去乍︑永代︑

三五郎殿とは可為不通﹂由︑被申候得ば︑玄端︑﹁一々

御 断 は り 承 届 候

︒阪宅候て︑三五郎殿へ御口上之趣︑まうL

可申聞﹂とて︑金子とり︑飯行候事︒

まうしうけざる

5 6 ‑

︑右之趣︑泉州公御き

4候て︑﹁なにとて不申請﹂と

て御異見候得ば︑様子︑いかにも委︑被仰入候事︒

︹付

箋十

一︺

堀尾 山城 殿︹ 忠晴

︺ 京極 修理 殿︹ 高知

伊達

遠江

殿︹

秀宗

︹付

箋十

二︺

一︑四十八歳︒寛永四年

Tg Po

宗 ︺

應山様︑堺南洲寺御見物︑御供︒

二月廿九日︑門弟衆被召連︑豊国花︑御一見候時節︑

鎌田口徳庵︑弟子同道候て︑弁当持せ︑棲門石橋辺ま

まうしいれさふらへで被来︒先師御遊行候由︑茶や申入候得ば︑石橋辺よ

り被阪由に候事︒幸

︑花をも一見候て︑可被懸御目

と︑世人評議候と承候事︒

一︑現米四十石四斗入百俵︑京つけにて泉州公より被進

候事

︹付

箋十

︱︱

‑︺

四十九歳寛永五戌辰

一︑九官と申唐人︑三教一致と申︑先師は各別との義

まうし論︒寄談にて︑唐人まけ申候事︒

6 2 ‑

︑五十歳己巳寛永六年

藤堂大学殿︹高次︺︑御部屋住居の時︑御阪国候て︑伊

賀に御居住候︑御見廻候て︑十四五日御滞留候︒金子二

枚・呉服一重・斗樽・肴︑被進候︒不残︑武藤八左衛門 二百 石取 町犀

幻配

崖れ

候事

同年

四月十二日︑江戸御下向

°意

趣有

之事

に候

︒泉州公へ︑強

63  61  60  59  58 

(14)

69  68  67  き異見︑被仰入意趣よくき上申候首尾あしく︑礼式微少︒

これより2御下向之意趣︑一々かきつけがた<候°自是以後︑末後まで

不礼

にな

り申

候︒

6 4 ‑

︑四月廿七.日に御暇出申︑同年六月五日まで栗山大膳

さんきん殿︑江戸参勤にて︑黒田殿︹忠之︺長屋に栗山殿と御同居

候事

たっ庸堪渭︑水戸様︹徳口げ渇託こしめし慣5

6 5

候 ゜

達而御断はり候処に︑再三被仰入︑不得止︑御目見へ候事︒

6 6

駿河様︹大納言徳川忠長︺へ御抱へ被成度由︑内證より被

仰入候得ば︑これも御断はり被仰上候︒知行にては千石︑

きうそく

現米にては五百石︑江戸御参勤中は京にて休息︑御阪国

候はゞ御国へ参勤︑勝手次第と被仰聞候︒

︹付

箋十

四︺

五十一歳︒寛永七年庚午゜

五月初比︑法皇様より︑姉小路中納言殿︹公景︺勅使

れんじゅしか

にて︑﹃聯珠詩格﹄持せ被下︑﹁点をつけ指上げ候様

に﹂と勅定にて︑霜月末︑点出来候て︑御上げ候て︑

なされ

金子

︱︱

一枚

︑御

拝領

被成

候事

法皇様より十種香の札︑御拝領︒

一︑中和門院様より金子十両︑大角豆夏切︑御拝領︒

︹付

箋十

五︺

五十二歳︒寛永八年辛未︒

一︑十月上旬の比︑道乙公︑始て了清老︹三木氏︺の宅

に於て御参会︒

暴 風 一 夜 飽 吹 荒 我 曰 不 祥 人 曰 祥 破 屋 擁 袋 雨 難 禦 青 天 揚 枕 月 無 妨

なされ右之絶句︑御製作候とて︑御見せ被成候事︒

一︑純子三巻︑名香五種︑法皇様より御拝領︒

此法皇様より天拝のどんす三巻︒右は

世に名高亡羊どんすに相違無︒是は此

ちょっと段一寸御心添へ申入候事︒

7 2 ‑︑五十三歳︒寛永九年壬申゜

一︑正月十二日︑高松様︹好仁親王︺と堀川殿︹従三位康胤︺

と出入︒先師︑高松様へ御異見被仰上候て︑畢覚︑事済

候也

7 3 ‑

︑近衛長山様︹尚嗣︒信尋の長子︺︑御家督に御なり候事︒

先師御同心なく︑度々御諌言の事︒

中和門院様︑寄斎恩を︑七代被忘間敷由︑被仰含候事︒

7 4

‑︑藤堂大学殿︹高次︺︑始て御入部︒先師︑聞召候て︑

四月九日に津へ御越候て︑五月七日に御のぼり候︒御 71  70 

︹別

筆︺

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