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﹃ 聖 書 翻 訳 者 ブ ー バ ー ﹄

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Academic year: 2022

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本書の構成と概要   著者が主に二〇一二年から二〇一七年にかけて取り組んだ研究の集成であるという本書には︑日本宗教学会の学術大会における発表内容を反映した議論︵第1編第3章︶や︑本﹃宗教研究﹄誌上で公表された論考︵第2編第3章︶のほか︑﹃日本の神学﹄・﹃哲学研究﹄・﹃京都ユダヤ思想﹄各誌の査読に通過した︑質の高い論考群が収められている︒まずは本書の目次と構成を示し︑ついで各パートの要点を簡潔に紹介してゆきたい︒

はじめに序論  ブーバー研究の現状と方法論第1章  ブーバー研究の動向/第2章  ブーバー自身の研究スタイル/第3章  ブーバー研究の動向に対する筆者の見解/第4章 本研究の視点・方法・独自性第1編  我‑汝から聖書へ第1章  基礎的存在論関係内存在/第2章  汝の始原性と神の蝕/第3章  宗教性の再評価/第4章  倫理と宗教性/第1編の結びブーバーと宗教性第2編  聖書から我‑汝へ第1章  ブーバー聖書翻訳の評価/第2章  聖書言語論/第

3章 聖書翻訳の方法論/第4章 ブーバー方法論の聖書学的位置づけ/第5章  神名の翻訳における我‑汝/第6章 ヤコブ物語の対面における我‑汝/第7章  アブラハム物語における預言者の特徴/第8章  預言者イザヤから第二イザヤへ/第9章  預言者の問題と翻訳の意義/結論  汝として 堀川敏寛著

﹃ 聖 書 翻 訳 者 ブ ー バ ー ﹄

出版社  二〇一八年二月刊A5判 三二五頁 四一〇〇円+税 伊原木  大  祐   本書のように﹁聖書翻訳﹂の問いを真っ向から扱ったブーバー研究書を読むと︑日本のブーバー研究がまったく新しいフェイズに入っていることを思い知らされる︒ブーバーがローゼンツヴァイクとともに聖書翻訳を試みていたということ自体は︑従来から知られた事実である︒しかし︑その翻訳は︑ブーバー思想の中心にある﹁対話的原理﹂といかに関連しているのか︒これはきわめて重要な問いであるにもかかわらず︑十分には精査されてこなかった︒本書はまさしくこの課題に︑果敢にも立ち向かう︒また他方︑序論の第一章︵三五︱三七頁︶で丁寧にフォローされているように︑今世紀におけるブーバー学会の設立と新版著作集︵MBW︶の刊行開始は︑ブーバー思想の評価をめぐって新しい国際的機運が生まれつつあることを示す兆候であった︒著者の堀川敏寛氏は︑小野文生氏や平岡光太郎氏とともに︑そうした趨勢のもとで活躍する新世代に属しており︑現在進行形のブーバー研究をリードしている研究者の一人である︒

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いつつ︑ブーバー自身による宗教研究の特徴を︑﹁我‑汝﹂思想と結びついた﹁預言者的宗教﹂︵四一︱四三頁︶の重点化に見てゆく︒

  こうした前提を踏まえて著者自身の立場を提起している箇所が︑序論の第3章と第4章である︒新版著作集の複合的な構成︵四六頁︶にもかかわらず︑﹁我‑そ 00から我‑汝への転向﹂︵四九頁︶という主軸においてブーバー思想は一貫している︒ブーバーのヘブライ語聖書翻訳/解釈︵一九二五年以降︶は︑まさしくこの我‑汝思想の対話的原理をもとに形成されている︒ブーバー思想の解明には︑この両者︵対話的原理と聖書翻訳︶の関連を語ることが欠かせない︒著者はそうした視座から︑聖書翻訳の﹁具体的事例﹂︵五七頁︶に向かうことを宣言し︑先行研究に対する本研究の独自性を明確化している︒

  第1編では︑﹃我と汝﹄・﹃対話﹄・﹃神の蝕﹄等を中心としたブーバーのテクストと先行研究を参照しつつ︑我‑汝思想の意義が解明されている︒その第1章は︑我‑汝の関わりに﹁関係内存在としての自己﹂︵六四頁︶の存立という事態を看取したうえで︑この﹁関係先行型﹂モデルの原型を︑ヘブライズムにおける創造主との関係へと遡らせる︒続いて第2章は︑我‑そ 0

0的な﹁個我﹂の介入によって生じた﹁神の蝕﹂といわれる現代的状況を克服する方途として︑神との出会いを通じた我‑汝的関わりへの転向││これはヘブライ的な﹁テシュヴァー︵立ち帰り︶﹂でもある││に注意を促す︒それゆえ︑神の蝕の克服は﹁哲学からではなく宗教からである﹂︵ライナー︶ということになり︑ブーバー思想における﹁宗教性﹂の意義が際立っ の聖書 語られる言葉と書かれた言葉参考文献索引初出一覧あとがき

  ﹁序論﹂部を度外視すれば︑本書は︑﹁第2編の聖書翻訳論を本論とし︑それにいたるまでの予備的考察として第1編の我‑汝思想が叙述される構成になっている﹂︵五八頁︶︒実際︑ページ数の割合も︑第1編に対して第2編が約五倍の分量となっており︑著者がいかに聖書翻訳論を前面に打ち出しているかがよく分かる︒

  序論の第1章は︑国内外研究史の緻密なサーベイであり︑現在までのブーバー研究の歩みを一望できる貴重な箇所となっている︒早くからブーバーと歩みを共にしていたコーンとヴェルチュによる評伝︑そして本邦でもよく読まれているフリードマンの評伝に対する明快な解説が見られるほか︑生前に編まれた論集︑および死後に発表された代表的研究︵トイニッセン︑カスパー︑ベッケンホッフ︑稲村︶への論評︑さらには︑英語圏と日本におけるブーバー研究の状況説明がなされている︒これに対し︑第2章では︑概念把握が難しいブーバー本人の叙述に︑﹁我‑それ﹂的対象化︵素朴な実証的手法︶の回避という意図を読み取り︑この考え方を当のブーバー研究そのものに適用しようという試みが︑﹁ネットワーキング法﹂︵四〇︱四一頁︶という呼称で紹介されている︒さらにはティリッヒの理解に従

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を自己化することなく︑オリジナルに近い原形式を残す﹂︵一四二頁︶姿勢を見いだす著者の分析には︑たいへん説得力がある︒第3章は︑具体的な複数の事例︵創世記・出エジプト記・民数記・サムエル記より︶を参照しながら︑﹁ライトヴォルト様式﹂という翻訳手法を丁寧に考察している︒特定の﹁語句﹂のみならず︑場合によってはたった一つの﹁文字﹂であっても︑主導語︵ライトヴォルト︶として繰り返し用いることで︑翻訳に独特のリズムを与え︑それが原テクストのいっそう深い意味を開示する︒こうしたブーバーの方法論を聖書学的観点から位置づけようとする野心的試みが︑続く第4章の内容である︒ここでは︑クラウス︑ヴェスターマン︑ヴォルフといった歴史批評的方法をとる旧約学者からのブーバー評に続き︑ブーバーの手法を文学批評的方法︑正典批評的方法に近づけた後︑ブーバー自身のいう﹁R的方法﹂︵一七九頁以下︶と﹁傾向史分析的方法﹂︵一八三頁以下︶の説明・評価がなされる︒﹁編集﹂︵Redaktion︶という﹁書物の統一的意識﹂を超えて﹁私たちの師﹂︵Rabbenu︶をも意味する﹁R﹂︵一八〇頁︶の方法とは︑聖書がすべての伝承編纂者に﹁共通の精神的雰囲気﹂︵ブーバー︶に貫かれていると想定し︑その統一に着目して読んでいく手法である︒加筆を経ながらも根源的統一性が維持されてきた﹁傾向性﹂を重視するという傾向史分析は︑R的方法とともにブーバー聖書解釈法の双璧をなす︒

  第2編の後半にあたる第5章から第9章にかけては︑本書の真骨頂とでもいうべき部分であり︑そこで著者はブーバー聖書翻訳の具体的実例を丹念に分析してゆく︒第5章は︑ブーバー てくる︒第3章はその観点から︑ブーバーの十戒解釈︵﹃十戒から何が生じえようか﹄︶︑アケダー物語解釈︵﹁倫理的なものの停止について﹂︶を経て︑﹁哲学と宗教﹂というより﹁宗教と倫理﹂こそがブーバーの探究対象であったという刺激的な論を展開している︒この﹁宗教倫理学者﹂︵八六頁︶としてのブーバーという捉え方を踏まえて︑第4章では︑ブーバーがいかに現実の具体的 000状況における宗教性を重視したかが論じられる︒ここで決定的な素材となっているのが︑ブーバーのハシディズム理解である︒それはブーバーにとって︑合一に向かう神秘主義ではなく︑﹁日常のなかで現臨する宗教性﹂︵九二頁︶なのであり︑そうでありながらもなお︑特定の実定的宗教を超えた普遍的地平を切り開くものである︒慧眼にもティリッヒは︑この考えをブーバー思想の﹁具体的普遍主義﹂と呼んで評価していた︒  第2編の第1章は︑ブーバー/ローゼンツヴァイク訳聖書の成立過程と特徴を詳細に扱っており︑当該テーマに関して日本語で読める最良の解説文となっている︒著者は︑その翻訳手法を研究史的観点から︑﹁ライトヴォルト様式﹂︵アミット︶︑﹁変化形成的対話法﹂︵メイール︶︑﹁三次元構造﹂︵ネエル︑クロッホマルニック︶の三つに整理している︒第2章では︑聖書言語の意義を﹁語られる言葉﹂︵一九六〇年刊行の書名︶︑すなわち﹁口頭性︵Mündlichkeit︶﹂から引き出すブーバーの言語論を︑デリダのポストモダン的言語論に対置する︒ルター訳に抗したベンゲルの敬虔主義的ドイツ語訳との類似を引き合いに出しつつ︑翻訳者ブーバーが重んじた﹁非流暢さ﹂に︑﹁他なる言語

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本書へのコメント   聖書学者でもユダヤ学者でもない評者にとって︑堀川氏の広大な射程をもった著作を細部にわたって総体的に評価することは︑とうてい不可能である︒幸いにも︑すでに旧約学者の北博氏が︑﹁聖書翻訳者としてのブーバーに焦点を当てた日本の研究史上画期的な意義を持つ書﹂というタイトルで本書への的確な批評を公表している︵﹃図書新聞﹄第三三六一号︶︒また︑田島卓氏による書評は︑聖書翻訳という問題に絞ってブーバーの難点を指摘しており︑実に鋭利な評論となっている︵﹃本のひろば﹄二〇一八年一二月号︶︒本書に取り組もうとしている読者には︑それらの文章をご参照願いたい︒この場ではあくまで評者の思想的関心に沿って︑本書の際立った点をいくつか指摘しておく︒

  ︵一︶宗教哲学から宗教倫理へ││宗教哲学というディシプリンの中で研究を進めてきた者にとって︑これまでブーバーといえば︑﹁﹃我と汝﹄の宗教哲学者﹂以外の存在ではありえなかった︒﹁二〇世紀のブーバー研究は︑主著﹃我と汝﹄を軸として︑その前後関係からブーバー思想の全体像を捉えていく学説が主流であった﹂︵四四頁︶以上︑それも仕方ないことだったのかもしれない︒しかし︑本書ではこうしたステレオタイプな見方が良い意味で覆されている︒ブーバー研究における対話的原理の思想︑聖書翻訳/解釈︑ハシディズム研究︑等々といったジャンルの分断状況が︑かなりの程度まで﹁旧版著作集の編纂法﹂︵四五頁︶に起因するという指摘は︑ことさら興味深い︒さらに衝撃的なのは︑ブーバー思想におけるハシディズムの役 /ローゼンツヴァイク訳聖書における神名の訳語に焦点を当てたものである︒とりわけ︑出エジプト記をもとに︑メンデルスゾーンとの対比で神名翻訳を取り上げた箇所︵一九五頁以下︶などは︑門外漢の評者にとっても得られるものが多かった︒第 6章は︑創世記のヤコブ物語に対するブーバーの翻訳と解釈を分析したものであるが︑そこでは長子権︑祝福︑顔といったライトヴォルトを中心に説得力ある論が展開されている︒第7章では︑﹁見る﹂という主導語をめぐってアブラハムの﹁見者﹂︵ローエー︶としてのありかたが確認され︑そこから﹁見て見られる﹂試練を経た﹁預言者﹂││神と人との仲介者││の誕生を指摘するブーバーの解釈が扱われている︒第8章は︑ブーバー聖書解釈の事例としてイザヤ書を取り上げる︒時間的・空間的差異を超えてイザヤと第二イザヤに通底する統一的形式・思想が︑主としてR的方法によって明らかにされてゆく︒第二イザヤから取り出される﹁万人預言者﹂論は︑神から万人への語りかけを重視している点で︑おそらくは本書の重視するブーバー聖書理解の根幹に触れるものであろう︒エレミヤ書とサムエル記から預言者の真偽問題と﹁誤解可能性﹂︵二七一頁︶という問題を論じてゆく第9章は︑ブーバーとともに︑最終的に聖書を読む側の﹁エムナー﹂︵信仰︶︑すなわち汝への信頼関係に訴える︒そして︑このモチーフはそのまま︑結論部で再び強調される﹁我‑汝思想﹂と﹁聖書翻訳﹂の統一性││﹁私たちが聖書に汝として向き合い︑その聖書を通して﹁語られる言葉﹂を聴く﹂︵二七七頁︶という思想││に直結してゆくものである︒

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地平を開く﹂︵九五頁︶思考を残そうとした︒ユダヤ教というもっとも特殊なものから︑もっとも開かれた普遍倫理的言説への移行が︑三人の思考に共通するプロセスである︒しかし︑その内実は異なる︒﹃理性の宗教﹄や﹃全体性と無限﹄は理知的な言葉で書かれているがゆえに︑宗教をもたない人間にもアクセス可能である︒これに対し︑﹃我と汝﹄の文章はまるで質感が違う︒ブーバーにとってハシディズムがそうであったように︑﹃我と汝﹄が提示しているのは︑哲学的ロゴスの普遍性というより︑﹁日常のなかで現臨する宗教性﹂がもつ具体的普遍性であった︒そうである以上︑彼の書物はその普遍主義にもかかわらず︑いや︑かえってそれが﹁具体的﹂であるがゆえに︑少なからず読者を選ぶものであるかもしれない︒仮にブーバーの思想とパラレルなものを日本に見いだそうとするならば︑それは西田幾多郎の﹁私と汝﹂︵﹃無の自覚的限定﹄所収︶のようなテクストよりも︑鈴木大拙の妙好人研究や霊性論に近いものになると考えられる︒

  ︵三︶聖書注釈の可能性││本書の可能性の中心が第2編の聖書解釈にあるということは︑もはや論を俟たない︒ベンヤミンの翻訳理論との相違︵一一三頁︶や︑デリダの言語論との相違︵一三七頁︶を語っている箇所などは︑ポストモダン的なユダヤ解釈を尊重している研究者たちにはぜひ読んでもらいたい部分であるし︑また︑第2編第6章のヤコブ物語解釈︵二一〇頁︶は︑ブーバーのライトヴォルト抽出の妙を実感できるだけでなく︑レヴィナス研究にも十分なインパクトを与えるものだろう︒その他︑一例を挙げるならば︑創世記1章2節の翻訳を 割を踏まえながら︑著者がブーバーをもはや﹁宗教哲学者﹂ではなく︑﹁宗教倫理学者﹂として規定している点である︒﹁ブーバーの思想的探求は哲学ではなく︑宗教性に基盤を持つ倫理にある﹂︵八六頁︶︑﹁彼の目指すところは哲学が求める普遍的人間存在ではない﹂︵九七頁︶といった著者の基本テーゼは︑研究史上の大きな転回を予告している点で︑文字どおり画期的な解釈である︒本書以降にブーバーの﹁哲学﹂的可能性を少しでも考えようとする者にとって︑この堀川説との対決はもはや不可避であるといっても過言ではないだろう︒

  ︵二︶具体的普遍主義の問題││﹁宗教倫理学者ブーバー﹂という第1編の規定に対しては一定の反撥も予想されるが︑個人的には︑その解釈を読んで目から鱗が落ちるサウロのような体験を味わった︒正直に告白すると︑﹃我と汝﹄や﹃対話﹄をいくら読んでも︑哲学的なレベルで感銘を受けることがなかった評者にとって︑ブーバーの思想的意義は長らく曖昧模糊としたものだった︒なぜブーバーの本は︑﹃デカルト的省察﹄や﹃存在と時間﹄が示すような哲学的厳密さや知的説得性をもたないのか︒本書の分析を知ることで︑長年の疑問が一気に氷解した︒序論第2章にあるように︑論理的説明を拒否し︑概念的把握を避けるような彼の文体︑そして﹁ある種分析不可能な観念を︑本質的なものとして議論に登場させる﹂︵三八頁︶方法などは︑その事態に拍車をかけている︒ここで注目すべきは︑コーヘンやレヴィナスといった他のユダヤ人哲学者とのへだたりである︒コーヘンやレヴィナスもまた︑ブーバーと同じように︑﹁ヘブライ的なものを基としながらも﹂︵九六頁︶﹁普遍的

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ょうどこの論点││﹁真の預言﹂と﹁偽りの預言﹂の区別││を扱っているのが︑本書の第2編第8章である︒ブーバーによると︑神の言葉への﹁理解と誤解﹂を区別する客観的基準は存在しない︒この落差を埋めるのは﹁信仰﹂のみであり︑その信仰とは︑ギリシャ的﹁ピスティス﹂ならざるヘブライ的﹁エムナー︵信頼︶﹂であるという︵二七三頁以下︶︒しかし︑このような汝たる神との﹁信頼関係﹂は︑どこまで﹁我﹂の主観性や恣意性を脱したものなのだろうか︒こればかりでなく︑ブーバーが至るところで活用した各種の概念的二項対置に対しても︑ショーレムのような人物とともに︑もっと疑念を向けてみることが必要だろう︒﹁あとがき﹂で著者は︑トリーア大学のシュスラー教授から﹁今後はよりクリティカルにブーバーを扱い︑筆者自身の主張を展開するようにと求められた﹂︵三二三頁︶と書いている︒評者もまた︑ブーバーをこれほどまで精密に読み解いた著者に対し︑なおも求める点があるとすれば︑その﹁クリティカル﹂な読解以外にはないだろうと考えている︒ めぐるルター︑ローゼンツヴァイク︑ブーバーの差異の分析︵一四七頁︶も面白く読むことができた︒﹁混沌と混乱﹂を意味するヘブライ語トーフー・ヴァー・ボーフーが韻を踏んでいることに注目し︑ローゼンツヴァイクは頭韻 00を踏んで﹁Wirrnis und Wüste﹂としたが︑ブーバーはこれをヘブライ語の脚韻 00

に合わせて﹁Irrsal und Wirrsal﹂に変えたという︒こうした翻訳上の機知は︑日本語での表現が難しいだけに貴重である︒中世ラテン語詩の成立以降︑西洋の詩作は脚韻の活用によって発達してきた︒しかし︑古ドイツ語に脚韻はなく︑ゲルマンの詩は一般に頭韻を尊重する︵ドイツの伝統に立ち戻って頭韻を初めてオペラの世界に導入したのが︑ワーグナーである︶︒こうしたことを考えると︑上記の修正過程にはブーバーの原語︵ヘブライ語︶重視という特徴だけでなく︑ほとんど無意識的な脱ゲルマン化の表れを読み取ることができるかもしれない︒

  ︵四︶批判的注釈への期待││本書を読み通して躓いた点があったとすれば︑それは︑ブーバーから引き出された﹁汝としての聖書﹂という思想である︒聖書から神のメッセージを聴き取るという考え方は理解できても︑このような聖典が本当に︑対話の相手である﹁汝﹂として機能しうるのだろうかという疑問は最後まで残った︒相手が私からの語りかけに直接答えてくれない状況下での﹁対話﹂とは︑いったい何なのか︒﹁死者との対話﹂などと言われる場合と同じように︑その対話は真に相互的な関わりではなく︑せいぜい比喩的で仮想的な意味しかもたないのではないか︒ここに生じているのは︑神の言葉の真偽を相互交渉によっては確認できないというアポリアであり︑ち

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