ジ ョー ジ ・ハ ー バ ー トの 聖 職 者 に な る こ とへ の 逡 巡(前)
ジ ョン ・ダ ンの 「聖 職 者 に なった テ ィルマ ン氏 に」と関 連 して
山根 正 弘
は じめに
17世 紀 イギ リス の 詩 人 ・説 教 者 ジ ョン ・ダ ン(JohnDonne,1572‑1631)に 、 「聖 職 者 に な った テ ィルマ ン氏 に」("ToMr.Tilmanafterhehadtakenorders";以 下 「テ ィルマ ン氏 に」あ るい は"ToMr.Tilman"と 略 記 す る)と 題 す る詩 が あ る。 この詩 は、
エ ドワー ド ・テ ィル マ ンの手 紙 に対 す る ダ ンの 返 事 で あ る。 テ ィル マ ンは ケ ンブ リ ッ ジ大 学 ペ ンブ ル ッ ク ・カ レ ッジ の フ ェ ロー で あ った が 、 英 国 国 教 会 の 聖 職 者 とな る に あ た り、 聖 職 者 に相 応 し くな い と 自 ら感 じて い て 、 聖 職 入 りをた め らう気 持 ち を 打 ち 明 け たD。 彼 は1618年12月 に司 祭 の 下 位 職 で あ る 執 事(deacon)に 、 そ して 1620年3月 に は司 祭(priest)に 就 任 して い る。 と ころが 、 ダ ンの返 歌 は、 テ ィル マ ンの そ の ような苦 悩 を無 視 した 形 で話 が 展 開 され て い る。 つ ま り、 当 時 僧 職 は 上 流 階 級 の 人 々か ら軽 ん じられ て い た が 、 そ の 果 た す 役 割 が いか に 立 派 で あ るか を示 す
ことに よ り、 あ え て僧 門の 扉 を叩 い た テ ィル マ ンを激 励 す る内 容 とな って い る。
ダ ンは 世 俗 的 な立 身 出 世 を追 い 求 め 、 自身 の 能 力 ・才 能 に見 合 っ た 国 の 要 職 を得 る た め 様 々 な 活 動 を展 開 した こ とで 知 られ る2)。 だ が 、 そ の 努 力 も空 し く、 結 局 1615年1月 に 国教 会 の聖 職 者 とな った3)。 ダ ン も最 終 的 に宗 教 界 に身 を投 じる こ と を 迷 っ て い た と考 え られ る が 、ジ ェ イ ム ズ ー 世 の 強 い 要 望 に は 抗 え な か っ た 。しか し、
司 祭 職 は ダ ンが 当 初 よ り望 ん で い た もの で は な か っ た が 、 一 旦 そ の職 に就 い て み る と、 彼 の 才 能 ・能 力 に見 事 に合 致 して い て 、 神 が 彼 に命 じた 天 職 と受 け取 る よ うに
な っ た。 そ れ か ら数 年 後 、 テ ィル マ ンの 聖 職 者 に な る こ とへ の 迷 い を題 材 に して 、 返 歌 の形 を借 りな が らも全 く独 自の 発 想 で、 ダ ン自身 が 聖 職 者 に な った こ とに対 す
る釈 明 とそ の意 義 を表 明 した もの と考 え られ る。
ダ ンの 影 響 を直 接 ・間接 に 強 く受 け た 宗 教 詩 人 ジ ョー ジ ・ハ ー バ ー ト(George Herbert,1593‑1633)は 、 ケ ンブ リッ ジ大 学 の 大 学 代 表 弁 十 そ して 国 会 議 員 に まで
な った 地 方 出 身 のエ リー トで あ っ た が 、 最 後 は ソー ル ズ ベ リー 近 郊 の僻 村 ベ マ トン の 教 区牧 師 となっ た。 伝 記作 家 ア イザ ック ・ウ ォル トン(IzaakWalton,1593‑1683)
に よ る と、 ハ ーバ ー トは宮 廷 で の 昇 進 を夢 見 な が ら も、 自身 の 才 能 を神 の 栄 光 に捧 げ る とい う信 条 を捨 て きれ ず 、 どち らの道 を選 ぶ べ きか 逡 巡 し心 の 葛 藤 を経 験 した とい う4)。名 門 の 出 で 、 しか も才 能 に恵 まれ た ハ ー バ ー トが 、 政 治 の 要 職 を諦 め 神 の 栄 光 を讃 え るた め 、 身 を落 として 片 田舎 に 隠遁 し教 区 民 の た め に牧 師 に な った と い う見 方 は、 以 降支 配 的 とな る4)。 も し、 ハ ーバ ー トが 聖 職 者 にな る こ とをた め らっ た とす れ ば 、 そ の 原 因 は何 で あ ろ うか 。 テ ィルマ ンの よ うに、 聖 職 者 に 相 応 し くな い と自 ら感 じて い た の で あ ろ うか 。 そ れ とも ダ ンが提 示 した よ うに、 当 時 社 会 的 に 蔑 まれ て い た が ゆ え に、 進 ん で 聖 職 者 とな る こ と にた め らい を感 じて い た の で あ ろ うか 。 以 下 に、 ハ ー バ ー トが 聖 職 者 にな る こ とを逡 巡 した 理 由 を、 先 例 とも模 範 と もな った ダ ンの 「テ ィルマ ン氏 に」を手 が か りに、 探 って み た い と思 う。
1ダ ンか らハ ー バ ー トへ 一 宗 教 的 なパ ロ デ ィ
ダ ンの 「テ ィルマ ン氏 にJは 、1635年 出 版 の 詩 集(第2版)に 初 め て収 録 され るが 、 先 に述 べ た ように、 国 教 会 に属 す る聖 職 者 が俗 世 間 の 入 々 か ら軽 蔑 され て い る現 状 を 示 し、 そ の蔑 視 を 克 服 した テ ィル マ ンの 精 神 的 立 派 さを称 賛 した 宗 教 詩 で あ る。
そ の 冒頭 、 テー マ が 縮 約 され た 形 で 示 され て い る。
Thou,whosedivinerSoulehashcaus'dtheenow ToputthyhanduntotheholyPlough,
MakingLay‑scorningsoftheMinistry,
一74一
Notanimpediment,butvictory...(̀̀ToMr.Tilman"1‑‑4)
(あ な た の 神 々 し い 魂 が 、 今 や 、 あ な た の 手 に 聖 な る 鋤 を/か け さ せ て 、 あ な た は 、 聖 職 者 と な っ た の で あ る 。/俗 世 間 の 人 々 の な か に は 、 聖 職 者 を 軽 蔑 す る 者 も い る が 、/そ れ を 克 服 し て 、 障 壁 と は し な か っ た の で あ る 。)5)
「手 に鋤 をか け る」とは、 聖 職 者 に な る こ とを意 味 す る6)。聖 な る鋤 は 入 の心 を耕 し、
信 仰 を深 め る とい うこ とで あ ろ う。
続 い て 、 テ ィル マ ンが 聖 職 に就 く前 と後 で は、 彼 に どれ ほ どの 相 違 が あ る のか 、 す な わ ち どれ ほ ど精 神 的 に 成 長 した の か が 、 ダ ン流 の 比 喩 を用 い て表 現 され る。例
え ば、 貿 易 船 が 長 く苦 しい航 海 の あ と、 鉄 と布 を 売 りイ ン ドか ら宝 の 山 を積 ん で 帰 って きた よ うな もの だ と。 け れ ど、 い くら精 神 的 に豊 か に な った と して も、 人 間 とし て の本 質 が 変 化 した わ け で は な く、 新 し く冠 を戴 く王 が 、 コ イ ンの材 質 は 変 え な い の に、 そ の 上 に刻 む顔 だ け 変 え る よ うに、 そ の よ うに テ ィルマ ン も叙 品 の 戴 冠 式 の とき、 キ リス トの刻 印 に替 えた だ けで あ る とい う7)。そ して 、 聖 職 者 は俗 世 間 の位 と は別 に、 神 の ヒエ ラル ヒー で は、 神 の遣 い、 つ ま り 「天使 」の位 階 に まで引 き上 げ ら れ る。
Ox,aswepaintAngelswithwings,because TheybeareGodsmessage,andproclaimhislawes, Sincethoumustdothelike,andsomustmove,
Artthounewノ セα読6ア 乞1withcelestialllove?
("Tofir.Tilman"19‑22;italicsmine)
(ま た 、 神 の 意 思 を 伝 え 、 そ の 律 法 を 告 知 す る た め/天 使 を 翼 あ る も の と 描 く よ う に 、/あ な た も 同 じ よ う な 働 き を し て 、 同 じ よ う に 動 か ね ば な ら な い の で 、/
天 上 の 愛 の 翼 を 新 た に も ら っ た の で あ ろ う か 。)
本 質 は変 わ らな くと も、新 た な刻 印 を押 した 聖 職 者 は、 筆 舌 に尽 くせ ぬ ほ どの喜 び を 身 に感 じ、「天 使 」と同 列 で あ る の に、 なぜ 世 間 の人 々 は聖 職 者 を蔑 視 す るの か と、
ダ ン は さ ら に も う 一 度 、 問 い 直 す 。
WhyBoththefoolishworldscornethatprofession, Whosejoyespassespeech?Whydotheythinkunfit ThatGentryshouldjoynefamilieswithit?
Asiftheirdaywereonleytobespent
Indressing,IVIistressingandcompliment...
("ToMr.Tilman"26‑3Q;italicsmine)
(な ぜ 、 愚 か な 世 の 人 々 は 、 言 葉 で 表 現 で き な い よ う な/喜 び を 与 え る 職 業 を 軽 蔑 す る の か 。 な ぜ 、 ジ ェ ン ト リ ー が/神 の 家 族 の 一 員 に な る こ と を 適 切 で は な い と 考 え る の か 。/そ の 彼 ら は 、 あ た か も 終 日 、 衣 装 に 凝 り 、 恋 人 と 戯 れ 、/
お 世 辞 を 言 う の に 費 や す と い う の に 。)
聖 職 者 を蔑 視 す る世 問 の 人 々、特 に こ こで は、 ℃entry"と い う語 か ら連 想 され る よ うに、 額 に汗 して労 働 す る こ との な い地 主 階級 、 ジ ェ ン トリー が 念 頭 に 置 か れ て い る。ダ ンは 貴 族 の 地 位 ・身分 に憧 れ を抱 いた が 、結 局夢 は 果 たせ ず 、聖 職 者 に な った 。 そ の 怨 念 に も似 た感 情 の ゆ え にか 、 上 流 階 級 の暮 ら しぶ りを皮 肉 め い た 口 調 で 断罪 して い るか の ようだ。
酔 生 夢 死 の 享 楽 的 人 生 を送 る貴 族 批 判 に 使 わ れ た、 「衣 装 に 凝 り、 恋 人 と戯 れ 、 お世 辞 を言 う」 とい う ダ ンの 語 句 を、 ハ ー バ ー トが 自分 の作 品 に引 用 して い る。 彼 の詩 集 『聖 堂 』(TheTemple,1633)に 納 め られ た 「教 会 の 袖 廊 」("TheChurch‑
Porch")は 、 当代 の ジ ェ ン トリー 階級 の 子 弟 、 特 に弟 のヘ ンリー ハ ー バ ー トに、 そ の行 動 ・振 る舞 い を教 訓 的 に説 い た もの で あ る。 彼 あ る い は彼 らに 向 か って 、 非 生 産 的 な怠 惰 を捨 て去 る よ うに教 導 す る。
Flieidlenesse,whichyetthoucanstnotflie Bydressing,mistressing,andcompliment...
Godgavethysoulbravewings;putnotthosefeathers
一76一
Intoabed,tosleepoutallillweathers.
("TheChurch‑Porch"79‑80,83‑‑4;italicsmine}
(怠 惰 を 吹 き 飛 ば せ 、 け れ ど も 、 そ れ は 、 着 飾 っ た り、/恋 人 と 戯 れ た り、 お 世 辞 を 言 っ た りす る こ と で 果 た せ る も の で は な い 。/神 は 君 の 魂 に 素 晴 ら し い 翼 を 与 え ら れ た 。 悪 天 候 が 通 り過 ぎ る ま で 、/そ の 羽 を 、 ベ ッ ド に 押 し 込 ん で 、 寝 て 待 っ て は い け な い 。)8)
二 つ の 詩 に 共 通 し て 、"dressing,mistressing,andcompliment"の 他 、"wings聾 と
"f
eathers"が あ り、 さ ら に こ の あ と91行 目 に は"ThyGentriebleats"と い う 語 句 ま で 登 場 す る の で 、 ハ ー バ,一 トが ダ ン の 「テ ィ ル マ ン 氏 に 」 を 意 識 し て い た こ と は 明 白 で あ る 。 三 つ の 言 葉 の 組 み 合 わ せ が 同 じ で あ る ば か り か 、 無 為 な 生 活 を 送 る こ と へ の 批 判 と い う 同 じ 文 脈 に 置 か れ て い る 。 と な れ ば 、 こ れ は 、 も は や ダ ン が ハ ー バ ー トに 及 ぼ し た 直 接 的 な 影 響 で あ る ば か り で は な く 、 ハ ー バ ー トが 意 識 的 に そ れ と 判 る よ う に 嵌 め 込 ん だ 、 あ る 種 の パ 「 ロ デ ィ で あ ろ う 。
さ ら に 、 ハ ー バ ー トは 、 三 つ の 組 み 合 わ せ の う ち 二 つ 、 即 ち 「着 飾 る 、 お 世 辞 を 言 う 」 を 、 散 文 の 作 品 『田 舎 牧 師 』(TheCountry、Parson,1652)で 用 い て い る 。 そ の 第32章 で 、 英 国 全 土 に 蔓 延 す る 最 大 の 罪 悪 は 怠 惰 で あ る と 糾 弾 し た あ と 、 仕 事 に 就 く こ と の 重 要 性 を 説 く。 な ぜ な ら 、 職 に 就 い て い な け れ ば 、 暇 を も て あ そ び 、 居 酒 屋 で 酔 い つ ぶ れ た り、 売 春 宿 で 娼 婦 を 買 っ た り し て 罪 を 犯 す こ と に な る の で 。 し た が っ て 、 職 に 就 い て 社 会 の 役 に 立 つ よ う に 指 南 す る 。 親 の 財 産 を 継 げ な い 次,男 以 下 に つ い て は 、 特 に 次 の よ う に 諌 め る 。
Tothem[youngerbrothers],afterhebathshew'dtheunlawfulnessofspending thedayindressing,Complimenting,visiting,andsporting,he[thecountry parson]firstrecomemendsthestudyoftheCivilLaw...(Works,277;italics mine)
(彼 ら に 対 し て は 、 着 飾 っ た り 、 お 世 辞 を 言 っ た り 、 訪 問 し た り 、 遊 ん だ り し て
時 を 浪 費 す る こ と の 非 合 法 性 を 示 し た あ と 、 田 舎 の 牧 師 は 、 最 初 に 民 法 の 勉 強
を奨 め るべ きあ る。)
無 為 な 生 活 ・怠 惰 は 、 ハ ー バ ー トが 抱 い て い た 仕 事 に 対 す る 考 え 方 に 反 す る も の で9)、
「着 飾 る 、 お 世 辞 を 言 う 」 は 、 洒 落 者 、 享 楽 人 の 特 徴 と し て 、 こ こ で も 非 難 さ れ て い る 。 ハ ー バ ー トは そ の フ レ ー ズ に 強 く惹 か れ て 、 ダ ン に 呼 応 す る 形 で 、 さ ら に テ ィ ル マ ン に 対 す る 返 歌 の 返 歌 と し て 援 用 し た の で あ ろ う。
ハ ー バ ー ト と ダ ン は 、 母 親 マ グ ダ レ ン ・ハrバ ー ト夫 人 を 介 し て の 直 接 的 な 交 友 関 係 が あ っ た が 、 そ れ ば か りか 、 二 人 と も 第3代 ペ ン ブ ル ッ ク 伯 爵(WilliamHerbert,
1580‑1630)を 中 心 と し た 派 閥(faction)兼 文 学 サ ー ク ル(coterie)と い う 大 き な 輪 の 一 員 で あ っ た 。 つ ま り、 ダ ン は ハ ー バ ー ト夫 人 の 庇 護 の も と 、 あ る 時 期 ペ ン ブ ル
ッ ク 伯 派 閥 と も 係 わ りが あ っ た10)。 伯 爵 の 母 親 で 、 サ ー ・フ ィ リ ッ プ ・シ ドニ ー の 妹 、 メ ア リ ー ・ハ ー バ ー トが1621年 に 亡 く な っ た と き 、 ダ ン は 彼 女 の 追 悼 と 自 分 の 出 世 を 託 し て 、 「サ ー ・フ ィ リ ッ プ ・シ ドニ ー と そ の 妹 ペ ン ブ ル ッ ク 伯 爵 夫 人 に よ る 詩 編 の 翻 訳 に つ い て 」("UponthetranslationofthePsalmesbySirPhilipSidney,and
theCountesseofPembrokehisSister")と い う 詩 を 献 呈 し て い る 。 だ が 、 そ の 件 で ダ ン が 期 待 し た 人 事 は 動 か ず 、 彼 は 別 筋 で そ の 年 の12月 、 セ ン ト ・ポ ー ル ズ 大 寺 院 の 首 席 説 教 者(dean)に な り、 ペ ン ブ ル ッ ク 伯 の サ ー ク ル か ら 遠 ざ か っ て い く 。
ハ ー バ ー トが ペ ン ブ ル ッ ク 伯 ウ ィ リ ア ム ・ハ ー バ ー トの 尽 力 で 田 舎 の 教 区 牧 師 に 就 任 し た の は 、1630年4月16日 で あ る 。 僻 村 ベ マ ト ン は 、 地 理 的 に は 、 ペ ン ブ ル ッ ク 伯 の 邸 宅 ウ ィ ル トシ ャ ー の ウ ィ ル ト ン と ソ ー ル ズ ベ リ ー 大 聖 堂 の 中 間 地 点 に あ り、 歩 い て 通 え る 距 離 で あ る 。 そ の 伯 爵 は 、 残 念 な が ら 、 ハ ー バ ー トが 牧 師 に 叙 せ ら れ る6日 前 に 亡 く な り、 彼 の 弟 フ ィ リ ッ プ ・ハ ー バ ー ト(PhilipHerbert,1584‑
1650)が そ の 跡 を 継 ぎ 、 第4代 ペ ン ブ ル ツ ク 伯 爵 に 就 任 す る が 、 庇 護 は 相 変 わ らず 得 ら れ た 。 伝 記 作 家 の オ ー ブ リ ー に よ る と 、 ハ ー バ ー トは ウ ィ ル ト ン ・ハ ウ ス の チ ャ プ レ ン(chaplain)で あ っ た と い うII)。 フ ィ リ ッ プ の 再 婚 相 手 ア ン ・ク リ フ ォ ー ド夫 人(LadyAnneClifford,1590‑1676)が 残 し た 『日 記 』 に よ る と 、 結 婚 生 活 は 幸 せ で あ っ た と は い え ず 、 孤 独 を 感 じ て い た よ う だi2)。 ハ ー バ ー トは 職 務 を 兼 ね て ウ ィ
ル ト ン ・ハ ウ ス に ご 機 嫌 伺 い に 通 い 、 ま た 彼 は リ ュ ー トの 名 演 奏 家 で も あ っ た の で 、
一78一
時 に夫 人 の前 で 詩 とと もに音 楽 を披 露 した の か も しれ ない 。
ペ ンブ ル ック伯 の文 学 サ ー ク ル は、 母 親 の メア リー ・ハ ーバ ー ト(自 ら文 人 で 文 芸 の庇 護 者)か ら引 き継 い だ 文 学 サ ロ ンで 、 マ ニ ュ ス ク リプ トの 回 覧 ば か りで は な く、
詩 の朗 読 ・朗 唱 が 行 なわ れ て い た。 時 に は、 詩 人 自身 が 、 あ るい は また音 楽 家 が 節 を付 けて 吟 唱 した とい う。 テ ィル マ ンが ケ ンブ リ ッジ大 学 ペ ンブ ル ック ・カ レ ッジの フェ 「ロー で あ った ことを考 えれ ば、閉 じた サ ー クル 内で 「聖 職 者 に な る こ とへ の逡 巡」
とい うテ ー マ が 、 そ れ ぞ れ の 人 生 と絡 め て文 学 的 虚 構 と して 扱 わ れ た の か も知 れ な い。 ペ ンブ ル ック ・サ ー ク ル は、 文 学 的 な 才 能 を発 揮 す る場 と な り、 こ とに よる と 各 人 の 能 力 に見 合 った 官 職 が 得 られ た 。詩 人 た ち は、 一 般 に流 布 して い る節 回 しに、
各 自が 独 自の 歌 詞 を付 け て、 現 代 的 に 言 え ば 「替 え 歌 」を披 露 した13)。 ま た 時 に、
相 手 の 作 品 で 関 心 度 が 高 い フ レー ズ を巧 妙 に取 り入 れ た り、 中 心 的 な テ ー マ を別 の 形 で 扱 った りして、サ ー クル 内 の 人 々 に それ と判 る ような、パ ロデ ィを創 った 。特 に、
ダ ンか らハ ー バ ー トへ の 橋 渡 しは、 上 流 階 級 批 判 の 「着 飾 る 、 恋 人 と戯 れ る、 お 世 辞 を言 う」とい う語 句 が キ ュ ウ として機 能 した と考 え られ る。
ダ ンの 「テ ィルマ ン氏 に」が 、 テ ィルマ ンの 手 紙 の返 事 で はな く、彼 自身 を も含 め て 、 聖 職 者 に な らざ る を得 なか っ た 人 た ち を激 励 す る 意 図 を もって 書 か れ た 文 学 的 な虚 構 で あ った な ら、 テ ィルマ ンが 悩 ん で い た 問 題 、 つ ま り聖 職 者 とな る に相 応 し い身 で あ る の か とい う疑 問 に 答 え る筋 合 い もな く、 また 、 なぜ 聖 職 に就 くの が 敬 遠 され るの か 、 そ の 理 由 を 明 らか に す る必 要 もな い はず だ 。実 際 、 ダ ンの詩 で は、 聖 職 の尊 さ と偉 大 さは宣 揚 され て い るが 、 聖 職 者 と して どん な人 が 相 応 しい か そ の 人 物 像 は示 され ず 、 聖 職 者 が 嫌 わ れ る状 況 は述 べ られ て い るが 、 そ の 理 由 は説 明 され てい る とは言 え な い[4)。
II聖 職者 に相応 しいか
ジ ョ ー ジ ・ハ ー バ ー トは 、1593年4月3口 、 ウ ェ ー ル ズ の モ ン トゴ メ リ ー で 、 ジ ェ
ン ト リ ー 階 級 の 五 男 と し て こ の 世 に 生 を 受 け た 。 長 兄 の エ ド ワ ー ド ・ハ.一 バ ー トが
嫡 子 と し て 親 の 財 産 を 受 け 継 ぎ 、 ジ ェ イ ム ズ ー 世 の 命 を 受 け 駐 仏 大 使 を 務 め 、 の ち
に チ ャーベ リー卿 に叙 せ られ る な ど社 会 的 に成 功 した の とは対 照 的 に、 そ の 天 賦 の 才 に もか か わ らず 、 田 舎 の一 介 の聖 職 者 と して そ の 生 涯 を 閉 じた。 彼 が 自 ら進 ん で 聖 職 者 にな った の か 、 そ うな らざ る を得 なか っ た の か 、 また そ の 時 期 はい つ の こ と な の か 、 議 論 の 分 か れ る とこ ろで あ る15)。先 に触 れ た ように、 大 い な る精 神 的 な葛 藤 を経 て 、 田 舎 に 隠 遁 し神 の 僕 とな る こ とを 決 意 した、 とい うの が ウ ォル トン以 来 の 見 方 で あ る。 しか しなが ら、 こ こ十 数 年 の 間 に従 来 の見 方 が 革 新 的 に変 わ っ て き て い るの も事 実 で あ る。 つ ま り、 ハ ー バ ー トは 田舎 に隠 遁 す る ど ころ か 、 積 極 的 に 宮 廷 や 政 治 に関 わ り、 さ らな る立 身 出 世 を窺 って い た とい う16)。だが 、 も しウ ォル トンの ハ ー バ ー ト伝 に読 者 を惹 きつ け て止 まな い説 得 力 が あ る とす れ ば、 そ れ は一 体 何 で あ ろ うか 。 教 訓 的 な キ リス ト教 聖 人伝 にみ る人 間精 神 の 原 型 的 な 題 材 が 扱 わ れ て い るか らで あ ろ うか。 以 下 に、 伝 記 的 事 実 を踏 まえ なが ら、 ハ ー バ ー トが 経 験
した心 の葛 藤 を手 紙 や作 品 の 中 に探 ってみ た い と思 う。
ハ ー バ ー トは、 ご く早 い 時 期 か ら、 そ の 才 能 を神 の 栄 光 に捧 げ よ うとい う気 持 ち を持 っ て い た 。1610年 の新 年 、 ハ ー バ ー トが まだ16歳 で ケ ンブ リ ッジ大 学 の 学 生 で あ った と き、 母 親 に2編 の ソネ ッ トを 添 え て手 紙 を 送 っ た。 そ の 中 で彼 は、 当世 流 行 の 世 俗 的 な恋 愛 詩 で は な く、 宗 教 詩 を書 く決 意 を表 明 して い る17)。
1614年 に 出 身 カレ ッジのマ イナ ー ・フ ェ「ロー(minorfellow)、16年 に は メ イジ ャ ー ・フェ ロー(majorfellow)と な る。 大 学 の規 定 で は、 メイ ジャー ・フェ ロー とな る に は、7年 以 内 に 国教 会 の 聖 職 者 に な るか 、さ もな くば、フ ェロ ー の地 位 を諦 め るか 、 そ の どち らか に 同意 しなけ れ ば な らなか った。
1618年 、彼 が 母 校 ケ ンブ リッジの1/ト リックの講 師(praelector)を 務 め て い た24 歳 の とき、3月18日 付 けの 手 紙 で、 ハ ー バ ー トは、母 親 の 再 婚 相 手 で あ る ジ ョン ・ダ
ンヴ ァー ズ(SirJohnDanvers,c.1588‑1655)に 、 健 康 状 態 に多 少 の不 安 を抱 え て い るが 、 聖 職 者 に な る心 づ も りで あ る こ とを、打 ち 明 け る18)。
と こ ろ が 、1620年 にハ ・一一バ ー トは、 大 学 の 要 職 で あ る 大 学 代 表 弁 士(public orator)と な る 。 在 職 中 の 逸 話 が 残 っ て い る 。 同 時 代 の 伝 記 作 家 、 ア イ ザ ッ ク ・ウ ォ ル トンに よる と、 ジェ イム ズ ー 世 が 大 学 に 書 物 を寄 贈 し、 そ の お 礼 の 手 紙 を代 表 弁 士 で あ るハ ー バ ー トが 書 くこ とに な った 。 あ ま りに も見 事 な ラ テ ン語 に 陛 下 は 感 嘆
:1
し、 側 近 の ペ ンブ ル ック伯 ウ ィ リア ム ・ハ ー バ ー トに手 紙 の 書 き手 を問 い 合 わせ た 。 伯 か らハ ー バ ー トの 学 識 と才 能 を 聞い た陛 下 は、 「大 学 の 宝 」と讃 えた とい う 且9)。代 表 弁 士 の 職 は、 こ の よ うに 国 の 要 人 と接 す る機 会 に恵 まれ 、 そ れ を踏 み 台 に して 国 の要 職 に就 くことが で きる、立 身 出 世 を望 む 者 に とって は重 要 な 職 で あ っ た。しか し、
や は り義 理 の 父 に宛 て た手 紙 に よる と、 果 たす 役 割 の重 要 性 に もか か わ らず 、 そ れ に見 合 っ た給 金 で は な く、 生 涯 続 け る職 で は な とい う20)。この 頃 ハ ー バ ー トが 置 か れ て い た状 況 が 、 「苦 悩 」(1)に 寓 意 的 に 表 され て い る。
Whereasmybirthandspiritrathertook Thewaythattakesthetown;
Thoudidstbetraymetoalingeringbook, Andwrapmeinagown.
BeforeIhadthepowertochangemylife.("Affliction"[1]37‑42)
(生 ま れ や 気 質 か ら す る と 、 む し ろ 都 市 へ 通 じ る/道 を 辿 っ た で あ ろ う に 。/そ れ な の に 、 あ な た は 私 に 書 を 読 み ふ け る よ う に し 、/ガ ウ ン で 身 を 包 ん だ 。/
私 は 闘 争 の 世 界 に 巻 き 込 ま れ て し ま っ た 、/自 ら 生 き 方 を 変 え る 力 が 身 に 付 く 前 に 。)
1624年 、31歳 で ハ ー バ ー トは、 故 郷 の都 市 選 挙 区 モ ン トゴ メ リー 選 出 の代 議 士 と な り、2月19日 か ら5月29日 まで 議 会 に 出廷 す る。 この 時 す で に、 ケ ンブ リ ッジ 大 学 が 定 め た フ ェ ロー の 聖 職 叙 任 に 関す る規 定 の 期 限 を超 え、 しか も聖 職 者 に もな って い なか った の で、 ハ ー バ ー トは世 俗 的 な昇 進 を、 まだ 捨 て 去 って は い なか った と考 え られ る。 だ が 、 そ の あ と何 か 特 別 な こ とが あ っ た に違 い な い。 そ の年 の11月 か12月 に突 然 、 ハ ー バ ー トは国 教 会 の執 事 とな っ た。 これ は、 先 に述 べ た とお り司 祭 の 下 位 職 で、 僧 禄 は得 られ る が 宗 務 を義 務 づ け る もの で は な く、 この 叙 任 を もっ て聖 職 入 りの 決 意 と見 なす わ け に はい か な いが 、 人 生 の 大 きな転 機 で あ っ た。
ハ ー バ ー トの 親 戚 で もあ った ペ ンブ ル ック伯 ウ ィ リア ム ・ハ ーバ ー トは、 プ ロテ ス タ ン ト系 派 閥 の 中心 者 で 、 事 あ る ご とに スペ イ ン親 派 の ジェ イ ム ズー 世 の 寵 臣 バ ッ
キ ンガ ム公 ジ ョー ジ ・ヴ ィリア ー ズ(GeorgeVilliers,DukeofBuckingham,1592‑
1628)と 敵 対 して い た 。1623年 の こ と、 チ ャー ル ズ皇 太 子 とバ ッキ ンガ ム公 は、 ス ペ イ ンの 皇 女 ドナ ・マ リア との 結 婚 の交 渉 を進 め るべ く、 マ ドリ ッ ドに赴 く。 そ の 目 的 は、 ジェ イ ム ズ王 の 娘 エ リザ ベ スが ドイ ツの プ ロ テ ス タ ン トで プ フ ァル ツ選 帝 侯
の フ リー ドリッヒ五 世 に嫁 い で い て そ の窮 地 を救 うた め で あ っ た。 お りし も、 ドイツ は1618年 に勃 発 した 三 十 年 戦 争 の 真 っ最 中 で 、 新 教 と旧 教 が 雌 雄 を決 し よ うと戦 って い た 。 イギ リス国 内 で は、皇 太 子 が 異 国 の地 で 暗 殺 され るの で は な いか 、 あ る い は後 の 国 教 会 の 首 長 が スペ イ ンの 皇 女 との結 婚 の た め カ トリ ックに改 宗 す るの で は な いか 、 との 動 揺 が 広 が る。 だ が 、 結 局、 チ ャー ル ズ とバ ッキ ンガ ム公 は 皇 女 を イギ リス に 連 れ 帰 る こ とは な く、 二 人 は ス ペ イ ン との 戦 争 の 意 思 を 固 め て い っ た。
ジ ェ イム ズ は あ くまで もスペ イ ン との 同 盟 を も とに平 和 を望 ん で い た。 そ して 翌 年 の2月 、 ジ ェ イム ズ は戦 争 と平 和 を議 題 とす る議 会 を招 集 す る。 これ まで イギ リス で は、 外 交 問 題 に関 して は 、 王 の 一 存 で 決 定 され て きたが 、 王 が 今 回初 め て議 会 の 意 見 に耳 を傾 け る とい う前 例 を作 る こ ととな った。
議 会 の大 半 は、戦 争 の費 用 を負 担 す る痛 み はあ った が 、 宗 教 的信 条 か らス ペ イ ン との交 戦 に賛 成 で あ った 。 そ の 旗 頭 が チ ャー ル ズ皇 太 子 で あ りバ ッキ ンガ ム公 で あ った。 ペ ンブ ル ック伯 は 宗 教 的 信 条 か らす れ ば 反 カ トリックで あ った が 、 植 民 地 貿 易 に手 を 出 し投 資 して い た の で戦 争 は反 対 で 、 ス ペ イ ン贔 屓 の ジ ェ イム ズ に荷 担 し た 。 戦 争 が 議 会 の趨 勢 で あ った の で 、 ペ ンブ ル ック伯 派 閥 は この 頃政 治 的 に旗 色 が 悪 くな り始 め た 。1624年4月 に は 、ハ ー バ ー トの 兄 で 駐 仏 大 使 の エ ドワー ドが 、 そ の任 を解 か れ フ ラ ンス か ら呼 び戻 され る。6月 に は、 ペ ンブ ル ック伯 を軸 にハ ー バ ー トの友 人 ・知 人 に よっ て運 営 され て い た ヴ ァー ジニ ア ・カ ンパ ニ ー(新 大 陸 の 入 植 と貿 易 を扱 うベ ンチ ャー 企 業)の 認 可 が 、 ジ ェ イム ズ王 に よ っ て 突 然 取 り消 され 、 ヴ ァー ジニ ア は 王 の 直 轄 植 民 地 に な る。 この件 を契 機 に、 ケ ンブ リッジ以 来 の 友 人 で 同 じ議 会 に 出廷 して い た ニ コ ラ ス ・フ ェ ラー(NicholasFerrar,1592‑1637)が 、 ハ ンテ ィ ン ド ン シ ャ ー の リ トル ・ギ デ ィ ン グ の 地 に 、 宗 教 共 同 体 を 設 立 し 隠 遁 状 態 に な っ た 。 また 、 この株 式 会 社 に 出資 を して い た ハ ー バ ー トの継 父 ジ ョン ・ダ ン ヴ ァー ズ は、 一方 的 な認 可取 り消 しに怨 恨 を抱 き続 け 、後 の1649年 、チ ャー一ル ズー 世
82
の審 問 に立 ち会 った とき、 王 の死 刑 執 行 状 に署 名 し、 試 逆 者 の 一 人 とな る。 さ らに 、 ハ ー バ ー トの 弟 で 宮 廷 饗 宴 局 長 の ヘ ン リー は、 同 じ6月 に、 トマ ス ・ミ ドル トン (ThomaMiddleton)の スペ イ ン大 使 及 び ジ ェ イ ム ズ0世 の スペ イ ンよ りの政 策 を 椰 楡 した劇 『チ ェ ス ・ゲ ー ム』(A(lameatChe∬,1624)を 意 図 的 に認 可 したの で は な いか と嫌 疑 が か け られ 、取 り調 べ を受 け る21)。ハ ー バ ー トは、 ペ ンブ ル ック伯 の 引 き合 い で、 い ざ議 会 に 出廷 して み る と、 そ の 凄 ま じい まで の 勢 力 争 い と、 そ の 戦 い に敗 れ た 者 が 味 わ う悲 哀 を 目の 当 た りに して、 そ の 政 権 抗 争 に絶 望 して 、 そ の 隠 れ蓑 に 国教 会 の 執 事 にな っ たの で はな い か と思 われ る。
神 の 栄 光 に 身 を献 じる思 い の あ っ たハ ー バ ー トに とって 、 友 人 フェ ラ.̲.̲の理 想 的 な宗 教 生 活 は、 聖 職 入 りへ の呼 び 水 とな っ た はず で あ る。 だが 、 友 に は宗 教 的 理 想 郷 を維 持 す る資 産 が あ っ た。 一 方 、 ハ ー バ ー トの 暮 ら しは、 父 親 の財 産 を引 き継 い だ長 兄 エ ドワー ドか ら支 給 され る30ポ ン ドの年 金 と、 大 学 の 職 で 得 られ るわ ず か の 給 金 で 成 り立 っ て い た。 とこ ろ が 、 年 金 の 方 は エ ドワー ドが フ ラ ンス や イ タ リア に 滞 在 して い る 問、 滞 る こ とが あ った 。 長 了 相 続 制 の も と次 男 以 下 は婚 期 が 遅 れ る こ とが 多 か っ たが22)、 ハ ー バ ー トも この 時 まだ 結 婚 して い なか っ た。 国 の 要 職 に就 く わ けで もな く、 確 た る聖 職 者 に な るわ け で もな く、 宙 ぶ ら りん の 状 態 が 続 い て い た。
天 職 に就 い て い な い不 安 を訴 え、 社 会 の役 に立 ちた い との 願 望 を披 涯 した 詩 が 残 っ てい る。
...and[11wishIwereatree; 一一 一̲
Forsurethen7shouldgrow Tofruitorshade:atleastsomebirdwouldtrust
Herhouseholdtome,andIshouldbejust.(̀̀Affliction"[1]57‑60)
(木 に な る こ と が で き れ ば い い の だ が 、/そ う す れ ば 、 き っ と 生 い 茂 っ て/実 を 付 け た り 、 木 陰 が で き る 。 少 な く と も 鳥 が 信 頼 し て/巣 を か け る 、 そ う す れ ば 、 義 と な る こ と が で き よ う 。)
OhthatIwereanOrange‑tree,
Thatbusieplant!
ThenshouldIeverladenbe, Andneverwant
Somefruitforhimthatdressedme.{"Employment"[2]21‑25)
(あ あ 、 オ レ ン ジ の 木 に な り た い も の だ/あ の 働 き も の の 木 に/そ う す れ ば 、 常 に 実 を た わ わ に 付 け て/差 し 出 す こ と が で き る/私 を 育 て 上 げ て く だ さ っ た 方 に そ の 実 を 。)
ハ ー バ ー トは、 これ らの詩 で 、 社 会 の 一 構 成 員 と して 確 か な 歯 車 とな れ るな ら、 人 間界 か ら退 位 して植 物 界 に属 す 木 に な って もい い とまで 言 っ て い る。 そ れ らの 言 葉 か ら、 彼 が ジ ェ ン トリー 階 級 か ら身 を 落 と して、 あ る 田 舎 の地 方 に根 が 生 えた よ う に踏 ん張 ろ うとの決 意 の 萌 芽 を読 み取 る こ とが で きる。
1627年6月 、ハ ー バ ー トの よ き理 解 者 で バ トロ ネス で あ っ た母 親 が逝 去 。 翌7月 、 ダ ンの 葬 送 の説 教 と共 に、 ハ ー バ ー トの 追 悼 詩(MemoriaeMatrisSacrum}が 出 版 登 録 され る。 詩 の 公 刊 か ら2週 間 後 、 チ ャー ル ズー 世 よ り、 リベ ス フ ォー ドの荘 園 を 兄 エ ドワー ドを含 む3人 に賜 る。 だ が 、 この荘 園 は、 チ ャー ル ズ ー 世 よ り手 切 れ 金 の 代 わ りに 与 え られ た 土 地 で 、ハ ー バ ー トの 世 俗 的 な 出 世 は、 この 時 点 で 、 完 全 に絶 た れ た と考 え る こ とが で きる 。彼 が 属 して い た 派 閥 の中 心 者 ペ ンブ ル ック伯 は、
バ ッキ ンガ ム公 との 政 権 抗 争 に敗 れ 、急 激 に人 事 権 を失 いつ つ あ っ た。 伯 が ハ ー バ ー トの た め に、 よ うや く見 つ け る こ とが で きた の は、 邸 宅 の あ る ウ ィル トンか らさ ほ ど遠 くな い小 村 ベ マ トンの牧 師 職 で あ っ た 。 け れ ど、 そ の 職 こそ 、実 はハ ー バ ー ト が 青 年 の 頃 か ら追 い求 め て い た 最 終 目標 で あ った 、 と解 す の が ウ ォル トンの 見 方 で あ る。
ハ ー バ ー トの 「司 祭 職 」 と題 す る詩 で は、 聖 職 者 に な る こ とへ の 逡 巡 が 詠 まれ て い るが 、 そ の 理 由 は、 そ の実 務 に耐 え られ るだ け の健 康 状 態 で は な い こ とが 暗 示 さ れ て い る 。
Butthouartfire,sacredandhallow'dfire;
一84一
AndIbutearthandclay:shouldIpresume Towearthyhabit,thesevereattire Myslendercompositionsmightconsume.
Iambothfoulandbrittle;muchunfit
TodealinholyWrit.("ThePriesthood"7‑12)
(あ な た は 火 、 そ れ も 神 聖 で 、 崇 め ら れ る 火 、/だ が 、 私 は た だ の 十 塊 。 も し 私 が あ え て/僧 衣 を 身 に 纏 う こ と に で も な れ ば 、 そ の 厳 粛 な 衣 は 、/私 の き ゃ し
ゃ な 身 も 心 も 焼 き 尽 く す か も 知 れ な い 。/私 は 汚 れ て い て 脆 く 、 神 の 言 葉 を 伝 え る の に/相 応 し い と は い え な い 。)
ハ ー バ ー トは 、 ケ ン ブ リ ッ ジ の 学 生 の 頃 よ り、 癖(ague)に 悩 ま さ れ て い た23)。 ま た 、
"
rheums"と 呼 ば れ る 水 様 分 泌 物 が 粘 膜 か ら流 れ 出 る こ と も あ り 、 お そ ら く、 彼 の 命 を 奪 う こ と に な る 「肺 病 」(consumption)の 徴 候 で あ っ た 。 気 力 は 人0倍 充 実 し て い た が 、 そ れ を 支 え る 体 力 が 伴 わ な か っ た の が 、 現 状 で あ っ た と 思 わ れ る 。 病 気 の 母 を 励 ま す た め に 送 っ た 手 紙 で 、 「私 は 常 に 死 よ り も 病 を 恐 れ て い ま す 。 病 ゆ え に こ の 世 に 生 ま れ て き た 役 目 を 果 た せ て い な い か ら で す 」24)と 、 不 甲 斐 な さ を 訴 え て い る 。 だ が 、 土 塊 で あ る 人 間 、 そ れ は 卑 し い 原 料("lowlymatter"1.35;"mean
stuffe"1.38)で 造 ら れ た 素 焼 き の 器 も 同 然 で あ る が 、 神 の 巧 み な 腕 前("cunning hand"1.13)に よ っ て 、 貴 族 の 食 卓 を 飾 る 陶 磁 器 に 変 わ る と い う 。 か つ て は 、 そ の 司 祭 職 を 軽 蔑 し て い た が("wretchedearth./WhereonceIscorn'dtostand"1.
15>、 神 の 御 業 を 信 じ て 聖 職 者 に な る 覚 悟 を 決 め た 。
ハ ー バ ー ト は 、1629年3月 、35歳 の 終 わ り に 、 ダ ン ヴ ァ ー ズ 家 の 親 戚 の 娘 と 結 婚 す る 。 彼 が 人 生 の 目 標 と し た 聖 職 者 に な っ た の は 、37歳 の 時 で あ っ た 。 す な わ ち 、
1630年4月 に 教 区 牧 師(rector)と な り、9月 に は 聖 典 礼 を 執 行 す る 司 祭 に 任 命 さ れ た 。
そ の あ と3年 問 と い う 短 い 間 で あ っ た が 、 妻 ジ ェ ー ン と そ の 任 を 立 派 に 果 た し 、
1633年3月 、 肺 結 核 の た め 、40歳 を 目 前 に 逝 去 し た 。 聖 職 者 に な る と確 固 と し た 決
意 に 達 し た あ と の 、 何 と も短 い 、 皮 肉 な 最 期 で あ っ た 。
Andthenwhenaftermuchdelay, Muchwrastling,manyacombate,thisdearend,
Somuchdesxr'd,isgiv'n,totakeaway Mypowertoservethee;tounbend
Allmyabilities,mydesignesconfound...("TheCrosse"7‑‑11)
(そ し て 、 そ の あ と 、 長 々 と 待 た さ れ 、/さ ん ざ ん 努 力 し 、 格 闘 し た あ と 、 こ の 得 難 き 目 標 が/か く も 熱 望 さ れ て い た の だ が 、 叶 え ら れ る と 、/あ な た に お 仕 え す る 力 は 奪 わ れ 、 才 能 も す べ て/鈍 っ て し ま い 、 計 画 も だ め に な っ た 。)
こ の 詩 の タイ トル"TheCrosse"と は、 第 一一義 的 に は、 「十 字 架 」の こ とで あ る が 、 そ の 意 味 の他 に、 「交 差 」 も込 め られ て い る。 つ ま り、神 に 祈 り、 望 み が 叶 え られ た ときに、 ま さにそ の 時 、 神 に よって す べ て奪 わ れ て しま うとい う、 人 間 と神 との 「行 き違 い」が詠 まれ て い る。 だ が 、 人 間の 側 か ら見 た 、 そ の 「行 き違 い 」を神 慮 と達 観 し、 恭 順 に な れ る とこ ろ に、 ハ ー バ ー トの 信 仰 が あ った の だ と思 う。 神 意 の ま まに 教 区 の 人 々 に尽 くしたハ ー バ ー トは、 そ の 御 業 に よ って 「ベ マ トンの聖 人 」と仰 が れ る よ うに な った 。 ハ ー バ ー トの 聖 人 像 を後 代 に まで 決 定 的 に した の は、 先 に述 べ た よ うに ウ ォル トンで あ るが 、 兄 エ ドワー ドも弟 ジ ョー ジの 「聖 人 」と して の風 評 を 『自 叙 伝 』(1764年 死 後 出 版)で 伝 えて い る。 「弟 の ジ ョー ジ は優 れ た学 者 で ケ ンブ リッ ジ大 学 の大 学 代 表 弁 士 とな った 。(中 略)弟 は生 涯 とて も信 心 深 く、 人 々 の手 本 であ った 。何 年 もの 間 、僧 禄 を もらい 暮 らして い た ソー ル ズベ リー 界 隈 で は聖 人 と崇 め られ るほ ど、弟 の 人 生 は とて も清 く、 模 範 で あ っ た」25)。短 い なが ら、 肉 親 の 記 録 で 嘘 偽 りは ない で あ ろ う。
附 記:「 ジ ョ ー ジ ・ハ ー バ ー トの 聖 職 者 に な る こ と へ の 逡 巡 」(後)に つ づ く
註
Dテ ィル マ ン氏 が 悩 ん で い た の は 、 自 身 の 性 格 的 な 事 柄 で あ っ た 。 つ ま り、 移 り気 、 色 欲 、 激 情 、
一86一
野 心 そ れ に 謙 虚 の な さ で あ る 。"Mr.TilmanofPembrokeHallinCambridgehismotivesnot totakeorders"inHarveyH.Wood,"ASeventeenth‑CenturyManuscriptofPoemsbyDonne
andOthers,"EssaysandStudiesl6(1930):184‑86.
2)ダ ン は 法 学 院 リ ン カ ー ン ズ ・イ ン を 出 た あ と 、1596年 と97年 に 好 機 と 出 世 を 求 め て エ セ ッ ク ス 伯 に 同 行 し て 海 外 遠 征 に 加 わ っ た 。 そ の 時 、 トマ ス ・エ ジ ャ ト ン に 知 己 を 得 、 そ の 父 親 で や は り 同 名 の トマ ス ・エ ジ ャ ト ン 国 璽 尚 書 の 秘 書 と な っ た 。 こ れ で ダ ン も パ ト ロ ン を 得 て 、 昇 進 ・抜 擢 の 足 掛 か り を 掴 ん だ か に み え た が 、 彼 の 経 歴 に 破 滅 を も た ら し た の は ア ン ・モ ア と の 秘 密 結 婚 で あ っ た 。 彼 女 は 故 エ ジ ャ ト ン 夫 人 の 姪 で 、17歳 、 エ ジ ャ ト ン 家 に 同 居 し 、 ダ ン と 恋 に 落 ち た 。 こ れ を 知 っ た 花 嫁 の 父 ジ ョ ー ジ ・モ ア は 激 怒 し 、 義 理 の 兄 エ ジ ャ ト ン に ダ ン を 秘 書 の 職 か ら 解 く よ う 迫 り、 応 諾 さ れ た 。 こ の 秘 密 裡 の 結 婚 ゆ え に 、 ダ ン は 俗 世 間 で の 出 世 に 阻 ま れ 、 永 ら く後 悔 す る こ と に な っ た 。(ア ー サ ー ・F・ マ ロ ッ テ ィ 「ジ ョ ン ・ダ ン パ ト ロ ン 制 度 か ら 受 け た も の 」 舟 木 茂 子 訳 、 ガ イ ・フ ィ ッ チ ・ラ イ ト ル 、 ス テ イ0プ ン ・オ ー ゲ ル 編 著 『ル ネ サ ン ス の パ ト ロ ン 制 度 』[松 柏 社2000年]所 収 、307‑14頁)
3)1615年1月23日 、 ダ ン は 国 教 会 の 執 事 そ し て 司 祭 に 叙 品 さ れ た あ と 家 に 戻 る と 、 友 人 に そ の こ と を 知 ら せ る 手 紙 を 書 い た 。 エ ド ワ ー ド ・ハ ー バ ー ト に 宛 て た 「聖 職 者 に な っ た ま さ に そ の 日 に 」 と 記 さ れ た 手 紙 が 残 っ て い る 。(JohnDonne:CompletePoetryandSelected、Prose,ed.John
Hayward[London:TheNonesuchPress,1941]465‑6}Cf.R.G.Bald,John.Donne:ALife, ed.WesleyMilgate(Oxford:ClarendonPress,1970}302‑6.
4)"finthistimeofRetirement,he[G.Herbert]hadmanyConflictswithhimself,Whetherhe shouldreturntothepaintedpleasuresofaCourt‑life,orbetakehimselftoastudyofDivinity, andenterintoSacredOrders?"(lzaakWalton,TheLivesofJohn.Donne,SirHenryWotton, RichardHooker,GeorgeHerbertandRobertSanderson,ed.GeorgeSaintsbury[London:
OxfordUniversityPress,1966]276‑76)以 後 、 ウ ォ ル ト ン の ハ ー バ ー ト伝 の 引 用 は こ の 版 に よ る 。
5)ダ ン の 詩 の 引 用 は 、 前 掲 書(JohnDonne:CompletePoetryandSelectedPrvse,ed.John'
Hayward)に よ る 。 な お 邦 訳 は 、 湯 浅 信 之 訳 『ジ ョ ン ・ダ ン 全 詩 集 』(名 古 屋 大 学 出 版 会1996年) を 参 照 し た 。
6)ル カ 福 音 書(9章62節)に 云 く、 「鋤 に 手 を か け て か ら 後 ろ を 顧 み る 者 は 、 神 の 国 に ふ さ わ し く な い 」(『聖 書 新 共 同 訳 』[日 本 聖 書 協 会1987年])。 ハ ー バ ー ト も 、 『田 舎 牧 師 』 第2章 で 「鋤 」 を 聖 職 の 意 味 で 用 い て い る 。 「聖 職 入 りす る ま で は 、 彼 ら[チ ャ プ レ ン3は 友 人 や 話 し 相 手 と し て 迎 え 入 れ ら れ る か も 知 れ な い が 、 一 旦 聖 職 者 に な れ ば 、 鋤 を 捨 て 去 り 還 俗 す る ま で 、 聖 職 者 と し て の 役 目 を 果 た そ う と い う 気 が な け れ ば 、 ど ん な 邸 宅 に も 出 入 り す る こ と を 許 さ れ な い 。」(試 訳)
7)ダ ン は 自 ら の 叙 品 を 記 念 し て 、 ジ ョ ー ジ ・ハ ー バ ー トに 「錨 と キ リ ス ト の 印 章 と と も に 」 と い う ラ テ ン 語 の 書 簡 詩 を 送 り、 「神 の 家 族 の 一 員 と し て 受 け 入 れ ら れ る こ と に な っ て 、 旧 い 家 紋 を 捨 て 、 新 し い 紋 章 に 移 る こ と に し ま し た 」 と 述 べ て い る 。(Heyward,327;湯 浅 訳399頁)
8)ハ ー バ ー トの 詩 及 び 散 文 の 引 用 は 、TheWorksofGeorgeHerbert,ed.FE.Hutchinson(1941;
Corr.rpt.Oxford:ClarendonPress,1945)に よ る 。 な お 、 詩 の 邦 訳 に 関 し て は 、 鬼 塚 敬 一 訳
『ジ ョ ー ジ ・ハ ー バ ー ト詩 集 』(南 雲 堂1986年)、 『続 ジ ョ ー ジ ・ハ ー バ ー ト詩 集 』(南 雲 堂1997年) を 参 照 し た 。
9)1631年10月13日 付 け の ア ー サ ー ・ウ ッ ド ノ ス(ArthurWoodnoth,c.1590‑C.1650)か ら ニ コ ラ ス ・フ ェ ラ ー に 宛 て た 手 紙 に よ る と 、 ウ ッ ド ノ ス は ハ ー バ ー トの 継 父 ダ ン ヴ ァ ー ズ の も と で 働 い て い た が 、 ど う も 芽 が 出 そ う に も な く 、 転 職 の こ と で ハ ー バ ー トに 相 談 を 持 ち か け た と い う 。 翌 日 に な っ て 、 ハ ー バ ー ト は 七 項 目 に 亘 っ て ダ ン ヴ ァ ー ズ の も と に 止 ど ま る よ う 、 勧 告 し た 。 そ の 最 後 の 項 目 に 付 け 加 え て 、 ハ ー バ ー ト は 自 分 の 職 業 倫 理 を 次 の よ う に 表 し て い る 。 「生 業 を 辞 め よ う と い う 気 持 ち が 少 し で も あ る の な ら 、 捨 て 去 り な さ い 。 人 に 職 業 を 続 け る よ う に 勧 め る の は 、 怠 惰 を 防 ぐ こ と に な る か ら で す 。 何 も し な い で 無 為 な 生 活 を す る よ り 働 き な さ い 。 し か し 、 神 が 私 に 崇 高 な 考 え を お 与 え に な っ た よ う に 、 さ ら に よ い 仕 事 を 選 び そ し て 神 の 恩 寵 を 得 て 出 世 す る こ と は 、 許 容 さ れ る ば か り か 称 賛 さ れ る べ き こ と で あ り ま す 。 聖 職 者 と 役 人 の 場 合 は 別 で 、0方 は 神 の 遣 い で 、 も う 一 方 は 国 家 の 使 い で あ り 、 し た が っ て 、 主 人 の 同 意 な し に 辞 め る こ と は で き ま せ ん 。」(TheFerranPapers,ed.B.Blackstone[Cambridge:Cambridge
UniversityPress,1938]270)
10}MichaelG.Brennan,LiteraryPatronageintheEnglishRejaaissance:ThePembrokeFarraily {London:Routledge,1988)i53‑54;CristinaMalcolmson,Heart‑Work:GeorgeHerbertand theProtestantEthic(Stanford:StanfordUniversityPress,1999)46‑95;GeorgeHerbert:A LiteraryLife(NewYork:PalgraveMacmillan,2004)1‑19.
11}JohnAubrey,Aubrey'sBriefLives,ed.OliverLawsonDick(1949;Jaffrey,NewHampshire:
DavidR.Godine,1999)137.
12)TheDiariesofLadyAnneClifford,ed.D.J.H.Clifford(PhoenixMill,Gloucetershire:
Sutton,1990)88‑91.ア ン ・ク リ フ ォ ー ド夫 人 は 、1590年1月 に 第3代 カ ン バ ー ラ ン ド伯 ジ ョ ー ジ ・ ク リ フ ォ ー ド の 娘 と し て こ の 世 に 生 を 受 け る 。 幼 少 の 頃 、 詩 人 の サ ミ ュ エ ル ・ダ ニ エ ル が 家 庭 教 師 を 務 め る 。 以 後 、 シ ド ニ ー 、 ス ペ ン サ ー 、 モ ン テ ー ニ ュ 、 オ ウ ィ デ ィ ウ ス そ し て ア ウ グ ス テ ィ ヌ ス や 聖 書 な ど を 読 み あ さ る 。1609年2月 に リ チ ャ ー ド ・サ ッ ク ヴ ィ ル(す ぐ あ と ド ー セ ッ ト伯 に 就 任)に 嫁 ぐ が 、 父 の 遺 産 相 続 問 題 や 夫 の 不 倫 の た め 不 幸 な 結 婚 生 活 を 送 る 。 ド ー セ ッ ト伯 の 死 後 、 し ば ら く 寡 婦 を 通 し て い た が 、1630年6月 に 第4代 ペ ン ブ ル ッ ク 伯 フ ィ リ ッ プ ・ハ ー バ ー ト と 再 婚 す る 。 再 婚 相 手 と は 不 仲 で 、 遠 戚 に 当 た る ハ ー バ ー ト が 心 の 支 え に な っ た に 相 違 な い 。 Cf.MartinHolmes,ProudNorthernLady:LadyAnneClifford1590‑1676(1975;corn.rpt.
Chichester,WestSussex:Phillimore,1984)126‑8;andGrahamParry,TheSeventeenth Century:TheIntellectualandCulturalContextofEnglishLiterature1603‑1740(London:
Longman,1989)79‑80.
13)ハ ー バ ー トの 「パ ロ デ ィ 」 と 題 す る 詩 は 、 ペ ン ブ ル ッ ク 伯 ウ ィ リ ア ム ・ハ.̲..バ ー ト の 世 俗 的 な 詩 を 宗 教 詩 に 置 き 換 え た も の で あ る が 、 チ ュ ー ヴ が 論 証 し た よ う に 、 内 容 に 対 す る 返 歌 で は な く、
単 に メ ロ デ ィ を 借 り た 替 え 歌 で あ る 。RosemondTuve,"Sacred̀Parody'ofLovePoetry,and Herbert"inEssaysbyRosemondTuve:Spenser,Herbert,Milton,ed.ThomasP.Roche,Jr.
{Princeton,N.J.:PrincetonUniversityPress,1970}207‑49̲
14)ウ ォ ル ト ン の 『ジ ョ ン ・ダ ン 博 士 の 生 涯 』 に よ る と 、 ダ ー ラ ム の 司 教 トマ ス ・モ ー ト ン は 、2607 年 に グ ロ ス タ ー の 首 席 司 祭 に 任 命 さ れ た の を 受 け て 、 ダ ン に も 国 教 会 の 聖 職 者 に な る よ う 勧 め
た 。 と こ ろ が 、 ダ ン は 若 き 日 の 放 将 な 生 活 が 人 々 に 知 れ 渡 っ て い る こ と 、 そ し て 、 今 こ の 申 し 出 を 受 け れ ば 、 不 純 な 動 機 か ら 聖 職 に 就 く 羽 目 に な っ て し ま う こ と を 理 由 に 断 っ た と い う 。 ダ ン に は 、 神 の 栄 光 を 賛 美 す る こ と を 動 機 の 第 一 に 、 生 活 の 資 を 稼 ぐ こ と を 第 二 に し た い 、 と い う 気 持
..
ち が あ っ た ら し い 。(Walton,32‑4)さ ら に 第 三 の 理 由 と し て ヘ レ ン ・ガ ー ド ナ ー が 指 摘 す る の は 、 僧 職 禄 の 多 寡 で あ る 。 つ ま り、 他 の 職 業 と 比 べ て 、 聖 職 が 仕 事 量 の 多 さ に も か か わ ら ず 見 返 り が 少 な い こ と が 、 人 々 か ら 嫌 わ れ る 職 業 で あ る 所 以 で あ る 。(HelenGardner,commentaryto
TheDivinePoemsbyJohnDonne,(1952;rev.ed.Oxford:ClarendonPress,1978)127‑32.
15)註4)及 び"he[NicholasFerrar]shallfindinit[thislittlebook,ie.TheTemple]apzctureof themanyspiritualConflictsthathavepastbetwixtGodandmySoul,beforeIcouldsubject minetothewillofJesusmyMaster:inwhoseserviceIhavenowfoundperfectfreedom..."
(Walton,314)を 参 照 。 だ が 、 ウ ォ ル ト ン の 伝 記 を 宗 教 的 熱 意 で は な く 、 よ り 理 性 的 ・科 学 的 に 検 証 し た ノ ヴ ァ ー は 、 ウ ォ ル ト ン の 議 論 の 中 核 は 正 し い に し て も 、 「精 神 的 葛 藤 」 の 度 合 い は 誇 張 で 捏 造 に 近 い と 主 張 す る 。 な せ な ら 、 ウ ォ ル ト ン に は 、 上 流 階 級 出 身 の 田 舎 の 聖 職 者 像 を 造 り上 げ 、 聖 職 が 決 し て 卑 し い 職 業 で は な い と い う こ と を 世 間 に 知 ら し め る 意 図 が あ り、 ハ ー バ ー ト の 生 涯 を 歪 曲 し た と い う の で あ る 。(DavidNovarr,TheルfakingofWalton'sLives[Ithaca:
CornellUniversityPress,1958]301‑61)ヘ レ ン ・ガ ー ドナ ー も ノ ヴ ァ ー の 説 を 支 持 し て 、 ハ ー バ ー ト が 身 に 感 じ た 葛 藤 は 世 俗 と 聖 職 と の 間 で は な く 、 い か に し て 神 の 御 意 に 心 か ら 従 え る よ う
に な る か 、 そ の 過 程 に あ っ た と 断 じ て い る 。(HelenGardner,introductiontoThePoemsof
GeorgeHerbert[Oxfbrd=OxfordUniversityPress,1961]xvii)と こ ろ で 、 ハ ー バ ー トが 聖 職 者 に な る 決 意 を 固 め た 時 期 に 関 し て 、 ウ ォ ル ト ン は 、1625年 以 後 と し て い る 。(Walton,276‑8) そ の 時 期 を 前 後 し て 、 ハ ー バ ー トの 庇 護 者 で あ る 、 リ ッ チ モ ン ド公 、 ハ ミ ル ト ン 侯 そ し て ジ ェ イ
ム ズ ー 世 が 亡 く な っ た の を 理 由 に 挙 げ て い る 。 ヘ レ ン ・ホ ワ イ ト は 、 聖 職 入 り を 強 く希 望 し て い た 母 親 の 影 を 重 視 し 、 母 親 の 死 を 契 機 に 、 即 ち1627年6月 以 後 に 執 事 に な っ た と 考 え る 。(Helen C.White,TheMetaphysicalPoets:AStudyinReligiousExperience[NewYork:Macmillan,
19361154‑60)ハ ッ チ ン ソ ン も 、 一母 親 の 死 後 説 を 唱 え る が 、 そ の 理 由 は 、 ホ ワ イ ト と は 異 な り、
大 学 代 表 弁 士 の 職 を 強 く望 ん で い た 母 親 の 存 在 が な く な っ た か ら と 考 え る 。(F.E.Hutchinson,
Works,xxix‑xxxi)ジ ョ セ ブ ・サ マ ー ズ は 、 ハ ー バ ー トの 世 俗 的 な 出 世 の 望 み が 絶 た れ た の は 、 1623年8月8日 で 、 チ ャ ー ル ズ 皇 太 子 が ス ペ イ ン か ら 皇 女 を 連 れ ず に 帰 国 し た と き 行 な っ た 式 辞 の 内 容(ス ペ イ ン と の 戦 争 反 対)に あ る と す る 。 ハ ー バ ー トが 聖 職 入 り を 決 意 す る の は 、1625年 6月18日 か ら8月12日 ま で の 議 会 の 会 期 中 と 見 る 。 そ の 間 に ペ ン ブ ル ッ ク 伯 の 反 対 派 で あ る バ ッ
キ ン ガ ム 公 が 勢 力 を 得 る よ う に な っ て 、 人 事 を 手 中 に 収 め る の を 目 の 当 た り し た か ら だ と 考 え て い る 。(JOSephSUmmerS,Georg・eHerbert:HisReligionandArt[1954;rpt.Binghamton,N.Y.:
Medieval&RenaissanceTexts&Studies,1981]36‑48)エ イ ミ ー ・チ ャ ー ル ズ は 、1624年11 月 か12月 に ハ ー バ ー トは 世 俗 の 出 世 に 背 を 向 け た と す る が 、 当 初 か ら 聖 職 者 に な る こ と 考 え て い た と 主 張 す る 。(AmyCharles,.ALifeofGeorgeHerbert[lthaca:CornellUniversityPress,
1977]工04‑12)ダ イ ア ナ ・ベ ネ トは 、 チ ャ ー ル ズ 同 様 、1624年 を 、 ハ ー バ ー トが 聖 職 者 に な る 決 意 を し た 重 要 な 年 と 見 て 、 そ の 当 時 の 状 況 を 政 治 的 に 検 証 し た 。(DianaBenet"Herbert's
ExperienceofPoliticsandPatronagein1624,"GeorgeHerbertJournal10,nos.1and2[fall 1986/7]:33‑45;SecretaryofPraise:ThePoeticVocationofGeorgeHerbert[Columbia:
UniversityofMissouriPress,1984]6‑14}
16)MichaelC.Schoenfeldt,PrayerandPower:GeorgeHerbertandRenaissanceCourtship (Chicago:UniversityofChicagoPress,1991);JeffreyPowers‑Beck,WritingtheFlesh:The HerbertFamilyDialogue(Pittsburg:DuquesneUniversityPress,1998);Cristina
Malcolmson,Heart‑Work:GeorgeHerbertandtheProtestantEthic;GeorgeHerbert:A LiteraryLife;andRonaldW.Cooley,"Ftcllofallknowledge":GeorgeHerbert'sCountry ParsonandEarlyModernSocialDiscourse{Toronto:UniversityofTorontoPress,2004}.
17)"Formyownpart,mymeaning(dearル?other)isintheseSonnets,todeclaremyresolutionto be,thatmypoorAbilitiesinPoetry,shallbeall,andeverconsecratedtoGodsglory."(Works, 363}
1S)"YouknowSir,howIamnowsettingfootintoDivinity,toIaytheplatformofmyfuture life...itistrue(Godknows)Iamweak,yetnotso,butthateveryday,Imaysteponestep towardsmyjourniesend."(Works,364}
19}"Atwhichanswer,theKingsmil'd...forhetookhimtobetheJewelofthatUniversity."
(Walton,271)
20)"TheOratorsplace...isthefinestplaceintheUniversity,thoughnotthegainfullest;yetthat willbeabout301.peYan.butthecommodiousnessisbeyondRevenue;fortheOratorwrites alltheUniversityLetters,makealltheOrations,beittoKing,Prince,orwhatevercomesto theUniversity..."(Works,369)
21)1624年 前 後 の ハ ー バ ー ト を 取 り 巻 く 政 治 的 状 況 の 議 論 は 、 主 に 以 下 の 研 究 書 に よ る 。RobertE.
Ruigh,TheParliamentof1624:PoliticsandForeign.Policy(Cambridge,Mass.:Harvard UniversityPress,1971);CristinaMalcolmson,Heart‑Work,15‑25;T.H.Howard‑‑Hill, introductiontoAGameatClzessbyThomasMiddleton{Manchester:ManchesterUniversity Press,1993}1Q‑48.
22)LawrenceStone,TheFamily,5lexandルZαrr'α8・einEng・1ω π11500‑1800(1977;abr.ed.New York:HarperandRow,1979)40‑42.
23)マ ラ リ ア に 似 た 間 激 熱 。 原 因 は 不 明 だ が 、 一 説 に 麦 角 中 毒 症 と も さ れ る 。(メ ア リ ー ・キ ル バ ー ン ・
マ ト シ ア ン 、 荒 木 正 純 他 訳 『食 物 中 毒 と 集 団 幻 想 』[パ ピ ル ス2004年]28‑36頁 参 照)1610年
母 親 に 宛 て た 手 紙 に 、 す で に 癒 が 言 及 さ れ て い る 。"ButIfeartheheatofmylateAguebath dryedupthosesprings,bywhichScholarssay,theMusesusetotakeuptheirhabitations."
{Works,363)「 苦 悩 」(1)で は 、 瘡 は 血 管 内 に 宿 っ て い て 、 岬 き 声 を 上 げ さ せ る ほ ど の 苦 痛 を 与
え る 。̀℃onsumingaguesdwellinev'ryvein,/Andtunemybreathtogrones."("Affliction"[1]
27‑8)「 十 字 架 」 で は 、 疲 は 骨 と 魂 に 巣 く い 、 身 体 を 弱 ら せ る 。"Oneaguedwellethinmybones,
/AnotherinmysouL../1aminallaweakdisabledthing.、."("TheCrosse"13‑7)な お 、 瘡 は
家 系 的 な 病 気 で 、 兄 エ ド ワ ー ド も 、1617年 頃i四 日 ご と に 起 こ る 瘡 に 見 舞 わ れ た 。(Edward
Herbert,TheLifeofLordHerbertofClzerbury,ed.」.M.Shuttleworth[London:Oxford UniversityPress,1976]87}
24)"Ialwaiesfear'dsicknessmorethandeath,becausesicknessbathmademeunabletoperform thoseOfficesforwhichIcameintothewoad...{Works,373)Cf.NickPage,GeorgeHerbert:
APortrait(TunbridgeWells,Kent:Monarch,1993)87ff.
25)"MyBrotherGoergewassoexcellentaScholar,thathewasmadethepublicOratorofthe UniversityinCambridge...hislifewasmostholyandexemplary;insomuchthatabout Salisburywherehelivedbeneficedformanyyears,hewaslittlelessthanSainted."(Edward Herbert,TheLife,8‑9}
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