<記録> 関学アメリカンフットボールと私 (第40回
関西学院史研究会)
著者
武田 建
雑誌名
関西学院史紀要
号
21
ページ
79-111
発行年
2015-03-15
URL
http://hdl.handle.net/10236/13028
我 が 国 に ア メ リ カ ン フ ッ ト ボ ー ル が 紹 介 さ れ た の は、 1 93 4 年︵昭和 9 年︶ のことです。 宣教師ポール ・ ラッシュ とジョージ・マーシャルの二人が、早稲田、明治、立教に 来ていたアメリカ国籍の日系二世学生に呼びかけ合同練習 を行いました。そして、 11月 29日、神宮外苑競技場で東京 学生連合軍と横浜外人チームが試合をし、学生チームが 26 対 0 で勝利したのが、我が国で最初のフットボール試合だ と言われています。関西では、 1 93 5 ︵昭和 10︶年に関 西大学が、 1 9 4 0 年に同志社大学がチームを作り、その 年から関西大学リーグが始まりました。 関学にもアメリカン誕生 その翌年の 1 9 41 年 2 月に関西学院大学にもアメリカ ンフットボール部が結成されました。太平洋戦争が始まる 直前のことです。関学の先輩たちは関西大学チームの指導 を受け、仁川の川原で練習をしたと聞いています。そして、 5 月に同志社大学と初試合をしましたが、残念ながら 0 対 20で敗れたそうです。 1 9 4 5 年に太平洋戦争が終わりました。関学チームの 創設に関わった先輩たちはただちにチームの再建を目ざし ました。しかし、その道のりは平坦ではなかったようです。
関学アメ
リ
カンフットボールと私
武田
建
第
40回関西学院史研究会
︵二〇一四 ・ 六 ・ 一二︶
フットボールを知っている O B や現役が不足していました。 防具もボールもありません。一方、 1 9 4 7 年には第 1 回 甲 子 園 ボ ウ ル が 開 催 さ れ、 2 世 選 手 を 擁 す る 慶 応 は 関 西 代表の同志社に圧勝して、 ﹁フットボールはこうするのだ﹂ ということを関西勢に見せつけました。 その頃、関学チームに当時日本を占領していた米軍兵士 が来て、フットボールを教えてくれたそうです。私自身は 会ったことはありませんが、米兵コーチから習ったという プ レ ー を 先 輩 た ち が や っ て い る の を 見 た こ と が あ り ま す。 先輩たちは米兵コーチが話す英語を聞き取るのがかなり難 しかったのでしょう、 TE が短いパスを受け、 後ろから走っ て く る R B に ト ス す る プ レ ー の こ と を﹁ フ ァ ー ラ ド ﹂ と 呼んでいました。今になって考えるとフォワードパス・ラ テ ラ ル が そ ん な 具 合 に 聞 こ え た の だ と 思 い ま す。 ﹁ ゴ ー イ ング・ホスピタル﹂というプレーもありました。右を突く と見せて、その逆の左に向かって走る一種のカウンタープ レーのことです。守備の選手が関学の TB の動きに気をと られている時に、反対側から走ってきてブロックされたら、 ﹁ き っ と 病 院 行 き ね ﹂ と 言 っ て 説 明 し た の で こ ん な 名 前 が ついたのでしょう。英語の関学の復活はまだまだ前途遼遠 でした! 日 本 の 国 で は、 太 平 洋 戦 争 中 英 語 は 敵 国 の 言 葉 と し て 嫌 わ れ ま し た。 校 歌﹁ 空 の 翼 ﹂ の な か に Mastery for Service と い う 英 語 が あ る の で、 歌 わ せ て 貰 え な か っ た と 聞 い て い ま す。 同 じ 戦 時 中、 ア メ リ カ 政 府 は 人 類 学 者 の ベ ネ デ ィ ク トに 日 本 文 化に つ い て 研 究 さ せ、 そ の 成 果 を﹁ 菊 と 刀 ﹂ と い う 有 名 な 書 物 と し て 出 版 さ せ て い ま す。 こ れ は、 両 国 政 府 が﹁ 相 手 を 知 る ﹂ と い う 点 で 対 照 的 で あ っ た こ と を物語っています。 ﹁対戦相手を研究する﹂ という関学フッ ト ボ ー ル の 試 合 へ の 準 備 は、 ア メ リ カ 文 化 の 影 響 を 受 け て 育ったものだと思います。 そ れ は そ れ と し て、 現 実に 私 た ち の 先 輩 が 米 兵 か ら フ ッ ト ボ ー ル を 教 え て 貰 う 時に 、 ど れ だ け 大 き な 言 葉 の 障 害 が あ っ た か は 想 像に 難 く あ り ま せ ん。 そ れ で も、 先 輩 た ち は フ ッ ト ボ ー ル を 習 お う と、 懸 命に 努 力 し た 様 子 が こ う し た プレーの名前から垣間見ることができるのです。 シングル・ウイングバック・フォーメーション 1 9 4 8 年 4 月、 文 部 省 の 教 育 改 革 の 流 れ の な か で、 関 西 学 院 の 旧 制 中 学 部 は 新 制 高 校︵ 今 の 高 等 部 ︶に 変 わ り ま し た。 そ の 時に 豊 中、 池 田、 奈 良 と い っ た 旧 制 中 学 で タ ッ
チ フ ッ ト ボ ー ル を し て い た 有 望 選 手 た ち が、 橘 高 紀 雄 主 務のレクルーティングのお陰で続々と関西学院高等部の 3 年生に編入してきました。多くの読者には分かりにくいで しょうが、それまでの関学の教育システムでは、一番上に 3 年制の旧制大学があり、その下に 3 年制の旧制高校にあ たる予科があり、その下に 5 年制の旧制中学があったので す。ですから、多くの旧制中学の生徒に とっては新しい制 度の関学高等部に入学するということは、大学の予科に 入 学するような感覚だったと思います。さらに ﹁ややこしい﹂ ことに、こうして編入してきた高校 3 年生は高等部在学中 に大学チームに属するだけでなく、大学の公式試合に出場 することが許されていたのです。 翌 1 9 4 9 年、関学は初めて関西リーグで優勝し、第 4 回甲子園ボウルに出場することができました。旧日本軍か ら帰ってきた松本庄逸主将の温かい人柄とリー ダ ーシップ を 引 き 継 い だ 渡 辺 年 夫 主 将 は、 毎 日 練 習 の 前 か 後 に 必 ず 関学の裏にある階段へチームを連れて行き、全員で走って 上がり、降りてはまた上がる厳しい練習を繰り返しました。 こうして、温かい雰囲気のなかに厳しさが根づいたと思い ます。さらに、翌 1 9 5 0 年に は、中 ・ 高 ・ 大を一つのフッ トボールファミリーとしてまとめあげた米田満主将のリー ダ ーシップと組織力が、現在まで続く関学フットボールの 一貫教育という伝統を作り上げたと思います。 攻 撃 の シ ス テ ム は 現 在 の 関 学 チ ー ム が 多 用 し て い る ショットガンとよく似たシングル・ウイングというフォー メ ー シ ョ ン を 使 っ て い ま し た。 チ ー ム の エ ー ス で あ る T B ︵テイルバック︶は C の真後ろ 4 ヤード余の深さに 、 F B は G の後 3 ヤードに 、ブロッキングバックは G と T の間 に セットし、 TE の外側 1 ヤードで 1 ヤード下がったとこ ろに W B が位置していました。 C のスナップは今と違って、 P A T のキックの時のように 早いスナップでした。ですか ら、 C はブロックすることは難しかったのでしょう。 スナッ プ専門でした。ボールはほとんど C の真後ろにいる TB に スナップされましたが、ボールを出す角度はプレーごとに 微妙に違っていました。また、エンドアラウンドのオープ ンプレーの時には、 TB はボールを持って一度オフタック ルの穴に突っ込むように 斜め前に 向かって進み、それから 斜め後方へ下がるようなコースを走っていました。これは 関学独特のプレーだったと思います。 TB の前を走る他の RB もラインからプルしてきた G も同様なコースを走りま した。今と比べると随分単純なフットボールでした。しか し、関学の先輩たちは当時の日本のフットボールのなかで
は、最先端の攻撃をやっていたと思います。現在、関学が ライスボウルで 3 年連続対戦しているオービック・シーガ ルズが、 2 点コンバージョンによく使うショットガンから RB がボールを持って中央を突くと見せて、ラインの手前 で飛び上がりエンドゾーンにいる味方のレシーバーにボー ルを投げるプレーは、当時の関学がよく使ったプレーです。 1 9 4 9 年に初出場した甲子園ボウルでは、慶応義塾大 学と対戦し、 25対 7 の大差で初制覇をとげることができま した。この試合が近づいた頃、 関学中学部に来ていたビル ・ ポーター先生のご依頼で、彼の兄上から現在も私たちが歌 い 続 け て い る Fight on Kwansei と い う 部 歌 が 届 き、 こ の メロディーと英語の歌詞を口ずさみながら甲子園のグラウ ンドへ足を進めたことを想い出します。当時高校 3 年生で 大学部員だった私は、先輩の四角い学生帽をかぶってベン チに入り、試合のプレー・バイ・プレーの記録を書きとめ ていました。 翌 1 9 5 0 年の甲子園ボウルも慶応との対戦でした。こ の年の春、関学は T フォーメーションの早稲田と対戦、完 全に叩きつぶされました。大きく点差が開いた第 Ⅳ Q には ベンチもあきらめムードだったのでしょう、 1 年生の私を 守備の最後列に送り出しました。遠くの方から﹁これが T フォーメーションか﹂と見ていたら、一瞬の間に 敵の RB が 私 の 目 の 前 ま で 来 て い た の で す。 ﹁ ボ ー ル を 持 っ て い る は誰だ?﹂と関学の守備が右往左往している間に試合は終 わってしまいました。センターが直接 Q B にボールを手渡 すという、まったく新しい攻撃システムの出現です。秋の リーグ戦の間でも、時には仮想早稲田の攻撃をしなくては なりません。 2 年生選手は新人の時からスタートメンバー のスターたちです。 1 軍の練習相手に敵チームの攻撃をす るのは昔も今も J V と呼 ば れる 2 軍の担当です。否応なし に 非力な私が Q B をせざるを得なくなりました。でも、関 学チームのなかで T を知っている人は誰もいません。見よ う見真似でやったのです。 ところが、東京では慶応が早稲田に 逆転勝ちし、甲子園 ボウルは前年に引き続き、関学と慶応の対戦となりました。 ﹁ 早 稲 田 で な い ぞ! T で は な い ぞ ﹂ と 関 学 は 意 気 揚 々 甲 子園に駒を進め、 20対 6 で勝つことができました。 T フォーメーションってどうやるんだ? 1 9 5 1 年の冬は関学にとって、特にスカウトチームの 私にとっては、 T フォーメーションをどうやって稼働させ
るかがオフの課題でした。 1 年先輩のエース RB の徳永義 雄さんのお宅へよくお邪魔して、 T についての文献を読み ながら資料を探し求めました。こうして二人だけのフット ボール勉強会が始まりました。しかし、読むのと見るのは 大違いです。心理学でも認知理論のバンデュラは﹁百聞は 一見に しかず﹂という立場を強調しました。当時の私もそ んな心境でした。本を読んで T のシステムは多少わかって も、 Q B がセンターのお尻のどこに 手を当て、どんな具合 にボールをスナップしてもらい、どうやってそのボールを 受けるかといった初歩的なポイントは解決されていません でした。 その春また早稲田と対戦する機会がありました。今度は 多 少 T の ス カ ウ ト・ オ フ ェ ン ス も 上 手 に な っ て い た の で、 慣れていたのでしょう。 7 対 6 で早稲田に勝つことができ ました。この試合のちょっとしたハイライトは関学唯一の TD 後の P A T でボールを蹴ったことでした。キッカーは この私です。前の年の早稲田との試合でエースランナーの 徳永さんが P A T でボールを持って走り、タックルされて 選手生命を絶たれたのです。当時の P A T は走っても、投 げ て も、 蹴 っ て も、 1 点 し か 貰 え な い ル ー ル で し た。 私 は米田監督にお願いして﹁走っても、投げても、成功率は 50% に満ちません。それなら ば 、私が蹴った方が少しは確 率が高いです﹂と蹴ることをお願いして、毎日練習後ボー ルを蹴っていたのです。 試合の翌日、徳永邸に早稲田のエースランナー河西さん をお招きしました。前日、関学に破れたとはいえ早稲田も 甲子園を諦めているわけではありません。まさかいきなり ﹁ 早 稲 田 の Q B は セ ン タ ー の お 尻 の ど の 辺 に 、 ど ん な 具 合 に手を置いて、センターはどんな風にボールをスナップす るのですか?﹂とは聞けません。相手も、こちらの質問の 意図はある程度わかっているのでしょうが、そこは﹁軍の 秘密﹂ です。 なかなか答えは返ってきません。 肝心な所は ﹁俺 もよくわかんないんだよナ﹂と東京弁で誤魔化されてしま いました。ことによると河西さんは RB だから Q B がどう やってセンターのスナップを取るかといった細かいことは ご存じなかったのかもしれません。 春から始めた T のスカウト・オフェンスは 2 年生になっ た我々の学年と 1 年生の混成でした。はじめは 1 軍の練習 台として始めたこの T のチーム、シーズンが進むにつれて なかなかの代物になってきました。 Q B の肩は弱いし、走 るのも遅い。でも RB は結構進むし、それを止めようとす ると、 TE に短いパスがくるではありませんか。甲子園ボ
ウルの頃は、 3 年生のスターたちがやるシングルウイング に対して 2 軍がやる T の比重がかなり上がってきていまし た。 しかし、監督の評価という点では、まだまだ我々 T の信 頼 は 低 か っ た と 思 い ま す。 第 Ⅲ Q で 19対 0 と リ ー ド さ れ た時に、局面を打開するためか、やぶれかぶれだったのか、 T の出番が増えてきました。当時はベンチからプレーがく る の で な く、 ハ ド ル の な か で Q B が プ レ ー を 決 め て い ま した。私は大阪のアメリカ文化センターにある唯一のフッ トボールの本で読んだシリーズ・オブ・プレーズという考 え方を信じています。同じ動きのプレーを繰り返しながら、 さまざまなポイントを攻撃するという考え方です。これは システムやプレーが変わった今でも大切な作戦の組立て方 だと思います。これを多用してなんとか 19対 14まで追い上 げました。 第 Ⅳ Q も残りが半分を切っていたでしょう。 我々 T の組が呼 ば れました。今にして思え ば 私の消極的な言葉 が い け な か っ た と 思 い ま す。 グ ラ ウ ン ド へ 入 る 時 に 、﹁ 私 たちが進まなかったら、いつでもシングルウイングに代え て下さいよ﹂と監督に申し上げてしまいました。 T のチー ムは順調に進んでいましたが、途中でシングルウイングの 上級生の組が交代で入ってきました。 ﹁やれやれ、 良かった﹂ という気持ちと﹁残念、もっとプレーをしたい﹂という気 持ちもありました。このシリーズでは結局得点できません でした。残り時間は僅かです。ここは上級生にパスをお願 いする以外に手はありません。 ダ ブルリバースからのパス は成功。しかし、あと数ヤードのところでタックルされて 試合終了の笛が鳴ってしまいました。 甲子園ボウルが終わると京都で全日本学生とアメリカ軍 との試合があるので、立教を中心とした関東学生と関学中 心の関西学生が京都で合宿しました。私は仁川の我が家か らカメラを片手に立教オフェンスを見学するため京都に日 参しました。甲子園に初出場初優勝の立教は気を良くして いたのでしょう。 Q B の野村さんも RB の中沢さんも私の 質問によく答えてくれました。しかし、どうやら甲子園で 勝 っ た か ら と い っ て、 ﹁ 敵 に 塩 を 送 る こ と は な い ﹂ と 思 い 直したのでしょう。翌日から私を避けるようになりました。 1 9 5 2 年には私の 1 年上のスター選手たちは最上級生 になっていました。我々無名選手はもう 3 年生です。日本 のフットボールはシングルウイングから T へ全面的に移行 しようとしていました。関学もその流れから取り残されま いとしていたのでしょう。あれだけ上手にやれていた関学 のシングルウイングは、過去のフットボールとして捨て去
られようとしていました。 その時から 20数年後、私はノートル ダ ム大学のパーシグ エン監督から﹁ファッションと同じで、フットボールの作 戦にもサイクルがある。ファッションの世界では 10年ごと に同じようなデザインが流行する。だから、自分はこのサ イクルを先取りするために、思い切って 20年前に流行した ウイング T をやろうと思い、今でもウイング T を使ってい る デ ル ウ ェ ア 大 学 の レ イ モ ン ド 監 督 に 教 え を 請 う た の だ ﹂ と い う 話 を 聞 き ま し た。 後 に、 レ イ モ ン ド 監 督 に こ の こ とを尋ねると、 ﹁その通り。でも、それは数年前のことで、 今でも週に一度電話はあるけど、 もう儀式のようなものさ﹂ と話してくれました。 20歳 の 大 学 生 そ れ も 2 軍 の Q B に、 フ ッ ト ボ ー ル の そ んな奥深いことまでわかるはずがありません。監督がおっ し ゃ るなら ば 、もうシングルウイングはないものだと思い ました。ただ、私たち下級生はいいけど、シングルウイン グに長年慣れ親しみ、二度の学生日本一を獲得した時の中 心選手だった最上級生はそれでもいいのだろうかと思いま した。しかし、そんなことは監督にも 4 年生にも言うだけ の勇気も、知恵も、判断力も持ち合わせていませんでした。 冬の休みの間に、 1 年上の古川明さんが﹁ミズリー大学の スプリット T ﹂の本を持ってきて下さいました。攻撃ライ ンが隣との間隔を開け ば 、当然守備のラインの間隔は広く なります。そうすれ ば 攻撃ラインは穴をこじ開けるのでは なく、ただ相手に当たれ ば はじめから穴は空いているとい う考えにひかれました。しかし、スプリット T の Q B は走 る能力が要求されます。でも、私の足は遅く、身体は小さ いという致命的な欠点の持ち主でした。 私の心のなかは揺れ動いていました。立教はノートル ダ ム T を使って日本一になりました。少なくとも我々は彼ら と対戦してそのシステムを見てきました。立教は良いお手 本 に な る と 思 っ た の で す。 全 く 見 た こ と の な い シ ス テ ム を手がけるのに比べると、遙かに楽というかやりやすいで しょう。しかし、立教だけのノウハウを対戦チームの我々 が持っているとは思えませんでした。今だから告白します が、 立 教 の 知 ら な い フ ッ ト ボ ー ル を や り た い と い う 願 望 のようなものが私の中にあり、どんどんそれが頭を持ち上 げてきました。結局ミズリー大学のスプリット T をやるこ とになりました。ラインの間隔が大きくなりました。本の 通りの間隔を取ってみると今までやってきた T フォーメー ションとは随分ちがいます。練習をやっている間に、ライ ンの間隔は次第に狭くなり、気持ち ば かり開くという妥協
の 産 物 に な っ て し ま い ま し た。 し か し、 決 定 的 な 問 題 は、 Q B の私がオプションフットボールをする素質に欠けてい たことです。私の同級生に奈良高校から来た谷川福三郎が いました。身体も大きく、パスが上手で、走力もありまし た。私は彼が T の Q B に最適だと監督に進言し、また本人 にも言っていました。しかし、彼は Q B だけは絶対嫌だと 言って断わられてしまったのです。 4 年生は我々と同じス プリット T とシングルウイングの併用でした。攻守兼任が 多い当時のフットボールで、 2 つの異なる攻撃システムを 持つことは、非常に難しいことだったと思います。 1 9 5 2 年の甲子園ボウルは淋しい結果に終わりました。 立教のオークス監督にとっては最後の年で、チームはまさ に円熟期にありました。監督を日本一にして本国に返そう という気迫がみなぎっていました。関学にとって、甲子園 ボウルで初めて経験する屈辱的な内容でした。スコアこそ 0 対 20でしたが、実力的にはもっと大きな差があったと思 います。私が高等部の 2 年生の時から、フットボールを教 え、励まして下さった上級生が甲子園の勝者になれずに卒 業していく姿をみて、ただただ申し訳ないという気持ちで した。 シーズンの終わりにこんなことがありました。当時 1 月 3 日のライスボウルは神宮︵今の国立競技場︶で学生の東 西オールスター戦でした。東軍に敗れてベンチからすごす ごロッカールームへ帰る私のところへ立教のオークス監督 が近寄り﹁ケン、もっとパスを投げろ﹂と言って下さいま した。この言葉が後に私のフットボール哲学となったと思 います。 1 9 5 3 年は私たちが最上級生です。当然攻撃のシステ ム は ス タ ー ト Q B に な る 私 の 責 任 で す。 私 は 立 教 の シ ス テムをこの 2 年間スカウトチームとして経験してきました。 その長所を生かしながら、私の走力不足をカバーできると いう利点に目をつけました。そして、とっくの昔に、丸善 にノートル ダ ム T の本はオー ダ ーしておきました。 この T の攻め方は Q B がセンターからボールを貰うと同 時に、真っ直ぐ前へ突っ込んでくる RB に 1 回転してボー ルを渡すのが特徴でした。 Q B が相手に背中を見せるので すから、守備からは当然ボールが見えなくなります。 1 回 転しますからボールを渡す位置はラインから後ろに下がり ます。 RB はラインにあく穴が見やすいのは当然です。た だ、 Q B はセンターがボールをスナップする瞬間に動き始 めていないと間に合いません。これは私にとっては新しい 動きでした。この冬から春にかけて、私は毎晩我が家で母
親の鏡台の前で 1 回転する練習をしたものです。 ゴールデン・ルー キ ーたち この年の新人の多くは米田監督が中学 1 年生の時から大 事に育ててきた新制中学部第一期生でした。後にキャプテ ンになる木谷直行は 1 年ながら攻守にすぐ活躍できるライ ン で し た。 Q B の 鈴 木 智 之 は 投 げ て よ し、 走 っ て よ し の 近代 T の Q B としてあらゆる能力を持っていました。そし て、彼と私の間には池田から来た 3 年の井上周がいました。 米田監督は一番能力があり守備でセイフティを守る鈴木を、 あえて攻撃では三番手に置いて、上級生の私たちを使って 下さいました。 多士済々の 1 年生をまとめ、押さえ、チームをリードし てくれたのが、主将の太瀬重信でした。大きな身体で、す ごい脚力、どんなに 1 年生がかかってもびくともしない力 の 持 ち 主 で、 さ す が の 1 年 生 も 彼 の 言 う こ と は 素 直 に 聞 きました。副将の熱血漢中川逸良は高等部の相撲部が全国 大会に出た時に、相撲部を助けに行った逸材でした。まさ に関学パワーランナーの元祖でした。何時の年でもそうで しょうが、 学生スポーツで主将、 副将、 最上級生のリー ダ ー シップは実に大きな力を持っていると思います。 1 9 5 3 年の甲子園ボウルは 3 度目の立教との対戦でし た。 7 対 7 の膠着状態を脱しようとしていた後半、立教陣 内に攻め込みましたが、私にパスを投げる勇気がなくて手 詰まりとなり、敵陣 35ヤードあたりでもパントを選択しま した。敵陣内に入ってからのパントは私がキッカーですか らベンチから交代選手はきません。ハドルのなかで左のサ イドラインに蹴り出すと言ったものの、スクリメージにつ くと、角度的に難しいと感じました。大声で﹁真っ直ぐ蹴 るぞ﹂と叫んでゴロのパントを蹴りました。幸運にも立教 のゴール前でボールが止まりました。次の立教の攻撃をパ ントに追いやり、 1 年生の木谷がキックをブロックしてた ちまちタッチ ダ ウンに結びつけました。最終スコアは 19対 7 。 RB 中川が 3 TD の大活躍でした。 大学院生コーチ 1 9 5 4 年 3 月に私は文学部社会事業学科を卒業、恩師 の薦めで大学院に進学しました。福祉の大学院は文部省の 開設認可が下りず、教育の大学院で教育心理学を専攻する ことになりました。しかし、中学部のタッチフットボール
のコーチと大学で米田監督のお手伝いという二足の草鞋を 履いた上、大学院の勉強ですから、振り返るとどれも中途 半端だったと思います。コーチとして一番欠けていたのが、 基本練習のノウハウを知らなかったことです。 ﹁フットボー ルは紙の上に画いたプレーではなく、ブロックとタックル だ﹂とアメリカのコーチは言います。そういう基本を教え る知識と技術を持たなけれ ば 良いコーチングはできないと 思います。 1 9 5 4 年の甲子園ボウルは、 4 度目の関学と立教の顔 合わせとなりました。主将は米田先生の実弟米田豊でした。 下馬評では圧倒的に立教有利でしたが、前半の終わりに関 学は清家智光の甲子園ボウル史上最初のフィールドゴール で 3 点をリードしました。 3 年下の彼と一緒に ゴールキッ クを練習してきた私にとっては嬉しい先取得点でした。後 半いったん逆転されましたが、エースランナーに育った長 手功の大活躍によって 15対 7 で逃げ切りました。 1 9 55 年の甲子園ボウルは日本大学との間で繰り広げ られた大熱戦でした。春の交流戦では 6 対 18で敗けました が、余りその敗戦を真剣に受け止めていなかったのかもし れません。日大独特の右アンバランスといってタックルを 右側に二人並べるラインは強力で、人数が一人多い利点を 生かして二人がかりで当たってくるかと思え ば 、一人少な いサイドを横から当たるトラッププレーで前進してくるの でした。 この年の主将は平岡敏彦でした。甲子園ボウルでも春と 同じように日大のラインプレーで進まれて、関学はつねに 後手、後手にまわってしまいました。大藤努がいくつかの 独走をしてくれたお陰でなんとか 1 TD 差で食い下がって いましたが、残りは僅かを残すのみ。ここで Q B 鈴木智之 から TE 西村一朗へのロングパスでやっと同点に追いつい た時にタイムアップで敗戦を免れました。この日大のアン バランス T には私がヘッドコーチになっても悩まされ、最 後はアメリカの NFL でコーチをしていた友人からアドバ イスを貰って対策を講ずるまで、関学にとっては頭痛の種 でした。 留学 1 9 5 6 年 6 月に、私は関西学院を通して北米の教会か ら 2 年間の奨学金が与えられ、カナ ダ のトロント大学大学 院へ社会福祉の勉強に行くことになりました。私は恩師竹 内 愛 二 先 生 の 母 校 で あ る オ ハ イ オ 州 の 大 学 に 行 き た い と
思っていたのですが、アウターブリッジ院長からお呼びが か か り、 ﹁ 武 田 さ ん、 ト ロ ン ト 大 学 へ ゆ き ま し ょ う。 い い 大学です﹂という一言でカナ ダ 行きが決りました。院長室 に 行 く と、 す で に ト ロ ン ト 大 学 の 入 学 願 書 が 取 り 寄 せ ら れていて、院長自ら願書をタイプライターで書き上げて下 さったのです。院長はご退職後トロントの隣街のハミルト ンにお移りになるので、関学からの留学生が近くにいて欲 しいという隠された願望がおありだったのかもしれません。 私も留学中機会をみつけてハミルトンの教会を訪れたもの です。 カ ナ ダ の 大 学 に も フ ッ ト ボ ー ル・ チ ー ム は あ る し、 プ ロ・リーグもあります。しかし、カナ ダ のフットボールは カナディアン・フットボールといってバックスが Q B を含 め て 5 名、 三 つ の ダ ウ ン、 ダ ウ ン フ ィ ー ル ド ブ ロ ッ ク 禁 止、 RB のモーションは前でも後ろでも何人動いても O K 、 フィールドはラグビー場だから長くて広いものでした。エ ンドゾーンは馬鹿でかい。三つの ダ ウンしかなけれ ば 、 10 ヤードを獲得するにはパスかオープンプレーです。私のパ ス重視攻撃のもう一つの原因はカナ ダ のフットボールだっ たかもしれません。 この年の甲子園ボウルは負けることはないという自信が ありました。すでに紹介した木谷直行が主将、鈴木智之の Q B に代表されるように中学部からフットボール一筋組の 最終学年だったからです。母親からの手紙と新聞記事の切 り抜きで 33対 0 のスコアを見て、もっと点数がはいっても よかったのにと思ったというのが正直なところでした。私 が心配だったのは彼らが卒業した後のことでした。案の定、 その後関学は甲子園 8 連敗という苦しい時代を迎えるので した。 トロント大学からミシガン州立大学の大学院へ移った留 学生活は忙しい毎日でした。授業も大変でしたが、アメリ カの博士課程では単位をいくつ集めるかは問題ではなくて、 入 学 後 数 年 す る と 総 合 試 験 と い う の が 待 っ て い る の で す。 私はカウンセリング心理学が専攻でしたからカウンセリン グを含む臨床心理学について連続 8 時間の試験と、心理学 全般についてこれまた 8 時間の試験という二つの大きな関 門が待っていました。これに通らないと博士論文の計画書 を提出することすらできない仕組みになっています。幸い トロント大学時代からずっと一緒に勉強してきた親友がい たので、彼と予想問題と回答を作り、お互いに試験をやり あって準備しました。 ミシガン州立大学では、練習こそ見学できませんでした
が、試合は全部見に行きました。オハイオ州立大学をはじ め、ミシガン大学、ノートル ダ ム大学、南カリフォルニア 大学といった強豪チームが目の前で試合をしてくれるので す。私にとってはこんな素晴らしいフットボールの教材は ありません。もちろん、コーチを訪ね、練習を見学し、選 手のミーティングに出られれ ば いいのですが、そんなこと は無理というものです。スタンドから試合を見るだけでも、 当時のカレッジの攻撃をおおざっぱながら勉強することが できました。博士論文を提出して学位が貰えることになり ました。もうここでの勉強は終り! 大学の書籍部に行っ て、 売 っ て い る フ ッ ト ボ ー ル の 本 を 全 部 買 い 込 み ま し た。 そのなかでも、ミシガン州立大学のドーティー監督のフッ トボールの基礎練習の本とスタンフォード大学のカーティ ス監督のパス攻撃の本は米田監督のもとで、コーチをする 上で非常に役に立ちました。 6 年ぶりの日本 1 9 6 2 年 の 8 月 下 旬、 私 は 6 年 3 ヶ 月 ぶ り で 日 本 へ 帰ってきました。今では考えられないでしょうが、その頃 日本人は円をドルに換えることができない時代でした。し たがって、私は簡単に日本に帰ってくることはできなかっ た の で す。 帰 国 後 直 ぐ に 倉 吉 で 合 宿 し て い る 米 田 先 生 と チームを木谷君と一緒に訪ねました。正直なところ、米国 の大学フットボールを見慣れた目からすると、関学チーム は﹁ か 細 く ﹂ 見 え て、 こ れ で 大 丈 夫 だ ろ う か? と い う 不安が頭を持ち上げてきました。でも、スポーツの試合と いうのは、こちらがどんなに強くても、相手がもっと強け れ ば 勝つことができません。逆に、こちらに力がなくても、 相手がもっと弱けれ ば 勝つことができます。関学がどうし ても勝てなかった日大という相手をまず見ないことには対 策も立てられないと思いました。 幸い上京する機会があり、日大の試合を見に行きました。 とにかく、大きく、強く、早く、そして篠竹幹夫監督は恐 ろしく怖い人だということが分かりました。こんなチーム と甲子園でがっぷり四つに組んだら、百にひとつの勝ち目 もないと思いました。 米田先生の許可をいただいて、思い切ってポジションの 変更を実施しました。要するに、パスを受けて走れる選手 を捜して、レシーバーに持っていこうとしたのです。密か に 用 意 し た の は、 当 時 プ ロ タ イ プ と ア メ リ カ で も 呼 ば れ ていた、二人の W R を左右に広げたフォーメーションです。
パスのコースはスタンフォード大学のカーティス監督の本 のなかから、 Q B の梅田一夫が投げやすいものを選びまし た。 W R が斜めにはいってくるスラント、縦に走るフェイ ド、短いフック、 TE へのクイックパスとフラットといっ た、タイミングの早いパスで、ラインの負担をできるだけ 減らそうとしました。私のやり方を必ずしも全ての選手が 喜んだわけではなかったと思います。きっと、キャプテン の斉藤敏宏は私と選手の間の板挟みになったことでしょう。 1 96 2 年の甲子園ボウルの相手は当然日大でした。前 半、日大が見たことも聞いたこともないような、プロタイ プからのパスが面白いように決まりリードしました。しか し、 後 半 に な る と 力 の 差 が は っ き り と 現 れ ま し た。 で も、 小さく、弱い、関学が第 Ⅳ Q の終わりまでリードしていた の で す。 し か し、 終 わ っ て み れ ば 関 学 24対 28日 大 と い う スコアでした。 ﹁善戦しても、勝たなけれ ばゼ ロと同じだ﹂ と 思 う 私 と、 ﹁ パ ス を 上 手 に 使 え ば 日 大 に 対 抗 す る こ と が できる﹂と思う私が、自分の頭のなかで交錯していました。 1 963 年の甲子園では、パスだけでなく、オプション フットボールも入れた攻撃にしました。主将は伊藤忠男で した。 Q B の梅田一夫の負傷は痛かったですが、大学院時 代 に コ ー チ し た 中 学 部 で ず ば 抜 け た Q B だ っ た 勝 田 鐐 二 が怪我から復帰してきました。彼と一緒にフットボールが できる嬉しさがありました。日大は関学のパスを警戒して いるので、昨年のようにパス一辺倒では勝負になりません。 かといって、パワープレーで日大の守備ラインを突破する ことは誰が考えても無理な話でした。私は怪我もちの勝田 にボールを持って走らせるのは避けたいと思っていました が、彼はオプションをやりましょうと言ったのです。多分、 私の苦しい心の内を察してくれたのだと思います。パスと オプションで第 Ⅳ Q に 18対 14と逆転しました。しかし、日 大はショットガンという奥の手を出し、再逆転され甲子園 制覇の願いはかないませんでした。関学 18対 30日大。この 年は、私がチームの全ての責任を担っていました。敗れた コーチは自らを解任しました。 1 96 5 年の甲子園ボウルは関学対立教の顔合わせでし た。コーチでない私はスタンドから応援していました。前 半のリードで久しぶりに甲子園での勝利が近づいたと喜ん だのがいけなかったのでしょうか、結果は関学 22対 22立教 で引き分けに終わりました。そして、この試合を最後に米 田先生が監督を引退なさることを表明されました。関学の フットボールを常に日本一を目指すチームに育てて下さっ たのは、米田監督のお人柄と熱心なご指導のお陰だと思い
ます。 宣教師コーチ誕生 米田さんの後任はどうなるのだ? と思っていたら、私 に白羽の矢が飛んできました。私はマネジメントができる 人間ではないので、学生時代から親しくしていただいた徳 永義雄さんが監督としてチームの運営をして下さるなら ば 、 フットボールの現場は担当しましょうと申し上げないとい けない情況に追い込まれてしまいました。 私はフットボールのコーチングは勉強の世界と同じだと 思っています。何も準備しないで急に研究論文は書けませ ん、良い講義をすることもできません。ところが、準備期 間もなしに、急にヘッドコーチになれと言われてしまった のです。 1 96 2 年にアメリカから帰ってきた時には、北 米で見ていたフットボールとパスに関して全米一と言われ るカーティス監督の虎の巻きがありました。しかし、今回 は突然のことでしたし、何の準備もしていない時の指名で した。 春 の 練 習 が 始 ま っ た 頃、 仁 川 の 私 た ち の 住 む ア パ ー ト に ト ム・ ハ リ ス と い う 一 人 の ア メ リ カ 人 が 訪 ね て き ま し た。仁川で内科医院を開業しているチームドクターの杉本 公允先生を受診したら、とにかく﹁タケ ダ ﹂を訪ねろと言 われたというのです。話を聞くと、 4 月から関学の商学部 へ英語の教師として赴任してくる宣教師だと言います。ミ シガン州の西にあるホープカレッジでガードとラインバッ カ ー を や っ て い た そ う で す。 攻 撃 の ラ イ ン と ラ イ ン バ ッ カー・コーチ発見です。翌日からグラウンドに来て、自分 で ダ ミーに当たってブロックのやり方を見せて教えてくれ ます。授業が始まる頃には、一家で宣教師館に移ってきて くれました。奥さんのバーバラとピーターとポールそして やがて生まれたキム。我々の子どもと同じ年齢です。日曜 日には練習が終わると宣教師館の庭でチームドクターの杉 本家、コーチの木谷家の子どもも加わって、怪獣ごっこを 楽しみました。いつも、私がゴジラでした。 ハリス・コーチの指導もむなしく、 1 966 年の甲子園 は関学 12対 40日大という惨敗に終わりました。ところがハ リス先生と私は、お正月に当時東西学生オールスター戦の ライスボウルの監督とコーチの役が回ってきました。甲子 園で大敗した関学中心の関西が、大勝した日大に関東の精 鋭が加わった東軍とどうやって戦えというのでしょう? 守備のことはハリス先生に任せて、私は攻撃を考えること
も連れてきていました。この程度のゲームプランでしたが、 あ れ よ、 あ れ よ と い う 間 に 試 合 が 終 わ っ て し ま い ま し た。 大番狂わせ⋮⋮西軍の勝利でした。ポストシーズンの顔見 せ興業的なオールスター戦です。しかし、関東に勝てたと いうことは、私たちには一大朗報でした。頭を使え ば 、作 戦を練れ ば 、練習をすれ ば ﹁やれるかもしれない﹂という 希望と勇気を与えられた一戦でした。勝った瞬間一番会い たかったのは徳永監督の片腕としてチームをマネージして くれた主務の森下征夫でした。彼も私の気持ちを察してく れたのでしょう、スタンドからグランドへ飛び降りて走っ てきてくれました。 勉強の仕入れにアメリカへ 1 96 7 年はハリス先生の最後の年であることは分かっ ていました。その前に、私は夏からデトロイトへ 1 年間勉 強に行くことになっていました。ですから、春の間にチー ムを仕上げなけれ ば という焦りがあったと思います。春の 日大戦、日大主体の西宮ボウルは危ないながら勝つことが できて、少し ば かり自信をつけたチームを徳永監督とハリ ス・コーチに預けて一家をあげて出発しました。 にしました。どうせ力では勝てる相手ではないと開き直っ た心境です。当時日大は 6 対 2 の 8 メン・フロントでした。 そうだ、西軍は TE を 2 人、 W B ないし W R を 2 人、どう せ走っても大して進まないなら ば RB は一人でいい。作戦 というより﹁やけっぱち﹂でした。 パスのコースは極めて簡単。東軍が 6 人の守備ラインを 第一線に並べ、 2 人だけのラインバッカーならレシーバー のカバーは難しいだろう。もちろん、相手は 8 メン・フロ ントであるから、こちらも Q B を守るのが困難です。そこ でパスを投げないサイドの TE は、ラインに残ってプロテ クションを助けることにしました。当然、ライン上に残っ てブロックしている TE の反対側へパスを投げることが多 くなります。でも、これはオールスター戦です。今回だけ、 1 回かぎりのことだ。たまには、一人のレシーバーにフッ クやアウトを投げるようにしよう。実に、簡単なゲームプ ランでした。 負けてもともとという気楽さも幸いしたのでしょう。パ スを投げまくっているうちに、西軍リードで前半が終わっ てしまいました。後半、東軍は我々のパスを警戒してくる に違いありません。そうしたら、パスと見せて RB を走ら せよう。関学のパサー奥井捷弘以外に他大学の走れる Q B
関 西 学 院 大 学 の 教 員 と し て 恥 ず か し く な い 授 業 を や り、 学会誌に研究成果を発表し、専門書を書き、なおかつチー ムを日本一にすることなんか無茶な話だと思います。そこ で、私は良い授業をやり、強いチームを作るという二つの ことに集中することにしました。そして、数年に 1 回アメ リカに行かせてもらい、その期間は寝食もフットボールも 忘れてとは言いませんが、とにかく自分の分野の勉強に専 念することにしたのです。デトロイトは私が大学院時代に 1 年間フルタイムのインターンをしたところであり、毎週 2 回、 3 人の臨床指導者が 1 対 1 で個人指導をしてくれる という信じられないほど、レベルの高い臨床訓練を与えて く れ ま し た。 こ の 1 年 間 で 私 の 臨 床 的 な 理 解 が か な り 上 がったように思います。また、この訓練期間中、私は初め て動物実験から生まれた理論を、臨床というか実践に応用 しようとする学派の人たちと交わり影響を受けました。そ して、その後その分野の内外の研究者や臨床家と交流する ようになりました。 そして、 行動アプローチでは世界のトッ プと呼 ば れるフィラデルフィアのウォルピやミシガン大学 のトーマスといった巨人から直接教えてもらう機会に恵ま れたのです。こうして教えてもらったことを、小出しにし ながら、勉強の方はなんとかアリバイを作り、フットボー ルにうつつを抜かしていても、学部内で大きな問題になら ずに定年を迎えることができたと思います。 1 9 6 7 年 に 関 学 は や っ と 学 生 王 者 に 返 り 咲 き ま し た。 徳 永 監 督 と ハ リ ス 先 生 の 力、 キ ャ プ テ ン 瀧 悠 紀 夫 の リ ー ダ ーシップ、副将遠藤秀治以下選手のがん ば りが結集され たのでした。徳永さんからきた試合経過を書いた長い手紙 を読みながら、一人ひとりの選手の顔を思い浮かべながら 彼らのプレーをデトロイトの仮住まいで想像していました。 徳永さんとの文通は何も甲子園ボウルのことだけではあり ません。毎日の練習や試合のこと、選手一人ひとりのこと まで細かく書いて送ってきて下さいました。私も T V で見 るプロや大学の試合のことやそれから得たヒントをはじめ、 さまざまな情報を送りました。私の汚い手書きの手紙につ いて、徳永さんは﹁苦労するが、みな読めたよ﹂と言って 笑って下さったことを想い出します。 1 968 年、私たち家族は一年ぶりに帰国しました。デ トロイト滞在中に川向いにあるカナ ダ のウインザー大学が 社会福祉の大学院を立ち上げるので、はじめの数年だけで もいいから来て欲しいという勧誘を受ましたが、即座にお 断りしました。私にとってはどんな条件を持ってこられて も関学フットボールをコーチすること以上に大きな魅力は
ありませんでした。 1 968 年、日本に帰ると、関学は春の明治戦に 0 対 22 で惨敗していたことを知らされました。 8 ミリのフィルム で 繰 り 返 し そ の 試 合 を 見 ま し た。 そ れ は 見 る も 無 惨 な 関 学の姿でした。ハリス先生はもういません。しかし、前の 年 の キ ャ プ テ ン だ っ た 瀧 が 5 年 生 コ ー チ と し て 残 っ て く れました。明治のオプションプレーを止めるのは彼に﹁お 願い!﹂でした。関学の攻撃ラインは明治を圧倒する力は ありませんが、レシーバーは竹田彰夫、安部井湧助、松村 敬、野木伸二たちが、 RB はエースの三重野大輔と FB に 棚田九州男が、そして Q B には広瀬慶次郎がいました。主 将は荒井正でした。これだけのタレントを生かさない手は な い! 基 本 的 に は 左 右 に 開 い た プ ロ タ イ プ で す が、 左 右どちらかに W R を二人おくツインの体型も使ってパスを 投げまくる作戦でした。二人のバックスは縦にならべて Ⅰ フォーメーションにすれ ば Q B は真っ直ぐ下がるだけでな く、右や左に少し流れて投げるのに好都合でした。三重野 フェイクのパスもやれます。でも、それはみんな机上の作 戦に過ぎません。 甲子園で試合が始まりました、野木がフラットゾーンで パスを受けるとサイドラインに沿って、そのまま TD をし てくれました。次の攻撃はツインにして外のレシーバーは アウト、内側の安部井はコーナーへ。タッチ ダ ウン! 14 対 0 です。ベンチで飛び上がって喜んでいる私に、 TD パ スを投げて帰ってきた広瀬から﹁先生、試合はこれからで すよ!﹂とたしなめられました。まさに、その後の試合は 慶次郎の予言通りでした。最終のスコアは関学 38対 36明治。 たまたま、 関学がリードしている時に、 タイムアップになっ ただけでした。 翌 1 969 年は、私の長い大学教員生活のなかで最も苦 し い 年 だ っ た と 思 い ま す。 棚 田 九 州 男 が 4 年 生 に な っ て キャプテンでした。大学紛争のために授業もできず、研究 室 に も 入 れ ず、 練 習 に も 満 足 に 顔 も 出 せ な い、 最 悪 な 状 態でした。あまり顔を出せなくても、時には選手とフット ボールを語りあえることは、私にとって大きな幸せでした。 しかし、甲子園ボウルでは日大の守備陣に翻弄されました。 2 度ゴール前まで攻め込みながら得点できなかったことは、 攻撃のコーチとして﹁申し訳ありません﹂の一言です。 1 9 7 0 年はエースランナーの三重野キャプテンをはじ め、広瀬、野木、松村といったパスの関学を築き上げた選 手たちの最終学年でした。コーチではありませんが、社会 学 部 の 宣 教 師 の ジ ョ イ ス 一 家 は サ イ レ ン の よ う な も の を
持って甲子園ボウルへ応援に来て下さっていました。また、 応援団のバトンのお嬢さんに 数人の O B たちとお金を出し 合って、ミズノでチアリー ダ ーのユニフォームを作っても らい、甲子園ボウルで応援してもらったことを想い出しま す。かけ声はジョイス夫人に 指導していただきましたから、 英 語 が 多 く、 観 客 と チ ア リ ー ダ ー が 一 体 と な る の が 難 し かったようです。でも、念願のチアリー ダ ーの誕生でした。 このお嬢さんの中の一人が、現在日本のバトンの総元締め をしている水野啓子さんです。甲子園ボウルでは関学 34対 6 日大と前半で勝負が決まってしまいました。 1 9 7 1 年のシーズンは O B 会から休むように命じられ ま し た。 多 分、 ﹁ 怒 鳴 っ て 叱 っ て ﹂ 一 辺 倒 の 私 の コ ー チ の 仕方に対する批判があったのだろうと思います。 また、 コー チ 以 外 の O B を グ ラ ウ ン ド に 寄 せ つ け な い 私 の や り 方 は、 O B たちから喜 ば れなかったと思うのです。この 1 年間は 米国留学で習ったことを講義に取り入れ、論文や本を書く にはありがたい﹁お休み﹂でした。 1 9 7 2 年は伊角富三キャプテンの年でした。選手層が ぐんと薄くなりました。しかし、幸いなことに、高等部で 松本秋夫コーチが育てた金の卵たちが大勢入学してきまし た。 卵 を 雛 に し て 試 合 に 出 さ な け れ ば 人 数 が 足 り ま せ ん。 春 の 明 治 と の 試 合 に 勝 ち た い 一 心 で、 終 戦 直 後 ア メ リ カ 兵が先輩たちに教えてくれたフォワードパス・ラテラルを 使って明治に勝ちました。その後、私は一度もこのプレー を使ったことがありません。このパスを見ると、 当時の ﹁貧 乏﹂な時代を想い出すので嫌だったのでしょう。秋は若い 選手たちが一戦ごとに力をつけてきました。しかし、甲子 園での法政との対戦では、彼らのパワーとスピードに圧倒 され、後半玉田↓小川のパスで追いかけましたが、関学 20 対 34法政という結果に終わりました。 1 9 7 3 年の甲子園ボウルは関学 24対 7 日大というスコ アで全国制覇を果たすことができました。しかし、これま でのように甲子園で関東代表に勝つという目標だけを見つ めている時代は終わり、関西での優勝に全力を注がないと いけない状況が到来しました。リーグ戦の最終日に京大に 17対 0 と僅差で勝って、やっと甲子園ボウルに出場できま した。関学にとっては甲子園ボウルへの出場は、実に大き なチャレンジになってきたのです。この年主将は豊島良夫 でした。 1 9 7 4 年の京大戦も厳しいものでした。この頃から水 野監督ひきいる京大は関学が使っていない三人の RB を擁 するウイッシュボーン体型からのトリプルオプションを使
い始めました。私は攻撃担当のコーチでしたが、京大オプ ションを止めるには、自分たちもトリプルオプションを手 がけなくてはならないと思いました。夏の合宿でオプショ ンの上手な Q B 西村英男と FB 村田安弘にトリプルの練習 をさせました。コーチや上級生は﹁また、建ち ゃ んの臆病 風が吹いている﹂と笑いました。しかし、秋になるとこの 関学 2 軍のやるトリプルを 1 軍の守備は止めることができ なくなり、対トリプルへの意識がすっかり変わり、その結 果京大戦では苦戦しながらもなんとか止めることができた のです。甲子園では日大のパスに苦しみましたが、 DB 石 田常雄の再三の好守備に助けられ関学 28対 20日大で逃げ切 りました。主将は 1 年の時から攻守のラインで活躍してく れた小寺通嗣でした。 1 9 75 年は 3 年前の甲子園で法政に敗れた学年がもう 最 上 級 生 に な っ て い ま し た。 主 将 の 前 川 比 呂 郎 を は じ め スーパー 4 年生たちです。しかし、京大戦では第 1 プレー の小川良一へのスクリーンパスが余りにもあっけない独走 TD になった油断か、次のキックオフを返され TD をされ ると、チームに焦りがでたのでしょう、ことごとく歯車が 狂い、一時はどうなることかと心配しました。でも、最終 的には 24対 14でやっと勝つことができました。甲子園ボウ ルでは、伊角富三コーチの発案でパスの玉野正樹とトリプ ルオプションの西村と 2 人の Q B に異なる攻撃をさせまし た。オプションを予想していなかった明治に得点を重ねて、 関学 56対 7 明治という結果になりました。 1 9 7 6 年は大勢のスター選手が卒業した翌年です。主 将は伊藤文治郎でした。リーグ戦の最終日、西宮球場で Q B 宅田の率いる京大に 0 対 21で完敗し、リーグ戦 14 5 連 勝は止められてしまいました。幸い、その前節京大は関大 に破れていたので、一週間後、万博陸上競技場で甲子園出 場 校 決 定 の プ レ ー オ フ に な り ま し た。 そ れ ま で の 一 週 間、 私はスープ以外何も口にすることもできないほどの緊張状 態が続きました。マスコミは全て京大が勝つことを願って いるようでした。ところが、京大の選手が関学の練習をス パイしたことが分かり、風向きが一夜にして変わりました。 試 合 当 日 観 客 た ち の 応 援 は 明 ら か に 関 学 び い き に な っ て いました。この試合で、私は攻撃プレーの選択をアメリカ 帰りの広瀬コーチにお願いしました。広瀬コーチは最上級 生になった Q B 西村英男や、志浦康之を筆頭とするレシー バー陣の特徴を生かしたパス攻撃を展開、伊角コーチの指 揮する守備陣は京大の攻撃をシャットアウト。 13対 0 で勝 利し、甲子園に出場を果たしました。甲子園ボウルでは関
学 29対 22明治でした。 な お、 シ ー ズ ン の は じ め か ら 決 め て い た こ と で す が、 ヘッドコーチと監督を 10年間させていただいた私は、今後 関学チームを指揮する人はアメリカにフットボール留学を して本格的なコーチングを勉強した人でないと務まらない 時代が来たと感じ、このシーズンをもって伊角富三コーチ にバトンタッチしました。 現役時代、名もなき選手だった私が、 10年間甲子園ボウ ルで勝つことができなかったファイターズのヘッドコーチ や監督を務め、甲子園ボウルで 7 勝 3 敗という成績をあげ たのは奇蹟のようなことでした。選手たちはもちろん、 O B たちがコーチとして献身的に選手を指導し、私を助けて 下 さ っ た お 陰 で し た。 ま た、 ﹁ ケ ン は、 怒 鳴 っ て、 叱 っ て ば か り い る が、 彼 に や ら せ て お け ば 甲 子 園 で 勝 て る か ら ﹂ と半分あきらめの境地で私を支えて下さった O B たちにお 礼を申し上げたい。そして、フットボールの攻守について 無知な私を本場アメリカの監督やコーチが助けてくれたこ とが、そして後の関学フットボールの指導者を育ててくれ たことが、我々のチームにとって実に大きな力になってい ると心から感謝しています。 マイク・ギディングス氏との出会い 今私のコーチ人生を振り返ると、 1 96 7 年の春、実に 大きな出会いがありました。厚木基地の体育局長から電話 があり、ユタ大学の監督を講師に招き 2 日間の講習会を基 地のなかで開くのだが、日本人コーチにも参加して貰いた い。そこで通訳をしてくれないかという依頼でした。通訳 は別として私もぜひ参加したいとハリスさんと一緒に厚木 まで行きました。 2 日間通訳をしていると結構講師と親し くなります。 8 月からデトロイトに行くと言ったら、ぜひ ユタ大学によって俺の家に泊まれと誘ってくれました。 その年のクリスマス前のことです。デトロイトの仮住ま いで T V を見ていると、ユタ大学のマイク・ギディングス 監督が解任されたと言うではありませんか。アメリカのス ポーツ界ではありふれた話ですが、私が知っている唯一の 監督がクビになってしまったのです。個人的には、困った、 残念、どうしよう。そして、彼のことを思うと誠に気の毒 です。でも、私にできることは、つたない英語でお見舞い の手紙を送ることぐらいでした。 翌年の夏が近づき、 8 月の中旬には帰国だな⋮と思って い る 時、 マ イ ク か ら 手 紙 が 来 ま し た。 ﹁ サ ン フ ラ ン シ ス コ
49ers の コ ー チ を し て い る。 夏 は サ ン タ バ ー バ ラ で 合 宿 を しているから帰りに寄れ﹂と言ってくれました。彼が紹介 してくれたホテルは超豪華ホテルで、ハリウッドのスター が 泊 ま り に く る よ う な と こ ろ で す。 夕 方 49ers の 合 宿 か ら 帰 る と、 家 族 を 連 れ て マ ッ ク ド ナ ル ド か ケ ン タ ッ キ ー で ディナーでした。翌日、昼食時に監督コーチのテーブルで この話をしたら、皆さん大喜び、大笑い。合宿中、コーチ のテーブルの会話には選手たちは神経をとがらせています。 何時、誰を、解雇するかを話しあっているかもしれない時 だからです。合宿も見ました。オープン戦ではベンチに入 れて貰いました。しかし、これはただのプロチーム見物で しかなく、あまりにも関学のフットボールとその置かれて いる現実とは違いすぎました。 1 9 6 9 年 の 春、 マ イ ク か ら 手 紙 が 来 て、 6 月 に 49ers のコーチがほぼ全員で厚木基地へ講習会の講師として行く と の こ と で し た。 マ イ ク だ け で な く、 49ers の コ ー チ 全 員 と は す ご い こ と で す。 直 ぐ に 返 事 を 書 き ま し た。 ﹁ 講 習 会 が終わったら関西に来て 1 週間後にある西宮ボウルで西軍 の守備コーチをしてくれないか?﹂一銭も払えないが、ホ テルと食費だけは全部持つという内容でした。また、彼か ら 手 紙 が 来 ま し た。 ﹁ ど ん な 守 備 体 型 を 使 う の か?﹂ と い う質問です。 彼、 やる気だな! いろいろ考えましたが、 ﹁日 本のフットボールはまだラン中心で、パスを投げるチーム は関西学院だけ。ランを止めるには第 1 線と第 2 線の合計 が 8 人の方がいいように思いました。そして同時に、関学 には守備の第 1 線を守れるような大きなラインが少ないの で、できれ ば 6 人とか 5 人でなく 4 人の守備ラインと 4 人 のラインバッカーなら ば 好都合だが﹂と書きました。 ギディングス氏はやる気満々です。新幹線で新大阪駅に 着くとホテルに寄らずにそのままグラウンドへ行くと言っ て、早速 4 対 4 のシステムを説明し、守備のラインやライ ンバッカーに基本の動きと技術を教え始めました。相手は 前年度関東リーグの覇者明治中心のチームです。練習後マ イクは我が家で食事をすますと、 8 ミリのフィルムで明治 の春の試合を次々にチェックして、簡略化した分析表を作 り、そこに出た明治の攻め方の傾向をもとにして、ベンチ から守備のサインを出すと言うのです。このオールスター には当時若手 O B も出場でき、関学の守備コーチの瀧は守 備のキャプテンでもありました。ギディングスと瀧の両者 はすっかり意気投合しているようでした。試合は関西の楽 勝。試合後みんなでマイクの胴上げをしました。なお、こ の試合でのギディングス・コーチ活躍の様子をアメリカの
記者がサンフランシスコの新聞に写真つきで記事を書きま した。関学ファイターズの名前と守備キャプテン瀧のこと がアメリカの新聞に載ったのです! このオールスター戦にマイクを招いたことは大きな意味 をもちました。本場のコーチがどうやって未熟な日本選手 を指導し、何も知らない武田というコーチとタッグを組み、 相手の攻撃の分析の仕方とその対策、試合中のベンチのか らのサインと選手の起用などなど、実に多くのことを教え てくれました。そして、その決定打は、瀧コーチと一緒に 彼を伊丹空港まで送って行った時に、日大のアンバランス 対策を尋ねたことでした。今はどうやって対応しているか という質問に、瀧と﹁日大の一人多いサイドに守備のライ ンもずれてセット、ラインバッカーも一人多いサイドに寄 ります﹂ と言ったとたんに、 マイクから ﹁待て﹂ がかかった。 ﹁ 第 1 線 が 攻 撃 の 一 人 多 い サ イ ド に 寄 っ た ら、 第 2 線 は 少 ないサイドに寄らないと危ない﹂と言うのでした。なるほ ど、我々は日大のラインが一人少ないサイドで進まれてい ることが多い。コロンブスの卵とはまさにこのことでした。 その後彼はデンバー ・ ブロンコスのコーチを最後に、 コー チ 業 を や め て 自 分 で N F L つ ま り ア メ リ カ の プ ロ フ ッ ト ボールの選手の能力を評価する会社を立ち上げ、プロの全 選手をあらゆる角度から分析し、その評価表を彼と契約し ているチームに売るという仕事を始めました。これが大成 功し、彼は一躍大金持ちになりました。しかし、昔からの 友情というのは嬉しいモノです。後に私が学長をしながら 大学チームの手伝いをしていた時に、 2 度関学を尋ねてき て新しい攻撃を教えてくれ、関学の試合のビデオを彼のオ フィスに送ると、丁寧な評価とサゼ ッションを送ってくれ ました。すべて友情による無料サービスです。彼を起点に して、私の米国の大学コーチとの交わりのネットワークは どんどん広がっていきました。 チャック・ミルズ たしか 1 9 7 0 年の夏前のことです。アメリカから一通 の短い手書きの手紙がきました。差出人はユタ州立大学の チャック・ミルズと書いてありました。封を開けると、横 須賀基地の講習会に行ったついでに、万博を見物しに大阪 へ行った。しかし、余りの人の多さにびっくりして、一日 滞 在 し た だ け で 帰 っ て き て し ま っ た。 ﹁ 関 西 へ 行 っ た ら ぜ ひお前に会え﹂と言われていたのに、電話もしないで申し 訳なかった。いつの日か、今監督をしているユタ州立大学
を 日 本 に 連 れ て 行 き、 日 本 の 大 学 選 抜 軍 と 試 合 を し た い ﹂ と書いてありました。 関西の一チームの監督やコーチが取りあげられる問題で はないので、すぐ関西連盟理事長の古川明さんに相談しま し た。 ﹁ 建 ち ゃ ん、 こ れ は 絶 対 実 現 さ せ た い ね ﹂ と い う 答 えが返ってきました。古川さんの動きは慎重だが速い。す ぐに東京の連盟と連絡をとり、東京もぜひやりたいという 意 向。 今 度 は 私 が ミ ル ズ 氏 に 手 紙 を 書 く 番 で す。 ﹁ 日 本 側 の準備はできつつある、そちらはどうか?﹂ 後で聞くと、そんな簡単に返事がくるとは思ってもいな かったので、この手紙にミルズ氏はびっくりしたそうです。 そ れ も 関 西 と 関 東 の 両 連 盟 が 乗 り 気 に な っ て お り、 ﹁ い つ 来るのだ? どうせなら早く来い﹂と言われた感じだった そうです。彼は米国に進出している日本企業、日本に進出 している米国企業にたくさん手紙を書いて援助を求めまし た。 ユタ州立大学日本遠征の話は着々として実現に向かいま した。 1 9 7 1 年夏、ミルズ夫妻が来阪。とにかくアメリ カのメジャーカレッジの来日に関わる話し合いです。私は 父に頼んで昼食の場所を大阪のある料亭に用意して貰いま した。ミルズさんと親しくなってしまった今、どうしてあ んな仰々しい場所を選んだのだろうかと思うのですが、当 時 は そ の く ら い 大 き な 出 来 事 だ と 私 は 考 え た の で し ょ う。 鎖国時代に黒船がやってきた時の幕府の役人の驚きように 似ていたと苦笑しています。 私たち夫婦の役目は昼食をご馳走し、後は関西連盟の理 事長の古川明さんにバトンタッチすることでした。大阪で 全関西と試合する甲子園球場を見学し、宿舎になる新阪急 ホテルを見てお二人は上京、私たちの役目は無事終了しま した。一つ自慢話を紹介しましょう。私はチャックにこん なことを言ったようです。私たちは貴方のチームを大いに 歓迎します。しかし、全米大学体育協会︵ N C AA ︶はユ タ州立大学がシーズン後、国外へ遠征するのを必ずしも好 ま な い で し ょ う。 ﹁ 秋 の シ ー ズ ン 終 了 後、 勝 手 に 日 本 へ 遠 征し、 N C AA が認めている試合数や練習日以上にフット ボールをする機会を作ろうとしている﹂と言って、 N C A A はこの計画にストップをかけるかもしれない。そんな時 には、 ﹁ニクソン大統領に手紙を書け﹂と言ったそうです。 半年後、羽田へ迎えに行った私にミルズ監督は盛んに手を 振り、その手にあったのが、大統領から﹁ユタ州立大学が 国 際 親 善 の た め に 日 本 に 行 く こ と を 許 可 し ろ ﹂ と い う 手 紙でした。あの頭の固い全米体育協会も大統領には勝てな
かったようです。 徳永さんの奥様の実家は芦屋の豪邸である。お庭は公園 の よ う に 広 い。 彼 ら の 滞 在 中 お 宅 を 解 放 し て ク リ ス マ ス・ パーティーを開いて下さいました。遠くアメリカを離れて 日本に来た彼らにとって、忘れられない経験だったと思い ま す。 ミ ル ズ 監 督 は こ ん な ス ピ ー チ を さ れ ま し た。 ﹁ 何 年 かしたら、試合の得点は忘れられるだろう。しかし、ここ で結 ば れた友情が永遠に続くことを願っている﹂と。 甲子園での親善試合で関西の Q B は関学 O B の広瀬慶次 郎でした。後半広瀬のパスをインターセプトしたのが、卒 業と同時に横須賀基地のフットボール・コーチとして来日 したケント・ベアでした。彼はその後、カリフォルニア大 学 バ ー ク レ ー 校、 ア リ ゾ ナ 州 立 大 学、 ノ ー ト ル ダ ム 大 学、 ワシントン大学、そして今コロラド大学で助監督をしてい ます。毎年、彼はアメリカの二つの大学のコーチと選手を つれて来阪し、 7 月はじめの日米の選手が混ざったオール スター戦を助けてくれています。そして、ミルズ監督のも とでは、 広瀬慶次郎、 伊角富三、 鳥内秀晃らが数年ずつコー チの見習いをさせてもらいお世話になりました。 日本の大学フットボールの年間最優秀選手に贈るチャッ ク・ミルズ杯はミルズ監督と交わった関学を中心とする多 くのフットボール人との友情のなかから生まれたものです。 現在、彼が日本に最も近いアメリカであるハワイに住むよ うになったのは、関学 O B 鈴木智之のすすめがあったから です。今関学コーチ陣の中心である大村和輝がハワイ大学 へフットボール留学できたのも、ミルズ氏が紹介したお陰 です。奥様のバーバラさんは亡くなられましたが、そのお 骨は関学の近くにある満池谷の武田家の墓に眠っています。 チャックはユタ州立大学の後、ウェイクフォーレスト大 学、南オレゴン大学、沿岸警備隊士官学校の監督や体育局 長を歴任、現在はリタイアしていますが、彼がコーチした 全ての大学の元選手やコーチを含む大きなネットワークを 作り、絶えずお互いの間の情報を交換し、定期的に集まり、 学校やチームを越えた交流をはかっています。 その昔、我が家にきた一通の短い手紙。もしあの時、少 しの時間と手間を惜しんで、返事を出すのを怠たっていた ら、戦後初のアメリカ大学チーム日本遠征も、関学 O B た ちのフットボール留学もなかったことだろう。あの手紙に 返事を出して本当に良かったと、今しみじみ感じるのです。