中江藤樹における「自己実現過程」の研究
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(2) まえが き. 38年間の教員生活を終えて定年退職、その後2年間、市の嘱託をしながら、現職時代 にやりたかったマスロー心理学を究めることを思い立ち、本学にお世話になることになり ました。それは、マスロー心理学が新しい人間性心理学として、積極的な人間性肯定の立 場にたっていることに心から共鳴していたからです。このことは、学生時代にお世話になっ. た今は亡き岡本重雄先生が人間主義心理学会を設立され、それに縁の深い方々が今も活動 を続けられ、現在の会長で、本学名誉教授である上田吉一先生の知遇を得ることができた ことと深く関連しています。私は、上田先生の御著書によって、マスロー心理学に招き入 れられたうえに、私がさらに大学院進学の希望を申し述べたところ、大いに賛意を示され、. 本学が適当であることを御教示いただいたからです。上田先生の後継者が島崎保助教授で あるところがら、私は迷うことなく島崎ゼミに入り、島崎先生から御指導を得ることにな りました。. 一方、かねてから倫理・道徳関係に関心をもっていた私は倫理学を受講し、そこで、古 川治教授とお出会いし、「中江藤樹」の御講義を拝聴することになりました。島崎ゼミで、. 人聞性心理学、とりわけ「自己実現」概念の研究に関心のあった私としては、具体的にど んな人物を取り上げるかが大きな課題でしたが、古川教授の御講義をお聞きさしているう ちに、戦前に修身の中の人物でしか知らなかった中江藤樹が、人闇平等の普遍的な人間観 をもった庶民道徳の先駆的な人物として、まさに自己実現を求め続けていたことを知り、.
(3) この人物こそ、修士論文の研究対象にふさわしいと思うようになりました。. 修士論文のテーマは、「中江藤樹の『自己実現過程』の研究」ですが、この研究はマス ローを始めとする人間性心理学の研究と、中江藤樹に関する研究の両面が必要で、指導教 官である島崎助教授からは度々研究の困難性を指摘していただいたのですが、当初の計画 のまま推移してしまいました。心理学にも倫理学にもいずれにも不徹底の講りを免れるこ とができず、島崎先生はもちろん、古川先生にも申しわけなく思っていますが、人物の自 己実現に関する研究である以上は、こうした学際的な取り組みも出てくるのではないかと 思っています。その際、心理学と倫理学のいずれに比重をかけるかが、問題となりますが、. 心理学系統のゼミに所属している関係で、「心理学からみた中江藤樹」という形にしまし た。実質的には中江藤樹に関する専門的な研究からも多大の援助をいただきました。こう いう意味で、他コースにも拘わりませず何かと御親切に御指導と御激励とを賜りました古 川治教授には厚く御礼申し上げる次第であります。. 本論文作成に関し、御指導賜った主任指導教官の塩見邦雄教授、指導教官の島崎保助教 授はじめ、陰に陽に何かと御配意賜りました教育基礎コースの諸先生方に心から御礼申し 上げる次第です。. 平成10年12月21日 学校教育専攻教育基礎コース. M97019A 中 川 昌 信.
(4) 中江藤樹における「自己実現過程」の研究. 一目 次一 まえがき 序章 問題と研究方法…一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一1 第1節 問題の所在一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一1. 第2節 先行研究一…一…一…一一一…一一一…一一一一一一…一…一6 第3節 本研究の仮説、研究方法、研究資料一一一一一一一一一一一一一一一一8. 第1章. 中江藤樹の人格形成における「自己実現過程」一一一一一一一一一一一27. 第1節 生活空間要因連関図からの検討……一一一一一一一…一一一一一・27 第2節 人格形成の3次元分析からの検討…一一一一一一一一一一一一一一一一・34. 第3節 中江藤樹における聖人性の問題……一一一一一一一一一一一一・39. 第4節自己実現の条件としての「精神の健康性」からの検討一…48 第5節 中江藤樹と「自己実現」…一一一一一一一一一一一一一一一一一…67 第2章. 中江藤樹の思想に見る「自己実現論」一一一一一一一一一一一一一一一71. 第1節 中江藤樹の思想と朱子・陽明の思想との比較一一一…一…71 第2節中江藤樹の思想に見るr自己実現論」一…一一一一…一一一・75 第3章. 中江藤樹の思想形成における「自己実現過程」一一一一一一一一一一一89. 第1節 藤樹学から見た中江藤樹の思想形成の概要一一一一一一一一一一・89. 第2節 自己実現過程の要因分析に関する先行研究一一一一一一一…96 第3節 中江藤樹の思想上の転機に見る「自己実現過程」…一一一一一・98 第4節他の庶民倫理思想家との比較…一一一一一一…一一一…一一一一一129 終章 研究結果とその現代的意義一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一152. 第1節考察の結果一一一…………一一…一一一一一一一…一一一一一152 第2節 現代の教育課題との関わり一一一一…一一一一一一…一一一一一一一155. 註__________________________________________一一一一一一一一一一一一一一一162. 参考文献・一…一一一一…一一一…一一一一…一一一一一…一一一一一…一一一一一169. あとがき.
(5) 序章 第1節 問題の所在 1 人間性心理学の立場から. 心理学の第1勢力、第2勢力のもつ欠点ないし限界を克服し、心理学に新しい突破ロを 開こうとしたマスロー(A.H. Masloのを中心とする人間性心理学は、人間尊重と自己実現. への基礎を構築してきた、また今後もしょうとする学問である。ゴールドシュタイン(K. Goldstein)に発し、マスローによって内容を与えられた「自己実現」 (self−actualiza. tion)なる言葉も次第に多様に使われて今や日常語にまでなり、教育現場においても「夢 と希望を育てる生き方教育」の中心概念として使われている。個に応じて、自己の可能性. を最大限に発揮し、自己実現をめざし、それを求め続ける人間を育成するうえで、人間性 心理学が貢献すべき課題は大きい。そのため、特定人物の自己実現に関する研究も多く行 われている。. (1)自己実現の3特質 「自己実現」の概念は、前述のようにゴールドシュタインに始まり、マスローによって 確定された概念であるが、日常語としても広い範囲に使用されるようになった。三宅は、 「自己実現」についての学問的な諸説を整理したうえで、「自己実現」を「人間が個我を 大切にして、個性を発揮し、人間らしく生きること位に使われていることが多い」(1)、. としている。筆者は、それらの諸説を通して「自己実現」の特質として、上昇性と過程性 と超越性の3点を想定するようになった。. 上昇性とは、マスローの欲求段階説を引用するまでもなく、低次の欲求満足から、内面 からの完全な発達や可能性を実現しながら、より高次な欲求の満足に向かう方向性をもっ た動きである。. 過程性とは、島崎の、rr一時的な自己実現』であるとされる至高体験が突然のように. (1).
(6) 訪れるという報告もあるが、全生涯で最も喜びに満ちた、幸福な、恵みに満ちた瞬間も、 それまでの時間の中で数々の葛藤や格闘を通過することによって経験される」(2)という 指摘にもあるように、結果もさることながら自己実現を求め続ける過程にこそ、実質的な 意義をもつと思われる内容である。 超越性とは、伝統的な心理学的人間観を超越した、哲学的宗教的人間のもつ特性であり、. マスローが単なる健康者と区別して論じているものである。(3)殊に東洋倫理思想での「 自己実現」の概念には、「天」との合一への志向(4)があり、東洋倫理でいう自己実現過 程の分析には、この「超越性」を考慮にいれなけれぼならないと思われる。 ところで、「自己実現」の日常語として「志」を使用する人がいる。(5)今日「志」と いう言葉は死語になりつつあるといわれ、「志」の復権を求める声が強い。「志」は言い 換えれば、より高次の段階に達しようとする「上昇性」をもつ主体的意欲であると同時に、. 「途中困難あるとも、最後必勝」といった挫折を克服する過程があり、今日「志」意識の 希薄化が憂慮されている。. (2)「上昇性」と「過程性」の教育実践上の意義. 教育実践上、「上昇性」が重要であることは、上田が「自己実現は、万人に開かれた生 き方である。われわれ平凡な人闇の誰もがもつ向上心、成長への意欲そのものを自己実現 と考えることができる。多くの短所を持ちながらも一歩でも前進しようとする止むに止ま. れぬ傾向としての自己実現こそ、すでに高次の段階に達した『自己実現』よりもわれわれ すべての人間にとっていっそう身近に存在するもので貴重な資質として守り育ててゆかね ばならない」(6)と指摘している通りである。. 一方「過程幽が重要であるのも、島崎の「自己を実現していく上で出会うであろう種々 の葛藤や障碍といかに取り組んでいくかを学ぶ場の提供」(7)に実は学校教育の重大な役. 割の一つがあるからである。夢と希望をもち、志をたてる。しかし、挫折が起きる。それ に対して果敢に挑戦していく。つまり、困難を打開しながら自己実現していこうとする力 が「生きる力」であり、それを育てることは、今や最大の教育課題となっている。ある具 体的な人物を通して、その自己実現過程の実相をとらえることによって、人間性心理学の 基礎的部分の普遍性を検証しつつ、併せて現代の教育が抱えている課題に対するなんらか の教訓を得たいと思うのである。. (2).
(7) 2 倫理・道徳の立場から (1)最近の世相から. 知的に優秀だと思われている若者達による忌まわしいオウム真理教事件がまだ記憶に新 しい時、神戸で中学生による小学生殺害事件が起こった。いずれも、人間としての正常な. 判断力を到底持ち合わせていない、「神」の名をかたった凶悪な事件であった。まさに宗 教における倫理性の欠如である。オウムの若者だけではない。政治家、高級官僚、経済界 の贈収賄が常に新聞をにぎわしている。構造的腐敗とはいえ、個人の倫理感の欠如がもた らしたことはいうまでもない。政治家、官僚達だけではない。病院経営者、教育関係者等 にもモラルの低下が取りざたされており、このままでいくと一億総犯罪者にもなりかねな い。この傾向は、日本が経済的に豊かに成長した頃から顕著になったことで、モノの豊か さとは逆に心の貧しさとして表れている。今こそ、一人一人がどう生きるかという倫理を 真剣に考えなければならない。. (2)倫理・道徳の問題点. 倫理は、道徳(行為)の客観的価値であり、道徳は倫理の主体的価値である。客観的価 値としての規範が意識化されず、主体的な道徳実践が軽視されている状況は、必修にさえ なっている小・中学校における道徳の実施状況や、高校において倫理が選択として取扱わ れている状況をみても明らかである。また、成人を対象にした社会教育における倫理・道 徳に関する生涯学習への関心は低く、むしろ堅苦しいと敬遠されており、そうした研修会 への教師の参加意欲も極めて低調である。大学においても、「倫理学」を単位に関係なく 積極的に受講しようとする者は必ずしも多いとはいえない。. 学校教育における倫理・道徳の低調さは、ほぼ戦後一貫しており、戦後に育った者は、 大人でさえ、系統的な倫理学上の知識はもちろん、たとえば「身体髪膚之を父母に受く。 敢えて愈愈せざるは孝の始めなり」といった言葉は全く知らない。ある新聞で、ピアスと 細細について何人かの考えを特集していたことがあったが、「身体髪膚……」(8)の観点 からの意見は全く見当たらなかった。. (3)軽視の原因. なぜこうした事態になったのであろうか。その原因の一つは、敗戦後、わが国の帝国主 義・軍国主義の実態が、儒教道徳を思想的根拠とした天皇を頂点とする絶対主義的家族国. (3).
(8) 家にあるとみられ、昭和23年前は、儒教思想に基づいて国民の教化に大きな役割と効果 をあげた教育勅語は民主化を阻むものとしてこれを廃止する国会決議がなされたことであ る。確かに普遍的であると思われる徳目のすべてが、神格化され、皇室への忠誠が義務と. されたところに大きな問題があった。戦後は、こうした形での道徳教育ではなく、日常生 活における道徳的実践力の向上をめざした道徳学習がなされるようになったが、依然とし て過去の国家主義的倫理観としての道徳だという印象やそのことに対する警戒感が根強く 教師の間に浸透している。. 最近新しく改定された道徳の学習指導要領において登場したのが、生命に対する尊厳と 自問の力を超えたものに対する畏敬の念の強調である。しかし、一般的には、学校におい ては知育偏重の傾向が根強く、評価の対象とされない道徳は、他教科の遅れを取り戻すた めや日常の生活指導の時間として流用されがちで、深化・統合・拡充の本来の目標を十分 果たしているとはいえない。. (4)道徳的情操を高める教育を 現在、倫理・道徳が欠如し、不正が横行する世相に共通してみられる点は、不正を憎み、. 善を求める心の欠如である。不正を憎み、善を求める心は、道徳的情操とされている。人 間の力を超えたものに対する畏敬の念から生ずる心がその強力な後ろ楯になっている。筆 者が子供の頃は、神意にさからって罪を犯すことを、親は子供に「お天道さまにしかられ る」とか「手が後ろへ回るようなことは絶対にしてはいけない」と教えた。「神様を欺く ことはできない。その神様は自分の心の中にある。天知る、天に眼あり、他人を騙せても 自分は騙せない」といった素朴な宗教心さえ現在希薄になっているように思われる。 r天」の観念は、本来、中国の古代思想に由来している。 『詩経』および『五経』の倫 理観では、 「天」は天地万物の主宰者、造物者であり、人間に対してはその命を天事・天. 職として賦与し、善悪の応報を加えつつ、天職を勤行することを厳しく要求するものだと している。(9)この「天」の観念こそ、東洋倫理の特徴であり、個人と社会の関係のうえ. に、さらに超越した絶対者への畏れを設定するのである。道徳性が希薄だといわれる現代 こそ、為政者の民衆支配や、階級を固定するための儒教道徳ではなく、天命を畏れ、道徳 を尊:ぶ根源的な道徳的情操を高める学問に学ぶ必要がある。. 中江藤樹(1608∼48、以下「藤樹」という)は、わが国近世、江戸時代の官学で. (4).
(9) ある林羅山の朱子学の伝統を批判し、新しい観点から儒学を創造した。藤樹の学問は、武 士の生き方を中心に説いてはいるが、藤樹の「真己(真吾)」、すなわち真の自己実現を めざす普遍性のある人間形成の学であるとも言われ、彼自身もまた「近江聖人」の呼び声 が高い。倫理・道徳の欠如した今日、かつての聖賢の人となりや思想を研究することによっ. て教育的示唆なり、教訓が見出されれば、と筆者は強く願うのである。 藤樹は、江戸時代の固定的な身分制度の重圧の中で、 「天」の思想を普遍的な人間形成. の学に生かし、独自の学問を創造し、一村落教師として人々に尽くしたという意味で、正 に自己実現を求め続けた人物と思われる。こうした普遍的な価値ある側面は、あまり人々 に知られておらず、戦前・戦中の国家の教育政策に利用されたあげく、戦後は一部の信奉. 者を除いて反動的に人々の視界から遠ざかってしまった。藤樹が、学問の目的を人聞形成 におき、学問を行うことが身分に関係なく万人にとって普遍的価値をもっと主張した点で は極めて重要な意味をもつ思想家であることを考えるならば、今日改めてその存在意義を. 問うだけの価値は十二分にあると考える。平素、道徳教育に関心のある筆者としては、庶 民ともいえる下級武士出身者によるわが国最初の道徳教育家としての藤樹の人物とその学 問創造の過程に対する関心は大きいのである。 そこで、藤樹の人と思想を通して、自已実現概念のうち、特に「上昇性」・「過程性」・ 「超越性」にも留意しながら藤樹における「自己実現過程」を明らかにしていきたい。. (5).
(10) 第2節先行研究 1 「自己実現過程」の研究 人物に関する自己実現の研究については、従来から例えば竹内の『自己実現に成功した. 代表的日本人43人の研究』(10)があり、梶川が、1998年度人間主義心理学会で紹介 したデータベースの検索結果(11)によっても、人物の自己実現に関する研究は『内村鑑三. の自己実現と水産学研究』『網島梁川における自己実現』などがあり、本論文もそれに類 したものである。また、「自己実現過程」そのものの心理学的研究には、杉山の『生活史 分析による自己実現過程』(12)があり、これは、ゴールドシュタインの自己実現概念に基. づく要因分析として、数名の現代日本人の転機を資料にいくつかの自己実現過程を帰納的 に見出したものである。本研究の目的の一つは、主として杉山のアプローチに準拠して、 藤樹の自己実現過程を探索することによって、藤樹の思想形成を心理学的に解明しようと することである. 2 藤樹の心理学的研究 藤樹の「人」や「思想」についての倫理学的研究は戦前戦後を通じて数多くなされてお り、そのすべてをここに紹介することは不可能である。しかし、藤樹を心理学的に研究し たものは若干ある。’L理学的な研究には二通りあり、一つは藤樹を希有な心理学者とみて、. その思想を紹介したもの、今一つは、藤樹という人物を心理学的に紹介したものである。 (1)藤樹を心理学者と見た研究 これには、元日本藤樹学会長の小出哲夫の教育シリーズ(日本藤樹学会編、テレサ書店、 1966,1976,1977,1979,)の各号に、藤樹の教育思想、例えば発達段階に応じた教育、師弟. 一体の教育、胎教などのさまざまな教育原理あるいは教育心理学上の重要な示唆について、 紹介している。. また、古川は、とりわけ藤樹における後期の思想を、個別カウンセリングと深層心理学 からとらえ、「藤樹心学」を創造した精神分析家として高く評価している。(13) これも. 藤樹を心理学者と見た研究である。古川の研究は、藤樹心学を深層心理学とみた最初であ る。. (6).
(11) 本研究の目的の一つは、藤樹の思想に見る「自己実現論」であり、藤樹が人間性心理学 においても先駆的で卓越した学者であったことを立証することである。. (2)藤樹を心理学的に分析した研究 これには、すでに小出の「教育心理学から見た中江藤樹先生の発達」 (藤樹学会編『藤. 樹研究』復刊第8号所収、1960)がある。これは談話の形で、いくつかのエピソードを織 り交ぜて、藤樹のパースナリティの形成過程を述べているが、資料不足で全体像は不明で ある。これ以外に藤樹を心理学的に研究したものは見当たらない。本研究の目的の一つは、. 藤樹の人物と思想の形成過程を人間性心理学の立場から考察しようとするものである。. (7).
(12) 第3節 本研究の仮説と研究方法・資料. 1 本節の課題 第1節においては、人間性心理学と倫理・道徳の立場から藤樹の自己実現過程を取り上 げる理由、第2節においては「自己実現過程」と「藤樹の心理学的研究」に関する先行研 究について述べた。本節では、研究を進めていくうえでの仮説と研究方法について述べる。. 2 仮説および研究方法 第1節で述べた様々な情報等による藤樹についての概括的把握により、「藤樹は、その 人格と思想の両面において自己実現を求め続けた人物であった」との推察ができている。 すなわち、. (1)藤樹の思想そのものが、マスローの「自己実現」概念に匹敵するものであったであ ろうこと. (2)藤樹には、より高い人格者になろうとし、かつより深い学問に到達しようとした. 「上昇性」及び「超越性」、並びに葛藤や困難を乗り越えながらそれへの継続的な努力 を積み重ねていった「過程性」があったであろうこと などが推察されるのである。. そこで、その検証に当たって、次の3つの仮説を設定する。 ア 藤樹の人格の形成過程に「自己実現過程」が確認できるであろう。 イ 藤樹の思想そのものが「自己実現論」であることが確認できるであろう。 ウ 藤樹の思想の形成過程が「自己実現過程」であることが確認できるであろう。 研究方法として、北村は、「オールポート(AllPQrt, G. W)は、 r心理学の方法として普. 遍的一般法則を求める法則定位的研究(nomothetish)と歴史的に規定された形態をもつ特 殊的一回的な事象を明らかにする個性記述的研究(ideographish)がある』としており、. 自分としては、個性的なパーソナリティの把握には、基本的には個性記述的あるいは個人 的な形態把握方法による」(14)と述べている。筆者も北村の方法に基づく。しかし、事例. としてあげる人物は過去の人物で資料は文献に頼っており、特に性格についての具体的な. (8).
(13) 情報が不足している。そのため、人間性心理学において好ましいとされるアプローチ、す なわち当初の仮説を補強したり、修正したりしながら次第に本音の姿に接近していく、い わゆる「参加的経験」的アプローチ(ユ5)をとることはできない。文献では性格の記述より. も思想中心にならざるを得ないので、本研究においても可能な限りそのマイナス面を補強. するように文献からの読み取りに努めたい。そして特に第3章第3節及び第4節では、藤 樹並びに他の3人の倫理思想家達が、自己実現しつつある人間、超越した人間の特徴をど う兼ね備えているか、具備すべき事柄をどうクリヤしているかについて、創始者達の「人」 と「思想」の事跡を押さえながら検討する。. 人格面については、西平の生育史心理学、思想面については、杉山の生活史分析により 検討する。西平は、生育史心理学を「伝記資料を用いて、人格形成の機序を追求しようと する、教育心理学の一領域である。」(16)と定義している。西平の言う「人格」は、性格. と思想の両面を含み、全生涯の視点から人格をまるごと捉えようとする。これに対して生 活史分析は、本質的には人間一生の生活歴を対象にする点では生育史心理学と同じである が、生活史分析が主としてアイデンティティの形成や確立に関連した過程に焦点を置いて いるので、藤樹の思想形成過程の検討では、生活史分析を用いることにする。. 杉山によれば、「人生の転機に見る自己実現の要因は生活史的に存在し、a活動性の阻. 害 b揺らぎ cモデルとの出会い d交渉チャンネルの獲得・e評価枠の発見 f課題 の認識 g課題への取り組み の7段階がある」(17)という。. 本研究では、第1章の人格面の自己実現過程の分析には、西平の生育史心理学的手法に 依拠し、第3章の思想面での自己実現過程の分析には、杉山の方法に準拠しながら、江戸 初期における藤樹の「自己実現過程」を検討する。併せて、藤樹の死の37年後に誕生し、. 江戸中期に活動した石田梅岩(1685−1744)、梅岩の死の43年後に誕生し、江戸後期に活 動した二宮尊徳(1787−1856)、尊徳の死の10年後に誕生し、昭和初期に活動した広池千 九郎(ユ866−1938)等、藤樹以降に出た代表的な庶民倫理運動の創始者といわれる人物の自 己実現過程をも検討し、杉山モデルの普遍性を検討する。. 3 研究資料 本論文での基礎的資料は、藤樹の年代的な変遷を示す年譜、その他藤樹のエピソード等. (9).
(14) を記載した藤樹に関する研究書(末尾の参考文献参照)である。 年譜には、『藤樹先生年譜』(18)(以後略して単に『年譜』という)があり、尾藤は、. 「この『年譜』は、中江藤樹個人の伝記資料として良質のものであるばかりでなく、近世. 初期の時代を生きた一人の武士ないし知識人の生活記録としても興味ある内容に富んだ文 献である。」(19)と指摘しているように、藤樹研究の多くは、この『年譜』に全面的に依 拠している。. この『年譜』は、『藤樹先生全集』(20)の第5巻に所収されており、小川喜代蔵の解題 (21)から、次のことが概略分かる。. (1)年譜としては、岡田氏本、川田氏本、会津伝来本の3種がある。 (2)岡田氏本年譜は、簡単な文ながら藤樹の徳容、思索、修養、日に新たな学を記しな がら、藤樹の一生を略叙し、藤樹の藤樹たる所以を彷彿とさせる。藤樹に親しく接し、 日々その高風を仰いだ門人でなければ書けない。. (3)川田点本年譜は、安政5年編纂されたが、原拠が不明確な部分がある。 (4)会津伝来本は、史実が他と大変違っているところがある。. したがって、本論文においては、岡田氏本を基礎資料として活用する。. 第2・3章においても、岡田氏本を基礎資料とすることはもちろん、『藤樹先生全集』 に所収されている藤樹の著作、手紙、行状記、及び、藤樹に関する先行研究図書、年表 (22)を参考にした。. (10).
(15) <資料1> 中江藤樹年表. 藤樹の事跡. 主要事項. 西暦. 年号. 1600. 慶長5. 関ヶ原の戦がおこる. 1603. 8. 徳川家康将軍となる. 1608. 13. 灘の鋸. 小川村. 年齢. 1. 1613. 18. 6. 1615. 元和元. 89. P616. @ 2. 米子. 3月7日、藤の木のある家に生. 林羅山が幕府にめし. まれる。. かかえられる。. 家康キリスト教禁止 行儀がよく感心される。. 豊臣氏滅亡. c父(吉長)に連れられて、米. 家康なくなる。. 子に移る。. 初めて字を習う。. 1617. 3. 大洲 10. 祖父とともに大洲へうつる。. 渕岡山生まれる。. 平皿来1『貞控目』を学ぶ。. 1618. 4. 1619. 5. 11 風早 12. 1欄を読み、志を立てる。. 食事の時、親や祖父母や殿様の. 熊沢蕃山生まれる。. 恩を思う。 ユ620. 13 14. 67. P621. 賊(須ト)を防ぐ. 天梁和尚について詩や書を学ぶ 祖母なくなる。(63才). 1622. 8. 1623. 9. 1624. 寛永元. 15 16 17 大洲. 1625. 2. 1627. 4. 1628. 5. 1629. 6. 1632. 9. 元服する。祖父がなくなる。. 徳川家光将軍となる 京都から来た僧に1翻を受講。 昼は剣術。夜は『鰭大全1を独学。. 18 20 21 22 25. 父がなくなる。(52才). 初めて『艀』を門人達に教える。. r大学啓蒙』を著す。 小川村に母を訪ねる。. 春また母を訪ねる。この年ごろ 大野了佐が教えを受ける。. 1633. 10. 26. 正月『韓詩外伝』を読んで、母 を思う詩をつくる。. 1634. 11. 27. 脱藩して小川村に帰る。. (11). 熊沢蕃山が池田光政.
(16) 酒を売り、米を貸して暮らす。. に仕える。. 易学を勉強する。. 参勤交代制度決まる. 人々に学問を教える。 1636. 29. 13. 村人や門人が「藤樹先生」とい って親しむようになる。. 1637. 30. 14. 妻(好)を迎える。大洲からも教. 島原の乱がおこる。. えを受ける者が多くなる。 1638. 15. 1639. 16. 1640. 17. 31 32 33. 大野三佐が来て勉強する。 『藤樹規』などをつくる。. 島原の乱が終わる。 鎖国令が出る。. r管守』を毎朝読む。 『翁問答』を著す。. 1641. 34. 18. β}勢神宮に参詣する。. 熊沢蕃山が門人となる。 1642. 35. 19. r孝経啓蒙』を著す。 「愛・敬. 」について教える。長男が生ま れる。. 1644. 蘇元. 小川村. 37. 『陽明全書』を読んでいっそう. 学問に励む。このころから「致 良知」について教える。 渕岡山が門人となる。. 1645. 2. 38. 熊沢蕃山が再び池田 光政に仕える。. 1646. 3. 39. 二男が生まれる。 久子夫人がなくなる。(26才). 1647. 4. 40. 『鑑草』を著す。二度目の妻を 迎える。. 1648. 厳元. 41. 二月、藤樹書院が完成。三男が. 生まれる。8月25日なくなる 1995滋賀県高島郡安曇川町立青柳小学校編 滋賀県高島郡安曇川町教育委員会発行 『藤樹先生』より. (12).
(17) <資料2> 藤樹先生年譜 先生、諦ハ原、字ハ惟命、姓ハ中江氏、仮名ハ与右衛門、江西高嶋郡小川村ノ人也。. 考、誰某、字ハ吉次、同郡北川町ノ女ヲ婆、先生ヲ藤樹ノ下二生ズ。先生、少ヨリ出 テ予州二野、后、致仕シテ、藤樹ノ下二学ヲ講ズ。門人、従テ藤樹先生ト称ス。 慶長十有三年戌申三月七日。先生生。 元和元年乙卯。先生八歳。在小川。. 先生、僻早月生長ストイヘドモ、野鄙ノ習二染ムコトナシ。タマタマ隣家ノ児童ト馴 アソブトイヘドモ、毎二静岡シテ、カレニ相移ルコトナシ。 二年丙辰。先生九歳。在伯書。. 平年、祖父吉長公二養ル。此春、祖父、小川村二三テ、先生ヲ養ンコトヲ欲ス。父母 ソノー男ナルヲ以テ不肯。祖父、固クコレヲ強フ。故二不得巳シテ遠ク伯州二遣ス。. 先生。性、穎敏・豪逼ニシテ、幼ヨリ物二愛著セズ。故二父母ヲ離テ遠ク行トイヘド モ、一毫モ哀ムコトナク、能祖父母二三アリ。今年、始テ文字ヲ習ヒ書ス。期年ニシ テ殆ド能ス。祖父、モト文字二男シ。毎二自ラコレヲ悔ユ。故二先生ヲシテツトメテ. 文字ヲ学バシム。遠近ノ書簡皆先生ヲシテ平戸シム。人皆、ソノ幼ニシテ文字ヲ能ス ルコトヲ驚歎ス。. 三年丁巳。先生十歳。在予州。. 今年、伯州ノ大守左近公、予州大洲へ転任セラル。故二先生、祖父二従テ大洲に往。 冬、吉長公、風早郡ノ宰トナル。先生、又従イテ風早二往ク。. 祖父、先生ノタメニ師ヲ求テ、益々文字ヲ励習シム。字ヲ学ノ間ニヲイテ、庭訓・式 目等ヲ学ブ。先生、コレラ記得スルコト甚ダ速ニシテ、一字トシテ忘ルコトナシ。祖 父、悦テ以為ク、「如斯ハ壮年ノ人トイフモ及ブベカラズ」ト。常二人用逢ゴトニ、 ソノ敏ナルコトヲ称誉ス。先生ヒソカニオモヘラク「吾コレノミニ止ルベカラズ」ト. 五年己未。先生十二歳。. 一日、食スル時にツラ々オモヘラク、「此食ハ此誰が恩ゾヤ。一ツニハ父母ノ恩。ニ ツニハ祖父ノ恩。三ツニハ君ノ恩。自今以後、誓ハ、常ニコノ恩ヲ思テ忘ルベカラズ」 ト。. 六年庚申。先生十三歳。. 是年、夏五月、大二雨ブリ、五穀不実。百姓飢謹二及ントス。コレニ因テ、風早ノ民 (13).
(18) 去テ他二行ント欲スルモノ衆シ。吉長公、コレラ聞テ、力タクコレヲト・“ム。郡二牢. 人アリ。ソノ名ヲ須トト云。コノ者、クルシマト云大賊ノ徒党ニシテ形ヲ潜メ久シク コ・二住居ス。今ノ時二及デ先退ントス。彼巳二郎二行バ、百姓モ等時テ逃ントスル モノ多シ。コレニ因テ、吉長公、僕三人ヲ遣シテカレヲト・“ム。僕等、帰ルコト遅シ。. 吉長公怪ンデ、ミズカラ行テカレヲ止メ、且、法ヲ破ルコトヲ罵ル。須ト、イツワリ. 謝シテ吉長公二近ク。ソノ様体ツネナラズ。コレニ因テ吉長公、馬ヨリ下ントス。須 ト、刀ヲ抜テ走りカ・リ、吉長公ノ笠ヲ撃。吉長公ノ僕、コレラ見テ、後ヨリ須トヲ. 切。須ト、疵ヲ蒙ルトイヘドモ、勇猛強力ノモノナレバ事トモセズ、後ヲ顧テ僕ヲ逐 フ。コノ間二吉長公、鑓ヲ執テ向フ。須ト、引回リ向フ。吉長公、須トガ腹ヲ突透ス。. 須ト、ツカレナガラ鑓ヲタグリ来テ、吉長公ノ太刀ノ柄ヲトル。吉長公モ亦自ノ柄ヲ トラヘテ、互ニクム。須ト、痛手ナルニ因テ、倒テ乃死。須トガ妻、吉長公ノ足ヲト ラヘテ倒サントス。吉長公怒テ亦コレラ切。巳ニシテ自ソノ妻ヲ殺スコトヲ悔ユ。后. 須トガ子、ソノ父母ヲ殺セルラ以テ甚ダコレヲ恨ミ、常二怨ヲ報ントシテ、シバシバ 吉長公ノ家二火箭を射入ル。ソノ意オモヘラク、「家ヤケバ吉長公驚出ン。出バ則コ レラ殺ン」ト。吉長公ソノ意ヲウカ“ヒ知ル。故ニヒソカニ火箭ノ防ヲナス。然レド モソノ意乃シ尽ク賊党等を入テ、アマネク此ヲ殺ント欲ス。故二却テ門戸ヲバ開シム。. 乃シ先生二謂テ日、「今、天下三脚シテ無軍旅早事。爾ヂ、功ヲナシ名ヲ揚ベキ道ナ シ。今、幸二賊徒襲入トス。我、賊徒ヲ伐バ、爾、彼が首ヲトレ、又、家声ヲ巡テ、 賊徒ノ入ヲウカぐへ」。先生、コ・ニオイテ毎夜下家辺ヲ巡ルコト三次ニシテ不怠。 時二九月下旬、須トガ子、数人ヲイザナヒ、夜半二今入ントス。吉長公、アラカジメ 此ヲ知ル。乃僕等下思テ日、「今夜、賊徒襲入ントスルコトヲ聞ク。イヨイヨ門戸ヲ 開キ、コト穿ク内国入シメヨ。我父子マサニ彼ヲ伐ン。爾ヂ等ハ門ノ傍二三レ居テ、 鉄炮ヲ持、モシ賊逃出バ、コレヲウテ。必ズ入時ニアタツテコレヲウツコトナカレ」 ト。夜半、賊徒マサニ入ントス。僕、アハテ・先鉄炮ヲ放ツ。賊、驚テ逃グ。吉長公 此ヲ逐コト数町、遂二追及コトアタワズシテ返ル。於是、先生ヲシテ刀ヲ帯セシメ、 共二賊ヲ待ツ。先生、少モ恐ル・色ナク、李下ラバ伐ント欲スル志、面ニアラワル。 吉長公、先生ノ幼ニシテ恐ル・コトナキコトヲ喜ブ。 冬、祖父二従テ風早郡ヨリ大州二帰ル。. 七年下冷。先生十四歳。在大州。. 或時、家老大橋氏、諸士四五人相伴テ、吉長公ノ家二来リ、終夜対話ス。先生以為ラ ク「家老大身ナル人ノ物語、常人二三ナルベシ」ト。因テ壁ヲ隔テ陰レ居テ、終夜コ. レヲ聞二、何ノ取用ユベキコトナシ。先生、ツイ用心二丁テコレヲ怪ム。○嘗テ寺二 (14).
(19) 入テ手跡ヲ学ビ、ソノ暇二野・聯句ヲ学ブ。マ・佳作アリ。 八年壬戌。先生十五歳。在大州。. 秋九月二十二日。祖父吉長公、卒ス。歳七十五。. 先生、平居、僚友相応接ノ間、一ノ過失アレバ他ヲ恥、自悔。月ヲ越レドモ忘ル・コ ト不能。ソノ蓋悪ノ深如此。故塁嘗テ一物ノ遺時モ甚謹メリ。. 寛永元年甲子。先生十七歳。. 夏、医師ノ招ニヨツテ、京都ヨリ禅師来テ『論語』ヲ講ズ。此時、大州ノ風俗、武ヲ 専ラニシ、文学ヲ以テ弱也トス。故士人コレラ聞モノナシ。唯先生独リ、往テコレヲ 聞ク。蓋先生、幼ニシテ祖父母二離レ、家ヲ継、二二事フ。是等二身ヲ修、家ヲ斉へ ント欲スレドモソノ道ヲシラズ。嘗テ『大学』ノ句読ヲ習二「正心」「修心」「斉家. 等ノ語アルニヨツテ、儒学二身ヲ修メ家ヲ斉ル道アルコトヲ知ル。然ドモ教ルモノナ フシテ黙止ヌ。今、禅師来テ講ズルを幸トシテ潜二往テ是ヲ聞。『論』ノ上篇ノ講終. テ、禅師京二帰ル。先生、又師トスベキ者ナキコトヲ愁テr四書大全』ヲ求ム。然レ ドモ人ノ誹諺ヲ揮テ、昼ハ終日諸士と応接シ、毎夜深更二及デ、業トシテニ十枚ヲ見 終テ寝ヌ。ソノ三脚ザル所アレバ思テ忘レズ。夢課ノ間人アリテ示ガゴトクニシテ、 暁得スルコト多シ。先ヅ『大学大全』ヲ読コトポトンド百遍二及デ、始テ暁得ス。『 大学』通ジテ後、『語』『孟』ヲ牛馬皆通ズ。. 二年乙丑。先生十八歳。在大州。. 春正月四日、本生ノ父吉次公、死ス。享年五十二。 四年丁卯。先生二十歳。. 先生、専ラ朱学ヲ崇デ、格套ヲ以受容。是年、始テ中川貞良ノ輩、学二志シ、同志二 三輩会合シテ、 『大学』ヲ講明ス。乃聖学ヲ以テ己が任トス。. 夏、儒法ヲ以テ祖父ヲ祭ル。 五年戌辰。先生二十一歳。. 是ノ年、初学同志ノタメニ、『大学啓蒙』ヲ著ス。ソノ書モツハラ『四書大全』二従 フ。后、コレラ見テ、イマダ精カラズトシテ之ヲ破ル。. 六年門下。先生二十二歳。. 春、児玉氏二行。荒木氏、坐ニアリ。先生ノ到ヲ見テ日、「孔子殿、キタリタモフ」 (15).
(20) ト云。ソノ意ヒソ三目先生ノ学ヲ為コトヲソシル。先生日「汝ヂ、酒ニクラヒ酔力」. 対日「コレ何ノ言ゾヤ」先生ノ日「孔子ハ巳二二千年前二卒タマフ。今、我ヲ以テ孔 子トスルハ、汝、早川酔ズンバ、汝等野手ルナラン。思フニ、我ヲ以孔子トスルハ、 文学アルヲ以テカ。文ヲ学ブハ、士ノ道也。汝ガゴトキノ文盲ナルハ、是奴僕ナリ」 荒木氏遁テ日、「我、コレラ戯ル。請、子コレヲユルセ」ト云。イマダ圭角アルコト 如此。后来、徳、日二進ニシタガイ、全融和了。 四丁、イトマヲ請テ、母ヲ江西二帰省ス。. 九年壬申。先生二十五歳。. 春、暇ヲ乞テ、江州二帰省ス。ソノ意、母ヲ偶テ予陽二帰リ、定省ノ孝ヲ尽サンコト. ヲ欲ス。然レドモ、母老テ、古郷ヲ離レ遠途二趨クコトヲ欲セザルヲ以、独り予州ニ カヘル。帰路、船中ニシテ始テ曜喘ヲ患、キワメテ甚シ。. 今歳、改テ織部正二仕フ。織部正ハ大守出羽守ノ弟也。出羽守、諸士ヲ織部正二分チ 与フ。先生モ亦分付ノ中二属ス。. 十年子吉。先生二十六歳。. 春正三朔且。老母ヲ思フノ詩アリ。蓋予州二来ラザルニ因テ、ソノ定着ヲ得ザルコト ヲ歎ク。適感アルニ依テ作ス。詩ハ草稿二見タリ。. 十一年甲戌。先生二十七歳。. 冬十月、仕ヲ致シテ江州二帰ル。此ヨリ前、毎々家老佃氏二謂テ日、「母、老テ故郷 ニアリ。町君二方ヒ来ラント欲スレドモ肯ハズ。願ハ能君二奏シテ、仕ヲ致スコトヲ ユルサレンコトヲ」。佃平日、「諾。我、必能君二告サン」。然レドモ年ヲ経レドモ 果サズ。蓋シソノ意、先生ノ多才ナルヲ惜ミ、且又、三二仕テ厚禄ヲ得ント欲スルノ. 志ナランヤト疑フ故也。是ニヲイテ先生、疏ヲ作テ佃氏二捧ゲ、天二誓フノ詞ヲ以テ 他二三ノ志ナキコトヲ顕ス。ソノ文二日、 1 ほ. ヨ. ロ. ロ. コ. 巳 コ. 1今度、私、御暇辞義、言上被下候へと奇骨候付而、伝左殿・助右殿、御間1 コ. 1心肝成、種々御意見之段、恭三下候。此中も如申上下、一つには何れも如1 ロ. 1御存知、二三年以前より病者に罷成候而、次第に人なみの御奉公相つとめ; ユ. 1がたき体、迷惑に奉存候。一つには古郷の母、十年以来ひとり住を仕罷有1 き. 1候。私の外に別にはここみ可申子も無御座、又はよすがに頼可存ほどの親1 ロ. 1類も無御座候故、四五年以前より漸々飢寒に及ぶ体に御座候間、此地へつ1. (16).
(21) ロ. 1れこし可申と存たてまつり、去々年御理申上、むかひに参候処に、もはや1 ニ. 1とし野寄、又は病者に御座候而、里の内をも自由にありき申事不等成体に1 ほ. ロ. ロ. コ. 1御座候。その上、女之義に御座候へば、古郷をはなれ遠国へ参候事、たと1 1いうゑ死仕候とも成申間敷旨申候故、不及是非、すて置罷帰候。私義は、1 ほ. 1養親共に四人迄御座候へども、三人には幼少にてはなれ申、今、母一人残; ユ. ド. ロ. 1り申候。母一人子一人の事に御座候。その上、母存生之内も今八九年の体1 ユ. 1に御座三条、御暇申請、古郷へ罷帰、母存命之間は如何様のわざを成とも1 ロ. 1仕、養申し、母相学候は穿罷帰、貴様を鎚骨、めしかへされ西下候は穿、1 ロ. ほ. コ. さ. ロ. ユ. ロ. コ. ロ. ロ. ロ. コ. ロ. ユ. コ. き. コ. の. 1御奉公仕度覚悟に御座候。此外、聯存子細も無御座候。私解義に御座候条1 ;左様に思召間敷:候得共、若右申上処、当座之かりごとにて、真実は身上を1. ;もかせぎ可申望にて申上かと、御推量開成事も御座候はんと存、此中も度1. 1々如申上、左様之所存少にても御座候はゴ、立所に天道の冥罰を罷蒙、母1 1に二度あひ申間判候。か様になげき申所、旧聞届被成候而、不便に思召候1. 1は穿、能様に御取つくろひ被成、かりごとに言上仕かなど\きこしめし1 1あやまりの無御座様に被仰上、御暇下下今様に奉回外、無他事候。. 1西出謹言 1 三月七日 1. 1. 1 1 1. 置_____________応嚇噌申鵯噂r___________一噛聰陶____________囎一噂昂________」. 然ドモ猶イマダ許サズ。是二於テ巳コトヲ得ズシテ、潜二逃テ江陽二帰ル。丁年ノ禄 米、尽ク倉二野置、朋友二野貸スルノ米穀アルヲバ、器物ヲ遺シテコレラ償フ。江陽 二到ル時銀纏二三百銭アリ。祖父ノ時ヨリ使フ所ノ若党一人アリ。先生、ソノ帰トコ. ロナカランコトヲ欄テ、銀二百銭ヲ与ヘテ日、「是ヲ持、予州二帰リ、商ヲナシテ世 渡セヨ」。若党、固辞シテ日、「君ノ銀、纏二三百銭。然ヲ我国過半ヲ賜フ。我、元 ヨリー銭ヲ受ンノ志ナシ。夕・“三二従テ避難ヲナサン」ト云。先生、強テ不巳。是二 丁テ涕泣シテ銀ヲ受テ帰ル。. 冬十一月、京二在リ。先生逃去ルヲ以テ、君ノ悪ミアリテ、江陽ニアルコトヲ防レン コトヲ慮テ、京都故友ノ家二寓シテ、命を待ツコト百日余。ソノ尤メナキヲ以テ、江 陽二帰ル。百銭ノ銀ヲ以テ酒ヲ買ヒ、又、農家工売テ、ソノ息二依テ母ヲ養フ。ソノ. 後、刀ヲ売テ銀十枚ヲ得平リ。是ヲ以テ米ヲ買ヒ、農家二借ス。息ヲ取ルコト、世人 ヨリ甚減ズ。是以テニヤ、ソノ債ヲ責ズシテ来テコレヲ還納ス。. 十有二年乙亥。先生二十八歳。. 今歳、始テ笠儀二通ズ。先生日、「我、易ノ理二野テハ、心ヲ尽サバ或ハソノ万一ヲ 得ン。篁善二於ハ、ソノ伝ヲ得ズンバ能セジ」ト。野川於テ、京師二行テ易ノ講師ヲ. (17).
(22) 求ム。一人ヲ得タリ。日、「講ジ終テ后、銀数枚ヲ出サバ講ン」ト云。先生、元ヨリ. 家清貧ナルヲ以テ、止ム。又、一人ヲ得タリ。日、「講、終ルマデ、一日モ他二行ク コトナクンバ、講ズルコトヲ得ン」。先生日、「何ノ故ゾ」。日、「此ヨリ先、イマ ダ講ノ半二及ズシテ逃去、却テ是非ヲ議スルモノアリ。我、此二野タリ。故云爾」。. 先生以為ラク、「是非ヲ褒財セザルコトハ云二子ズトイヘドモ、一日モ他二往ザルコ トヲ 約シ難シ」トシテ、又止ヌ。是二巴テ易書ヲ求ルニ、始テr啓蒙』ヲ得タリ。 江州二帰テ後、此熟読参考シテソノ笠儀二通ズ。. 先生、嘗日、「予、予州ヨリ帰テ后、少ノ閑暇アレバ眠り臥テ、ヨク寝ルコトー年余 此頃年、心常二人聞世二放在シテ、精神ヲ播弄スルが故ナリ。予州二三シトキ、夜ル 寝テ後、人ノ呼コトー声ニシテ醒、或ハ足音ヲ聞テモ覚ム。故二以為ク、心明ニシテ ポトンド「寝テ不 」者二三、ト。今コレラ思フニ支 粋持二拘攣スルが故ナリ」. 十有三年二子。先生二十九歳。在江州。. 秋、先生、京二行。先生、池田町ト元ヨリ友タリ。此等、池田氏、筑州ヨリ二二来ル 先生モ亦行テ会ス。又、始テ嶋川子二逢フ。二二於テ易ヲ談論ス。月ヲ閲テ帰ル。此 ヨリ后、終身マデ洛二不行。○是年、小川覚、予州ヨリ来テ学ヲ問フ。先生、送行ノ 詩アリ。. 十四年丁丁。先生三十歳。. 丁年、高橋氏ノ女ヲ婁ル。蓋シ此時、先生イマダ格法二二ム。故二「三十而開室」ノ 法ヲ執レリ。ソノ女、容見甚醜シ。先生ノ母、コレラ憂ヘテ、出ント欲スルコトアマ タ・ビ。然レドモ先生、固ク辞ス。容色醜シトイヘドモ、性質甚聡明ニシテ、心ヲ用 ユルコト貞シ。先生、常二諸門人二会シテ、夜半二過、或ハ五更二及デ後、閨二入レ ドモ、十年ノ間、二二先生二先テ寝ズ。居常、小事トイヘドモ、先生ノ命ヲ不受バ不 行。○三年、池田氏、来テ学ヲ問。送行ノ詩アリ。. 十有五年三寅。先生三十一歳。. 今年、始テ谷川寅・落合左兄弟、来テ業ヲ門ニウク。又、大野了左ト云者アリ。彼父 先生ト親ク友タリ。了左、嫡子ナリトイヘドモ、稟質極テ愚魯鈍昧ニシテ、興業継二 足ザルヲ以、父嘗テ賎業ヲ営シメンコトヲ計。平削コレラ憂テ、先生二来テ日、「我 医トナラント欲ス。願ハ医書ノ句読ヲ教ヨ」。先生、ソノ志ヲ欄テ、授テ『大成論』. ヲヨマシム。先二三句ヲ教ルコトニ一遍バカリ、巳ヨリ申二及デ漸ク記ス。食二退ツ テ后、コレラ読二皆忘了ル。又来テコレヲ習コト百早舟ニシテ、始記得ス。コレヨリ. (18).
(23) 以后、日二来テ習フコト年ヲフ。先生江陽二帰二依テ、今年来テ医ヲ学ブ。先生、ソ ノ医術ヲ暁得シガタキヲ以テ、r万骨』ヲ作テコレ門下ケ、又コレラ講ジテ、ソノ議 二通ゼシム。后、医ヲ以テ世ヲ渡り、数ロヲ養フ四足レリ。先生嘗テ目、「我、カレ ニ教フトイヘドモ、彼、二七ズンバアタハジ。カレ甚愚昧ナリトイヘドモ、ソノ励勉 ノカバ下酒ナリ。況や了左が如クナラザル者ハ、ソノ勉ムル所ヲ知ルベシ」。 春、中川貞良、与州ヨリ来テ学ヲ問フ。秋、吉田氏、来教ヲ受ク。先生、ミナ送行ノ 詩アリ。. 夏、『馬丁図説』並二『原人』ヲ著ス。此ヨリ前、専ラ四書ヲ読テ、堅ク三法ヲ守ル ソノ意、専ラ聖人ノ典要格式等、逐一二受持セント欲ス。然レドモ聞々時二合ハズシ. テ滞碍、行ガタキヲ以テ、疑テ以為ラク、「聖人の道、カクノゴトクナラバ、今ノ世 二在テ、吾輩ノ及ブ処ニアラズ」ト。是二於テ、五経ヲ取テ熟読スルニ、触発感得ア リ二二『持敬図説』並二r原人』ヲ作為シテ、同志二示ス。此ヲ行フコト数年。然レ ドモ行ハレザル処多シテ、甚ダ人情二野リ物理二野フ。故二疑止ムコトアタワズ。. 十有六年己卯。先生三十二歳。 春、 『藤樹規』並二『学舎座右銘』ヲ作テ、諸生二子ス。. 三月、山田権、三州ヨリ来テ医ヲ学ブ。 夏四月、中川熊、与州ヨリ来テ業ヲ受ク。. 夏、r小学』ヲ講ズ。明年ノ冬二至テ終ル。諸生、専ラ格套ヲ守ル。 夏、諸生トモニ竹生嶋二遊ブ。興二乗ジテ詩ヲ賦ス。 秋、 r論語』ヲ講ズ。 「郷党」ノ篇二至テ、大二感得触発アリ。是二於テr論語』ノ. 解ヲ作ント欲ス。先「郷党」ノ篇ヨリ起テ、「先進」ノニ三章二至ル。病苦ニサヘラ レテ果サズ。后、コノ解ヲ以テ心二合ザル処多シトス。. 十七年雪男。先生三十三歳。. 夏、 r孝経』ヲ読デ、愈味深長ナルコトヲ覚フ。コレヨリ毎朝拝諦ス。○今歳、 『性. 理会通』ヲ読ミ、発明二男ジテ、毎月一日、斎戒シ太乙神ヲ祭ル。蓋シ古、天子下天 ヲ祭、土庶人ハ天ヲ祭ルノ礼ナシ。此祭ヲ以テ士庶人天ヲ祭ルノ事トス。是ヲ以テ此 ヲ祭テ怠ラズ。後チ、妻ノ二二依テ止ム。三六テモ亦病気二型アルヲ以テ又祭ズ。 夏、『太乙神経』ヲ撰ラバントシテ、稿半二及ブ。病ヲ以テ第二成書二及ズ。 秋、予陽ノ同志ノ求二依テr翁問答』ヲ著ス。丁重シテ後、ソノ・書、心ニカナワザル. 処多シ。故ニコレヲ改メント欲シテ、同志トイヘドモ博クコレヲ示サズ。然レドモ癸 未ノ春、野人、此ヲ盗ミテ取テ板行ス。先生、此ヲ聞テ、三人ヲシテコレヲ破ラシム 此ヨリ後、改メ正ント欲ス。日、「上巻ハ『孝経』二触発シテ、ソノ意ヲ写シ書ス。. (19).
(24) 故ニソノ論穏当ナリ。下巻ハ世ヲ憤り弊ヲ矯ム。是ヲ以テソノ説抑揚大過アルコトヲ 免レズ。故二階ヅ下巻ヲ改ント欲ス」ト。是二二テ数条ヲ改ム。疾ヲ以テ終二成ズ。. 冬、『王竜門語録』ヲ得タリ。始コレラ読トキ、ソノ触発スルコトノ多キコトヲ悦ブ 然レドモソノ仏語ヲ間雑シ、禅学二近コトヲ恐ル。後、 『陽明全書』ヲ得テ、コレラ. 読二野テ、竜渓ノ禅学二近カラザルコトヲ知ル。且、仏語ヲ間雑スルノ、世ヲ欄ムノ. 深コトヲ見ル。如何トナレバ、聖人一貫ノ学、本太虚を以テ準則トス。老仏ノ学、皆 一貫ノ中ヲ離ズ。唯精粗大小アルノミ。達人、何ゾソノ言語ヲ忌ンヤ。且、当時、仏 ヲ学ノ徒多シ。是ワ以テソノ語ヲ志願シテ、ソノ外ニセザルコトヲ示シ、皆、太虚・ 一貫四道ヲ悟ラシメンコトヲ欲スルモノナリ。. ←有八年辛巳。先生三十四歳。. 夏、二三子トトモニ勢州大神宮二参詣ス。此ヨリ前、曾テ以為ク、「神明ハ無上ノ至 尊也。賎士ニシテ貴人二近クスラ、訓涜ノ恐レアリ。況や神明ヲヤ」。是ヲ以テ終二 神二等拝セズ。ソノ后、学日々二精緻二入。三二以為ク「士庶人モ亦神ヲ祭ルノ礼ア リ。然うバ則チ神二戸スルコトモナクンバアルベカラズ。且、大神宮ハ吾朝開開ノ元 祖ナリ。日本二生ル・者、一タビ拝セズンバアルベカラズ」ト。是圧搾テ詣ス。 秋、 『孝経啓蒙』ヲ著ント欲ス。疾二依テ又成ズ。明年、終二『啓蒙』ヲナス。後、. ソノ説、経野冊カナワズトシテ、改口正ント欲ス。然レドモ終日果ズ。 是年、始テ専格套を守ルノ非ナルコトヲ覚。此ヨリ前、専ラ朱註ヲ:尊信シテ、日二講. 明之、「小学」ノ法ヲ以テ門人二示ス。物故二、門人格三二落丁シ、拘攣日二長ジテ 気象漸ク迫レリ。或ハ圭角アリテ、同志ノ際、ナヲ融通セズ。一日、門人二謂テ日、 「吾、久シク格套ヲ受用シ来ル。近来、漸ソノ非ヲ覚フ。格套ヲ受用スルノ志ハ、名. 利ヲ求ルノ志ト、日ヲ同シテモ語ルベカラズトイヘドモ、真性活溌ノ体ヲ失コト一等 シ。只吾人、拘攣ノ意ヲ放去シ、ミヅカラ本心ヲ信ジテ、ソノ跡二泥ムコトナカレ」 門人、大二触発興起ス。○一日、門人二語テ日、「昨夜、夢二人アリテ、吾二光 軒. ト云号ヲ授ク。光喚ノ号、吾川過タリ。只軒可ナリ」ト云テ、此ヨリ 軒ト称ス 今日ニシテ此ヲ思二、徳光アリテ下位二喚シタマヘリ。天、何ゾ此ヲ保祐シタマハザ ルヤ。 冬、熊沢伯継、来テ業ヲ受ク。秋、始テ来テ、人ヲシテ謁ヲ請フ。先生、ソノ志ノ真 偽ヲ知ズ。故二字クコレヲ辞ス。左、請テ巳ズ。先生、書ヲ以テコレヲ辞ス。ソノ詞 日(以下空白)。左、尚請テ日、「タトヒ教訓与ラズトイフトモ、如何ゾータビ拝謁 スルコトヲ許サぐル」ト。ソノ情甚ダ愁テ涙ヲ滴二才ル。先生、ソノ情状ワ聞知シテ コレラ憐ミ、謁スルコトヲ許ス。尚、業ヲ受ルコトヲ許サズ。強テ帰シム。冬、又来 テ、固ク請テ巳ズ。是二於テ終二業ヲ授ク。. (20).
(25) 十有九年壬午。先生三十五歳。. 春、中村叔貫、来テ始テ業ヲウク。先生近時専ラ『孝経』ヲ講明シテ、常二「愛敬」 ノニ字ヲ掲ゲ出シテ、心体ヲ体認セシム。日、「心ノ本体、原是愛敬的。冷水ノ湿ニ シタガイ、火ノ燥ニツクが如シ、只吾人、種々ノ男心・習気二凝滞セラレテ、心体ノ 明蔽ル。然レドモ、親ヲ愛シ兄ヲ敬スルノ心、且赤子ヲ見テ慈愛スルノ心ノゴトキハ. イマダ丁丁ズ。時アツテ発見ス。図心ヲ認テ、存養シテ失ザルトキハ、則聖人ノ心界 冬十一月、嗣子虎歩ル。此ヨリ前、二男一女ヲ平曲リ。皆、月ヲ喩ズシテ夫ス。. 二十年癸未。先生三十六歳。. 当年、山田氏・森村氏ノタメニ、『小医南針』ヲ撰ブ。. 秋、中西常慶、来テ学ヲ問フ。此冬、『詩経』ヲ講ズ。二野終テ巳ム。中西氏モ亦、. 与聞。退テ日、「嘗テ予、洛二子テ俗儒ノ講ヲ聞コト久シ。向二、先生ノ学、世儒二 異ナルコトヲ聞テ、疑テ以為ク「何事ヲカ説」ト。今、講ヲ聞テ、大平テ感服ス」ト 是二野テ、終二弟子トナル。 冬、清水垣、来テ業ヲ受ク。. 正保元年申申。先生三十七歳。. 春、森村氏・山田氏ノタメニ『神方奇術』ヲ撰ブ。 夏四月、加世五、来テ業ヲ受ク。. 秋八月、岩田長、来テ業ヲ受ク。○是年、始テr陽明全書』ヲ求得タリ。コレラ読デ 甚ダ触発印証スルコトノ多キコトヲ悦ブ。ソノ学弥進ム。○先生門人二語テ日、 「予 嘗テ、山田氏二三二、三綱領ノ解ヲ以ス。ソノ「至善」ノ解二日、 「事、善ニシテ、. 心、善ナラザル墨型、至善ニアラズ。心、善ニシテ、事、善ナラザル者モ、亦至善二 非ズ」ト。男時、予、イマダ支離ノ病ヲ免レズ。故二三テ男憎解ス」。門人問テ日、 「此解、甚ダ親切的当ナルコトヲ覚フ。如何ゾ以テ支離トス」。先生日、「心・事、. 元是一也。故二、事、善ニシテ、心、善ナラザル者ハ、イマダコレアラズ。心、善ニ シテ、事、善ナラザル者モ、亦イマダコレニアラズ」。門人日、「狂者ノ如キハ、心 元無欲清浄、光明正大也トイヘドモ、ソノ事ハ破綻アルコトヲ免ス。郷原ノ如キハ、. ソノ事ハ中行ノ君子二似タリトイヘドモ、ソノ心ハ則チ汚レタリ。分明二是、心ト事 トニツナルニアラズヤ」。先生日、「然うバ狂者ノ如キク、心裏公明ナル時ハ、事為 モ亦公明ニシテ、些子ノ茅野ナシ。ソノ世故ヲ軽蔑シ、且尽ク人情二合ザルハ、又ソ ノ心イマダ精緻:中庸ノ道二入ザルが故也。ソノ心精緻ニシテ、早撃ノ破綻アル者ハ、. イマダコレアラズ。郷原ノ孝弟・忠信・廉潔・無欲ノ如キハ、尽ク是、世二等ビ許容 ヲ求ルノ回腸ヨリアラワル・所ノ事也。然うバ則、ソノ事モ亦善トスベカラズ。ソノ. (21).
(26) 事ノ中行ノ跡二似タルヲ以テ善トスル者ハ、功利ノ意也。然二或ノ日、 「此道大哉。. 盗人モ亦コレラ得ザレバ、巧ヲナスコトアタワズ。入ルコト先ヅ、勇也。出ルトキ後 ル・ハ、義也。分トキ均ハ、仁也。此三ノ者ヲ得ザレバ、大盗ヲ成スコトアタワズ。. 是ヲ以テ道ノ離ルベカラザルコトヲ見ツベシ」ト。此説、笑へ悲ムベキ者也」。○一 日門人二謂テ日、 「予、曾テ『持敬図説』 『原人』ヲ著ス。当時、工夫ノ要カクノゴ. トクナルニ過ズトス。工夫寝積鳳至テ、ソノ説ノアキラカナラザルコトヲ知ル」。. 二年乙酉。先生三十八歳。. 今年ノ冬、経書切要ナル語ヲエラビ挙テ、解ヲナシ、同志ノ益ヲトル便トセント欲シ テ、十一月ヨリ稿ヲ始、綾ニー葉許ニシテ、終二成ズ。. 三年丙戌。先生三十九歳。. 春正月二十五日、次男蟷生ル。春、仲条太、来学医。○是年、門主分部伊賀守ヲ見ユ 先生ノ徳アルコトヲ聞、見ンコトヲ乞フ。邑宰、先生二強。先生、固ク辞ス。后、巳 ムコトヲ不得シテ見ユ。先生ヲ待スルコト頗ル礼アリ。然レドモ終二道ヲ問コトナシ。 夏四月三十日。夫人高橋氏死。年二十六。. 私二記 四年丁亥。先生四十歳。. 秋九月、継室別所氏ノ女ヲ嬰ル。 (一行墨消)二子七月四日、三男弥生ル。. (秋、鑑草』刊行。先生、嘗テ『翁問答』両部ヲ著ス。然レドモ土日二進二野テ、. 此問答、愈ソノ心二叶ハズ、改正ノ志有ケレバ、博ク門人ニダニ授ケ玉ハズ。然ル ニ癸未ノ年、梓人ノ手ニモレテ既二梓ニチリバメシヲ、幸二早ク知テ、是ヲ破ル。. 板屋、迷惑ナルヨシヲ再三歎クニ依テ、損ノツグナヒニトテ、女中方ノ勧戒ノ為二 嘗テ著シ置玉フ書ヲ『野草』ト題シ、三二授ク。) 慶安元年戌子。先生四十一歳。. 秋八月二十有五日、朝卯時、先生、藤樹ノ下二卒。. (22).
(27) <資料3> 藤樹の人柄を示すエピソード. 1 8才。片田舎に生長したけれども、田舎の卑俗な風習に移ることはなく、たまたま隣 の家の子と慣れ親しんでもいつも静かにして同化してしまうことはなかった。. 2 9才のとき、米子に移り、そこでは、自主的に勉強し、一年も経たないうちに手紙が 自由に書けるようになった。. 3 10才のとき、伊予の大洲へ、その冬、風早郡に移住したが、ここでも勉強が進んで r庭訓往来』 r貞永式目』は、5,6回で全部記憶した。祖父は、このことを人に自 碧したが、彼は「これくらいのことではだめだ。もっといろいろのことを学びたい。」 と考え、ますます熱心に学問した。. 4 11才のとき、初めてr大学』を読み、「天子より以て庶人に至るまで、壱是に皆身 を修むるを以て本となす」に大いに感激した。. 5 12才のとき、食事の際、父母、祖父母、君の恩を思った。 6 13才のとき、大洲に戻った、ある夜、家老や藩の主だった人が祖父の家に来て、夜 中話をしているのを聞き、その話の内容が普通の人達と少しも変わらない世間話に終 止したことに失望した。祖父は、藤樹のうぬぼれの心をたしなめた。 7 この年、賊(須朴)を防いだ。. 8 あかぎれこうやくの話(明治時代に村井弦斎が少年読み物に載せたr近江聖人』の話). 9 14才のとき、よく世話をしてくれた祖母が死亡。. 10 15才のとき、祖父も死亡。少年ながら100石の禄をもらい独立。午前中は、城で 仕事、午後は武芸の稽古、夜は深夜まで学問に励んだ。. 11同僚とのつきあいの中で一つの過失があり、これと関連する他のことも思い出して恥 じ、深く後悔し、1カ月たっても忘れることはなかった。. 12大酒であやまりの手紙。 (23).
(28) 13 16才のとき、「十三経」を読破した。. 14 17才のとき、京都から来た僧侶にたった一人『論語』を学んだ。他の者は、「武士 に必要なのは武芸で学問はいらない」と見向きもしなかった。京都に帰るその僧侶に. 頼んで、『四書大全』を入手し、36巻のうち、まず『大学大全』からとりかかり、. 毎晩20枚は必ず読み取るという厳しい計画を立てて、実行した。『大学大全』を全 部読み終えると再び初めから読み直し、それを100書くり返した。さらに『論語大 全』 r孟子大全』 r中庸大全』と読み進めた。. 15 19才で郡奉行になったとき、言葉巧みに申し開きをして年貢米を減らしてもらいた いとやってきた農民は、いざ藤樹の前に出るとうそが言えず、ありのまま話すことに よって、年貢米を減らしてもらうことになった。. 16 20才半とき、中川貞良等から学問の手ほどきの申し入れがあり、初めて共に学ぶ仲 間ができたが、ともに勉強することと、学問の目的は、文字の読み書きが学ぶだけで なく、立派な人間になることだと諭した。初めて門入達に『大学』を教えた。これよ り、「聖学を以て己が任とす」とした。. 17 21才のとき、『大学啓蒙』を著した。. 18 22才のとき、藤樹が友達の家に行ったとき、先に来ていた荒木という武士に、「こ れはこれは孔子殿。来たり給う」とからかわれ、かっと腹を立てて、相手につめよっ た。しかし、このことを強く反省し、決して忘れることはなかった。 小川村に母を訪ねた。. 19 23才のとき、『安昌、玄同を殺するの論』を著し、学問より人格の優越性を述べた。. 20 24才のとき、『林野、髪を剃り位を受けるの弁』を著し、権威を鋭く攻撃した。 21 25才のとき、春にまた小川村に母を訪ねた。大野予告に医学を苦労して教えた。. 22 26才のとき、陶淵明のr帰去来の辞』とr韓詩外伝』の皐魚の孝心を思い出し、 r 母を懐うの詩』を作った。. (24).
(29) 23 27才のとき、母への孝養のため大洲藩を脱藩し、18年ぶりに小川村に帰った。 酒を売り、米を貸して生計を立てた。売る酒の量の加減したり、代金は各自竹筒に入 れるようにした。見知らぬ客が金を払わず酒だけもって帰っても少しも騒がなかった。 村人から工事、村の行事、家の中のもめごと、家族の病気などの相談に親切に応じて、. いつしか村人から「藤樹さん」と親しく呼ばれるようになった。人々に学問を教えた 24 28才のころ、「易」の学問をした。. 25 29才のとき、京都で心友の池田与兵と島川藤右衛門と再会して学問を論じた。その あと、大洲藩士小川覚から学問に志す同志のことを聞き、うれしく思った。その後多 くの門人が藤樹のもとに来て、熱心に学問するようになった。藤樹もこれを親切に指 導した。. 26 30才のとき、結婚した。母が嫁の容貌の醜さから離婚を勧めたが、これを断った。. 27 31才のとき、大野了佐のため、『捷径医茎』を著した。「五経」を読んで触発され た。. 28 32才のとき、r藤樹規』を作り、朱子説に疑問をもつようになった。 r論語郷党篇』 で大いに感得触発された。. 29 33才のとき、『門経』を毎朝読み、意味深長なことを悟った。『翁問答』を著した。 「性理会通』を読んで、皇上神信仰から太乙神信仰へと進んだ。冬、 『王竜渓語録』 で触発の多いことを喜んだ。. 30 34才のとき、伊勢神宮に参詣した。格套を守ることの誤りを悟った。熊沢蕃山がやつ と門人になることを許された。正直な「馬方又左衛門」の話。. 31 35才のとき、『孝経啓蒙』を著し、その中の「愛敬」について教えた。ひそかに心 学に志す。. 32 37才のとき、r陽明全書』を読んで、触発印証多いことを喜んだ。このころから「 致良知」について教えた。淵岡山が門人となった。. 33 38才のとき、「心学を江西の僻壌に講ず。誠に大幸と謂ふべし」と学問と教育活動 (25).
(30) が軌道にのったことを喜んだ。. 34 39才のとき、夫人が亡くなった。(26才) 35 40才のとき、『鑑草』を著し、人間が第一に求めるのは「心の安楽」だと述べた。 r翁問答』改正篇で「捨て去るべきは心の苦痛」とした。再婚した。. 36 41才のとき、2月藤樹書院が完成した。 持病のぜんそくの発作が重くなったときでも、母が見舞いにはまくらを一つはずして 心配をかけないようにした。 (醐粧通㈹. 37臨終のときには、門人を呼び、幼い子供のこと、妻の再婚のこと、書院のことを頼ん だ。8月に亡くなった。. (26).
(31) 第1章 中江藤樹の人格形成における「自己実現過程」. 第1節生活空間要因連関図からの検討. 1 本節の課題 序章にあげた基礎的資料等を用いて藤樹の人格形成における自己実現過程に迫ろうとす るのが本節のねらいである。ふつう、「人格」という場合、性格的なものをさすが、ここ. では、パースナリテイとして、性格、態度、価値観等、その人間の特徴を表すと思われる 指標をすべて取り上げている。したがって、当然思想や学問との関連も含むが、思想形成. については第2・3章で詳しく取り上げるので、本節では、思想面については他の性格面 と同様の比重で取り上げることにした。. さて、一般に年譜なり、伝記から人格が形成されていく過程や条件を探求する心理学は、 生育史心理学(Psychology of Life−History)と呼ばれている。本節では、西平の生育史心. 理学の技法の一つである「生活空間連関図」(1)により、人格形成がどのような時期にど. のような要因によって行われたかを導き出す。生活空間連関図は、対象とする人物の生育 歴に対応して、時代の歴史的状況、家族関係、幾層かの生活舞台での様々な動きを全体と して鳥鰍図的に把握できるので、事実と事実との関連や隠れた因果関係を類推したりして、. 個人と社会背景(環境)との相互作用を踏まえた人格形成の究極点をまとめあげるのに有 効である。『年譜』その他から得られる藤樹の生育歴やエピソードから連関図を作成した. ところ、30∼3ページの図1に示すような連関図を得ることができた。. 2 生活空間要因連関図からの考察. (1)まず時代的背景として、藤樹が誕生した1608年は、関ヶ原戦後8年、徳川幕府 が開かれて5年目。そして、8年後には大阪夏の陣で豊臣氏が滅亡する。世はなお不穏な 空気をただよわせながらも、新しい平和な社会に向かって確実に歩みを進めていた。そし. (27).
(32) て、参勤交代制度に見られる幕藩体制が固まりかけてきた頃に藤樹の主たる活動期がある。. したがって、幕政に対して何らかの影響があると幕府に見られるとすれば、その活動期で. あるが、実際に弾圧されるのは、弟子の熊沢電量からで、藤樹の死後のことである。だか ら、藤樹としては存分に自己の思想を講義したり、書物に著すことができたと考えられる。. すなわち、戦国から抜け出した新しい時代における人間のあり方、なかでも武士のあるべ き姿、理想の姿(士道)を普遍的な真理のうえに確立しようとして苦心した。. (2)公に関することは、脱藩帰郷後は全くの空白になっているから、以後は、公事に煩 わされることなく、私事に専念できた。学問に関する記事が大半を占めていることは、藤 樹にとって学問がいかに大きな位置を占めていたかがわかる。. (3)Eの環境的要因として、祖父が武士として育てたということが多くの事実と連関し ている。西平は、生育史心理学は人間を運命論的決定論(他者形成)と自由意思論(自律 形成)のバランスのうえにとらえ、健康な人間ほど、このバランスはよい(2)、という。そ. うだとすれば、祖父という他者による人間形成が藤樹の自己実現の形成に大きな影響を与. えている。そしてP1及びP2、とりわけP2の「聖人になるの志」という自律形成の部 分が様々な事実と連関しているばかりか、生涯にわたって主体的な思想形成に大きく影響 していることがわかる。他者形成からは、京都に近い近江に住んでいたことも大きな環境. 的要因であった。バランスがとれていたかどうかは別として、運命論的決定論と自由意思 論とはいずれか一つでなく併存していたわけである。. 武士として育てられたことは、祖父母や父の相次ぐ死にもかかわらず、よく孤独に耐え 得たこととも強く連関している。しかし、この忍耐が喘息の発病と無関係とはいいきれな いだろう。. (4)「脱藩」にかかることが持病の喘息を始め多くの事実と連関している。大州の地が 「文学に弱なり」としたことも大州を離れる大きな要因となっている。これは、藤樹のこ. れからの生き方を決定する重大な要因で、自律形成に属するものである。最小限度の生計 を維持するための商いによる現実生活への対応をしつつ、困難な家庭生活を克服しながら、. (28).
(33) 藤樹はいよいよ人間の本心への信頼をおく有徳の「村の先生」(3)として自由活発な主体. 的な生き方を願って自己実現していくのである。思想形成の面からは、第3章に詳述して いるので省略する。. (5)性格形成の面でも、食事の際に感じた恩、家老達の話を聞いての疑問、友達との応. 接での過失をいつまでも悔やんでいることなど、一連のエピソードは、少年らしい生真面 目さを表している。いずれも聖人になるの志と連関している。さらに長じて圭角ある性格. は、朱子学に泥むばかりか、同僚の郷楡に対してもとげとげしい態度(P6)をとらせて いることと連関している。30才のとき、妻を離婚するよう勧める母親の言葉を断ってい るのも朱子学の教えにない、というのが理由である。かたくなに朱子学を守る生真面目な. 性格が浮かび上がるのである。しかし、こうした性格も次第に角がとれ、後には「藤樹先 生」と呼ばれ、円満な人格者へと成長する。ここには、本来の自己のアイデンティティ確 立に不可欠な、学問に対する新しい発見による精神的安定が強く連関していると考えられ る。. (6)人に関する部分で注目すべきは、心友への共感と励ましである。藤樹は、門弟達や 教えを請いにやってくる人を「同志」あるいは「心友」と呼び、同行の学友と考えた。こ. の部分が連関図に多くある。彼らの学問を始め様々な悩みに対して、藤樹は、まずは共感 し、懇ろに手紙を書いて回答し、励ましている。これなどは、大野了佐への教授法とあい まって有徳の教師としての藤樹の評価をより高めていることと連関している。. (29).
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初 代 福原 満洲雄 第2代 吉田 耕作 第3代 吉澤 尚明 第4代 伊藤 清 第5代 島田 信夫 第6代 廣中 平祐 第7代 島田 信夫 第8代
3 In determining whether a term sati sfies the requirement of good faith, regard shall be had in particular to the matters ( )
● ボタンまたは ボタンどちらかを押す。 上げる 冷房 暖房 下げる. 運転 暖房準備 冷房 暖房
光を完全に吸収する理論上の黒が 明度0,光を完全に反射する理論上の 白を 10
⼝部における線量率の実測値は11 mSv/h程度であることから、25 mSv/h 程度まで上昇する可能性