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ドキュメント内 中江藤樹における「自己実現過程」の研究 (ページ 117-122)

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1   略                         (32)1

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このr年譜』にこめられた藤樹の心境を松下は次のように活写する。

ある日、藤樹は門弟一同を集めて、自信をもって、自分の心境を次のように話した。

「わたしは、学問に志してこのかた、ずっと経書の教えを絶対の尺度として、それを遵守することに努力してきた。このことは皆もよく承知している通りだ

しかし、最近になって、ようやくそれは無理であり不自然であると感じてきた。みなにもそのように教え要求してきたあやまりを反省しているのだ。

外からの力でさせられているという気持ちがあっては、心にわだかまりを起こさせる。たとえ、実践できたとしても、これで十分とした心の驕りがあって、

進歩しないものだ。聖賢の教えをものさしとして努力することは、単に名利を求めることと、本質は異なるけれども、自分の本心が自由活発に働かぬという

点では、同一ではなかろうかと思うのだ。わたしは、本心のこだわりや偏り、とどこおりなどを一切捨て去って、本心の命ずるままに生きていくことが大切

だと確信している。どうだ。このように我が本心を信じていこうではないか。単に聖賢の言動や経書の教えの述をまねるのではなく、我が内なる本心は、愛

敬の心であることさえ信じておれば、絶対に間違いはないのだ。       (33)

 これに対する門人達の反応は、 『年譜』にあるように、正に「門人大二真葛興起ス。」

であり、いよいよ発憤して、心あらたに学問に立ち向かうことを誓い合ったのである。

 このように、自己の心境を門人にまで吐露し、その方向での発憤を促す状況は、明らか に藤樹の内部において明確に交渉チャンネルをキャッチした結果であると考えざるを得な いのである。

 また、山下は、「伊勢神宮に参詣し、皇上帝・太乙神を拝する藤樹の宗教的な立場は、

合理主義的な朱子学を正に『格子』として意識せざるを得なかった。『年譜』は藤樹が自 分の立場を明確に自覚したことを示している」(34)としている。このことからも、藤樹に とって宗教的立場が重要な評価枠になっていたと考えられるのである。さらにr年譜』に ある「眞性糧嚢ノ体」について、古川は次のように解説している。「翼性活襲ノ体とは、

真に生きて働く自由自在の心の本体をいうのである。この眞性活嚢ノ体と対立するのは、

『意』である。「意』は心の『すくみ』(萎縮)を意味している。『意』を解消して、自 立的に自由な『真の自己』 (真己)と『道』の実現をめざすことが人間形成の課題となっ

た。」(35)

 これらにより明らかのように、これまで守りつづけてきた「格套」を守ることは、「真 性由仁ノ体」を失うことであるとの反省が自覚され、「格套」を守ることの非が宣言され たのである。

〈第二次段階〉

37歳のとき、致良知に徹すれば心事一元であることを悟る。

r年譜』には次のように記されている。

  1層一一一一一■一層一薗■一■一一■■一一一一一一幽一』一一一一一一隔一一一■一一■一一一一一耳開一『一鴨■■一■一一■1

  1      1   コ      コ

  1一略一先生門人二語テ日。歯応テ山田氏上谷ルニ三綱領ノ解ヲ以ス。1

  コ      コ   コ      ユ

  1ソノ至善ノ解二日、事善ニシテ心善ナラザル者ハ至善ニアラズ。心善二 1

  }       葺   コ      ほ

  ;シテ事善ナラザル者モ亦至善二非ズト。此向島イマダ支離ノ病ヲ免レズ。1

  1      1   ロ      コ

  1無二誤テ此ノ如ク解ス。門人問テ日、此解甚ダ親切的當ナルコトヲ箆フ。1

(114)

   ロ      ロ

   1如何ゾ以テ支離トス。先生日、心事是一也。故朝事善心シテ心善ナラザ l

   l      量        ロ

   1ル者モ亦イマダコレアラズ。      (36) ・

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 これは、藤樹が『陽明全書』との出会い中で悟ったことで、学問の目的は、知識だけで なく、「良知に致ること」(致良知)だということである。

 ところで、王陽明の思想で特徴的なのは、「心血理」「知行合一」「致良知」「事上長 錬」で、すでに第2章で述べたように、藤樹が長年苦しんできた朱子学に対する批判とし てのこれらの考えを受容している。特に陽明のいう「良知」は、藤樹においては、「明徳」

という言葉でも用いられている。「良知」とは、人が生まれつきもっている良き知力、是 非の心、事の是非正邪善悪を明らかに知るすぐれた能力で、聖人たると凡愚を問わず「心 の本体」としてすべての人に生まれながらに具っているものである。しかし、私意や物欲 に覆われてくらまされることがある。「致良知」は良知を実現することである。それには

「良知」の判断を行為の中に実現する陽明学的意味と「良知」の働きを最高度に実現する 藤樹学的意味とがある。この良知を致すことが学問の目的であり、聖人の第一義の教えで あると説いたのである。心が光明であっても、事がうまくいかないのは、その心がまだま だ良知の精微に致っていないからであるとして、致良知に徹すれば心事が一元になること を悟ったのである。「心事一元」は、まことに有力な評価枠の発見といっていいだろう。

 このように、一次、二次の段階を経て重要な評価枠を自己のものとして積極的に門人へ の教育活動にもあたるようになってきているのである。

(6)F段階 課題の認識

 E段階までは、幾多の苦しい思想的遍歴を重ねながら、次第に藤樹本来の思想が形成さ れてきた。形成の過程では、宋学を中心としたいくつかの思想の受容が見られ、評価枠の 発見につながったが、あらためて現在の自分がもつ課題の客観的な認識となるとF段階で の資料による検討が必要になってくる。

39歳のとき、報難を経て学が大いに進む。その心境を門人の晦養軒に知らせる。

 藤樹が39歳のとき、妻久子が死亡した。家事と育児と母親の面倒の一切が藤樹にかかっ てきて、とりあえずは、隣人や門人、親戚の手助けを受けて辛うじてその日その日を送っ ていたが、このような時でも学問の追求や門人の教育だけは一時も停滞させることはなかっ た。このような環境の中で、藤樹は1646年、門弟の晦養軒に次のような書簡を送って

いる。

  肇      ■   l       l        

  1一画一拐て愚婦仕合預御悔不淺奉存候。勢州戻申候内大切之煩之漸悟來 1

  ロ      ほ

  :候故取急罷鯖候へ共二日相後レ候て残念御察可被下候。ソノ上児女共も鯨多 :

  置      躍   コ      モ

  1候て悲情難儀仕候。且學道之憤非も出來候て世間たぐひまれなる境界罷成候。1

       ロ        ロ

  1志ハ大す\み申候。二三年たゆみ不動候て音使はまぬがれ可申と此上之たの 1

  ロ      コ

  :しみに御座候。   略      (37)1

  1      1   匡      ■

  L______向日一顧_______________一一昌一噛噂__________________________脚輌輔一一1

 松下は、 「この書簡には、凡情を越えて世間に稀な自由活嚢な心境に到達した歓喜と自 信がほのめかされている。門弟晦養軒は、藤樹も上洛の都度、出会って互いに学問の進み 具合を話し合って心を許し合える同志であったので、遠慮なく自分の心境を伝えたのであ ろう。」(38)としている。

 とすれば、藤樹の自己の学問進展の成果については、まさに本音に近い自信にあふれた 認識であり、ますますこの道に努力しなければならない課題を十分認識した言葉である。

このことは、さらに次の藤樹書院建設の行動にも具体的な取り組みとして表れている。

(7)G段階 課題への取り組み

 自己実現過程の最終段階として、課題への取り組みを通して高次の達成感が得られ、す べての拘束からも超越した充実した生き方が実感される段階である。藤樹は、門人への教 育に生涯を捧げようと、彼らのために参考書の執筆や、気になっていたr翁問答』の改定、

女子教育のためのr痛止』の刊行に取り組んだ。

『大学考』を執筆する。

(116)

 朱子学時代の作と、陽明学の影響を受けた後の没年3年闇の著作の二つがある。影響を 受けた方は、『大学』の実践上での大義では陽明に至って朱子学ではっくされなかった箇 所がますます明らかになったと説き、『大学』の要点である8条目のうちの格物・致知・

誠意に関し、独自の説を簡潔に述べている。(39)

『大学解』の執筆する。

 没年の慶安元年(1648)の絶筆といわれる。内容は、訓詰・句解・趣意の3段に分かれ、

平易な和文で『大学』に注釈を加えている。陽明学を消化したうえに自らの体験と修養を もって自主的に『大学』を読み取った藤樹の円熟した思想は、まだ字句の解釈の範囲をで なかった当時の儒学において、きわだったものがある。(40)

『中庸解』の執筆をする。

 本書には陽明学を摂取して一家の哲学を形成した藤樹晩年の思想体系が全面的・集約的 に表現されている。当時の経書の注釈が朱子の注の字義上の俗解にすぎなかったなかに、

自主的な思索を示した本書は、画期的な仕事というべく、寛文・元禄時代の日本儒学確立 の先駆をなしている。(41)

翁問答の改定にあたる。

 33歳のとき、翁問答を著しているが、意に沿わぬところが少なからず感じられたので、

時間をかけて検討し、是非改定したいと考えていた。門人の池田氏に宛てた手紙がある。

  置一鴫一■一一嚇一一■鱒一一■圏唱■一零層一一一一幽一■一一噛層■■ 4一■一願一■一一一駒一一層■層■一嘲■層一層一一■一一■一1

  奮       量       コ

  1當代世聞のまよひをわきまへたる議論をあつめ翁問答と題し、同志の提概に仕l

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  1候を京にてぬすみいだし、板にほりかけ申を見つけ、いろいろことはり仕板をl

  I      l   ほ       ほ

  1やぶり申候、一蓋一われら氣不入虞あまた御座候。かきなをし珍妙箆悟御1

          1   ロ      

  ;座臨席に候。一雨一       (42)l

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ドキュメント内 中江藤樹における「自己実現過程」の研究 (ページ 117-122)