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第4節 他の庶民倫理思想家との比較
一石田熔岩、二宮尊徳、広池千九郎を事例として一
1 本節の課題
前節では、藤樹の思想形成に見る自己実現過程について検討し、杉山の要因分析の妥当 性が立証された。本節では、さらに他の庶民倫理思想家と比較して、杉山の要因分析の普 遍性を検証したい。
ところで、庶民倫理思想とは、一般庶民を対象にした道徳教化の思想であり、江戸時代 においては町人や農民を、また現代においては様々な職種を含む広く国民一般を対象にし た日常の道徳実践の思想である。こうした思想の起こる原因については、その時の政治的、
社会的背景を無視することはできない。
たとえば江戸時代に主として町人を対象にした石田愈愈による石門心学や、農民を対象 にした二宮尊徳による報徳仕法の考えは、江戸期における封建体制の中で、自らの生活を 律する理念として新しく生まれ、広められたものである。為政者が大衆を支配するために 教化を行うことは、聖徳太子の先例をみるまでもなく、いつの時代にも共通することであ るが、石門心学や報徳仕法は、大衆の側から生まれたところに特徴がある。当然のことな がら、その創始者は大衆の一人である。1920年代の大正末期から昭和初期にかけてや
はり大衆の側から誕生した道徳科学(モラロジー)も、近代社会が内包する諸矛盾に対し て鋭い警鐘を与えつつも急進的な社会改造ではなく個人の道徳性の向上による人類社会の 幸福実現を目ざすことから体制側にもよく受容されてきている。
これら例にあげた3つの庶民倫理思想は、比較的長期にわたり、根強く庶民の闇に浸透 している。すなわち、石門心学は、第2次世界大戦後にも国民一般の道徳高揚を目標とし て社団法人石門心学会の結成に引き継がれ、最近ではその精神を事業経営に生かそうと静 かなブームにさえなっている。報徳仕法は、明治以後各地に報徳社が結成され、1924 年には、大日本報徳社が結成され、現在に及んでいる。また、道徳科学(モラロジー)は、
1926年のモラロジー研究所の創立や、1928年半おける理論的支柱としての道徳科
学の論文完成などとともに国民の一部に浸透し始め、現在は生涯学習の財団法人として千 葉県柏市に本部を置き、海外にも活動の場を拡げつつある。
これらの庶民倫理思想が大衆教化の実を挙げてきた最大の理由は、何といっても始祖な り、学匠といわれている創始者達の創造的な思想と人心開発への並々ならぬ熱意にみられ る高い識見と実践的態度であろう。それ故、世評の一部には、これらの倫理思想を教祖を 中心とした宗教運動と同一視する向きもあるが、創始者達には、そのような意識は毛頭な く、教説自体にも宗教としての特質を見出すことはできない。宗教活動と見誤るほどに創 始者達の強力な個性が支持者に大きな影響を与えてきたといえる。ここに人間性心理学上 の関心から、藤樹と同時にこれら最大限に自己を発揮したと思われる創始者達の実相に迫 ることによって杉山論文の普遍性を検証したいという動機があり、特にマスローのいう「
超越」が創始者達の思想展開や性格行動にみられるかどうか検討したいという問題がある。
上田によれば、「マスローは、心理学的に健康で自己実現をとげているとみられる被験者 や伝記などで人物像を調べた過去の有名人について、その自己実現の特性を研究したとこ ろ、自己実現の意味が二つにとらえられていることを見出した。一つは、自己実現を単な る健康な人間と考える見方であり、いま一つは、至高経験をもち、宇宙における普遍的な ものを生き生きと体験できる人間を意味する見方である。前者には政治家のような世俗的 に有能で現実的な人物があてはまり、後者には聖者、哲人、天才人があてはまるとみられ、
マスローは、このタイプの人びとを『超越的人間』と呼び、20項目にわたる特徴とさら に18項目にわたる超越すべき事柄を列挙している。」(59)本研究で例としてあげる石 田梅酒、二宮尊徳、広池千九郎は、その思想的事跡に特徴があり、どちらかといえば超越 的人間の範疇に属するとみられる。
一方、すでに述べたように、島崎によれば、自己実現に至るプロセスには「葛藤」があ り、これら3人の創始者にもぞうした段階が認められるかどうかという問題もある。もち ろん「超越者は至高経験を有しており、単なる自己実現者ではない」(60)点は承知してお かなくてはならない。本節の目的は、直接的には杉山論文の普遍性の検証であるが、マス ローの超越的人間論の最も重要な意義、すなわち人間性における価値の内在と主体的な覚 醒並びに自己実現過程での葛藤がこの3人の庶民倫理思想の創始者達に見出されるかどう かも併せて検討する。方法については、序章において述べた通りである。
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2 事例分析
<事例1> 石門心学の始祖一石田梅岩(1685−1744)
(1)略歴
石田は、丹波国桑田雄島懸村に農家の次男として生まれ、11才のとき京都にいき 丁稚奉公をしたが、数年で帰郷した。1707年、ふたたび上京して商家黒柳氏につ かえ、それから23年のあいだ、商業にいそしむかたわら、人闇の本質をもとめ、究 めた「人の人たる道を勧めたし」との念願をいだくようになった。そして、1726 年、45才で京都車屋町の自宅に講席を設け、同地に死去するまで心学布教に専念し た。 (61)
② 超越的人格の検討
柴田 実の著書「石田梅岩」(62)中の関連ある事跡部分を引用しつつ検討する。
ア 開悟の時
雄才は、35才ぐらいのころまでは、人性について自分でもわかったつもりでいた が、そのころになって人性に対する確信がぐらつきはじめ、思想的重富をつづけてい るうちに小栗雄島なる隠遁生活者と選了し、「性は目なしにてこそあれ」の言葉で心 眼を開くことになる。梅岩は、そのときの心境を次のように記している。
ソノトキ、アヲギ見レバ鳥ハ空ヲ飛ビ、フシテ見レバ魚ハ淵二躍ル。
自身ハ是レハダカ虫、自性ハ是レ天地万物ノ親ト知り、喜悦誠二大ナリ。
天ノ原生ミシ親マデ呑尽シ自賛ナガラモ広キ心ゾ (63)
〈B領域の存在〉
マスローによれば、「超越的人格は、神性、至高経験、聖、無我、悟り、回心、浬築と いったいわゆるB領域に生きる人であり、またB価値を追求する人と考えてよい。このB 価値というのは、真・善・美・全体性・躍動・独自性・完全性・完成・正義・秩序・単純・
富裕・無努力・遊び・自己充足など人間に内在する普通的価値をいうのである。」(64)
このことから、梅岩の開悟はB領域にあり、そのときの心境は「喜悦誠二大ナリ」と正 に至高経験の状態にあったといえるのではなかろうか。自己が完全に自然と一体となり、
梅岩の内部からもりあがった喜びに満ちた感動の体験であったと考えられる。
イ 開講の時
露岩は、今や確実に自分自身の手にすることのできた真実を自分一個年所有とする だけでなく、これをひろく世の人々に分かち与えようとする運動に立ち上がった。そ れこそ「我はあまねく人の手本になるべし」というかれの年来の意志にかなうもので あり、そこにこそかれの本領と歴史的使命とが見出されるのである。
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〈利己主義の超越〉
「我をあまねく人の手本になるべし」という意志は、他に対する止むに止まれぬ使命感 であり、それは、何としても達成せられねばならないという自己の内部からの願望として 完全に利己主義を超越しているとみられる。
ウ 学問への態度
学問においても芸能においても一向に師承を尊び、伝授を重んずる当時にあって、
その師が悉皆譲り与えようという注釈付きの書物をば気軽く辞退して、事にあたらぼ 新に述べる積もりだという梅迫の真意は、必要があれぼ自分で考えようというので、
そこに一種の自信というか、学問に対するかれの考え方がよく表れている。
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〈過去の断念〉
過去の経験に依拠し、これを踏襲するところに創造性の入る余地はない。梅岩は、あえ て過去(注釈付きの書物)を離れて、現在の問題の中に(物に応じて)問題の解答を見出 そうとしたのであり、マスローのいう創造的人格(67)の表れと見ることができる。
工 開講当初の状況
はじめのころは、朝暮ともに聴衆おおむね2−3人か4−5人に過ぎず、あるとき は他に人もなく、平素から交わりの厚い友人が一人いるのを相手に講釈した。またあ る夜の講席には門人がただ一人きりであった。かれはそこで自分一人のために梅島が 講釈するのを気の毒に思い、休講するよう申し出たところ、梅岩は今夜はただ見台と 指し向かいのつもりでしたが、聴衆が一人でもあれば満足であるといって講釈をはじ めた、という。 (68)
〈精神的報酬の重視〉
報酬の水準に関していえば、「超越者は世俗的な金銭的な報酬よりも高次の精神的報酬 をより一層重視するのである」(69)。梅岩にとっては、ただただ己の信じる真実の道を他 人にも説くという本質的に満足をもたらす講釈という仕事のなかで、すでに十分報酬を得 ているということができる。
オ 講義の態度
かれは、経書のほかに仏書や国書までも任意にとり用いて講義した。その自由な態度 は、文意の解釈の自由さにも通じ、考証学的方法はとらなかった。それよりも自らの 心に問い、わが身の上にその正しさを自証する。まず自分の心あるいは性を知って、
その眼で経書を読み、その注釈をも用いるというのである。 (70)
〈束縛からの超越〉
さまざまの形の束縛や制約から自由でいられるのが超越者の特色である。テキストも自 由に選び、文意の解釈も考証学的方法をとらなかった。梅岩は、必ずしもそのことを軽視