@ 知
第1節 中江藤樹の思想と朱子・陽明の思想との比較
藤樹の思想の特色を述べるにあたり、彼の思想に大きな影響を与えた朱子と陽明との思 想の比較対照を行った。これは尾藤の著書(1)を参考にしてまとめた。比較の観点として、
性即理、知と行、格物・致知の解釈、学問・修養上の具体的方法をとりあげた。
観 点
朱子の思想 陽明の思想 藤樹の思想
性即理か 「在位理説」 「心即理説」 特に述べていないが、陽
心画法か 性は理である。理は 心と理とは相離れた 明学を受容しているのは 心にも内在するが、心 別個の存在ではない。 陽明の「心即理説」に賛 の外の万事万物にも存 心の本来のあり方が理 成しているからである。
在していて、人はその である。
万事万物の理を窮め知 心と理とは分離して るべきである。 はならない。このよう 人の身体が形成され な理に合致した本来の ると、そこに天から人 心のあり方のままに行 の理が与えられて付着 動ずれば、それが孝や する。(心にやどる) 忠の正しい行為(理に これが人の性であるか 適つた行為)となり、
ら性即理である。 理が実現される。
人の理とは、人とは 心は、一身の主であ かくすべしと考える当 り、是非善悪を弁別・
為の法則(道徳原理) 判断する主体であり、
で、人に本来備わって 行為の主体である。物 いるものである。 の存在原理としての万 心は、性(理)のや 事万物の理という考え どる場所で、身体の一 は全く無縁である。
部で「気質」によって 理とは、心の行為の 構成され、情や欲の作 正しいあり方である。
用がここから発する。 理は心を離れて存在 人の性は完全で純粋 しないのだから、心の 至善であるが、心に宿 外に理を求めてはなら ることによって悪の出 ない。理に合致してい てくる可能性がある。 るのが本来の心である 故に心と性は明確に区 から心と理とが分裂し 別すべきである。 ていてはならない。
知と行に 「先知早行説」 「知行合一説」 「心事一元説」
ついて 知とは「是非善悪の 知とは「是非善悪の 心と事とは、本来一致 区別を知る」窮理(理 区別を知る」 すべきもの、「心」が善 を窮め知ること)のこ 行とは人倫に関わる であれば、その発現とし
とである。 道徳的な行為で心の修 ての「事」も当然善のは
行とは人倫に関わる 養に関すること。この ずである。善を知るとは 道徳的な行為で心の修 知ることと行うことは 善を行うことを通しては 養に関すること。畏敬 一つのことである。 じめて真に善を知ったこ
(ふらふら動揺しない ①行ってはじめ知った とになるのであって、善 で慎みの状態に心を保 ことになる。 を知りつつ不善を行うの っ)のことである。 ②知と行とは同じもの は真に善を知っていない
①知って後行う の両面である。 からである。知行合一論
③知は一種の行である と同じ。
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④知と行は同時である
「大学」 格物刃物(事を含む 〈致良知説〉 〈良知一明徳一至善〉
にある「 )に曇る(至るの意) 「格物」の「格」と 「格」は正。物は「事 格物・致 で万事万物の理を窮め は、「正す」の意であ 」。視聴言動思の節に中 知」の解 知ること り、「物」は「事」の らざる物を正す。これを 釈につい 意で、「意のあるとこ 「格物」という。物は洪
て ろ」という意味である 範五事の事。密事とは、
「物」とは人の行為で
①貌一恭②言一従順
ある。「格物」とは「③視一明④聴一明敏
行為を正しく行うこと ⑤面一深い考え」である。
「致知」とは「知を致 「知」とは、良知であ 「致」は「至」のことで す」ことで、「知識を り、「人が生まれつき 知を致した結果、知が至 おし窮める」「あらゆ 持っている良き知力」 る。
ることを全部知りつく で聖人たると凡愚の人 「本心の良知」「明徳の すこと」 たるわ問わず、心の本 良知」で明徳の反対の「
体としてだれもが持つ 意」(人間の心に巣くう ている。「良知を致す 醜悪なもの)を誠にして
」とは「良知」を実現 人間本来の自己に帰る工 するという意味である 夫が必要。
これができれば、心と 一本体即工夫一 理とは分裂しないし知 明徳を明らかにする。
行合一も成立する。
学問・修 読書と静座を重視 〈事上申練説〉 〈致良知の工夫〉
養上の具 「読書」とは主として 人格、特に心を修練 哲学的に思索したり、
体的な方 経書を読むこと するものである。読書 経書を好むことのみが、
法につい 「静座」とは座禅の方 も静座も良いが、書物 聖人に達する方法ではな
て 法を取り入れたもので を読んで知識を獲得す く、むしろ日常的な人問 静座して心の集中統一 ることよりも、心に自 の営みの中にこそ、良知 を図る修養法である。 ら悟ることを重んじた を実現する場があり、そ また、心の動揺を押 れによって万人が聖人た さえるために初期の段 り得る。
階での静座も有効とし 医術を好み、医学書を たが、静座ばかりして 表す。学校では徳を養う
「静」を好むようにな ことを根本としつつ、各 ると、事に臨んだ場合 人の才能に応じて「水土 に何もなし得ないよう 播植」の技術教育を行う な結果になるのはよく べし、と主張。
ないとした。
陽明学は、心学と呼 ばれ、日常の実際生活 と結びついた心の修練 を重視することを大き な特色とする。
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第2節 中江藤樹の思想に見る「自己実現論」
一「明徳」を中心として一
1 本節の課題
「自己実現」に関する所説は、第1章で紹介したように、数多くの学者から発表されて いる。本節では、藤樹の思想そのものが、わが国の自己実現論の備矢ともいうべき重要な 内容をもとものであったことを述べたい。
2 藤樹の自己実現論
藤樹は、主著である「翁問答』の中で、聖賢の心、「四書五経」の精神を鑑として、わ が心を正しくする心学としての儒学こそ真の学問であり、この学問によって人の道が全う できるのは、私心が取り除かれ、道徳的な人間の本性である明徳が明らかとなり、道徳的 な判断が生き生きと働くからである(2)、と述べている。そして、人間の現実世界におい ては、普遍的な規範を支えている精神を生かしながら「時・所・位」によって臨機応変の 処置としての「権」の道を学ぶべき(3)とする。明徳を明らかにして、権による主体的な 行動選択により、真実の自己「真己」を実現することによって、真楽(真の楽しみ)を得
ることが学問の目的だ(4)と述べている。
古川は、真楽に至る要点として次の3点(5)をあげている。
(1)宗教的心情
真己の実体は「温和慈愛恭敬陛1星」の心で、これは心を天地万物に開かれた「天地万物」
「神明」との「万物一体の心」と、「神明」を畏れ、万物創造の神(上帝)に帰依する宗 教的心情から生ずる。
② 道徳的社会性
宗教的心情と一体の関係をなすもので、自己は、「上帝」神と「大孝」関係にあるとい う宗教的自覚にたって、「上帝」の慈愛「仁」をあらゆる人々に施す社会的福祉にまで及 ぼしていく。
(3)自立性
(1)②の根底にあるもので、自己の「心裏面」にある「凡情」の葛藤からの解消、すなわ ち、欲望やコンプレックスからの解放と立志がある。凡情とは、名利の欲、情欲で、「惑 い」の根本原因である。この「惑い」を「対算」によって弁える。「対算」とは、相反対 立する価値である「欲」と「徳」を見積もって、その「利害損益・禍福」の道理を弁えて、
徳(道徳性)への意欲(立志)を動機づける「心術」であり、「転鉄成金の術」といわれ ている。
ところで、多くの自己実現論の中でも、マスローは、人間として一層豊かに生きようと する欲求を成長動機と呼び、何よりも自己に対して「自己を楽しく実現しているかどうか」
を重視する。アメリカの精神分析学者で、ネオ・フロイディアンのホーナイ(K.Horney)
は、正に「真の自己」(the real self)という言葉を使い、人間にはその人特有の人間と しての可能性を発展させる力が「真の自己」としてあるといい、この「真の自己」が発展 し、成長していく経過をホーナイは「自己実現」(6)と呼んだ。また、ロジャーズも、自 己実現で実現されるべき自我というのは、小我ではなく「中心的で本質的な自我」を意味
しており、それを実現していく場合にこそ、すべてを圧倒するような喜びと生きがいを感 じるとしている。道元は、「一切衆生、悉有仏性」として自己実現は、仏性であると言っ
ている。(7)
3 ホーナイの Real Self と藤樹の「真己(吾)」との比較
ここで、筆者は、約3世紀の時間的隔たりとアメリカと日本という東西の大きな空間的 文化的隔たりがあるにせよ、期せずして同じ名称の概念が存在したことを重くみて、藤樹 の自己実現論をより明確に浮き彫りにするために、古川の『中江藤樹の総:合的研究』と ホーナイの『神経症と人間の成長』 (Neurosis and Human Grouth:The Struggle toward Self Realization)に依拠しながら両者を比較検討し、その類似点と相違点とを考察して みた。第1表は、ホーナイの「真の自己」(real self)と藤樹の「真己(吾)」の概念の 比較を示し、第2表は、両者の概念の類似点と相違点との比較を示したものである。
ただ、「真吾」は、藤樹が晩年に著したr陽明要語』に引用する王陽明の言葉に由来す る(8)ことを断っておきたい。
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