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営口を中心とする輸出入品の取引と経済循環

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営口を中

心とする

輸出入品の取引と経済循環

ノ、

は し が き  すでに論じた如く、一八六〇年の天津条約に基づいて営口が牛荘の名のもとに開港され、これを窓口として外国貿易が 徐々ながら展開していったが、この外国貿易の展開にもまして、より大きな割合で営口における対中国本土貿易が進展して         いった。これは、もと満洲経済が中国の移住植民地︵ωΦ窪窪ω葺○。臣ざ︾q。・∪・一Φ窪毒σq。・匡。幕︶として形成され発展したが、営         口開港以後にやがてロシヤおよび日本の投資植民地ないし搾取植民地︵H毫・。・言9けO。耳M>ロωげΦ98σq。・匿。醤︶と化する史的 動向とともにいよいよ中国の移住植民が加速度的に増加し、満洲経済の基盤の中国本土への依存度をいよいよ高めていっ たことを反映すると見ることがでぎる。以上のような中口貿易を中心として見るとぎ満洲の植民地的な経済循環の特色は 戯口における輸出入品の流通に集中的に現われてくる。というのは対中国貿易を中心とする貿易品の満洲内流通との媒介 的な取引は営口において集中的に展開したからである。そして、ここにこそヨ、三山ッパの振替銀行︵︵甲貯○げP口慰①コ︶と対比さ れる有名な振替通貨制度としての過断銀制度の発達する経済循環上の根拠が見られるのである。ここでは過炉銀をぽ、こ のような関連において取扱う見透しを以て、営口における輸出入品の取引様式と営口貿易を中心とする満洲経済循環を取 扱うこととする。      営口を中心とする輸出入品の取引と経済循環      一

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営口を中心とする輸出入品の取引と経済循環 二 ①拙稿﹁営口貿易の展開とその史的背景﹂彦根論叢第七十六号︵昭和三十六年四月︶参照。 ②③ これらの概念については矢内原忠雄著﹁植民及び植民政策﹂一五六頁以下参照。 一  輸出品の大宗である豆類の取引様式について見るに、それが奥地から営口に来集する輸送経路によって河傅、火車偶お よび車偶と三様に区別して取扱われた。河心は牛槽船によって遼河を下って来るもので、別に河下豆または河豆といわれ       ① た。火車偲は鉄道によって送って来るものをいい、車偶は馬車によって運び来るもので集市偶ともいわれた。  ︹註︺ 桶は載の意味で、清朝皇室の名の載字を冠することを避けて偶字を代用したものだという。 なお受章と云えば穀物全部を総括した名称である  が、来集する穀物は藤豆を主としたから河禰と云えば自然黄豆を指すものとされ、その他の穀物に対しては特に例えば河童高梁というように穀物名を添         称する慣習であった。  かつて述べたように遼河の本支流は南満洲の重要地点を貫流し、鉄道開通前は満洲において最も重要な交通路であった ため、営口に来集する農産物もこれによるものが最も多かった。  戯口を中心とする遼河の交通について﹁牛耳海関十年報一八九ニー一九〇一年﹂は平時には凡そ一万六千の内河船が入港して登録す       ③       ・ 、ると述べている。さらにその戎克については﹁当港及び奥地と貿易する多数の内河船は槽船と福船とに二大別され、各々大型船と小型 船とに分れる。槽船は六十ないし百二十石を運搬し、牛船は四〇ないし七〇石である。槽船には四、五人の水夫が乗り、牛船には三、 四人が乗る。槽船一艘の資本金は平均約五百両、中切は約三百両である。以上二種の船は﹁般に図書と小北河、遼陽、藩陽、新民屯、 軽質房、三面船、鉄嶺、英守屯及び通江口等奥地諸邑間の貿易に従事している。これは以下述べる如き貨物を奥地より当港に持ち来る。 すなわち豆、高梁、粟並びにその他の穀物、麻、黄麻、曹達、加里、葉煙草など。内河船は塩を奥地に運搬する。そして外国船と民船        ④ の両者が営口に搬入する貨物の大部分も槽船と牛船によって奥地に運ばれるのである。﹂と述べている。 いま、河傭、火車価および車偶別に営口に来集する豆類の数量を見ると次の如くなっている。

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年 別

一九〇一年 一九〇二年 一九〇三年 一九〇四年 一九〇五年 一九〇六年 一九〇七年 一九〇八年 ↓九〇九年 ↓九一〇年

河傅豆

一、 Z四二 一、 ワ七八 一、 l九六 一、 Z二四 一、 ワ七六 一、 ワ四二 一、 齠八 一、 Z九九 一、 鼈齠  九五二

火車悟

  九一  一九八  一九七   四八  二九六  三五七  四六二  四九四  四七二  六五八 馬車唇  一九四  一七四  一一八   七八   二九  一二四   九一   六〇   八九   八九

合 計

一、 纉七 一九五〇 ] 八一一 一、 ィ五〇 一、 縺Z一 二、〇二三 一、 Z八一 一、 Z五三 一、 Z七三 一、六九九 ︹備考︺ 単位 千石、一石は三悪。﹁南満洲経済資料第六目口﹂二六頁による。この資料の示す合計に計算違いのあるのは訂正した。  このように河忍野は圧倒的に多かったが、鉄道の発達と共に汽車便の火車鱒が漸次増加し、 論河偶も蚕食されるに至ったことは注意しなければならない。  河僖豆はこのように非常に多かったのでその取引も最も活溌であった。 これによって、馬車悟は勿  河血豆の取引市場の模様について、前掲の﹁南満洲経済資料第六営口﹂は次の如く述べている。すなわち﹁河偶秘帖営口演ハ沿河 地方商人ノ買付ケタルモノヲ輸送セシメタルモノ多ク船主即チ玉章タル場合ハ少ナシ牛槽船ハ一隻六、七十石ヲ積載シ多クハニ、三十 隻相連ナリテ下河シ先ツ営口市街ノ対岸二碇泊シ毎日払暁市岸二戸付レハ経記︵仲買人︶ハ小籏ヲ携ヘテ各船ヲ訪ヒ見本ヲ集メテ老爺 閣東天主堂北頭ノ河岸二会シ来集セル油房糧行等ノ図引︵外動番頭︶ト取引ス一日ノ来集人数少ナクトモニ百人ヲ下ラス概ネニ時間内 外ニシテ結了ス売買成立スルや買手ハ直チニ受渡ヲ為ス若シ圃卜為シ貯蔵セントスル者ハ陸揚セシメ又若シ汽船積ト為サントスル者ハ        ⑤ 艀船二之ヲ移ス此間ハ頗ル迅速ナルヲ要ス然うザレハ船夫等ハ桝目ヲ購着センが喪主河水ヲ撤クノ虞アリ﹂ 営口を中心とする輸出入品の取引と経済循環 三

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     営口を巾心とする輸出入品の取引と経済循環       四  これを見ても如何に河傅豆の取引が関心であったかがわかる。なお火車儒も開河中は河傅市場で取引し結氷中は油房糧        ヘ ヘ へ       行が直接に売買した。河傅と同様に見本取引であった。相場は共に石建で過炉銀価格であった。  河傅の取引には必ず経紀︵仰買人︶の手を経なければならなかった。この経紀は糧穀仲買店なる糧店︵又は経紀房子ともい う︶に属.した。糧店は政府に一定の納付金︵一万余戒文︶を納入して鑑札︵龍票︶をうけ代々株となっていた。ほかに穀物 売買高百石に対して五吊文の税金を納めねばならなかった。しかし、糧店が穀物取引の媒介をなした時は百石につぎ売主 から四十色文、買主から二十田文を口銭として受ける外、斗量賃として百石につぎ十吊文を売主に請求したから、百石に つき都合七十吊文の収入を得たのである。魚店は一九一〇年当時十八戸あり、二 の使用入は二、三十入から六、七十人         であった。糧店は大抵客室を有し貨主または船主の宿泊に供した。なお弾正は山東直隷地方より来た民船積載貨物の売買          を代弁したという。  車立豆は集市における取引と大車店における置引とあった。集市に集るものは附近および百清里︵一清里は約六町︶内外 の穀物で二日行程以上の遠距離から来たものは直に市内の大車店︵馬車宿︶に行く。集市においては農民と油愚ないし糧 機の配下と相対の取引が行われるが、大車店では掌盤的︵売手たる農民のために糧業者に取引上の折衝をするもの︶をかかえ、         農民の取引上の相談相手となり、農民より見本を受取って糧業者と折衝して取引を媒介する。だから大車店は評判のよい 掌盤面を抱えるほど豆類を馬車で運んで来る農民が集り宿料の収入をあげることができ、また取引の媒介口銭をより多く         得ることがでぎるわけである。しかし車傅取引は対農民取引であるため規模が小さく、相場も一石を単位とするが諺文建   ⑪ である。  なお営口においては、大豆の飛子︵貨物引渡証︶による先物取引が盛んに行われた。これは約定期間内に貨物を引渡す契        約で買手は代金を前渡し、売手は飛子を発行して交付し、この柑子は転々売買されたのである。笥子で引渡す大豆は伺年

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の一般大豆品質を以って標準となした。市場は毎日開かれ、市場には油鼠、淫行のほか店舗を有し穀物を有する者を以っ て構成することとした。この飛石取引が空売買を惹起し勝ちだったことは、これを取締る規程ができている所からもうか      がわれる。  豆粕は産地によ.って地餅と外城餅に区別された。地餅は営口置で外城餅は新民度、遼陽、蓋平、大民主地方の産で、新 民屯、大民屯の産の如く主として河北鉄道で来画するものは河北餅と呼ばれ、河運によって来集するものは河餅といわれ た。一年の来集額は多いとぎは五十万枚に上ったといわれる。しかし地餅はその供給量が遙かに多く、大体粟餅七、外豆 餅三の割合であったといわれる。地餅は油房庭内渡であったが、外城餅は輸出船の船側渡でしかも品質もよかった上に相         場も画餅と変らないので皆外画餅の買付を競うたという。豆粕の取引は一定の場所的市場はないが、油房との直接売買の 場合を除けば皆経紀の手を経たのである。これらの経紀は油豆経紀または餅油経紀と称し豆油の仲買をも兼ねたが、大豆        の河偶経紀とは別個のものであった。日露戦争前までは二百余人もあったという。  また問屋が倉庫をもち、地方の各市鎮から豆粕を送り、ここに預けて有利な販売の時期を待つこともあった。この場合        の倉敷料も委託売買の口銭も同業組合にしてギルドたる商務会の規定に従わねばならなかった。地黒の取引は凡て餅飛子 を用いた。餅飛子というのは心房の発行する豆粕引換手形で無記名式のものと記名式のものとがあった。前者は多く預り 証書の形式をとり、後者は普通売買契約書の形式をとった。しかし豆粕は製造量日数を経過すれば品質が低下するので転 売買期間も長くなく、従って後者の形式をとるものが多かった。なお、貰子は物権的手形と認められ若し丁子発行の油房         が破産した場合などは飛子所持人はその債権につき先取得権を認められた。         客商が問屋に代買せしめた場合には、問屋は孟子を手許に止め、客に対しては別に問屋より買付書を発行して交付した。       ヘ ヘ へ         豆粕の取引は豆粕十枚を単位とし過炉銀を以って建値とした。      営口を中心とする輸出入品の取引と経済循環      五

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     営口を中心とする輸出入品の取引と経済循環      六  豆油はもと奥地から来集するものもあって大抵二千斤内外を容れる大子に入れて密閉し、馬車に積載して来集し、ある いは大車店に宿泊し同店の手を経て売捌きあるいは油房に委託販売せしむる場合もあった。この場合油房は等質を検査し た⊥自家の商牌を附して販売した。輸出に際しては、さらに三百四、五十斤入の小心に改装された。’なお、日本向には石 油鍵が用いられるようになった。しかし、営口油平の発達が顕著となるにつれて、輸出豆油の供給は営口産のもので占め           られるようになった。  豆油の取引には砥草子が用いられた。これにも預り証書の形式をとるものと売買契約書の形式を採ったものとがあった が、豆油は豆粕の如く時日の経過によって品質に低下を来すことが少なかったため盛んに転売買に用いられ、従って飛子                も預り証書の形式で発行し無記名であることが多かった。        ヘ ヘ へ        ゆ        豆油の相場は営口斤百斤を単位とし過炉銀建であった。        ⑳

月華

資金一一一一→.  最後に豆油、豆粕の飛子取引における油房と銀炉と輸出商の関係は注目に値する。 すなわち、毎年十月以後になれば、市場に二種の豆油、豆粕の相場が立てられる。一 は代金は即金で実物は開河後渡しのもの、他は実物は同じく開河後渡しであるが代金 は六月一日に支払う延取引である。油房は結氷前および結氷中に原料大豆の仕入をし なければならない。その仕入資金を調達する方法として︵上記図表参照︶  ω 油房は豆粕、豆油の白河後渡しの三子を発行し、即金の条件と相場で市場にて 売却する。これを買入れるのは過炉心を取扱う銀炉で、過炉銀によって資金を支払う から、実質的には油房が世子の売却によって平炉から過炉銀の金融をうけたことにな る。

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 ② この資金を以て糧桟から原料大豆の仕入をなす。  ㈲ 他方でこの開河後渡しの飛騨を代金六月一日払の条件と相物で銀炉が輸出商に転売する。  輸出商はこれによって輸出のための豆油、豆粕を手当ができる。やがて氷が解けて開河となり貿易船が来ると、懸子を 以って油墨から油粕、豆油を受取り、船積して荷為替によって代金を入手し、六月一日に銀炉に支払うのである。銀炉は これによってへ社会的には油房と輸出商に金融することになるし、同一時点における右の両相場の差は即金取引の締結日 と六月一日との期間の貸付利子と危険料とを含んでいることになる。そしてこの売買に丁霊が加わることによって旨豆油、 豆粕の投機取引をなすことになる。勿論、地子のこれらの売買当事者は一回だけ飛騨の取引に参加するとは限らず、相場 の如何によっては相互に飛子の即金取引ないし六月一日払取引をぱ、転売買戻によってなすことができ、ここに投機取引 が可能となって来るのである。かように先物の飛子取引の展開によって銀製の極めて、投機的で特異な金融が行われたの であるが、ここにまた銀炉の発行する過炉愚なる信用通貨の動揺を来す契機もあったわけである。  ①② 満鉄調査課﹁南満洲経済調査資料 第六 営口﹂第一篇 二五頁。  ③﹁牛荘海関十年報﹁八九こ一︸九〇一年﹂今井東吾氏訳﹁営口開港前後﹂︵﹁満鉄資料彙報﹂昭和十六年七・入・十月号抜刷︶三六頁。  ④右報告今井氏訳抜刷三八頁。  .⑤ 汕闇掲﹁南瀟⋮洲経洛尉謂脚査資料 軸弟山ハ 蛍H口﹂箪二篇  二七頁。  ⑥右書第一篇貿易二七、ごコ頁。  ⑦⑧ 右書 第一篇 貿易 二八頁。  ⑨﹁⑩ 右書 第一篇 貿易 三〇頁。実業部臨時産業調査局﹁特産取引事情 上巻﹂二九一頁。

 ⑪右害第一篇貿易ゴコ頁。      、

@@@@ 右右右右 童童重垂Fヨ 扇 日  目 第一篇 貿易 三二頁。 第一篇 貿易 三三−三四頁。 焼第一柚扁 貿易 三六百ハ。 第一篇貿易四一頁。      r 営口を中心とする輸出入品の取引と経済循環 七

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営口を中心とする輸出入品の取引と経済循環

@@@@@@@@

以右右右右右右右

下書書書書書書書

資第第第第第第第

料一一一一一一一

は篇篇篇篇篇篇篇

右貿貿貿貿貿貿貿

書易易易易易易易

三七頁。 四〇頁。 四二頁。 三九頁。 四六頁。 四六頁。 四五頁。 第一篇 貿易 四八頁による。説明様式、図表などは筆者の工夫による。 八 二  上述の如き営口における輸出品の取引において、買手となるものは結局輸出に従事する貿易業者であるが、これらの貿 易業者は、営口に出張するか、出店をもつ中国の客商であるか、ないしは外国商社であるが、これらの追入は単に満洲の 特産物をそれぞれの貿易先に輸出するばかりでなく、それぞれの貿易先の商品をこの地に輸入する場合が多いのである。        ①   営口にあって中国貿易に従事した中国の客商は、三江蕎、範波野、福建幕、衝重幕に分たれる。  9 三江蓄 三江とは江蘇、安徽、江西の三省を指すが、鳶口にある者は主として江蘇省上海の商人である。重要なものは大尺巾を輸   入する商人すなわち沙船糟と称する者で、みな民船に乗って来、やがて述ぶる大屋子に宿泊して輸入品を売却するのである。  口 響波面 これは緯波商人で民船に麿逆産の紙、土器、陶器、紹興酒を載積して来、野口の商店内に内寓して販売し、併せて豆油、   豆粕などを輸出するものである。一九一〇年頃に玉生永、万順福など十八戸の商号があった。  ⇔ 福建糟 福州、厘門などの商人で民船に紙類、竹材、茶等を積載して来、豆油、豆粕などを輸出するもので、当時、振昌号に内寓   する鴻泰、建昌泰、裕徳、晋太豊に内寓する茂記、建源、復興、合安などの商号があった。  ㈲ 玉串穏 広東および潮州商人で、汽船によって砂糖、雑貨類を輸入し、豆油、豆粕を輸出した。右と同じ頃次のような商号が出張   していた。

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潮州幕 広東幕 振昌号内寓 新 昌内寓 興懸東内寓 東永茂内寓 裕発号内寓 漸興、明徳泰、源盛 捷興、捷昌、生源、仁源、 仁成、−燈興、綿発 永茂泰 裕和昌、敬安、福成 駿昌       ②  また一九一〇年頃営口にある外国貿易商社としては日本商社が最も多く次の如きものがあった。  6三井物産牛缶出、張所 独立店舗を有するも厚夢合に分量を置き同号および西義順を通して輸出入品を取引し輸出入に従事した。  ◎小寺洋行 独立店舗を有し、市中油房と相並んで輸出品の貿易に従事した。  右の両者は営口内外商問にあっても第一流だった。  国日清豆粕会社出張所 西義順内に寓し、大豆、豆粕、豆油の輸出貿易に従事した。  画永順洋行出張店 西義順内に寓し、綿糸布の輸入および大豆、豆粕の輸出に従事し光。  ㈲和田保商会 独立店舗を有し、輸出および綿糸布、画譜などの輸入に従事した。  因光明洋行支店 謙昌号内に寓し、紙、砂糖などの輸入に従事した。 同じ頃の欧米商店で貿易に従事するものは少く、多く船舶業を主とした。対外貿易の点ではむしろ日本商社の方が有力であった。た だ石油および砂糖は殆ルど彼らの独占であった。その主なものは次の如くである⑱   太古洋行︵英︶ 砂糖、麦紛、綿糸布、雑貨の輸入に従事した。   徳茂洋行︵独︶ 石炭、麦紛、雑貨の輸入   瑞記洋行︵独︶ 石油、石炭、雑貨の輸入   亜細亜火油公司︵英︶ スマトラ石油、上流三家子にタンクを有す。   美孚洋行︵米︶ スタンダード石油の輸入   恰和洋行︵英︶ 木材、麦粉、砂糖の輸入  以上はみな独立の店舗を有したが、多くは買弁を通じて市中の大屋子と売買した。 営口を中心とする輸出入品の取引と経済循環 九

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     営口を中心とする輸出入品の取引と経済循環  次にこれらの貿易商の取扱う輸出品を齎らし、あるいは輸入品を仕入れて行くのは、         奥地の商号であったが、これらの商号も営口に出張し、あるいは店をもった。   営口に在る満洲奥地の客商の地方別家数を挙げれば一九一〇年頃で次の如くなっている。 な喧

 巴北掬海呼鉄関磨奉藩

話課 

蘭−盤化

外々子鹿城河嶺裡田県陽

5≡八六五厩六四里

新民府

議  陽

鄭家屯

墜城墨

賓  州 昌  図 蓋  平

枷板姑

西  城 一一

@一 

一 二四

四一七四五七二六三

吉  林

伊通州

公主嶺 紬  巌

阿什河

直接門

開  原 山城子 三  姓

四四八八九一一九五

   ↓○ 薄口地元の商号を除けば結局満洲

陰繭賓

金家屯

朝陽鎮

通江子

寛城子

騰熱墨

卜  魁 牛  荘

田荘壷

九八七一〇〇一六八

        北京︵二︶、天津︵五︶、山東︵一三︶など華北諸都市の客商もあった。  右に述べたように、掛口で貿易に従事するものは、それぞれ貿易先から営口に出張した南方中国の客商および日本ない し欧米の貿易商社であったわけだが、これらが輸入した商品の販売について見ると、これらの貿易商が奥地から来た客商 と直接に取引するのではなく、ここに大屋子という問屋が介入して両者の取引を媒介したのである。前述のように奥地の 商号が営口に店をもち、あるいは出張しているものもあるが、経費その他の関係からその都度言口に来て取引するものも 多隔ところで貿易商はこれらの鑑商入と直楚取引して円滑乾するためには・奥地商入の慣習に従・て宿泊その他 のサービスをし、代金の立替もしなければならない。従って奥地商人の信用、修訂銀貸借、掛売、延取引などに関する煩填

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        と危険をも顧慮しなければならない。これはとくに営口の取引が、その特有な通貨たる過言銀を媒介とし、その動きがこ の金融機関たる銀炉との関連において複雑微妙を極めた関係上、外部の商人にとっては仲々近づき難いものであったと云 わねばならない。これは外来の貿易商にとってのみならず、奥地商人にとっても同様であったが、さらに資本の回転とい う点からしてもお互に銀炉との関係において金融上の便宜を与える大屋子に委ねるこ乏は得策だったのである。ここに大 屋子が介入し発達した根拠があった。この点に関し、元建国大学の助教授でいま山口大学におられる岡倉無雑教授は宝器 に赴いて親しく大屋子の調査研究をされた結果次の如く述べている。 、  ﹁旧満洲経済の割拠性すなわちそれぞれの割拠経済領域に総て就中特殊な貨幣制度と商取引慣習とが支配し、従って市場的には高度 の不完全性を持ち、外部からは満洲市場の見透しが困難であったと言うことを物語るものである。正に旧満洲経済の割拠性、市場的不 完全性の表現を用いれば商品の蒐集分散過程に於る人格的距離の遠隔性こそ大屋子の如きコンミッション・マーチャントの存在を意義         づける根本条件であると言わねばならない。﹂      ・  大屋子は、かくて、売手たる貿易業者または買手たる奥地商人の委託によって、自己の名義で取引し、計算は委託者のも        のとする、そして取引について一定の,口銭を受けるのである。だから大屋子は輸入品取引の仲買商ないし問屋だったとい うことができる。大屋子はこの仲買相引と関連して委託者のため、e客室を設けて宿泊のサービスをし、口倉庫を設けて 保管を取扱い、国貨物運搬のサービスをし、さらに四税金の納入立替をなし、あるいは国代金の立替によって金融の便をも     図った。これは旧い時代に各国で行われたように、中国でも古くからあった諸機能未分の問屋の形態をとっていたわけで ある。このように大屋子は客室、倉庫の設備を有し、さらに自己計算で取引して輸入品の卸売および小売をする所から店         舗設備をもつなど勢い広荘な家屋をもった所から大屋子という名称が出たといわれる。大屋子の取扱う輸入品は綿糸布、 雑貨、洋雑貨、茶、、漢薬、顔料を始めとして広範囲に亘り、主な取扱商品の如何により綿糸布雑貨大屋子、洋雑貨大屋子      営口を中心とする輸出入品の取引と経済循環       一一

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     営口を中心とする輸出入品の取引と経済循環      一二 茶葉大屋子、漢薬大屋子、顔料大屋子などと呼び、また例えば鱈波産の紙、土器、陶器、紹興酒などの如く郷土産の雑貨         を取扱うものは特にその郷土名を附し饗波大屋子、南学大屋子などと呼ばれた。  大屋子は、取引の仲立の手数料として二分ないし五分の控用︵口銭︶を受け、保管に対しては理財を、立替金および前 貸金に対しては利息を徴収する。食事および宿舎の費用は別に徴収しないが、しかし本来、倉敷料を意味する桟用︵手取 金の一分ないし二分︶は、実際には貨物の保管を依頼すると否とに拘らず徴収されていたから、それは保管、宿舎、食事な        ど、要るすに仲立業務と資金融通以外の一切の大屋子のサービスに.対する報酬を意味したわけである。  大屋子は常に市況を案じ、顧客たる委託者のために有利なる取引をなすよう奔走するのみでなく、前述の如ぎ宿泊その 他のサービスをなすので、瀟洲の取引事情および市況に暗い中国本土の客商、外国商社もこれを利用し、また輸入品の市        ゆ 況に暗い満洲奥地の商入も大屋子に委託したのである。  ところで、大屋子の行う機能のうち特に注意しなければならないのは金融の機能である。すなわち大屋子は若し売手の 希望する適当な取引の相手方ないし条件を見出し得ない時は、売手に対してその委託して倉庫に預っている商品の全額ま         たは七、八割を前貸し、買手に対しては商品買付代金の立替をなし、その支払を延期することが屡々行われた。この場合 の期間は顧客の信用程度および営口の金融状態の如何によって一定しなかったが、信用ある客商で金融緩漫な際であれば、         過炉銀の決算期すなわち三月一日、六月一日、十二月一日の四期目支払うことを許した。  大屋子の取引高は年百万過里下両から二、三百万過炉銀両に及んだといわれるが、この莫大な取引について売買双方に 対して資金の融通をするには相当巨額の金融能力をもたなければならない。しかるに大屋子の資本金は小は一万両から大 は十万両程度であったと云われ、この程度の自己資金では到底右のような金融をなすことがでぎない。しかるによく大屋        子をしてこのような金融機能を果さしめたものは過炉銀金融機関たる銀製だったのである。この点に関してはやがて詳論

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するが、とも角以上のことからして、大屋子の活動と発達を促したのは、その仲立取引を.魅力的ならし.めた大屋子の金融 機能だったと考えられるが、これを可能ならしめたものは営口の銀券による金融的支柱だったといわねばならない。この         点から大屋子と銀炉とが文字通り唇歯輔車の関係にあったということもでき、毒口の輸入貿易は一に過炉銀制度によって        維持せられたと云うこともできよう。また、岡倉伯士氏は、営口において﹁貨幣交通を媒介していた機関はいわゆる喜憂 であり、商品交通を媒介していた主要な一機関は大屋子である。しかして貨幣交通と商品交通とが同一現象の表裏であ.る 以上銀炉と大屋子とが不離一体の関係になければならないことが明かであり、かつての営口経済は正に銀炉と大屋子との        二位一体性の上に形成されて﹂みたと言うも過言でないしといわれる。  ①前掲﹁南満.洲経済資料第六営ロ﹂第一篇八一一八二頁参照。  ②③ 右書 第一篇 貿易 八四頁。  ④右書第︼篇貿易八三頁。  ⑤﹁営口に於ける大屋子﹂満鉄調査月報第十六巻第三号一九七頁。  ⑥前掲﹁南満洲経済調査資料第六営口﹂第一篇貿易六五頁。  ⑦岡倉伯士氏﹁銀櫨と大屋子﹂建国大学研究院﹁研究院月報﹂第三+三号一八頁。  ⑧⑨  ﹁南世個洲⋮経済調査脂貧料旧第六営︻口﹂第一篇 留貧勿 六二頁。

@@@@@@@@@@

岡倉氏 右論文﹁研究院月報﹂第三十三号 ︸八頁。 岡倉氏 右論文 一七頁。 岡倉氏 右論文  一八頁。 岡倉氏 右論文 [八頁。 岡倉属 右論文 一八頁。前掲﹁南満洲経済調査資料 第六営口﹂第一篇 右壷目 第一篇⋮ 印貝易  山ハ五百ハ。 右書 第一篇 貿易 六五頁。岡倉氏 右論文 一八頁Q 岡倉氏 右論文 二〇頁。 晶削掲書 第一笛⋮ 留ハ日勿 六五頁。 岡倉氏 右論文 一七頁。 営口を中心とする輸出入品の取引と経済循環 貿易 六二頁、六五百ハ。 一三

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営口を中心とする輸出入品の取引と経済循環 一鴎 三  たしかに、岡倉教授のいわれるように、営口経済において大屋子と銀炉の演じた役割は注目すべきものであるが、営口 における商品流通は単に大屋子が関係した輸入品の流通だけに限られたわけではない。さきに説明したように、満洲が再 生産する農産物およびその加工品とくに大豆三品なる輸出品の流通も注目すべきもので、この輸出品の流通と輸入品の流 通が表裏をなして営口の商品流通を形成したわけである。ここにまた満洲の再生産的経済循環が貿易を中心として集中的 な表現をとっていることも了解されるのである。そしてこの二つの商品流通を媒介としたのが過炉銀であり、銀炉による 過炉銀金融は大屋子に対して目立ってなされたが、すでに述べたように、豆粕、豆油の飛子の売買を通じて油壷に対し、 銀炉の過炉銀金融の行われたことも想起しなければならない。  されば営n[の過炉銀は、実に、満洲の再生産的経済循環が、営口貿易を中心に、集中的に現出した輸出入品の二大商品 流を貨幣的金融的に媒介した所にその存立と発達の根拠があるといわねばならない。  いま、右に述べたことを明らかにするために図表化して見ると次頁の図の如くなる。 ︹図表の説明︺        ①  満洲の奥地経済循環は、すでに論じたような形態をとるが、ここでは紙面の関係上農民との関係は小型の内円として表わした。先ず ω奥地の農民が農産物を販売する。②この農産物は奥地商人の手によって営口に齎らされ、㈲その客商︵奥地商人の出張員︶によって あるいは前記の奥地商人から買入れた勤口商人によって、経紀の仲介の下に貿易商に売却される。代金は過瀬瀬であるが、それは貿易 商が輸出によって入手した貨幣を過合銀に換えて支払ったものである。 ︵下の部分図参照︶  黒房は先に述べた如く、㈲開河後渡の条件で豆粕、豆油の飛子を発行し、これを即金で銀緯に売って過炉銀を入手し、㈲原料大豆を 購入する。㈲この養子は六月一日払の条件で貿易商に買取られ、ω開河後出房に呈示して豆油豆粕を入手して輸出する。輸出荷為替に

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〉 営口を中心とする輸出入品の取引と経済循環 一五

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    営口を中心とする輸出入品の取引と経済循環      =ハ よって得た資金は六月一日に銀炉に飛子の代金として支払われる。  上述のようにして大豆の代金を過炉銀で受取った商人は、奥地に送金の際銀炉で銀両あるいは奥地に流通するその他の貨幣に換える か、あるいはこの奥地向為替を取組む。この表では直接送金のことが描かれている。  輸入品の買付の代金は結局は 圖農民に買漉した代金が ゆ奥地商人の手を通じて富豪の客商に齎らされ、⑩これが銀炉で過炉銀に 換えられ、⑪これが大屋子を通じて輸入品の買付として貿易商に支払われる。貿易商はこれを以って結局銀炉で外国為替銀行に通用す・ る貨幣︵正金銀行の場合は砂票︶に換え、この銀行で送金為替を取組む︵下の部分図参照︶。  なお奥地の商入が.場合によっては大屋子に輸入品買付代金を立替えてもろう場合、大屋子は三生から金融をうける。この場合、奥地 の商入はその商品を奥地で買却しその代金を雨曇銀に換えて期限に大屋子に支払うわけである。  ① 拙稿﹁清代満洲における中国植民地的経済循環の形成﹂滋賀大学経済学部開学十周年記念論文集二二頁以下参照。

参照

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