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清代帆船沿海航運史の研究

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(1)

著者 松浦 章

発行年 2010‑01‑25

URL http://hdl.handle.net/10112/00020059

(2)

第5編

清代帆船粤東・台湾沿海の航運

(3)

1 緒 言

 広東省は古くから海外諸国と関係の深い地であり、とりわけ広州は海外貿易の一基地であっ た。他方、広東省の人々も海との関係が深く、清代初期の屈大均の『廣東新語』巻十四、食語 の条に、

  廣爲水國、人多以舟楫爲食。

とある。広東省は沿海に位置していることから人々は古くから沿海に居住し船舶を利用して生 活の糧を求める環境に慣れ、船舶を利用した生活活動に慣れ親しんでいたのである。

 広東省の人々の古くからの水上活動に関して、これまで研究されたものは多くない、専著は 水上生活者の蜑民を中心とするものであったが、中国水運史叢書の一冊として

『廣東航運史 (古

代部分)』が出版された1)

。同書は広東省社会科学院歴史研究所の葉顕恩氏が中心となり、譚

棣華氏と羅一星氏の3氏が執筆されたもので、広東省の主に先秦時代より清代のアヘン戦争前 の時期に及ぶ広東省に関する航運史に関する専著である。同書の内容は多岐にわたるが、同書 の第三章、第五節「船戸的運輸活動及其経営管理」において清代前期の広東省における船舶所 有者であった船戸の活動形態を3種に分類された2)

 その3種とは、潮澄商船の海上活動、内陸水運の活動、蜑戸の運輸活動である。これらを主 に掲げ従来明確でなかった廣東省沿海民の航運活動について初めて考究されたと言える。しか し、紙幅の関係から、その活動実態を充分に究明されているとは言えない。

 そこで、本章は同書で提起された問題の一つである「潮澄商船の海上活動」に関して、とり わけ沿海活動についてこれまで収集してきた清代商船の漂着資料を通じて一見解を述べてみた い。『廣東航運史』において掲げられた「潮澄商船」とは広東省潮州府所属の各縣の商船を意 味している。本章もこの分類に基づき以下述べていくことにする。

1)『廣東航運史(古代部分)』人民交通出版社、1986年。

  宮田道昭「清末、潮州地方における砂糖貿易の展開と地域社会─汕頭港の流通状況を中心として─」神田 信夫先生古稀記念論文集『清朝と東アジア』山川出版社、1992年。同論文において汕頭港の対外開港以降 を中心にジャンク貿易と地域社会の関係について論じている。本章とも関連する問題が見られるが、本章 では航運史の視点から考察したものである。

2)『廣東航運史(古代部分)』212〜213頁。

(4)

2 清代潮澄商船の漂着資料

 清代において広東省の潮州府は海陽、豊順、潮陽、掲陽、饒平、恵来、大埔、澄海、普寧の 9縣と南澳庁の1庁を管轄していた3)

。この内、沿海地区は潮陽、掲陽、恵来、澄海、南澳庁

の4縣、1庁であり、とりわけ潮陽、澄海の2縣は海上貿易の中心地であった。特に澄海縣の 中心港が、『清史稿』巻七十二、地理志十九、廣東省、澄海縣の条に、

  商埠曰沙汕頭、咸豊八年、英天津条約訂開。

とあるように、咸豊八年(1858

)に清国とイギリスとの間に結ばれた天津条約によって対外開

港された沙汕頭である。この沙汕頭が18世紀頃より汕頭と略称されるようになったと言われ、

対外的にはスワトーと稱せられるようになった4)

 潮州の沿海における海上交通上の立地点について藍鼎元が『鹿洲初集』巻十二、説、「潮州 海防圖説」において次のように記している。

潮郡東南皆海也。左控閩漳、右臨恵廣、壮全潮之形勢、爲兩省之屏藩、浩浩乎大観乎哉。

春夏之交、南風盛發、揚帆北上、經閩省出、烽火流江、翺翔乎。寧波・上海、然後、窮盡 山・花鳥、過黒水大洋、遊奕登莱・関東

・天津間、不過旬有五日耳。秋冬以後、北風勁烈、

順流南下、碣石・大鵬・香山・厓山・高・雷・瓊・崖、三日可歴遍也。外則占城・暹羅、

一葦可杭、噶喇吧・呂宋・琉球、如在几席、東洋日本、不難扼其吭、而擣其穴也。

 潮州は北は福建省の漳州に、南は広東省の恵洲、廣州に連なり、春から夏の時期には南風が 吹き、その風を利用して寧波や上海に到り、さらには長江口に近い盡山や花鳥山を経て山東省 の登州、莱州に、そして関東や天津まで15日を要しないで行くことができる。秋冬の時期は北 風によって南下し広東省の碣石、大鵬、香山、厓山さらには高州や雷州そして瓊州や崖州まで 3日余りで航行できる。外国は占城や暹羅そしてジャワ、ルソン、琉球へと航行するがあたか も自己の家屋敷を動くようなもので、日本へも航行可能であったとしている。

 事実、江戸時代にも潮州から長崎へ多くの商船が来航していた。元禄三年(康煕二十九、

1690)六月二十五日に長崎に入港した66番潮州船は広東省の物産に関して次のように報告して いる。

廣東一省は諸省之内にても別而米穀大分出申省にて御座候、諸方へ売買に遣し申米穀、其 限り難知程に御座候、其外土産には砂糖、とたん、山歸來の類、取分け多出申候、糸端物 はしゅす、どんす、しゅちん、たびい、びろうど、金入金沙類之大巻物出申儀に御座候、

さや、ちりめん、りんず等の端物は他省より参候て、土産には無御座候、海辺の地とは乍 申、土産には成程結構の物出申儀に御座候、尤巻物類、潮州土産にては無之、皆々本城下

(廣州)にて織出し申巻物共にて御座候

5)

3)『清史稿』巻七十二、地理志十九、廣東省、潮州府の条。

4)『汕頭史話』廣東旅游出版社、1989年、20〜21頁。

5)『華夷変態』中册、財団法人東洋文庫、1958年3月、1248頁。

(5)

 潮州において米穀、砂糖、とたん、山帰来等を多く産出したが、しかし金入金沙類の反物は 潮州において産出せず廣州城下にて生産されていた。

 光緒四年(1878)五月十五日付の記名副都統粤海関監督の俊啓の奏摺によると、

至各處新關税務、惟潮州之汕頭、設立最久、税収最旺、因其水道近接福建、陸路直達江西、

商賈輻輳、百貨鱗集、所以銷售6)

とある。19世紀中葉以降の対外条約によって漸次対外開港された新海関の中でも設立の古い潮 州の汕頭は、後背地として福建省や江西省を保持しているため商業活動の活発な地であるとさ れていた。

 汕頭港を中心基地とする清代の潮澄商船が海上活動を行う過程で、海難に遭遇して朝鮮半島、

琉球群島に漂着した事例が7件知られる。まずその事例を順次掲げてみたい。

 A 乾隆四九年(1785

)九月十三日朝鮮泰安漂着潮澄商船

 乾隆四九年九月十三日に朝鮮国の泰安に一隻の船舶が漂着した。そこで泰安郡守の李壽等が 同船を調査したところ次の事実が判明した。『同文彙考原編』巻七十三、漂民、「甲辰、報泰安 漂人發回咨」(三二丁裏〜三三丁裏)による。

問情漂人陳綿順等三十九人回稱、俺等係廣東省潮州府澄海縣人、五月初旬、装載貨物、往 天津發賣、八月二十日、欲往膠州販買荳貨等物、來到海中、忽被風浪、漂至貴國、而船中 三十九人無一人 没疾病之患、所載物件、在天津發賣、完収銀四千餘兩外、別無貨物、願 以本船速速還歸、云云。

とある。潮州府澄海縣の商船に陳綿順等三九名が乗り組み、乾隆四九年五月初旬に貨物を積載 し、恐らく潮澄より出帆し、天津に入港して積み荷を売却した。そして八月二○日に山東の膠 州に寄港して、帰帆の積み荷として豆等を購入する予定であったものが、海難に遭遇して朝鮮 国に漂着したのであった。この船の航海経路は次のように考えられるであろう。

潮澄→天津→膠州……→潮澄

 B 乾隆五十年(1786

)十二月十四日琉球山北漂着潮澄商船

 乾隆五十年十二月十四日に琉球の山北地方に一隻の船舶が漂着している。同船を琉球の官吏 が調査している。それは『歴代寶案』第二集、七二に見える。

拠本國山北地方官報稱、乾隆五十年十二月十四日、有海船一隻、飄至運天地方、詢拠其船 戸陳萬金口稱、萬金等係廣東省潮州府澄海縣商人、共計三十八名、坐駕澄字五百二十三號 6)『宮中檔光緒朝奏摺』第2輯、故宮博物院、1973年、15頁。

(6)

船隻。乾隆五十年六月二十八日、装載檳櫛、本縣開船、七月十五日、前到天津府天津縣、

兌換貿易。十月初七日、其處出口、十一月初六日、往到盛京省奉天府寧海縣。置買黄荳、

十一月二十八日、開船。十二月初二日、到山東大石島山、同日放洋、要回本縣、不擬、初 三日、 遭西風、……十二日夜、飄到貴國葉壁山、十四日、彼山民人、搭坐本船、引到貴 轄地方等語。

  計 開

 船戸 陳萬金  舵工 蔡 仲  水手 張可春  荘廷合  蕭 弼  鄭 唖     李炎鳳  陳 福  林 疇  許 木  荘 敬  劉 長  李 泰     蕭 西  陳淑梧  陳 兌  黄 家  陳 獅  蔡 祖  蕭 二     陳 金  劉仁合  朱 甲  黄 剣  洪強利  洪都利  陳禹合     姚 利  張 秋  陳 炳  林 興  羅 記  劉総合

 客商 陳名利  張良合  張港記  楊 利  陳会記  以上通船共計三十八名7)

とある。乾隆五十年十二月十四日に琉球に漂着したのは潮澄商船の澄字五二三号商船であった。

澄字五二三号商船は乾隆五十年六月二八日に、澄海縣より船戸陳萬金ら三八名と檳榔等を積載 して、七月一五日に天津に到着して貿易し、十月七日に天津を出港して東北の寧海縣へ寄港し て黄豆を購入して帰国する途上の琉球への漂着であった。同船の航海経路は次のようになる。

潮州府澄海縣→天津→盛京省寧海縣……→潮州府澄海縣

  C 嘉慶十九年(1814)十二月二十五日琉球八重山島漂着潮澄商船

 嘉慶十九年一二月二五日に琉球八重山島に一隻の海船が漂着した。琉球の官吏が調査したも のが、『歴代寶案』第二集一一八に見える。

拠本國轄屬八重山地方官報稱、嘉慶十九年十二月二十五日清早、有海船一隻、被風飄至本 島、擱礁損船、即撥小船数隻、拯救登岸、給食活命、詢拠船主呉利徳等口稱、本船係廣東 省潮州府澄海縣牌名呉永萬商船、通船人数、舵工水梢三十六名、搭客二十二名、共計 五十八名、坐駕澄字一百四十九號船隻、客歳六月十八日、装載赤・白糖

等項、在東隴港開船。八月初七日、前到天津府、發賣其貨。九月十一日、該地開船、轉到 西錦州、置買黄荳・木耳・牛油・甘草・防風等件、要回本籍、十月初三日放洋、至同 二十六日、因風不順、暫収入山東威海澳、(中略)、至十一月二十九日開駕、十二月初六日、

7)本書第1編第3章参照。

(7)

駛到江南大洋、 遇暴風、 斷 舵、随風漂流、至同二十五日早晨、擱礁打破、現存船主・

舵水・搭客共四十九名、其外九名淹死、所有貨物、亦尽漂棄。

    計 開

   被風中國難商船主 呉利徳  舵水  陳利南  蔡光宜  劉其義  陳順利     譚符合  呉利欽  姚典利  陳義合  蔡明合  黄啓合  姚合發     陳英合  譚顕榮  陳振興  楊發利  邱傑存  林廷元  譚顕利     王元利  楊進利  余美利  陳著合  黄志明  邱傑信  林振發     楊吉合  陳順發  蔡乃勤  陳順利  郭佳利  郭佳發  林澤合     李耀珠  陳隆生  楊發士

   客人 陳克如  呉桂記  林大奴  陳協綢  陳見龍

    劉 猪  王 順  呉江合  李猪合  蔡 報  林廷玉  陳 贊     蔡奴仔  江友存

   以上通船共計五十名8)

とある。

 嘉慶一九年一二月二五日に琉球八重山に漂着したのは廣東省潮州府澄海縣の牌名を持った呉 永萬商船であった。同船の登録船号は澄字一四九号であり、この船に呉利徳等三六名の乗組員 と二二名の客商が乗船し、赤砂糖、白砂糖等を積載して、嘉慶一九年六月一八日に潮州府澄海 縣治下の東隴港を出帆した。そして八月七日に天津に到着し、積み荷を売却し、九月一一日に 盛京省の西錦州に向かった。西錦州とは錦州の天橋廠のことである9)

。天橋廠で黄豆等を購入

し積載して帰帆しようとしたが、風不順のため、山東省の威海澳に寄港し、一二月初めに海難 に遭遇して琉球に漂着したのであった。

 同船の航海経路は次のようになる。

潮州澄海縣東隴港→天津→盛京錦州・天橋廠→山東・威海澳……→澄海縣

  D 道光四年(1824

)十二月七日琉球葉壁山漂着潮澄商船

 道光四年一二月七日に琉球の葉壁山地方に一隻の海船が漂着した。この時の記録は『歴代寶 案』第二集、一四○に見える。

拠葉壁山地方官報稱、道光四年十二月初七日、有海船一隻、被風飄到本山伊是那洋面、即 遣土民細問来歴縁由、拠難人蔡高泰口稱、本船係廣東省潮州府澄海縣澄字六十四號商船、

8)本書第1編第3章参照。

9)本書第2編第3章参照。

(8)

通船舵梢十五名、搭客七名、共計二十二名、道光四年七月二十四日、装載糖貨、本縣出口、

九月初四日、到天津府發賣、十月初三日、装載高粮酒・烏棗等貨、該地出口、初八日、到 瀋陽省寧遠州、装載荳貨、十三日、該處開船、二十八日、轉到山東、十一月初四日、該地 放洋、要回本籍、不意十二日、洋中 逢風 濤大作、失舵 、貨物 棄、任風飄流、幸頼 天神護祐、十二月初七日、飄到貴國等語。

  計 開

 被風廣東省難商船主 蔡高泰  舵工 王得順  頭碇 陳合興  香公 陳應春    杉板 李經得  阿班 邱壽盛  舵寮 陳之龍  水手 高衍進  黄永順    林茂發  押内 高和茂  小火 呉吉安  呉萬令  林得利  囗捷順   客商 陳逢發  魏振聲  蔡福泰  鄭肇有  林紹合  陳得高  陳坤記  以上二十三名10)

とある。道光四年十二月七日に琉球の葉壁山地方に漂着したのは廣東省潮州府澄海縣の澄字 六四号商船であった。同船は乗組員一五名、客商七名が乗船し、砂糖等の積み荷を載せ、道光 四年七月二四日に澄海縣を出帆し、九月四日に天津で積み荷を売却した。そして、天津で高粮 酒等を購入して、さらに盛京省の寧遠州に赴き、豆貨等を購入積載して帰帆に琉球荷漂着した のである。同船の航海経路は次のようになる。

潮州澄海縣→天津→盛京・寧遠州……→澄海縣

  E 道光十年(1830)十二月二日琉球与那良地方漂着潮澄商船

 道光十年一二月二日に琉球与那良地方に一隻の船舶が漂着した。その時の記録が

『歴代寶案』

第二集、一五四に見える。

林任等六名係廣東潮州府饒平縣人、駕駛林福禮船隻、通船共三十三人、於道光十年五月 二十二日、在廣東東隴港、装載糖貨出口、六月初二日、到上海縣貿易、収買棉花・米・豆 等物、十一月十一日、開駕回籍、十三日、在洋遭風、船隻打壊、林福禮等二十三人、駕坐 杉板小船、不知下落、林任等十人、蔵身水櫃、任風漂流、内謝任

許郷

許敬三名在饑斃、

十二月初二日、漂収琉球國与那良地方11)

とある。道光十年五月に廣東潮州府饒平縣の林任等三三名が林福禮の商船に廣東潮州府澄海縣 の東隴港より砂糖等の積み荷を載せ、上海へ行き積み荷を売却して、棉花、米、豆等を購入し 帰帆したが、海難に遭遇して琉球に漂着したのである。同船の航海経路は次のようになる。

10)本書第1編第3章参照。

11)本書第1編第3章参照。

(9)

廣東潮州府澄海縣東隴港→上海……→廣東潮州府饒平縣

  F 道光十年(1830

)十二月四日琉球大島漂着潮澄商船

 道光十年一二月四日に琉球の大島に一隻の海船が漂着した。その記録は

『歴代寶案』

第二集、

一五三に見える。

拠大島地方官報稱、道光十年十二月初四日、有海船一隻、被風飄到本島屋喜内縣洋面、拠 難人楊傳順等口稱、本船係廣東潮州府澄海縣楊順合牌票、澄字一百五十九號商船、通船舵 梢一十八名、搭客五名共計二十三名、装載黄・白糖等項、道光十年五月一五日、在本省涼 州府陵水縣、開船、因風不順、在各處灣泊、八月初五日、到天津府發賣糖貨、九月十五日、

該處出口、九月二十日、到奉天省寧遠州、収買黄豆、十月初七日、該州開船、要回本籍、

不意十一月初一日、在洋遭風失舵、任風飄流、一個月餘、幸蒙皇天眷庇、十二月初四日、

飄到貴島洋面、通人数、共見船身沈覆、坐駕杉板小船、上岸活命等語。

  計  開

 船主 楊傳順  舵工 張宗耀  水手 劉振利  謝猛花  林阿獅  林懐碧   黄囗囗  劉振武  黄隆昇  黄智囗  陳阿科  黄阿囗  劉囗盛   楊玉合  楊友文  張大財  王長言  黄阿扁

搭客 楊阿部  蔡阿四  蔡縄仲  楊阿扁  高金井 以上共計二十三名12)

とある。廣東潮州府澄海縣の楊順合の澄字一五九号商船に乗組員一八名と客商五名の計二三名 が黄糖や白糖等の積み荷を載せ、道光十年五月一五日に海南島の陵水縣より出帆し、八月初五 日に天津府に入港し、積荷を売却し、同地より東北の寧遠州に赴き黄豆を購入して、本籍に帰 帆したが、海難に遭遇して琉球に漂着した。同船の航海経路は次のようになる。

潮州府澄海縣→陵水縣→天津→盛京 寧遠州……→潮州澄海縣

  G 道光十六年(1836

)十二月十六日琉球山北漂着潮海商船

 道光十六年一二月一六日に琉球の山北地方に一隻の海船が漂着した。同船に関する記録は

『歴

代寶案』第二集、一六四に見える。

12)本書第1編第3章参照。

(10)

拠山北地方官報稱、道光十六年十二月十六日、有海船一隻、被風飄到本府金武郡外洋、詢 拠廣東省潮州府澄海縣難人船戸陳進利等口稱切利等、通船舵梢四十名、搭客十名、共計 五十名、坐駕海船一隻、梁頭一丈八尺、並帶船票、装載糖貨、道光十六年六月二十一日、

本縣出口、七月二十九日、到山東省洋面、停錠、八月十六日、轉到天津府貿易、九月二十 日、天津開船、二十六日、再到山東省福山縣、採買黄豆・小麦・豆餅等項目、十一月初五 日、該縣放洋回籍、不擬初八日、 遇西北大風、失舵  、任風飄流四十餘日、米水倶尽、

正在饑渇、待斃之際、幸頼皇天庇祐、十二月十六日、飄到貴轄地方等語。

  計  開

船戸 陳進利  舵工 陳發財  水手 杜 利  林 欣  囗 和  金 元  陳 茶  孫 成  呉 月  林 江  陳 部  蔡 脩  鄭 恭  許 好  陳合利  黄 州  黄 由  陳 順  林 平  馮 五  杜 財  余 發  黄 萬  李 金  陳元寶  李 是  呉 吉  金 日  李 定  周 元  陳 亨  金 銀  林 才  林合先  鄭 之  李 巳  王 士  陳 册  余 未  陳 勝

搭客 陳 福  李 合  林 和  陳 利  鄭 禄  黄 意 李 光  呉 忠  林 拱  陳 生

以上共計五十名13)

福建巡撫 魏元烺奏摺 道光十七年(1837)四月二十七日奏摺「琉球國遣使護送廣東省遭 風難来閩譯訊供情」

拠該難民陳進利・舵水陳發材等供称、倶係廣東潮州府澄海縣人、内水手杜利等係福建泉州 府同安縣人、通船共四十名、駕坐商船一隻、装糖貨、於道光十六年六月二十一日、由澄海 縣出口、七月二十九日、到山東洋面寄碇、八月十六日、転到着天津府貿易、九月二十日、

在該處開船、附搭澄海縣客民陳福等十名回籍、二十六日、又到山東福山縣、採買黄豆・小 麥・豆餘等物、十一月初五日、開駕回籍、初八日、在洋遭風、砕[木危]舵、任風漂流、

至十二月十六日、漂収琉球國金武郡洋面。十八日又遇暴風猛起船隻、閤礁撃砕、貨物沈失、

経該處夷官派撥小船、将該難商等救護上岸。…14)

とある。

 廣東潮州府澄海縣船戸陳進利の海船に乗組員四十名、客商十名が乗船し、砂糖等の貨物を載 せ、道光十六年六月二一日に澄海縣を出帆して、天津に入港し恐らく積み荷を売却し、その後 13)本書第1編第3章参照。

14)台湾故宮博物院蔵『宮中档道光朝奏摺』第2輯(3)749頁

(11)

山東の福山縣に寄港して黄豆等を購入し、本籍に帰帆したが、海難に遭遇し琉球に漂着したの であった。同船の航海経路は次のようになる。

廣東潮州府澄海縣→天津→山東 福山……→澄海縣

3 清代潮澄商船の活動領域

 清代において潮澄商船が中国大陸沿海を広範囲に活動していたかは、前節のA〜Gの資料か らも明らかであるが、潮州汕頭の外国への開港後の記録でも詳細に知られる。『海関10年報』

1882

1891年の汕頭によれば次のようにある。

全土着の回漕業は他の港との貿易に従事している。船数は今や80隻に過ぎない。もし、我々 が1858年に振り返れば、少なくとも400隻の海上航行ジャンクを見出したであろう。1869 年ではこれらは、約300隻に減少した。そして1882年には、その数は110隻になった。この 急激な減少は勿論主に蒸気船との競争によるためである。しかし、幾分また豆粕が肥料と して全く南京豆粕に取って替わられたためで、それが非常に安価のためである。南京豆粕 の貿易を望んでいる商人等は彼等が現在稼働している彼等の船舶を維持し続けるためにか なり多くの出費をしたくないと言う上述の先の暗い見方による。また、彼等はほとんど新 船舶を建造しないであろう。ここでは、5年ほどの間に、我々はかって繁栄していた実業 がなんと消滅する事態を見るかもしれない15)

と、19世紀末期において潮澄商船の航運業が、外国等の蒸気船の進出により危機に瀕していた ことが知られる。しかし道光年間には少なくとも約400隻の海船があり航運業に従事していた ことが知られる。

 潮澄商船の海船の種類に関して同書に次のようにある。

5種類の海上航行ジャンクがある。即ち羅舴

(lorcha)、頭猛 (t'ou-meng)、海波 (hai-po)、

紅頭(hung-t'ou)と青頭(ch'ing-t'ou)である。羅船は最大のものであり、八○○○坦 の輸送容量がある。頭猛と海波は平均約6,000坦であり、3,000坦から4,000坦が他の種類の 適当な輸送能力である。それらは、全て同様に3本の帆柱と普通のむしろの帆によって艤 装されている。ジャンク貿易が特に営まれている港は、赤坎、安舎、陽江、電白、水東、

瓊州と北海であり、全て廣西省にある。そこから汕頭に南京豆粕や木材、皮革製品等が輸 入され、そして替わりに粗磁器、陶磁器、下級品のコショウ、塩漬けの野菜類がもたらさ れる。そして、福建省の雲霄、銅山と詔安があり、油、砂糖、上質胡椒、麻、綿花等が運 ばれてくるが、主に蒸気船に転換され他の港に運ばれるためである。寧波、温州、台南、

15) , 1882-1891, First Issue, 1893, Swatow, p.533.

(12)

広東や香港への積み荷には雑多のものがある。たとえば、バッグ、油、麻、綿花等である。

北方の港との貿易はある時期重要であったが今は中止されている16)

と、汕頭における潮澄商船の活動海域を具体的に記している。

 潮澄商船の主要なものとして羅舴(lorcha)、頭猛(t'ou-meng)、海波(hai-po)、紅頭

(hung

-t'ou)、青頭(ch'ing-t'ou)などの5種類があった。その中でも羅舴が最大の積載量を 誇り、最大の物は8,000坦の輸送容量があった。頭猛と海波は平均約6,000坦であり、紅頭と青 頭は3,000坦から4,000坦の積載量があった。

 嘉慶『澄海縣志』巻六、風俗の生業には、

行舶、艚船亦云洋船、商船。以之載貨出洋、閩粤沿海皆有之。閩船緑頭較大、潮船紅頭較 小。

とある。澄海縣では海上航行船舶を行舶、艚船、洋船、商船等と呼称しており、福建や広東省 の沿海でよく見られる風景であった。福建船の緑頭は大型船17)であったのに対し、潮州府下 の紅頭はそれに比較して小型であったとある。上記の『海関10年報告』から紅頭は小型帆船で あっても3,000担から4,000担の積載量があった。

『海関

10年報告』1882

1891年の山東省の芝罘の条に、スワトウ・ジャンクの来航に関して 次のように記している。

スワトウ ジャンク、スワトウジャンクは紅頭と呼ばれている。それれの積載量は2,800 担で、その乗組員は30名である。1年に約7隻が芝罘に来航し、土産の物資を運んで来る18)

とあるように、芝罘方面に進出していたスワトウ・ジャンクは一般に紅頭と呼称されていた。

『海関10年報告』1882〜1891年の海南島の瓊州の条には、

この港のジャンク貿易を見た時、明らかに減少している。1年に到着する船舶は83隻あり、

33隻が汕頭から来航する。廣東に近い江門から29隻、北海から21隻である。スワトウのジ ャンクは2種類あり、海波と紅頭である。それらは2,000担から5,000担の異なる積荷を運 んで来る。輸入品としてそれは紙、パーミセリ

(西洋そうめん)、

乾燥ユリの花、火打ち石、

毛氈、小麦、豆等であり、帰帆の貨物としては大部分がからむし布、牛のにかわ、なめし 皮、獣皮、ごまの実、落花生、豆粕、落花生油等である。スワトウに航行する前にこれら のジャンクは一般に大陸の海安に寄港する。そこでこれらの船は積荷を満載する。乗組員 の数は20名から26名で、スワトウの近郊の者か、あるいは福建に隣接する地域の者である。

帆船の証明書はスワトウにある地方官憲によって発行されている。その手数料は10ドルか ら50ドルまで異なる。それはジャンクの大きさや許可された書類の効力の期間などによる ためである。スワトウ・ジャンクの價値は3,000ドルから6,000ドルまで異なっている。概

16) , pp.533-534.

17)本書第4編第1章参照。

18)  1882-1891, Swatow, p.162-163.

(13)

して各ジャンクは毎年3航海をしている19)

とある。

 また民国23年(1934)九月より同24年(1935)四月までの閩粤地域の調査に拠れば、

航海用の帆船は其の船首は多くは色を塗り、廣東東部は紅を尚び、俗に 紅頭船 と稱し、

厦門船は緑を尚び俗に 青頭船 と稱している。大型の帆船で例へば厦門から台湾、寧波、

上海或は南洋へ航行する如きは積載量1,500噸で乗組員30人を有している。小型帆船の積 載量は500噸で乗組員は12人である。此種帆船の大部分は貨物運搬を主としてゐるが、汽 船が未だ通はなかった以前には、我国から南洋へ移住するには即ちこの種の帆船に乗じて 渡航したのである。此種の帆船で輸出される貨物には、福建、廣東の物産では茶、木材

(杉

松等の如し)、砂糖、陶磁器、果物、夏布等の如きがあり、輸入されるものは、我国の他 の地方の商品或は外国貨物である20)

とあり、20世紀初頭においても汕頭を中心とする廣東東部において紅頭船が活動していた状況 が知られる。

 同調査によれば、紅頭船の活動事例をさらに次のように記している。

或る老人の中には尚ほ能く 紅頭船 の概況を記憶してゐる者がある。例へば潮州附近の 者で八十四歳になる或る帰国移民は次の如き話をして呉れた。

「私が小さい頃、村内に八艘の紅頭船が有って、南洋及び北洋方面に航海し、北は天津、

上海に達し、南は盤石に迄及んゐたことを今尚ほ記憶してゐる。そして北往の際は、潮州 蜜柑を積み、南往の際は豆、茶、生絲等の貨物を積んでゐた。最大の船は二百人位を乗せ ることが出来た。暹羅に行くには汕頭を出帆して約一ヶ月かかってゐた。普通の渡航客は、

只一個の瀬戸物の水入れと着更一著、他には一個の笠と一枚の蓆とを携帯するだけであっ て、下船後は、只天運に任せるより外致方が無かった」と21)

と、調査時の1934年、1935年頃に84歳の老人が幼少の頃であれば1850年、1860年代であり、そ の当時の汕頭附近の紅頭船の活動事例が、上述の漂着文献史料の内容とほぼ符合する証言が得 られたと言えるであろう。

 潮澄商船の航行運営の形態については、嘉慶『澄海縣志』生業に、

候三・四月好南風、租舶・艚船、装所貨糖包、由海道、上蘇州・天津。至秋東北風、起販 棉花・色布回邑。下通雷・瓊等府、一往一來、獲息幾倍、以此起家者甚多。

とある。砂糖業の盛んな澄海地域では生産された砂糖を旧暦の三、四月に吹く南風を利用して

19) , Kiungchow, p.632.

20)『南洋華僑と福建・廣東社会』満鉄東亞経済調査局、1939年9月、25頁。同書は北京清華大学陳達教授の民 国23年(1934)9月より同24年(1935)4月まで及び同25年(1936)2月の調査にもとづく『南洋華僑與 閩粤社會』民国26年(1937)9月序の翻訳である。

21)『南洋華僑と福建・廣東社会』53頁。

(14)

沿海を帆船が海上を蘇州や天津方面を目指して北上し、秋の東北風が吹く頃に棉花等を積載し て澄海に帰帆した22)

。また南では廣東省南西部の雷州や海南島の瓊州等の方面まで出航し南下

していた。これらの潮澄商船の航運形態は1年に1航海を基準としており23)

、この航海によっ

て数倍の利潤を得て起家する者も多かったとある。

4 小 結

 上述のように廣東省の東部に位置する潮澄地域の沿海帆船の活動は、中国大陸沿海海域のみ ならず、南は暹羅までを活動海域とするほど広範囲であった。

 このような潮澄商船の沿海貿易の重要性について嘉慶九年

1804

三月十二日付の富俊の

「敬

陳寧遠州海口情形」という次の奏摺が記している。

伏査、盛京素稱産米之區、向來糧價倶平、所属旗民、倶靠耕種爲生、如遇豊稔之年、尚有 穀賤、傷農之病、加以吉林北邊外一帯、蒙古地方所産糧米、悉由陸運、奉省售賣、更形充 裕、自乾隆二十七年、准開海運以來、天津・山東・江・閩船隻、陸續到口、商販流通、旗 民等得以售糧獲利、家計漸饒、而各省之雑貨、亦順帯來瀋、實於旗民有益24)

 盛京地方は生産力旺盛な土地であり、また同地に居住する旗民の勤勉さによって豊年の年で あれば、穀物の価格が安くなり、また農業への弊害等が生じたりしていた。その上、吉林北辺 一帯や蒙古地方において産出する糧米も全て陸上輸送によって盛京地方に沿海部に運ばれて売 却され、さらに市場に穀物が充満することになる。乾隆二十七年(1762)に海運が開かれて以 降、天津や山東、江南、福建からの帆船が続々と盛京地方の沿海港に来航し、商品流通が盛ん となって、旗民らは穀物を売却し利益を得て家計が豊かとなり、また各省のさまざまな物資が 瀋陽に運ばれ、旗民に利益を与えることにあったとある。

 つまり沿海帆船の活動が東北地域の余剰物資を長城以南の沿海地域へ搬出する重要な役割を 担い、東北地域の人々にも経済的効果を享受できる状況を如実に記していると言えるであろう。

この奏摺には、潮澄帆船の盛京地方への来航については記していないが、潮澄商船と競業する 福建船について記していることから、また先に触れた漂着事例から鑑みても、潮澄商船も当然 これら東北来航の帆船の中に加わり活動していたと言えるであろう。

 清末の潮澄帆船の活動状況については、さらに『海関10年報』1892

1901年の汕頭の条に、

土着の船舶による他港との貿易は減少し続けている。しかし、多くの予想にもかかわらず、

それとは逆になお消滅状態には至っていない。幾つかの海上航行ジャンクが同地での活路

22)福建における同様な事例は、既に田中正俊氏が『中国近代経済史研究序説』東京大学出版会、1973年、に おいて、ミッチェル報告に基づき明らかにしている(180頁)。

23)本書序論第2章、第1編第3章参照。

24)中国第一歴史檔案館所蔵「硃批奏摺、商業類、嘉慶九─二十四年」所収檔案。

(15)

潮州帆船

「潮州貿易船」(『戎克 中国の帆船』中支戎克協 會、1941年、98頁)

を見出し、肥料粕や麦藁のむしろ、バッグ、皮革、葉タバコ、シュロ葉の扇等を積載して 南方のカントン、海口、高州、雷州や廉州へ。綿花、豆油、や塩漬けの魚が寧波から来る。

そして南京豆油が山東の膠州から、そして、レンガやタイルが厦門から来る。以前、この 港と台湾の間で行われていたジャンク貿易は、日本の台湾占領以来全く停止した。蒸気船 の輸送が年々増加しているため、土着の船舶が航海に適さなくなった時、多くの船舶が再 び職を得られるかどうか疑わしい25)

とあり、清末の汕頭、潮澄商船の行く末を暗示している。しかし、これらの記事から潮澄商船 の活動海域が詳しく知られる。即ち潮澄の沿海帆船の活動領域は史料AよりGまでの7例と

『海

関10年報』の先の記事を参酌して次にように言えるであろう。

 潮澄沿海帆船は、北は渤海沿海の主要南であった錦州廠26)のみならず天津も主要な交易港 とし、航海沿海では山東省の膠州が最重要な交易港であった。長江口の上海も重要拠点とした27)

しかし長江以南の浙江省の寧波や福建省の沿海各港は交易港としては重視されていない。その 理由は、寧波や福建各港にはそれを基地とする有力な航運業が確立していた28)ためと考えら れる。

 他方、潮澄地方の沿海帆船の得意とした沿海海域は嘉慶

『澄海縣志』

巻六、風俗、生業に、「下 通雷・瓊等府」と記すが如く廣東省の雷州や海南島等であった。

25) , 1882-1891, Swatow, p.162-163.

26)松浦章「中国遼寧省錦州港参観記」、『阡陵』(関西大学考古学資料室彙報)No.18、1888年12月。

27)「創建潮恵會館碑」、『上海碑刻資料選輯』上海人民出版社、1980年、325〜326頁。

28)本書第3編第1章、第4編第1章参照。

1915年当時の汕頭帆船

1915年10月29日付、在汕頭領事代理河西信「汕 頭事情口絵送付之件」の「汕頭市街背面「戎克」

之輻輳」(日本・外務省外交史料館蔵による)

(16)

1 緒 言

 海洋に孤立する臺灣は古来より海運によって他地域と関係を保持していたが、特に清代にお いて帆船による大陸との航運関係は密接になっていったが、その主たる対象地域は中国大陸沿 海諸地域でありとりわけ福建沿海地域であった1)。しかしその台湾が航運関係を保持した粤東 の汕頭地域との関係に関しては十分検討されていない。

 中国広東省の潮州における地理的状況に関して、清の藍鼎元は『鹿洲初集』巻十二、説、「潮 州府総圖説」において次のように記している。

潮為郡當閩・廣之衝、上控漳汀、下臨百粤、右連循贛、左瞰汪洋、廣袤四五百里固、嶺東 第一雄藩也2)

とあるように、潮州は、東北部は福建省に、西南部は広東省の中心地域に、北西部は江西省の 南部に連なり、広東省東部沿海の所謂「粤東沿海」の有力な地である。

 潮州府治下の沿海に位置する潮陽縣に関して、光緒十年(1884)刊の『潮陽縣志』巻十一、

風俗、術業に、

至於巨商逐海洋之利、往來燕・齊・呉・越、號富室者頗多3)

とあるように、沿海の海商等は中国大陸沿海を北上し、華北、華東方面にまで進出し、富を形 成していたのであった。

 この潮州は中国沿海貿易において重要な位置にあった4)が、日清戦争、甲午中日戦争によ って台湾が日本の統治下に入ると台湾との関係が、それまでの国内における関係が、対外関係 と変化することになるが、このことに関してはこれまで殆ど研究されていない。

1)清代台湾と中国大陸間の航運関係に関する成果として次の研究がある。

  ・ 戴 寶村「台湾大陸間的戎克交通與貿易」『台湾史研究曁史料発掘研討會論文集』高雄・中華民国台湾史 蹟研究中心、1986年。

  ・ 陳 國棟「清代中葉(約1780−1860)台湾與大陸之間的帆船貿易─以船舶爲中心的数量估計」『台湾史研 究』1巻1期、台北・中央研究院台湾史研究所籌備處、1994年。

  ・松浦 章著、劉 序楓譯「清代台湾航海運動史初探」『台北文献』直字第125期、1998年9月。

  ・戴 寶村『近代台湾海運発展─戎克船到長栄巨舶』台北・玉山社、2000年12月。

  ・ 松浦 章「清末の福建と日本統治下の臺灣」藤善眞澄編『福建と日本』関西大学出版部、2002年3月、

165〜207頁。

2)景印文淵閣『四庫全書』1327冊765頁。

3)『潮陽縣志』中国方志叢書、華南地方46號、成文出版社、152頁。

4)本書第5編第1章参照。

(17)

 そこで本稿は、潮州の中心地であった汕頭を中心に日本統治下の台湾とどのような関係にあ ったかについて考察してみたい。

2 清末の汕頭における航運業

 1858(咸豊八)年の天津条約によって、潮州が対外開放の開港場となると、汕頭がその外港 の名目で1860(咸豊10)年に開港場となり対外的にはSwatowの名でしられるようになる。広 東省澄海縣汕埠に潮海関が設けられた5)。本来汕頭は沙汕頭と呼称される地であって、嘉慶『澄 海縣志』巻七、山川

沙汕頭口、距城西南三十五里、在蓬洲都。即沙汕頭前海澳也。右淤泥浮出、作沙汕数道、

乃商船停泊之総匯。東出大海、西達潮陽之豪後渓、西北通掲陽之北、砲台爲海防要隘。

とあることからも、澄海縣における商船の停泊地として知られていた。

 粤海関監督俊啓の光緒四(1878)年五月十五日付けの奏摺において、

新関税務、惟潮州之汕頭、設立最久、税収最旺、因其水道、近接福建陸路、直達江西、商 賈輻輳、百貨鱗集、所以銷售甚易6)

と報告しているように、潮州の汕頭は対外開放後も、福建、江西と隣接する地の利を生かして 貿易活動が活発で通関の船舶も多く税収が旺盛であった。

 清代において潮州とりわけ澄海縣は沿海航運が盛んであった。嘉慶『澄海縣志』巻六、風俗、

生業において、

行舶艚船亦云洋船、商船。以之載貨出洋閩粤沿海、皆有之。閩船緑頭較大、潮船紅頭較小、

用粉白油腹、而甚便於行、故名。各有雙桅、単桅之別。(中略)租舶艚船、装貨糖包、由 海道、上蘇州・天津至、秋東北風起、販棉花色布回邑、下通雷・瓊等府、一往一來、獲息 幾倍、以此起家者甚多。

とあるように、澄海縣は沿海航運業が盛んで福建船に比較して小型ではあったが、潮州産の砂 糖等を積載して北は長江口付近のみならず天津まで進出していた。これらの潮州船は秋には綿 花等の北の産品をもって帰帆していた。また南は雷州半島や海南島方面まで進出していたので ある。潮州府下の沿海帆船の具体的活動として先に明らかにした事例から、天津のみならずさ らに渤海沿海の港市や山東半島の膠州、威海衛等にまで進出していたのである7)

 汕頭に汽船が寄港するようになるのは対外開放された1860年以降のことであるが、定期航路 の寄港地として1873(同治十二)年以降のことである。怡和洋行が親会社として東海輪船公司

(China Coast S.N.Co.)が設立され、上海を起点に北は天津、烟台、牛荘、南は福州、厦門、

5)『海関常関地址道里表』税務處、1915年、四十四丁表。

6)『宮中档光緒朝奏摺』第2輯、国立故宮博物院、1973年7月、15頁。

7)本書第5編第1章参照。

(18)

汕頭、香港を結ぶ定期航運が行われるようになった8)

 日本の汽船会社が汕頭に寄港するのは20世紀になってからである。早期に大阪商船会社が明 治32年(1899)に淡水・香港線を開設したのに伴い汕頭を寄港地として英国商ブラッドレー商 会を代理店として営業したのに始まる。大正15(1925)年3月には汕頭海関路門牌第三号に出 張所を新設し営業した9)。同社の汕頭出張所は昭和14(1939)年10月に廃止される10)まで15 年間にわたり存続した。

 これに関して日本の領事報告である『通商彙纂』明治39年第53号に掲載された明治39年(1906) 8月3日付け在汕頭帝国領事館分館報告の「汕頭ニ於ケル列國商業状態」において、

去ル三十二年中ヨリ大阪商船会社ニ於テ臺灣・南清間ノ沿岸航海ヲ開始シ、日本郵船会社 モ本年(明治39)ヨリ汕頭・盤谷間ノ航海ニ従事シ、各々當地英商徳記洋行(Bradley & 

Co.)ヲ代理店トシ、定期其汽船ヲ當港ニ寄港セシメ頗ル好成績ヲ得居レリ11)

とあるように、明治32年(1899)に大阪商船が淡水・香港航路を開設し、汕頭を寄港地の一と したのに続き、日本郵船も明治39年(1906)には汕頭とタイのバンコックを結ぶ航路を開設し たため、汕頭と日本の関係が深まった。

 汕頭は、対外開放以降において欧米の企業が進出してきた。同報告においても、

當地ニ於テ商業界ニ最モ勢力アルモノハ英商ナリトス。

とされるように、イギリス企業が有力であった。同報告でも英国系企業の徳記洋行が有力で香 港上海銀行、ナショナル・バンク・オフ・チャイナ、シャン汽船会社、ベン汽船会社、日本郵 船会社、大阪商船会社、亜細亜石油会社等の代理業を営んでいた。また太古洋行、怡和洋行な どがあった。米国はスタンダード・オイル会社のみであった。独逸国は元興洋行、新昌洋行の 二社があるだけであった。これに対して日本は、明治35年(1903)に個人が写真業を開設した のが端緒で、明治37年(1904)以降において増加の傾向が見られ、商店を開店した者は九名に なっていた12)。しかし、日本統治下の臺灣に籍を有するいわゆる「臺灣籍民」は、

臺灣籍民カ當地ニ商業ヲ開始シタルハ、去ル明治三十二年九月中、曾廣欽ナルモノ益安洋 行トシテ雑貨・銭荘業ヲ開キタルヲ第一トシ、爾來雑貨・砂糖・布疋・紙類等ノ営業者續 出シ、現ニ開店セルモノ十九軒アリ13)

とする状況であった。

 『大阪朝日新聞』第9427号、明治41年(1908)6月9日に「5月13日付けの筆名・放浪「汕 頭より」(上)が掲載され、

8)『申報』同治十一年九月三十日、「東海輪船公司告白」、North-China Daily News, 28 Oct., 1872, 広告参照。

9)『大阪商船株式会社五十年史』大阪商船株式会社、1934年6月、762頁。

10)『大阪商船株式会社八十年史』大阪商船三井船舶株式会社、1966年5月、619頁。

11)『通商彙纂』明治39年第53号、1頁。

12)『通商彙纂』明治39年第53号、1〜3頁。

13)『通商彙纂』明治39年第53号、2頁。

(19)

…汕頭(スワトウ)の人口は例に依つて戸籍が整頓して居ないから、確実な数は分からな いが、先づ五萬から六萬迄の間らしい、英人が百三十九名、独逸人が六十五名、米人が 四十名、仏人十六名、葡萄牙人九名に対して、日本人は目下百九十名で此の外に臺灣隷民 が百二十人ばかり居るから、外国人としては日本人が最多數である、但し金と勢力とは別 問題だ。…汕頭も今でこそ立派な開港地で、年々輸出入額も増進しつつあるようなものの、

三四十年前迄はほんの荒涼たる一漁村で、汕頭の大部分は其の後海岸を埋立てて、現今の 繁栄を來したものだそうな。日本人が三四年以来ようやくここに入り込んで来て、せいこ うしたとかしないとか謂ふのは、甚だ大早計と謂はなければならぬ。…

とあるように、1908年頃には日本人の汕頭居住者は190名ほどに達していたが、臺灣籍民のほ うは120名ほどであった。両者を合計すれば、最大の英国人の139名を凌駕することになってい た。

 汕頭において台湾籍民は既に明治32年(1899)より商店を開設していたとされるが、これら の人々は台湾が日本の統治下になって突然進出したのでは無く、台湾が清朝の統治下にあった 時代から継続していた基礎の上であったと思われる。清朝時代から台湾と汕頭との密接な関係 を彷彿させる資料と言えるであろう。

 汕頭からは南洋方面に多くの移民いわゆる華僑を輩出しているが、それに関して『通商彙纂』

明治37年第64号に明治37年(1904)10月11日附の在厦門帝國領事館報告の「厦門及汕頭ニ於ケ ル支那移民事情」の中に汕頭からの海外移民の事情を次のように記している。

  汕頭ヨリノ船客輸送

汕頭モ亦厦門ト同ク南洋各地ニ出稼移民ノ多数ヲ占有スル地方ニシテ、其出稼先キハ柴棍、

暹羅、新嘉坡ヲ以テ重ナル場所トス。而シテ右等移民ノ運送事業ハ、殆ント英國及ビ独逸 両國ノ汽船ノ占領ニ帰セリ。茲ニ海関報告ニヨリ明治三十六年中ニ汕頭港ヨリ香港、柴棍、

盤谷、英領海峡殖民地スマトラ其他ノ地方ニ向テ出口セシ支那土人ノ員数ヲ査スルニ十三 萬四千四百二十一人ニシテ、此等ノ地方ヨリ汕頭ニ入口セシモノ(即チ該地方ヨリ汕頭ニ 帰来スルモノヲ云フ)十一萬三千九百九十八人ナリ。左ニ同港海関長ノ報告ニヨリ、明治 三十六年ニ於ケル船客輸送ノ概況ヲ述ンニ、同年ハ非常ナル活気ヲ帯ヒ、輸送業者ノ競争 ハ例ニ依テ出稼旅客ヲ益セシ、其員数ハ前年ニ比シテ著シク増加ヲ示シ、実際ニ於テ過去 十年間ニ倍スルノ有様ナリシ。昨年間ニ於テ盤谷地方ヘノ船客ノ員数増加セシハ、全ク従 来汕頭ニ開設ノ「ノルヂュツチャー、ロイド」社ノ汽船ト「フレメンノリツクマース」会 社ノ所有ニ係ル汽船五艘トノ間ニ競争アリシニ依ルモノニシテ、両会社競争ノ為メ七月ヨ リ十月迄ノ間ニ於テハ貨物船客共ニ無運賃ニシテ盤谷地方ニ輸送セラレシ。而已ナラス尚 ホ進ンテ双方共ニ船客吸収ノ手段トシテ食料会社持チノ方法ヲ取リシ位ナリシ。如此利益 アル状態ノ下ニ旅行スルコトヲ互ニ相争フコトハ実ニ自然ノコトニシテ、其員数モ亦漠大 ナルニ至レリ。然レトモ、此ノ急速ニ且激烈ナリシ競争ノ期間ハ至テ短時日ニシテ終リ、

(20)

十一月ノ始メニ至テ、「リツクマース」汽船ハ其事業ヲ停止シ、其船舶ノ大部分ハ北独逸「ロ イド」会社ノ船隊中ニ吸収セラルニ至レリ。

新嘉坡及ヒ海峡殖民地ニ至ル船賃ノ割合ハ、一八盤谷ノ競争ニ伴ヒ従前ノ半額トナレリ。

他ハ英國印度汽船航海会社ノ船舶競争場裡ニ顕ハレタル為メ、新嘉坡ヘノ船賃ハ八月末ニ 至ルマテハ洋銀七弗ナリシガ、十二月末ニハ一人二弗ヨリ二弗五拾仙ニ低落シ、當時尚ホ 低下セントセル現象アリシト云フ。以テ其競争ノ猛烈ナリシヲ知ルニ足ルヘシ。在汕頭英 國領事ノ報告ニ云ク、本港輸出入貿易高ノ不平均ハ、東印度ニ於ケル英、蘭領ノ殖民地及 ビ暹羅地方ニアル汕頭移民ヨリノ送金ニ依テ調和セラルヽモノニシテ、此等ノ移民ハ、其 貯蓄金ヲ英領海峡殖民地ニテ、俗ニ支那信局ト唱フル郵信取扱所ニ預ケ入レ、此等預金ニ シテ三萬弗乃至四萬弗ノ額ニ達スルトキハ、右信局ヨリ汕頭ニアル該局ノ代辨所ニ為替手 形ヲ送付シ、支那銭庄ノ手ヲ経テ内地各所処ニアル其親族又ハ友人ニ交付スルノ手続ナリ。

如此シテ取扱フ処ノ移民ノ送金額ハ一ヶ年ノ計算ニ依レハ、大約三千萬弗ニ達スヘシト云 フ。

在汕頭海関長ノ説ニ依レハ、昨年中既ニ視察員ヲ仝地ニ派シ、英國政府ガ南亜鉱山ニ傭役 セシムル時ニ當テ、汕頭ノ労働者ヲ他日果シテ南亜地方ニ送ルコトヲ得ヘキヤ否ノ点ヲ調 査セシモノアリ。清國其契約ニ一致シ、往亜移民ノ事業開始セラルヽニ至ラハ汕頭ハ此貿 易上ノ好地位ヲ占ムルコトハ多疑ヲ容レサルヘシト云ヘリ14)

とある。汕頭からの南洋移民による郷里への送金は、潮州近郊の経済にとって重要な財源であ ったことはこの報告からも明らかである。

3 汕頭と日本統治下の台湾との通交関係

 明治30年(1897)の『淡水港外四港外国貿易景況報告』によれば、

支那沿岸中厦門以南、汕頭等ヨリ本島ニ來往スル支那形船ハ淡水、基隆等北部ノ港ニ稀ニ シテ南部諸港ニ多ク之ニ反シテ泉州、温州等厦門以北ノ諸港ヨリハ北部ニ多ク、安平其外 南部諸港ニ少ナシ。今其理由ヲ案スルニ蓋シ左ノ数項ニ過キダルヘシ。

一 航路ノ遠近ハ大ニ交通ノ便否ニ関ス即チ厦門以南ノ港ヨリ來往スル支那形船ハ本島南 部ニ多キカ如ク、従来近距離ノ港ヲ択ンテ通航スルノ習慣アルコト。

二 従来泉州、福州等ノ人民ハ台北ニ取引多クシテ台南ニ通商スル者少キニ由ルコト。支 那形船ノ本島ニ來往スヘキ好時期ハ夏秋ノ間ニシテ、春冬ニ少ナク、其一回航ハ二ヶ月乃 至三ケ月ヲ要ス。而シテ其時季ニ由リ消長アル。(下略)15)

とあるように、台湾へ来航していた汕頭等からの中国式帆船は、主に台湾南部の安平等の地に 14)『通商彙纂』明治37年第64号、26〜27頁。

15)『明治三十年淡水港外四港外外国貿易景況報告』淡水税関編纂、1898年9月、155〜156頁。

(21)

来航していたことが知られる。

 『海関十年報告』1892−1901年、汕頭によれば、

この港(汕頭)と台湾との間に以前から存続していたジャンク貿易は、日本による台湾の 占領によって全く停止してしまった16)

とあるように、1895年に日本が台湾を統治して以降、汕頭と台湾との関係は大きな影響を受け たようであった。

 事実それ以前の関係について、『海関十年報告』1882−1891年の汕頭には、

五種類の海上航行ジャンクがある。即ち囉舴、頭猛、海波、紅頭と青頭である。囉舴は最 大のものであり、八千担の輸送容量がある。頭猛と海波は平均約六千担であり、三千担か ら四千担が他の種類の適当な輸送能力である。それらは、全て同様に三本の帆柱と普通の むしろの帆によって艤装されている。ジャンク貿易が特に営まれている港は、赤坎、安舎、

陽江、雷白、水東、瓊州と北海であり、全て廣西省にある。そこから汕頭に落花生粕や木 材、皮革製品等が輸入され、そして替わりに粗磁器、陶磁器、下級品のコショウ、塩漬け の野菜類がもたらされる。そして福建省の雲霄、銅山と詔安があり、油、砂糖、上質コシ ョウ、麻、綿花等が運ばれてくるが、主に蒸気船に転換され他の港に運ばれるためである。

寧波、温州、台南、広東や香港への積荷には雑多のものがある。たとえばバッグ、油、麻、

綿花等である。北方の港との貿易はある時期重要であったが今は中止されている17)。 たるように、汕頭は中国の沿海貿易において独自の地位を形成していた。

 この汕頭を含む中国沿海部と台湾とを結ぶ汽船航路に関しては、日本の台湾統治初期の明治 31年(1898)11月に刊行された『臺灣協會會報』第二号に掲載された杉村濬氏の「臺灣と支那 沿岸の関係」に詳しい。

…厦門が無ければ臺灣は完全なものではない。厦門も亦臺灣が無ければ、今日まで繁昌し ては居らぬ。今後臺灣に人工を加ふればいざ知らず、今日迄の所では離る可らざる関係で ある。安平、打狗、基隆、淡水何れも皆な港が不充分であるから、此港に依て欧羅巴や亜 米利加と直接に商売をすることは出来ぬ。否でも應でも厦門を以て臺灣の門戸としなけれ ばならぬ。そこで厦門と臺灣との接続はどうかと云へば、今は英吉利商人から成立つた会 社の「ドウグラスコンパーニ」と云ふ汽船会社がありて、それが一手で占めて居る。此会 社が丁度臺灣に通ふに適当な船を特別に拵へて、香港を起点として汕頭・厦門を経て淡水 に至る航路を三艘の汽船でやつて居る。其外に一艘は香港から汕頭・厦門・安平・打狗の 間を往来して居る。それから後の二艘は香港を起点として汕頭・厦門を経て福州へ通ふ。

以上六艘の船でやって居る。此の会社の船が一本の道になって、此船に便らなければ臺灣 から外国に出ることは出来ない。それで厦門に行つて東へ行くのも厦門で積替へ、西へ行

16) , 1892-1901, Swatow, p.163.

17) , 1882-1891, Swatow, pp.533-534.

(22)

くのは厦門で卸すのもあらうが、多くは香港に行つて積替へる。斯う云ふ大陸との関係を 持て居るのです18)

とあるように、日本の汽船会社が進出する以前にあったイギリスの汽船会社が台湾と大陸を結 ぶ航路の寡占状態にあったのである。

 1902(明治35)年における日本の厦門領事館の報告に広東省の汕頭と台湾に関する詳細な報 告が知られる。次にその全文を掲げてみたい。

 同報告は明治35年の「清国広東省汕頭并潮州情況在厦門帝国領事館在勤山吉書記生調査報告」

とされるもので、その中に台湾と広東省の汕頭との関係について次のように報告している。

    台湾トノ関係

位置上ヨリスルモ、通商上ヨリスルモ一葦帯水ヲ隔テタル彼我ノ間ハ其関係ノ密着セルハ 言フ迄モナク、汕頭ノ発達ハ台湾ニ待チ、台湾ノ発達ハ又汕頭ニ待タザルベカラザルモノ アリ。両地往来通商ノ頻繁ハ台湾占領以前ニ於テ寧ロ甚タントナス何ソヤ。汕頭ハ潮州府 九縣、嘉應州ノ四縣、恵州府ノ一部ニ当ル交通ノ咽喉ニシテ、此各府縣ヨリスル輸出土産、

又ハ出稼人ハ皆ナ此ノ汕頭ニ頼ラザルベカラズ。台湾ヨリスル輸出品ノ重要ナル部分ハ又 此汕頭ニ頼ラザルベカラズ。然リ而シテ台湾占領以前ニ於テハ此地方ヨリスル台湾ヘノ出 稼人ハ現則ノ渡台証明書ノ制限ナク自由ニ南部ハ甘藷培養採取ノ為メニ、北部ハ摘茶并包 装用ノ為シテ渡台スルノ便ヲ得、又海外行台湾茶ハ現方針ノ如クニアラズシテ厦門汕頭ヨ リスルヲ例トシ、又支那税関ノ鬆漫ナル支那所属時代ノ台湾ハ支那大陸沿岸ト同ク篷船ニ 頼ツテ盛ニ密貿易行ハレタル。是即チ寧ロ甚シト云フ所以ナリ。此等ノ関係ハ往来通商上 著シキ影響ヲ今日ニ來シタル観アルモ、此影響ハ必スヤ一時ノコトニシテ、永續ノモノニ アラズ。何ントナレバ今ヤ台湾ハ従来ナキ所ノ定期航海ヲ奨励シ盛ニ両地ノ聯絡ヲ従シ來 レリ、而テ之レヨリ生スル好結果ハ将来目シテ観ルベキモノアラントスレバナリ。今茲ニ 開港場間トシテノ貿易即チ汕頭ト安平、又汕頭ト淡水等ノ重ナル輸出入品ヲ一括セン。

   貿易品

   汕頭ヨリ台南ニ輸出スル重要物品ハ

   一 各種薬材 橄榔 潮州布及ナンキーン 神帋 各種紙 魚苗(活魚胎)鉄      器 鉄鍋 鹹魚 豆油 米 糖水 陶器 其他

   台南ヨリ輸入スル重要物品ハ

   一 麻皮 苧 青藤 鳳梨繊維 薬材類 麻仁 水牛皮 鹿角 鹿筋 其他    汕頭ヨリ淡水ニ輸出スル重要品ハ

   一 大略台南ト同シ、但シ茶箱用板ハ此外トシテ又輸出ノ太宗ナリ    淡水ヨリ汕頭ニ至ル輸入重要品ハ

18)杉村濬「臺灣と支那沿岸の関係」『臺灣協會會報』第二号、明治31年(1898)11月、164〜165頁。

(23)

   一 包種茶 落花生豆 石炭 丸藤 蓪草 蓪草紙 鳳梨繊維 綿メリヤス肌      衣 靴足袋 諸衣服及所属品 綿布及材料 綿ネル 化粧石鹸 香水及香      油 歯磨粉 諸文具類 洋傘 薬材諸種 木材及板 諸無税雑品 番茶       金属製品 浴巾 瑠璃製品 諸機械 米 諸紙等

茲ニ両地ニ於ケル千九百〇一年間ノ輸出入金額ニ付、単ニ洋税関ノ報告ニ拠レバ其総額 二十九万四千四百十両(海関テール)此換算四十四万三千六百十五弗ニテ左表ノ如シ。

      価 格   台湾ヘ直輸出   一六四,六〇四   台湾ヘ再輸出    三一,三一五     計      一九五,三八〇       価 格   汕頭へ 輸入    九九,〇三〇     計       九九,〇三〇    合 計     二九四,四一〇

然リ而シテ篷船ニ拠リテ支那人若シクハ、台湾人カ両地ノ間ニ往復通商シ汕頭ニ於テハ旧 海関即チ潮海関ニ納税通商センモノハ以上計算ノ外ニシテ其額決シテ尠カラサルベシト雖 ドモ潮海関ヲ通過セシ数量ハ同関ノ工事セザル處ナルヲ以テ、之レヲ詳知スルニ由ナク、

只同関官吏ニ質スニ曰ク、両地ノ貿易総額ハ少クトモ一百餘万両(海関テール)ナルベイ シト云フ。従来ノ世評モ亦斯ノ如シ。

両 地ニ於ケ ル銀 貨 銅 貨ノ受 授ハ洋 関ノ報 告ニ拠レ ハ一 千 九 百〇一 年 間ニ於テ 十一万八千六百七十五弗ニシテ之レヲ甄別スレバ左表ノ如シ。

    区 別        価 格   汕頭ニ輸入セシ銀貨  一〇八,三三〇弗    同     銅貨       三九弗   台湾ヘ輸出セシ銀貨   一〇,二七六弗     合 計      一一八,六七五弗

此レ単ニ洋海関ノ報告ニ拠ルノミナルヲ以、此外篷船ニ頼シテ潮海関ヲ通過シ、又ハ個人 ノ行李ニ頼ツテ輸出入セラレタルモノ其数量尠ナカラザルベキヲ信スルナリ。

     篷 船

篷船ニ四種アリ。一ヲ祥芝北。一ヲ大北。一ヲ小北。一ヲ駁仔ト云フ。祥芝北、大北、小 北皆ナ汕頭附近ヨリ北支那ニ運輸スルノ用ニ充ルカ故ニ、北ノ字ヲ冠スルト云フ。其最モ 大ナルモノハ天津・北京ヲ通シテ遼東湾ニ往来シ、駁仔ハ近海ニ往来シ貿易交通ノ用意ニ 供シタルハ往古ニ於テ争フベカラザル事実ナレドモ、其往来ノ頻繁ナル度数ヨリ謂ヘバ汕 頭ト台湾沿岸トノ往復最多ナリトス。此両地ノ間ニハ祥芝北モ亦往キ、大北亦往キ、小北

(24)

亦往ク。此等篷船ノ往復度数ノ割合ハ百分ノ七十ハ台湾沿岸、澎湖島及厦門附近トシ、百 分ノ三十ハ福建以北及北支那人ノ各地方并ニ南洋諸島トス。祥芝北、大北等ノ篷船ニハ最 大ナルモノ一千担、中ナルモノ七八百担、小ナルモ四五百担ニシテ、千担ノ篷船乗込人ハ 凡ソ十二人位ト云フ。台湾ノ支那管轄時代ニハ台湾ト汕頭及其他ノ大陸ノ交通貿易ハ殆ン ト此篷船ノ占有ニシテ、安平・打狗、布袋嘴、笨港、北仔脚、竹塹、梧権、淡水、基隆、

及澎湖諸島ノ往来間断ナク、之ニ頼ツテ此地方ニ輸入スル貨物ノ重ナルモノハ各種ノ綿布・ 刻烟艸・茶箱用木板・杉木・磚瓦・石材・粗製陶器・糖菓・紙線・祭紙箔・西洋雑貨等ニ シテ、又此地方ヨリ汕頭ニ輸出セシハ砂糖・石炭・樟脳・白麻・落花生・熊皮・鹿皮・樟 木板・苧土蕃布・大甲蓆トス。税関ノアル所ニハ相當ノ関税ヲ納メテ登録証書ヲ受ケテ両 地ニ於ケル船貨積卸ノ便宜ニ供シタルモ、由来支那ハ密輸ノ根本ニシテ税関ノアル所ハ賄 賂ニテ脱税シ、又ハ関吏ノ目ヲ瞞マシテ密輸シ、其他海関ノナキ所ノ一方ヨリシテ、他ノ 海関ノナキ所ノ一方ニ密輸出入シ、貿易品ノ過半ハ全ク密輸出入ニテ運送セラレタルノ観 アリ。貨物ニ対スル運賃ハ遠近ニ依テ区別アルモ、大概積荷容積ヲ以テ取極ヲ包装シタル モノハ大中小ヲ区別シテ箇数ヲ以テ取極メ、汕頭ト台南ノ間大約毎担二十銭乃至二十五銭 位ナリト云フ。然レ共篷船ノ運賃ハ場所ニ依ツテハ却テ高価ニシテ、危険ナルアリ。ソレ 故ニ現ニ南洋諸島行キノ貨物ハ一変シテ全ク汽船ニ頼ルコトナリ。篷船ハ竟ニ此航路ニ隻 影ヲ留メサラントスルニ至レリ、而ラ台湾ト汕頭トノ往来ハ依然トシテ存在シ開港場外ノ 港口ヨリスル輸出入品ハ全ク篷船ニ依頼スルノ餘勢ヲ留ムルノ止ムヲ得サルモノアルナリ19)。 とあるように、汕頭と臺灣の関係は主に帆船航運によって恒常的に行われていたことはこの報 告からも明らかである。

 汕頭から日本統治下の台湾へ渡航した人々に関して、『通商彙纂』に若干知られるので次に あげてみたい。『通商彙纂』明治39年第29号に、明治39年(1906)4月5附在汕頭帝国領事館 分館報告として「汕頭三十九年自一月至三月渡臺証明書下附人員表」が掲載されている。それ には、

  上陸地  男   女   計   安平港  27   5   32   淡水港  17   0   17   合 計  44   5   4920)

とある。通商彙纂』明治40年第7号には明治40年(1907)1月5日附附在汕頭帝国領事館分館 報告として「汕頭渡臺証明書下附表」に、

  上陸地  男   女   計   安 平  48   1   49

19)外務省外交史料館「外務省記録 厦門領事館報告書」6門1類6項 30号」所収。

20)『通商彙纂』明治39年第29号、明治39年5月19日発行、48頁。

(25)

  淡 水  17   1   18   合 計  65   2   6721)

とある。通商彙纂』明治40年第29号には明治40年(1907)4月5日附附在汕頭帝国領事館分館 報告として「汕頭渡臺証明書下附表」に、

  上陸地  男   女   計   淡水港   7   ─    7   安平港  30   2   32   合 計  37   2   3922)

とある。通商彙纂』明治40年第45号には明治40年(1907)7月2日附附在汕頭帝国領事館分館 報告として「汕頭四十年自四月至六月渡台証明書下附人員」に、

  上陸地  男   女   計   淡水港  87   5   92   安平港  149   5   154   合 計  236   10   24623)

とある。『通商彙纂』明治41年第53号には明治41年(1908)7月1日附附在汕頭帝国領事館分 館報告として「汕頭渡臺証明書下附表」(自至四月六月)に、

  上陸地  男   女   計   淡 水  100   3   103   安 平  85   4   89   合 計  185   7   19224)

とある。

 以上のように明治39年(1906)より明治41年(1908)までの三年間でしかもおそらく計十数 箇月分に限定されているが、広東省の汕頭にある日本領事館分館で、台湾の淡水や安平に渡航 するため渡航証明書の交付を受けた人々は漸次増加の傾向にあったことが知られる。概算であ るが汕頭から台湾へ1年に百数十名から二百数十名の人々が渡航していたことが知られるがそ の多くは、厦門から台湾に渡航していた場合と同様に、台湾における製茶作業に従事する季節 的出稼労働者であったと思われる25)

21)『通商彙纂』明治40年第7号、明治40年2月3日発行、41頁。

22)『通商彙纂』明治40年第29号、明治40年5月18日発行、63頁。

23)『通商彙纂』明治40年第45号、明治40年8月8日発行、55頁。

24)『通商彙纂』明治41年第53号、明治41年9月28日発行、80頁。

25)松浦章「清末民国初期の福建省海外移民事情」藤善眞澄編『中国華東・華南地区と日本の文化交流』関西 大学出版部、2001年3月、171〜176頁。

  卞鳳奎「日治時期大陸來臺之製茶工(一八九五年〜一九一八年)」『臺北文献』直字第138期、2001年12月、

229〜247頁。

参照

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