唐館の解体と支那人居留地の形成
|長崎外人居留地に関する若干の古地図について︵三︶|
菱
谷
武
平
目 次
一︑緒言一主題への提言
二︑唐館の解体と支那人の変質
三︑ ﹁広馬場﹂と﹁新地﹂ フトドケ プライ ムホウー 所謂﹁不届︑無頼︑無法﹂の支那人
H ﹁唐館前広馬場と新地忍所﹂の変質
聾 明治初年の居住支那人の人口推移四︑支那人商社の動向と関連怨讐
五︑結言一内浦埋築史への展望
︑緒言i主題への提言
鎖国の時代︑長年に互って文化の唯一﹁世界の窓﹂となっていた カナメ長崎の︑その要に当る﹁蘭館と築館﹂が開国を契機として︑その性
格を一変した事はいう迄もない︒和蘭が列強の鮒尾に附して新条約
に基づく新商法に切り変って貿易戦線に並び︑出島が商埠︵閃帥9㌣
昌︶から居留地︵ω①巳Φ日①簿︶へ変質して一連の馬入居留地に組入れられて行ったのに対し︑清国は列強の貿易戦線から落伍し︑かて
て加えて欧米列強の東洋進出のアオリを喰らって本国が紛乱の渦に
捲き込まれると日清貿易は自つから麻痺して︑唐館貿易は半身不随
の状体を醸成するに至った︒我国が清国と正規の条約を結んだのは コ モ 明治四年のことであるから開国以来清国が正式の交際に入る迄の約
一〇年間︑長崎へ渡来の支那人達は﹁非条約民﹂でありながら﹁他
日﹂の飛躍に備えて鎖国時の慣例の﹁堕性﹂と列強条約下の﹁盲点﹂
にかくれて︑その根強い雑草の如き﹁華僑﹂ ︵O︿・ΦNω①9 0ゴ一b.①ω①︶
の性格を育成して行ったようである︒ここに私が主題のテーマを取
り上げたのは︑幕末維新という内外非常の時期︑列強の日本進出の
目覚しい最中に於いて︑長崎へ渡来の支那人達が悲遇の中に︑良く ナマ活路を見出し︑如何に生き抜いたかという﹁生な歴史﹂の展開を確
かめる為に外ならない︒
尤も︑この悲遇の中で彼等が﹁長崎の場﹂で作りあげた生活権確
保の﹁生活の知恵﹂の一面として﹁外夷附属﹂の支那人となって新
設の外人居留地へ進出して︑新たな活路を見出して行った事実の究明については既に論ずる所があった︒即ち︵1︶本学紀要﹁社会科
論叢﹂二一号︵昭和三八・三︶に所収の﹁長崎外人居留地に於ける
華僑進出の経緯について﹂︵︐皿︶長崎史談会﹁長崎談叢﹂四一号︵昭
和三八・一二︶に所収の﹁幕末維新の長崎外人居留地−冒険商人と
華僑の接触﹂ ︵皿︶西日本史学会﹁西日本史学﹂二〇号︵昭和四二
・一二︶に所収の﹁外夷附属の支那人について﹂という三篇は︑そ
の一連の研究シリーズである︒その︵1︶は前年の=一月︑鹿児島
に於ける西日本史学会の秋季大会に当って支部代表として発表した
一三
長崎大学教育学部社会科学論叢 第一九号
ものを紀要にまとめて収録したものであり︑先づ非条約支那人の居
留場居住の権利を認める法的根拠として英国が我国と無関係に成立
させた﹁長崎港湾規則﹂の一五条を援用した上で本論として︑支那
人の居留場進出の実態の諸相を文久二年から明治三年に及ぶ幕末維
新の微妙な九ケ年に及ぶ旧居留地掛の居留人名台帳を基盤として解
明︑外人居留地がその出現の直後既に﹁支那人居留地﹂化して居
る事実を指摘し︑ 最後に﹁そこ﹂から居留外人間に所謂﹁支那人
問題﹂ ︵O匡pΦωΦの⊆Φω鉱︒目︶が醸成されて行く事実を展望した︒
︵且︶は同年五月︑蘭学資料研究会の十周年記念事業が長崎で行な
われた際︑ 蕾めらるるままに所見の一端を発表︑ それが同年末の
﹁長崎談叢﹂に掲載されたものである︒この発表に当っては︵1︶
が対外的薪を踊手扱ったのに対k専ら呆側の﹁編処分
書類﹂を中心として唐館脱出の支那人の動向を捉え︑その主題として大浦外人居留地に蝟集した支那人の実態が﹁外夷附属﹂という附
属の主体が意外に特定の少数の外商人に限定されて居る事実を具体的に追跡して︑パスケ・スミスが指摘している所謂﹁支那人と結托
して豪華な生活を亨楽した﹂冒険商人の一群の実相を明らかにした
のである︒
その後昭和四一年六月︑上京に際し内閣文庫の資料調査中︑外務省記七乾坤二冊の﹁長崎奉行伺之留﹂の中に地元長崎に於いて失わ
れている万延元年正月付上申書﹁各国附属支那人取扱之儀伺候書
付﹂が関係一件書類と共に収録されている事を発見したので︑これ等の資料に基づき︵1︶に論じた英国の﹁長崎港湾規則﹂の一五条
成立の事情を明らかにしたものが︵墨︶である︒即ちパスケ・スミ
スはこの一五条を強調して﹁領事の保護の下に於いて始めて上陸︑居住が可能である﹂という非条約の支那人を自国の法律下に置いた
事が如何にも外人側の力で勝取ったような錯覚を起させているが︑ 一四
事実はこれと異なり華僑と利害関係の深かった英亜両コンシュルが
密議をこらして﹁支那人を限界迄利用しながら︑いざという場合に
は自国の法律外にほうり出して責任を我国に押付け回避しようとす
る﹂卑怯な術策を見抜いた我国の勝利であった事実を明らかにした
のである︒この上申書の内容を検討すると︑その発議が外国人連渡
りの支那人に関する次のω@の二つの問題について英闇黒コンシュ
ルよりなされて居り④は外国人三四の支那人の刑法上の問題で︑外
国側は﹁支那人車は一季雇の国籍の違うものであるから日本の法律
に照して処分して欲しい﹂という提議であり@は外商共国際の支那
人の﹁家蔵占拠﹂についての抗議の問題で︑居留地に進出した支那
人が外商と組合って手広に商売を展開し︑射て時勢の推移に伴ひ連連の外商が支那へ後退︑横浜︑神戸へ転進して︑その家蔵の留守を
頼まれ居坐って﹁そこ﹂を占拠して﹁支那人商社﹂の増大が見られ
るが︑これは全く外人側の自らの責任であるに不拘︑日本側に責任
転冒した筋違いの抗議であった︒ この抗議に対し長崎奉行は反駁して﹁其国々之船にて渡来致民田
はその本国人同様の筋に付犯法のもの御条約面通り彼国法にて相戒
め其余之儀都而彼方引受取扱候筋に可有之﹂と主張し︑若し彼方に
て進退出来ないなら今後一切支那人連渡らないという一札を入れる
よう︑これに異存があればミニストル江掛合い度いと申入れて居
る︒これに対し英亜コンシュル側は﹁支那人取扱振之儀は西洋一般
の風習に付仮令ミニストル江掛合候ても外勘弁も有之間敷﹂と回避したので長崎奉行は上申して事の経過を述べて﹁中央解決﹂を求め
たものであった︒この万延元年正月付上申書に基づき中央部に於い
ては関係の分野の評議を経て同年四月﹁指示﹂が下って居るが︑そ
の指示の中にあるコ雇之支那人江証書所持御下置﹂という証明書は
パスケ・スミスが長崎港湾規則一五条を説明した..冨ロ9口Φω①脅鋤渇
gO⇔魯Φ息量切器ω8びΦ陣ωω二Φ侮びく窪ΦOo¢昌︒鵠ω8夢①
6げ冒ΦωΦ冒夢①①白豆︒嘱ohけげΦ跨津ぼ89︒δ..の﹁長崎奉行の考
案に基づき関係領事が発行した﹂︒・oΦ9巴冨ωω に一致するから我
国と無関係であったという長崎港湾規則も少なくとも一五条の成立
には我国も参劃合議した合法的のものであった事が明白となった︒
従って私は外人居留地に進出した非条約の華僑については一応の
究明を果したと思い︑同年末の長崎に於ける西日本史学会秋季大会
の公開講演に於いて﹁中国孔子廟と長崎﹂と題して︑大浦居留地趾
の要に当る三二番地所に位置して居る中国孔子廟の成立について所
見の一端を述べる所があった︒それは従来老朽化して崩壊寸前であった中国人の祭った孔子廟が最近〃動気桜〃の如くに丹色鮮やか
に復元されて﹁歴史﹂と断絶して一般市民を眩惑して居る実情を指
摘し︑居留地時代に於ける華僑進出の金字塔であるべき﹁語らざる
歴史﹂ が歪曲される事なく後世に伝えらる可き事を警告して置い
た︒然しこの﹁外夷附属﹂の支那入の動向に関する究明に対して︑
唐館の解体に伴う支那人の変質i本命であるべき唐館前町馬場から
前面の海上に浮ぶ新地岩畳へ移動︑定着して所謂﹁広馬場︑新地﹂
の支那人居留地を形成して行く推移については未だ寡聞にして十分
な研究あるを聞かない︒
尤もこの問題について私は無関心であったわけではない︒ 前記
︵1︶の論考に於いて︑外人居留地に余年集中して行く支那人の数
量的増大を居留白人数と対比させながら明治元年の記録に焦点を置
き︑同年には外人居留地居住の支那人二八八名に対畿灘難四
坐翼縮合計七四三名の支那人器量のある事から推して︑外人
居留地の支那人は長崎在留華僑の全幅ではなく︑その一分派にすぎ
ず明治四年の日清条約締結前後の数ケ年の﹁漢人籍牌簿﹂の類を丹
唐館の解体と支那人居留地の形成︵菱谷︶ 念に調査する事に依って正規の支那人居留地の形成実態が浮彫さる可き事を指摘し︑次いで︵五︶の論考に於いて︑その華僑活躍の実態の調査は目下続行中であるので他日の発表を意図して居る旨を約束した︒昭和四〇年度から本学紀要に三回に渡って発表を計画した ﹁外人居留地に関する若干の長崎古地図について﹂にはその意図が
秘められて居た︒その論考の構想は︑先づ同年三月第一回目として
eの緒言を奪えて口に﹁長崎古地図編年﹂を作成し日に居留地基盤
となる﹁大浦水域と大浦番所﹂を論じ︑翌四一年三月第二回目とし
て四﹁居留地の変貌と古図﹂と題して外人居留地の形成と地域の拡
大に伴う年次的関係古事を中心に吟味し㈲﹁馬渕家の二種の古里﹂
と題して研究家の問に白眉とされた明治の初年と三〇年代の二種の
・貴重な古説を紹介︑解説したのであるが︑その際たまたま翌四二年度の紀要の発表が困難である事が予想されたので因﹁初期支那入居
留地の形態﹂と㈹﹁内浦埋築史への展望﹂を論じて囚結言で結ぶ予
定であった三回分は︑一応同年九月刊行の長崎談叢四五輯に掲載し
た拙稿﹁俵物役所の終末について日1内浦埋築史の一風標として一﹂
を以て代える事とし︑その旨を附記して置いたのである︒
﹁俵物役所の終末について﹂は副題に﹁内浦埋築史の一示標﹂として置いたように鎖国時代︑長崎会所の払方の役割を果した俵物役
所について︑その変遷推移と解体の過程を広馬場から内浦に浮ぶ新
地蔵所へと固定して行った支那人居留地の形成と関連させながら︑
その一円の〃内浦〃の埋築の推移を展望しようとしたものであるか
ら一応支那人居留地の形成に触れてはいるが︑論旨の焦点を俵物役所︵現在の一八銀行本店︶に置いて居ただけに十分に説き尽してい ないし︑又その後発見した二種の貴重な資料もあるので︑あえてこ
こに﹁河芸の解体と支那人居留地の形成﹂を発表し︑ 副題として
﹁外人居留地に関する若干の長崎古地図について日﹂を附した所以
一五
長崎大学教学育部社会科学論叢
である︒ 第一九号
二︑唐館の解体と支那人の変質
﹁外夷附属﹂の支那人の外人居留地進出の研究シリーズの︵狸︶にあげた﹁外夷附属の支那人について﹂の論考に於いて︑私は﹁唐
館の解体と支那人の変質﹂に触れて
物事の起原やその隆盛期については一般的に関心が持たれるせい
か︑その調査︑研究は積極的に進められて居るようであるが︑そ
の衰微期及至終末︑崩壊の過程は︑それが次代を推進する基盤で
ある事を承知しながら案外等閑に伏せられ勝ちである︒一般に良
く知られた出島の﹁独逸﹂は学者に依って研究され尽して居るよ
うに思われながら︑その末期の経過は案外知られて居らず﹁商埠
︵哨908昌︶から居留地︵ωΦ巳①竃①艮︶へ﹂の推移は究明されて
居ない︒今問題として居る支那人の﹁唐館﹂もこれと軌を一にして居るといえる.最近私は再度﹁盤処分書類﹂旨釜して︑
その資料的価値を再認識出来て﹁適薬の解体と支那人居留地の成
立﹂という課題に対し有力な手掛りを得た感じである︒
という文章で始め︑本命の正規支那人居留地研究の貴重な資料がその﹁編処分嘉﹂の中にある馨示唆して置いた.
︵一八六八︶ この処分書類は﹁慶応四戌辰三月影﹂と肩書のある租税第弐部地
理係の記録で︑鎖国時代の元禄以降渡来の中国船が齎らした商品を む む む む貯蔵するため内浦海上に芽立てた新地蔵所とその商品販売期聞の む む む む三︑四ケ月から半年に及んで申国人が居住した唐人屋敷の処分に関
する一件書類で﹁唐人屋舗差配役尾里秀之助の辰三月口上書﹂を始
めとし﹁新地蔵敷五聖料取立之覚﹂に至るホボニ○件に及ぶ文書︑ ︵明治︑兀年︶記録の収録である︒その最初の差配役の辰三月の口上書については 一六既に前稿に於いて詳細に渡り引用して居るので重複をさけ度いが︑ へ その本旨は明治元年の三月︑長官の唐館視察の機会に書状を以て唐館の沿革︑特に開国後の実情を報告すると共に別紙を以て﹁見込之次第﹂を差出す旨を約したものである︒これに依ると開国後の時勢 つ む ユ つの激変に依って唐館内の支那人の中で富有の者は外夷附属に転身︑それを好まない者は帰唐して居り唐館残留の支那人は帰唐の路銀の む むない窮民丈けで︑それが当時館内の破屋に住んで居る事実が窺えるが︑約束の別紙﹁見込之次第﹂は﹁唐方商法二付見込之大意申上候 書付自覚﹂ ︵処分書類の丙︶として関係記録の辰三月﹁今般商法御 ︵処分審類の㈹︶新開二付取斗候廉々左二申上候﹂と辰四月﹁唐鋤商法の引立方之儀 ︵処分脅類の㈲︶申上候書付﹂と共に収録されて臭素解体を知る貴重な資料を提供して居る︒ この﹁遣方商法二付見込大意申上鮎書付之覚﹂には商法引立についてeり﹁荷積荷揚その他商法取立向﹂の改善と@﹁外夷附属鳥道﹂の遮断という二つの方針を建策して居る︒前者は鎖国時内浦を中心 カラ スエに︑その中に浮ぶ新地蔵所に商売荷を貯蔵︑空船は梅ケ崎の唐船居場に置いて乗組員は一定期間唐館に宿泊するという時態に於いては唐館貿易は格好な場所を占拠して居たといえるが開国に伴い外人居留地が整備され︑特に唐船居場が廃止されて﹁そこ﹂に最後の梅ケ崎居留地区が出現すると支那人の貿易上に占める位置的優位は影が薄れて﹁奥地﹂化する事実を指摘して居り︑後者はそうした貿易上の不利をカバーするための支那人の﹁生活の知恵﹂であった﹁外夷附属﹂の道を断ったために成る堰け館内へ唐富商を引入れるように
﹁商法向手数外国人同様直願二而速に相捌万事簡易に相成﹂様に士
商法の確立を要望して居る︒然し︑この唐館を温存し唐商を優遇し つ むて従来の商法の維持を念願︑期待して居る点は元在留船主︑程稼堂
の辰三月の書状︵処分書類四所収︶に見える従来の﹁会所貿易﹂と
﹁銅︑俵物の支那人独占﹂の夢に通ずるものがあり︑唐館を中心に
共通の利害関係にある日清両面の責任者の共感があろう︒
勿論︑この日本側の唐館町配役と支那側の元在留船主の要望︑夢
は時代に檸さすもの︑いわば﹁曳かれものの小唄﹂にすぎない︒思
うに時勢は既に一歩先を進んで居り︑この姫里館内破屋に残留する
貧窮支那人の実態を正視すべきであろう︒既に指摘したように明治
元年の在留支那人の総数は七四三名で︑その内舘内居住は二四二名
であるから︑それが残留の貧窮支那人の実態であり︑而もその外に
新地蔵所にもホボ同数の二=二名が居住して居る事実を併せ考える 必要があろう︒関係記録としての辰三月﹁今般商法御取開二付取斗
候廉々左二申上期﹂と翌辰四月﹁薄商引立方之儀二黒申上窩書付﹂
は︑前者にはその申上の廉について﹁指示﹂が貼付紙で示されて︑
その処置が窺えるし︑ 後者に於いては冠頭に於いて唐人屋舗の坪
数︑建物を具体的に説明し︑その中で変遷推移を明らかにした上で
各項に分って論じて居るから何れも貴重な資料である︒これ等の資
料は既に拙稿﹁外夷附属の支那人について﹂に於いて引用したので
原文の重複はさけ度いが︑その論ずる所は諸建物の説明をした後に
﹁思者初発旧幕府二男世渡し相成リ其後者総而自普請捨場仕出建替
仕申候﹂とあるから唐館の整備は自普請であった丈けに廃館貿易の
盛衰が微妙に響いて居り︑幕末維新の衰微しきって居た時勢には船 む む主部屋拾三軒の内が﹁但追々崩落当時三軒相残居申候﹂とあり︑小 む む部屋七拾軒之内が﹁但追々崩落当時凡三拾軒余相残居珍芸﹂とある ニから建物崩壊の中に正に一種のスラム街が相像出来るであろう︒
次に︑この破屋に住む貧民の借地料の問題にふれて従来唐人屋舗
では家賃銀の名目を以持渡りの荷物の一部を長崎会所へ差出して居 へ よハ り︑地料を各人から取って居なかったが慶応二年から外人居留地の
振合で居留地下等地の山手地区と同様に一ケ年百坪に付一二弗に決
唐館の解体と支那人居留地の形成︵菱谷︶ 溶したが窮民共の事とて支払困難であったので﹁商法引立﹂迄支払猶豫を﹁聞許﹂されて居る︒然しこの﹁聞済﹂については﹁外之響﹂を考慮に入れ︑責任の所在を明らかにする為め在館の唐人総代の﹁真文﹂を差出して居るが︑その在館総代については従来﹁船主総代役﹂の取締りに帰して居た慣例に準じて蔓紫人︑福州人の中から気服の人を選び奮いとして居るから︑ 条約の未締結の当時として︑この悼惜総代が外人居留地の領事の役割を果して居る事が肯づける︒そして最後に雲華破屋に残留する貧窮支那人の性格に再度触れて 貯蓄有之患者共何れ茂居留地江引越或は帰誤爆候者不尽近年に至 り而居留地の振合に準住居被差許候以来追々新地江引越候溌墨有 之当時学館高弐百八拾四人之者共は船主鉦春型を始め極貧之者共 進退差迫候者共而己と当時︑在館唐人が大浦外人居留地と居留地振合に準じて︑新たに支那人居住が差許された﹁新地勘所﹂へ進出して︑唐馬が極貧の廃残者の﹁スラム街﹂となって居る事実を指摘して居る事実を強調して居る︒ この文中に見える在館唐人の数二八四名は前記明治元年の外国人
井支那人名前取調帳奪える覇羅藩M謡編と対比すると
若干の移動が見られるが︑これに依っても唐館人口の流動性と新地蔵所への進出のめまぐるしい動向推移が肯づけるであろう︒この新 地進出の支那人については唐館公司︑鉦春杉の辰三月の書状の申で先づ大浦居住の支那人群に触れ︑これらの外夷附属の支那人は福建問屋組の一群であり︑その系譜は従来唐館貿易を独占した﹁唐船乗廻り﹂のものであり︑本来公司附属であるべき事を指摘し︑この対策として 唐館取扱振り穏当之事にも相成二上者以後唐人之当駅は西洋人之 一七長崎大学教育学部社会科学論叢 第一九号
引請御差止都而唐館の名前に帰し新地問屋同様公司附属に取成候
はば夫々区別相立可動乱臣
と述べ︑唐館取扱が軌道に乗れば唐人の商売は外夷附属を止めてす
べて唐館名目に帰し︑新地問屋同様に公司附属︵唐紅附属︶となす
べき事を要望して居るから外夷附属の支那人をセーブしながら唐館
附属として旧館から脱皮して新地を申心に新しい支那人居留地形成
の繭芽が窺えるであろう︒
この新地を核に展開して行く唐館附属の支那人は外夷附属の支那
人が関係領事発行の証書に依って保証されたのに対し︑前述の如く
﹁船主代役﹂の慣例に準じ在舘総代が選定され︑その発行する請状 ニに依って保証されたようで唐館公司︑鉦春杉や元在留船主︑程稼堂 の辰三月の書状の中に﹁先前之仕来之通二而人別調方行届候上者万一不法之族事端を起し候節は早速引請人江引合論判二及び可申﹂と
か﹁現在之唐人館は何れも諸問屋共惣代導者江請合零落差出請人無
之者は直様漁戸藤塚被成下候はば﹂と見えて居る︒この事実は先に
︵一八六六︶慶応二年に崩壊に頻した唐館内に散在する破屋に残留する支那人に
対し外人居留地三等並の地料が決定され︑次いで新地への進出が進 ︵一八六九︶むと聴て明治二年には支那人の地所規則︵支那人貸地規則書︶が外
人居留地並に制定されて居る一連の事実と関連させて考える暑きで
︵一八六七︶ ︵慶応三年︶あろう︒慶応三筆年の外務課の御用留に拠ると卯一一月付で︑唐人
屋敷出入其外仕来之手数が改められ同所惣門は朝六つ時貸暮六つ時
迄開放され﹁市申之者共立入商法向及引合不嫁﹂との﹁達﹂が市中郷中に出されて居り︑同時的に唐津に対し﹁今度於唐館商法相開候
二付算者荷揚︑荷積之波戸者新地水門江可相心得尤於同所改を受兼
而相達置候新地商法規則の税同所へ差出候上荷積荷揚を取斗不取締
無量様﹂と仰渡して居る︒
右市郷中通達の﹁立入商法﹂が唐墨江仰渡の﹁唐館商法﹂である 一八 . ︵明治元年︶べき事は明らかであるが︑この御用留には次いで翌辰四月付で﹁唐館大門ニノ門とも是迄暮六ツ時限リメ法相成居候得共己後門限者相止め﹂と僅か半歳足らずで唐館の門限が廃止されて解放され︑同時に従来の差配役の詰所が廃され﹁そこ﹂が支那人の内︑望之者に貸渡となり︑新組の旧館掛も全館から出て新地仕役場詰とする旨の記録が残って居り︑唐館と新地の主客転倒の現象は見のがせないであろ へ う︒これは唐館差配役の辰三月の書状に見える﹁唐紅表門御開不用之場所夫々唐人江貸渡追々商法取開工期に至居申候﹂とか㈲申上留 に収録されて居る辰六月の﹁唐人屋敷境内井同所続門外地所御不用二付支那人共江外国人居留地振合を以て御貸渡積﹂という運上所掛の伺書など併せ考えると時勢の推移が窺えて︑唐館の解体は一転語を下せば場所を代えての﹁唐館の変質﹂と見立てて良いであろう︒鎮国時︑陰然たる勢力を独占した支那人も今や後来の詫人の﹁後塵を拝﹂して居留地振合に同質化されて︑唐館は核を﹁新地﹂に移動させて発展的に解消する時期に来て居たようである︒明治初年の唐館中心の素図類の中には廃壇と化した館内のアチコチが線で囲まれて図示され﹁そこ﹂に支那人居留地と記入されたものが多いが︑これは出島が商埠から居留地へ変異して外人居留地域へ組入れられて行ったのに対し︑唐館はその旧い穀の中に支那人居留地の繭芽を秘めながら聴て消えて行った一つの過程を示すものであろう︒ 以上︑展望した所は支那人の客体の唐本の地域と機構の推移を捉えたものであるが︑もっと重大な事は主体−所謂その中に居住した支那人自体の性格︑推移の把握であろう︒その問題については既に拙稿﹁幕末維新の長崎外人居留地﹂に於いて 館内居住の原則が﹁貿易の為め︑その期間の滞在﹂であってみれ
ば︑彼等の館内居住性は一面︑浮動的であると同時にその人口は
﹁働く者﹂主体の構成であった筈である︒幸い明治元年の唐卜居
住の華僑の資料があるが︑これに依ると総数二四二人で︑それは
全盛時の三分之一と見込んだ先の推定を裏書して呉れるし又その
人口構成は老幼男女を交えた健全な型を取って居るから一道は衰
下しつつ変質し︑その浮動性を棄てて固定化しつつあった事が窺
える︒と論じたのである︒ ﹁三分之一と見込んだ先の推定﹂という表現に
は説明が必要であろうが詳細は拙稿を読んで頂くこととし︑唯その
居住総数が当時の廃宅と化した唐館の収容力の限界を示卸して居る
事を指摘し度い︒現在この旧稿を読んで︑いささか主体と客体の混
同があるようであるが︑唐館の衰微に伴い主体であるべき居住支那
人は変質して浮動性をやめ固定化するが︑それは唐館に固定するの
ではなく︑その際奥地化した﹁旧い穀﹂から脱出して前面﹁同所続
門外地所﹂の広馬場から内浦海上に浮ぶ蔵所の新地へ︑而も家族構
成を以て固定化して行った事は言う迄もない︒尚文中の明治元年の
在留支那人の総数とその分布については再三言及したので︑この際
その人口構成の年令︑性別表を附記して参考とし度い︒
表一
諦鋤
緒Z支那人の性別年令別構成表
○
九
一〇一一九
二〇i二九
三〇一三九 在館唐人年令別構成
総塾男 女一比
率
三Ω二三⁝七
二八四二
五〇 二一⁝ 七三五 七
三匹 一六 =一%=一%
一七%二一% 新地居住唐人年令別構成総数
二三一三
五一五六 男 女一比率
唐館の解体と支那人居留地の形成︵菱谷︶ 三⁝三︶δ⁝四八⁝五二⁝
三
四 三
=%五%
二四%
二六% 四〇i四九四二三四⁝
⁝八
一七%四二三九■⁝三
二〇%五〇1五九二九二五
四
=一%一八鴫七
一八・四%
六〇1六九コニ一〇⁝六%
五
五
○
二%
七〇一七九
五
四…
一…
二%
○
○
○
○
八Ol八九
一
○
⁝ 一○・四%
一
○
一○・五%
不 明
ご
○・八%
四
四
○丁九%
合 計二四二一八七⁝五五二=二 一七二 ︸ニゼ一五
石皿︑︵︶の申の数字は縮墨黒書類しの鐘番号である︒
︵一七六四︶註二︑唐館在住支那人は明和年間来朝した涯鵬の﹁袖掌篇﹂の体験記から
推しても貿易船団の全員を収容して居たようである︒従って唐館人口
は日清貿易の盛衰につれ大きなカーブを描く︒最盛時には千人近い滞
在があったが幕末開国と共に条約国船の渡来が頻繁となり而も唐国擾
乱以後唐船の往来も絶えると唐館は放置のまま衰弊︑建物は崩壊の中
に三分之一に減少︑唐館人口もその性格を変質して︑三分之一に減少
した︒
註三︑万延元年申正月の長崎奉行の﹁各国附属支那人取扱方之儀奉伺候書
付﹂の上申書に対する外国掛大目付御目付の評議の申に次の通りあ
る︒﹁支那は元唇歯之国二候得者何様にも懐柔之御処置有御座度依而
者此度英亜両コンシユルより申立之趣有之儘旧館在留支那人へ申渡右
ハ条約外之国二付無余儀渡来一山一儀二有之︑尤本国鎮台より書翰差
越候か又各国コンシユル⁝⁝﹂
即ちこれに依って条約国との振合や支邦人懐柔策から本国鎮台の書翰
が必要で日本法律で処置する諒解をつけるべき事が評議されて居る︒
但しこの事は後の記録に見えず在館総代と肩代りされて居るが︑その
在館総代は﹁若御政教にも不従者ハ即刻召捕差出し厳しく御処置被仰
咽九
長崎大学教育学部社会科学論叢
付度しと誓約して居る︒ 第一九号
三 ﹁広馬引﹂と﹁一日﹂
フトドケ プライ ムホウ 一 所謂﹁不届︑無頼︑無法しの支那人
この明治元年の在留支那人の総数と三地区分住の実態については
案外に一般的に知られていない︒ 試みに平凡社のアジア史事典の﹁華僑﹂の条を引いて見ると極めて新しいこの言葉も︑その系譜は
遙かに古いとして︑日本の場合は元の時代から触れて
特に華僑︵O<Φ圏ω①餌 Oび一﹈PΦω①︶として長崎貿易に来航した商人を
挙げねばならない︒此等の救国商人は可成り長期間滞在して日本
の銅や海産物を買付け中国の織物やアジアの物産の日本売込に従
遷した︒然しその数は余り多くなかった︒
と述べ︑それが専ら寧波の両論会館の独占で行われた 乞冒ひqbo
て大阪︑横浜に多く来住した︒一八七二年には大阪川口在留の華 ︵明治五年︶ 一八六八年になって神戸に二四〇入の華僑が来住し︑明治になつ ︵慶応四年︶oq送ユ山であった事は言う迄もないが︑その後をうけて
商は一八店を記録している
と結んでいるが︑長崎の華僑が﹁断絶﹂する事なく︑この鎖国から
開国への過渡の時期に当って﹁如何に生き抜き︑勝ち抜いて行った
か﹂と言う問題については何等触れていない︒中国の特性から背景に強力な国家の政治力を持たなかった彼等の生活の仕組には ﹁雑
草﹂の如き根強さがあり︑幕末︑維新の時代に﹁長崎の場﹂で越し
て行った支那人の推移には極めて興味深い課題があろう︒
現在︑十善会病院の中に残っている﹁重建広東会所碑記﹂に依る ︵文久二年︶ ハ明治四年︶と同治初年︵一八六二︶頃から広東人の来崎が増加し同治固○年︵
一八七一︶に広東人の宴薦垂として広馬場の四海楼の附近に栄遠堂 二〇
︵文久二年︶嶺南会所︵後の広東会所︶を設立している事が判るが︑この一八六
二年は外人居留地に於いて住民の実態を記録的に捉えた最初の年で
あり︑この時期に既に支那人が新しい性格を以て唐館を中心に蝟集
しつつある事実は見のがせないであろう︒本来︑唐館は前にも指摘
したように中国船来航に当り一定期間支那人が滞在する性格のもの のであったから︑幕末に至って中国船の来航が杜絶すると当然︑唐琴
は﹁開店休業﹂の状体であるべき筈に不拘︑外人並に新しい感覚を
以て唐館へ蝟集した事実は如何に考えるべきであろうか︒その為め
には先づ外夷附属の支那人に対する外支両面よりの見解を見て見る必要があろう︒外人側は︑この外夷附夷の支那人を﹁連渡りの一季
雇のものである﹂と表現して居り︑支那人側は﹁利に走って唐館を
脱出した富有者である﹂と表現しているが︑それは﹁紙入が象を評
する﹂の讐で︑何れも﹁外夷附属の支那人﹂に関する対照的なニツ
の側面観にすぎず︑全貌と真髄は忍んではいない︒寧ろ外留立に何
れも殊更に盲人を装うて非条約支那人の来航︑来集の全貌を糊塗し
ている所に問題があろう︒
さきの万延元年申正月の長崎奉行の﹁各国附属支那人取扱猛牛儀
奉伺候書付﹂の上申に対し︑外国奉行評議︵閏三月︶の申に
当二月一八日英国ミニストル儀御宅へ罷出候瑚申立候趣二而日長 崎表ニハ唐館内在留簿外支那人数多渡来罷受認之内外国之者相雇
連耳管海進退いたし候得共外国船へ頼連署古謡ものも有之右之分
者引受候儀相鼻詰揚間唐館内居留之者井外国人雇之者之外上陸不
相成筈御規則を御立被下紐藩候得者樽詰を以コンシュルより船司
忙々へ可・脚達⁝⁝
とあり︑それを堪えて同年四月江戸から長崎奉行へ
御条約済国々之者雇之支那人は証書所持景致置可申間右所持無之
分は上陸不相成様規則止立置⁝⁝右之趣を以船司等へも申達⁝⁝
と指示しているから︑表現の上で糊塗されて︑鮮明さを丸いだ長崎
投入の支那人の主体と性格が︑従来の多年貿易の惰性と新商法の盲
点に乗って︑船司に便涌する所謂﹁密入国﹂の不逞の性格を持って
いた事実が自つから肯づけるであろう︒
外人居留地で刊行された最初の外字新聞Z①ひq鋤裏壁国×嘆Φωωに ︵支那人問題︶は︑その20●つ﹄Pゴ●の三回に渡って﹁Oげ冒①ω①の⊆Φω口︒昌﹂と
題して︑外人の脅威となった支那人の問題を論じているが︑その中
で右の支那人の性格に触れて次の如く
ω 地方官憲の協力下に今後︑支那人の長崎上陸を禁止し︑従来の
ものは今迄の2冒ひqづ︒αq三乙の支配下で︑地域的には﹁広馬場﹂
に制限する︒
@ 領事団は地方官憲と歩調を合せて︑支那の開港場の同職と連絡 を取り︑長崎入港の船長には厳に支那人の乗船を禁じ︑万一乗船
させた場合には連れ帰させる事を命じているが対策の万全は期し
難かった︒㈲従って不逞支那人の探索のため地方官憲は遂に市中に﹁触﹂れ て︑唐館の門限を夕六時迄とし︑以後唐館外に在ってパスポート
の無い支唐人は逮捕︑牢屋にブチ込む旨を布告したが﹁要領の良
い支那人は巧みに唐館内へ春雨し︑不届者は六〇名も翌朝は牢屋
に入っている﹂という自由奔放さを指摘し︑効果が一こうに上っ
ていない事を認め
の 先般︑早船マカオ号が幽門から入港したが︑その船中には禁制
の支那人百人の乗客があり︑彼等は無事税関を通過し︑二日後に
は安全に上陸して直ちに活発な貿易を開始して居り︑
㈹ 而も地方監視のきびしさも徐々に緩んで︑而て新地蔵所の倉庫
を解体し︑そこに棟割長屋が新来の支那人の誉めに︑安上りの宿
唐館の解体と支那人居留地の形成︵菱谷︶・ 所として出来上って行くのを目撃した︒と論じている︒ ニ この論評は一八七〇年三月一九日付の紙上に掲載されているので︑その時元に於いての居留地を中心に蝟集した支那入の展望であ り り︑ω@の内容は万延元年の﹁附属支那人取扱い﹂に関する長崎奉行の上申と符節を合せて考え︑のは﹁貴意門限六時﹂とあるから前 ︵一八六七年一二月︶述の慶応三年一一月の惣門を寝惚ツから暮六ッ迄開放して立入商法 へな ム の を許した時元から翌年四月︑その門限を全面的に解除した時元詰に焦点を絞り︑⇔鮒は先般︵hΦ<¶ <¶ΦΦ昇 一筆Ω叶Φ目︶とある所から︑少くとも掲載当時の実感と目撃であると見て良く︑この論評には法の網 フトドケモノ プライ ト ムホウモノをくぐった所謂﹁不届者﹂ ﹁無頼魚骨﹂ ﹁無法者﹂としての支那人の馴致過程を窺う事が出来るようである︒ 豆 ﹁唐﹇館前広馬場と新地善所﹂の変質 内浦に浮ぶ新地毒心に対する唐館前面の﹁広馬場﹂が開国に伴う ニ白人の長崎投入に当り格好の上陸拠点として逸早く仮泊の中心となり︑キャリヤに富んだ先住の唐館の支那人と結托して有利な地歩を堅めて行く半面︑将来される外人居留地の整備に思わぬ禍根を残して行った事については再三に及んで論ずる所があった︒特に先稿
﹁外夷附属の支那人について﹂に於いては﹁外支の接点としての広 ダ 馬場﹂の節を設けて︑当該地域の写真と図面を掲載して︑八八六一
む 年=一月一二日付の長崎在勤の英副領事マイバークから江戸在勤の ︵一八六一年七月︶英公使オール︑コックへの報告書類を文久元年六月幽居留場取扱掛
乙名連名になる長崎村十善寺郷︵広馬場︶に於ける﹁唐倉﹂ ﹁無頼
の徒﹂に関する伺書と届書に対照させながら具体的に説明を加えた
ので今更に︑広馬場の変質については説明の要はない︒唯この居留
外人の支那人評の中に ﹁1⊆P創①円9①o冠Zぼαqロ︒σq信一冠≦鉱︒げ
零霧藍碧︒長銀一①h霞昏Φ60昌住⊆90h$oげ①昌α①<①曼一b畠7
一=
長崎大学教育学部社会科学論叢第一九号
く崔q巴08轟︾餌暮︒駒之皿同窪Φ昌犀目下8畠ρ⊆母什震餌け国跨︒び9げ曽﹂
とある事は﹁広馬場﹂が唐館︵けげΦΩ9匡①目90ω霞︒︶から外され
ながらも︑前方の隣接地として︒包Zぼρ切ooq9匡の責任下で︑
支那人の占居が黙認されつつあった事実を示唆するであろう︒従っ モ タムロて前出の慶応三年に至って︑広馬場に屯する無類の支那人の清掃狩
が掲示に依って布告されてもコ笑﹂に附せられ︑要領の悪い﹁不
届者﹂が六〇人も投獄される事が茶飯事であった事実には明治初年
には大量の密入国者が堂々と行なわれ︑それに伴って新地の蔵所が
住宅へ変化して行く事実と並んで︑密航支那人の正当化への馴致が
進んでいる事を示して居る︒
以上の如く広馬場の変質については﹁外夷附属﹂の方面から論ず
る所があったが︑新地蔵所の変質については未だ十分越論究を進め ハ ヰ た事はない︒ 記録に辿ると唐人屋敷差配役連名になる辰四月付の
﹁唐商引立方之儀壁付申上候書付﹂の中に
近年に至り新地二而居留地之振合二准ジ住居三差免候以来追々新
地へ引越候者茂有之当時在館高二百八拾四人之者共⁝⁝極貧之者
共進一差一一者共一己⁝⁝
とあるから新地の蔵所が変質して﹁外国人居留地﹂振合いで支那人
の居留地となって行った事が判るが︑その近年を何時に設定するか
が問題であろ窪盤処分書類の中には薪畿処宅料取立高書
註三 辰四月付﹂㈲﹁新地之儀二付廉々取調申上記書付﹂㈲﹁新地惣坪数井貸地 と 之覚﹂㊨﹁新地住居地代銀之覚﹂周﹁蔵敷銀之覚﹂㈱﹁新地蔵敷井
地料取立之覚﹂㈱﹁新地蔵敷地葺取立差引書﹂㈲等の﹁新地処分﹂
に関する一括書類が収録されているが︑その㈱と陶圏を調査︑整理
すると次の表二が得られる︒ 表二
A
一=一畳翫
・ヨ鱗新地蔵所の住宅地への転移表
ニハ 新地蔵敷井地料取立之覚に依る
年 次 子元治元年
丑慶応元年
寅慶応二年 取立総額銀葉垂・六空匁余 内
訳
蔵敷銀一地代銀
貫き孟二六匁余
〃 一三六・三八〃余.量・七9万余 一
〃
⁝・六七一〃余二四・三二九〃余
順応三型七六.莫余︸杢.五西余 虻〃 貫二●一六四㎞鳳A不δ人会〃三九・三四六〃余西・晃二〃余 備 考
︵借地坪数推定︶
講灘霧雛
鳶⑰・ひ堵
倒︒︒αO
ひ齪塒αc︒αO
O鳶●c︒堵一路︒︒αO
B
ニニ り 新地住居地代銀之覚と蔵敷銀之覚に拠る
辰明治元年 五月 提鞄九二●四六二匁全小
ぎδ匁︵蕪罎鑑坪数
総坪数 昊五〇坪 δ七二・五坪 一坪二付年蓋匁割Aの資料には最後の所に︑合計銀百七拾九貫六拾目とあり︑その
内訳の所が 百四拾弐貫七拾弐匁 蔵敷
但四ケ年平均一ケ年三拾五貫五百拾八匁余二当ル
︵朱︶此金三百五拾五両永百八拾文
三拾六貫九百八拾七匁 地料 但三ケ年半二刻壱ケ年拾貫五百六拾七匁単二当ル
︵朱︶此金百五両弐分永百七拾文と記されて居り︑恐らく元治元年を半年で計算している様であるか
ら支那人の新地への移動が始まり︑蔵所が住宅化されて地料が取り
立てられるようになったのは︑常識的に考えて元治元年の後半から
と見立て︑ほぼ誤りはないであろう︒而もBの地代銀の資料には支
那人商社が借入れた場所と坪数︑地代銀の単価︵一坪年一五匁︶と
総額が明記してあるので︑これを規準としてAの各年次に於ける地
代銀から借地坪数を推定したのが下段の備考欄のアラビヤ数字の坪
数である︒分母の坪数が鬼蓮を外した新地総坪数である事はいう迄
もない︒今これ等の数値を後述の翌明治二年に制定された﹁支那人
貸地規則書﹂に署名捺印している新地居住支那人の場所件数と坪数
−一二件と二六六九坪と対照すると︵表四参照︶新地蔵所の顕著な
変化に一驚せざるを得ない︒
支那人の新地蔵所への居住が差障ぜられた耳元﹁近年﹂をどこ迄
遡らせられるか一概に決定出来ないが︑右表に依って﹁事実﹂とし
ては既に元治元年の後半に支那人の当該地への移動が始っており︑
明治元年に至る爾後五ケ年に借地坪数は十倍以上に昇り︑寝所はそ
の性格を変化して居住性を増し︑而も明治二年には四月に外人居留
地の振合に依って支那人貸地規則書が制定されて支那人居留地の合法的形成の機運に応じて一〇月には新地蔵所の築増一千坪の計画が 実施に移されているから新地への支那人の差免じの規定は先行する
既定事実に追随した処置と見る方が妥当であろう︒従って先に引用した明治元年の長崎在留支那人総数七四三名の内︑外人居留地へ進
出の分を外した学館居住の二四二名︑新地居住二一三名に改めて目
を向けて見る必要があろう︒先づその唐館居住の支那人の数は﹁新
地居住志免﹂に関する前記︑唐人屋敷差配役連名の﹁唐商引立方之
儀二黒申上候書付﹂の中には二八四名とあるから同じ年次でも月に
依って四〇名以上の変化の見られるのは︑どう考えるべきであろう
か?統計資料の中には未だ﹁広馬場居住﹂の支那人には何ら触れて
いないから慶応三年末から翌明治元年初めにかけての﹁唐館﹂の解
唐館の解体と支那人居留地の形成︵菱谷︶ 体︑解放の事実は︑寧ろ前面の﹁広馬場﹂を唐箕一字︵けげ①09冠魯︒一〇ω霞①︶に囲み込んだ形で表現されており︑寝て主客転倒して ﹁広馬場﹂が独立した居留地域として唐館から離れ︑同時的に唐館
が解体︑消滅して行くと見て良いであろう︒言わば広馬場の地域は
従来︑鎖国時代蘭館と並んだ下館が新しい時代の脚光を浴びて︑発
展的に解消する為の﹁足場﹂となっており︑一つはここを軸として
外人居留地へ進出して外夷附属となりつつ本命はここを核体として
新地蔵所へ年次的に進出して蔵所の性格を変じつつ︑その余勢は更
に前面へ転進して幕末維新の一時期には出島と押並んだ俵物役所趾
迄︑その範囲は延びていたようである︒然し騰て時勢の安定と共にそれは集約されて﹁広馬場地区﹂と﹁新地地区﹂の正規の支那人居
留地へ凝固︑形成されて行ったと見て良いようである︒
皿 明治初年の居住支那人の人口推移
明治三年発行の銅版の﹁長崎港全図﹂には図上段に﹁外人居留地
十万坪余︑支那人居留地一万坪余︑上中下三等の差あり﹂と附記さ
れており︑明治八年の長崎県が中央へ報告した﹁外人居留地官民有
地明細帳﹂に依ると外人居留地は﹁大浦︑東山手︑下り松︑南山手︑梅ケ崎︑出島﹂の六地区聖慮一〇万一九七七・八坪︵上等地一
万七一二七・八坪︑中等地幾万二八六六・八坪︑下等地六万一九八三二一坪︶︑支那人居留地は﹁新地︑広馬場﹂の二地区総坪六九六
五坪︵上等地一五九九・三坪︑中等地四五三六・五坪︑下等黒八二
九・二坪︶とある︒この二つの明治三年を八年の資料と対照して見
ると外人居留地の場合は明治八年の正確な報告資料に一致して︑そ
の地域は固定しているが︑支那人居留地の場合には︑その地域と面
積には可成りの相異のある事に気付く︒これは地図上の附記の表現
が﹁万﹂を単位とした極めておおまかな記載である事と又当時﹁広
馬場と新地﹂を中心に支那人の占居形態が固定化に向いつつも︑尚
二三
長崎大学教育学部社会科学論叢 第一九号
流動的であり︑奥地化した唐館内に地域的に散在する消極的なもの
から前方の俵物役所趾へ勇躍進出する積極的の者まで唐館と出島を
結ぶ内浦一帯へ幅広い展開を示すものであり︑聴てその散慢な支那
人居住が集約︑凝固して﹁広馬場と新地﹂地区に固定して明治八年
の報告資料となったものと断じて良かろう︒
今︑この明治三年︑ 八年に焦点を絞り︑ 明治初年に於ける広馬
場︑新地に集約されて行く正規の支那人居留地に於ける入口動態を
各年次の﹁漢人籍牌簿﹂の類で︑丹念に調査︑整理すると次の如き
護﹁鵡甥轟長崎在留支那人の推移表﹂が得られる︒
/明治一年
〃 二年〃 三年 居留地域別支那人数
羅磯霧万機裡瀞⁝爾 三天○︸壬三
九董 ○七八
二五 〇=一一
〃 四年一 七⁝ 一五
〃 五奪
〃 六年
〃 七年
六…
@二
三九⁝ ○
○⁝一三
〃 八年
〃 九年一
〃 〃
Ω=一六
一〇窒
=型
Ω=一三q;二
四三 =二三=八
一五一一=五
二五七
二
二八三三=二 二八六︑ ○二四二二九ご
一六三 ==
一ご一二八
八﹁ハ六
三〇⁝五〇
三四Ω○
三三璽○
一八三︸一五八︸
一七}
○
○
一
○ 総人数
七四四
五〇五 原 拠 資 料新地住居唐人名前書外国人支那人名前取調帳清国人鑑札簿
?四五Ω
?三四六
?二七三?二七〇
七〇八
七一七?三〇八
五七〇四七三 支那人遡れ一件 明治三−五年支那人鑑札︸件 明治六年清民領牌入名冊新地清人籍二丁大浦清人籍牌簿
驚酸乳名冊
寄留清人名簿
清民人名戸籍簿 二四
基礎資料となった支那人の﹁名前書﹂ ﹁鑑札簿﹂ ﹁領牌人名簿﹂
﹁籍牌簿﹂ ﹁寄留名簿﹂ コ月籍簿﹂の類は年次を追いながらも記載
の形式に著しい相違があり︑その内容の把捉︑理解の上で困難な点
が多く︑かてて加えて記録の不備と記載の疎密が見られ︑特に明治
三年から六年にかけて︑それが甚しく又明治九年の資料では肝心な
新地寄留の名簿が欠けており︑豊中に二名記入してあるのは他地域
の内で偶然発見したものにすぎない︒従って疑問のケ所には¥を附して︑一応合計欄は形式的に記入して置いた︒表中の各年次の総人
数を見ると在留支那人の多い年は明治元年の七四四名︑明治七︑八
年の七〇八名︑七一七名で︑逆に少ない年は明治四︑五年の二七三
名︑二七〇名となっている︒この数値には多少の疑問が持たれるが
数の少ない明治五︑六年は日清修好条規締結の直後であり︑数の多
い明治七︑八年はそれが軌道に乗った時期とするならば︑支那人動
態に条約締結が陰陽に影響していると言っても過言ではあるまい︒ 尚野中に﹁不明﹂としているのは︑前後の年と対照して見ても商
社の所在が判らず︑当時の商社の盛衰激動の中で︑それに附属する
支那人が極めて流動的で固定的に捉える事が出来ないので﹁不明﹂
として別欄に記入したのである︒現在︑大浦外人居留地に進出した
支那人の動態に−ついては右基礎資料の外に明治一︑二︑三年の﹁名
前調帳﹂三冊が残っており︑これに依って月別の異動まで判るので回申の同年の大浦居住の支那人の数と比較すると可成りの相違が見
られ︑而もそれが月別に依って激変して浮動性が顕著であるから︑
これに依っても表中の﹁不明﹂の性格が丁づけるであろう︒土中に
唐館と広馬場を一つの区劃の中にまとめ点線を以て両者を区別し︑
大きく広馬場地区でまとめたのは前述の如く唐館前面の﹁広馬場﹂
を唐館一劃︵昏Φ〇三流窪90ω嘆①︶に囲み込み︑更新の﹁唐馬−
広馬場﹂という形で表現したものであり︑表に依ると館内居住の支
那人が明治元年に二三六名いたのが年を経るに従って減少し︑明治
七年以降は統計上○となって居るが︑これは旧い唐館が発展的に解
消し︑それが広馬場の中に吸収されて行く姿であり︑爾来広馬場︑
新地︑外人居留地と三地区共に居留支那人の数は増加︑安定の傾向
を示して居る事が明らかであろう︒
華僑の長崎に於ける人口動態は明治一五年以降はホボ︑その統計
資料が残って居るが︑それ以前の唐館解体後の当初の微妙な明治初
年十年間は空白になって居た︒幸い県立図書館には当該期閥に於け
る﹁籍牌簿﹂﹁領置名冊﹂等の類が多く残って居るので︑これを丹念
に整理︑調査し一応の結果を得たので︑その空白を補うため作製し
たのが表⇔である︒表申から明治九年広馬場の資料を早いだ年を始
め疑問符を附した年を外して︑その平均値を求めると約音〇〇人の
数値が得られる︒この華僑の.平均値五〇〇名は華僑の﹁法の網をく
ぐっての﹂不正の暗躍に手をやいた白山が﹁周①冒コp︒く﹂を期待し
た日清条約締結の前後に於いて︑殆んと変化はないのであって︑こ
の数値を基準として長崎の華僑は明治︑大正︑昭和の三代の時代の
波に乗りながら幾多のカーブを描き︑百年後の今日︑尚七〇〇人に
近い支那人が大浦︑ 広馬場︑ 新地を中心に在留して居るといわれ
る︒現在︑外人居留地の中心︑大浦三二番地所に中国孔子廟が復元
され︑その子弟の教育機関の時中小学校と共に併置されて居る事実 は正に旧き居留地時代に於ける華僑進出を語る金字塔であろう︒
註一︑箕内健次氏﹁長崎﹂の末尾に﹁中国船オランダ船来航隻数﹂表が附
記され︑それに依って鎖国時代の貿易の推移が了えるが幕末に至りそ
の数は激減︑安政五年以降は記入がない︒
註二︑安政六年六月︑開港に当って居留地設定の目鼻がついて居なかった
ので取りあえず条約国との間に仮泊地協定を結んだ︒その範囲は正確
な日本資料を欠いで不明であるが大体蘭館対岸の江戸町から内浦沿岸
唐館の解体と支那人居留地の形成︵菱谷︶ を経て南・万へ︑大徳寺︑連覇をかかえこみ東山手から南山手の妙行寺 へ結んだ線内にあったようである︒註三︑0の申の数字は﹁羅処分姦﹂の整理番号である.丁字︑明治臨書年十月﹁新地築増地一件﹂註五︑拙稿﹁申国孔子廟と長崎﹂ ︵長崎談叢 第五〇輯掲載予定︶
四︑支那人商社の動向と関連古図
この明治初年に於ける居留支那人の動態を更に具体的に把握する為め︑彼等華僑商社群の推移を追跡して糖度い︒この事については
既に先年︑日清条約締結前に外人居留地に進出した﹁非条約﹂支那
人の商社の推移を考察した事があるので︑それを基盤に習えて唐館
解体後出現した正規支那人居留地に展開する商社群に焦点を当てて
見よう︒ここに掲げた表四︵1︶ ︵皿︶は明治初年に於ける正規支
那人居留地の地割︵地番︑地種︑地積︶と借地人の年次的推移を眺
めようとしたものである︒ ︵1︶ ︵∬︶の二つの表に分けたのは︑
前者︵1︶に於いては唐館を広馬場と一体化の中で捉え︑白人の場
合︑ ﹁出島﹂に於ける従来の﹁国p︒08q﹂の地域がそのまま近代の
外人居留地の中に組入れられて行ったのに対し︑華僑の場合︑従
来の高館の﹁O乱訴9巳︒ω⊆器﹂が所を変えて︑その前面の広馬場 お へ脱皮して行く姿を明確にし︑後者︵亜︶に於いては︑その広馬場
を拠点として外人居留地の出現に伴って南方の外人居留地へ﹁外夷
附属﹂として進出して行った支那人が次いで﹁唐館附属﹂ ﹁公司附
属﹂として前面の内浦に浮ぶ新地蔵所へ進出し幕末維新の一時期には膨張して︑その地域は新地からあふれて前方の元俵物役所の地域
迄のびて出島と並ぶという現象を生じながら嘗て.新地の地域に凝固し︑海岸前面の一等地を中心に支那人商社が﹁ここ﹂に顔を揃えて
二五
移推
人の
那
支るけ
に 於
地
留居
馬 場
D 広
︵四
表
長崎大学教育学部社会科学論叢 第一九号二六
謡一焔治住明居 ﹄レヒド群睡柄レ陰極轡照群ドレド⁝⁝一⁝⁝丙 醐 鞍繍欄瀦蜻黙黙瀦輔鷲 八 魏 雲嶺厳林伝伝陳 伝鉦挑泰 黄甲乙輪廓 ︶ ︶
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次年番 地
年名元人治住明居
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表四
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年七一三治明
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年ご治明 数十鵬商
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年元囎名半商
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年三応慶同社商
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註 唐館の解体と支那人居留地の形成︵菱谷︶二七