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17~18世紀におけるロシア人の中国観

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唐   艶 鳳

(金   訳)

概要

 17〜18 世紀におけるロシアは中世紀から近代へと転換し、東進政策による領土の拡大 および陸海の貫通を経て、東ヨーロッパの小さい国から一躍してユーラシアの大国となっ た。ロシアは極東開発政策により、国境を段々中国の領土に接近させ、中ロ接触の歴史を 開いたのである。中ロは互いに境界紛争および2回の雅克薩(アルバジン)の戦争を経 て、相次いで「ネルチンスク条約」と「キャフタ条約」を結んで、比較的に平和で安定し た外交関係と貿易関係を築き、そのような情勢が百年余り継続した。ロシア人の中国に対 する最初の認識は、モンゴル統治時期の「不明で神秘な東方国家」という模糊な概念から 始まった。ロシア人の中国観の変遷は、重層の内外要因に影響されたのであるが、17 世 紀初めからのロシア政府の初の公式使節団と18 世紀始めの布教団活動の開始が内因とな り、西洋から始まった「中国ブーム(中国趣味)」の風潮がピョートル1世の西欧化改革 によって、ロシアに伝えられたのが外因となる。内外要因の影響のもとで、中国の器物が ロシアで評価され、推賞されるようになり、中国の精神文化および中国イメージが推賞さ れるとともに意図的に醜化させることもあって、ロシア人の中国に対する認識の視点はさ らに多元化し、国家内政外交政策によって左右されたのである。前近代ロシア人の中国観 の位置づけ、形成、変遷および正邪褒貶は、国家政治と経済政策とりわけ極東領土につい て訴えるような影響を受けたのであり、このような影響は終始中ロ関係の発展に影響した のであって、未来の中ロ関係の方向性に重層な基盤を築いたのである。

 17 世紀初に、ロシアでは動乱時代が終わり、ロマノフ王朝の統治時代が始まった。ロ シアは国内の政局を定め、域外に目を転じて、はじめて視点に入ったのは広大な極東地域 であった。ロシアは東進過程において絶えず中国領土に接近し、中ロ辺境地帯では摩擦と 衝突が頻繁に現れた。17 世紀にロシアが中国領土を占拠しようとする野望は思いどおり にならなく、双方は条約を通して相対的に平和と安定的な関係を維持するようになり、こ れも双方が各自の力と利益を均衡し決め出した最良の選択肢でもあった。18 世紀のロシ

17~18世紀におけるロシア人の中国観

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アは西進と南下政策を遂行し、ピョートル1世とエカチェリーナ2世は陸海の領土を拡大 するとともに、西洋人の中国に対する印象をロシアに伝えたのである。訪中使節団と布教 団が大量に中国情報を収集することに加わって、ロシアが中国を認識する視点は多元的で 可変であったものの、国家政治と経済目標に貢献するところに終始していた。相対的に安 定と平和な外交計略はただロシアの臨時の対応であって、中国が世界の舞台からの衰勢お よびヨーロッパ各国の中国を侵略する狂瀾が起こり、ロシアはほかの国よりも猛々しく中 国を分割する前列に立ったのである。歴史の発生は偶然ではなく、前近代の中ロ初期の接 触時期におけるロシアの中国観の形成と変遷を明らかにするのは、全面的かつ正確にロシ アの対中国政策を分析するためには有利であり、中ロ関係の発展にも歴史的な参考を提供 できるのである。

一、ロシアの領土拡張及び初期の中ロ関係

 13世紀のモンゴルは真っ直ぐ西征して東ヨーロッパまでに到達し、1240年においてジョ チ・ウルスを建立し、ロシアを240年間統治していた。この時期において、ロシアは中国 および中国文化に対してある程度了解していたものの、全体的な了解は少なかった。15 世紀の末に、益々強くなってきたモスクワ大公国はモンゴルの統治から脱出し、統一的 中央集権制国家を建立すると同時に、対外拡張を始めたのである。16世紀の末、シビル・

ハン国を滅ぼし、ロシアの東征の道を開いた。17 世紀の前半、ロシアはオビ川の支流で あるトミ川、エニセイ川とレナ川流域に相次いでトムスク、エニセイスクとレナスク(現 在のヤクーツク)を建立し、その3つの都市を中心にして、さらに北東アジアに深入りす るようになる。17 世紀末になると、ロシアは基本的に広大なシベリア地域を支配するよ うになった

 17 世紀のロシアは、エニセイスクとヤクーツクを中心として南北双方から中国東北の 黒竜江流域を侵攻し、偵察情報をツァーリ国政府に絶えず報告していた。それまでの中 国は「羅刹(ロシア)」をただ匪賊の群にしか考えず、国家としてのロシアについては知 らなかった。ロシアが度々中国辺境を犯すことによって、中ロの摩擦がエスカレートし、

1916 年にロシアが黒竜江流域の衝突を解決するために、第一回外交使節団の訪中を皮切 りにして、中ロ間の正式な外交関係が始まった。2回の清露国境紛争を経て特使に任命さ れたゴロヴィンは、第7回の訪中使節団を率いて中国に赴いて、中ロ辺境の交渉を行った 後、1689年に「ネルチンスク条約」を締結し、中ロ辺境の衝突が緩和を迎えるようになっ た。雍正帝執政の間に、ロシアの第10回の訪中使節団であったサヴァ使節団(1725

-1728

年)は交渉を通して「キャフタ条約」を締結し、中ロ中段辺境を画定したのである。「キャ フタ条約」の締結は18 世紀半ばに中ロが積極的に外交関係を結んだ重要な原因の一つで 1 瀋影『俄罗斯领土变迁史』、社会科学文献出版社、2013年、39頁。

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あり、それ以降は、両国の平和かつ安定的な局面が百年余り維持できるようになった  ロシアは中国との貿易を大いに重視し、正式な商業貿易関係を築くことを切望して、さ らに積極的に商業活動に励むに併せて、関連の政策を立てていた。17 世紀末、ロシアの 中央政府およびシベリア地方政府は使節団を中国とモンゴルに派遣し、監督制度を作っ て、中国に赴く人々には政府の許可をもらえるよう要求したのである。政府は貿易内容を 把握し、十一税の徴収とパスポート発行の上で通行を許可した。「ネルチンスク条約」を 締結した後、中国に派遣されたロシア人たちは商人でもあり、外交官でもあった  18世紀におけるロシアの地域政策は西進と南下に転向し、水域と河口の争奪でヨーロッ パに立脚することを求め、対外拡張政策が地域的呑噬から世界的な侵略に転向するように なる。大北方戦争で勝ったロシアはバルト海の河口を獲得し、2回の露土戦争では黒海の 河口を貫通させて、3度にわたったポーランド分割から領土の辺境を西に推進し、ポーラ ンドとベッサラビアを併呑して版図をさらに拡大させた。18 世紀になって、ロシアは西 部の安全戦略の目標を達成し、東部において、中国とは相対的平和かつ安定的な関係を相 変わらず維持していた。

二、前近代のロシア人が中国を認識するルート

 ロシア人が中国を認識するためのルートはおよそ2つある。1つ目はロシアの訪中使節 団と正教会ミッションであり、2つ目は西洋からきた「中国ブーム」の風潮そのものであ る。この2 つのルートの作用のもとで、ロシア人の器物方面と精神方面における中国観 が形成され、このような認識が前近代中ロ関係の発展の全過程および国家政策の転向に連 れて変化したのである。

1.訪中使節団

 中国文化は約 13 世紀のモンゴル統治時代からロシアに伝わっていたが、17 世紀までは ロシアの中国に対する認識は甚だ少なく、中国をただ遥かに存在する1つの東洋国家と しか考えなかった。1618 年に第1回訪中使節団をきっかけに中ロの外交関係が開始され、

17 世紀から18 世紀までの訪中使節活動は、基本的に中ロ間の初期認識、最初の交渉、交 渉の深まりという3つの段階に分けられる。

 1618 年から順治帝の時代までは、中ロ間の初期認識の段階であり、3つの訪中使節団 が訪問するようになるが、それぞれ

I. ペトリン使節団(Посольство И. Петлина

:1618年)、

F. I. バイコフ使節団(Посольство Ф. И. Байкова:1654 -1658年)、I. S. ペルフィリエフ使節

2 Отв. Ред. С.Л. Тихвинский. Русско-китайские отношения в XVIII веке: материалы и документы. Том 6.

Москва: Памятники исторической мыси. 2011г. С.7.

3 『仏』加恩著・江載華訳、『早期中俄関係史(1869

-1730)』、商務印書館、1961年、26頁。

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団(Посольство И. С. Перфильева:1658

-1662 年)である。I.

バイコフ使節団はロシア中 央政府が初めて派遣した公式の使節団であり、派遣の理由については、主に中ロ両国にお ける黒竜江流域の衝突を調節するためであると言われている。I. バイコフは中国皇帝にま みえることができず、中国との貿易関係を結ぶこともできなかったが、彼の持ち帰った中 国情報はツァーリ国政府に多大な興味をもたらしたのであり、それ以降、新しい使節団を 組織するときに多く利用されていた。中ロの初期認識の段階は、情報を蓄積する段階で もあって、使節団の主な任務は中国に向かう道を切り開いて、貿易の可能性を判断するこ とであった。康熙帝時代の初め頃に訪中使節団が中国を訪問したのも、中ロの初期認識の 段階であって、この段階にはS.アブリン使節団(Посольство С. Аблина:1668-1672年)、I.

M. ミロヴァノフ使節団(Посольство И. М. Милованова:1670年)、N. G. スパファリイ使

節団(Посольство Н. Г. Спафария:1675-1677年)の3つの使節団が中国を訪問しており、

主な目的は依然として貿易であって、中国との正式的な貿易の往来関係を結ぶことを期待 する一方、ヤクサを拠点として黒竜江下流の侵入を開始するようになった。辺境と貿易問 題について、清朝政府はロシアの使節と初めての交渉を行った。康熙帝時代の半ばから 乾隆の時代までは、中ロ間の交渉の深まりの段階であるが、この段階に訪中したN.G.ゴロ ヴィン使節団(Посольство Н. Г. Головина:1686

-1689 年)、イズブラント・イデス使節団

(Посольство Избранта Идеса:1692

-1695 年)、L. V.

イズマイロフ使節団(1719-1721 年)、

S. L. ラグジンスキイ=ヴラジスラヴィチ使節団(Посольство Саввы Лукичи Рагузинского-

Владиславичи:1725 -1728 年)など使節団は相変わらず貿易を主としていて、利益の吸引

力および黒竜江下流黒竜江流域の衝突激化により、使節団のレベルが益々高くなるように なった。貿易・辺境・逃亡・ジュンガル問題などに対して、中ロ双方は互いに妥協して「ネ ルチンスク条約」と「キャフタ条約」を締結し、アヘン戦争前の中ロ両国の政治、貿易、

文化、宗教など領域の関係を確定するようになった。18 世紀末から19 世紀初の嘉慶帝執 政の間、ゴロフキン使節団が訪中することにより、中ロ関係は大きな転換点を迎えるよう になった。17 世紀から18 世紀までの間、初めて訪中した使節団は外交使節団であって、

基本的には、平和交渉のもとで平等の条約を結んでおり、ロシアと清朝政府の間で正式な 貿易関係を結び、1世紀余りにわたって安定を維持することができたのである。

2.ロシア正教団

 17世紀の後半から、ロシア正教会が中国に現れ始めた。ロシアの工場主、猟師とコサッ クたちは、毛皮と貴金属を獲得するためにアムール川の沿岸部に定住し、彼らの建てた住

4 H. Q. デミドワ、(Влади́мир Степа́нович Мяснико́в)ボス二コフ著、黄玫訳『在华俄国外交使者

(1618-1658)」』、社会科学文献出版社、2010年、76、92頁。

5 葉柏川『俄国来华使团研究(1618-1807)』、社会文化文献出版社、2010年、13-78頁。

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民の拠点はアルバジン(即ち雅克薩)と称されていた。順康年間に、中国は雅克薩でロシ ア軍との戦いで捕虜にした百人近くのアルバジン人を北京に移送し、清の鑲黄旗軍に編入 するようになった。清朝の統治者たちは、「因俗而治(習俗に従って管理する)」という 方針を遂行し、教会堂にニコラスの像を提供し供養させ、雅克薩教会堂の元聖職者のマク シム・レオンチェフに関連事務を担当させたのである。マクシムの死後、ロシアはそれを きっかけに、中国に第1回の正教会使節団を派遣するようになった(1715-1728年)。1715 年にロシアの宣教団が北京に住むようになり、正教会の信奉者であるアルバジンの人々は 故郷のロシアへ深い情熱を持ちながら、ロシアの対中国政策にも重要な役割を果たしてい 。17世紀末から、宣教団のことはロシアの訪中使節たちの背負う重要な使命の一つと なったのである。

 ロシア正教団は、ロシア政府から直接に中国へ派遣した正教会組織であって、中国の 様々な情報を収集し、政治情勢を感知するのが主要な目的であり、かつ非公式的な在外公 館として中ロ交渉に参加した。17 世紀のロシア人は、ロシア使節団の旅行記などから中 国を認識していたが、中国語が通じないことに制限されて、当時の中国に対する認識は片 面的であいまいであった。18 世紀になると、ロシアの宣教師たちが中国を訪問し、中国 語と満州語の勉強や、中国の文化典籍を翻訳することを通して、精神的な側面から中国の 制度、宗教、哲学、歴史などの問題について研究を行い、それによりロシアの漢学が推進 され、大量の漢学者が育てられて、ロシアの知識界に中国文化を深く理解させたのである。

18 世紀のピョートル1世とエカチェリーナ2世の対外政策は主にヨーロッパに対するも のであって、中国についての政策は相対的に平和と平穏な関係を維持することであった。

その時期の中国は康乾盛世の最中で、ロシア正教団の宣教師を厳しく規制することもあっ て、故に正教団は19 世紀のように侵略的な布教組織ではなく、平和的かつ非戦略的な組 織となっていた。正教団はロシア政府から与えられた政治的な使命を完成する以外、中ロ 両国の商業貿易と文化交流を促進する面においても、重要な歴史的役割を果たしたのであ

6 中ロ資料の人数に対する記載がそれぞれ一致しない。 一説には、 捕虜が151 人で、 そのうち 100 人はネルチェックに戻って、 残りの 51 人は清朝に帰順したと記載されている。 もう一説に は、45 人が清朝に降参したと主張している。 詳しくはここから確認できる。CергейГоловин.

РоссийскаядуховнаямиссиявКитае. Историческийочерк. ИздательствоБГПУ. 2013г. C. 5.

7  П.А.Лапин. Албазинцы и Русская община в Пекине (конец XVII - начало XX в.

. Восток. Афро- азиатские общества: история и современность, № 5, 2013, C. 54.

8 葉柏川『俄国来华使团研究(1618-1807)』、283頁。

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3.西洋「中国ブーム」の導入

 18 世紀のヨーロッパにとって、中国は理性的で法律並びに道徳制約があり、経済が繁 栄し、君主が徳才兼備する国であって、中国の伝統文化と芸術様式がヨーロッパで大いに 流行し、「中国ブーム」が形成されるようになった。18世紀のロシアは全面的に西洋化す る時期であって、ピョートル1世は西洋の先進技術設備を輸入するところから政治と軍事 改革まで、徐々に西洋模式を利用して遅れたロシアを深く変えようとした。その一方で、

西洋の東洋および中国に対する認識を受け入れ、「中国ブーム」の風潮をロシアにもたら したのである。ヨーロッパにおける啓蒙運動の勃興や、エカチェリーナ2世の開明専制の 主張により、ロシア人の中国に対する注目度が急速に高まった。ヨーロッパのキリスト教 宣教師たちによる漢学著作、訪中使節と商人が書いた旅行記、啓蒙思想家たちの著作がロ シア語に大量に翻訳され、入り組んで複雑である中国情報がロシア社会に伝わったのであ る。その一方で、ロシアの建築家たちはヨーロッパでの「中国ブーム」を斟酌し、その味 わいをサンクトペテルブルクの宮殿や園林の設計に取り込もうとしたのは、ロシアの上級 階層の中国の風情に対する好奇心の現れと言えよう。このように、18 世紀のヨーロッパ に流行っていた中国についての知識は、様々なルートや形態でロシアに浸透し、ロシア人 が中国文化と歴史を理解するための主な源となったのである

三、前近代のロシア人中国観の視点

 17 世紀における中ロ両国間の初期接触の準備段階から、18 世紀の西洋気風の促進に加 えて、ロシアでは中国に夢中になる風潮が起こった。ロシア人の中国に対する認識は、違 う段階に応じて違う側面が現れるが、器物方面での推賞から精神方面での褒貶、および帝 王個人の好みから知識層の品評まで至るのである。

1.器物方面の推賞

ピョートル1世の執政前期は中ロの初期認識と交渉の段階に当たるが、中国に対する印

象は、主に6回にわたる使節団の活動によってもたらされたのである。初期使節団の中国 に対する認識は、基本的に客観的な叙述であって、中国の経済発展、軍事防御、風土や人 情、都市生活、外交礼儀についての紹介である。使節団が訪中する時間の長さや、言語能 力、および人事接触の数、中ロ文化の差異によって、初期ロシア人の中国認識は片面的で、

単純で、皮相的な部分さえあり、中国および中国文化の精神的な側面まで至ることができ なかった。中国は豊かで、物産が豊富であって、ロシアと同じような君主専制国家である ような認識に限られ、しかも中国とロシアの伝統の相違に注目していた。また、中国は傲 慢であり、儀礼と儀式を過度に重んじるとの認識だった。

9 閻国棟「18世纪俄国中国知识的欧洲来源」『国外社会科学』2011年第4期、63頁。

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 18世紀に「中国ブーム」が勃興してから、ロシア人の中国観は、器物方面の推賞から、

宮殿や上層社会による中国文化財、中国式建築や物の配置などへの関心が益々広まってい た。首都のサンクトペテルブルクは、西洋に向かっている窓のような存在であって、都会 の建築様式は、ヨーロッパの古今の建築芸術を広く取り入れており、東洋の中国的要素も 溶け込んでいる。例えば、ネヴァ川の沿岸に聳え立つ中国石獅、レトニ・ドヴォレツ・ペ トラ・ペルヴォヴォにある龍の噴水、宮殿内の搭載に設置されている「中国室」、中国風 の客間とあずまや、目がまぶしいほど多い中国花瓶、家具に飾られている中国の毛系刺繍、

食堂に飾ってある中国食器などがあった。ピョートル大帝の娘であったエリザヴェータは 中国から購買した屛風、漆雕の机、赤い灯篭、およびシルクを用いた宮殿の装飾、ひいて は中国の植物まで移植して、ロシア初の国家植物園を建てたのである。このような盛況は 当時「エリザヴェータの中国格調」と呼ばれたのである。エカチェリーナ2世はレトレト ニ・ドヴォレツ・ペトラ・ペルヴォヴォに中国式の青色のサロンを増添して、中国式の小 さい橋や楼台殿閣を再現したのである。1704 年に初めて建てられたピョートル大帝の夏 の庭園にも、中国式の青色のサロンと中国室、中国式の橋が設置されていた。そのほかに も、1762年から1768年までの間、オラニエンバウム(現在のロモノソフ)1つの「中国宮」

が建てられていた10。ピョートル1世の前までの中国イメージは相変わらず繁栄と富裕で あって、中国に継続的に使節団や商人団を派遣することもあったが、ピョートル1世の統 治時代において、中国に対する認識は広範に広まることなく、たいてい物質の面に限られ ていて、認識はまだ皮相的で、しかも幻想的な認識も存在していた。

2.精神文化の面での推賞と醜化の併存

 ロシアの中国に対する認識は、エカチェリーナ2世の執政の時に益々豊富に進化され、

中国イメージもさらに複雑になって、持続的に器物方面に対する推賞のほかにも、思想方 面に対する認識も徐々に形成されていた。エカチェリーナ2世は中国文化に心酔し、ヴォ ルテールとの交流においでも、中国式の「開明君主」になりたいことを表明して、手紙に よる交流の中にも、いつも中国に対する褒美の言葉を記していた。エカチェリーナ2世は、

積極的かつ理想的な中国イメージを作り上げ、ロシアにおける中国文化の伝播を促し、両 国関係の深まりを促進し、それに伴い、経済貿易関係も新たな水準に上昇したのである。

キリスト宣教師が書いた中国に関連する著作、およびロシア自身の出版事業の発展などに より、ロシア人の中国観の深化を推進する重要な役割を果たしたのである。とは言え、18 世紀後期において、ロシアに対する中国イメージは両面性を表していた。一方は、政治の 清明を尊び、法律が完備し、賢哲政治を行っている中国のイメージであり、もう一方は、

中国の傲慢さと野蛮さを批判するイメージであった。この時、中国に対する極端な2つの 10 李明滨「中国文化在俄罗斯传播三百年(上篇)」『中国文化研究』1996年第3期、129

-132頁。

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認識の中には、主観的な政治的意図があって、このような重層的な中国観の中では、ロシ アの中国に対する隠微な論理が含まれているが、19 世紀ロシアの侵中的な意図も隠れて いると考えられる。

 ロシアの知識階層のエリートたちは、主に理想的な中国観を持っていた。ヨーロッパの 啓蒙思想の影響のもとで、ロシアの作家であるガヴリーラ・ロマーノヴィチ・デルジャー ヴィン、デニス・イヴァーノヴィチ・フォンヴィージン、アレクサンドル・ラジーシチェ フらは詩歌、演劇、政治文章を発表して、中国の儒家思想と伝統道徳を紹介し、中国の帝 王統治の道を称賛することによって、自分たちの政治理念を主張していた。そのほかに も、ロシアの知識人たちは、常に中国の開明的君主専制制度の積極的なイメージからロシ アの社会的現実を諷刺していた。ここで注目したいところは、彼らはなお本国の政治的要 求から離脱できず、ロシアが中国に侵入した事実を無視して、黒竜江流域の占領を鼓吹し た。モスクワ大学の創立者であるミハイル・ロモノーソフは即ちこのような観点を持って いた。漢学者の精神的な側面が中国観を認識する主体となって、彼らが中国の歴史文化を 研究する学術性については疑いなく重要な意義を持っている。しかし、彼らは政治的目的 から、中国および中国君主に対して褒貶することは免れないことであった。例えば、雍正 帝の統御の術を称賛するとか、乾隆帝の功名心にとらわれるのを糾弾するとかである。

四、まとめ

 ロシア人の中国観の位置づけは、国家と社会発展の段階に相応するものである。17 世 紀のロシアは絶えず東進して領土を拡大し、できるだけ世界の舞台から自分の居場所を獲 得することを求め、もっとも外延的な拡散に注意を払っていたものの、中国に対する認識 は皮相的で表面的なものに過ぎなかった。18 世紀の西欧化改革は領土の拡張政策を継承 し、かつ更なる精神的側面の形成と向上に力を入れていた。器物方面の輸入のほかにも、

ロシア人の中国に対する認識は、さらに全面的となって、中国の文化の側面まで深入りす るようになった。

 ロシア人の中国観の形成は、国家の主観的経済および政治的要求に応じた客観的結果で あった。世界は海陸を疎通する時代になって、ロシアは豊かな東洋国家である中国と関係 を結ぶ重要性を認識し、領土の東進拡張とともに、中国の辺境に益々接近し、経済的要求 と辺境の紛争により、中国に対する重層的な認識が徐々に形成するようになった。

 ロシア人の中国観の変遷は、プラグマティズムによる内政外交政策の体現である。具体 的には、西欧化改革により「中国ブーム」がもたらされた後、大量の器物を輸入し、儒教 的寛容を提唱すること、法律の賢明な中国式開明専制を行うこと、農民起義の後に儒教の

「賢君順民」思想を持って民心を静めること、無宗教の中国も安定して強くなれるという 理由をもって正教団の勢力を弱めること、外交儀礼の争いから中国の政治的な陳腐さを苛 めること、中国皇帝の贅沢・傲慢さを貶すことなどが列挙される。以上のような評価は、

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中国情報の獲得を目的とした初期の接触段階に形成し、領土の拡張を国策とした後期の交 渉段階においても現れていたのである。

 ロシア人の中国観に対する正邪褒貶は、それ自身の中国語が通じないところの制限、お よび訪中目的に影響されたのである。初期使節は中国を認識するための先行者であって、

彼らは使節、軍人と商人の多重な身分を持ちながらも、中国語ができなく、中国に対する 認識の多くは直感的な感覚であって、多くは深刻ではなく、ひいては事実から離れるもの であった。後期の正教団は漢学者の揺籃であって、彼らは中国と中国分解に対して全面的 な研究を行い、目的性も強くなって、その後のロシアが黒竜江流域の正明と造勢、および 後期の中国侵略を準備するための条件となったのである。

 要するに、前近代におけるロシア人の中国観についての位置づけ、その形成や変遷およ び正邪褒貶は、国家の短期的な経済貿易の目標と長期的な政治意図に影響されていたので ある。ロシアの中国に対する認識が、ロシアの欧州立脚とアジア戦略を映り出しており、

他者のためと言いつつも、自分のために奉仕するような意図が現れており、初期の直接情 報を提供していたのも、後期の意図的に褒貶していたのも、すべてロシアの対中政策のた めであって、その中にロシアの中国侵略の意図が秘められていて、それが未来の中ロ関係 に伏線を敷くようになったのである。

キーワード 前近代、ロシア人、中国観

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