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古代ロシア史におけるワリャーグ人

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(1)

奈良教育大学学術リポジトリNEAR

古代ロシア史におけるワリャーグ人

著者 石戸谷 重郎

雑誌名 奈良学芸大学紀要

3

3

ページ 45‑54

発行年 1954‑03‑25

URL http://hdl.handle.net/10105/5096

(2)

古代ロシア史にかけるワl)ヤーグ人

石 戸 谷 重 郎

1

原初ロシア年代記(Nachariuala Russkaia Letopisi)によれば、ロシアの建国は862年にワ1)ヤーグ 人(ノルマン人はロシアではこのような名称を得ていた)であるリユーリツク(Kiurik)が、北部スラ

'':itS".v;二U¥V} ‑V.二tr *:u、、、 ;iiニー・・・'∴・I・リ 二   車代、ユー・、∴いさ二.<li二*.;>蝣・し  ‑li'.近‑J・*

けるスラヴ人の文化程度、或は政治的能力をワ.)ヤーグ人よりも低く見るという問題をも含むものであ るが,それらを原初年代記のままに認めようとする立場は現在のソヴェ‑ト史学に於ては「ノルマン理 論」 (Normanskaia Teoriia)として批判され攻撃されているCD ノルマン理論、ノルマ=ズふ、或は

ノルマニストに対する反撃は19世紀の民族主義に基調をおいたスラグ主義(Slavianophustvo)に属し たZabelin, Bdiaavらにおいても見られたが(2)、現代ソヴェ‑ト歴史学に患いては、より科学的にノ ルマン理論の誤りを指摘しようと努めている。昨年9月永眠したGrekov<3>らを中心とする古代ロシア 史の研究はこの点に大きな精力を集中して来ているo 「古代ルーシの後進性」 (otstalosti drevnei Rusi) を誤れる観念として之を訂正せんとする動きは、かのダルマ/民放の野蛮性を否定して西欧中位におけ るKulturkoiitiuuiはtを:主張したDopschォや、更にそのUrzeitにおける文化の高きことを立証しよ うとしたOtto H6florォ>らのドイツ史学における動きとある点では比較されるものをもっているように 思われる。卸ち考古学の発達. Dopsch Jj, fのすぐれた歴史家の輩出.そしてナチ政権に鼓舞されたダ

・しマンJ沖:.亘.L:1.二.ti・t上十   叫.二・'i‑V言rr L ・.¥r".!.''K'. ; fS‑、た こ,i;・".'・.';・、・"i*t二に‑トi二/'蝣蝣・‑こも

考古学の発達、 Gr、kovら古代史豪の輩出がありCO しかもドイツに於てナチ政権が確立された頃,戟 にキーエフ国家の性格についての論争は一段落をつげ、 Pokrovskiiの理論は排撃されていた(7)。そし てスラグの民族意識は独ソ開戦と共に一層高まり,ゲルマン族に属するワリヤーグ人が,ロシアに最初 の国家を建設したという原初年代記の記述は、徹底的に排撃されるにいたったのである1942年8月下 旬、 4由にわたってイズヴェ‑スチヤ紙に発表されたAleksei Tolstoiの論説(8)は、このような背景も 持っていたと思われる。戦後アンチノルマ=ズムは、ソヴェ‑ト史学における著しい傾向の一つを形成

しており、その古代史研究はここに焦点を合せたといっても過言ではあるまい。

しかしながら、アンチノルマユズムは決して表面的な民族意識、或は「ソヴェ‑ト愛国主義」(9)から のみ生れたものではないoそれに力づけられていることは勿論であるが、もつと根本的な問題として、

マルクス.レーニン主義に基くソヴェ‑ト歴史学の特色が考えられねばならない。この点にあいてはナ チ政権とDopsah, Otto Hoflerとの関係と異ったものを持っているo

(読)

(1) B.A. Euibakov i grug. Istoriia kuriturui drevnei Rusi, 1950. Voprosui lstorii, 19施N0.4におけるその紹 介 E.V.Veimarn i S.F.Strzieletskii : K voprsu o sbivianakh v Kruimn (Voprosui Istorii 1952, No.4).

CherepninのS.V. TushkovのObshckestvenno‑politiehesku stroi i pravo Kievskogo gosdarstvと1,1949

に対する批判(Voprosui Istorh, 1950.No.4) Materialui po Istorii Zemleiia SSSK. 1952.Strl45.

(∠ Liaschchenko: Istoriia Harodnogo khoziaistva SSSR. ch. 1. g1. 1.

(3) Voprosui Istorii, 1953. N0.9はそのふ報と共にGrekovの学問的業績に対する頭代ソヴェ〜ト障史学の評債 を要約的に掲載しているo

(‑1) A. Dopsch: Wirtschaftliche und sozile Gruudlagen der uurop哀isぐIieu Kulturentwifklui唱】Bd I. 1923. Das 45

(3)

lvontinuit丘tsproblem.VoilAltertumzumMittelalter.C虫eltrぷgezurSozial‑undWirtshaftsgesclLtckte, 1938)

(5)O.Hdfler:Dasgermanis;heKontimlit丘tsproblem,Hist.Zeits‑hrift.Bd.157(1938).

(6)B.D.Grekov以外に次の諸氏とその著書を現代リヴf‑下の代表的古代史家としてあげるIushkov(誰D);

Txechiakov:Vosto蝣Iiina‑slavianskieplemena.194S;Likhachev:RusskieletopisiiikhkuriturilO‑ibitoriぐhes‑

koeznachenie.て9i";Euibakov:RemeslodrevneiRusi.194F,・(記(1)のIstoriiakurituruidrevneiIえusiは195 1年度スターリン賞受賞研究でこれらTreehiakov,Likhachev,Ruibakovの外Voronin,Kargerも参加して の共同研究である)Tikhomirov:Drevnerusskiegoro血.1940.

(7)この事情については鳥山成人:キエフ・ロシアのr封建制Jと「農奴制」の間韻(史学雅語59編12号)参照、

またPokrovskii史学全役にj:寸してソヴュー下歴史学が加えた批矧こついては及周明碓:ポクp‑フスキイの歴 史観(ロシアJ‑d会思想.岩崎書店所収)

(8)AlekseiTolstoi'・Otkudaposhlarusskaiazemlia?(清水威久'・pエア連覇外史、教育出版株式会社にその 邦訳所収)

(9)前温亀山氏の紹介論評の註(33)参照

2

原初年代記は西暦852年(年代記の紀年では6360年CD)以前の、年を記していない部分においてス。‑

ウェン(Sloven即ちスラヴ)民族の分布や朕智のことをかなり詳細に述べているが、その中で、有名な

「ヮT)ヤーグからギ7)シアへの遺」(Putiizvariagvgrekl)を細かに説明している。水系が重要な役 割を果した古代ロシアにおいて、ワ1)ヤーグ人も亦それを利用したであろうことは充分想像されるが、

この「ギ.)シ了からワT)ヤーグヘの道」は、ドニ工プル→ウオルオフを経過するもので、V占rnadskyも Liashchonkoも、9世紀半ば以前においてこの水系を利用したことについては疑問を持っているw>

U、,arov(3)は、既に19世紀後半にオカ河上流のロストフ、ス‑ズダT)地方において8‑9世紀に属する と考えられるノルマン系統の励その他を発見しており.Arcieによれば(4)、オカ河とドン・ドネッ河と が各々の上流に於て倭近している地点に於て同様にノルマン系統の武器共,D他が発見されている。かく て「ギリシアからワリヤーグへの道」を:当時ワリヤーグ人が利用した確証がないのに対し、ドン河ドネ ッ河はたしかにワ7)ヤーグ人によって利用されたのである。しかも、この道を通過したワT)ヤーグ人が 南方文明世界即ちビザンツとアラビアに交渉をもったことは、彼らの文献に断片的ではあるが見える0 810年から811年の間に書かれたTheophanesの「年代記」(5)によれば、ビザンツ皇帝コンスタンチヌ

‑・>ii'・'‑?*TT・:,│‑:′ノih;こ:1∵‑ノ心ニー・∴I‑'"/し‑:の.言一、・ ・'‑1]‑∴1・*'。そteh.1'‑

'Ji<i

812年で終っているGeorgiosMouachosWの年代記には、「ルーシ」が黒海南岸のアマス>yスを攻撃し たことが述べられており、アラビア人IbnKhurdadbahは847年にバグダードで「ルーシの商人」を:

見たことを伝えているCO特に注目すべきはAnnalesBartiniarnに患ける739年の条であって・コンス タンチノポリスに使した「ルーシ人」の使節が、帰路ドイツを廻らざるを得なくなり、ルードゥイッヒ 敬盤王によって身許調べをされた結果、スウェーデン人であることが証明されたのであるo

ところでこれらの「ルーシ人」が、スラグ人よりはワl)ヤーグ人を指すことは、AunalesBertiiiiam に患いては間題がないが、其の他の場合はどうであろうか。原初年代記の使用例では、「ルーシ」は、は じめ種族の名として用いられ、後にロシアの国土やその住民の意味にも用いられて来て、時代的な変遷 がある(り。「これらのワ7)ヤーグ人はルーシとよばれた」(年代記郎2年の条).「スロヴェンとルーシの 川隼;卜′};・チV・**!、i::.!・‑ブ!、.′>ft'二よ・一・'"J>l‑、・・'j'lこ{・''‑‑'/'・いJ蝣'' .L蝣'.1日.、∴:・I・・1ご′・た.‑;jl'

る」(年代記898年,D条)とあるのは何れもワリヤーダニルーシの例である。叉GeorgiosMonachosの 年代記の統きを編葛した同じギリシア人のThoodosiosMolitoaos(。)はその年代記に「ルーシはゲルマ

(4)

ン出身である」と記している。 KliucheTskiiは何ら限処を示してはいないが, 「9世紀および10位紀に おいて泉スラヴ人の間におけるルーシはまだスラヴ人ではない」と結論的に述べている。

ルーシの名の起源については原初年代記に従ってワリヤーグ人にそれを求め、ワリヤーグ人が何故ル ーシと呼ばれるにレ、たったかについて、 Kulak.  Th)ms3Uォヨ>Platon′)vU3)らが二種の説をたてが、

ここにはその詳細にはふれない。ただルーシ,D名のワリヤーグ起源説はこれまたノルマン理論の‑つで

.f.・・・こ±! 'I、   ト 斗:. L ,‑<・    ∴:土蝣‑*.*"; I二   .:JU;'.‑.!*・‑v‑T:こ:・サ ・、て

いるが(tヰ)、ァラビア及ビザンツの文献におけるルーシがこの南露の地名より転じてスラグ人を指すにい たったことは文献的に確認されていない。

VernadslCyはワリヤーグ人がドン河口を中心として国家を建設し、一時‑ザールから独立した勢力 をもち、彼らがその地方のAsから名を得てRusとよばれるようになったと考えている(15) しかし Vernadskyは同時にワT)ヤーグ人の闇にもルーシの起源はあったとしレ、わば南北にルーシの名の患こ

りを求めてい.る(16)そしてAunales Ber血iamに、ルーシ人が彼らの統治者をchacanusと称している のは‑ザールのkagauから独立していたルーシ人を示すも,Dと考え,之を"Russian Kaganate/′とよ んでいる(17)しかしながら、 chacanusを:必ずしもルーシ人の汗に考える必要はなく、 ‑ザール汗国に おいて貿易に従事したルーシ人即ちワリヤーグ人が、 ‑ザール汗を自らの統治者と考えた、或はドイツ 国王にそのように答えたと解釈した方が自然であろう Kliuchevskiiも「黒海ルーシ」という言葉を用

いているが、それは、南露を根拠地にしてアラビア・ビザンツに活躍したものを指しているCD

ところで、北方Fシアi'C怠けるワE)ヤーグ人についての記述は、原初年代記859年の条に於てはじめ てあらわれて来る。即ち.

「ワリヤーグ人が海の彼方から来って、チエージ、スロヴェン、メ‑i)ヤ、ヴェ‑シ、及びク1)ヴイ ツチ(の諸族)から買物を取った。また‑ザール人はポリヤー‑ン、セ‑ゲル、 71びヴヤチチ(の諸 墳)から買物を取った。 ‑1ドウイムから「自栗鼠の皮」一枚づつを取ったのであるO」

これについて除柑吉太郎氏は「ロシア年代記」の拍こおいて、 「この頃一般に行われていた北及び南 における他民族との交渉を示す」にすぎないとしているが、私はこのままに受け入れてよいと考える。

上にのべたように考古学的資料はオカ海附近においてワT)ヤーグ人が土着のメ‑ 1)ア族と雑居していた こと証明している。南方にあけるノ、ザールについては彼らが†健紀以来汗国を形成していたこと、彼ら がアラビア、ワリヤーグとの伸介貿易に従事していたことについてはKliuchevskii, vernadskyらの 研究によって明らかであり・Panklatovaも亦その都イチ‑リの国際商業都市的性格を強調している(18).

後にオレ‑グ(Oleg)がキーエフを占領したとき、それまでそこを占領していたワ.)ヤーグ人である アスコ7)ド(Askolid)とヂ‑ル(Dir)がマジャール人よりはむしろ‑ザールを最高の貴史者としていた ことから考えても、 9世紀半ばに、 ‑ザールが南方ロシアに大きな勢力をもっていたことを否定する必 要はない。従って原初年代記859年の条は当時のロシアにおける南と北の二つの大きな異民族の勢力を 示しているものと考える事が出来る。

要之、考古学的資料、南方文明世界の文献及び原初年代記によって、 T)ユー7)ツク以前にワ7)ヤ‑グ 人がロシアに出現し、南方と北方において活躍していたことを言い得る。これは原初年代記の叙述の上で

のl)ユーリツク建国への前樋としてつくられたのではなくて歴史事実にもとすいてか1れたのである。

Ci≡)

(1)年代言巳のビザンチン式世界開欄紀ラ己については、陸村吉太郎氏:ロシア年代記(弘文堂)の順初年代記への 註I(65)参唱

(2) Q. Vernadsky: A‑acient Russia. 1952.‑ P.369. LiaShehenkoぐh.l ge.l.

(3) A.S. Uvarov: Meriane i ikh luit, 1871.

m

(5)

(4)T.J.Arne:LaStiedeetl′'orieut(tJpsal!a,1914)TheophanesConfessor:clironogrphia,ed.DeBoor (Leipzig.1883‑85)2vols.

(5)Theophauesはギリシアの修道僧で彼の年代記はNikephorosの年代記と共に8位紀ビザンツ史の最も重要な 史料に数えられているGeorgOstrogorβky:GeschichtedesByzantinischenStaates,1952.S.72

G.O山ogorskyS.119.Kliuohevskii:Kursrusskoiislorii,ehas.l.lekts.9.

(7)ItmKhurdadbab:Kitabal‑masalikwa'1‑Mamalik‑BibhotheaGeographorumarabriorum,ed.M.I.de GoieCLeyden),6(1889).

Kliuchevskii,chas.l.lei血101

(9)ChronikendesFheodosiosMelitenos,ed.Th.Tafel.M丘ncheu,1859 Kliuchevskiichas.l.lekts.S.

(ll)ErnstKunik:DieBerufungderschwedis〇lienKodsendur‑hdieFiimenundSlaven,St.Petersburg, 1844.

(12)V.Thorn弓en:The鮎Iations¥姫tweenAucientRussiaandSeandinviaandtheOriginoftheRussian state,OxfordandLondon1877.

(13)S.P.Platonov,"Rusa."DelaiDm.1920.

(14)A.M.Panklatova:IstoriiaSS弓R.chasl.1952.str.40.

(15;G.VernadSky:AncientRussia.P.278 (16)ilbid.P.339

(17)ibid.P.281

(18)"Kliuehevskii.ch;tsi.lekts.8.

CUT)P呈mid呈itova.str.31.

3

!)^一.)ツク建国説に対しては、リグェ‑ト雁史学は極めて批軸的であり・多くの反駁を加えてい

・*̲サc‑*..*'.1日二・∴'./.Iい.:i(トl二蝣il'蝣';」・八一∴h:'、'蝣'."'"l二h‑'S^こ・蝣.蝣蝣iV:こナ二・l.・蝣i'<;i".‑r の前提がスラヴ人自身によってつくられていたと主張するものであって、7)ユーリツクの渡来・彼の

「建国」は大きな意味をもっていないとなすものであるo

リュ‑リツク以前におけるスラグ人については、既に阿部重膿氏が考察を発表している。(1)阿部氏は

;・‑.;・v.、キ・‑・:.‑Ml‑.',二.*蝣**‑*一二・:さけ一三日∴蝣n:'h':二.!・>;∴ナ二'J二.'蝣'i;二l;‑Tl時三にお けるスラグ人を論じて.「アント人の陸族同盟」を:説いている。全体の論調としてはアンチノルマユズ

ムの立場にたっている<2>

ノルマニズムにあいては、l)ユー7)ツク建国を強調するが、それは原初年代記にあける次の事を指し ているのである。

「リユ‑T)ツクー人が全権力を得て、おのれの家来掛こ町々を分け与えた」

「これらの町々でワ.)ヤーグ人は外来者であり、最初の居住者はノヴゴロドではスログ工ン・ポロ ッツクではクリヴイツチ、ロストフではメ‑T)ヤ、ベロオーゼロではヴェ‑シ、ムーロムではムー ロム人だったのである、一彼らを全部.)ユーリツクが嶺したのであった。」

原初年代記を一貫する思想は「全ロシア統一の思想」(idct‑b'ぐ(linoniiavsheiseemliRusskoi)で す.・い、日,."・*‑it

'J‑ォ∴二・:て'"‑V‑':蝣'蝣'

.{し;二i言ト・、・‑,I."‑'lいi:I!・‑I:'/、・・'Ht∴ト'.・キー.r:i;i.>・そ

のためにこの北部ロシア一帯をリユーリツクが領して.「建国」したことを作為であると襲うことも出来 ようw

ノルマニストのPokr01,skiiはワリヤーグ人建国の意味を認めて、「ノルマン人が征服したのは、東

(6)

畔.?二*‑.‑.▲二。二† I:一4>r.、 ㌔.一一ごてt‑:'V'.「 1‑I'i! : 1・.‑・・▲:一∴ ‑.;:蝣・・>・:'蝣i!‑V蝣'・蝣?.

る」といっているCO 従って之に野する反駁としては、種族の統一ということがリユーリツク以前に確 認されなければならないO阿部氏の都市国家論はその点では不充分であり、 DovzhenokとBraichevsku

t爪、.こ付.蝣'‑'.' :.li言ミV・・ *i・二T‑トへ.j‑.r,∴!蝣];蝣‑..‑蝣,・:・‑f‥   ∴言蝣・.'・蝣'・{・:蝣 >二一,.、・∴ i;.:!.,・''.・蝣.、

でいない。

この間題についての最近のソヴェ‑ト史学の見解は次のようである。

Greltovが結論的にのべている所に従えば、 6‑8抵触ま氏族制(そ'D発r茎の最後,D段階における) から階級的.封建的社会‑D時代であって. 「軍事的民主主弟」(Voennaia DeTnokraてiiia)から初期封建 国家への移行の時代として取扱わるべきであり、 9世紀にこのプロセスが、 「大きな古代ロシアの初期 封建国家」という形で完成された時代であるCT 叉Ruibakovは、ロシアにおける都市の出現が7‑

.8世紀に属することを考古学的に証明し、この頃が「種族的社会構成から国家へ」の移行的時期である ことを示した(S)そしてDovzhenok もキーエフ国家の形成が東てラヴ社会の先行的発屡の自然の結果 であったことを述べている(0)しかしながら単一的な政治権力がその時代からあったとはいっていな い。

初期キーエフ国家における政権はいうまでもなく充分に牽固なものであるとはいえない。 Lかしとに 角その成立を以て単一政権がめばえたことは事実であり、年代記のルーシ統一の思想はキーエフ国家と 共に生れたものであった。その意味においてキーエフ国家の成立は依然として1‑つ,D歴史的意味をもっ ていると見ることが田来るし、ワリヤーグ人はロシア史に患いて一つの役割を果したのである。

然らばキーエフ国家は何故成立したか、という間題が出て来るが、そ,D前にその場帝と考えられてい る))ユーリツク建国;,Cついてのもう一つの疑問を考えて患こう。

LL註)

(1)阿部重雄:キエフ国の成立と初発別こおける支配権力(磨史学研究153号)、アント人種族間盟の基礎(it衰姦Fl蓄史 学. 195乳No.4)

(ヱ〕例えば、 rワl)ヤー,F八の役割をスラヴ人のそれに比して必ずしも過大許贋すべきものでないj或はJ'最初の キエフ侯は「博発的人物たるリ3‑‑ 1)クの一族だったといわれるオレ‑グであるJ (キエフ国の成立)o アンチ ノルマニズムをリグェ‑ト r公認の障jに決定したAleksei Tolstoiの諭謝こ於てこのような方向が潅立され ているのを見る○

(iJJ N.L. Brodskii: Russkaia Literatura, 1952. str.23 ; Picheta, Tikhoniirov, Shestakov: Istoriia S領R, 1941 邦訳境村書太郎(ロシア年代記的銀)

(4)この意味では,ノルマン理論の始組はまさに原初年代把の編纂老白身であった。

3) M.N. Pokrovぅikii: Ocherk istorii russkoi kuiiturui, 19独邦訳深見筒行訳ロシア文化史論214‑碩

(6) WDovzhenok i M.Braichevd1(,ii: O vremenii slozhenii feodali別na v drevuei Rusi (Vrprosui lstorii 1950.

No.8)

ft) B.D. Grekov: GeneziS feodとiliziua v Ro.ぅsii 〜, S、tte ut'hei‑iiii I.V. Stalil1呈I O I)こizise i liudstroike, vo]‑ro,うui

Istorii, 195‑2. No.昌str.31‑13

(8) B.A.. Kuibakav'‑ Remeslo drevnei Iえusi, 19心.

(y) V.Dovzhenok: iv istorn zcmledeliia u rostoohinuikh slavi呈in v I tnishiii iilutii n.e. i v et‑okhu Kievskoi

Rusi. (MateriとIlui pa istorii zemledeliia SS弓K. 195‑2. slr.145‑6)

4

リユーリツク建国説に対する第二の嚢間と批判は.これについての年代記の記述を全面押こ「伝説」

としてしりぞけるものである。年代記はさきにもふれたようにスラヴ人の慣習なとについての伝説的綜

4tJ

(7)

吉V;.'蝣・;、.∴ >"サ.'、蝣i.V>十・:蝣*・ I'主∴     .蝣・;‑一蝣*・;一二 二・ ・1:.wJ*̲ fc‑vこ蝣‑VLJ,ていBu

Lかしそのはじめの部分は年の計算において誤りがあり、 866にしるされているアスコリドとジールの ツアーT)グラード(コンスタンチノポ1)ス)に対する遠征が、 860年に行われたものであることはビザ ンツの文献によって理に指摘されている(2)そしてT)ユー1)ツク建国に関する叙述にはたしかに伝説的 要素もふくまれてはいる。しかしそのためにA.Tolstoi/3> Panklatova'4>或はアメ7)カのFlorinsky ^ の如くすべてを伝説としてしりぞけて.しまうのは問題である A.Tols古oiは最初の某在の候はオレーグ であって、リユーリツクは伝説上の人物にすぎないとし、阿部重雄氏もこのA.Tolstoiの考えをうけ

一/.・"i;*・・こ"・.j : l ‑.'''‑ '.・・‑ ‑'蝣蝣・':ニー・∴二 L:.U.:、ふ一一蝣Ir.こIl.∴  二   ∴‥増一氏ト、‑‑I‑.‑il

ツクについては詳細な「具体的葉接が殆んど明らかでない」ことをあげているが、年代記をよめば詳細 でないとは断定できない。問題はむしろ他の点に多いと思われる。例えば原初年代記の「アグJ・、.からス

il/rトi‑'i '・I'''1三 ミ・',T‑,". ‥  二  、 三・、1.JL 〜 ・ト ・11し・‑...小∴さ    さ*'蝣I ‑

での29年」を一つの時期として区切っている。重要な時代区分においてリ‑‑リツクが無視されてい る。叉リ3‑‑I)ツタの兄弟とされ、彼と共に渡来し北部ロシアの都市を夫々占領したシネウス(Sineus) とトルヴオル(Truvor)とは、スカンヂナビア語では〝victorious′′と′′tras紬orthy'′を意味している が6)、 1J a‑‑ 1)ツクと異ってその語源がスカンヂナビアCL)人名に求めることが出来ないころのいわば架

空CL)人物である Vemadskyはそ,Dために、彼らは中性伝説における三人兄弟の型式をとるため、 I) ユーリツクの形容辞が人物名に転化されたのであると考えているm リユーリツクの兄弟に関してのこ

こ  :¥¥:Tは、二.し!.‑l.‑..・'"'蝣;'r:'、‑rj'二・I"1せ EI・・.・‑'‑y ji‑.;,二.!こし・‑いソ ー^:*蝣・r‑'.

‑ゴリとの関係であるが、年代記によれば879年7)ユ‑リツクが死んだときイ‑ゴリは現に生れてあり、

915年には・ 879年という記年K数年の誤りを認めても(8)70才以上になっている筈である。然るに911年 から彼の死の945年にいたる問に行われたイ‑ゴ.)のギリシア人やドレヴリヤ‑ン族に対する遠征に於

いては、彼の老齢についてしるされす、叉それを感じさせるようなこともないp これについてVernad‑

skyは、イ‑ゴリはT)ユーT)ツクの子ではなくて孫なのではないか、としているが、くl')むしろ実在しな い1)ユー1)ツクに無理にイーゴT)を結びつけたと考えられないこともない。

以上のような理由からT)ユー1)ツクの実在には墳わし点があるが、之に対して7)ユー1)ツクを実在の 人物とするのみならず、積極的にRturik of Novgorod‑Roric of Jutlandを証明しようとする説があ

る。之を最初に提唱したのはFriedlichKrussaであるが00)、当時は殆ど注目されす、 20世紀に及んで からN.T. Beliaevは新しい材料と推論によってKrusseの説を強化したao.現在ではVeruadskyや P. Kovalevsky「]2)らがこの説を支持しているOこれらの人々の考えるところによればRone of Jutland

は843年のVerdun条約後jlトランドにあけるフランク王国のvassalとしてのfiefを失って後天陸及 イギリスに侵略しており、その年代的な・‑一致が屠‑の根拠であり、叉ロシアにおけるリュ‑7)ツクの行 動や業績には、西欧の初期封建制度を知っている着としてのやり方が見られるというのである。原初年

代 ーIk ユ.、蝣w : ,言∴r' l' '. I..‑. 、・'一・.・・・.<;'、、 ・、I二ナI・二 、 :jl .・、 ''J・.lj.

えた」ことがしるされており、またrachishchevのrとsu‑n色の中に伝えられるJoahimの年代記では, 1)ユー.)ツクが〝Knia^i velikii.〟 としるされている。このことは初期封建制度を知っていたリユーリ ツクであることを予想させるけれども.これだけではT)ユーリツクの実在、更に彼がRorie of Jutland と同一人物であることを証明するには不充分である。

.)ユーリツクを実在とする考えには例の「リユーリツク王朝」という観念が鱗わっている。しかし、

Vernadskyが注意しているように、このような言葉或は観念は初期モスクワ時代に成立したものであ る(14)原初年代記やキーエフ年代記においては、 j3‑‑i)ツクはその死後、オレ‑グが彼の遺子イ‑

ゴT)を擁してキーエ7'を占領した時以外には全く・回想されていない.従ってたとえ現実にキーエフ諸侯

(8)

ふ) :一・日目・.'Ij"一輔・丁:㌘・:>,:.L.てら、  : iil.',"∴.蝣J.A.二け士・・・てい、一・'蝣,サl¥*二。

'蝣ォ','こJ1‑ ‑トノA'て: ‑ .ij/・!'蝣‑ヒt ・こ‑ .そ:十・'日.,:弓;i.iv.I  、 I'一蝣"・*∴五一・い3yr一二'Jf‑蝣Ii'V.‑た

るワ1)ヤーグ人によってつくられたということが、他ならぬ1)ユーリツクによって貴も端的に示される がために.この立場がとられているであろうことは否定出来ないように思われる。

7)ユー1)ツクの実在か否かにかかわらす、キーエフ国家の端緒としての「ワリヤーグ人のノヴゴt,ド 侯国」をわれわれは伝説としてでなく,実在として認むべきであろう。

(tr;

(1)年代記が852年から年をしるしているのは、スラヴ民族の記録がこゝから始まっているからではなくて,それ がギt)シアの年代記に刺戟され、それを浜範としておこったがため、その皇帝ミ‑イル統治の第一年をとった のである。但し、 852年ではなくして, 842年が正しい。

(∠i) Vernadsky: Aucin亡Russia. P.342

(3) A. Tolstoi:前掲論説 (i) Panklatova, str.39.

(5)虹.T. Florinsky: Russia, A History and an Interpratation, 1953. vol.1 P.14‑15 又積木'dr.道民もこのよう な立場をとっている。 rこの物語は.ロシャ国家の塵国過産を正しく博えるものでもなくヴアリヤ‑グ公国成 立過理の姿を描写したものですらないJ (ロシャ史入門, 29真)

(G) N.T. Beliaev: Rorik lutlandskii i Riurik nacharnoi letopisi, 1929. (Seminarium Kondkoviauum) (7) Vernadsky: Ancient Kussia P. 359

(8) (9) ibid. P.366

(10) F.Krusse: Chronicon Norinanuorum. Hauibnr岳払nd Gotha. 1851.

(ll) N.T. Beliaev上の註(6)

(12) Pierre Kovとilevdkv: Mam‑el d'Histoire Russe, 1949 P36‑37.

C13) Vernとidsky: Kievan Kussia. 1952. P. 181

5

ワリヤーグ人のノダゴ.,ド俣国にしても、初期キーエフ国家にしても、ワリヤーグ人の安東が政治的 上部構造に限られていたことは注目されねばならぬ。さきにふれたアンチノルマニズムの立場はこの点 からも1)ユーl)ツク建国説や.キーエフ国家成立におけるワリヤーグ人重視に批判を加える。というCL) は下部構造にまで蕗透しなかったワT)ヤーグ人は、その限りでは古代ロシア史に大きな意味をもって来 ないからである。

ノヴゴロド侯国や初期キーエフ国家がスラヴ人社会の下部構造に直接に大きな変革をもたらし得なか ったのは主、としてワT)ヤーグ人の武装商人的性格によるものであった。既述の如くワリヤーグ人がロ シアに出現し、更にそれを縦断して南下したのはその武装商人的性格によるものであL)、リユーリツク が招かれたのも、ワリヤーグ人と利善を共にするスラグ都市民の商業への関心があったことと考えられ

‑?;・人。‑∴r‑'‑ ぺ‑l'l  こ:蝣'‑̲ '・'・・‑'//、J ‥J I I >.三、‑>l‥、ii>;蝣. 、・;日日.ニ

ッ71)グラードを遠征し、オレ‑グのツアT)グラード遠征(907年、 911年)イエゴリのツア・)グ.=/‑ド 遠征(941年, 911年)については年代記は特別な関心を以て叙述して患t)、そのあるもの勘遠征の結末

としてキーエフ国豪とギリシア人との閲に結ばれた通商条約を詳細に伝えている。ワリヤーグ人が商業 にIJiきな関心をもっていたのみではなく、これらの遠征にスラグの諸族が参加し(907年、 914年の条に 年代記は具如<JIこその語族の名をあげている)、その船の数が2千にも及んだということは遠征がスラグ 人にとっても関心をもたれたものであるといい得よう。

スカンヂナビアの叙事詩S唱aにはロシアはGardarikiとして、即ち「者[価の国」とのべられてい

51

(9)

る(1)ソヴェ‑ト老古学は当時のロシアにおける都市の尭達について明らかにしているが('2)、われわれ は単に都市が多かったというぽかりではなく、Kliuchevskuが指摘したワ1)ヤーグ人が主として。シ アの都市にとどまっていたということ(2)、を重要視しなければならない。都市のスラグ人は千人隊(t!S‑

hicha)百人隊(sotnia)或は十人肇(desiatok)をつくって戦争の際にはキーエフ侯に軍事力を供給し たが、その長がキーエフ侯によって親兵隊(Dorudi‑la)に等しい扱いを受けることもあったLcォ>i2壮紀 初頭になると、千人長はキーエフ市民からその邸を暑奪されほぼ富裕者として成長している(5)。都市,a 長老はキーエフ侯の親兵隊と共にウラジーミルガ「新しき提」即ちキリスト教を採用しようとする場合

、1':〜/、i:‑":."'‑・蝣>\‑j'‑上・三二:.二・‑.I/、T,サ!蝣''一・し・‥I'・*∴も

これらはワ7)ヤーグ人が都市を通じてスラグ人に結びついたことを示すものであり、その武装商人的 な性格のあらわれであった。

かくしてスラグ都市民が悪に知っていたワリヤーグ人を9華綿己半ばに改めて迎えたのは.彼らがよt)

一二キ‑・'‑;;'!:'・'''i'fi'>'蝣'、'・.':'.¥'l'・'∴r..、・T、.‑1こ・・‑‑.<!たilVI'r.1,.糟、ビ・‑Iニッn 易の確保という共通の利割こよってであった。

従って古代ロシア史におけるワT)ヤーグ人の意義は主として商業という観点にあいてのみ把握される ものである。キーエフ侯の土地‑の関心についてはイ‑ゴ7)の寡婦オー1)ガの「ノヴゴロドの地にあけ るオーT)ガのウスターフ(法規)」がしばしば引用されるが8)、それは買物(dam)を集めるなめの貢 物納入If(pogost)や毛皮のための捕獣場(roT)が目的であって、農業経営者としてではない。

ワリヤーグ人の支配偉力の基礎が武力にあり、土地所有者としてよりは商人としてであったというこ

i̲は、・・・‑‑I‑1蝣・.'・∴:‑!:・′ル一・・二/信主‑.<・.‑.‑.uj.・)'蝣・l†さ!.51'・蝣蝣'".'二い・oclttir′・「l・‑ゲ人 :'j‑"∫‑'蝣;二.lL工;i̲∴も!二(ち.しサト、:・二L̲;主・に二・!r‑:.'j.'i'i芯汀・J・蝣‑.'<」;'‑"ij!/<ここで.NyV.)I.i 礎を下部構造に求めるため、之にかかわるところがなかったキーエフ国家成立前後に患け5ワリヤーグ

人の役割は自ら過少評価されるのである。加之、キーエフ国家の経済的基礎が商業でなくて農業にあっ たとすることは、Grekov以下ソヴエートの嘩史学が最も強調していることである(サ)

Dovzhonokによれば、「ワリヤーグの侵暑者がキーエフ国家をつくったというノルマン理論は成立たな

い.「キ二日qri・;・"T::.、∴主蝣;;i*・.'、I.*∴日ソ㌣朝.:;.n‑‑>.i).こ∴,告V‑‑''i::..:こ九T')ト(i'‑u,:{よ言では なくて、経済的発達であり、就中経済の基礎部門たる農業の発達であった」のである(10)従ってワリヤ

ーグ人とスラグ人との結びつきとして商業を考え、キーエフ国家における「外国貿易の重要性を認める ことは、グレコフ学派にとってはその全図式をおぴやかすものであったのである。」1(ll)

われわれは9‑10位紀を中心とする時代のロシアの経済において南桑が尭業よりも重要な意味をもっ ていた、と考えるものではない。Lかしキーエフ国家の成立、そして特にこのことにおけるワljヤ⊥グ 人の役割がその武装商人的性格によってなされたことを主張するのである。10融己のアラビア人Ibn Rustは、ルーシ人即ちワ7)ヤーグ人について、「不動産も崇葉も耕地も持っていない」と述べている(12)

・・一‑<;∴(:∴,I・:二.∴ト∴!・、U‑蝣:'VH.)‑.'Il:./二・.・11*+

蝣..II.、f.'Jc、姐、'i.‑Mこ

・I.Il.・‑・蝣・ナJ.:ll.'∴こ∴tt・・k・;・;二IIJ‑...<こ、\・.ニー正';'';*'*告'V.J*.'二ミi蝣<:い7‑いjt二‑'.).Aでたく.

M、J・‑'.・'/、l二ト.r‑VJこい=:'I'‑ミ‑.,;...‑一・."一・一・・・*‑蝣蝣}.>・・・.<

Sssjfe

(1)Vernadiky:AncientEn^sia.P‑277.Kiev呈lnRussia.P.】741 (2)Tikhomirov:Drevuerusskiegoro血,1946.

(3)Klinぐhevskii:Kursrusskoiistrii.chas.l.gl.9.

(・土)匠初年代言巳996年 (5)同1113年

(10)

(61問 987年 (7)同 99G年 L瑞l 「Ti1 947年

(<i) Vernadsky: Kievan Eussia. PP. 99‑102 Y. Dovmennk c本論第3酢話gを見よ)

fll) Verna・Isky: Kievan Ruaバia. P.100

(12〕 Vernadskv: 1lTlぐient Russia. P.285

(13)陳初年代記945年955年966年

6

苗代ロシア史におけるワT)ヤーグ人の問題については、また親兵隊(Druてhiua)の性格をも考察しな ければならない。

新兵球は年長者から或るも,Dと、年少者からなるものとに大別され、原初年代記に患いて貴も屡々あ らわれて来る。年少親兵隊はotrog (若党)w、という名でよばれることが多い。

親兵隊という言葉は、原初年代記では91的三にはじめて見えるが、それは「貴族」 「家来」などの言葉 で代用されている場合もあり、矧′こふれたようにリユーリツクの北部ロシア支配は、この「家来」茎に町

・、て・分:w/ ‥、二・.・・・.・'蝣‑..[:.T:I‑... ∴ 、I1‑."蝣、:、・′   リ、1‑; ‑1‑一・一‥  蝣:vl、 *.,...、 ,..!トと

ヂ‑ルは、 7)ユーリツクの「家来」であり、 「貴族」であった。またキーエフ国家の建設者オレ‑グはキ

ーr‑"'Ti'i.*;ド・.,:‑・.n‑i二 ‥L‑':'・"¥ご;∴・‑‑‑こ:.Jィ    、 :・f・'・∴如∴,く  昌・', :J:J 一・?蝣

る<2> 907年のオレ‑グの遠征もまた彼の「豪東通」と共に行われている。原初‑・一代記に患いて家来=親 兵であることは、 945年「イ‑ゴリの死」及び987年「使者運がウラデーミルにギリシア人らの投につい て物語る」にあいて明らかであり、上にあげたキーエフ国家成立前筏における「家来」の重要な役割 は、キーエフ侯がそのはじめから親兵隊と共にあったことを示すものである。

キーエフ国豪の発展途上に患いて、キー茸フ侯が親兵隊を如何にたよりにしたかは、 971年「スヴヤ トスラフがギT)シア人と戦う」ときに於て親兵球と合議していることをはじめ、多くの例があるが最も 典型的なのは、 996年. 「ウラヂ‑ミル侯が親兵隊のために酒宴を催」したときの記事である。即ち、

「‑・‑ウラヂ‑ミルは親兵隊に使用せしめるために銀の匙を鋳造せしめて次のように言った。銀と金

とkI‑'.‑‑K・:蝣蝣蝣'.':汁.こti‑t,1!',∵こら、い∴、!丘.:J十二 蝣'.!・i 言‑J・‑ .、 蝣,‑ ‑f .・く':‑‑y(y/.‑..'こ

も親兵隊を以て金及び銀を得たのである、と。

ウラヂ‑ミルはおのれの親兵隊を愛し、彼等と共に如何に国を整備すべきかについて、戦争について また国の法規について、合議したO」

ウラヂーミル(9S0‑1015)の父及び祖父とは、スヴヤトスラーフ(940‑972)及びイ‑ゴ!) (9ln>‑

945)であL)、キーエフ侯が代々親兵隊に依存していたことを示すが、上にあげた例は親兵隊がキ‑エ ス侯と共に政治昌勺上部構造を形成していたことを示すものであ・S。それは決して戦争のみに限られたの

.まf∴、  J・'‑:.i ‑I;こ;二;I ;I "*:.蝣'"・'て・?わ、・:t.二供は;y ;∴ 、Li;二l・.さ‑'蝣・" ;'/‑い‑ I J::.・ノJ

た(年代記109(5年)0

この親兵塚はワ1)ヤーグ人から成っていたが、これに対して7,ラヴ人も役割を果さなかったのではな い。 Panklatova")は供の軍隊におけるスラヴ人を重視しているが、それは数の上だけの事であって、一

・JJ  '<>J ∴  f ;: //・!蝣.  、 十F 、二ii.'..蝣;蝣':一日一'/・'.i ‑、 ・・引'、 ・‑v.'.¥:J・I・‑*'‑

する関係は「町の長老」及び「民会」 (Veche)によってうかがわれる。長老は、単独で侯の諮問の野 卑となつ挺ことはなく、多くの場合に親兵隊の身分をあらわす「貴族」 (boiar)その職裸をあらわす

S3

(11)

「代官」(posadnik)と一緒にならべられている(年代記983年、 987年等)。親兵隊の中から任命された 代官の主な役目は、町々に患いて買物を集めることであったが(年代記1014、1096年)、スラヴ人である

町.I,主  二..土に:pi ...半': "・・:・<:・蝣蝣*.I‑."71‑・ †'・蝣'.‑i!;.‑ir/U‑r蝣.;'蝣ト.

Vernadskyはキーエフ国家における三つの政治的要素を指摘して、侯のMonarchy親兵隊のAris‑

toelracy及び民会のl)fmoeはぐy をあげてtJlるが1)、民会がキーエフ侯の権力に対して制約を加えるこ とができるようになったのは12世紀以後のことであって、初期キーエフ国家は殆ど民会を無視し、侯と その親兵隊によ/I)で権力をにざられていたのである。上述(第5節)したようにワ1)ヤーグ人は、成立 期及び抑期のキーエフ国家においては主として都市を通じてスラヴ人と接触したのであるが、そのスラ グ都市民は政治権力に対しては当時大きな発言権をもっていなかったのである。

このようにしてワリヤーグ人はキーエフ侯及びその親兵隊によって古代ロシアに怠ける国家権力を掌

握し.チ‑・.一・"*. '.サー蝣'・こ  ∴ . I .・.‑>>'人:ミt‑>蝣‑一・二.r叶',:蝣'''.r':<∴さv:il: 二'・'.'‑、 Mi‑!‑て‥'¥! ;*し

ぼ招かれている事に注目しなければならない。イ‑ゴリが「海の彼方のワ1)ヤーグ人のもと‑人を遣わ し、ギリシア人に敵対すべく彼らを招いた」 (年代記941年)ことや、ヤロスラーフが、ムスチスラーフ と争ったとき「海の彼方に人を遣わしてワ1)ヤーグ人を招致せしめたo ヤク‑ンがワリヤーグ人を率い て来ったO」 (年代記102叫:‑)のはその好例である。 ]2世紀に入るとトルコ人、ウグル人などが傭兵に用

いられることもあったが、それまでは土着スラグ人は別として殆どワi; ^‑グ人が招かれているのであ る。しかもこのヤク‑ンの如く、或はスヴェネ1)ド(年代記915年)の如く、自ら長となってワ7)ヤーグ 人を率いてキーエフ国家に赴いたものもあるのである。

従ってキーエフ国家とワTJヤーグ本国とは連絡を保ちつづけていた、と見ることができる。ワリヤー グ人は単にキーエフ国家においてのみならす、ビザンツにおいてもその武力の故にかなり重要な役割を 果していること軒Ostrogorskyは注目しているが(5). 1)ユー.)ツタの北ロシア支配及びオレ‑グのキ

ーエフ国家建設は、このようなワ')ヤーグ人の健界史的意義において把担さるべきであり、それがロシ

アテこw.いて「"・I'‑IJ 二  こキな‑, li:T∴:.t‑‑」ト'‑iv  ‥・・′‑>,」, iV;'..;i"!'[蝣:‑己「.1まI一・}∴、∴ ∵う"蝣蝣KiH

自身の国家が輩固なる発達をとげていなかったからである  (1954, 1,22〕

(H)

U) !>.こCh>]年代記0‑i.^r‑ t〔C‑イし11 は I./) SS2軍

(3) Panklatova: Istoriia SSSR. str. 39軍隊編成についてはVernadsky: Kievan Russia pp.192‑3奉照 (4) Vernadsky: Kievan Eussia. The Three Elements of‑Government, pp.177‑1S7

(5J Georg O弓trogorSikv: Geschichte des Byzantinisehen?紬Ites. S.243,264

参照

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