18世紀中葉ロシアにおける貴族の解放の過程と教育
15
0
0
全文
(2) 66. 佐. 々. 木. 弘. 明. ピョ-トルは,ローシア国民すべてに国家-の奉仕義務を強要したo農民一農奴および市. 民に納税と兵役,貴族に軍隊諸官庁その他の勤務を強制したのであるo歴史家モエラー紘 次のように言っている。 「ピョ-トル大帝のロシアは三頭立碍(トロイカ)のよう改もの セあった。このトロイカの強力夜御者は三頭の手綱をしっかりと握っていた。つまり真申 に最も強力をものとして貴族がおり,その両側に農民と市民がいた。士族の地位こそ全体 にたいして力を与えることにをっていた。+(4)ピョ-トルにとって,士族つまり貴族こそが 改革を現実に担うべき最も重要夜階層であったのであるo貴族階層から,士官や官吏のみ をらず,国家に必要夜あらゆる人材一学者ヤ技術者や商工業者夜どの中間層-がつくり出 pされをければ覆らをかった。封建領主として特権階層であった貴族は,いまや「国家-の. 奉仕者+として生涯にわたっての勤務義務が課せられ,国家に緊縛され隷属させられるこ とに覆ったのであるo貴族の土地および農奴の所有権は,国家奉仕のための経済的保障と み覆された。生涯勤務の義務,教育の義務,一子相続制の実施,等ヤつぎ早に命令が発せ られ,貴族社会には極めて大き改変化が,急激にかつ強制的にもち込まれた.しかしピョ ートルの貴族にたいする政策は,その当初からそして常に貴族の強い不満と抵抗に遭遇し, その実施は威嚇と暴力によって為されねば覆ら夜かった。貴族は自由を求めて国家の勤務 義務からの解報を要求し,また中間層に覆ることを恥辱として拒んだ。 かくして,ピョ∵トルの死後,貴族は,国家が動揺する中で権利を次第に回復してゆき, 1762年に貴族は自由を獲得し,国家から解放された.この時点でピョ-トルの政策は完全 に崩壊したのであるo. モエラーによれば,. 「最も栄養のよい馬がロシアのトロイカから離. れたo今や農民と市民だけで,ロシア国家という車をt>き運ば夜ければ覆ら夜くをった. これに反し,士族は快適夜同乗者と変り,その鞭は馬,就中農民の馬の耳といわず,背と 言わず打った+のである。こうして貴族は特権階層と在り,その社会は「寄生的夜,怠惰. 夜搾取考社会+(5)と化していったのである。 本稿は,国家-の勤務義務を課せられた貴族階層が解放されていく過程,その関連の中 で,勤務への準備として貴族に義務づけられた教育そして専らその目的で設けられた学校. の意義およびそれらの教育内容の変化(技術主義から教養主義-)を考察していくもので ある。. 貴族の国家奉仕,つまり軍務やそれ以外の一般勤務そのものは,. 16世紀以来貴族の主要. 在任務であったことには変り夜かった。しかし軍務は国家非常時に自分の農奴を率いて参 戦することで,戦争が終ると彼らは自分の領地に帰ったのである。また一般勤務といって ち,それは国家の要請で「事務につき+. 「出張した+のである。(6)貴族はまず領主であった。. 額地経営が貴族の生活そのものであったのであるo. ピョ-トルの国家への生涯勤務の命令. は,貴族のそのよう夜勤務の性格および生活自体をも必然的に変えてLまったo 族は一時的に国家に仕えるのでは夜く,常時国家に精勤を励ま夜けれぱ覆ら夜く覆った。. いまや貴.
(3) 67. 18世紀中葉ロシアにおける貴族の解放の過程と教育. 彼らは不具者か老齢に覆ら貴けFLば退役を許されず,休暇も稀にしか貰え夜かった。す覆 わち「すべての貴族は,ツァーリの直属の臣下とをった+のであるo(7) 1704年からは毎年10才以上の若い貴族の査閲が実施され,そこで彼らの将来が決定され. た。貴族は3つの年齢層に分けられた。最年長の貴族は,その大部分が軍隊に,少数が諸 官庁に振り分けられた。軍務に就く場合,名門ヤ富裕の貴族は通例近衛連隊に入営したが, 下級貴族は前線部隊にさえ向けられた。彼らは士官候補生ではあったが,数年間は兵卒と して勤務し夜ければ覆ら夜かった.次の年齢層の貴族は,学校(数学航海学校ヤ砲兵学 校)に向けられるか,も ̄しくは外国に技術や知識の習得のために派遣された。最年少の貴 族と読み書きのできをい貴族は翌年再度出頭することが命じられ,親にその時までに自分 の子どもに読み書きの能力をつけておくことが義務づけられた。(8)しかL査閲に出頭L覆 い貴族が続出したと思われる。違反者にたいする処罰の命令が繰返えされているo. 1714年. に出頭し覆い貴族を申告した者は誰であろうと違反者の全財産覆らびに額地を与えること を命じており,さらに1722年には出頭し覆い貴族は,. 「政治的死刑+つまり法律の保護外. におかれ,その者の財産を掠奪したり殺傷しても処罰されることはをいと宣言されたので ある。(9) 系譜紋章局が設けられた。ここが貴族の教育のタイプヤ期間を決めたり,職務の種類ヤ ポストの割当てをどを行い,貴族の勤務全般にわたって監督した。農奴および土地の所有 者としての貴族の役割が変った。農奴にとって貴族は主人であることには変りは夜かった 那,それと同時に農奴の徴税・徴兵そして警察-裁判の職務を担うことに覆った。勤務に 在る貴族は農事に従事することはでき夜く覆った。彼らには領地に帰る機会は殆んど夜く, その住いも生活も農村から都市に移り,領地の管理も執事ヤ代理人に委ね,不在地主と覆 る者が大部分であった。貴族の所有する土地およびそこで産出されるもの(鉱物や森林, 等)は「国家の目的や政策に応じて使用される国家資源+(10)とみ覆された。貴族の土地は 登記され,その嘉男,相続,農奴の移動,等が許可制と覆った。貴族の所有する不動産. (主に土地)の遺産相続権にも厳しい制限が加えられた。. 1714年の法令「一子相続制+の. 結果,貴族は遺産の不動産の分割相続を禁止され,遺産は遺言者の定めた相続人,遺言が 夜けれぱ長子,娘だけの場合は長女によって相続されることと覆った.非相続人には自活 の道を求め,軍人,官吏,商人あるいほ手工業者として生計を立てるよう命じたo貴族の. 子弟が商人や手工業者に覆るこ主についてピョ-トルは「商売や手職は国家の勤務及び学 問と同様に国家にとって有益であり尊敬すべきである+と繰返し述べ,それは貴族白身お よぴ家門の名草を改んら担うものではをいと強調している。(ll)一子相続制は,貴族の遺産 の細分化を防ぐことによって貴族の経済力を安定させて国家勤務を充分に果たさせること を目的とし,同時に非相続者から商工業に従事する中間層の形成を意図したものであった。. 貴族社会にきわめて大きを影響をもたらしたのが,. 1722年の「官等表+の制定であった。. 官等表は,国家勤務で獲得した地位にのみ基づいた新しい昇級システムであって,身分に よる門地制にかわって,各人の才能そしてツァー7)と国家にたいする功労に応じて等級が 賦与されることに覆った。こ=の結果,門地を官位とが切り離され,. 「国家機関においてま.
(4) 68. 佐. 々. 木. 弘. 明. た官等の獲得において貴族の占有をある程度壊わ+し,. (12)官僚制度の形成を確実改ものと. Lた。下級貴族にも昇進の道が開かれた。そして非貴族には貴族に覆る機会を与えた。非. 貴族でも最下級の14等級の官位(軍隊で小尉に相当)を得れば貴族の待遇, 権享受の最低条件+(13)を付与された。. 「貴族的諸特. ′さらに8等官(軍隊で小佐に相当)に昇進すると農. 奴づき土地の所有権が賦与され,世襲貴族-最上級の貴族一に列せられた。官等表の実施. によってロシアには大量の貴族がつくり出されていったのである。ピョ-トルは,貴族を 改革の担い手とし,それを非貴族の中からも才能あるものを取り立てていくことによって 祐充拡大Lていったのであるo 吏が合わせて2,051人数えられたが,. 1755年に中央およぴ地方のすペての官庁で14等級以上の官 8等級以上が837人(40.8%)で,そして非貴族出身. 者が227人(10.1%)を占めていたo(14)またピョ-トルの時代から19世紀中葉までに14人 の公爵,. 70人の伯爵と10人の界爵がつくり出されたといわれるo(15). ピョートルの教育政策も貴族をその直接の対象として遂行された。改革にとって,すべ ての部門での指導者,専門家の養成が急務であった。これら要員はまずもって貴族の中か ら求められた。それ故に貴族に読み書きの基礎的能力の習得が義務づ汁られ,そのこと自 体国家勤務とみ覆されたのである。ピョ-トルの教育政策は, 覆われているo. 3つの型が同時平行的に行. その一つは,外国から専門技術者,職工,学者その他を招来することであ. り,他は貴族を留学生として外国に派遣してあらゆる技術や知識を移入させることであっ た.そしてもう一つ,最も力が注がれたのが国内に学校を設立し,自国で人材の大量養成 を行うことであった。 ところで,この時代いくつかの教育計画案がピョ-トルに提出されている.それらはい. ずれも国家利益の見地から教育の普及を鋭いている点で共通である。クルパートフ(?1721)紘,. 「神意に適った諸科学の増大,そしてそれによって全国民を教育+することが. ロシアに繁栄をもたらすと説き,. 「学校が無数に至る所に存在する+ヨーロッパ諸国に. 倣って,ペテルブルクとモスクワに「種々の言語で,教会,市民および軍事に関するさま ぎまの自由夜科学の科学アカデミヤ+を設立すること,さらに大き夜都市には「年少の貴 族,兵士,砲手,他のあらゆる官等の子どものために,艦隊をらびに砲兵の勤務者の増大 のために,読み書き,算数,幾何学そして航海学の教育,■商人の子どもには商売の技術の教 育のための学校をつくること+を提案しているo(16)これと同じ主旨でより詳しい計画案を. サ}t,イトコフ(?-1715)が提出している.. 「我々はあらゆる自由夜科学においてすべて. の先進諸国に比肩L夜けれぱ覆らをい.ところが自由を科学とすぐれた技術が怒ければ, 国家は知的所産を獲得することができず,そのためどん夜仕事においても外国の知識ある 国々の奉仕と助力にいつまでも頼らをければ覆ら凌いだろう+と「全国民の教育+の確立 を主張しているo. 彼の計画に.よれば,すべて尉こ1-2のアカデミヤ(定員2,000人)杏. 設立L,これらに貴族,商人と官吏その他の子弟を強制的に集め,. 6-23才の17年間を教. 育期間とし,卒業者を「軍務と都市勤務+に向ける。そこでの教育内容は(1)言語, 自由夜科学,. (3)数学と技術から成っている.それらを具体的にあげると,言語は,ラテ. ン語,ギ7)シャ語,ドイツ語そしてフランス語で,自由夜科学は,文法,修辞学,詩学,. (2).
(5) 69. 18世紀中葉ロシアにおける貴族の解放の過程と教育 哲学,神学そLて歴史で,数学と技術は,算数,幾何,三角法,航海学,築城学,砲学, 工学,静力学,平面図法,建築学,光学,日時計学,音楽,絵画,彫刻,微細画,地理, 乗盾,剣術そしてダンス,とをっているo(17)どちらの計画案も,特定の階層を対象とした り,ある種の専門家養成を目的としたものでも夜く,国民すべてを教育の対象とし,その 内容も当時の学問分野が網羅され多彩であり.,一般教育的教育と専門教育的教育の区分は みられをい。著者不明の「国家機関の利益のための政治アカデミヤのロシアに設立につい 「政治学を学ぷ者は,先ず弁 ての案+があるが,それは,官吏養成を目的としたもので, 証法および哲学に博識であることが必要である+. 「政治学の基礎と覆るベき他の科学の学. 習がをければ時間の浪費に覆ろう+(18)と一般教育と専門教育との区分が明示されているo さて,ピョ-トルは,これらの計画案を受け入れをかった。夜により直ぐに役立つ人材. を求めた。改革の直接の契機は戦争(対スエーデンとの北方戦争1700-1721)であり,改 革は戦争の中で遂行されたのであるo. ピョ-トルによってつぎつぎと学校が新設されたが,. それらは国家が現に必要とする人材の順に従って,多分に思いつき的に,つくられていっ た.いずれもそれらは狭い技術の習得を目的と・した実科学校-数学航海学校,砲兵学校, 技術学校,外国語学校,医学校-であった。学校には第一義的に貴族の子弟が向けられたo ピョートルは,貴族にたいしいわゆる教養型のエリートでは夜く,額に汗する実務型の専 門家・技術者たることを要求した.これにたいして当然のこと凌がら貴族の反発ヤ抵抗は 非常に強く,いつでもどこでも貴族は強制的に駆り集められたoその結果どの学校でも貴. 族の子弟は少数で,兵士ヤ下級官吏の子弟が多数を占め全階層的(但し農奴は除いて)葱 観を呈していた. これらの学校のうちで最も規模が大きく,重要視されていたのが数学航海学校であるo これは,. ピョ-トルは貴. 1701年に設立され海軍の士官と航海士の養成を目的としていたo. 「できるかぎり貴族め子弟を増加させること+(19)を命じたり,. 族の子弟の入学を強要し,. 1710. 威嚇や材料を課したが,貴族は舟乗りに覆ることを忌避L,その数はふえ夜かったo 年に貴族の子弟は30%, 跡を絶た夜かったo. 1712年には26%にすぎ夜かった。(2e)また入学Lても逃亡や欠席が 1707年に貴族の欠席1日につき5ルーブルが科料とLて課せられたが. 5カ月間に8,545ルーブルが集まったといわれ,(21)いかに貴族の子弟の欠席者が多かった かを示している. 数学航海学校は,. 1715年にモスクワとペテルブルクに分割され,後者は航海アカデミヤ. に改組された。それは,「貴顕の貴族+に海事にたいする愛好心を抱かせようとするピョトルの強い意向の現われにほか怒ら夜かったoアカデミヤは,フランスの航海学校をモデ ルとし「15才から20才までの選ばれた若い貴族から+構成され覆ければ覆ら・覆いとさ れ,(22)貴族の子弟を対象とした最初の特権学校として企図■されたo アにおける貴顕在家柄の子弟,. ピ計-ド:7t,はil. ・「ロシ. 10才もしくはそれ以上の者を聖ペテルダルクpe)学校・に派遣. ・L,外国には送ら夜わこと+を命じた.ここで外国留学の禁止を殊更に命じていることは,. 当時いかに多くの貴顕の貴族が子弟の教育をロシアでは夜く外国で行っていたかを示すと ともに彼らがピョートルの教育政策に不満であったかということを示しているo. ピョー・'ト.
(6) 70. 佐. 々. 木. 弘. 明. ルの命令に従って,ペテルブルク近隣の県や市から貴族の子弟が招集され,またモスクワ の学校から幾何学,三角法と航海学を修了の貴族の子弟が送られ,その数は合計279人で あったo(23)航海アカデミヤで理論的教育(算数,幾何,航播学,砲兵学,築城学,地理学,. デッサン′,絵画,天文学,軍事学)を修了したものは,海軍士官候補生として,艦隊の碇 泊地レ-ヴュリに送られて実戦的教育を施こされた。すでに1716年には40人の士官候補生 が送られ, 1719年にスエーデンとの戦闘に加わり27人が海軍少尉に昇進している。(24)アヵ デミヤでは海軍士官だけで覆く少数をがら(30人程)が測地技術の専門家としての教育が 覆され,. 1720年に彼らのうちから元老院と海軍省の命令でロシア全土の測地と地図の作成. のための学術探険隊のメンバーが派遣されている.(25)しかし夜がら航海アカデミヤも貴族 を引き付けることはでき夜かった。ここにも貴族以外の階層の子弟が入学するように覆り, その上貴族の子弟といっても貴顕の子弟では夜く中流以下が大草であって,その数自体も ピョ-トルの死後急速に減少し,. 1741年には貴族の子弟は「一人も登録されをかった+と. いわれているo(26). ⅠⅠ. ピョ-トルの死(1725)からェカテ'). -ナ二世の登場(1762)までのいわゆる宮廷変革. 期は,ピョートルが帝位継承者を指名し夜かったことに端を発し,一部高官の貴族たちの 間でそして近衛兵が直接間接に関わりあって帝位をめぐって繰り広げられた隠謀術策と反 乱の時代であったo. この混乱に乗じたかたちで貴族の国家勤務義務の条件が漸進的に緩和. され,ついには勤務義務そのものが廃止され国家から解放された。その上エカテ7). -ナ二. 世(在位1762-1796)の時代に貴族はさらに多くの権利を獲得して特権者階層としての地 位を揺ぎ凌いものとLていったのである. ピョ-トルの貴族政策にたいする不平不満は,改革に反対の貴族の側からぱかりで浸く, 改革を支持Lた貴族の側からも強く出された。その典型としてタチ-シチュフがあげられ るo. タチ-シチュフは,ロシアの後進性の克服には,商工業の経済的発達および文化の発. 達が不可欠で,それは国家の車で強力に推し進められ夜ければをら覆いが,それをロシア で現実に可能にする国家体制は農奴制に基礎を置いた絶対主義体制しかをいと,ピョ-ト ルをそして改革を支持した.しかL凌がら貴族の処遇については,貴族的見地から批判L, 貴族の利益と権利を擁護している。タチ-シチュフは「貴族は--国家の最も重要夜かつ 尊敬されるベき胴体である。をぜ覆ら,貴族は生まれ凌がらの国家防衛の軍人であり裁判 官であるから+(27)と国家における貴族の投書TJの重さを主張した。この故に貴族は農奴と土 地の占有権を享有Lているとするo従いこの貴族の役割および占有権を後退させるもの一 切は貴族の権利を侵すものであり,貴族の経済的そして政治的地位を弱めるものであると するo. この立場からタチ-シチュフは工場主に農奴づき村落の購入を認めた1721年の勅令. に批判を加えているQ彼によれば,ピョ-トルの法令の欠点は,各階層の権利と義務が明 確にされてい覆いこと;つまり貴族を「卑し.い人間ユから区分する明瞭を境界がをいこと.
(7) 71. 18世紀中葉ロシアにおける貴族の解放の過程と教育. にあると考える.(28)彼は,個人の才能と功労を昇進の原則とする官僚体制の必要を認め奄 がらも,官等真には家柄が考慮されておらず,その結果「我々の所では望む者は誰でも貴 族の名著を盗みとっているo. この大きを無秩序と凌辱の根絶について忘れられている+(29). と不満を表わし,非貴族が貴族社会に流人することを制限する手立てを官等表に加えるよ う要請している。彼は,貴族を軍隊にだけでをく諸官庁に文官として向けることの重要性 を指摘し,息子に「文官勤務は国家におV,て重要であり,それは軍務よりはるかに多くの 思考と記憶と判断を必要とする+と書いている。(30)しかしここでも彼は「卑しい者や貧歯. 夜着+を官吏にすることは国庫を荒廃させてしまうと反対する。彼によれば,貴族が官東 として最も相応しい。をぜ在ら,貴族とくに貴顕貴族は収入が安定し生活が保障されてV5 るから,国庫を掠奪Lたり,贈収賄行為をしたり,民衆にたいする専横を許したりするこ とははるかに少いはずであるとしている。(31). (実際は国庫を荒廃させたのは貴族にほかを. らなかったのだが)。彼はまた貴族を兵卒として軍務に就けることは貴族の名書を著しく 傷けるものとして反対し. そして貴族にとって余りにも苛酷で苦痛夜生涯勤務の期限の短. 縮を要求Lている。 ところで一口に貴族といっても一様では夜かった.貴顕の富裕夜高官から官位を有せぬ とくに. 貧乏夜「卑しい貴族+まで様々で,当然のことをがらその利害関係も異っていたo その貧富の差は著しかった。エカテリーナ二世時代に,貴族のうちで男子農奴所有30人以 下が最も多く全体の62%を占め,. 30人以上100人未満が21%,. 1,000人以上が僅か1%であったといわれる。(31). 100人以上が16%,そして. 18世紀の末に最も富裕といわれた伯爵. シュレメ-チェフは実に185,610人の男女農奴を所有していた。(32)-50人以下の農奴所有で は貴族に相応の生活を送ることはでき夜かったo. 50人から500人の農奴所有貴族(その数. は全体の3分の1に満た浸かった)が典型的夜貴族といわれる。(33)ここを規準に上流,中 流,下級に分けられる。官等表の制定以後下級貴族にも上昇の可能性が与えられたとは いっても,貧困のため教育を十分受けられ覆いことをどから上昇することは至難のわぎで あり,. t>たすら精勤に励んだ.これに比べると上流貴族は,家門に相応しい官位-将軍,. 高官,大使夜ど-を求め,実際それらを富と教育によって容易に可能にした。彼らの多く は国家の中枢を占めており,その結果彼らの私的利薯と国家の利害とを同一視する傾向が 強く,彼らの手に国家権力を集中させようとする志向を抱き,階層としての貴族の利幸に 余り注意を払わをかった。貴族階層として利専に最も敏感であったのが中流貴族で,権力 には直接関与することは少夜かったが,多くの場合上流貴族と敵対したo さて,ピョ-トルの死後間も夜く貴族の国家勤務義務の緩和・軽減が開始されているが, それは必ずしも後継のツァーリたちが貴族たちが貴族階層の支持を得るために為されたも のでは夜かった。勤務義務の緩和は無論貴族の切覆る要望であったが,その実施は国家的 利専,とくに財政上の必要から為されていたo 最初の緩和策はェカテl). -ナー世(在位1725-1727)とピョ-トル二世(在位1727これは,貴族出身の士官と兵卒のうちの3分の2ず 1730)のあいだの1727年にとられたo つは領地管理ヤ家政のため1年間の休暇を与える,,その期間は無給とする,. ∴というもので.
(8) 72. あるo. 佐. 々. 木. 弘. 明. これは明らかに国家の財政上の理由によるものであった。ピョ-トルの時代から改. 革そして戦争によってすでに国家財政はt>っ迫していたのである.対外戦争の一段落Lた この時代に軍隊を縮少してその出費を抑制しようとしたものと考えられる。しかも休暇許 可を貴族の永久の権利としては認めていをい,つまりそれは法文化されたものでは夜く一 時的措置として出されている点に注意すべきである. アンナ(在位1730-1740)の時代に覆ってきわめて重要夜緩和策がとられた.アンナの 即位は,ピョ⊥トル二世の急死にとも覆って,帝位継承職位を無視して枢密院の高官貴族 集団によって秘かに企てられたものであった。彼らは,ツァーリの権限に制限を加えて枢 密院(高官貴族集団)による寡頭政治を企図し,アンナも即位の条件としてそれに約定を 与えたo. しかLをがらそれは事前に露見し,それに参画し夜かった枢密院議員ヤ他の高官. そLて近衛連隊や中流以下貴族の多数が反対した。そして即位したアンナはこれら反対勢 力を背景にして,枢密院との約定を破棄するとともに自らの専制政治を宣言し,枢密院を 廃止-してし ̄まった。ここに一部上涜貴族の寡頭政治の企ては失敗に帰したのである. アンナは,. 1731年に一子相続制を廃止して遺産の均等配分を命じた。一子相続制の廃止. は貴族の要望のt>とつであったが,この制度そのものがピョ-トルの予期に反して,家族 間の反目や不和を引き起していたばかりで夜く,さまぎま夜不都合ヤ問題を運用面におい てもたらしていたのである。勤務義務の緩和,第一に士官としての勤務開始,そしてつぎ に勤番年限の短縮,の要望は,アンナにたいする貴族の支持の報酬という形で,すぐには 容れられ夜かったoアンナから即刻報酬を受けたのは近衛兵(叙勲と昇進)と側近の高官 (金品と領地)たちであって,その他貴族は1736年12月まで何も施こされていをい.その 時までアンナの政府は勤務義務の緩和の意向は夜く,むしろその逆であった。アンナは 1736年6月にすべての貴族に勤務義務を必ず果すことを命じているのであるo. この命令の. 中で多くの貴族が,国家勤務を「さまぎま夜口実をつけて忌避している.ある者は召使い として戯に入り込んだりまたある者は自分の名前を隠すため町から町-渡り歩いて勤務を 逃れている+と非難Lている。(34)この命令は貴族の生涯勤務を再確認させたものとさえい えるのである。 このことは教育政策にも同様に貫かれている。. 1732年に開設された陸軍貴族幼年学校は,. 卒業者は直接士官として勤務に就く得意が与えられ,部分的には貴族の要望が入れられた ものと覆っており,その後貴族学校のモデルと覆ってぃくが,しかし開設当初数年問責族 を引きつけるものでをかった,と思われる。貴族の子弟は依然として強制的に集められ, 生徒の多くは家に逃げ返った。. 1733年に元老院が,生徒の処罰として1度目の逃亡者は1. 年間「当地の守備隊学校に送り兵士の子弟と一緒に学習させること+ そこ-送ることと命じてい・る(35)程である.. 2度目の者は3年間. 1736年6月の命令では教育は「将来国家に. とって利益と覆るばかりで夜く,これらの科学によって自分白身で十分を生計を得ること ができる+しかL. 「科学を避ける+ものは「自分自身を威ぼしてLまう+と教育の効用を. 説くとともに「子どもの教育を喜ばをい親を従前の命令によって科料に処すること+と命 令し,その科料も10Oル-ブルもしくは財産の没収という凄いもので,ピョ-トルの政策.
(9) 18世紀中葉ロシアにおける貴族の解放の過程と教育 を引き継いでいる.(36) 1736年12月に貴族の国家勤務義務の緩和策が宣言された。もっともこれは貴族要望の第 二のもので,しかもその実施はトルコ戦争の終結(1740)まで延期された。宣言は,貴族 の勤務年限を25年間に短縮し,. 2人以上の息子がいる場合にはその1人が勤務を免れ家に. 残って領地経営に当ることが出来るというものである.これは貴族にたいする国家の重大 夜譲歩であったo. とはいえここにも国家利幸が優先していたo. 当時アンナ白身の濫費,. ポーランド継承戦争の参加ヤトルコ戦争で国庫は益々窮乏に陥り,農民・農奴は苛税に背 しみ逃亡者が跡を絶た夜かった。こうした状況での宣言の直接の目的は貴族に農奴の管理 強化と徴税の確保にあったと思われる。この同じ年,貴族に逃亡農奴の刑罰決定権が与え. られ,貴族の警察裁判権が拡大されているのである。いずれにしても宣言によって国家勤 務を免除された貴族が現われたということは大き夜意味をもっている。いわば新しい階層 が生み出されたのである。 宣言は貴族の教育にも影響を与え, い査閲システムが定められたo査閲は7才,. 1737年貴族の勤務-の準備教育の段階を定めた新し 12才, 16才, 20才の4回行覆われる。第1回. の査閲(7才)で読み書きの基礎教育を家庭もLくは学校で受けることが義務づけられるo 第2回の査閲(12才)では,. 「最大限に確実にそして完全に読みかつ書くことを習得Lた. こと+を証明するための試験が課せられ,その後で100人以上の農奴所有者は家で読み書 きの他キリスト教問答示教書と算数と幾何を教育されることが許され,それ以外はいろい ろを学校にやられる。第3回の査閲(16才)では,宗教,算数,幾何そして「自分の意志 で学んだ外国語+の試験が行われ,その後近衛や前線部隊に登録されるか官庁に入るo勤 務を免除された者は算数と幾何の知識で十分とされた。教育の継続を認められた者は,陸 軍貴族幼年学校,航海アカデミヤその他の学校に登録された。裕福恵ものは20才まで家で 地理と歴史と築城学と外国語の教育を受けることができた。試験に合格Lをかったものは. 無期限に水兵として海軍に向けられるo最後の査閲(20才)でまだ勤務に就いてい凌いも のが彼らの適性や得た知識によって勤務が命じられるo(37)このよう一に勤務の準備教育は組 織化されたが,ここで気がつくように,貧富の差による処遇の違いが明白で,ことに富裕 を貴族が優遇されている。そして教育程度が勤務における優遇条件と怒ってきている,つ. まり一種の学歴化がみられる。やがて「科学において誰よりも成績優秀で非常に勤勉で あった者は他の者より先に昇進するように考慮することができまた科学に励んだ者を賞す ることができる+(38)ということが一般化していくのである。 1762年2月ピョ-トル三世(在位1762,. 1-6)はロシア全土の貴族に自由を与えるこ. とを宣言t,,貴族を国家勤務義務から解放したo. この宣言は国家利書とは殆んど関係夜く. 発布されたもので「ピョートル三世は貴族の人気を得るために無責任に国家の利蕃を犠牲 にLてLまった+(39)という批判が覆されているo宣言は貴族の私的利専を国家の公的利書 に優先させたのであり,貴族はやがて農奴の苛酷夜搾取者そして無為夜徒食者と化してい くのである。 宣言は貴族の勤務義務の廃止の理由を次のように説明する。ピョートル大帝の時代には. 73.
(10) 74. 佐. 木. 弘. 明. 貴族は非常に無知でしかも浅慮であったために国家利益は貴族の奉仕に依っているという ことを理解できをかった。そのため貴族に国家勤務を強制し義務づけ夜ければ覆ら夜かっ たo. しかLその後教育の力によって貴族は教化・啓発され. 彼らの役割と責任の何である. かを知るように覆り,国家に奉仕の精神が培われた。その結果「無知が良識に変わり,有 益夜知識そして勤務-の献身は,軍務に数多くの軍略に秀い出た勇敢馴守軍を生み出し, 一般勤務や政治に職務に通暁した有能夜人材をもたらした・・-・要するに高潔覆思想が,ロ シアの真の愛国者の心に,祖国にたいする限り浸き忠誠と愛をそして勤務にたいするこの 上覆い精励と献身とを植えつけたのである.それ故に我々はこれまで必要とされてきたよ う夜勤務にたいする強制はもはや必要とし覆いと結論するのである。+(48)結局のところ貴 族の勤務を彼らの社会的責任の自覚のもとに果すことを訴えているのである。そして勤務 に就か夜かったり,子どもに勤務の準備教育を怠ったりする貴族は,社会的良心によって 彼らの名嘗や面目を失う,つまり世間の噸笑や非難を浴び,社交界や儀式夜どの公式の席 には招かれず,交際を断たれるだろうと続けているのである。宣言によって貴族は勤務の 自由を得,勤務にあるものは彼の自由意志で勤務を続けることも退職することも随時でき ることに覆った。但し軍籍にある貴族は戦時中の退役は許可されず,平時でも三か月前に 退役願いを出さをければ覆ら覆いという制約がある。貴族はまた,自由に出国することが でき,さらに外国で自由に勤務することが認められ,帰国して勤務に就くと外国で得た官 職がそのまま与えられることに覆ったo但し外国に在る者は,国家が必要とする場合には 国家の命令次第帰国し夜ければをら覆いという項が付されているo(41)このように宣言に よって貴族は勤務の自由を得たがこれを国家の側から見れば,国家もまた自由に必要夜軍 人や官吏を得ることができるようにをったのである。つまり当然のことをがら勤務のポス トは限られることに覆り,勤務希望者間に競争が生L,国家は選抜権を有することにをるo そLてこれは勤務者のモラルや規律を一定程度高めることに覆り,職務の専門化を促すこ とに覆る。 宣言は,貴族の勤務を廃止したにもかかわらず,教育の義務を従前通り親に課しているo しかしここでは1737年の査閲システムは弱められている。貴族は12才に覆ると系譜紋章局, 県,郡もしくは市に出頭して,この年まで「何の教育を受けた+かを報告するとともにこ れからの教育の継続についての計画案を提出L夜ければをら覆い。教育の継続はさまぎま 夜教育形態や方法が認められている.国内および国外のいずれにおいてもよく,どん夜教 育機関でも舟ゝまわ覆い。. 「熟練した学識ある教師+が得られれば家庭で教育してもよく,. また親自身が可能である覆ら直接教育することも許された。またr-農奴所有が1,000人以 下の貴族+. (全体の99%に相当)は自分の息子を陸軍貴族幼年学校に送ることができると. され,そこ-入学が勧められているo(42)宣言では,教育の自的は「貴族に相応しい科学+ を修得することに置かれ,教育は貴族自身のために必要であることが強調され,ピョ-I. ル以来の国家勤務のための準備教育という性格は失われてしまった。このことは陸軍貴族 幼年学校でも明確にされている。す覆わち同じ年の4月の命令の中で「貴族のための幼年 学校は,彼らを幸福へと導くことのためにそして国家にとって熟練しかつ有用を人材を獲.
(11) 75. 18世紀中葉ロシアにおける貴族の解放の過程と教育 得する温床たらしめること+(43)にあると述べられ,貴族の利益が第一義とされているので ある。 1762年の宣言によって勤務に就くことをやめた貴族の生活は大きく変った。彼らの多く は都会の生活に慣れてしまい,もはや領地経営者として田舎に帰ること夜く有閑的生活を 送っていた。そしてもし彼らがその生活に飽きて復職を望んだとしても現実にはその機会 を得ることはきわめて困難とをった。つまりは「非勤務者の貴族のため場所はロシアには 夜かった+(44)のである。かくして放蕩に耽る彼らは「余計者+として扱われるように覆る。 この余計者はいわば社会の逸脱者ではあったが,受叶た教育の程度は比較的高く,ヨー ロッパの啓蒙思想の影響をどもうけ,彼らの中から現実のロシアの政治・社会に対する不 満を表明し,社会変革を求める者が現われるように覆るのである。す覆わち「インデ7)ゲ ンツイア+というロシア独特の社会層が形成されていくことに覆るのである。. ⅠⅠⅠ. 学校はまず第一には貴族のためのもので覆ければ覆ら夜かった。このことはピョ-トル 大帝以来18世紀を通じ,そして19世紀においても貫かれた教育政策であったo 18世紀中葉そうしたモデルとLて発達Lていったのが1732年に開設された陸軍貴族幼年 学校であったo. とはいえ前述のように開設から数年間は貴族を引き付け夜かったo陸軍貴. 族幼年学校は,ピョートル時代の学校,例えば航海アカデミヤが海軍士官や航海士として 必要夜知識と技術の煉磨に偏重しまた非貴族階層の入学を許可していたことと比較すると, より広い教育内容を有し,卒業後の特恵(士官としての勤務)もあり,そしてまた非貴族 の入学を排除した閉鎖的特権学校であったということから貴族の教育要求を充足していっ たのである。 陸軍貴族幼年学校が直接その模範としたのはベルリン貴族幼年学校であったといわれるo しかしロシアの幼年学校は設立当初から二重の目的-士官養成と官吏養成-を有Lており, それに対してベルリンの幼年学校は士官養成が目的で軍事教育が主たる教育内容であった ことを考えると,ベル])ンの幼年学校をそのまま模したものでは夜かったといえる。教育 の内容の広S,貴族の教養主義的および階層的性格から考えると,. 17世紀から18世由の初. 頭に普及したT)ックー・アカデミーに類似しているといえる。もっとも1730年代にはこの 種の学校はドイツには存在してい覆い。つまりはロシアの幼年学校は軍事専門学校と7)ッ ♂-・アカデミーの異った二つの要素を合わせ持っていたという. ことができるのであ. る。(45). 陸軍貴族幼年学校にたいして,ロシアの貴族たちは,. 7)ッタ-・アカデミー的性格への. 傾斜を求めたo貴族の見解を代表するタチ-シチュフは,当時の学校一睡軍貴族幼年学校,. 航海アカデミヤ,砲兵学校,技術学校-では貴族に必要夜知識が不十分にLか与えられて い凌いことに強い不満の意を表わしている.それでも彼は「貴族の科学について,特に軍 務に就く者にとってはゞ今日までのうちで陸軍貴族幼年学校が最良のものである+(4年)とそ.
(12) 76. 佐. 々. 木. 弘. 明. の目的の一面については高く評価している。 陸軍貴族幼年学校の目的の二重性は,すでにその教授プランの草案にみられる。 された陸軍貴族幼年学校では軍事的教育だけを有しているのでは覆い,この理由からその 教育を二つに分けること+つまり「軍事的教育+と「政治的をらびに市民的職務-の第二 (2)軍律,. の教育+である。前者は「(1)軍事経済, 「(1)政治学,. (2)法律学,. (3)歴史,. (4)地理,. (3)軍事演習+そして後者には (5)国家のあらゆる法+を必要と,L,. どちらの教育を与えるかは「生徒の傾向を考えて+決定することが述べられている。(47)こ の「生徒の傾向を考えて+ということ,つまり生徒の個人的能力や適性の配慮は,すでに 1731年に設立命令の中にみられる。す覆わち「各々の人間は,ただ軍事的傾向への本性だ けを有するのではをい---生徒の自然的傾向を見きわめ,それから学問の傾向を定め夜け れば覆ら覆い+(48)と規定されているのである。 陸軍貴族幼年学校での実際の教育内容は教授プランに基づいて次のように定められた. 基礎的一般教育の二つの下級クラス(第4クラス一口シア語,ラテン語,書法,算数,第 3クラスー幾何,地理,文法)の上に2つの専門教育的クラスが置かれている。この最初 のクラスである第2クラスはいわば専門教養的内容を教えた。つまり,築城学,砲兵学, 歴史,書簡文の正確を綴りと文体,修辞学,道徳,紋章学そして「他の軍事的在らびに政 治的科学+である。最上級の第1クラスは,. 「前のクラスを通じて,彼らのうちにより多. くの傾向,勤勉および理解を示した科学の中で,騎兵と砲兵のために築城と砲兵学に,あ るいは一般勤務のための科学に,審査によって,さらにより一層進められること+(49)とさ れ,生徒の能力や適性に応じて将来の勤務に必要夜専門的教育が施こされるのである.こ のようにこの学校では,一般教育と専門教育との分化がある程度みられ,専門職教育の兆 が幾分あるといえる.しかL夜がら現実には貴族主義的色彩がより強く現われ,専門職一 軍人と官吏-の養成という本来の目的は後退させられている。生徒は,上記の教科以外に 貴族の教養一剣術,馬術,ダンス,音楽,作詩法,社交マナーや礼儀作法-を教授され, そしてさらに法令には「幼年学校の生徒は,自分の一切の行為を,善行,いんぎん,上品, 名書で支配し,そして虚偽や裏切り夜ど貴族として不名書と覆る悪徳は前以って彼の内か ら根絶してしまうようにすること+(50)と命じられており,学校は貴族の教養ヤ道徳教育に 大きを比重がかけられていたのである。 一般勤務に就く予定の者のための第一クラスにおける政治肘科学というのは,具体的に いえば法律学を指している。 いるo. 1742年の卒業生のうちの1人証明書には次のように記されて. 「自然法,民法そして刑法の法律学を修得した。そしてこれらの科学と同様に世罪. 史および数理地理を優秀の成績で修了した+その外国語-ラテン語,ドイツ語,フランス 語の会話と翻訳-を修め「品行方正,勤勉につき省庁に勤務の能力が充分であることを証 明する。(51)しかしをがら,法律学は,一般勤務の専門職とLての必修科目には違い夜か、ら たけれど,当時はむLろ貴族として身につけておくべき必要夜教養であったのである。タ チ-シチュフは,貴族的見地から,. 「祖国の法律をすべての臣民が学ぶ必要があるが,し. かしそれは貴族にとっては必要欠くべからぎるものである+夜ぜをらば「すべての貴族は,. 「設立.
(13) 77. 18世紀中葉ロシアにおける貴族の解放の過程と教育 自分の農奴,僕婦そして農民にたいする生まれ覆がらの裁判官であり,また後に,功労に よって軍職や文官職において裁判官の職責を果すことに覆るからである+さらに自分自身 が裁かれることもあるから法律学を知ら夜ければ覆らをいとしているo(52)彼はまた法律学. を学ぶ本質は「義務+を学ぷことであるとしている。つまり「(1)皇帝にたいする義務, (4)妻や子ヤ同居人夜 (3)両親および.異父母にたいする義務, (2)祖国にたいする義務, ど家族にたいする義務,. (5)他人にたいする義務+を学ぷことであり,そLてその結果と. して「そこに他人から要求しそして獲得すること+ができるように覆るとしているのであ る。(53). 陸軍貴族幼年学校は,二重の目的をもっていたとはいえ,生徒全点に軍事教練が課せら れていたことからしても,士官養成に重きが置かれていたことは事実である.それは前述 のタチ-シチュフの評価からも窺い知ることができる。また1753年に伯爵シュヴァ-ロフ (1727-1797)も「これから国家にいかに多くの利益をもたらし,陛下の軍隊がすぐれた. 数多くの士官で補充されるかは証明を必要としをい+(54)とこの学校にかをり過大を評価を している。しかしこれらの士官は高度の軍事専門理論を教育されているわけでは夜く,そ の意味では専門職とはいえ夜かった.この点から,シュヴァ一口フは「軍事において非常 に必要を教育を目的とし,我々に不足しているもの,す覆わち理論を与えること,そLて 熟練した専門家の職務に軍事のたけた軍人を就けるために,陸軍貴族幼年学校にいっそう 相応しい軍事科学の学校を併設させること_J(55)を提案している.それは,言ってみれば参 謀士官の養成を目的とした「高等軍事学校+であった。彼の計画によれば,幼年学校の卒 業生およぴそれと同等の能力のある貴族50人が予定され,算数,幾何,工学,築城学,砲 兵学,古代史と現代史,地理,外国語t>とつそして「士官に必要夜教練+を修得している ことが入学資格とされた.学校は2つの部門-「(1)軍隊をいかに動かすか,. (2)城塞を. いかに建設するか+に分けられており,砲兵術は後者に属していた.実戦的教育が中心と をるが,週に2度の特別講義,つまり「歴史の中で軍事に関連のすベての歴史+ 係法および軍事裁判+ 課程は2年で,. 「軍事関. 「ヨーロッパ諸国の政策の分析的考察+といったものが施されるo. 「特に勤勉で非常夜熱意を示し成績優秀改もの+は1-2階級の特進,勤. 勉改ものには昇進の2年間短縮の特恵が与えられるとしているo(56) だがこの計画案は採用されをかった.シュヴァ一口フは,それを捨てきれず,. 1756年に. 砲兵-技術学校を任されるとその改造案の中に自分の計画を盛り込んだ。 航海アカデミヤは,すでに1752年に陸軍貴族幼年学校をモデルに(例えば,修辞学,磨 史,政治学,紋章学夜ど貴族の科学が導入された),海軍貴族幼年学校に改造されていたo シュヴァ一口フは,. 1759年に,砲兵-技術学校を既存の二つの幼年学校と同等の砲兵-技. 術貴族幼年学校に改造するとともに,そこに軍事クラスを置くことを計画したo. これは前・. 述の高等軍事学校と同じ目的と内容であった。砲兵-技術学校を幼年学校に改造すること 紘,. 1762年にほぼ計画通りに認可されたが,高級軍事専門家養成を目的とした軍事クラス. の設置は認められ夜かったのであるo(57). こうして1762年までに合わせて3つの軍事的幼年学校が設立されたが,その前の1759年.
(14) 78. 佐. 木. 弘. 明. に中央幼年学校が設立され貴族の科学の教授を目的とした。貴族の学校は,貴族に相応し い教養を施す閉鎖的教育機関とをることによって貴族を引き付けていったのであるo 傾向は貴族の解放後ますます強まっていった.. この. 1779年には,モスクワ大学のギムナジャの. 貴族クラスを独立させて自由貴族寄宿学校が設立され,最も典型的を貴族学校とをった。 貴族学校はまたインチ7)ゲンツイアの温床でもあった。. 注. (1). ロシア史第4巻目黒書店昭20 見違看表芸晶晶スキ ̄. (2). C・ B・Pox且eCTBe71CKH色 XVIII-XIX. EI. (3). B・B・. 0可ePK拓rIO C-neTeP6ypr. BeKOB. PoccFFf[. Ka中eHray3. HCTOpm 1912. rIPH rleTPe. CTP.. 216頁. CHCTeM. rlapOR甘OrO. Pocc珂F. rIPOCBeule=広見B. 107 cTp. 172. 1955. rlepBOM州・ocKBa. (4). 165真 造言呆蒜孟宗モエラ ̄ロシア史-ロシア民族の本質と生成世界堂書店. (5). (6). 岡前165-166亘 前掲書 ロシア史第4巻. (7). noR・. ( 8). 76東. naⅢyTO. pe凡B・. OもLueCTBO. E. cTp. noA・. ¢eoAa孤r[0丘Poec耳E爪ocKBa. rOCyLtaPeTBO. 1975. 70 pe]t・ r. r・ AFCatlheB. J7eHHHrpa且a爪ocIくBa. (9). 前提書. (10). Robert. 爪aTePflaJIhhT. 1959. CTP.. rTOCBSuqetlt70免250-JreT珂K). 78頁. ロシア史第4巻 E・ Jones. HaytIHO丘ceccIすF. 16. The. of the Ruccian. emancipation. Nobility. 1762-1785. New. Jersey. 1973. p.20. (ll). 前掲書. (12). TaM. (13) (14). 菊地昌典 C・ m・. TpotzE古色a6coJIIOTE3M. (15). Ibid・. The. (16). TaM. ロシア史第4巻115貞 O61qeCTBO. Xe. XVIII. RBOp兄ECTBO. Nobility. CTp. 72. 81亘 B・. 1974. 1762-1785. C打eTeh”IaPO月tlOrO. A4ocKBa p・. CTp・ 181. 14. DpOCBelqe甘H57. a. PoccⅢ珂B. XVIII-ⅩⅠⅩ. CTp. 76 CTP・76J78. Tab(Ⅹe. MaTeptlaJIhf. (20). M・B・C肌eB-M打ⅩaFrJIOB. (18). TaMXe. CTP.80. J7ellmlrpa且a FaytIHO丘cecc打H TrOCB51qeHEO点250-JIeTHK) H3 ⅢCTOpF打PyecKO丘ⅢKOmi(招rleAarOrHK打ⅩⅤⅠⅠI. BeEa爪o-. cTp. 28. 1960. cKBa. TaMXe. CTP.26. TaM. Ot7epK打ⅡO. 2Ke. BeIくOB. TaM. HCTOPFfZ4. Ck[CTeM. 州aTePFTaJTtJ. Xe. (25) Ot7ep仙rIO. )Ke. Tahq. 2Ee. TaMXe Ibid・ The. HCTOpkIFI. TaM. CE[CTeM. Xe. PocctIE. B. XVIII-ⅩⅠⅩ. J7e=Hrlrpana. O61qeCTBO河rOCyAapCTBO. tlapOA甘OrO. PoccffE. TIPOCBeuletI朋B. PoccHE ¢eoAaJZht[Ot(. (29). Ta泌. Xe. CTP.. CTP. 212. CTP.213 emancipation. of the Ruccian. CTP・ 17. CTP. 12. 12. CTp. Xe. TIPOCBelqeFFH兄B. HaytLfrO蕗ceccHfI皿OCB51qe冊0丘250-JIeTEZO. TaM光e. TaM. EapOA日OrO. ll. CTp.. BeKOB. (27) (28) (30) (31). ”. emancipation OtlePE以ⅡO ECTOp珂H. TaMXe. TaM. お茶の水書房1971. of the Ruccian. (17) (19). (23) (24) (26). ¢eoRa瓜EO丘PoccHH. rOCyRapCTBO. ロシア農奴解放の研究. )Ee. BeEOB. (21) (22). H. Nobility 1762-1785. p. 9. 211. a. XVIII-XIX.
(15) 79. 18世紀中葉ロシアにおける貴族の解放の過程と教育. (32). Ibid.. (34) (35). TaM. Xe. TaM. Xe. (37). TaM光e. Ibid. p. 15. (33). BeKOB. PyecIく封点a6coJI氾TZ43M 271-272. CTp. Otlep鑑F. ABOP5It7CTBO. XVIII. TaM光e. CTp. 272. E. (36) flo. FCTOpIすF. CBCTeM. B・. HapOZLHOrO. CTP・. 272. PoccHE. Z7pOeBeⅡleH封兄J3. a. XVrII・ⅩⅠⅩ. 23. CTp.. XVIII. PyccEfl丘a6coJIK)TF3M甲且BOp51HCTBO. CTp・ 273. (38. TaM光e. (39. Ibid.. (40. no凡peLL.. (41). cTp.292 CM.: TaMXe. (43). TaM. (44). 229頁 晶見違ー孟宗表芸I近世ロシア史講和創造杜1968. (45). TaM. The. Nobility 1762-1785 p. 27 of the Russian emancipation Jl. ド.6eezくpOBHOrO XpecTOMaTHE r10拝CTOPtl珂CCCP. Otlep鑑F. Xe. CTp.. (46). TaMXe. (48). T良M. Xe. (49). TaM. Xe. (42). CTp.292-295. OtlePE甘CECTeM. 〉Ee. BeEOB. B・. HapO且rIOrO. TIO耳CTOP抜F(. CM.:. Tab(Ⅹe. rlpOC8eLuel一打51. C打CTeM. tはpO且r(OrO. a. 8・. MocEBa. 1963. CTp.294. Poccm. a. XVIII・ⅩⅠⅩ. rlpOCBeZneHZす;I. B. BeKOB. PoccH打B. CTp・ 19. XVIIトⅩⅠⅩ. 15-16. (47). CTp.101 XpecTOMaTHE. flo. OtlepE抜rIO. FCTOp凹H. TaM光e. CTp.26 XVIII. ItCTOPE抜CCCP CHCTeM. B.. ZlapOLL日OrO. CTP.. 564. I-POCBeLLIeH刀刃B. CTP. 25. BeKOB. XVIII. (50). Tah4. (51). Tah4Ⅹe. (52). Tah4Ⅹe. CTp.40. (53). TaM. (54) (56). TaMXe. CTP.26. (55). TaMXe. TaM光e. CTP. 28-29. (57). CM.:. )鑑e. CTP.41. Xe. CTp.27 TaM光e. CTp.30-33. PoccFIH. a. XVIII-ⅩIX.
(16)
関連したドキュメント
わかりやすい解説により、今言われているデジタル化の変革と
英語の関学の伝統を継承するのが「子どもと英 語」です。初等教育における英語教育に対応でき
海に携わる事業者の高齢化と一般家庭の核家族化の進行により、子育て世代との
2020年東京オリンピック・パラリンピックのライフガードに、全国のライフセーバーが携わることになります。そ
彼らの九十パーセントが日本で生まれ育った二世三世であるということである︒このように長期間にわたって外国に
に至ったことである︒
•