奈良教育大学学術リポジトリNEAR
十九世紀アメリカにおける中国人労働者
著者 堀井 武
雑誌名 高円史学
巻 5
ページ 17‑32
発行年 1989‑10‑01
その他のタイトル Chinese Workers in 19th Century America
URL http://hdl.handle.net/10105/8675
一九世紀アメリカにおける中国人労働者
は じ め に
堀 井
近年日本では︑いわゆる︑不法就労とみなされる外国人労働者が急増し︑深刻な社会問題となりつつある︒日本の場合は︑
一九八五年秋からの急激な円高が︑その要因として特に目立つためか︑比較的新しい現象と受け取られる傾向にある︒しか
し︑世界的には︑外国人労働者の導入や排斥といった現象は︑一九世紀以来数多くみられるものである︒これは一九世紀に
資本主義国家群が︑周辺地域の世界市場への統合をほぼ完成し︑国際的分業体制を成立させたことにより︑諸地域間の相互
依存関係が強まったことに起因している︒
本稿でとりあげる題材は︑このような一九世紀の外国人労働者問題の典型的な一例である︒一八五〇年代から一八八〇年
代にかけて︑中国からアメリカへ約三〇万人の労働者が流入した︒彼らは︑後述することになるが︑非常に質の良い労働力
として評価され︑アメリカの社会・経済に多大な貢献をしたのであった︒しかし︑一八八二年に成立した中国人排斥法とそ
れに続く排斥諸法により︑中国人労働者のアメリカへの流入現象は断ち切られることとなった︒
この題材に対する研究は︑日本ではまだまだ︑なじみの薄いものである︒この時期の中国人の移動は︑華僑や苦力貿易の
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研究として︑須山卓や可児弘明のものがああが︑特にアメリカへの移動に注目したものではない︒また︑アメリカへの移民
労働者と排斥の研究でも︑中国人に注目したものはほとんどない︒一方︑アメリカ側では︑中国系アメリカ人研究者のもの
に多くみられる叙述的なものから︑社会経済や労働運動・人種差別などの様々な視点からの研究がなされている︒例えば︑
Å・サクストンは︑主にカリフォルニアの労働運動を分析するこもで︑−・メイは︑当時の広東とカリフォルニアを社会経
済的に分析するこもで︑それぞれこの題材の実像に接近している︒
これら諸研究の成果に多く負うところの本稿で︑筆者が提示する問題提起は︑この中国人労働者の排斥と︑移民の国であ
るアメリカの理念との関係にある︒中国人排斥法は︑実質的に中国人移民の流入を禁止するものであった︒しかし︑アメリ
カの崇高な独立宣言の理念は︑人間の生まれながらの平等と︑生命・自由・幸福の追求という不可譲の権利を守るために政
府を組織するというものであり︑これは移民の歓迎を意味するものである︒この点については︑独立宣言そのものよりも︑
独立宣言をその左手に抱えた自由の女神像がより雄弁である︒その台座には︑次のような詩が刻まれている︒
﹁国から国への征服の翼を広げたとされる︑/ギリシアの有名な青銅の巨像とは異なり︑/ここ︑海に洗われ︑日の沈む︑
この国の門に/たいまつをかかげた大いなる女人が立つ︑/そのたいまつの炎は幽閉された稲妻︑/そしてその女人の名は
﹃亡命者の母﹄︒/﹇中略﹈/物言わぬ唇で彼女は叫ぶ︒﹃私に与えなさい︑/自由に生きたいと請い願う︑/貴国の疲れた
人々︑貧しい人々の群れを︑/人間が溢れんばかりの貴国ではくずともみなされる︑惨めな人々を︒/家もなく︑嵐に弄ば
れる︑これらの人々を︑私のもとに送りなさい︒/黄金の扉のかたわらに︑私は灯をかかげましょ・盈﹂
まさに︑移民の歓迎を︑あたかも自らの使命とする内容である︒この自由の女神像が建てられたのと同じ一八八〇年代に︑
全く相入れない内容をもつ中国人排斥法が成立するのである︒しかも︑中国人労働者は︑アメリカの社会・経済に多大な貢
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献をしていた︒この矛盾は︑いかなるところから生じたのか︒このような問題意識に立ち︑一九世紀アメリカにおける中国
人労働者について論じていくものである︒
一中国人労働者の渡米
まず︑中国人労働者がどのような経過をへて.︑アメリカに渡ることになったのかを簡単にまとめておかなければならない︒
アメリカに渡ったおよそ三〇万人の中国人労働者の大部分は︑かって中国で唯一の対外的窓口であった︑広東省広州府周
辺の珠江デルタ地帯の出身であ右︒一九世紀の広州は︑アへン戦争に代表される︑いわゆる﹁西洋の衝撃﹂によって︑中国
において最も強い社会経済的変化をしいられた地域であった︒具体的には︑広東綿業の潰誠や銀の暴騰による破産農民の急
増︑五港開港による広東輸出関連産業の打撃︑そして太平天国の乱に代表される多くの内乱を挙げることができる︒これら
は民衆の生活を破壊し︑社会不安と生命の危険にさらされた膨大な失業者を生み出した︒結果として︑これらが中国人労働
者をアメリカに送り出す要因となったのである︒
次に︑中国人労働者の流入を受けたアメリカに目を移そう︒アメリカの国勢調査によれば︑一元四〇年代に流入した中国
人は三二人であるのに対し︑一八五〇年代に.はそれが三万五九三三人に達してい乱︒このきっかけはアメリカのゴールドラッ
シュである︒カリフォルニアのサクラメント渓谷で︑金鉱が発見されたのは一八四八年のことであったが︑.このニュースは︑
貿易活動を通じて中国へ︑特に開港していた五港へ伝わっていくことになる︒そして五港の中で︑このニュースに人生を賭
けざるを得ないような︑危枚的な民衆を大量にかかえていたのが︑広州だったわけである︒
ー19−
一八六〇年代には︑五万四〇二八人の中国人労働者が︑アメリカに流入している︒この時期の渡米に関して︑まず︑一八
六〇年に調印された英清北京条約により︑中国人の海外渡航が公式に認められている︒それまでの海外渡航は︑空文化され
た禁律のもととはいえ︑違法なものであった︒また︑一八六八年に中国とアメリカの間で︑バーリンゲーム条約が成立して
いる︒その第五条が︑移民の自由な出入国を認めることを︑次のように規定している︒
﹁アメリカ合衆国および中国皇帝は人がその国および忠誠の対象を変更する内在的かつ不可譲の権利と︑そしてまた興味か
ら︑貿易の目的から︑また移住の目的から︑それぞれの国民がたがいにそれぞれの国からたがいの国へ自由に出入国するこ
との相互間の利益を︑誠意を持って認めるものでああ︒﹂
これは両国に画期的な関係改善をもたらすものであり︑条約成立の前後で︑中国人の流入が倍増している︒この条約の成立
以降︑中国人労働者の流入現象は︑ますます活発になり︑一八七〇年から一八八二年の中国人排斥法が成立するまでに︑さ
らに二〇万人近い中国人労働者が︑アメリカに流入することとなったのである︒
ー20−
二 中国人労働者のアメリカにおける労働実態
本章では︑中国人労働者のアメリカにおける労働実態を︑そのアメリカに対する貢献を確認するために概観する︒アメリ
カでは︑非常に多くの中国人移民に関する文献が出版されているが︑筆者がここで紹介する内容は︑その中でも比較的新し
く︑かつ内容的にも充実したJ・チェンの著者を中心にまとめたものである︒
カリフォルニアの金鉱では︑一八五〇年代の終わりには地表の金が減少し︑個人による採掘が衰退している︒鉱山会社に
よる金採掘が本格化するなかで︑ゴールドラッシュにより流入した中国人労働者の多くは︑これらに雇われることとなる︒
このころには中国人労働者は四万人に達し︑そのうち二万人が鉱山で働いていたのであるが︑彼らに対して︑カリフォルニ
ア州は︑月四ドルの外国人鉱夫税を徴収しており︑年に約一〇〇万ドルの収入を得ていた︒開発途上であった当時の西部に
おける︑この安定した莫大な税収はアメリカに対する貢献といえるものである︒
次に︑中国人労働者の最も有名な業績として︑大陸横断鉄道の建設をみていきたい︒大陸を横断するこの二五〇〇マイル
の鉄道が連邦議会で可決されたのは︑一八六二年のことであった︒ユニオン・パシフィック鉄道会社がネブラスカ州オマハ
から西へ︑セントラル・パシフィック鉄道会社がカリフォルニア州サクラメントから東へそれぞれ建設を始めることになっ
た︒中国人労働者はセントラル・パシフィック鉄道会社に雇われることになるのであるが︑まず︑この経緯を説明しなけれ
ば な
ら な
い ︒
ユニオン・パシフィック鉄道会社は︑アイルランド系移民や南北戦争の退役軍人一万人を雇っていたが︑シエラネバダ山
脈をまともに横断するセントラル・パシフィック鉄道会社に比べてはるかに楽な工程であった︒それに対し︑セントラル・
パシフィック鉄道会社は︑工程が困難であるばかりか︑労働力の調達にも苦労していた︒一八六三年一月に建設を開始した
が︑一八六四年の冬には︑五〇〇〇人の求人に対して六〇〇人しか働いていなかった︒また︑カリフォルニアは︑ゴールド
ラッシュで一獲千金を求めて来た白人が多く︑労働力の質もかなり低かったという証言もある︒二年かかって五〇マイルし
か建設できない状況を打開する一策として︑五〇人の中国人が試みに投入されたのは︑l八六五年二月のことであった︒こ
れはセントラル・パシフィック鉄道会社の建設担当C・クロッカーの提案であるが︑会社社長L・スタンフォードの技術面
からの反対に対し︑彼は中国人が万里の長城を築いた歴史的事実をもって説き伏せたと伝えられている︒この五〇人の中国
ー21−
人労働者が認められ︑後に︑一万五〇〇〇人になるのである︒
クロッカーは中国人労働者の労働技術を絶賛する証言を残しているが︑この鉄道工事は彼らをしても難工事であった︒一
八六五年の冬は早くから雪が降り︑労働者の半分が除雪に当たったのであるが︑雪崩や凍死︑滑落死︑その他の事故が多く
伝えられている︒また︑一八六七年一一月に︑ニカ月かかって開通したドナートンネルは︑ハ九五フィートの一枚岩を
貫く難工事であ.った︒すべての工事を通して︑多くの犠牲がでたようであるが︑犠牲者の正確な数を示す史料はない︒ただ︑
一二〇〇人の中国人の骨が︑埋葬のため中国に送り返されたことが伝えられているので︑正確な犠牲者の数はそれを上回る
ものであったことは間違いない︒
一八六八年夏に山間部を抜けた工事は︑そのスピードを速めている︒一八六九年の四月二八日には︑中国人の一団と八人
のアイルランド人が︑一二時間に一〇マイルと一八〇〇フィートのレールをひいたことが記録となっている︒そして︑一八
六九年五月一〇日にユタ州のプロモントリーで︑東西の鉄道が結合し︑最初のアメリカ大陸横断鉄道の完成となったのであ
る︒大陸横断鉄道におけるこれら中国人労働者の貢献は︑最低一四年かかると予想された工事を︑半分の七年で完成したこ
とである︒西部の開発をそれだけ速めた意味で︑これはアメリカに対する貢献といって良かろう︒
次に︑中国人労働者が従事した他の諸産業をみていきたい︒アメリカ流入以来︑中国人労働者は︑中華食堂︑洗濯業︑行
商などの都市での仕事にもついている︒また︑土地の造成において彼らは顕著な働きをしている︒例えば︑もともと湿地の
偏在する土地であったサンフランシスコは︑人口の急増に伴って︑中国人労働者によって埋め立てられたものである︒また︑
サクラメント川とサンホアキン川のデルタの造成は︑広東の珠江デルタから来た中国人労働者の得意とするところであり︑
彼らの造成した五〇〇万エーカーにおよぶ土地は︑一エーカーあたり七五ブッシェルの収穫をもたらしているのである︒
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また︑カリフォルニアの農業においても中国人労働者の果たした役割は重要であった︒一八六〇年に六〇〇万ブッシェル
であったカリフォルニアの小麦の生産は︑一八六八年には二〇〇〇万ブッシェルになり︑そのうち六〇〇万7ッシェルをオー
ストラリアやイギリスへ輸出している︒一八七〇年には輸出だけでハ00万ブッシェル︑一八七三年にはアメリカ最大の
小景の生産州となり︑一八八九年には四〇〇〇万ブッシェルの生産を記録し﹁北ヨーロッパのパンかご﹂とまで呼ばれるに
至ったのである︒これらカリフォルニアの農業の隆盛のかげには︑中国人労働者の働きがあった︒一八八六年の時点で︑約
三万人の中国人が︑カリフォルニアの農業に従事していたが︑これは州の全農業労働者の八七・五%に相当したのである︒
中国人労働者の賃金は︑白人が月に三〇ドル以上であったのに対し︑約二〇ドルであり︑小麦が輸出品になり得た背景には︑
彼らの低賃金労働があったのである︒
以上︑中国人労働者のアメリカでの労働実態を︑鉱山における労働︑大陸横断鉄道の建設︑その他の諸産業と概観したが︑
低賃金労働力であるうえに︑労働の質自体が優れていたことが︑彼らをしてアメリカ社会に大きく貢献させることとなった
の で
あ る
︒
一23−
三 中国人労働者に対する排斥
中国人労働者に対する排斥は︑大陸横断鉄道の完成後しばらくして本格化していくこととなる︒それ以剛は︑M・R・クー
リッジが指摘しているように︑中国人労働者を必要不可欠とする労働需要が︑彼らに対する人種的反感をおさえていたので
あっね︒中国人労働者にとっては皮肉なことであるが︑彼らの建設した鉄道によって︑東部の労働者の西部への大量流入が
おこり︑カリフォルニア州の労働力不足は過多に転じたのである︒一八七三年九月には︑カリフォルニア州で最初の恐慌が
勃発し︑また︑一八七六年冬の大干ばつは︑農業労働者にまでも大量失業を引き起こした︒これらは一八七〇年代を通して︑
カリフォルニアを本格的な不況の時代としたのである︒
州の約三〇%の人口が失業していたといわれるこの時期に︑新たな中国人労働者が︑毎年一万人以上の高レベルで流入し
続けていたことが︑大規模な排斥暴動を引き起こす背景となった︒一八七一年に︑ロサンゼルスでバーリンゲーム条約に反
対する暴動が発生し︑中国人二二人が殺された事件を初めとして︑反中国大暴動はカリフォルニア各地から他州へ拡大して
曲
いった︒はぼ西部のすべての州の六〇地区以上で反中国人暴動が勃発Lhが︑中国側の史料は︑これらの暴動で中国人二〇
〇人余りが殺されたことを伝えてい葱
反中国人暴動の具体例を挙げておこう︒一八七七年七月に︑サンフランシスコで勃発したサンドロットの暴動は︑一万人
が集まり三夜にわたって︑中華街や鉄道会社︑船会社を襲い︑その収拾に軍隊まで出動した大規模なものであった︒また︑
一八八五年九月にワイオ︑︑︑ング州ロックスプリングで発生した中国人虐殺事件も有名である︒鉱山ストに同調しないことを
理由に︑武装した白人集団によって中国人居住区が襲われたのである︒一般には二八人の中国人が殺されたと伝えられてい
るが︑実数はそれをはるかに上回るとする説もある︒同じ年︑ワシントン州タコマ市では︑市長1・R・ウェスピッチ自ら
が︑市内のすべての中国人に対して解雇および追放を命じている︒七〇〇人いた中国人で最後まで残った二〇〇人は︑彼の
率いる数百人の武装した白人に襲われ︑中華街は焼かれ︑殺された中国人の正確な数は不明である︒
一方︑これら直接の暴力による排斥とは別に︑法的手段を用いた排斥も行われた︒連邦国家であるアメリカは︑連邦法と
州法という二重の法体系をとっているが︑まず︑この州法が中国人労働者の排斥に大いに利用されている︒具体例を挙げる
ー24−
ならば︑公共事業からの締め出しや公共施設の使用禁止︑土地所有の禁止︑裁判所での証言の禁止︑漁で用いる網の規制︑
行商に用いる天秤棒の禁止や課税︑爆竹やドラ使用の禁止など様々なものがあった︒
もちろん︑これら差別州法は︑互いの移民の保護を定めたバーリングゲーム条約に違反するものであり︑最高裁判所で無
効にされることもあった︒また︑州法レベルでは︑中国人労働者のアメリカへの流入自体をとめることは到底不可能であっ
た︒こうして排斥は︑連邦法による中国移民の禁止を要求する運動に発展していったのである︒
それでは︑アメリカ総人口からみれば〇・二%に過ぎない中国人に対する︑西部においてのみ深刻なこの問題が︑いかに
して全国問題となり得たのであろうか︒一八七〇年代には全国レベルで民主党と共和党は均衡を保っていた︒このことが西
部のみの問題である中国人労働者問題をして︑全国選挙の行方を左右する鍵にまで高めてしまったのである︒一八七六年の
仰
大統領選挙がまさにそれであった︒結果は次に挙げるとおりである︒
25
へ ー ズ 候補者名
ティルデン
政党 投票総数
共和党 四〇三三七六八人
民主党 四二八四一五二人 選挙人数 一
八 五
人
一 八
四 人
つまり︑選挙人一人の差で共和覚のへーズが大統領に選ばれたのである︒この選挙で︑覚の枠をこえて票を集め易い西部が
注目され︑西部の問題が注目されたのである︒結果として︑中国人排斥運動は全国レベルで両党の支持を獲得し︑これ以後︑
選挙対策のため中国人排斥が主張されることが定着している︒つまり︑連邦レベルにおいては︑中国人労働者問題はまさに
政権闘争に利用されたのであった︒
このような状況下で︑まずバーリングゲーム条約の修正条約が︑一八八〇年に成立している︒エンジェル条約と呼ばれる
この条約は︑中国人の入国を︑合衆国が適切と認めた者だけに限るというもので︑大きく排斥への道を開くものであった︒
エンジェル条約の成立後︑連邦議会は中国人排斥法の本格的な審議に入るわけであるが︑ここでは結果のみを確認してお
く︒中国人排斥法は︑上院では︑賛成二九反対一五棄権三二︑下院では︑賛成二〇一反対三七棄権五一でそれぞれ可決され
ている︒アーサー大統領の拒否が︑法の施行期間を二〇年から一〇年に修正させる一幕もあったが︑中国人排斥法は︑一八
八二年五月六日に成立したのであった︒
排斥法の内容を列挙すると︑次のようになる︒以後一〇年間の︑熟練︑非熟練労働者を問わない中国人労働者の入国禁止︑
中国人登録義務と身分証明書の携帯義務︑アメリカへの帰化の挙止︒そして入国制限の免除を明記されたのは︑外交関係者
他
の み
で あ
っ た
︒
この中国人排斥法は︑有効に槻能して中国人労働者の流入は激減するのであるが︑その後も執拗に修正・延長をかさねて︑
一九四三年まで施行されている︒この廃止も︑太平洋戦争における中国への軍事的配慮が第一の理由であり︑移民を歓迎し
ているはずの自由の女神像は︑一九六五年のジョンソン移民法の成立まで︑矛盾に苦しめられたのであった︒
ー26−
四 排斥をめぐる議論の分析
本章では︑中国人排斥法の成立をめぐる議論から︑その背景にあるものを分析し︑中国人労働者の排斥現象の実像に接近
し た
い ︒
一八八四年の民主党キャンペーン・ハンドブックには次のような記述がある︒
﹁中国人は寄生動物である︒それは野菜や動物にしがみついて飽きるまで食べている︒彼らはこの国の市民権の責任を分担
するために来たのではない︒我々の社会に対する愛などはない︒また︑利益にならない者とは付き合わない︒合衆国政府は︑
れW
アジアからの移民よりも︑より知的で徳のある高い階層の人々のために計画されたものであ蟄﹂
人種主義が極端に目立つ内容であるが︑この議論には人種主義とは別に︑いわゆる﹁アメリカ化﹂運動の影響がみられる︒
﹁アメリカ化﹂運動とは︑多様な国からきた人々の異質な要素を排除し︑彼らを同質のアメリカ人にすることで︑アメリ
カ社会に統合させようとする運動であり︑一九世紀末に︑南・東欧系移民に対する反移民感情とも関連して盛んに論じられ
たものである︒この運動はその展開において︑自分達の異質な要素にかたくなに固執する移民集斑の排斥に発展することと
なった︒アメリカに住みながら外国人としてとどまり︑中国服を着て中華街を形成し︑かたくなに同化を拒む中国人労働者
は︑まさしくこの運動の絶好の排斥対象となったのである︒つまり︑この記述は﹁アメリカ化﹂運動からの排斥論と人種主
義が結び付いたものであると言える︒
それでは人種主義は︑いかにとらえるべきであろうか︒当時のアメリカ社会は︑先着移民と後者移民の差に加えて︑人種・
民族・宗教などの差が︑重層的差別構造を形成していた︒資本家側にとっては︑この労働者間の差別を煽り利用することが︑
低賃金労働力を維持するための最良の手段であった︒具体的には︑中国人労働者は﹁スト破り﹂として最適であったのであ
る︒その結果︑中国人労働者は白人労働者にとって憎むべき存在にならざるを得なかった︒つまり︑人種主義の顕在化の根
本には︑資本の論理があったのである︒
労働組織の中でも︑労働騎士団は︑組織化の原則として教義・膚の色・民族の違いをのりこえることに積極的であり︑中
一が
国人を含む組織の加盟を認めていね︒しかし︑その後に台頭したアメリカ労働総同盟︵AFL︶は︑人種主義に翻弄されて︑
一27−
中国人労働者の排斥を組織の基本方針としてしまっている︒また︑このことには中国人に対する人種主義を煽動的に利用す
ることで︑組織の団結と勢力拡大を果たせるという現実もあったのである︒実に︑資本の側も労働組織の側も︑中国人に対
する人種主義を利用したのである︒
次に挙げる史料は︑アーサー大統領が︑一八八二年に中国人排斥法に対して拒否権を発動した時のメッセージの一部であ
る︒ ﹁中国人が︑この国になんら利益をもたらさなかったと言える人は︑一人もいないでしょう︒彼らは大陸横断鉄道の建設に
おいて︑大いに貢献した︒太平洋岸諸州は︑彼らの勤勉さ︑積極性︑そして資本家や白人労働者への有益さの証拠であふれ
ている︒中国人はもはや必要ないのではないかという疑問が投げかけられ︑議会や問題に精通するものによって︑彼らなし
にやって行くことの是非が考えられる時がきた︒しかしながら︑この国のどこかに︑この種の労働者が︑白人労働者との衝
−U
突なしに雇用されるような場所があるのではないだろうか︒﹂
中国人の労働者としての有益さを強調する内容である︒彼が展開しているのは︑明らかに低賃金労働力を求める資本の論理
である︒つまり︑資本家は︑l方で︑低賃金労働力を維持するために労働者間の差別を利用しっつ︑他方で︑差別と結び付
いた排斥に反対しなければならなかったのである︒この点にのみ注目するならば︑中国人排斥法の成立は︑資本の論理によっ
て顕在化された人種主義が︑ついには資本の論理をものりこえたことを示しているのである︒
次に挙げるのは︑第四七回議会での︑上院議員J・R・パウリイの演説の一部である︒
﹁私は︑移民制限自体に反対しようというのではない︒諸君が移民の条件をつくるならば︑私は一向にかまわない︒しかし︑
それらは人間が︑いつかその努力で克服できるものとすべきである︒人種や膚の色を条件とするならば︑それは憲法修正第
ー28−
仰
一五条に反するのみならず︑我々のすべての伝統・主義に反することになる︒﹂
彼の議論こそは︑アメリカ独立宣言の理念を代弁したものであり︑南北戦争以来高まりをみせた人種平等主義を代表するも
のであったと言える︒このような反排斥論にもかかわらず︑中国人排斥法は成立するのであるが︑それが自由の女神像が建
てられたのと同じ一八八〇年代であったことは︑まことに皮肉なことと言わざるを得ない︒
排斥する側の賛否両論をみたわけであるが︑最後に︑排斥される側の中国人労働者の論を紹介する︒反中国人暴動が頻発
していた一八七六年に︑アメリカにおける中国人組織が︑次のような内容の手紙を︑グランド大統領に送っている︒
﹁我々中国人は︑この国のあらゆるところで︑平和的で忠実でそして勤勉であった︒﹇中略﹈農業でも家事労働でも有益な
肺
雇用を見出し︑正直と日々の労苦で利益を得た︒この勤勉さが州を豊かにしたのである︒﹂
自らの人間性を語ることで︑排斥の不当を訴えようとする内容であるが︑ここでは彼らの側にたって状況をとらえなければ
ならない︒つまり︑中国人労働者は︑﹁西洋の衝撃﹂によって故郷から追われ︑アメリカで低賃金労働力として働き︑そし
て労働力が過剰となれば排斥された︒まさに︑世界経済のシステムに翻弄された彼らが︑自らが労働力である前に人間であ
るという認識を求めているのである︒これは現在の外国人労働者問題にも通じるものと言えよう︒
−29−
お わ ツ に
一九世紀アメリカにおける中国人労働者という題材を︑一八八二年の中国人排斥法が何故成立したかという問題提起から
出発し︑論じてきたものである︒まず︑この問題提起に答えなければならない︒
中国人労働者を排斥する議論を構成したものには︑現実的には︑労働市場の圧迫に対する白人労働者の恐怖があった︒そ
して理念的には︑中国人労働者が︑﹁アメリカ化﹂運動の妨げと解釈されたことがあった︒これら基本的な二点に︑決定的
な影響を与えたものが︑アジア人に対する人種主義である︒資本家は︑低賃金労働力を維持するために︑労働組織は︑団結
と勢力拡大のために︑それぞれこの人種主義を顕在化し利用していたのである︒
この人種主義と結び付いた中国人排斥運動は︑西部一帯での暴動へと発展したが︑この時期にアメリカの二大政党が︑そ
の勢力の均衡を保っていたことが︑この間題を全国的なものとした︒一八八二年の中国人排斥法は︑政権闘争にまで利用さ
れるかたちで︑独立宣言の理念を訴える議員や︑低賃金労働力を求める資本の論理をものりこえて成立したのである︒以上
が︑先の問題提起に対する答えである︒
最後に︑この題材で扱った︑中国人労働者の移動現象︑アメリカ独立宣言の理念や人種主義について︑一九世紀という時
代をふまえて整理したい︒
アメリカにおいて人種主義は︑克服されなければならないものとして︑様々な場面において論じられてきた問題である︒
それはまた︑人間の生まれながらの平等︑生命・自由・幸福の追及という不可譲の権利を守るために︑政府を組織するとい
う独立宣言の理想を掲げ︑いかなる王室ももたず自由を追及しているアメリカであればこそ︑直視し得た問題であるともい
える︒例えば︑この中国人労働者の移動現象が生じた同時期に︑アメリカではなく中南米に渡った二〇万人を超える中国人
は︑いわゆる︑﹁苦カ﹂として焼印や鞭によって奴隷同然に酷使され︑ほとんど生還の望みがなかった事実があ蟄つまり︑
アメリカにおいて中国人排斥法が成立したことは︑今日的な視点にたてばアメリカの汚点と呼べるであろうが︑帝国主義列
強が凌ぎを削って世界分割を目指していた一九世紀に︑外国人労働者の問題で人種平等主義の立場からも真剣な反排斥論が
ー30一
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