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オーストラリアの農業的土地利用

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(1)

       オーストラリアの農業的土地利用

       i一九世紀におけるオーストラリアの発展i

       河   地   貫   一

       一 オーストラリア経済における羊毛と小麦の地位       ニオーストグリアにおける目語§のく一①§舞圏の形成

       − 牧羊圏の侵入︵ド刈G︒c︒〜Hc︒㎝O︶

       E 金鉱ブームと牧畜業︵HQO弩〜HcQ①O︶

       皿 く凶魯N目︒巨圏の完成と︑そこに浸透した小麦地帯︵一GQ①一〜﹈.OQ⑩O︶

      一︑オーストラリア経済における羊毛と小麦の地位      ω オーストラリアは産業人口の配分比において︑工業人口の占める比率が極めて高く︑また各産業の生産額の上から       ②も︑工業生産額は︑他の産業のそれらの合計額を超え︑この国はまさに先進工業国家である︒この傾向は第ご次大戦

後一層促進されつ\ある︒

 しかし︑憎方その輸出貿易の構造をみると︑原始産業の総輸出額に占める比率は︑実に九五︒四%︵一九二九〜一

      ヨ      九三九年平均︶︑九〇%︵一九五六〜五七︶であって︑その輸出は全く原始産業に依存している︒そして︑この若い国       ㈲家︵葺け①Oo白日︒昌耳芝①巴匪O粘﹀=ω菖蝉一山 は一九〇一年に誕生した︶の経済的繁栄は︑ ﹁基本的には輸出産業に結

び﹂ついているから︑経済的繁栄は実は原始産業に依存するとい\かえることが出来る︒

   オーストラリアの農業的土地利用       一

(2)

   研 究年報      二

 更にオーストラリアの総輸出額の九〇%以上を占めている原始産業の品目別の構造をみると︑羊毛︑小麦および小      ㈲麦粉で五〇〜六五%を占め︑ことに近年羊毛の比率が増大して︑羊毛のみで総輸出額の五〇%を超えている︒早くか

らいわれていた﹁オーストラリアは羊の背にはこばれている﹂ことは︑今日でも肯定されるわけで︑か㌧る輸出の構

造はいわゆる単一生産型態を取る他の後進諸国家のそれと酷似している︒

 一方総生産額の半ば以上を占める工業製品の輸出は全工業生産額のわっか六%にすぎず︑その生産の目的は殆んど

自国内の自給に限られている︒そして既に一九二〇年にプライスが﹁もし︑国内の市場が外国の自由競争にさらされ       ωるならば︑オーストラリアの工業は消滅してしまう﹂であろうことを指摘しているように︑国内市場は高い保護関税

に守られている︒関税牧入が連邦財政の才入の第一位にある︒ハリスがオーストラリアの国家の理想の一つとして経      ㈲済的自給をあげているが︑実は工業製品に対する自給を意味する︒      團 このような自給的要求は︑当初﹁文明世界から隔絶しているどいう感情の強い﹂ ︵プライス︶ことにも起因したで

あろうが︑基本的には︑工業の低位な生産性と︑高度の生活水準の維持︵オーストラリアで考えられているデモクラ

シーとは基本的には高い生活水準の維持を意味していることはプライスがしばしば言及している︶からくる高賃金制    ⑩度にある︒保護関税は︑国内物価を高める結果になるが﹁労働者は高い賃金をうることによって︑国内物価を高める      働関税政策に︑より利益を認めて﹂来ている︒それでも第一次大戦後の不況時に関税の障壁は高められたが︑ ﹁弱小工       働業が続々倒産して︑労働問題が尖鋭化した︒﹂

 こうしt工業の関税政策は外国製品に対して︑憂国の市場をせまくし︑ひいては︑その輸出産業︵原始産業Vの外

(3)

国市場を謙譲にし︑てれら原始産業の発展それ自体の上に転嫁されてくる︒オーストラリアの経済的繁栄が︑原始産

業にあるとすれば︑この事実ば重要視しなければならない︒

オ︼ストラリアの必発農が・イギリス本国との貿易に依存するところが大きく・ことにオッタワ会議がこの傾向

を強めた︒そして第二次大戦後はそれが若干低下してきているが︑それでも殆んどイギリス市場にのみ依存している

品目が極めて多い︑︵第一表︶︒しかし羊毛と小麦とに関する限り本国との依存関係は相対的に低く︑ことに第二次大戦

後この傾向が進んでいる︵第二表︶︒このことは羊毛と小麦とは他のそれらの輸出国と︑世界市場の自由競争に堪え

うるのに対して︑その他の品目には︑特定の保護手段或は貿易政策のもとに始めてその輸出市場を見出しうることを       ⑬

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牙ーズトラリーアの農業的土地利用

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示すものである︒﹁もしもオーストラリアの砂糖︑  個バター︑乾果物︑および他の産業が統制のない︑は

げしい競争にさらされ﹁るならば︑これらの産業は         個衰滅するか激減する﹂ことは事実であり︑また第       ㈲二次大戦後もこのことは依然として肯定される︒

 羊毛と小麦とを除いた他の輸出品の市場が殆ん

どイギリスに限られているために︑当然イギリス

二三の輸入がこの国の輸入に大きい比重をもち︵

第三表︶︑アメリカ︑カナダについでこの人口稀

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(4)

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少国がイギリス商品の世界第三位の輸入国である︒

この結果輸入関税は主としてイギリス以外を対象とし︑自らの輸出市場を狭くせざるを得ない︒このようにしてオ

ーストラリヤが自国の産業︵工業のみならず︑保護を要する原始産業1すなわち輸出産業︶を保護する政策は︑この

国で唯一の世界的商品である羊毛と小麦との市場をせまくし︑この両者に負担が転嫁されてくるつ

更にいうならば︑そのような負担に堪えて︑保護政策をよく維持しうる経済的支柱が実は羊毛と小麦1特に羊毛ー

(5)

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であった︒そしてコプランドがこの国の産業を﹁保護産業﹂ ︵生産に補助金︑或は輸出に奨励金をうける︶と﹁保護

  ワロ       

  ユ      

り なき産業﹂に分類しているが︑後者は︑輸出市場で特恵待遇を受けるものを除くと羊毛と小麦のみである︒

 これは広大な牧場や耕地で極めて労働粗放的な経営のもとに生産される羊毛や小麦の輸出によって︑それらの輸入

国の地代と比較して︑オーストラリアの安価な地代の差額が獲得され︑それが国内の他産業に再分配されていること

を意味する︒       ︑       拗 二十世紀に始まるオーストラリア経済の多角的発展といい︑また各産業の均衡的発展というも︑その実体はまさに

  オーストラゾアの農業的土地利用      .      五

(6)

   研 究年報       六

か㌧るものであった︒

 以上の考察に誤りないとすれば︑オーストラリアとは︑一種の計画的な統制経済の国であるとすることが出来る︒

コプランドやハリスが﹁経済的国家主義﹂というのは︑この点をさしていると思われる︒そしてプライスはか\る経

済機構を興味深く表現している︒﹁オーストラリア人は︑政府は仕事をさぜるように按配し︑それに賃金を支給するの

でなく︑賃金を支給するように按配しておいてその支給の口実として仕事を見出すべきであるという理想をもってい         鋤      ﹂      るように田心われるL臨くの相反する型目をもちなが灸   ぴ︒ ︑ヂ︒      り  5六つの自治州が一体となって一九〇一年連邦を成立せしめ 布

た根本の共通の問題は︑実にこ乏あった・そしてオ虫紛       量トラリアではイギリスのかって支配したアジアのように︑ 雨       の過去の栄光の歴史も︑古い伝統にも制約を受けることがな ア       リかったために︑■か\る経済機構の樹立が容易であった︒ ーラ       トそして︑上述の経済機構を支え︑︐そのもとに植民以来一4

七〇年にして︑全く空白の大地から今日の経済発展を遂げ オ

       図しめてきたのが︑実に羊毛と小麦とであった︒       ユ       第 上述してきた事象が︑この国の経済的地域構造の上にい

かに表現されているであろうか︒

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(7)

      二︑オーストラリアにおける目ゲ曹①bの≦Φげ讐︒算圏の形成

 オーストラリアでは︑ ﹁土地を買うより水を買う﹂という言葉があるが︑その等温線はほゴ東西に走っているのに

対して︑等雨線は夏期は北部および東部の海岸地域に︑冬期は東部海岸︑東南地域および西南隅に集中する︵第一図︶︒      圃農村人口が極端に稀薄で︑しかも有色人労働者を持たないために︑この国の農業活動は︑温帯地域に属する東南地域       囲と西南隅に集中している︒北部の熱帯サバナ地域や内陸の乾燥地域の利用は︑全く巨大な放牧場に限られている︒例

えば﹁北部領 之自県①宇目臼潔︒曙の≦9霞貯︑空く︒円do≦昌ω の牧場は約一三︑○○○平方マイルあり︑ベルギー

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 オーストラリアの全面積はアメリカ合衆国およびヨーロッパ︵ヨ元正ッパソ連邦を除く︶のそれにほゴ等しいが︑

耕地面積は前者の鮎︑後者の鮎にすぎず︑国土の全面積の一・七%が耕地として利用されているのみである︒これに        ーフ       噌⊥ノ

対して農業的利用面積は合衆国についで第二位︑全面積の四八%が利用されている︵第四表︶︒この面積は年雨量一〇イ

ンチ︵二五〇粍︶以上の面積の七五%︑一五インチ以上のそれとほぼ等しい︵第五表︶・そしてオーストラリアの経済

空間は北部のサバナ地域を除いては大体年一〇インチ以上の降雨をもつ地域に限られ︑その九七%が牧場であり︑わ

っか三%が耕地として利用されている︒耕地の%は小麦農場である︒しかも耕地の分布は東北海岸に断続する甘干の

耕地を除くと︑全く温帯地方に限られる︒オーストラリアの経済的支柱である毛羊と小麦とは︑か\る土地利用の上

に立っているのである︒

オーストラリアの農業的土地利用

(8)

   研究年報      入

      1 放羊圏の侵入︵一七八八〜一八五〇︶       劉 筆者はかって一九世紀未が︑オーストうリァの発展に大きい時期を劃することを述べたが只今植民以来一九世紀未

に及ぶ時期の︑土地利用の発展について詳論しよう︒

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る︒当時は自由貿易の黄

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(9)

植民の翌年一七八九年に幻︒ω①げ一二︵Q︒旨ロ①賓西方一〇マイル︶で二〇〇ブッシェルの大麦が生産された記録が最初     25のものである︒一八○○年までに︑約五〇〇〇人の移民を迎え︑約七五%が︐ω旨目①団に︑五〇〇人が℃輿B日9︒算聾      囲に︑一〇〇〇人が空︒ゴヨ︒巳︵団ロ薫脚①ω9麸河谷︶に住んで農業を営んだが︑住民の小麦所要量の%を満たしたに     囲すぎなかった︒

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ω旨5①団周辺は内陸に水運の便を提供する河川をもたないので︑

したのちもオーストラリアの農業活動は﹁長い間東海岸と︑

   ナーストラリアの農業酌土地利用       砿.      回す      麦示      小を      の代      で年      まは      ︶字      時数      了︒      終帯      ム地      F麦      ブ小      鉱の      金在      ︵現      年f      60ほ      18は      は分      分部      部の      の線      点斜  一八一三年掛⇔σε①﹈≦房9それに沿うた台地臼9︒げ冨冨目畠 を通過するにはさまれた細長い地域

 九  このω団α昌︒団周辺は本国と著るしく気候条件を異にしており︑小麦の栽培に取って湿潤にすぎた︵三〇インチ以上の降雨をもつ︶ので︑その栽培はむしろ誤り    圏であった︒それでも地形の関係上︑  O舞①を発見

(10)

    研究年報       一〇      29に限定きれざるを得なかった﹂︒しかし一八六〇年以降は内陸地方の発展によってこの地の小麦栽培は全く見られなく

なっている︵第二図︶︒今日の小麦地帯は年間二五インチ以下四月から一〇月までの間に一〇〜二〇インチの雨量を

もつ地域である︵第四図︶︒

 オーストラリアのみならず︑新大陸の移住に伴ってヨーロッパから移された小麦の生産は︑必ずしも容易なもので       60はなかった︒アメリカでは︑ コ七世紀中葉には︑ライ麦︑ソバとは異り︑小麦は不成功な作物であった﹂し︑また       剛カナダではその気候条件から︑一九世紀末に入ったポーランド種によってようやく小麦産業が成立した︒

 比較的小麦の生産に成功していたのは︑むしろタスマニアであった︒タスマニアは一八三〇年代にはニユウ・サウ      舩ス︒ウエールズより開拓が進み︑シドニーに小麦を送り︑﹁一八五〇年では︑この植民地第一の小麦の産地であった︒

今日オーストラリアの全耕地の二%をもつに過ぎないこの州が︑当時は実に三四%の耕地をもっていた︒一八三六年      圃誤幽巴鋤筏Φ に基礎をおいた南オーストラリアでは一八四三年号小麦のω跨凶暑興が発明されている︒

地中海性気候をもつ南オーストラリアは︑湿潤な東部海岸より小麦の栽培にはるかにめぐまれて︑ゴールドラユシュ      圃以降急速に発達し︑一八六六年には早くもイギリスに小麦を輸出するに至る︒一八六二〜一八八か年の期間小麦耕地

も小麦の生産も︑他の州の総計よりも超えていた︒

 一方牧羊業は︑ニュウ・サウス︒ウエールズでは農業の発展を阻害するものとして﹁その急速な発展が反対され﹂︑      圃牧場はω旨ロ①緒周辺の一九州Ooき江︒ωに制限されていた︒しかし一八二五年に三〇万ポンド投資して円p︒ヨ≦Ω︒嫡暮

周辺に羊が放牧されて以降急速に内陸の乾燥地方に牧場が進出した︒

(11)

 これはこの国の自然条件にもよるが︑ヨーロッパ特にイギリスの産業革命の進展によって羊毛の市場が拡大の一途

をたどっていたこと︑羊毛が運賃負担力の大きい製品であって︑輸出小麦のように交通機関の制約をうげずに牧場が

内陸に浸透し得たこと一輸出小麦はトラックの未発達の時代には鉄道から一八〜二〇マイル以内が限界とされてい

       ワ 

 ヨリ       りたーー︑勇毛書以外には労働力を殆んば要せず︑勢毛労働者は移動労働力で農村の定住者である必要のないこと︑乾       倒燥と賞誉のために大牧場経営が必要であること︑政治的には︑ ﹁立法者が主として商人と牧場主ωρ§感興であった﹂      69ために︑大牧場を取得するに有利な土地制度が立法されたことなどが理由としてあげられるが︑要するに大牧場経営

による牧羊業の発達はオーストラリアの地理の産物なのである︒

 何れにせよ︑オーストラリアにはイギリスめ地主貴族﹀二ω8︒雷︒鴇に対してωρ轟二〇自oo℃という言葉が生れ︑

その大牧場をω丁丁〇口とよび︑時に数十平方マイルに及んだ︒既に一八四〇年にはニュー︒サウス︒ウエールズに       ㈹約七〇〇のω三江︒昌があり︑そこに約一︑二〇万頭の羊が飼育されていた︒そして一八五〇年には︑この州︵今日の      動      ・      ゑ      ロビクトリア州をふくめて︶は粗放な放牧経営による一大牧羊場と化し︵第三図︶︑ ﹁生産品の%は羊毛︑輸出品の八○

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%までが牧羊業の生産物であった﹂︒そのために﹁小耕地の発達さえ犠牲になり﹂ ﹁一八三三年に人口一人当り約一工      幽ーカーの耕地が︑一八五一年号は%エーカーにまで減少し﹂︑ 一八六〇年でさえも﹁ニュウ・サウス︒ウエールズは

一〇年前の一・七万ポンドの輸入に対して五八万ポンド︵価格︶の小麦を︑ビクトリアはパンの%は輸入しなければ

ならなかった隔      幽 他に団︒げΦ馨︾創①冨箆①および℃①﹃暮を中心とする孤立した牧羊地域が形成されていた︵第三図︶︒

   オーストラリアの農業的土地利用       一一

(12)

   研究年報       一二

 こうしたオーストラリアの牧場化が︑その人口を停滞せしめた最大の原因であり︑しかも例えば一八三六年のニュ      ㈹ウ・サウス・ウエールズの人口七︒九万週中︑男女の比率は実に二・六対一であった︒

 以上のことを︑チユウネン理論からいうと︑ヨーロッパの農業革命の進展につれて︑その地代が高騰し︑最粗放圏       ㈹をなす放牧圏が新大陸の安価な地代を求めて立地した時期であったといえよう︒一八三一年に今まで土地が無料で交       働

  

@ ㎡ 璽  付されていたのが修正さ織更に≦鋤屏①津①一αの理論でこの

  

     18@ @刀  =訟鋤 に価格が山局められた蔑逆襲ロ︒パの地代とはもちろん比較に

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      ㌔  篇ムはまつビクト三州緯り︑そしてこの州に最大な影響を       40あ︒ボ.蔚︑ 彦ヴ. ︑       18の与えるのであるが︑他の州においても︑時機に異にして波動       は地       通低的に起り︑やはりそれぞれの州の経済発展の大きい刺戟とな

      っている︒金鉱ブームはこの時に白人ばかりでなく有色人種  ㈱      ω       に      ︵特に中国人︶の移民を多く迎えたが︑この植民地の居住者

 ニやくあぽのべの

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(13)

      61をも参加せしめ︑.例えば﹁ビクトリアでは全人口の海がこれに参加し﹂︑ ﹁彼等が主として農業者と勇毛労働者で

   ユ       リゐ    に      にリ      コ

あった﹂ので︑ ﹁羊毛勇渡期に人なく︑小麦牧獲期に一人の農夫もなき﹂状況であったとジョーズは述べている︒

 金鉱ブームが農業に一時的混乱を与え︑ニュウ・サウス・ウエールズでは一八五〇年から五三年に一九八︑○○0      63エーカーの耕地が六六︑○○○エーカーに減少し︑全オーストラリアでは四九一︑○○○エーカーから四五八︑○○

○エーカーに減少した︒しかし人口の急増に伴って一八五八年には一〇〇万エーカーを突破し︑なかんづくビクトリ

アの耕地は飛躍的に増大した︒人口も一八六〇年に一〇〇万を超え︑特にビクトリアに多く︑一八五二年のみで九・      回四万人の移民があり︑それは一八五一年のそれの七倍に相当し︑ブーム開始後数年に母型ニュウ・サウス・ウエール

ズを超えた︵但し一八九〇年には後者が再び凌駕する︶︒ブーム終了後︑ビクトリアの定住者が最も多く︑しかも︑       ㈲小企業の工業に従事して保護政策を要求し︑自由貿易を主張する他の諸州と対立した︒

 金鉱ブームは牧畜業に最大の影響を与えた︒人口の増加によって牛肉の価格が一八五二年から六年間に二・五倍に   66上昇し︑飼牛頭数の増大とともに︑南オーストラリアやクインズランドに新しい牧場を発展せしめた︒特に今はみら

れる熱帯クインズランドの牧場開発はこの時に基礎がおかれ︑ 毛9︒霞鋤σqρ国浜玉︒巴9σqびおよび顧︒蒔半島に肉牛の放      観牧が始まったのもこの時期である︒

       圏 一方交通機関の大型化によって輸送条件が改善され︑ブームの一〇年間に羊毛の価格も倍加し︑労働力の不足は牧

場に網を設けて解決された︒農業については︑さきにもふれたように︑耕地の増大はあったが︑尚自給が不可能であ

   オτストラリアの農業的土地利用       .      一三

(14)

   研究年報       一四

      ⑲って︑﹁結果において︑金鉱ブームは︑この新しい植民地の牧畜業の力を再確認し﹂︑﹁歴史と地理とはなお︑ωρ§→       60富Hの王座をより上昇せしめた﹂︒

      皿 ≦Φゴ姦︒匿圏の完成と︑そこに浸透した小麦地帯︵一八六一〜一八九〇︶

 金鉱ブームの次に来るものは︑牧場と耕地との立地の競合であった︒増大した人口の農村定住をはかるために︑土

地制度に大きい改革が行われた︒金鉱ブームの終った一八六一年夏前代の土地売却時代からアメリカの西部で行われ      ㈹た目︒≦口ω匡喝制が移入され︑測量前の自由選択穿①①ω①一①o江︒昌び①h自ωdH<Φ団の制度が取られた︒しかし少くとも       62ニュウ︒サウス・ウエールズではこの制度は﹁名儀上の居住者を増加しただけで︑誠実な農民の移住を保護し得ず﹂      ヨ目的は達せられでいない︒それは羊毛のヨーロッパ市場が拡大の一途をたどり︑一八五〇年代からブームを続けてき

たことと︑これと反対に一八六〇年代に︑ニュウ︒サウス・ウエールズが旱魅と洪水がつづき︑その頃農民の間には       63﹁自分達の努力の果実を得られるのは偶然のチャンスでしかない﹂という思想が強くなっていたことにも原困ずる︒

ニュウ・サウス・ウエールズの地理は依然として牧羊業に幸いした︒例えば空く①目ぎ鋤地方の移住者は︑全家族の自

由撰択地︵一人当り三二〇エーカー︶を合して三︑○○○エーカーに放牧した︒これら撰択移住者は概して狭小な牧       圃場に過度の放牧を行い︑多く小麦の乾草二葉によって飼育を行った︒

 一八八三年の公式の記録によると︑この新しい土地制度の施行されて以来︑一三万の撰択者に対して王領地が一︑

五四二万エーカー譲渡されたが︵これはそれ以前すべての方法によって譲渡された六三五号エーカーの二倍を超える︶

耕地の増加は一八六〇〜一八八○年間に三三万エーカーにすぎない︒そして一三万の撰択者のうち︑実際に植民した

(15)

の竺λ万前讐うち肇に従事したものはその更にその蓼あっ㌦

 一八六一〜六二年のニユウ・サウス・ウエールズの耕地二五・四万エーカーが一〇年後に約五〇%増加したが︑飼

羊頭数は五六一万頭から一︑六二八万頭約三倍にまで増加し︑しかも九六のωρ舞ヰ①﹃が八○○万エーカーの土地を

私有していた︒

 ニユウ・サウス・ウエールズの農業政策は明かに失敗であった︒また﹁本国からの私的投資は例えば一八七六〜八

○年の間に約一︑一六〇万ポンドであったが︑そのうち八○○万ポンドは︑ニユウ・サウス・ウエールズの牧羊業に

投資されている﹂︒従って地方居住者の生活の基本は耕地ではなく﹁草﹂であり︑家畜の増加に伴って従来の放牧場の

塩分の多い野草から次第に牧草が栽培されるようになって来︑オーストラリアの牧畜業の性格が変ってきた︒このこ

とは今日も同様であって︑アメリカの畜産が︑主として穀物に依存しているのと著るしく対面的である︒

 オーストラリアでは︑小麦についで大きい栽培面積を占める乾草は大部分小麦と大麦であるが︑これらは穀物の好

況期には穀物として商品化され︑然らざる時は穀物としてでなく牧草として家畜の自給飼糧となる︒

 金鉱ブームの結果︑最大の人口増加を示したビクトリア︵一八五〇〜六〇年間に七・五万人から五四万人︶では農      ㈱場と牧場との立地の競合が特にはげしく︑ニュウ︒サウス・ウエールズで行われたじ︒Φ暁︒目ω葺く①鴇が﹀津巽ω軽く︒鴇

に改革︵一八六五年︶きれ  これは他の州にも波及した一て︑一八六一〜八○年間に四一万エーカーの耕地が一       圃五五万エーカーにまで増加した︒しかし︑これは新しい条件つきの撰択地からの増加であって︑地力の消耗が甚だし

く耕作一休閑をくりかえし︑消耗が甚しくなると︑耕地が放棄されて牧場化し︑さながら原始的な移動農の姿を取り︑

   オーストラリアの農業的土地利用       一五

(16)

   研究年報       ︑       一六       69グラースのいうアメリカ初期の自然農業29︒け自門︾σqユ︒三9﹃︒であった︒一八八○年の耕地一五〇万エーカーが一

〇年後︑二〇〇万エーカーに増加したが︑小麦農場は=○万エーカーに停滞をつゴけた︒       醐     ㈲ 結言ースあうリアはその地中海性の気候条件と相まって最も農業政策に成功した州で︑金鉱ブーム時の小麦需要の

拡大に適応し︑また一八六六年以降は波動的にではあるがイギリスに小麦輸出を行っている︒一八六五年置は︑いわ        ㈲ゆる﹁O︒旨興の線﹂がひかれ︑それ以南の小麦栽培は安全な企業であったし︑また竃霞工臨∪錠類昌αq盆地および︑      囮竃瓢誕鋤団河口の開拓も進んだ︒

 脱穀と品別とが同一作業で可能な団碧く①曾醇︵一八八四年ビクトリアで発明︶が利用されて︑労働の生産性も高か

った︒一八六二年から八○年の間︑小麦耕地とその牧獲は︑他のすべての州の合計に比敵し︑人口一人当りの耕地は

ビクトリアの一工ーカー︑ニュ︒サウス︒ウエールズの%エーカーに比して︑実に七・五エ︑皇弟ーに及んだ︒ ﹁一八

六一年の ≦巴一9︒唇︒と蜜oo葺国で豊富な銅鉱が発明された後も︑農産物は鉱業と牧畜生産物の合計を超えてい  ㈲た﹂︒

 しかし︑この州も耕地の地力の消耗が心々しく︑一八六一〜六五年の一工ーカー当り︑一一ブッシェルの生産が一

八八一年〜八五年には五︒四ブッシェル︑一八九六〜一九〇〇年には四︒一ブッシェルにまで低下し︑全オーストラ

リアは経営の方式の転換期に直面した︒一八五〇年にはオーストラリア第一の小麦の産地であっだタスマニアは︑金

鉱ブーム後の康正の精力的な発展におされ︑その小麦市場を失って沈滞をつづけた︒一八七〇年代の錫︑銀︑銅およ

び金の各鉱山を発見して以後移民が増加し︑西北部にジャガイモ︑U醇ミ①旨♂国ロ8<ΩΩ一一︒矯にリンゴが栽培されて︑

(17)

       σ聾心島に市場を得︑小麦農業には湿潤にすぎたこの地域は︑小麦の生産を放棄して︑農業上特殊な地位を獲得した︒

 クインズランドが︑牛肉価格の騰貴によって放牧場の開拓を進めたことはさきにふれたが︑農業上膳に注目される

ことは︑一八六二年のΩ①<Φ冨巳近くで甘薦の栽培が始められたことである︒これは奴隷の廃止によって︑西イン

ド諸島の製糖業の一時的衰退に刺戟されたものであるが︑その後政府の特殊な保護をうけて発展し︑今日熱帯オース       ㈲トラリアの農業と東部海岸に点在するクインズランドの甘蕪栽培とは同意語なのである︒一八七六年には二七︑○○

○人の白人が植民し︑またカナカ人が労働力として移された︒移住禁止後の一八九七年でも四六︑○○○人が甘藷の       α6℃冨δ富二8に働いていた︒

 この大陸で最も隔絶した位置にある西オーストラリアは︑植民︵一八二八年︶以来︑その開発は遅々として進まな

かった︒一八八三年の主日げ①匡①℃に始まる金鉱の発見から開発が進み︑特に一八八五年の鉄道がU9︒六戸σqの急傾

面を超えて肥沃な凄く8平野の囑︒美に到達して︑小麦農業が地中海性の冬の降雨に助けられて︑急速に進められ

た︵第四図︶︒しかしやはり羊毛がこの州第一の生産物であった︒可航河川を黒いでいるオーストラリアでは︑この

地域に限らず︑他の州も︑農場の内陸進出は常に鉄道の制約をうけ︑プライスは﹁鉄道がもっと巧妙に敷設されてい      ㈲たら︑もっとはやく︑内陸に向って発展していたであろう﹂としている︒オーストラリアにおいて農場が放牧地域に

進出していった場合に︑アメリカで起ったように︑農場の進出に伴って﹁縮羊が西部に移動し︑それにつれて︑放牧      ㈹場も移動する﹂ような現象は︑東南の海岸地域を除いては起らず︑小麦農場は牧場内部に浸透するような形で拡大し

ていった︵第二図参照︶︒

   オーストラリアの農業的土地利用       一七

(18)

研究年報

ス地 ト帯 うの リ拡 ヤ大

﹇三下小西る

むしろ強化され︑それぞれ七九%︑三四%である︒        ㈲ を兼営し︑その飼羊頭数は四州の三〇%に及んでいる︵第七表︶ 戦後この傾向は

 約言するとオーストラリアでは︑東海岸の狭長な多雨地帯を除けば︑殆んどがア

メリカでいう﹁西部﹂なのである︒この点について後にさらにふれるが︑その原因

として︑乾燥地域の比率が︑アメリカのそれよりはるかに大きいこと︑比較的温暖

な冬をもって︑小麦一牧羊の兼営にアメリカの小麦地域よりめぐまれていること︑

早くから牧場が乾燥地帯から湿潤地帯に互って分布し︑しかも牧場に比して小麦耕

地がはるかに小さいことなどがあげられるが︑このことは要するにオーストラーーア

の風土の自己表現なのである︒        一八 しかも︑殆んどすべて.の農場は牧羊を兼営していた︒従って牧場の乾燥地域への発展は︑無制限な牧場の拡大運動であり︑全オーストラリアの牧場化という形で進み︵第三図参照︶︑農場と牧場との地域的区分化はみられなかった︵第二︑三︑四︑五および六図を併せて参照︶︒ 一九三五〜三六年の数字であるが︑小麦栽培の主要四州︵ニュウ・サウス・ウエールズ︑ビクトリア︑南オーストラリア︑西オーストラリア︶の小麦農場の七六%が︑牧羊

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(19)

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オーストラリアの農業的土地利用  オーストラリア南部に主として分布する小麦耕地は冬雨地域であって︑比較的乾燥地域にまで進出が可能であり︑現在南部の主要小麦地帯では冬期等雨線九インチ線が乾燥の限界をなしている︵第五図︶︒そしてこ\で      圃は大体一三インチ以下では休閑と鋤耕による乾燥農法が卓越してくる︒ 一方︑牧羊地域は温帯地方の一五〜三〇インチ雨量地域を中心にして︑

一八九〇年には今日の分

布を完成した︒

 留意すべきことは︑羊

は小麦よりむしろ湿潤な

条件を好適とするが︑乾

燥地および湿潤地をふく

めて︑はるかに牧羊場の

分布が大きく︑小麦地域

はそのうちの繋ぐ小部分

にすぎなかった︒羊の乾

燥地帯への進出は︑乙鳥・ 布︶分すの示羊をる数け頭おりに当アルリイラマト方ス一一はオ字 数回︵

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(20)

   研究年報     ︑      二〇

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①ω冨5の水に負うところが大きい︒そして乾燥地域に進むほど︑飼羊頭数が減少し︵第五図︶︑牧場の規模が大きくな

る︒ことにニュウ︒サウス︒ウエールズは歴史的な条件も加わって︑最大の牧場規模をもち︑一〇庁頭以上の飼羊牧      圃場が七三に及んだ︒

 一八九〇年には全オーストラリアの飼羊頭数は一億頭に達した︒しかし一八八九年からの世界恐慌の影響で︑羊毛

       の

       

価格は一八九三年の四年間に五〇%低下し︑ω.ジエボンが﹁われわれ︵イギリス︶の牧羊場である﹂と述べた︵一八八六

       85       86年︶オーストラリアの経済はまさに破綻に恥しだ︒この年を境にして︑﹁全資産をあげて一つ一の産業にのみ投資する﹂

飼︵ 羊図 お内 よの び数 飼字 牛は 返年 数代 とを の示 相す み  

牛︒つ8五 羊.午

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万頭 意義をもつ︒いわば︑オーストラリアの歴史と地理の転換であった︒輸出 1 は封鎖的な﹁経済的自給﹂をその理想とするに至った点に︑極めて重要な       囲 ら︑強力な経済の統制によって各産業の﹁均衡的発展﹂を企図し︑ひいて        ⑳ の工業の発展を意味するのであるが︑従来のσqo邑ω受︒穿互①国ωobo嵩︒矯か        劒  経済の多角的発展とは︑具体的には農業︑酪農業︑更には第一次大戦後 は一九世智未にチュウネンの放牧圏としての発展の頂点に達する︵第六図︶︒        ㈱ 動は自然条件と世界経済の動向に左右されるようになる︒オーストラリア       ㈱ この年以降︑人口の増加と飼羊頭数の間に相関関係がなくなり︑後者の変 危険からのがれるために︑オーストラリアは多角的溌展期に入る︒そして

補助金︑生産奨励金︑保護貿易︑基準賃金制度等の経済政策や︑臼濠主義

(21)

更には各独立した六つの自治州を一丸としたオーストラリア連邦の成立等は︑そのための一連の施策なのであった︑

 これらのことは︑自由貿易期から帝国主義時代に入った当時の世界経済の動向を背景にもっていたことはもちろん

であるが︑か㌧るオーストラリアの施策を可能にした経済的支柱が実に羊毛と更に小麦︵前者と比較して重要性ば劣

るが︶なのである︒そして︑新しい経済政策から︑農業や酪農業が発展し︑また第二次大戦後︑工業の生産額が羊毛

生産額の五倍を超えても︑依然してオーストラリアはチュウネン圏の最外圏をなす放牧圏である︒逸見はこの人口稀      團小国の工業化政策は︑いよいよ輸出を羊毛偏重にする傾向にあることを指摘している︒

 二〇世紀の多角的発展を中心とする経済的動向と︑その経済地理的意義については︑更に稿を改めて詳論しなけれ    ㈱ばならない︒

註ω

属8合︒︒屏︒h匪①O︒日8︒導ゴ≦①9夢︒h>器真旦冨 ︵以下鴫Φ碧σ︒o屏と称する︶

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(22)

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いは少くも﹁均衡経⁝済﹂の熱望であり︑

<・9︼W曼8前出訳本︵第三巻︶

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く.﹄.しd量8前出訳本二〇五頁

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       ︵おト︒O︶℃日本訳一松山武近代民主政治︵岩波文庫︶︑第三巻一九八頁

      ﹁国民の熱望或は理想とは︑白濠主義︑高度の生活水準︑およびより大なる自給︑ある

       理想である﹂︒

       一九八頁

オーストラリアにおける基準賃金制度iその経済地理的意義一︵人丈地理四の六︶にての問題について詳論した︒

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       ︵昭和一七年︶七八頁

クインズランドの海岸地域の甘薦のプランテーションの白人労働力による経営は︑熱帯地方における白人人口の定住の可能性

オーストラリアの農業的土地利用      二三

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︵5︶

︵6︶ (( 87 )) ︵9︶ ︵憩︶ ︵U︶ ︵犯︶ ︵B︶ ︵磁︶ ︵蛎︶ ︵驚︶ ω霊富。 。国嵩亀窪8︵おo

Title 集団的土地利用と農業生産組織の展開( はしがき ) Author(s) 小林, 月子

2.ThechangesinPrairiesaresummarizedasfollows・AlthoughtheagricultumalareasinManitobawere