フライベルクのディートリヒの能動知性論九九 はじめに 本稿では︑フライベルクのディートリヒ︵
Dietrich von Freiberg,
c.1240-c.13
︶1
︵
20
︶の能動知性に関する諸論を検討することで︑彼の知性認識理解の一端を明らかにすることを目的とする︒ディートリヒ
にとって知性論は︑彼の神学・哲学体系の核心をなすテーマであり︑
彼の二大主著である﹃至福直観について﹄︵︶
や
﹃知性と知解可能なものについて﹄
︵
︶において体系的に考察されているほか︑多くの著作において
考察対象となっている︒なぜディートリヒが知性論を重視したのか︑
その時代的背景をここで導入として簡潔に述べておきたい︒
アリストテレス哲学のキリスト教世界への受容に大きな役割を果 たしたアルベルトゥス・マグヌス︵
Albertus Magnus, c.1200-1280
︶は︑哲学の自律性を主張して哲学と神学とを方法論的に明確に区別 し︑人間は自然本性によって至福であるという説を唱えた人物である︒彼は自らの﹃魂論注解﹄においてアヴェロエスに対し否定的な態度は取らず︑むしろ好意的解釈︵
Sympathieerklärung
︶を行った︒こうしたアルベルトゥスの態度は︑ブラバンのシゲルスやダキアの
ボエティウスなどを筆頭とするラテン・アヴェロエス主義者の台頭
を許すことになり
︑最終的にパリ司教エティエンヌ
・タンピエ
︵
Étienne Tempier
︶によって行われたラテン・アヴェロエス主義に対する非難宣言︵一二七〇年︶と禁令︵一二七七年︶とを引き起
こすところにまで至る
︶2
︵︒
このような時代背景の下において
︑アヴェロエスやラテン
・ア
ヴェロエス主義者の説を徹底的に批判し
︶3
︵︑哲学が神学に従属すると
いう形での哲学と神学の一致を語ったのが︑アルベルトゥスの弟子
でもあったトマス・アクィナス︵
c.1225-1274
︶である︒トマスの批判の矛先は主に彼らの知性論に対して向けられている︒知性とはア
ヴェロエスやその信奉者が説くような分離したものでも万人に単一
フライベルクのディートリヒの能動知性論
西 村 雄 太
一〇〇 なものでも決してなく︑魂の能力︵
potentia animae
︶であり︑形相として身体に結び付けられたものであるとトマスは主張する
︶4
︵︒ト
マスによるならば︑人間の知性は現世においては身体と結び付けら
れている以上︑知性認識は諸々の感覚から得られた情報から普遍性
を抽象するという形でしか生じ得ないため︑感覚の対象とならない
神は信仰の対象としかならず︑我々は自然本性的に︑すなわち神の
恩寵なしに至福であることはない︒こうしてトマスはアリストテレ
スを直接的に批判するのではなく︑アヴェロエス的なアリストテレ
ス解釈を批判することで︑キリスト教教会の信仰に沿う形で︑アリ
ストテレス哲学を神学の内に組み込むことに成功するのである︒
このようなトマスの解決に納得しない数少ない人々の内の一人が
ディートリヒであった
︶5
︵︒しかしながら︑ドミニコ会の一神学者とし
て︑哲学の自律性を主張するアルベルトゥスの方法論的態度にその
まま倣うことは︑一二七七年の大規模な禁令の後においては殆ど不
可能であった
︶6
︵︒このような状況下において︑ディートリヒが選んだ
のが︑アヴェロエスに修正を加えながら︑トマスの人間知性の矮小
化に対して断固として反対することで︑知性の位置づけと神の像に
倣って︵
ad imaginem dei
︶造られた人間の尊厳とを回復するという道であり︑ここからトマス説に対する客観的ながらも痛烈な批判
も生じることになるのである
︶7
︵︒ディートリヒが知性論を自らの主要
なテーマとした背景にはおおよそ以上のような事情があったのであ
る︒ 以下では︑ディートリヒが如何なる知性理解に基づいて人間の高貴さを語ったのかを︑彼の能動知性解釈を重点的に検討することによって確認することにしたい︒
1.能動知性と可能知性︑および両者の関係
ディートリヒはアリストテレス解釈の伝統に基づいて︑人間知性 を能動知性
intellectus agens
︵︶と可能知性
︵
intellectus possibi-
lis
︶とに区別する︒ディートリヒの論述に即して︑このことを確認することにしよう︒
ディートリヒは︑知性が二種類存在することを考察しなければな
らないとした後︑一方の知性について︑それが本質によって現実活
動状態にある知性︵
intellectus per essentiam in actu
︶であり︑そ うした知性には︑哲学者らが知性体
︵
intelligentia
︶と呼んだ知性
実体︵
intellectualis s
︶8
︵
ubstantia
︶が属すると述べる︶9
︵︒さらにこの種
の知性についてディートリヒは次のように続けている︒
この種類の知性に我々の能動知性が関わっている︒能動知性
は分離実体と類似性があり︑そうした分離実体の様態に即して︑
決して受動的可能状態にはない︒そしてそれは如何なる付帯的
なものの下にも置かれておらず︑また置かれえない実体であり︑
そのうちにあるものはすべて純粋にその実体である
︶10
︵︒
フライベルクのディートリヒの能動知性論一〇一 ここから︑我々の能動知性は実体であり︑受動的可能状態にはないという点で︑分離実体︑すなわち知性体と同質性を持つということが理解される︒対して︑もう一方の知性について︑すなわち可能知性については︑次のように説明される︒
別の類の知性も存在する︒それらの知性はその類によって受
動的可能状態において存在することとなるどころか︑それらが
現実活動状態にあるときには︑まさしく受動そのものであるこ
とになるのである︒これはアリストテレスが﹁知性認識とはあ
る種の受動である﹂と言っていることに基づいている︒しかし
知性認識以前には︑それは欠如のもとに純粋な可能性になって
おり︑何らかの積極的本性を持っていないのである
︶11
︵︒
この種の知性は︑受動的可能状態にあり︑また︑純粋な可能性であっ
て何らかの積極的本性を持っていないと言われているように︑可能
知性は︑知性認識を受動することができる状態にあるということを
意味するにすぎず︑無ではないにせよ︑何らかの積極的な本性を意
味しないものである︒
この二種の知性の関係としては︑﹁能動知性自身が︑可能知性に
おける知解可能な形相のそれ自身による作出的根源︵
activum prin-
cipium
︶であり︑この知解可能な形相が可能知性の全本質なのであ る︶12
︵﹂と理解されている︒知解可能な形相は可能知性の全本質である
と言われるように︑可能知性という魂の能力があって︑それの認識
像としての知解可能な形相︵形象︶が別にあるというのではない︒
ディートリヒはこのことを次のように説明する︒
ところで何かを知性的な仕方で認識する霊的実体の認識に関
して︑知解可能な形相のこの無媒介的基体が霊的実体それ自体
ないしその実体の何らかの部分であることはできない││これ
らのものがいわば或る種の霊的器官のようなものとしてそのよ
うな形相を有するなどと考えてである││︒というのもその時
にはすでにそのような知解可能な形相は分離された何かでも︑
非混合的な何かでもなくなっており︑むしろそのような実体の
現実活動となってしまっているだろうからである
︶13
︵︒
可能知性は如何なる積極的な本性をも有さない純然たる可能性に過
ぎない︒それは決して霊的器官ではない︒仮に可能知性が霊的器官
であるとして︑知解可能な形相の基体がそうした霊的器官を持つと
ころの霊的実体︑すなわち魂や天使であるとするなら︑知解可能な
形相は霊的実体の現実活動を引き起こすことになってしまうであろ
う︒そうではなく︑知解可能な形相は一種の分離された形相として︑
純然たる可能状態にある可能知性を形成して現実活動状態にもたら
すものである︒したがって︑知解可能な形相は形相であるといって
一〇二
も︑自然物において見受けられるような意味での形相なのではない︒
﹁実際︑質料と形相とからは質料でも形相でもない第三の或るもの
が生じるが︑知解可能な形象は知性となるのである
︶14
︵﹂︒つまり︑知
解可能な形相と現実活動状態にある可能知性とは︑概念的には区別
されるが︑実在的には区別されないものである︒こうした知解可能
な形相を生み出すのが能動知性なのである︒したがって︑人間が知
性認識を行うというよりも︑人間に知性認識が生じるというほうが
適切であろう︒それは以下の引用箇所で端的に示されている︒
それゆえ可能的な知性的能力について言わねばならないのは︑
人 間 が 知 解 可 能 な 形 象 の 純 粋 な 受 容 適 性
︵
habilitas recep-
tiva
︶に即して︑知解する能力であると言われ︑また実際にそうであるのだが︑しかし人間の実体においてもその各々の様相
においても無媒介的にではなく︑思考力︵
vis cogitativa
︶に関する限りでの自己の表象力においてである︒その際︑思考力と
いうのは︑最上の力であり他の動物と比べてもただ人間のみに
存するものであり︑この思考力に即して︑身体の内に形相とし
て存在可能な形相の究極で至高の限度に基づいて表象像︵
phan-
tasma
︶が形成されるのである︒それゆえ︑そのような形相は知解可能な形相の無媒介的基体であることになり︑知解可能な
形相はそこでは或る種の高次の根源である能動者によって︑す
なわち能動知性によって存するのである
︶15
︵︒ 思考力によって身体に存在可能な最高段階の形相である表象像が形成され︑それを無媒介的基体として人間に知解可能な形相が生じることが可能となる︒この思考力は動物では人間のみが有しているものである︒それは︑霊的な力︵
vis s
︶16
︵
piritualis
︶であり︑事物を個体にする原理を差し置いて認識を行うことで︑事物をその幻像︵
ido-
lon
︶から︑すなわち想像力︵imaginativa
︶がそのもとで認識を行 うところの付帯性から引き剥がして認識する一種の弁別力︵
vis
distinctiva
︶である︶17
︵︒身体を有するものとしての人間が知解すると
言われるのは︑人間がこの思考力によって自己の内に知性認識を生
じさせることが可能なためなのである︒この表象像なしには︑つま
り思考力を用いた弁別的プロセスを踏むことなしには︑人間は決し
て知解することができない︒可能知性による知性認識は確かに人間
の魂の内で起こることであるが︑そうした知性認識はそれ自体とし
ては魂から分離され非混合的でなければならないのであり︑魂を根
源として引き起こされるものではなく︑より高次のものによって︑
すなわち本質による知性である能動知性によって無媒介的に引き起
こされるものなのである
︶18
︵︒
ところで︑先に言われていたように︑能動知性についてそれが如
何なる付帯的なものの下にも置かれえない実体であるということは︑
それが可能状態から現実活動状態への移行や︑実体的なものにせよ
付帯的なものにせよ︑何らかの状態変化の下に服しておらず︑自己
フライベルクのディートリヒの能動知性論一〇三 の実体の様態に常に固定されているということを意味する
︶19
︵︒ディー
トリヒは︑こうした知性をアウグスティヌスの語る﹁精神の秘所﹂
︵
abditum mentis
︶と結び付けて次のように説明する︒だが︑精神の秘所が知解するということは明らかである︒と
いうのも︑それは本質による知性であり︑その本質とは知性性
︵
intellectualitas
︶だからである︒それが知性であると言われるのは︑我々の内に知解されたものを結果することにおいていわ
ばその結果によって命名されることのみによってではなく︑自
らの本質の固有の様態と何性を有する現実活動とから形相的か
つ本質的に述語付けられることによってである︒実際︑このこ
とをあらゆる外面的本性からの分離・非混合という固有性と様
態とが含意するのである︒というのも︑そのように部分やあら
ゆる外的本性から分離され︑それらと混合されていない存在者
は︑自らの本質の内面で輝きながら知性的な仕方で必然的に現
存するからである
︶20
︵︒
アウグスティヌスが﹁精神の秘所﹂と言い︑過去の哲学者らが﹁能
動知性﹂と呼んだ知性は知性性という自己の本質によって知性的な
仕方で必然的に現存している知性である︒ここでは︑能動知性を︑
自らは知解せず︑ただ可能知性に知解可能な形象を結果することで
我々に知解を生じさせる魂の能力であるとしたトマスに対する批判 を読み取ることも可能である
︶21
︵︒或るものが﹁知性﹂と呼ばれるため
の条件は︑それが知解物を結果するということにあるのではなく︑
それが自らの本質である知性性によって知解しているということに
あらねばならない︒このような知性は︑知性性という本質を持つ限
りで必然的に現存し︑常に知解するものである
︶22
︵︒
2.魂の本質的原因としての能動知性
上で確認したように︑ディートリヒによれば︑能動知性は如何な
る付帯的なものの下にも置かれえない実体である︒しかし実体であ
る以上︑別の実体である人間や人間の魂と如何にして関係するのか
が問題となる︒それを人間から完全に分離されたものであると捉え
ることはできない︒そのような説はキリスト教教会にアヴェロエス
的であるとの誤解を与えかねないものである︒ディートリヒは︑能
動知性が︑単に知解可能な形象を我々の内に生み出すだけのもので
はなく︑魂の生の根源にもなっていると理解することでこの問題を
解決しようとする︒
明白なことだが
︑生物は自らのうちに自らの動作の根源を
持っているという点で無生物と異なっている︒そうでなければ︑
魂のあるものが魂のないものよりもより生命を有していると言
えないことになるだろう︒ところで理性的魂の最高の生は知性
一〇四
に基づいて知性的に生きることである︒したがって︑理性的魂
は現下の生の根源を自らの内に有していなければならないので
あるが︑この根源こそ能動知性に他ならず︑この能動知性が理
性的魂にとって内面的なもの︵
intraneum
︶であることが不可欠なのである︒理性的魂が可能知性の知性的活動に基づいて生
きていると言われる必要があるのだからには
︶23
︵︒
人間の理性的魂が知性的な活動に基づいて生きることによって生き
ていると言われるのであるなら︑この知性的な活動は外から引き起
こされたものではなく︑魂の内面的根源から引き起こされたもので
なければならない︒この根源が能動知性なのである︒しかし如何な
る仕方で内面的なものであるかが問題である︒ディートリヒは次の
ように説明する︒
ここで能動知性の内面性︵
intraneitas
︶について論じられていることは︑その内面性が能動知性にその本質によって適合す
るということなのである︒したがって別の側から︑すなわちそ
の内に知性的生の内的根源としての能動知性が措定される魂の
側からは本質に即してその内面性が認められるであろう︒しか
しそのような仕方で互いに内面的なもの︑すなわち一方が他方
の内に本質的な仕方で存在しているものは本質によって同一の
ものである︒したがって能動知性は魂の本質と本質的に同一の ものである
︶24
︵︒
能動知性が魂にとって内面的であるのは︑すなわち能動知性が魂の
内面に存在するのは︑能動知性の本質によっているのだから︑それ
が根源となっている魂の側もその本質に即して能動知性の内面に存
在することになる︒それゆえ能動知性は魂の本質と本質的に同一の
ものであると言われるのである︒しかし︑これは能動知性の本質と
魂の本質とが同名同義的に同一であることを意味するわけではなく︑
能動知性が自己の本質を魂から分有しているのでもない
︶25
︵︒
そのようにして︑能動知性は自らの内に魂の残りの実体全体 をちからにおいて
︵
virtute
︶含んでおり
︑ このちからにおい
て能動知性は心臓と一致するのである︒しかし︑それに加えて︑
能動知性は知性性︵
intellectualitas
︶という規定によって﹇魂とは﹈異なる存在に基づいて魂の本質全体であるのだが︑これ
は本質的原因︵
causa essentialis
︶の様態によってそうなのである
︶26
︵︒
このように︑能動知性は︑単に自己に潜在している力において魂の
実体であるだけではなく︑知性性という自己の本質によって︑魂と
は異なる存在性において魂の原因となっているのであり︑それゆえ︑
能動知性は魂の本質的原因という在り方を有しているのである
︒
フライベルクのディートリヒの能動知性論一〇五 ディートリヒは︑能動知性が魂の実体の本質的原因であることを︑心臓がちからにおいてのみ動物の四肢と動物全体の原因となっていることと比較することで説明している︒
動物の生成においては︑まず心臓の内に生成者によって生命的
精気が導かれ︑それらの精気が他の四肢の生成に適したものと
なるように定められ︑そうして心臓を媒介として作出的に他の
四肢と動物全体とが生成されるのであり︑こうして心臓は他の
四肢の生成の際にとりわけ主要な生成者︑すなわち本質的原因
の秩序に服すのである
︶27
︵︒
心臓は確かに動物の身体全体を作り出す力を潜在的に有している︒
しかし心臓はそれ自体としては物体であるがゆえに︑生命的精気を
与えられなければ自ら動くことも身体を作り出すこともない
︶28
︵︒しか
しそうした精気を導くのは本質的原因である生成者なのである︒心
臓が心臓であるためには︑自らの本質を原因する生成者が必要なの
である︒このように︑心臓と能動知性は︑自らの結果を作出するち
から︵
virtus
︶を有する点で類似している︒だが心臓が動物の身体の本質的原因ではないのに対して︑能動知性は自らの知性性によっ
て魂の本質的原因でもあるという点で両者は異なっているのである︒
以上で見てきたように︑ディートリヒは能動知性を単に知的活動
の原因︑すなわち可能知性に知解可能な形相を作出するものとして のみではなく︑魂の本質的原因としても捉えているのである︒実体である能動知性と実体である魂の両者が︑最も密接で内面的なものとして関係することが可能なのは︑これらが別の存在性の段階に属しているからに他ならない︒それらは︑二つの実体であるというよりは︑本質を介した一なる実体︑一なる存在者なのである︒先に能動知性が外面的な本性と一切関係しないとされた時の外面性とは︑知性以外の事物の有する本性であると理解しなければならない︒知性とそれ以外のものとはその存在性において決定的に異なるものとして考えられるべきものである︒この能動知性によって︑魂の実体は永遠性のうちに形作られることになるのである
︶29
︵︒
3.能動知性の発出
能動知性は︑自らの知性性によって常に認識を行いながら︑我々
の魂の生の根源となっているものであった︒しかし同時に︑能動知
性は知的認識の根源であり︑我々は原理上あらゆる事柄を認識しう
る︒したがって能動知性は存在者の全総体を知解していなければな
らない︒
実際︑能動知性の認識においては三つのものが見いだされる
のである︒その第一で主要なものはそれ自身の根源であり︑そ
の根源から能動知性は知解することで発出するのであるが︑こ
一〇六
の発出においてそれ自身の本質の受容が成立するのである︒
第二のものはそれ自らの本質であり︑能動知性はこの本質を
知解するのであるが︑それはしかし能動知性が自らの根源を知
解するときの知解の様態の秩序に服してなのである︒︵⁝略⁝︶︒
第三のものは存在者の総体であり︑能動知性はその全総体を
自らの活動範囲によって認識に関して包括しているのである︒
︵⁝略⁝
︶30
︵
︶ ︒
このように︑能動知性は自らの根源を認識することが自己の本質を
受容すること︑すなわち自己の存在を受け取ることなのであり︑そ
の根源を認識する認識作用が同時に自らの本質と存在者の総体とを
認識することにもなるのである︒それは存在者の総体を一種の自己
認識によって認識することに他ならない︒
ディートリヒによれば︑知性以外の事物︑例えば馬やロバの場合︑
それらが発出するのは︑限定された類の範型的ないしイデア的形相
としての神の内なる理念規定に基づいてである
︶31
︵︒それに対して︑知
性は神それ自体の理念規定から発出する︒
というのも︑そうした知性は存在者の総体の理念規定としての
神的理念規定︵
ratio divina
︶から発出するからである︒そしてこのことが以上の仕方で発出する知性の本質なのである︒し
たがってそうした知性の認識は或る事物から別の事物へと移り 変わるものではなく︑そうした知性は︑一つの直視によって自らの根源を認識することで︑またそのようにして存在へと発出することで︑諸存在者の全総体を認識するのである︒こうした理由からまた︑それが神の完全な像︵
imago
︶として神から発出することもまたとりわけ明らかである
︶32
︵︒
このように︑能動知性は自らの根源としての神を認識することで︑
神の完全な像として発出するのである︒しかし︑能動知性が神を認
識することで神の像として自らの存在を得ているのであれば︑その
ような能動知性は唯一であって︑各々の人間の魂の本質的原因では
なく︑魂一般の原因であるにすぎないのではないだろうか︒しかし
ディートリヒはこのことを次のようにして否定する︒
だが︑もし能動知性が多くの個々人に共通のものであったなら︑
それは動きの内的な根源ではなくなるだろうし︑したがって動
きの固有な根源でもなくなるだろう︒なぜならその場合︑能動
知性は実体に即して内的なのではなく︑ただ結果︵
effectum
︶に即してのみ内的なことになるであろうが︑このことは或るも
のが生の根源であると言われ︑実際にそうであるためには十分
でないからである
︶33
︵︒
能動知性が個々人に共通のものであり︑なおかつそれが人間の魂の
フライベルクのディートリヒの能動知性論一〇七 内的で動的な根源であることはできない︒能動知性が共通のものである場合︑能動知性は魂の実体の原因であるという点においてではなく︑ただ魂に知的認識を結果するという点においてのみ魂にとって内面的なものとなるであろうが︑このような意味での内面性を或るものの生の根源として認めてしまった場合︑壁に彩色する画家が壁の内的根源であり︑壁がこの彩色によって生きていると主張することが可能になってしまうだろうとディートリヒは述べている
︶34
︵︒し
たがって︑能動知性は個々人の魂にその実体に即して個体化されて
いなければならないのである︒
4.能動知性の個体化
このような能動知性の個体化は如何にして可能であろうか
︒
ディートリヒは︑知性実体にも類・種・個を認めることができると
主張する︒ディートリヒによれば︑知性は︑﹁存在するもの﹂︵
ens
︶ ︑
﹁生きているもの﹂
︵
vivum
︶︑﹁理性的なもの﹂
︵
rationale
︶という 三つの概念内容︵
intentio
︶に即して神から流れ出て類・種・個を構成する
︶35
︵︒類は﹁存在する﹂という概念内容によってしか限定され
えない知性体に適合し
︶36
︵︑それに対して種は﹁生きているもの﹂とい
うより制限された概念内容によって諸々の天空を動かす知性の内に
見出される
︶37
︵︒ 対して︑より制限された諸知性の内に︑すなわち天体を動かす形相ないし知性の内に我々は種の規定を受け入れるが︑﹁制
限された﹂と言うのは︑認識の領域に即してではない︒という
のも︑最高の知性体が認識するものは何であれ︑すべての分離
知性が認識するからである︒そうではなく︑知性がより制限さ
れているということで私が理解したいのは︑単一性と本質の純
粋性および高貴性とに関して││上述の諸知性は﹇認識領域か
らではなく﹈これらのものからのみ遠ざかっているのである
││その本質の完全性に対しても諸物体が合一されうるという
ことなのである︒それらの知性はこれらの物体の形相なのであ
るが︑実体的にそれらの物体に存在に即して依存しており︑そ
れはちょうど形相が自らの固有の基体に依存しているようなも
のである
︶38
︵︒
知性が制限されるのは︑認識領域においてではない︒如何なる分離
知性も存在者の総体を認識するのであり︑それは人間の能動知性に
も当てはまることは先に確認した通りである︒そうではなく︑知性
はその単一性︑本質の純粋性︑高貴性に関して制限されるのである︒
そうした制限が︑天体を動かすことでそれを生かせしめている知性
において生じるのは︑そうした知性が自らの実体において物体であ
る天体に合一され︑存在的にそれに依存していることによってなの
である︒同様の仕方で︑能動知性について︑﹁理性的なもの﹂とい
一〇八
うさらに制限された概念内容に即して個体の規定が語られる︒
理性的なものとは或る種の推論的認識を含意しており︑こうし
た認識を種の規定と種の固有性とを有する何らかの知性におい
て見出すことは不可能である︒それは︑この種の知性が推論す
ることなしに常に同一様態を保っているがゆえである
︒した
がって︑個体の規定と個体の固有性とを有しているところのも
のにおいてのみ推論的認識は見出されるのである
︶39
︵︒
このことから帰結するのは︑天体を動かしている知性は推論的認識
とは関係しないため︑個体としての規定は見出せないということで
ある︒対して︑能動知性は人間における推論的認識を統括しており︑
それは能動知性が魂の個体的実体の内的根源となっているというこ
とにおいてだけではなく︑その魂の実体の理性的認識の内的根源と
なっているということにおいてもそうであるがゆえ︑能動知性は知
性的なものの秩序において理性的なものとして限定されるのである
︶40
︵︒
このように︑これらの知性はすべて同一の対象を認識するもので
ありながら︑それが個々の人間の推論的認識に関係する限りで︑或
る種の個体への限定が起こるのである︒つまり︑知性の知性性その
ものが直接的に制限されて個体化されるのではなく︑それがまった
く分離されているのか︑あるいは必然性をもって動く天体の根源と
なっている
︶41
︵のか︑あるいは理性的・推論的認識を必要とする人間の 魂の根源となっているのかといった違いによって︑知性の単一性や高貴さがいわば自然の側から制限されるのである︒ 以上の個体化の論拠は知性的存在者の秩序において通用するものであるが︑ディートリヒは︑一般的に事物に当てはまる個体化原理も能動知性に当てはめることができるとしている︒
実際︑全体よりも後なる諸部分を有しながら本質によって一
なるすべての存在者は︑真に個体である︒しかし︑先述のこと
から理解されるように︑能動知性と魂の実体とからは本質にお
いて一なる存在者が結合されるのであり︑その一なる存在者が
全体より後なる部分を持つことは確かである︒したがって︑そ
の全体それ自体は真に個体であり︑能動知性は一なる存在者の
うちの一つのものとして人間の多様さに即して数えられるもの
である
︶42
︵︒
個体化原理は﹁実体全体よりも後なる諸部分を有する﹂ということ
にある
︶43
︵︒能動知性は魂の本質と結合して一なる実体を形成している
のであり︑この一なる存在者が展開する活動が︑全体より後なる諸
部分を齎すのである︒したがって︑﹁個体化の固有性は能動知性の
内においては端緒として︵
incohative
︶あり︑魂の本質の内には秩 序付けとして︵
dispositive
︶あり
︑﹇それら﹈結合物全体において
は完全な形で存する
︶44
︵﹂ことになるのである︒
フライベルクのディートリヒの能動知性論一〇九 おわりに 以上で確認してきたように︑能動知性は︑一方では知的認識の根
源として純然たる可能状態にある人間の知性的能力を現実化させる
ものであり︑他方では魂の実体の本質的原因として分かちがたく魂
と結びついているものであった︒能動知性は︑存在者の全総体を認
識することによって一種の﹁認識理論上のアプリオリ﹂︵
erkennt-
nistheoretisches A
︶45
︵
priori
︶として機能するものであると同時に︑自らの知性性によって魂の実体を永遠のうちに形作るものでもある︒
神が人間を自らの像に倣って創造したとする聖書の言葉は︑こうし
た能動知性の理解をもってして真に明らかになるであろう︒
本論で確認した︑﹁能動知性が理性的魂の生の根源である﹂とす
るディートリヒの主張の要点を纏めれば次のようになるであろう︒
すなわち︑もし我々に知的認識を生み出す根源が魂にとって内面的
なものでなかったなら︑そのような知的な働きは︑壁にとっての彩
色のように
︑我々にとって本質的な活動ではなく
︑ それによって
我々が知性的に生きると言われることもできなかったであろう︒そ
のような活動は自ら引き起こす活動ではなく︑他者によって引き起
こされる活動にすぎないのである︒この点で︑能動知性は魂から分
離されたものであってはならないのである︒そうではなく︑能動知
性は魂の本質的原因として魂と一なる存在を形成することで︑魂に 魂固有の知的認識を生み出すことを可能にするものなのである︒それゆえ︑能動知性はその知性性においては︑別の存在次元にある魂から完全に分離されているものの︑原因としては魂と密接に結びついているのである︒まさにそのことによって︑能動知性は︑全存在者の総体としての神を直視し︑その直視によって神の像として普遍的な仕方で発出するものでありながら︑各々の人間に個体化されることが可能となるのである︒
注
︵
Dietrich von 1︶ ディートリヒの著作からの引用は以下の批評版全集による︒ Freiberg, , Bd.1-4, 1977-1985, Felix Meiner.解釈の際に参照
した現代語訳は以下のものである︒Dietrich of Freiberg,
, 1992, Marquette University Press; Dietrich
von Freiberg, ,
hrsg. Burkhard Mojsisch, Felix Meiner, 1980; Dietrich de Freiberg,
, 2012, Vrin.﹁至福直観について﹂
﹃中世思想原典集成
13 盛期スコラ学﹄上智大学中世思想研究所編訳・監修︑
平凡社︑一九九三年︑
785│ 823頁︒
︵
Vgl. Kurt Flasch, 2︶
, 2006, C.H.Beck, S.67-85.︵
3︶ 例えば﹃対異教徒大全﹄︵︶や﹃知性単一説につ
いて│
│アヴェロエス主義者に対して﹄
︵
︶などの著作がある︒
︵
Cf. Thomas Aquinas, , I, q.76, a.1.4︶ トマスは︑知性認
識が﹁この人間﹂の働きであるためには︑知性ないし知性的魂が身体の形
一一〇
相でなければならないとしている︒
︵
5︶ ディートリヒの時代にはすでに︑トマス説を信奉する人々がドミニコ会
において多数派を占めていたと考えられる︒実際に︑ディートリヒ自身が
彼らについて次のように語っている
︒﹁
通俗的なことを語っている人々
︵communiter loquentes︶は数のうえでは︵multitudine︶は圧倒しているが︑
議論の有効性において︵efficacia rationum︶はそうではない﹂︵Dietrich,
, 1, (2)
︶ ︒
︵
6︶ ディートリヒの執筆活動時期は一二八五年頃から一三一五年頃までと推
測されている︵Vgl. Flasch, 2006, S.89
︶ ︒
︵
Vgl. Kurt Flasch, , , 7︶
, 2007, Vittorio Klostermann, S.34.︵
Cf. Dietrich, 8︶ これは天使ではない︵
, I, 12, (1)︶︒知性実体とは︑本質的に知性であり︑かつ人間や天
使あるいは天体などその本質が知性ではない実体と一切関係していないよ
うなもののことをいう︒こうした実体の存在は哲学的には証明されえず︑
また聖書に記述があるわけでもない︒しかしながらディートリヒは新プラ
トン主義的な宇宙観には比較的好意的であり︑知性実体についてその存在
を肯定することはしないものの︑明確に否定もしていない︒いずれにせよ︑
能動知性︵intellectus agens︶と言われるときには分離実体としての知性
実体ではなく︑知性そのものではないもの││人間ないし天使││に知性
的認識を作り出す︵agere︶ものであることが含意されている︒
︵
︵ Cf. Dietrich, ., I, 7, (1).9︶ 10Dietrich, ., I, 7, (2): Ad istud genus intellectuum pertinet intellec-“︶
tus agens noster, qui ad similitudinem substantiarum separatarum nullo
modo est in potentia passiva secundum modum illarum substantiarum et
est substantia, nulli accidenti substratus vel substernibilis, sed quidquid
est in eo, pure substantia sua est.”
︵
11Dietrich, ., I, 7, (3): Est aliud genus intellectuum, quo sunt in “︶ potentia passiva, immo, quando sunt in actu, sunt ipsae passiones, secun-
dum quod intelligere pati quoddam est secundum Philosophum. Sed ante
intelligere sunt purae possibilitates sub privatione non habentes aliquam
naturam positivam.”
︵
12Dietrich, ., II, 2, (2): ipse intellectus agens est activum principium “︶
et per se formae intelligibilis in intellectu possibili, quae forma intelligibi-
lis est tota essentia intellectus possibilis, [...].”
︵
13Dietrich, ︶ , 1.4.2.1. (1): “Hoc autem subiectum immediatum formae intelligibilis
quoad cognitionem substantiae spiritualis aliquid intellectualiter cogno-
scentis non potest esse ipsa substantia spiritualis vel aliqua pars eius, si
quam haberet quasi quoddam organum spirituale. Iam enim talis forma
intelligibilis non esset quid separatum nec esset quid immixtum, sed
esset actus talis substantiae.”
︵
14Dietrich, , 1.1.1.3.5. (2): “Ex ︶
materia enim et forma fit aliquod tertium, quod nec est materia nec
forma. Species autem intelligibilis fit intellectus.”︵
15Dietrich, ., III, 7, (5): Sic dicendum de potentia intellectiva possi-“︶
bili, scilicet quod homo dicitur et est potentia intelligens secundum
puram habilitatem receptivam speciei intelligibilis, sed non immediate in
substantia humana nec in quacumque sui dispositione, sed in phantastico
suo quantum ad vim cogitativam, quae est suprema vis et prae aliis ani-
malibus sola in homine, et secundum eam formantur phantasmata
secundum ultimum et supremum limitem formarum, quae possunt esse
formae in corpore, ita, quod tales formae sint immediatum subiectum for-
mae intelligibilis, quae sit ibi agente hoc quodam altiori principio, scilicet
intellectu agente.”
︵
16Cf. Dietrich, , 9, (2).︶
フライベルクのディートリヒの能動知性論一一一 ︵
︵ 17Cf. Dietrich, ., III, 27, (2).︶
18︶ 人間の能動知性が知解しているというのであれば困難は生じない︒ここ
での問題は︑身体を有し︑知性とは次元を異にする人間の魂が如何にして
自己の内に知性認識を生じさせることが可能なのかという点である︒とい
うのも︑ディートリヒにとって知性認識とは︑トマスが主張するような単
なる抽象された普遍なのではなく︑神の光としての事物の理念規定を観る
こと︵Cf. Dietrich, ., III, 35︶だからである︒この理念規定を認識す
ることは︑人間にとっては事物の何性を認識することである︒
︵
︵ 19Cf. Dietrich, ., 1.1.2.1. (1).︶ 20Dietrich, ., 1.1.2.1. (2): “Quod autem intelligat, patet, quoniam ︶
ipsum est intellectus per essentiam et eius essentia intellectualitas est.
Nec dicitur intellectus per solam denominationem quasi ab effectu suo,
inquantum efficit intellecta in nobis, sed formali et essentiali praedica-
tione ex proprio modo et actu quiditativo suae essentiae. Hoc enim
importat proprietas et modus suae separationis et impermixtionis cuius-
cumque extraneae naturae. Ens enim sic separatum, sic impermixtum
nec partibus nec cuicumque extraneae naturae nitens in intraneitate
suae essentiae necessario intellectualiter existit.”
︵
21Vgl. Flasch, 2007, S.229.︶
︵
22esse︶ ディートリヒは︑当時としては革新的であったトマスによる存在︵︶
と本質︵essentia︶との実在的区別を認めていない︵Cf.
, II, 1-4︶︒本質を持つものは存在する︒ディートリヒのこの見解
はトマスよりもアリストテレスに近いものである︒それゆえ︑一切の状態
変化を有さない能動知性は︑本質を有さない場合は無であり︑本質を有す
る場合は常に存在するものである︵Cf. Dietrich, ., III, 2, (1)
︶ ︒
︵
23Dietrich, ., II, 7, (2): “Manifestum est, quod vivum a non vivo dif-︶
fert in habendo in se principium sui motus. Alioquin non dicerentur res
animatae magis vivere quam inanimatae. Est autem summa vita animae rationalis vivere secundum intellectum et intellectualiter. Ergo oportet in
se habere huius vitae principium, quod non est aliud quam intellectus
agens, quem necessarium est intraneum esse animae rationali, si anima
rationalis debet dici vivere secundum operationem intellectualem intel-
lectus possibilis.”
︵
24Dietrich, ., II, 7, (3): “Agitur autem hic de intraneitate intellectus ︶
agentis, quae competit sibi per essentiam suam. Ergo ex alia parte, scili-
cet ex parte animae, in qua ponitur intellectus agens tamquam intraneum
principium vitae intellectualis, etiam attendetur secundum essentiam. Sed
ea, quae sunt sic intra invicem, scilicet unum in alio essentialiter, sunt
idem per essentiam. Ergo intellectus agens est idem essentialiter cum
essentia animae.”
︵
︵ 25Cf. Dietrich, ., II, 7, (4).︶ 26Dietrich, ., II, 9, (4): Ita intellectus agens continet in se virtute “︶
totam residuam substantiam animae, in qua convenit cum corde. Sed
insuper ipse est tota essentia animae secundum aliud esse ratione intel-
lectualitatis per modum causae essentialis, [...].”︵
27Dietrich, ., II, 8, (7): in generatione animalis primo diriguntur in “︶
corde spiritus vitales a generante et determinantur, ut sint apti genera-
tioni aliorum membrorum, et sic mediante corde effective generantur alia
membra et totum animal, et secundum hoc cor in generando alia mem-
bra stat sub ordine generantis praecipue principalis, qui est essentialis
causa”.︵
28︶ 心臓が身体を作り出すといっても︑身体なしに心臓が留まりえないよう
に︑両者は相互的な関係にあり︑この点で心臓は︑魂なしに存在しえない
能動知性と一致している︵Cf. Dietrich, ., II, 10, (2)
︶ ︒
︵
︵ 29Cf. Dietrich, ., 1.1.1. (3).︶ 30Dietrich, ., II, 37, (2)-(4): (2) Tria enim invenimus in cognitione “︶
一一二
eius. Quorum primum et principale est suum principium, a quo procedit
intelligendo, in quo consistit suae essentiae acceptio. (3) Secundum est
sua essentia, quam intelligit, sub ordine tamen eius modi intelligendi, quo
intelligit suum principium, ... . (4) Tertium est universitas entium, quam
totam suo ambitu comprehendit quantum ad suam cognitionem, ...”
︵
︵ 31Cf. Dietrich, ., II, 36, (2).︶ 32Dietrich, ., II, 36, (3): Procedit enim a ratione divina, prout est “︶
ratio universitatis entium. Et hoc est essentia eius intellectus sic proce-
dentis. Et ideo non variatur eius cognitio de una re ad aliam, sed uno
intuitu cognoscendo suum principium et sic procedendo ad esse cognoscit
totam universitatem entium. Et ex hac ratione etiam specialiter patet
ipsum procedere a Deo ut imago eius perfecta.”
︵
33Dietrich, ., II, 13, (3): Non autem esset intrinsecum principium “︶
motus et per consequens nec proprium, si esset communis pluribus indi-
viduis, quia non esset intrinsecum secundum substantiam, sed solum
secundum effectum, quod non sufficit ad hoc, quod aliquid dicatur et sit
principium vitae.”︵
34Cf. Dietrich, ., II, 13, (3).︶ ディートリヒは︑能動知性が生の根源で
あるという理解から︑アヴェロエスが能動知性を分離実体だとしたことを
批判している︵Cf. Dietrich, ., III, 11, (1)
︶ ︒
︵
︵ 35Cf. Dietrich, ., II, 17, (1).︶
︵ 36Cf. Dietrich, ., II, 15, (1).︶
︵ 37Cf. Dietrich, ., II, 16, (1).︶ 38Dietrich, ., II, 15, (2): “Rationem autem speciei accipimus in intel-︶
lectibus magis contractis, videlicet in formis et intellectibus moventibus
corpora caelestia, contractis, inquam, non secundum ambitum cognitionis
̶quidquid enim cognoscit suprema intelligentia, cognoscunt omnes intel-
lectus separati ̶, sed volo intelligi magis contractos intellectus quantum ad simplicitatem et essentiae puritatem et nobilitatem, a quibus tantum
recedunt dicti intellectus, quod etiam ad perfectionem suae essentiae uni-
biles sunt corporibus, quorum sunt formae, et substantialiter dependent
ab eis secundum esse sicut forma a suo proprio subiecto.”
︵
39Dietrich, ., II, 17, (2): rationale importat quandam discursivam “︶
cognitionem, quam impossibile est inveniri in aliquo intellectu, qui habet
rationem et proprietatem speciei, eo, quod huiusmodi intellectus semper
eodem modo se habet sine discursu. Ergo solum invenitur in eo, quod
habet rationem et proprietatem individui.”
︵
︵ 40Cf. Dietrich, ., II, 17, (3).︶
41︶ 我々にとって理解しがたいことではあるが︑ディートリヒは天体が本質
による知性を有していることを前提としている︒そこには︑天体が生成消
滅しうる地上界の事物の本質的原因となっているという理解が背景にある︒
物体は物体である限りはそれらの事物の本質を原因することができない︒
したがって天体は本質による知性を有していなければならないのである
︵Cf. Dietrich, , 15-16
︶ ︒
︵
42Dietrich, ., II, 18, (2): “Omne enim ens, quod est unum per essen-︶
tiam habens partes posteriores toto, est vere individuum. Sed ex
intellectu agente et substantia animae aggregatur unum ens, quod est
unum per essentiam, ut ex praemissis habetur, et constat, quod illud
unum ens habet partes posteriores toto. Ergo totum ipsum est vere indi-
viduum et unus unius secundum multitudinem hominum numeratus.”︵
43Cf. Dietrich, ., II, 26 (1)-(3).︶ ディートリヒによれば︑個体化原理は
質料ではない︒質料を有するものが個体であることは確かだが︑天使のよ
うな質料を有さないものにも個体性を見出すことが可能である︒それゆえ
トマスは誤りを犯している︒
︵
44Dietrich, ., II, 19, (3): proprietas individuationis est in eo incoha-“︶ tive, est in essentia animae dispositive, est in toto coniuncto completive.”
フライベルクのディートリヒの能動知性論一一三 ︵ 45Vgl. Christine Büchner, „“︶
, 2005, Tyrolia, S.452.