十 ̲
第 2 節 Laks.m¯ıtantra における最高神の顕現
MBhでとかれたヴューハ説は、LTでは、複雑な様相を帯びる。本節では、LT 2章で説 かれる最高神の顕現を取り上げ、考察する。
LT はインドラに請われたラクシュミーがその最高の教えを説くというものである30。
30LT第1章では、(1)インドラに願われラクシュミーがLTを明らかにする、(2)聖仙たちがナーラダに頼
創造の最初の状態は至高のアートマン(param¯atman)から始まる、ということが示されて いる。
asti nirduh.khanih.s¯ımasukh¯anubhavalaks.an.ah./
param¯atm¯a param. yasya padam. pa´syanti s¯urayah.//LT 2.1
聖仙(s¯uri)たちが認める至高のアートマン(param¯atman)の最高の境地(pada)
は、苦しみを離れ、計り知れなく、至福の経験という特徴を持つものである。
そして、至高のアートマンは次のように説かれる。
adhvan¯am adhvanah. p¯aram. param¯atm¯anam ¯ucire/
aham. n¯ama smr.to yo ’rthah. sa ¯atm¯a samud¯ıryate//LT 2.3
至高のアートマンをあらゆる道にとっての道の彼岸と言い、わたし(aham)として 意味が想起されるもの、それがアートマンであると語られる。
anavacchinnar¯upo ’ham. param¯atmeti ´sabdyate/ krod.¯ıkr.tam idam. sarvam. cetan¯acetan¯atmakam//LT 2.4
束縛から離れたものとしてのわたし(aham)が至高のアートマンと呼ばれる。〔そ の至高のアートマンは〕このあらゆる知覚できる性質のものとできない性質のもの を包含する。
至高のアートマンとアートマンは別ものである。最高処において、活動せず、彼岸である のが、至高のアートマンであるが、自身をわたし(aham)として想起するときにアートマ ンになるのである。わたしには2つの段階があり、〈「わたし」として意味が想起されるも の〉がアートマンであり、〈束縛から離れた「わたし」〉が至高のアートマンである。しか も、この第2章の語り部はラクシュミーであるので、ラクシュミーと最高存在を同一視す ることを意図していると思われる。
次にナーラーヤナの顕現がある。
yena so ’ham. smr.to bh¯avah. param¯atm¯a san¯atanah./ sa v¯asudevo bhagav¯an ks.etrajñah. paramo matah.//LT 2.5
永遠なる至高のアートマンの状態であるそれはわたし(aham)であると想起する ことによって、彼はヴァースデーヴァ、バガヴァット、クシェートラジュニャ、最
高存在(parama)とみなされる。
み彼が(1)の神話を語る、(3)それら(1)と(2)の物語をアナスーヤーに乞われアトリが教示する、という 三重の構造になっている。ナーラダとアトリというヴェーダに登場する偉大な聖仙に語らせることによっ て、このLTの権威付けを行っているのである。
至高のアートマンから始まる創造の次の段階であり、無活動であった至高のアートマン が、「わたしである」と自己を認識することによって、自己を最高神として顕現させるの である。これが創造の2番目の段階である。次にラクシュミーが生起する。
ahamarthasamutth¯a ca s¯aham. t¯a parik¯ırtit¯a/
anyonyen¯avin¯abh¯av¯ad anyonyena samanvay¯at//LT 2.17
彼女(ラクシュミー)は、「わたしという実在」(ahamartha)から生起するものであ り、「わたし性」(aham. t¯a)と言われる。互いに離れていないから、互いに結合して いるから。
ナーラーヤナである「わたしという実在」(ahamartha)から、ラクシュミーである「わた
し性」(aham. t¯a)が生起するのである。この二者の関係は次のように言われる。
ahamartham. vin¯aham. t¯a nir¯adh¯ar¯a na sidhyati/
bhavadbh¯av¯atmakam. r¯upam. samastavyastagocaram//LT 2.19
「わたしという実在」(ahamartha)なしには、「わたし性」(aham. t¯a)は支えがなく、
完成しない。存在するもの(ナーラーヤナ)と状態(ラクシュミー)から成る形態 は、全体として、また個々のものとして認識される。
至高のアートマンではなく、アートマンとしての「わたし」には2つの側面がある。すな わち「本体としてのわたし」と「機能ないし属性としてのわたし」である。「本体として のわたし」は、「わたしという実在」(ahamartha)であり、ナーラーヤナである。「機能な いし属性としてのわたし」とは、「わたし性」(aham. t¯a)であり、ラクシュミーである。両 者は同一であるが別ものであり、片方が欠けることは想定されていなく、両者は互いに一 方がなくては存在できない、すなわち両者は互いに限定し合っているのである。
他方、次のようにも言われる。
¯atm¯a sa sarvabh¯ut¯an¯am aham. bh¯uto harih. smr.tah./ aham. t¯a sarvabh¯ut¯an¯am aham asmi san¯atan¯ı//LT 2.13
彼(ナーラーヤナ)はアートマンであり、あらゆる存在物にとっての「わたしとい う存在」(aham. bh¯uta)であり、ハリであると認められている。あらゆる存在物に とっての「わたし性」(aham. t¯a)は、永遠なるわたし(aham)なのである。
この永遠なるわたし(aham)は至高のアートマンのこととも考えられ、その場合、「わた し」(aham)は、「わたしという存在」(aham. bh¯uta)=「わたしという実在」(ahamartha) と「わたし性」(aham. t¯a)という2側面があるが、シャクティである「わたし性」(aham. t¯a) を、属性でありながら永遠なる「わたし」(aham)という最高処と同置しているのである。
「わたしという実在」(ahamartha)と「わたし性」(aham. t¯a)はブラフマンとも言われる。
それは次の通りである。
bhavadbh¯av¯atmakam. brahma tatas tac ch¯a´svatam. padam/ bhavan n¯ar¯ayan.o devo bh¯avo laks.m¯ır aham. par¯a//LT 2.15
存在するものと状態という〔2つの〕本質がブラフマンであり、それ故にそれは永 遠の境地である。存在がナーラーヤナ神であり、状態がラクシュミーであり、わた し(aham)であり、最高処(par¯a)である。
laks.m¯ın¯ar¯ayan.¯akhy¯atam ato brahma san¯atanam/
ahamtay¯a sam¯akr¯anto hy ahamarthah. prasidhyati//LT 2.16
それ故、永遠なるブラフマンをラクシュミー・ナーラーヤナと呼ぶ。なぜなら、「わ たし性」(aham. t¯a)によって遍満され、「わたしという実在」(ahamartha)が完成す るから。
ラクシュミー・ナーラーヤナ、すなわちアートマンであるところの「わたし」(aham)は、
ブラフマンと同一視されている。一方、次のようにも言われる。
mah¯avibh¯utir ity ukto vy¯aptih. s¯a mahat¯ı yatah./
tad brahma paramam. dh¯ama nir¯alambanabh¯avanam//LT 2.9
偉大なる彼女(ラクシュミー)は遍充である故に、「大いなる力の顕現」(mah¯avibh¯uti) と呼ばれる。それがブラフマンであり、最高の居処、独立した本質である。
ここでは、ラクシュミーとブラフマンを同一視している。
6つのグナについて、次のように説かれる。
´ses.am ai´svaryav¯ıry¯adi jñ¯anadharmah. san¯atanah./
aham ity ¯antaram. r¯upam. jñ¯anar¯upam ud¯ıryate//LT 2.26
他の「自在力」(ai´svarya)や「勇猛さ」(v¯ırya)などは「知識」(jñ¯ana)の特質(属
性、dharma)であり、永遠である。「知識」(jñ¯ana)の形態は、わたし(aham)と
いう固有の形態であると言われている。
6つのグナ(属性)とは、すなわち、(1)知識(jñ¯ana)、(2)自在力(ai´svarya)、(3)潜在力
(´sakti)、(4)力(bala)、(5)勇猛さ(v¯ırya)、(6)光輝(tejas)である。その6つのグナ(属 性)のうち、「知識」(jñ¯ana)が本質であり、それ以外の5つは付随するものである。
ここでいう「わたし」とは、ラクシュミーであり、ブラフマンである。それは次の通り に説かれる。
jñ¯an¯atmik¯a tath¯aham. t¯a sarvajñ¯a sarvadar´sin¯ı/
jñ¯an¯atmakam. param. r¯upam. brahman.o mama cobhayoh.//LT 2.25
同様に、「わたし性」(aham. t¯a)の「知識」(jñ¯ana)の本質は、全てを知るものであ り、全てを見るものである。ブラフマンとわたしの両者の「知識」(jñ¯ana)の本質 は最高の形態である。
すなわち、6つのグナはラクシュミー・ナーラーヤナに帰せられものでもある。ラクシュ ミー・ナーラーヤナ、ブラフマン、アートマン、「わたし」(aham)、「わたし性」(aham. t¯a)、 ラクシュミー、「わたしという実在」(ahamrtha)、ナーラーヤナ、これらは全て、本質的に 同じものである。その現れ方の違いで分けられているにすぎないのである。ラクシュミー とナーラーヤナは「わたし」の2つの側面であるから、不可分の存在なのである。それと 同時に、ラクシュミーを最高存在すなわち至高のアートマンと同一に見なそうとする意図 が端々に見える。おそらく、シャクティ崇拝の流布の影響を受けたものと思われる。
ところで、ラクシュミーはまた、シャクティとも呼ばれる。しかしながら、6つの属性 の中にも、シャクティが見られる。そのため、シャクティにはおそらく2つの側面がある と考えられる。ラクシュミーそのものとしてのシャクティ(宇宙の根源力)と6つのグナ
(属性)の一つとしてのシャクティ(「潜在力」)である。
では、6つのグナとヴューハ神の展開を見ていきたい。
abhivyakt¯anabhivyaktas.¯ad.gun.yakramam ujjvalam/
¯alambitacat¯ur¯upam. r¯upam. tatp¯arame´svaram//LT 2.38
その最高の主宰神の形態は、顕現しあるいは顕現していない6つのグナ(属性)か ら成る階梯に基づくものであり、輝きであり、4つの形態である。
この4つの形態とは、ヴューハ(配置)と呼ばれる4柱の神の顕現である。その神々は、
ヴァースデーヴァ、サンカルシャナ、プラディユムナ、アニルッダである31。 その4神は、次の通りに顕現する。
´s¯ant¯ati´s¯ant¯ad unmes.o mama r¯up¯ad yugatraye/
kramavyaktam. tad¯adyam. me c¯atur¯atmyam am¯urtimat//LT 2.43
寂静と完璧な寂静の形態から、3つの組み合わせ(という状態)で、わたしの開眼
(顕現)がある。段階的に顕現するわたしの4つの本質のその最初のものが、形象 を有さないものである。
31第2章 第5.3節 を参照。Guptaはヴューハについて次のように説明している。「清浄なる創造と不浄なる 創造の間の違いは、3つの現象の属性、サットヴァ、ラジャス、タマスが、清浄なる創造において存在して いないのであり、その清浄なる創造は時折nityavibh¯utiと呼ばれ、反対に不浄なる創造はl¯ıl¯avibh¯utiと名 付けられる。前者は4つの顕現(caturm¯urtiあるいはcaturvy¯uha)から成る。これら4つの顕現(ヴュー ハ)の最初(すなわちヴァースデーヴァ)において、属性は休止状態であり、それ故、うっすらと顕現し ているのみである。顕現が進行するにつれ、それらはより輝き、深淵となる。」[Gupta 2000: p. 11]
4つのヴューハ神の中で最初のものは、未だはっきりと現れていないため、形象を有して いないのである。ここでは、ヴューハ神としてヴァースデーヴァは明言されていないが、
ナーラーヤナの異名としては説かれているため、ラクシュミー・ナーラーヤナと不可分の 存在と思われる。それは、次のことからも考えられる。
¯adyas tv abhinnas.¯ad.gun.yo brahmatattv¯apr.thaksthitau//LT 2.54cd
しかし、最初の分化していない6つのグナに関するものは、ブラフマンという原理 と不可分な状態として〔存在する〕。
すなわち、ヴューハ神の中で、最初に現れるものは、6つのグナを全て有しており、ブラ フマンと不可分であると言うことである。
次にサンカルシャナの顕現がある。
vyaktajñ¯anabal¯akhy¯ay¯am. p¯urvam. sam. kars.an.¯atmani/ tilak¯alakavat sarvo vik¯aro mayi tis.t.hati//LT 2.45
tan m¯am. sam. kars.an.¯atm¯anam. vidur jñ¯anabale budh¯ah./LT 2.46ab
まずはじめに、わたしの「知識」(jñ¯ana)と「力」(bala)の顕現と呼ばれるサンカ ルシャナの本質(アートマン)の中に、(皮膚の下の)ほくろのごとくに、すべて
の変異(vik¯ara)が存在する。かのわたしであるサンカルシャナの本質を、「知識」
(jñ¯ana)と「力」(bala)であると、知者たちは認識する。
このようにサンカルシャナは、「知識」(jñ¯ana)と「力」(bala)を備えたものである。
次に、プラディユムナが現れる。
svayam. gr.hn.¯ami kartr.tvam unmis.ant¯ı tatah. param//LT 2.46cd pradyumna iti m¯am ¯ahuh. sarv¯arthadyotan¯ım. tad¯a/LT 2.47ab yugam. prasphuritam. r¯upam. tasminn ai´svaryav¯ıryayoh.//LT 2.47
その時、すべての対象を輝かせるわたしをプラディユムナと言う。それから、〔わ たしは〕開眼(顕現)しつつ、作者性を自らに獲得する。そこにおいて、「自在力」
(ai´svarya)と「勇猛さ」(v¯ırya)の組み合わせの形態が現れる。
プラディユムナは「自在力」(ai´svarya)と「勇猛さ」(v¯ırya)を備えているのである。
次に、アニルッダが現れる。
tatas tay¯a kriy¯a´sakty¯a labdh¯ave´s¯a cik¯ırs.ay¯a/
yujyam¯an¯aniruddh¯akhy¯am. lambhit¯a tattvakovidaih.//LT 2.48
それから、その活動力(kriy¯a´sakti)によって浸透され、〔また〕活動の意欲と結び ついたものがアニルッダという名称で真理を体得した者たちによって呼ばれる。