〔表8〕によると、n韻尾・ng韻尾のカナ表記がさらに大きく分かれ、3種類になってい る。すなわちn「韻尾は「ン」、ng韻尾は「ン」」、「n韻尾は「ヌ」、ng韻尾は「ン」」、「n韻 尾は「ン」、ng韻尾は「ヌ」」である。
よって、『日清字音鑑』のように記号「ク、」でng韻尾を表記するのは珍しいのではない かと思われる。次節では『日清字音鑑』の鼻音韻尾表記法についての先行研究を検討して いく。
翌二十八年、日清戦争直後の新領土台湾に渡り、民政局学務部長として最初の植 民地教育行政に手を染めその基礎を作った。翌年元旦、部下の学務部員たちがゲ リラに斃れた「芝山巌事件」は有名である。明治三十年七月、再び職を辞した(再 掲)
伊沢修二は『日清字音鑑』を編纂して間もなく台湾総督府民政局学務部長に務めた。
台湾総督府民政局学務部長の名義で出された『台湾十五音及字母附八声符号』(明治 28 年、1895)、『訂正台湾十五音及字母表附八声符号』(明治 29 年、1896)、『台湾十五音及字 母詳解』(明治29年、1896)に、記号「ク、」が見られる。『訂正台湾十五音及字母表附八声 符号』(台湾総督府民政局学務部、明治 29 年、1896、東京大学附属図書館所蔵本の複写に よる)を例として挙げると、次のとおりである。
翁アク、 邦パク、 江カク、 東タク、 疆キァク、 香ヒァク、 殃イァク、 鶯イェク、 勇イォク、 兵ピェク、
記号「ク、」について、小川尚義(1900)は次のように述べている。
臺灣音ハ、鼻音ニ三種アリ、羅馬字ニテハ m.n.ngニ相當スルモノニシテ、判然ト 區別セラルレドモ日本假字ニ於テハ、通例「ン」ノ字ヲ用ヰテ、是等三種ノ音ヲ 區別ナクアラハシ來レリ、中ニ mトnトハ、本國人に於テモ容易ニ區別シ得レド モ、nトngトノ場合ニ於テハ、之ヲ區別スルコト非常ニ困難ナリ。前ニ伊澤氏ガ 假字ヲ定ムルニ當リテハ m ヲ「ム」トシ、nヲ「ン」トシ、ngヲ「ク、」トシテ、
一種ノ新假字ヲ用ヰタリシガ、爾来經験ヲ重ヌルニ従ヒ、「ク、」ノ字ハ字形上ヨリ 見ルモ「グ」に近キガ故ニ、「グ」ノ如ク發音スル傾向アリテ、不都合ナルガ上ニ、
實際上ニ於テモ亦「ク、」ノ如キ新字ヲ用ヰル丈ノ必要ナキヲ認メ得タリ。(筆者注:
下線は筆者)
「前ニ伊澤氏ガ假字ヲ定ムルニ當リテハ mヲ「ム」トシ、n ヲ「ン」トシ、ngヲ「ク、」 トシテ、一種ノ新假字ヲ用ヰタリシガ」や「實際上ニ於テモ亦「ク、」ノ如キ新字ヲ用ヰル 丈ノ必要ナキヲ認メ得タリ」とあるように、小川尚義(1900)は台湾語を表記する仮名遣 いに見られる記号「ク、」は伊沢修二氏の作った「新假字」であると指摘している。
そこで、以上の先行研究を留意した上で、実藤恵秀(1943b)や村上嘉英(1966)などが 指摘したng韻尾の表記「ク、」を再検討していきたい。
3 .記号「ク
、」の意味
『日清字音鑑』の「緒言」は記号「ク、」について次のように述べている。
「ガ」行ノ音ヲ以テ始マルモノ、支那語ニハナシ。但「カ、」(關東ノカ、行)ノ原 音ニ屬スルモノ、僅ニ存スルアリ。又其行中ノ「ク、」ハ、屢々語尾ニ顯ハルヽモ ノニシテ、殆ド「ン」ニ同ジケレド、唯其舌頭ヲ、上腭ニ壓付スルコトナキヲ以 テ、其音ノ輕キヲ異ナレリトスルモノナリ。(筆者注:下線は筆者)
記号「ク、」は「關東ノカ、行」に属している。
先行研究の実藤恵秀(1943b)は記号「ク、」を「苦心發明」、村上嘉英(1966)はそれを
「新造符号」と指摘した。ところが、橋本進吉(1949)は
明治以降、特に発音を明示する場合に nga ngi ngu nge ngo をカ、キ、ク、ケ、 コ、またはカ。キ。ク。ケ。コ。で示すことがある。
と述べている。
川本栄一郎(1990)は幕末から明治にかけてガ行鼻濁音表記の系譜を調査している。川 本栄一郎(1990)を整理すると、次の〔表9〕になる。
〔表9〕ガ行鼻濁音表記とその名称
発行年 書 名 編著者名 表記(例) 名称
半濁音 鼻音 鼻濁音 安政2-3安政年 1855-1856 『三浦命助日記』 三浦命助 カ゜
安政6-万延2年 1859-1861 『獄中記』 三浦命助 カ゜
慶應2年 1866 『横文字早学』 不詳 カ゜
明治5年 1872 『単語篇』 文部省 カ、 ◯
明治6年 1873 『単語篇』 石川県学校 カ、 ◯
明治7年 1874 『絵入単語編』 橘慎一郎 カ゜ ◯ 明治7年 1874 『假名附単語篇』 六明堂板 カ、
明治8年 1875 『小学懸図解』 吉川朝次 カ゜ ◯ 明治16年 1883 『普通漢語字類大全』 下村孝元 カ ◯ 明治23年 1890 『中等教育日本文典全』 落合直文ほか カ゜ ◯
明治30年 1897 『日本文典大綱』 岡倉由三郎 カ゜ ◯
明治34年 1901 『日本俗語文典』 金井保三 カ、 ◯
明治34年 1901 『国語教授用発音教授法』 高橋龍雄 カ、 ◯ 明治35年 1902 『応用言語学十回講話』 岡倉由三郎 カ゜ ◯
明治35年 1902 『言語学講話』 保科孝一 カ、 ◯
明治38年 1905 『音韻調査報告書』 国語調査委員会 カ、 ◯
明治39年 1906 『日本口語文典』 鈴木暢幸 カ゜ ◯
明治42年 1909 『国語学概論』 亀田次郎 カ、 ◯
明治43年 1910 『国語学精義』 保科孝一 カ、 ◯
明治45年 1912 『新国定読本適用実際口語法』 橋本文寿 カ゜
〔表9〕によると、幕末からガ行鼻濁音は鼻音要素を表すため、独自の表記が成立したこ とがわかる。
〔表9〕に示したように、明治 16年(1883)に出された『普通漢語字類大全』は、カ行
表記の右側に白抜きの白圏「 」を付けている。仮にそれを除けば、ガ行鼻濁音表記にはカ 行表記の右肩に「゜」を付けるものと、「、」を付けるものの2系統があることになる。2系 統の書き分けについて川本栄一郎(1990)は次のように述べている。
「か゜き゜く゜け゜こ゜」「カ゜キ゜ク゜ケ゜コ゜」と「カ、キ、ク、 ケ、コ、」と の関係についてはよくわからない。幕末の文献である『日記』・『獄中記』や『横 文字早学』に「か゜き゜く゜け゜こ゜」「カ゜キ゜ク゜ケ゜コ゜」が見られ、「カ、 キ、ク、ケ、 コ、」は明治初期の文献に見られるということから考えると、前者が 先で後者はあと、ということになりそうであるが、しかし、「カ゜キ゜ク゜ケ゜コ゜」
が、橘慎一郎『絵入単語篇』や吉川朝次『小学懸図解』など、個人名を冠した文 献に多く見られるのに対して、「カ、キ、ク、ケ、コ、」のほうは、文部省『単語篇』
や石川県学校『単語篇』など、公的機関の文献に多いという相違も見られるので、
そうとばかりもいえない。あるいは、私的なものに対する公的なものといった違 いや学統の違いなどの事情によるものなのかもしれない。しかし、詳しいことは わからない。
右肩の「゜」と「、」は学統の違いなどによって書き分けが生じされたものと考えられる。
「カ゜キ゜ク゜ケ゜コ゜」の系統は個人名を冠した文献に多く見られ、「カ、キ、ク、ケ、コ、」 の系統は公的機関の文献に多く見られる。
1.2節「編纂者」で述べたように、筆頭編著者の伊沢修二は京音楽学校長・東京盲唖学校 長・文部省編輯局長・台湾総督府学務部長・貴族院議員などを歴任しているので、『日清字 音鑑』は公的な性格を持っていると言えよう。したがって、『日清字音鑑』に見られる記号
「ク、」は新造符号ではなく、既に成立した「グ」の鼻濁音表記ではないかと思われる。
ガ行鼻濁音表記の成立経緯について、川本栄一郎(1990)は次のように述べている。
ガ行鼻濁音表記の「か゜き゜く゜け゜こ゜」「カ゜キ゜ク゜ケ゜コ゜」「カ、キ、ク、 ケ、コ、」は、ガ行鼻濁音も「半濁音」の一種と見る考え方を基盤に、それへガ行 子音の〔ŋ〕に注目する新しい音声学的な見方が加わって生じたものと推測される。
しかし、その出所や伝播経路についてはよくわからない。
ガ行鼻濁音表記の成立は「半濁音」パ行P音表記の「゜」と繋がっているとしている。
また、沼本克明(1997)はガ行鼻濁音表記の起源について次のように述べている。
扨、事のついでに「か゜き゜く゜け゜こ゜」についても觸れておこう。
今日、ガ行鼻濁音にこの方式が採られているのは周知の所であるが、その起源が どこにあったのかは必ずしも明確にされてはいない。(筆者注:中略)
その起源は「゜」が本來有している注意機能(評點機能)が、特別の脈絡無しに 生じたものと見ても良いのではなかろうか。
ガ行鼻濁音表記の起源は半濁音符「゜」の注意機能によって生じたとする。
以上のように、川本栄一郎(1990)と沼本克明(1997)は共にガ行鼻濁音の表記の起源 を半濁音符「゜」と繋がっていると指摘している。
半濁音符「゜」の成立と定着について、沼本克明(1997)は次のように述べている。
日本語のハ行子音が兩唇音から ɸ-から、調音點を後退させて漸次h-に移行するに つれ、それまで異音の位置にあった p-が音韻として意識される様になる。外國語 との接觸以前にその胎動があった事は、山田忠雄氏の指摘された二つの資料によ って裏づけ出來るであろう。その後少しずつ國内資料に p-音表記の試みが生じて 行ったことは「仮名鏡」や幸若舞・狂言など、本節第一項で紹介した通りである。
これ等の、言わば胎動現象の詳細に就いてはここでは十分に論及してはいないの を遺憾とするが、ともかく、そういう胎動現象を一氣に音韻としての確立へと導 き、その表記法を「゜」符號に統一させるに到ったのは、キリシタン資料ではな く唐音資料であったと考えられる。斯くして、半濁音符史上に於ける唐音資料は、
非常に重要な位置にあったということなる。
半濁音符「゜」は唐音資料から影響を受けて成立したものとする。言い換えれば、ガ行 鼻濁音表記は間接的に唐音資料の注意点「゜」の影響を受けて成立したものと思われる。
以上をまとめると、『日清字音鑑』に見られば記号「ク、」は新造符号ではなく、幕末から 成立したガ行鼻濁音表記である。ガ行鼻濁音表記は間接的に唐音資料の注意点「゜」の影 響を受けて成立したものであると思われる。