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一調書

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何かがあるのだということが図2.3視点的方法による円錐曲線の理解(③p.66)

自然と感じられるようになる

のである。このようなとき,われわれは,概念の多面的な理解を超えて,

多面性の背後にある統一をつかんでいることになる。 (以上,③,pp.64−67

要約)

佐伯眸氏が,イメージとは本来「可能性の連続体」と述べていることも,

このような視点の連続的移動をふまえた上でのことであろう。

(@,pp.187−206)

3.イメージ的認識の認識的特徴

以上みてきたことから,イメージ的認識は,次のような認識的特徴をも つと言える。その一つは,間接性,つまり「見え」を通して見られる個別 例は, 「実在」としての対象の一側面であって対象自体ではないというこ

とである。対象は「見え」を通して間接的に理解されることになる。

この間接性は認識内容の性格にも影響を及ぼす。イメージ的認識によっ て把握されるものは,常に「〜のようなもの」という性格を帯びる。これ を蓋然性と呼ぼう。これは「見え」を通して見られるものがある一つの視

点からの像であって,それは「実在」の一側面,あるいはさまざまにとり うる可能性の中の一例にしかすぎないということをふまえると,当然の帰

結である。 (③,PP.68−69参照)

イメージ的認識のもっこの特徴は,論理的な認識と比較すると,より一層 明確になって現れてくる。宮崎氏は,それを次のように対比させている。

表2−2論理的認識とイメージ的認識との比較

論理的認識

・把握した概念の属性を一つ一つ  リストアップしていくことによ

って,概念を明確にする。

・対象が「見え」としてでなくそれ 自体として把握され,一歩一歩解 明される。

・認識が言語的に明確に定式化さ

れる。

・対象を極めて明確に把握できる という長所をもつが,一方面明確 化しえない部分の完全な切り捨 てが行われるという欠点をもつ。

イメージ的認識

・曖昧さを多くもった概念の場合 でもそれを「実在」とし,典型な  どの「見え」を通して「〜のよう

なもの」として把握する。

・把握の明確さに関しては論理的 認識と比べて一歩劣るが,曖昧な 部分のはっきりとした切り捨て がないので,この種の概念の把握 には適している場合がある。

(①,PP.50−51参照)

イメージ的認識と論理的認識が相互に異なった特徴をもっていることが 分かる。しかも,それらは互いに相補的な関係にある。イメージ的認識を 社会科授業に組み込むことの最大のメリットは,ここにある。

従来の社会科では,事象の因果関係を明らかにすることを第1の目標とし,

論理的な認識を中心とした授業設計への努力が行なわれてきた。そこでは,

上記の指摘にあるように,曖昧な思考は排除され,その結果社会科の学習 は往々にして硬直したものとなってきた。

社会科の学習が論理的な認識を基盤としなければならないことは,言うま でもないが,論理の比重が高まれば高まるほど,一方で切り捨てられる部 分が存在する現実があることを直視するべきである。

イメージ的認識は,論理的認識のもつデメリットを克服するものである。

したがって,論理的認識にイメージ的認識を組み込めば,双方のもつ特性

が補われ,より深い認識が可能となる。特に単元の導入部や,学習問題を 導き出すまでの過程において,イメージ的認識はその有効性を発揮するこ とができるだろう。一方,学習の中盤やまとめの過程においては,論理的 認識が抽象的概念や法則などの理解に有効にはたらくことであろう。

このような意味で,イメージ的認識は社会科の中心的認識方法とされてき た論理的認識と共存し,より深い認識を可能とするものであると言える。

次章では,イメージ的認識を社会科の授業過程に具体的にどのように取り 入れるかを考察する。

〈引用・参考文献〉

①宮崎清孝 「授業におけるイメージ」 吉田章宏編 『教育心理学講座 3 授  業』 朝倉書店 1983

②宮崎清孝 「イメージと典型一視点論的アプローチ」 『心理学評論』 1978, Vol.

 21, No.4, 383−401

③宮崎清孝  「イメージと理解」 東 洋・大山 正 監修 佐伯絆 編  『認知  心理学講座 3 推論と理解』 東京大学出版会 1982

④佐伯 脾  『考えることの教育』 国土社 1990

⑤宮崎清孝・上野直樹 『認知科学選書 1 視点』 東京大学出版会 1985

⑥佐伯 月牛 『イメージ化による知識と学習』 東洋館出版社 1978

第2節 社会科の学習過程とイメージ的認識

前節では,イメージによる認識,すなわちイメージ的認識の構造とその 認識的特徴をみた。

本節では,社会科の学習過程において,イメージ的認識をどのように具 現化するのかを明らかにする。

1.知覚語とイメージ的認識

知覚語をめぐる議論には,イメージ的認識の具現化と共通する問題意識 が存在する。

そこで,本項では知覚語論争における論点を整理して,そこから得られ た示唆をもとにイメージ的認識の具現化の方法を模索する。

(1)知覚語論争

有田和正氏の有名な実践「バスのうんてんしゅ」に関して,宇佐美寛氏 が次のような考察を行った。 「バスの運転手さんは,どんな仕事をしてい ますか。」と問いかけても,子どもは動かない。しかし, 「バスの運転手 さんは,どこを見て運転していますか。」と問いかけると,全員元気いっ ぱい手を挙げる。この違いはなぜ生じるのか。

 「運転手さんは,その行動において様々な事物を知覚し操作している。

見たり聞いたり動かしたりしている。ハンドル,アクセル,ブレーキ,

様々な計器類,バック・ミラー,乗客の様子,道路の状態…等が対象で ある。ところが『仕事』を問うたのでは,これらの対象は意識されない。

 『仕事』とは,目的の観点を意味しているのであって,働きかけの対象 を意味する語ではないのである。これに対し,『見る』のは,何らかの 対象を見るのである。運転手さんの『見る』行動を問題にすれば,見て いる対象が意識されることになる。」 (①,p.11)

宇佐美氏は,「仕事」のような「もの離れ・

状況離れをしている語」を「身分語」と呼び,

「見る」のような語を「知覚語」と呼んだ。

経験について言葉で述べるとき,その言葉に は,いくつかのレベルがあり,「知覚語」は

「身分語」よりも経験に近いレベルであると

身分語二超状況的・統括 知覚語:状況的・描写

経験

したのである。そして,次のような主張をする。

〈宇佐美理論〉

 経験された事実について詳細に具体的に語らせるためには,身分語でi iなく,知覚語で発問すべきである。 (①,p.14)

この宇佐美理論は,いくつかの支持と批判を招くことになった。この宇 佐美氏の提案をめぐって繰り広げられた議論を,知覚語論争と呼ぶことに

する。

まず,向山洋一氏は次のような評価を行った。

 「宇佐美氏は『知覚語で問う』という形で仮説を与えられた。重要な指 摘である。これを発問の法則その一としておく。『バスの運転手さんは 何を見ていますか』というのも『見る』という知覚語で聞いているので ある。この仮説によって,『発問研究』は,今までにないくらい前進す

るだろう。」 (③,P.80)

一方,岡本明人氏は,宇佐美理論は「経験された事実について…語らせ る」場合に有効なのであって,この条件をつけた場合に法則となりうると して,向山氏の手放しの賛辞を批判した。

(2)知覚語論争の問題点とイメージ的認識との接点

これらの議論に対し,藤岡信勝氏は,宇佐美理論はこのままでは有効な 発問の法則になりえないとした。そして,そもそも「知覚語」とは何かと いう考察を行うために,宇佐美氏の示した知覚語の例に着目した。宇佐美 氏が示している知覚語の例は次のようなものである。

①「君,飲む?」と聞かれたとき,飲酒家であるかどうか聞かれたので  はなく, 「今,この個別的状況において酒を飲む意志があるか否かが  問われている」という場合がある。これは,知覚語としての「飲む」

 である。

②「性交についてのポルノ小説の言葉が,主として身分語ではなく知覚  語であることは言うまでもない。そこでは,言葉は統括するためでは  なく描写するために用いられている。」

③「文学作品の主題や登場人物の気持ちを言わせるのは,身分語による  統括をさせることである。この種の言葉は,たいていの場合,作品に  書いてある知覚語から遊離し,独走している。」

      (いずれも①,pp.12−14か日抽出)

これらの用例から,藤岡氏は知覚語は, 「見る」 「きく」のような知覚 現象を表す語だけに限定されるものではないとして,次のように再定義し

た。

 読者の側に照応する経験があり,その場に居あわせたような,生き生i iきとしたイメージを喚起する語ならば,どんな語でも『知覚語』になりi

iうるのである。 (②,p.151)

さらに,藤岡氏は「身分語一知覚語」の議論の原型が,イギリスの哲学 者ギルバート・ライルにあるとしてその論を紹介している。そこでは,「見 る」ことに関して,質の異なる二つの語について述べられている。その一 つは,「関係・機能を統括して示す」ものであり,もう一つの語は「個々

に知覚される人や物」などを指すものである。 「教育学部」という語が前 者であり,「机」,「椅子」という語は後者に当たる。 「見えない」もの と「見える」ものと表現してもよいだろう。そして,宇佐美挙の背後には これと共通する問題意識があるとしている。

藤岡氏がわざわざライルの論を用いてまで説明したかったことは,知覚 語が「見る」,「きく」といった知覚現象を指す語に限定されるものでは

ない,ということである。そして,それを「イメージを喚起する語」と規 定し直したのである。だが,藤岡氏のこの規定は,まだ不十分である。

たとえば,藤岡氏が指摘レたように,宇佐美説がライルの言うところの,

「個々に知覚される人や物」や「関係・機能を統括して示す」という語の 使い分けと共通した問題意識に立ったものであるというならば,まず知覚 語や身分語がそれらとどのように関わるのかといった点を明らかにすべき である。また, 「個々に知覚される人や物」と「関係・機能を統括して示 す」語との関係,言い換えれば,知覚語と身分語を関係づける視点につい て考察するべきである。藤岡氏の論も含めて知覚語論争が不毛な論議に陥 っている原因は,知覚語だけに視点を当ててこれらの関連が全く論議の対 象とされていないことにある。

宇佐美氏は,言葉と経験とのレベルの違いによって言葉を分類したので あって,それらは単独で語られることを想定したものではなかったはずで ある。相互の関連をふまえた上で,その用い方なり,用いられる状況なり が考察されるべきものなのである。このことは,宇佐美氏の論に立ち返っ て考察すれば明らかである。ここで,宇佐美氏が別の機会に知覚語につい て語っている論をみてみよう。

 「校舎というものは大きい。特に,子どもには(読者も小学校のころを