湖北省江陵県にある楚の都、郢の紀南城の周辺には大小さまざまな墳墓が分布している。そのほ とんどが戦国時代に墳丘墓である。その墳墓の多くは山上や丘陵などの高い地形に立地している。
墳丘が方形を呈したいくつかを除くと、その大多数は楕円形につくり、版築築造である。楚の墳丘
のもう一つの特徴は墳丘の傾斜が緩やかなことである56。湖北省荊門市包山M2では、1本墓道の 竪穴土坑墓で、二重槨三重棺である。墳丘は直径 54 m、高さ 5.8 mの円形を呈す(図1- 29)。
2 戦国時代の墳丘墓の主な特徴
前時代と比べて、戦国時代の墳丘墓にはいくつかの顕著な特徴があり、地上部分と地下部分に分 けてまとめておく。
(1)地上部分
A 独立した王陵形態と一組の陵園制度
春秋時代の墓地制度は依然として血縁関係を基礎にした同族墓地であり、貴族の墓地である「公 墓」と庶民の「邦墓」に分かれる。
東周時代の周王室は独自の王陵墓域をもっていた。戦国時代には諸侯国もほとんどが独自の王陵 域を、河北省易県燕下都燕王陵域や山東省臨淄の斉都の東南にある「四王塚」と「二王塚」のなど のように、形成している。それだけではなく、一部の諸侯国では、一人の王を中心として、企画さ れた独立した王陵をつくるようになる。例えば、河南省輝県の魏王陵、河北省邯鄲の趙王陵、河北 省平山の中山王陵などである。
王陵の陵園制の誕生は、後の秦・漢陵墓制度に重要な影響を与えた。その内容は、巨大な墳丘を 中心にして版築土塀または濠で陵園を囲むもの(秦、趙、中山、韓など)、陵寝建築をもつもの(秦、
中山、魏、韓など)、陪葬坑をもつもの(秦、趙、魏、中山)、陪葬墓をもつもの(秦、趙、中山、
魏、斉)などが含まれる。中でも、全面ボーリング探査の結果、陝西省咸陽周陵鎮の2号秦王陵園 が最も豊富に要素が揃っており、形態もはっきりしている。
戦国時代に出現した陪葬墓は、長く続いてきた殉葬制度に代わるものとしてみることができ、河 北省平山の中山王M 1 には6基の、M6には3基の陪葬墓が、陝西省咸陽周陵鎮の2号秦王陵には 168 基の陪葬墓が造られているように、社会進歩の一種の体現としてとらえられる。
独立王陵および陵園制度の出現は、戦国時代の鉄器の普及、生産力の向上、経済の発展がもたら した結果であり、諸侯国の強兵、変革、競争の産物である。つまり、諸侯国の国王は、もはや一族 の代表というのではなく、新しい封建政治秩序に適応した、一国家の代表として、名義上の周王か ら離れ、甚だしきに至っては周王の上に凌駕し、生前に擁した至上の権利と地位を、死後にも国力 を誇示したのである。そして、それにかこつけて新しい封建政治の秩序を強固にすることを望み、
強国の実現を夢見たことを、陵墓と陵園は最もよく反映したものである。
B 墓上の普遍的な標識物
大きく墳丘と殿堂建築の二つに分けられる。
① 墳 丘
墳丘は版築である。各諸侯国の墳丘の形状はよく似ているものの、いくつかの相違点がある。そ のうちの秦、燕、趙国の王陵墳丘は長方錐台形か、方錐台形を呈す。秦国の王陵は方錐台形状で、
墳丘の傾斜はかなりきつい。斉国の王陵は上円下方の墳丘で、その傾斜も急である。楚国の陵墓の 墳丘は方形のもあるが、大部分は楕円形で、その傾斜は緩やかである。安徽省淮南市蔡家崗鎮趙家 孤堆M 1(蔡国)の墳丘は円形につくる。
② 殿堂建築
魏、中山、韓国の王陵の上には大型の瓦葺き殿堂が建っていた。魏の王陵上の建築は低い基壇建 築で、中山と韓国は高い基壇建築である。
(2)地下部分
A 墓葬の形態
すべて竪穴土(石)坑木槨墓である。中山王M 1,M6や韓国王陵のように、墓坑壁にスサ入り 土を塗った上に白色や赤色を塗って内装している。中山王M6では、墓坑壁に偽りの柱を立てて地 下宮殿のようにしている(図1- 30)。また、韓国王陵では墓坑の上部に木造屋根をまねた屋根を 構築している。
B 題湊の制
棺槨制度の一つである題湊の制は諸侯列国に広く普及していた。題湊とは、幅厚さ共にほぼ同じ の角材を墓壁に合わせてきっちりと積み上げた槨室のことである。そして、この題湊の中に多重の 棺槨を安置する。
C 詰め石・詰め炭・詰め砂
春秋時代、山東省臨淄の斉故城の5号春秋後期斉国墓57や臨淄郎家庄1号春秋戦国の交の斉国 墓58などのように、すでに出現していた。戦国時代には、題湊の外側に石や木炭、砂、泥土を詰 めることが一般的になるが、それは『呂氏春秋・孟冬紀・節喪』に「題湊之室、棺槨数襲、積石積 炭、以環其外〔題湊の室に、棺槨其の数を襲(重)ね、石を積め炭を積め、以て其の外を環(囲)
む〕」と記されていることと符合する。
石詰めや砂詰めは主に盗掘を防ぐための、炭詰めは湿気を防ぐための処置と一般にとらえられて おり、それは当然のことである。しかしながら、湿度防止や盗掘防止の対象は副葬品の各種物品を 含んでいるのではあるが、その中心は槨・棺内に納められた被葬者でなければならない。棺槨の設 置は、礼制の規範の効果以外に、石や砂、木炭を詰めることにより遺体を保護し、遺体を腐朽から 守るための措置であり、それこそ墓内の諸施設を構築した最後の目的であったのだろう。南方によ く見られる槨外を泥で覆う方法も、同等の目的のはずであり、時として遺体がよく保存されている ことがある。
D 単独の器物坑
大型陵墓の中には槨室から独立した副葬遺物坑が現れ、しかもそれが墓坑と墓道の外へ広がり、
外蔵槨制度ができはじめた。山東地区では、春秋時代の呂国や斉国の大型墓内に比較的早く単独 の遺物坑が現れている。呂国では山東省沂水県劉家店子の春秋時代中期の2基の墓(図1- 31)59、
斉国では山東省臨淄の斉故城5号春秋後期の墓などである。戦国時代には陵墓に単独の遺物坑を設 置することがさらに広まり、河南省輝県固囲村M1では墓道に、河北省中山王M1とM6では墓内 だけでなく墓外にも、陝西省咸陽市周陵鎮の戦国時代後期の2号秦王陵では陵外に 27 個もの遺物 坑を設けている。
3 墓葬の等級制度
東周列国の墓葬は、4本墓道の「亞」字形、2本墓道の「中」字形、1本墓道の「甲」字形、無 墓道の長方形と平面形を分けることができるが、墓道の多少によって被葬者の等級を規制する方法 は、各諸侯国での実施状況はまちまちで、総体的に以前よりも緩やかになっている。それに反して、
葬具である棺槨の枚数、副葬品の鼎や簋の数量は被葬者の身分階層を規制する礼制として整えられ てきた。この礼制は西周に始まり、東周で形作られたために両周墓制〔西周・東周墓制〕と呼ばれ ている。同時に、地上の墳丘とその他の施設の出現と発展に伴って、地上の墓葬体系がしだいに形 成され、墓葬の等級制度の重要な部分を構成した。しかし、地上の墓葬施設が等級によって数値化 できるようになるには、前漢・後漢時代を待たねばならない。
(1)棺槨制度
『礼記・檀弓上』に「天子之棺四重」とある。鄭玄は「尚深邃也。諸侯三重、諸侯再重、大夫一 重、士不重」と注す。『庄子・雑篇・天下』に「天子棺槨七重、諸侯五重、大夫三重、士再重」と ある。上述の文献に記された棺槨の枚数の礼制に対して、主に二つの違った理解と考え方がある。
その一つは、『礼記・檀弓上』に記された棺制の「重」は二重を表しており、『庄子・雑篇・天下』
の「重」は一重を表しているとし、そこから得られた結論は、天子が二重槨五重棺を、諸侯が一重 槨四重棺を、大夫が一重槨二重棺を、士が一重槨一重棺を用いたというものである60。別の意見は、
二つの文献に記された「重」の意味は同じで、どちらも一重であり、天子が三重槨四重棺を、諸侯 が二重槨三重棺を、大夫が一重槨二重棺を、士が一重槨一重棺を用いた礼制であったというもので ある61。
当然、そのほかの見方として、天子は一重槨五重棺で、諸侯が一重槨三重棺で、大夫が一重槨二 重棺で、士が一重槨一重棺であった62とするものなどがある。
また、西周の墓葬棺槨制度の基礎の上に、春秋時代の墓葬棺槨制の秩序の発展があり、完全に揃 う段階が戦国時代になる、という研究者もいる63。
戦国時代の墓葬の棺槨の枚数と文献記載との関係がうまく適合しているところと、しないところ がある。それは、礼制というものが往々にして一種の理想化された制度であって、具体的実施にあ たってはいろいろな原因で、いろいろと細かく変化したであろうことは、特に東周という急激に変 化した時代においてはなおさらのことといえる。そのことは多くの墓葬の実例が、文献に記された 葬送礼制の存在したことを証明している。