• 検索結果がありません。

曹魏の墓葬

ドキュメント内 中日古代墳丘墓の比較研究 (ページ 97-105)

第Ⅲ章  中国古代墳丘墓の衰退 -魏晋時期-

第1節  曹魏の墓葬

 一般的に、曹魏の立国期間は短く、その墓制の前半は後漢墓に類似し、後半はまた西晋墓と混同 しやすい。そのため峻別は非常に難しく、曹魏墓制の研究を困難なものとしている。これまでよく 引用された資料は、1956 年の洛陽澗西で発掘された正始八年(A.D.247)墓などの少数の墓葬に 限られた。近年、報告されたものとして、1951 年の山東省東阿県魚山で発掘され、青龍元年(A.D.233)

に修建された陳思王曹植墓、陝西省西安市郭杜鎮で発掘された景元元年(A.D.261)墓、河南省安 陽県西高穴村で発掘され、後漢建安二十五年(すなわち曹魏黄初元年(A.D.220))に葬られた魏武 王曹操墓(高陵)、および洛陽孟津三十里鋪で発掘され、太和二年(A.D.228)に葬られた壮侯曹 休墓がある。以上のいくつかのものは、年代が確定可能な墓葬である。これらの墓葬および比較 検討によって、おおよそ曹魏時期に推定することができた墓葬は、この時期の墓制を研究するうえ で新しい局面を迎えており、多くの研究者によって魏晋墓葬について研究を行われている

1 墓葬の概況    

 ここでは年代が明らかな墓葬を主に、曹魏墓の概況を紹介する(表3-1)。

A 河南安陽西高穴2号墓

 封土をもたない。一条の傾斜した墓道を有する多室磚墓。磁北から 110 度の方向を向く。墓道・

甬道(内側に墓門を設け、外側に厚さ 1.45 mの封門磚壁がある)、前室および南側室・北側室・後 室および南側室・北側室からなる(図3-1、3-2)。全長は 60m 弱である。

 墓壁の表面には石灰を塗布し、上下には数層にわたって鉄釘が打たれており、個別の釘穴には縄 糸の痕跡が残っていることから、当時、墓壁には幕のような織物が掛っていたはずである。

 墓室内には、3体の頭骨とその他の骨格が発見され、鑑定によって3個体に分別され、1体は

60 歳前後の男性、1体は 50 歳前後の女性、残りの1体は 20 歳前後の女性であるとされた。後室 と2つの側室から発見された木棺などの葬具の状況から、男性墓主は後室後部、2体の女性は両方 の側室に置かれていたものと推測できる。

 盗掘によって、副葬品は墓内各所に散乱し、多くはすでに元の位置から離れている。金銀器・鉄 器・銅器・玉石器・陶瓷器・骨器・漆木器、および水晶・瑪瑙・珍珠など約 400 点がある。

 墓葬の地理的な位置、年代、出土文字資料(石牌)など副葬品と新たに付近で出土した後趙時期 の魯潜墓誌や歴史文献を総合的に分析した結果、この墓の墓主は著名な歴史人物である曹操であり、

後漢建安二十五年(A.D.220)に埋葬されたものとした。

2号墓の周囲は、垣壁を築いて陵園を形成する。平面は長方形で、北壁の長さは 100.8m、南壁の 長さは 108.2m、東壁の長さは 68.8m、西壁は壊されている。東壁の外側には溝濠があり、2 つの門 道を設けている。

 ほかにも文献記載によれば、曹操高陵には祭殿が立てられており、のちに文帝のときに取り壊さ れた。『晋書』志第十・礼中には以下のような記載がある。

 「魏武葬高陵、有司依漢立陵上祭殿。至文帝黄初三年、乃詔曰『先帝躬履節倹、遺詔省約。子以 述父为孝、臣以系事為忠。古不墓祭、皆設设于廟。高陵上殿皆毁壊、車馬還厩、衣服蔵府、以従先 帝倹德之志。』」(魏の武帝は高陵に埋葬された。官吏は漢に倣い陵うえに祭殿を建てた。文帝の黄 初三年になって、文帝は詔していった「先帝は身につけるものから節倹し、省約することを遺詔と した。子は父の事績を受け継ぐことをもって孝となし、臣は良く仕えることをもって忠となす。か つては墓では祀りを行わず、みな廟を設けて行った。そのため、高陵にある祭殿は取り壊し、車馬 は厩に帰し、衣服は宮廷に収め、先帝の倹徳の志に従いなさい」と。)

B 河南孟津三十里鋪 44 号墓

 墳丘をもたない。一条の傾斜した墓道を有する多室磚墓。磁北から 98 度の方向を向く。墓道・甬道・

前室および南の2つの側室・北側室・東側室・後室からなる。全長は 50.6m である。合葬墓。

 墓葬は盗掘され、副葬品は鉄器・銅器・金銀飾・土器などである。

 後室から出土した「曹休」の銅印章によって、墓主は太和二年(A.D.228)に亡くなった壮侯曹 休であることが確定した。

C 山東東阿魚山曹魏墓

 1951 年に発掘されたが、資料の公表が遅れ、墓葬の形態については諸説がある。墳丘はないと 見るべきである。形態は二室磚墓で、前室は方形、後室は不明である(図3-3)。前室には棺が 1 つ置かれていた。

 墓葬は盗掘され、副葬品は鉄器・銅器・玉石器・ガラス器・土器の計 132 点である。

 墓葬の地理的位置や出土した銘文磚など副葬品、文献記載から、この墓の墓主は、何度も封ぜら れ、かつて鄄城王、雍丘王、東阿王となり、最後は陳王となった陳思王の曹植で、墓葬は青龍元年

(A.D.233)に修建されたものである。

D 河南洛陽澗西曹魏墓

 一条の傾斜した墓道を有する多室磚墓。墓道・甬道・前室および南側室・北側室・後室からなる。

磁北から 100 度の方向を向く(図3-4)。

 墓葬は盗掘され、副葬品は鉄器・銅器・玉石器・土器など計 65 点である。その中で最も重要な のは、まさに「正始八年」の刻銘の鉄帷帳架である。この紀年により、墓の年代が正始八年(A.D.247)

もしくはやや後の時期であることが分かる。

E  陕 西西安郭杜 13 号墓

 一条の傾斜した墓道を有する前後二室の土洞墓。墓道(上部には階段を有する)・甬道・前室・

後室からなる。磁北から 182 度の方向を向く(図3-5)。後室には木棺が置かれ、二人合葬である。

副葬品は鉄器・銅器・土器など計 20 点である。その中で、鎮墓陶瓶には朱書きで「景元元年十二月」

などの文字が見られる。推算すると、景元元年十二月は 261 年に相当する。

 以上の5基の墓葬は年代が明確で、220 年から 261 年までで、その中で年代の近いものは、わず かに数年から十数年のみで、河南・山東・陕西など隣接地区に分布する。曹魏 40 年余りの墓葬の 状况は基本的にこのようにいえる。これ以外に、おおよそ曹魏時期と判断可能ないくつかの墓葬が ある。河南新郷 1 号墓(一条の傾斜した墓道を有する前後二室の墓)(図3-6)、河南偃師杏園 村 6 号墓(一条の傾斜した墓道を有する前後二室の墓で、前室は 2 つの側室、後室は 1 つの小側 室がある)(図3-7)、西安郭杜 13 号墓のすぐ近くの 14 号墓(一条の傾斜した墓道を有する前後 二室の墓で、前室は 2 つの側室がある)(図3-8)などである。

2 葬制総論

 曹魏の帝陵はこれまで発見されていない。上述の8基の墓はすべて前・後の主要墓室を有する二 室墓で、その中でも安陽西高穴2号墓は魏武王曹操墓、東阿魚山墓は陳思王曹植墓、孟津三十里鋪 墓は壮侯曹休墓とされている。その他の墓の墓主は不明であるが、墓葬の形態と規模から見て、す べて大中型墓の範疇に属する。ここでは墓葬等級の細分はせず、おおよそ大中型墓を例として、曹 魏の墓制を分析する。

 曹操墓を曹魏墓制の中に入れて議論するわけは、第一にこの墓は曹魏が漢に取って代ったその年 にあたり、曹操の死の時期は名義上、後漢紀年に属していたが、実質的にまさに曹魏が自立する前 夜にあたるためである。第二に、曹操は事実上、曹魏の墓制の開拓者であるためである。この点は のちに言及する。

 以下、地面施設、墓葬の形態、副葬品の三方面から論述する。

(1)地面施設

 前漢・後漢の墓制は、ともに地面施設を極めて重視した。たとえば、墳丘・陵園・陵寝建築など である。後漢になると、墳丘の傍らに神道を敷き、石獣を置くことが流行する。ただし、上述の曹 魏墓葬は、曹操墓で陵園が発見されたのを除き、関連する地面の施設はいまだ発見されていない。

漢代を通じて最も普遍的で、また被葬者の等級・身分を視覚的に体現していた墳丘も、もはや保留 にはできず、まさに「不封不樹」であった。地面施設の有無は、墓葬制度の大局と関わり、魏晋墓 制と漢代墓制を区分する重要な特徴である。

(2)墓葬形態

 既知の曹魏の大中型墓から見ると、一条の長い傾斜した墓道を有する二つの主要墓室の前後室墓 であり、側室がないもの(東阿魚山墓、新郷1号墓、西安郭杜 13 号墓)、前室に2~4室の側室を もつもの(孟津三十里鋪 44 号墓は4室、洛陽澗西墓は2室、西安郭杜 14 号墓は2室)、前後室と もに側室を有するもの(安陽西高穴 2 号墓は前後室にそれぞれ 2 室が伴う。偃師杏園村6号墓は前 室に2室、後室に1室が伴う)がある。墓室はほとんどが磚室で、前室が磚室、後室が土洞のもの

(偃師杏園村6号墓)、全体が土洞のもの(西安郭杜 13 号墓、14 号墓)もある。

 墓室の平面形から見ると、前後2つの墓室がともに方形、もしくは方形に近いのは安陽西高穴2 号墓のみで、東阿魚山墓は前室は方形だが、後室は不明である。前室は方形もしくは方形に近く、

後室が長方形であるのは、新郷1号墓、洛陽澗西墓、西安郭杜 13 号墓、14 号墓の4基がある。前 後室がともに長方形なのは孟津三十里铺44 号墓と偃師杏園村6号墓の2基で、そのうち前者は前 室が横列式である。

 墓室の立体形から見ると、おおよそ平面が方形もしくは方形に近いものの墓室は、四角寄棟形も しくは丸天井で、墓室が長方形のものは、多くが弓なり形で、新郷1号墓のみ、長方形の後室が四 角寄棟形である。

 葬具はすべて木棺で、長方形である。棺の痕跡を残すものもあり、棺蓋を固定するための鉄釘の みを残すものもある。釘の長さは6~ 20cm。墓内は多くは 2 ~ 3 人の合葬である。

 洛陽澗西曹魏墓からは9点の鉄質の帷帳の部品が出土した。出土したのは、前室の傍らであるが、

当時、帷帳は後室の木棺うえに張られていたはずである。そのため盗掘時に位置が移動したのであ る。安陽西高穴2号墓の後室南北側室内には木棺の四周に鉄質の帷帳の部品が見つかり、帷帳は元 来棺上に被せてあったことを物語る。このほか、この墓の前室と後室の壁面には数層にわたって鉄 釘が残っており、前室の釘端は円孔状で、後室の釘頭は鉤状である。前室の釘穴には縄糸痕跡が残 っていたことから見て、これらの鉄釘は、墓室の壁に幕のような織物を掛けていた可能性がある。

幕には各種の図案が描かれ、掛けることで壁画と同じようなものであったかもしれない。この墓の 後室内で帷帳の部品が発見されたかは分からないが、もし見つかっていないのであれば、後室内に 木棺が置かれ、そのほかでは帷帳が壁に鉄釘で掛けられていたかもしれない。

 後漢後期の大中型墓葬の形態と比較し、曹魏の墓葬形態は根本的に変化した。主に以下のような 点が挙げられる。

ⅰ:墓葬はより深いところに築かれ、傾斜した墓道もそれに伴い長くなった。墓道壁には階段が多 く設けられ、階段の数は墓葬の深度、墓道の長さと正比例する。このような現象が生じた原因

ドキュメント内 中日古代墳丘墓の比較研究 (ページ 97-105)