B 棺
第3節 小 結
弥生時代と古墳時代は、日本古代社会に重大な変化が発生した時期であり、この時期の日本と中国 大陸および韓半島とにますます密接な関係が生じたことは否定できない。例えば、稲作技術が伝来 して弥生社会の経済的基礎が築かれ、そして各種の鉄器・銅器が伝来して日本の金属製作技術の向 上を導き、これにより経済発展がさらに促進された。経済発展の需要に適応しつつ、人と物の交流 に伴って、各種の思想や観念までもが流入するようになるのは必然のことであり、最終的に当時の 日本社会の政治構造に一定の影響を及ぼした。しかしこの時期、中日両国の社会発展の水準は相違
しており、そのため両国間の交流はおそらく、依然として物的流通におおむね限定されており、人 の往来と物的流通を通じてある種の社会的・政治的な需要が満たされていた。人の往来を通じて真 に日本の各種社会制度(政治・経済・文化など)に建設的な影響が及ぼされるようになるのは、例 えば飛鳥時代や奈良時代の都城制度や律令制度などのように、古墳時代以後まで待たねばならなか っただろう。
各種の思想・観念のうち、葬送観念こそ最も強く伝統性と保守性を備えもつ。弥生時代の墳丘墓 と古墳時代の古墳は、どちらも当時の社会状況と需要に応じて出現し、社会の変化に従って変容し たはずである。そうした社会の変化は、おそらく当時の中国大陸からの刺戟と影響を受けていたで あろうが、しかし当時の人々が有する葬送観念は容易には変化し得なかった。
弥生時代の墓制、特に弥生時代後期~終末期の墓制は、秦漢の墓制と比較し得ないのであるが、し かし東周の墓制との間には相似する一面が認められる。例えば中国では、春秋時代に墳丘墓が出現 し、その墳丘はそれぞれ異なった形状を呈していた。戦国時代に至ると、諸侯の列国において高大 な墳丘が遍く造営されるようになった。この時期の墳丘の形状は依然として不統一で、しかも墳丘 の規範による被葬者の身分・等級制度を形成していなかった。日本の弥生時代の墓制もこれと同様 であり、弥生時代前期に墳丘墓が出現し、後期~終末期に墳丘が大型化したのであり、しかも地域 ごとに墳丘の形状がことごとく相違していた。こうした現象の原因を追究すると、両国の当時にお ける対外的な社会情勢が相似していたことと関連していたことがわかる。東周時代は名目的には統 一されており、統一の象徴たる周王が存在していた。しかし実際には、諸侯各国はそれぞれ政治を 執り行っていた。それら諸侯各国は、様々な方法を採用して自身の力量を発展させ、地域に覇を唱 えることを求めた。そして、墓制の構成部分のうち墳丘を高大に造営することで自国の強固な統治 を成就させ、その実力を誇示する一つの手段とした。日本の弥生時代はこれと似た社会状況であっ た。農業経済の発展に従い、列島各地で幾多の政治集団が出現し、競争を経ながら発展を遂げ、多 数の小国へと展開した。これらの小国も、様々な手段を通じて自身の力量を強大化させた。これら の手段には、中国との往来を通じて一定の影響力を獲得することも含まれていた。また中国の場合 と同様に、墓制の構成部分のうち墳丘が大型化を遂げてゆく過程において、墳丘自体が各小国の強 固な統治と実力を誇示する一種の道具になっていった。従って、弥生墳丘墓の出現と発展・変化は、
まさしく弥生社会の発展・変化の必要に応じたものということができるし、また弥生時代の墳丘墓 は縄文時代の基礎の上に成り立っており、社会に変革が発生する背景のもとで次第に発展・変化を 遂げてきたものということもできるのである。
こうした考えの筋道に従うならば、古墳時代の墓制と秦漢の墓制とを対比することも同様に可能 になる。墓葬の地下部分を論から捨象するならば、秦漢における墓制の主要な特徴の一つは、地上 施設が発達していることであり、そうした施設の中心は墳丘である。箸墓古墳が古墳時代の端緒に、
その巨大な形姿を地上に現したのと同様に、秦の始皇帝陵もまた空前絶後の規模をもって突如出現 した。その後、前漢の墓制は秦の墓制を継承あるいは発展させた。墳丘は方形を尊重しつつも同時
に円形も存在し、さらに墳形と墳高が被葬者の等級秩序の制度を形成するようになり、これは後漢 までずっと継続した。日本では箸墓古墳が確立して以後、前方後円墳が尊重されつつも同時に前方 後方墳・方墳・円墳も存在し、墳形と墳丘規模で被葬者の身分等級の規則を体現するようになった。
中国のあり方から見るならば、秦漢の墓制は伝統的墓制の継承に立脚しつつ革新されたものであっ た。これは統一された一大国家の政治的需要に応じたものであった。そしてまた、皇帝権を強化し、
封建的な等級制度の需要を維持するものであり、当然ながら同時に社会経済的・技術的条件を具備 するものでもあった。一方、視点を転じて日本の古墳時代を見るならば、この時代は統一を求め統 治を強化していた時代に相違なく、巨大古墳はまさにこうした社会発展状況に応じつつ、気運に乗 じて生まれたものであり、このような社会状況を維持するべく効力を発揮したものであった。従っ て、古墳の源流は弥生墳丘墓の中に探索すべきであり、古墳とは弥生社会が発展して一定の段階に 到達し、そのため社会に深刻な変化が発生し、墓制の変革が引き起こされて誕生したものだという ことができるのであり、ある者はこれを突然変異と説くわけである。
要するに、墓葬を地下部分と地上部分とに二大分するならば、前者は当然のこと死者のため設置 され、後者は主として生者による奉仕のためのもの、なかんずく現実社会の政治的奉仕のためのも のであった。
中日両国における同時期の墓制の比較分析を通じて、全体的に看取できることは、弥生時代の墳丘 墓および古墳時代の前方後円墳の形態と中国大陸の中原地域における戦国・秦漢・魏晋・南北朝の 墓制とには直接的な関係が認められないことである。これは墓葬制度の面のみに限られることでは なく、都城制度・政治制度・経済制度などの面においても、日本に対する中国からの直接的な影響 はことごとく看取できない。しかしながら結局、前漢・後漢以降、日本と中国王朝との間に直接的 な交渉が生まれ、交渉を通じて日本社会に影響がおよび得ることになった。そして日本社会は、中 国からの影響下において変化が生じ、さらに一歩進んで墓葬制度などの各種制度の変化が促進され たのである。このような意味からいうと、各種制度のレヴェルにおいては、社会発展の水準が相違 していたり伝統文化の差異があったりしたために、中国から日本への直接的な影響は生じなかった が、しかし当時における日本社会の変化は中国大陸および韓半島からの影響と密接な関係があった のである。従って、弥生墓制と古墳の埋葬はどちらとも、中国大陸および韓半島の情勢から間接的 な影響を受けていたということができる40。