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十六国・北朝墳丘墓

ドキュメント内 中日古代墳丘墓の比較研究 (ページ 121-164)

第Ⅳ章  中国古代墳丘墓の復興 -東晋十六国・南北朝時代-

第1節  十六国・北朝墳丘墓

近年西安南郊外鳳栖原で3基、咸陽渭城底張で 16 基の十六国墓が発掘された

 これらの墓はいずれも長い傾斜した墓道をもつ土洞墓である。墓道と墓室の形態によって、2類 に分類できる。

第一類 長い傾斜した墓道に階段を設けず、墓道は墓室より狭まり、平面形は狭長形あるいは台形

を呈す。

A 双室墓

 前室と後室、2つの主要な墓室がある。前室と後室の間が甬道で連結されるか、直接連結するか によって、2型式に分ける。

Ⅰ型 両室の間にやや長い甬道があり、前室と後室いずれも方形あるいは方形に近い形を呈すもの。

 西安南郊外草廠坡墓と咸陽中鉄七局三処 M1 の2基がある。前者は、甬道に近い墓道の両側それ ぞれに南北に長い耳室が付き、中に副葬品が置かれているのが特徴である(図4-1)。後者は前 室に2側室を備えて、台形を呈し、中には木棺が置かれている(図4-2)。

Ⅱ型 2つの墓室が直接連結され、一般に前室は方形あるいは方形に近い形を呈し、後室は比較的

小さく、長方形あるいは台形を呈し、形状は不揃いであることが多く、前室のほかの側室の形状に 類似する。

 西安瓦胡同 M7、咸陽師院 M1 ~ 5・10・11、中鉄七局三処 M2・4 の 10 基がある。そのうち咸 陽師院 M2 は前後室の間に短い甬道をもつ。

 瓦胡同 M7 と咸陽師院 M5 では「豊貨」銅銭が出土しており、前者は側室1つをもち(図4-3)、

後者は側室3つをもつ(図4-4)。

B 単室墓

 主要な墓室1つのみで、平面形は方形あるいは方形に近い形を呈す。

 咸陽平陵 M1、咸陽師院 M6・8・9 の4基がある。

 咸陽平陵 M1 は、墓道に1つの過洞と1つの竪井をもち、墓内の副葬品は豊富で配置位置が基本 的に原位置のままであるという、非常に重要な墓である(図4-5)。

第二類 長い傾斜した墓道の両脇に階段を設け、墓道は墓室より幅広く、平面形が台形あるいは長

方形を呈するもの。これも双室墓・単室墓の2種類がある。墓室方向は墓道方向と一致しないこと が多い。

A 双室墓

 2つの墓室の間にやや長い甬道があり、前室と後室いずれも方形あるいは方形に近い形を呈し、

前室に側室が付くものもある。

 西安韋曲 M1・2 と咸陽中鉄七局三処 M3 の3基がある。韋曲 M1・2 は墓道と甬道の間に1つの 過洞と1つの竪井を設けるという特徴がある。M1 の過洞・甬道と M2 の過洞上にはいずれも土彫 刻で作った家屋模型がある。M1 の墓室と墓道は方向が異なり、墓室形状はやや不整形である(図 4-6)。M2 の前室と後室の四隅にはいずれも土彫刻による角柱があり、柱の下には柱礎がある。

M 2の前室は1つの側室を有し、中には1人の子供が葬られている。M2 前室内には方形に近い土 台があり、祭台に似ている(図4-7)。中鉄七局三処 M3 の前室は1つの浅い側室をもつ(図4-8)。

B 単室墓

 主要な墓室1つのみで、多くは方形あるいは方形に近い形状を呈し、形状が甚だしく不整形なも のがある。2基は側室があり、中に木棺を置いている。

 咸陽文林小区の9基があり、配列は揃っている。墓道はいずれも南向きで、最深部はいずれも 9m を超え、墓道の東・西・北壁に2つずつ階段を設ける。そのうち M49 では紀年銘文塼が1点 出土している(図4-9)。

(2)葬制概論

 十六国時代には五胡が雄を争い、北方は分裂した。旧都長安では元々兵家が重視され、頻繁に戦 があった。前趙の立国は短く、兵戈が絶えなかった。後趙は長安に拠し、戦はやや稀であった。前 秦が北方を統一したことで、京畿の地は休息の時を得た。

1 地上施設

 十六国時期には小国が興廃し、葬制も一定ではなかった。前趙の劉曜が寿陵を高大にしてほしく、

薄葬を主張する大臣に諌められ、それで「今勅悉停寿陵制度、一遵覇陵之法」とした。しかし劉曜 はその父と妻を葬る時には「負土為墳、其下周回二里」とし、その父の墓は永垣陵と号し(この陵 の位置を陝西省白水県林皐鎮趙家窯村東とする人があり、その墳丘は現存高約 15m である:陝西 省文物局・西安文物保護修復中心『陝西帝陵档案』、陝西出版集団三秦出版社、2010 年)、その妻 羊氏の墓は顕平陵と号し、その後「大雨霖、震曜父墓門屋、大風飄発其父寝堂于垣外五十余歩。」

であった。この記録によってわかるのは、劉曜の父と妻の墓は墳丘を築くのみならず、さらに陵園 と寝堂を有し、あわせて劉曜はまた「遣胡元増其父及妻墓高九十尺。」としたのである。(以上『晋 書』載記第三・劉曜より引用)。

 『晋書』載記第五・石勒下によれば後趙の石勒が死の前にいい遺したことは「斂以時服、載以常 車、無蔵金宝、無内器玩。」「以咸和七年死…夜瘗山谷、莫知其所、備文物虚葬、号高平陵。」とあり、

この記録には魏晋薄葬制度の影響が見られ、あるいは石勒の葬が異族葬俗であるかもしれない。

 十六国の葬制は、地上に墳丘・陵園・寝堂を構築し、あるいはこういった施設がないものもあり、

各国の制度はすべてが同じというわけではない。西安・咸陽一帯で発見されている十六国墓葬では、

いまだ墳丘に関する報告はない。

2 墓葬形態

 上述したように、ここでは長安一帯の十六国墓葬を、その形態的特徴によって2類に分けた。第 一類墓中の瓦胡同 M 7と咸陽師院 M 5ではいずれも「豊貨」銅銭が出土している。「豊貨」銭は 後趙の石勒が紀元 329 年に鋳造したもので、後趙と前趙が 10 年間併存していたため、この種の銭

貨はあるいは前趙の世に関中に流入したものかもしれない。しかし後趙が前趙を滅亡してから長安 地区に流入した可能性が大きく、当然またより遅い時期に存在していた可能性も完全に排除するこ とはできない。したがって墓葬形態と副葬品の特徴から、第一類墓の時代は晋末から前後趙時期と しておく。

 第二類墓中の咸陽文林小区 M49 で前秦建元十四年(紀元 378 年)紀年銘塼が出土し、墓葬形態 と副葬品の特徴によれば、この類の墓の時代は前秦時期である。この類の墓の最も明確な特徴は、

長大化した階段を備えた傾斜した墓道を有していることであり、墓の埋葬深度は絶対多数が9m 以上で、この点から西晋崇陽陵区と峻平陵区の墓葬形態が想起される。前秦は紀元 351 年に長安に 都し、この時は西晋滅亡からまださほど時が経過しておらず、かつ晋末には愍帝が長安にいたため に、この一帯には晋制には残っており、加えて前秦苻堅が王猛を重用し、儒教を興した。『晋書』(載 記第十三・苻堅上)に、「自永嘉之乱、庠序無聞、及堅之僭、頗留心儒学、王猛整斉風俗、政理称挙、

学校漸興」とある。よって、この種の墓葬形態は晋制の名残と見なすことができる。

 十六国墓葬は一般的に木棺を使用し、また木棺を用いずに直葬するものある。たとえば咸陽師院 M5 は後室と1つの側室内に棺3つを置くが遺体は入れず、そのほかの側室内に3人を葬っている が棺は用いておらず、また咸陽文林小区 M69 では計3人が葬られているが、2人は棺があり、1 人は棺がなく、また咸陽文林小区 M35 では1人しか埋葬されておらず、棺をもたない。木棺腐朽 痕跡から見ると、棺の形状は基本的にいずれも頭側が幅広で脚側が幅狭な形状である。棺は墓内に 置かれている状況は、第一類墓では前後主室に置かれる場合は、木棺の頭側を墓門に向けて、側室 に置かれる場合は一般に頭側を主室に向ける。当然例外もあり、たとえば咸陽師院 M10 前室では 木棺の頭側を後室に向けている。第二類墓の木棺の多くは、墓道と垂直に配置されている。

 合葬状況に関しては、単人葬は非常に少なく、たとえば咸陽平陵 M 1と文林小区 M35 である。

多くは2~3人葬で、4人葬もある。2人葬の場合、被葬者は男性1人女性1人、夫婦合葬のはず である。3人葬の場合男性2人女性1人、男性1人女性2人、男性1人女性1人小児1人といった 複数の状況がある。4人葬の場合は男性2人女性2人である。いずれも家族葬であろう。

 この時この地では家族葬が流行しており、出土銘文塼から咸陽文林小区墓地は朱氏一族の墓地で あったことがわかる。咸陽師院墓地の 10 基の墓は2列に整列して分布しており、これもまた家族 墓地であろう。

3 副葬品

 大きく4類に分類できる。

第一類 装身具、棺内に置かれるもの。銅銭・鏡(銅・鉄)・釵(金・銀・銅)・簪(銀・銅)・鐲(金・

銀・銅)・指輪(銀・銅)・銅耳環など。 

第二類 実用(あるいは明器)器具。銅鐎斗・釜・盆など、陶罐・甑・盆・ 槅

・盤・耳杯・勺・碗など。

第三類 陶質模型明器。倉・井戸・磨・碓・竃・(牛)車・(馬)軺車など。

第四類 陶俑。男女侍俑・胡人俑・牽馬俑・伎楽俑(撫箏・撃鼓・弾琵琶・吹奏・歌唱)・騎馬俑・

騎馬鼓吹俑(吹角・撃鼓・吹排簫)・武士俑及び鞍馬・鎧馬・牛(車)・馬(軺車)・豚・羊・

犬・鶏・鴨など。

 つまり、個別の墓葬、たとえば西安草廠坡墓と咸陽平陵 M1 など出土遺物が比較的豊富なものを 除いて、大多数の墓は遺物が少ない。西晋墓と比較して金属器は少ないが、装身具類はおおよそ同 じである。副葬品は主に陶製品で、そのうち実用器具の類は貧弱で、数も多くない。前代と比較し て、模型明器類と陶俑類の内容は同様で、「厨」「厩」「婢妾」が中心だが、鎮墓俑類は衰退し、た とえば鎮墓獣などは見られない。このほか、圏厠類明器はなくなり、同時に伎楽俑・騎馬俑・騎馬 鼓吹俑・鎧馬俑などの新形態の俑が現れる。

4 小 結

 以前、十六国墓葬の発見が非常に少なかった頃には、研究は制約を受けていた。西安・咸陽のこ の時期の墓が発見、認定されるにしたがって、関連する研究も徐々に展開していったのである。  西安・咸陽の十六国墓葬は全体的に大中型墓に属し、そのうち双室墓(第一類 I 型と第二類)が 大型墓にあたる。咸陽師院 M 4(第一類 II 型双室墓)では「楡麋令印」銅印が出土しており、そ の被葬者は中級官吏であると考えられ、中型墓の規模を代表する。このほか、『晋書』(載記第三・

劉曜)には前趙「(劉)曜始禁無官者不聴乗馬」とあり、『晋書』(載記第十三・苻堅上)には前秦 苻堅もまたかつて「非命士已上、不得乗車馬于都城百里之内」と命を下しており、当時騎馬や馬車 に乗るには一定の身分地位が必要であったことを示している。十六国墓葬中では鞍馬あるいは牛車 が出土した墓は少なくなく、被葬者の身分が低いわけではないことを示している。

 十六国墓葬ではまだ墳丘が発見されていないが、文献記載には、少なくとも前趙等の国には墳丘 や陵園などの地上施設があったとあり、魏晋墓制がすでに崩壊し始めたことを示している。

 十六国墓葬はいずれも長い傾斜した墓道をもつ土洞墓であり、土洞は双室と単室の2種類があり、

墓室は側室をもち合葬に用いる。墓葬形態では墓道と墓室の方向が一致ではなく、墓室の形状はあ まり整っておらず、墓室の壁はおおよそ胴張り、天井部は穹窿頂という特徴をもち、全体的に見て 西晋墓の特徴を多く遺している。特に第二類墓はそれがより明らかで、西晋墓葬形態の延長である といえる。しかし同時に墓葬形態にはまた新たな変化も出現しており、たとえば西安草廠坡墓の墓 道は両側に縦長方形の耳室を付設し、西安韋曲2基の墓及び咸陽平陵 M 1の墓道は過洞と竪井を 有す。過洞と竪井をもつ墓道は後漢時期にすでに出現していたが、西晋時期にも発見されている所 がある。しかし十六国時代に至ると、それらは明らかに増加する。このほか、西安韋曲の2基のよ うに過洞・甬道における土彫刻による家型模型のやり方は、おそらく同時期の河西一帯の墓葬形態 の影響によるものである。

 副葬品中の鎧馬・騎鎧馬俑などに見られる濃厚な軍事的色彩は、十六国時代に頻繁に戦争があっ たことを、活き活きと映し出しているのであり、騎馬鼓吹俑・伎楽俑は当時の「関隴清晏、百姓豊

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