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・・中日古代墳丘墓の比較研究

ドキュメント内 中日古代墳丘墓の比較研究 (ページ 177-184)

(2)弥生時代の墳丘墓の概況

 弥生時代の墓制には、土壙墓・甕棺墓・土器棺再葬墓・石棺墓(配石するものもある)・木棺墓・

支石墓・墳丘墓がある。この中で、土壙墓と支石墓などは縄文時代から継続する墓制であり、他方 で墳丘墓などは弥生時代に新たに発生した墓制である。

 弥生時代の墓制には、配石石棺墓や支石墓などのように地上に墓標を設置したものもあり、甕棺 墓などは埋葬の上に若干の盛土を施しているが、明確な墳丘を有し墳丘墓と称し得るものは周溝墓 と台状墓(四隅突出形墳丘墓を含む)のみである。弥生墳丘墓の概念に関しては多種多様な見解が あるが、本論では和田晴吾の観点に従い議論を展開する

1 周溝墓

 周溝墓とは、四周に溝を掘削し、中央に土を積んで土台を築き、土台の上か下に墓壙を設置する 埋葬形式の種類を指す。四周の溝と盛土が平面台形(多くは方形)を呈するため、一般に方形周溝 墓と呼称する。この他、周溝と土台が円形を呈するものがあり、円形周溝墓と称する。

方形周溝墓の分布は広範におよび、ほとんど日本全域を覆っている。従って、弥生時代を代表する 墓制の種類といえる。

 方形周溝墓の最古例は弥生時代前期前葉(弥生時代は前期・中期・後期・終末期に時期区分する)

に認められ、九州北部と畿内に出現した。しかし、九州北部では発展を見るに至らず、畿内を中心と して各地に伝播した。例えば、前期中葉には四国北岸などで、前期後葉には滋賀で、前期末葉には 東海西部(愛知・三重)と兵庫北部などで出現し、中期には東海東部・関東・北陸まで拡がり、そ れから東北地方にまで拡大し、後期には九州北部に波及した。

方形周溝墓は通常、集落付近の平地に造営されている。墳丘は盛土からなり、しばしば多数の墳丘 で墓地が構成される(図5-1)。墳丘規模と埋葬状況については、弥生時代前期~中期前葉は墳丘 長5~ 10m で、通常は単数埋葬、中期中葉~後葉には長さ 15m を超える墳丘が出現し、20 ~ 30m に達する墳丘もあり、2人あるいは多人数の埋葬が頻見する(図5-2)。

円形周溝墓は方形周溝墓に比べ少ないが、墳丘の築造法や墓壙などの埋葬施設は方形周溝墓に相似 する。円形周溝墓は、弥生時代前期中葉に瀬戸内中部(香川・岡山)に出現し、中期には兵庫を経 由して瀬戸内海を東進し、大阪湾北岸に到達する。後期には愛媛から大阪まで波及し、終末期には 分布範囲がさらに拡大する。中期中~後葉には墳丘径 15m を上回るものが出現し、後期には径 20m 超の大型墓も現れる。これらは基本的に単数埋葬である。

2 台状墓

 台状墓とは、丘陵や尾根上に所在し、地山を削り出すことで一定の高さをもつ土台を形成し、土 台の上に墓壙を掘って埋葬を行う墓葬形態の一種を指す。掘削で形成される土台の平面形が方形で あることが多いため、一般に方形台状墓と呼ばれる。この他、土台が円形を呈するものは、円形台 状墓と呼ばれる。

 台状墓は通常、集落付近の丘陵や尾根上に築かれる。聳立するその墳丘は、地山を削り出して形 成されており、溝を掘り盛土することで墳丘が形成される周溝墓とは方式である(図5-3)。

方形台状墓は、中国地方と日本海沿岸一帯に多く分布しており、方形周溝墓の分布と比べると、分 布の集中地域が存在している。おおよそ弥生時代前期末~中期初頭に出現した。中期後葉以降には、

墳丘の斜面に貼石をする方式が現れる。これは方形貼石台状墓と呼ばれる。方形貼石台状墓の四隅 は外方に突出し、四隅突出形方形台状墓を形成する。四隅突出形方形台状墓は、弥生時代中期後葉 に中国内陸部(広島)に出現し、後期には日本海沿岸の島根東部・鳥取西部まで拡がり、後期後半

~終末期には北陸まで波及する。  

 円形台状墓は数が少なく、出現も遅れる。弥生時代後期後半に岡山南部に認められ、終末期には 香川・徳島にも散見する。

 周溝墓と台状墓は、それぞれで発展をみせる他、相互に影響を与えあってもいた。例えば、ある 地域において方形周溝墓は、方形台状墓の影響を受け、丘陵上に築かれている。貼石を用い、方形 貼石周溝墓を形成するものもある。他方、別の地域では、方形周溝墓の影響を受け、四隅突出形方 形台状墓が平地に築かれ、周溝をめぐらし、四隅突出形方形周溝墓を形成している。

3 小 結

 弥生墳丘墓の代表である方形周溝墓と台状墓を比較すれば、前者は後者よりも出現が早く、かつ 分布も広い。おおむね、方形周溝墓は畿内を中心に展開し、方形台状墓は中国地方と日本海沿岸一 帯が主要分布域であったと説き得る。この両種の墓制が共存し、相互に影響を与えつつ新たな墓葬 形態を生み出した地域もあった。

 円形周溝墓と台状墓については、前者の出現が比較的早く、分布も比較的広いが、両者が出現・

分布が一致する地域もある。両者ともおおよそ瀬戸内地域を中心に分布する。

 周溝墓と台状墓とには、多くの共通点がある。例えば、これらはみな多数の墳墓で墓地を構成し、

個々の墳墓は全て明確な区画(台状墓では周溝をめぐらす例もある)と一定の高さの墳丘を有し、墓 壙の形状と葬具の使用状況も基本的に同一である、といった共通点が認められる。一方、両者の主 だった違いとしては、第一に出現時期・盛行した中心地域・分布範囲が異なることを、第二に築造 に選択される立地が異なり、そのため採用される築造方式も相違することを挙げ得る。

上述のように、弥生墳丘墓の墳丘は基本的に方形と円形に二大分できる。前者は方形・四隅突出形 方形・双方中方形・前方後方形に、後者は円形・双方中円形・前方後円形に細分できる。

(3)弥生時代後半の墳丘墓の概況

 上記したように、弥生時代中期中・後葉になると、畿内地域において方形周溝墓の規模が増大す る。例えば大阪府加美遺跡 Y1 号墓(中期後葉)は、墳丘基底部長が南北 26m・東西 15m、墳頂部 長が南北 22m・東西 11m、墳丘高約3m、周溝幅6~ 10m、周溝の深さ約1m を測り、同じく規模

の大きな大阪府瓜生堂遺跡2号方形周溝墓と比べても、規模の増大が明白である(図5-4)。この 他、加美遺跡 Y1 号墓には 23 基の木棺を埋葬しており、中でも中央木棺は、底板以外の棺板がみな 二重である。

 弥生時代後期後半~終末期になると、墳丘墓は規模に留まることなくさらなる拡大を見せる。墳 丘墓の中には、集団墓地から独立してくるものもある。例えば周溝墓の系統である奈良県纒向遺跡 の前方後円形墳丘墓群(弥生時代終末期)の中には、勝山(墳長約 120m・後円部径約 70m)・石塚

(墳長約 96m・後円部径 63m)

(図5-5)

・東田大塚(墳長 108m ~・後円部径約 68m)・矢塚(墳 長約 95m・後円部径約 60m)がある。

 台状墓の系統である岡山県楯築墳丘墓は、規模の巨大さと形状の特殊さのため、しばしば弥生墳 丘墓の典型的資料として引用される。この墳丘墓は、略円形を呈する墳丘の東北部と西南部の二箇 所に突出部をもつ構成で、全長約 80m、中円部の直径約 43m・高さ約5m を測る(盛土をした箇所 は、厚い部分では 1m 以上)。西南突出部は長さ約 22m で、東北突出部は破壊に遭っている(図5

-6)

。円丘と突出部の斜面には列石を施し、墳頂部には「弧帯石」があり、中心埋葬の上部には巨 石が立っている。埋葬施設は2箇所あり、中心埋葬施設内には木槨が築かれ、暗渠の排水溝もある。

木棺の底部には、大量の辰砂が敷き詰めるように撒かれている。木棺内外から玉・翡翠製勾玉・瑪 瑙製棗玉・碧玉製管玉・鉄剣などの副葬品が見つかった。木槨の上方からは、礫石・破砕土器・土 製の装飾品などが検出されたが、これらは埋葬祭祀の遺物である。中心埋葬施設の東南にもう一基 の埋葬施設がある。木棺のみであり、被葬者の頭部と推定される箇所で少量の朱が検出された。こ の埋葬施設は中心埋葬に後出するもので、中心埋葬の陪葬であろう。本墳丘墓の時期は、弥生時代 後期中~後葉である。

 また、四隅突出形台状墓の例を再び挙げると、島根県西谷3号墳丘墓(弥生時代後期後葉)とい ったものがある。この墳丘墓は墳丘長約 47m・幅約 39m・高さ約5m の規模をもつ(図5-7)。  古墳時代の前方後円墳の先導として、弥生時代後期および終末期に、楯築墳丘墓のように円丘部 に突出部を付設する方式が出現した。纒向石塚などの墳丘墓は典型例の最たるものである。この他、

方形周溝墓か方形台状墓(四隅突出形墓を含む)かにかかわらず、みな墳丘上に配石する現象が認 められる。古墳時代の埴輪の先導として、特殊器台形土器もすでに出現している(主要な分布域は 吉備)。大型墳丘墓の埋葬施設として、木槨と竪穴式石槨がすでに出現している。木槨や石槨の内部 には木棺が設置されている。弥生墳丘墓の副葬品は比較的少なく、大型墳丘墓にしても例外でない。

弥生墳丘墓を相互に比較すれば、楯築墳丘墓の副葬品は非常に豊富であるといえる。

 要するに、弥生時代後期~終末期に至ると、方形系統か円形系統かにかかわらず、墳丘墓に大型 の墓葬が出現し、しかも集団墓地から独立してくるのである。これだけでなく、陸橋が進化してで きた突出部が次第に発達して、最終的に古墳時代の前方後円墳および前方後方墳の前方部へと発展 を遂げた。形状がそれぞれ若干異なるこれらの大型墳丘墓は、地域首長の専用の墳形として、徐々 に相異なるものになっていった。墳丘墓の大型化と特定形態への収斂化の過程に伴い、埴輪の前身

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