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・秦代の墓葬

ドキュメント内 中日古代墳丘墓の比較研究 (ページ 43-46)

第Ⅱ章  中国古代墳丘墓の繁栄 -秦漢時代-

第1節 ・秦代の墓葬

1 秦始皇帝陵

(1)・始皇帝陵の概要

 西安市臨潼区の東5㎞の驪山北麓に所在する始皇帝陵は、古代中国最初の一大封建国家秦朝を統 一した始皇帝嬴政の陵墓である。中国史上最初の皇帝陵がつくられたことは、陵園・陵寝制度〔陵 園を建て、寝殿などの建物を陵墓に造営する〕として前漢の皇帝陵築造に直接受け継がれ、大きな 影響をおよぼした。

 始皇帝陵の陵園は大変広大であるが、考古学調査の進展に伴って、一つ又一つと新発見が積み重 なって陵園の様子が明らかになった。そこでつぎに、これを陵園、陵墓建築、陪葬坑、陪葬墓の 四つに分けて概述しよう(図2-1・2)。

A 陵 園

 内外二重に巡らせた陵園の版築土墻〔土壁〕は、南北方向の長方形を呈す。最新の測量によると 内園の南北長は 1355m、東西幅は 580m で、試掘により内園を取り巻く墻壁の内側と外側の規格お よび構造は同じ瓦頂廊道〔墻壁の屋根を瓦葺きにし、その軒下の内側と外側を回廊にした構造〕で あることがわかった。内園の真ん中には1本の東西に延びる隔壁墻があり、内園を南北に分断して いる。さらに北半分の区画は南北に延びる本の隔壁墻で東西に二分されており、内園は南区、東北 区、西北区の 3 区に仕切られている。外園は、西墻壁長が 2188.4m、東墻壁長が 2185.9m、北墻壁 長が 971.1m、南墻壁長が 976.2m で、東西南の三方に門が開かれている。しかし、北側の門址は未 発見である。陵園の内壁と外壁の空間で、墳丘の東西軸線上からは南北両側に一組の独立した三出 闕〔門楼の平面形が三段の階段形をした闕〕が対称的に検出された。内園の南区にある墳丘は、版 築成形で、底辺がほぼ方形を呈した、方錐台形につくられる。その規模は東西 345m、南北 350m、

頂部の東西 24m、同南北 10.4m、高さ 55m である。分布調査とボーリング調査により、墳丘の中 央部で石壁と版築壁で取り巻いた地宮〔地下宮殿〕の存在が確認された。墓室は地宮の中央にあり、

墓道がその東側と西側に2本つく。検測により地宮内は大量の水銀が充たされていることが検証さ

れ、史書の記載と符合することが証明された。さらに実地調査の結果、墳丘の東・南・西の三面の 地下に阻水暗渠〔水の侵入を防ぐ暗渠〕が、墳丘の西側には排水暗渠がつくられており、地下水が 地宮に流れ込むのを防いでいる。

B 陵寝建築

 陵園内には数多くの建築遺構が見つかっている。内園南区の墳丘北側西寄りのところには「秦始 出寝、起于墓側〔秦、始めて寝を出し、墓の側に起てる〕」(『後漢書・祭祀下』)と推測される寝殿 遺構がある。内園西北区には便殿〔寝殿のそばに付設の別殿〕遺構の存在が考えられる。陵園西側 の内墻と外墻との間には、中心となる建物とその付属建物遺構があり、陶器に刻まれた「麗山飤 官」「‥‥厨」等の文字から見て、そこに陵寝に飲食を供え奉る「飤官」の施設があったと考えられ、

その「飤官」遺構の北には陵園を守る官吏宿舎の遺構が想定されている。

C 陪葬坑

 陵園の内外には多くの陪葬坑が分布しており、今のところ 176 基が検出されているが、その構成 は外蔵として仕組まれている〔様々な機能をもつ陪葬坑を相互に関連づけ、合理的に系統化して、

墓葬の中に内蔵するのではなく、その周辺に配置すること〕(表2-1)。陪葬坑の中でも最も規模 が大きく、重要なものが兵馬俑坑である。

D 陪葬墓

 主要なものは陵園の東にある上焦村の西部から全部で 17 基の墓葬が見つかっている。そのうち 8基が発掘され、被葬者は始皇帝二世によって処刑された始皇帝の親族や大臣と思われている。内 園東北区から検出された数十基の墓葬は陪葬墓になろう。このほか、墳丘西側の北端から「甲」字 形の墓が見つかっている。

 陵園の西南にある趙背戸村と姚池頭村一帯の広い範囲から陵墓築造にたずさわった人の刑徒の墓 地が発見されているが、部分的に発掘されているだけである。

(2)始皇帝陵の特徴

 秦国の存在期間は短く、墳丘墓の関する資料はあまりにも少ない。しかし秦の始皇帝陵に代表さ れるように、それは前代を引き継いだ墳丘墓制を基礎として創造したものであり、秦・漢代の皇帝 陵の新しい型式を創り出した。

 始皇帝陵の諸要素の構成は、まず墳丘を中心としてその周囲を外壁で囲み、陵園を構え、その中 に建物や陪葬坑、陪葬墓などを配置されていることである。それらは前代の戦国時代に出現してい る。たとえば、外壁は趙王陵や中山王陵、秦王陵などに、陵寝建築と陪葬墓は趙王陵や中山王陵、

魏王陵、秦王陵に、陪葬坑は趙王陵や中山王陵、秦王陵などのように。これらの要素を一つにまと め上げて、さらに範囲を拡大し、規模を増大し、系統化させて全体に象徴的意義を具えたのは、秦 の始皇帝陵がはじめである。始皇帝陵の墳丘は巨大で、形状は方錐台形(戦国時代諸国の墳丘は長 方形や方形、下方上円、円形と多種であり、それと共にそれには墓上建築の形式がある)をし、そ

の外形はあるいは高々とそびえる宮殿を象徴したものであったかもしれない。墻壁は内壁と外壁で 二重になって(戦国時代の中山王陵から出土した兆域の銅板には規格された王陵が二重の墻壁で囲 まれ、咸陽の秦王陵も二重の墻壁をもつ)いることは、羅城と宮城の二重城壁を象徴したものであ ろう。墳丘の周辺のあちこちから建築遺構が検出されており(戦国期の秦国の王陵では建物は墓の 側にあり、趙国や中山国、魏国、韓国では墓室の上に建てられる)、寝殿や陵園官吏舎などに分類 できる。たくさんの陪葬坑は、内園内の分布はもとより、内園と外園の間および陵園外にまでおよ んでいる(趙国や中山国、秦国の王陵の陪葬坑は陵園内にあり、その主なものは車馬などの交通手 段で占められている)。その数は 176 基におよんでおり、その内容は大変充実していて、百官の役 所的象徴のようである。陪葬墓は陵園内にも陵園外にもあり(趙国や中山国、魏国、秦国の王陵の 陪葬墓はすべて陵園内にある)、被葬者の身分は親族や大臣などである。そのほか、始皇帝陵は初 めて陵邑の制を設置している。それらを全体的に見ると、陵園の仕組みのすべては都城を模倣して いるようである。それは、冥界都城の主人として地下宮殿に住んでいるとはいうものの、生前同様 に天下に君臨したいという願望を抱いているように思われる。始皇帝陵が大統一封建国家を建立し たのに伴って誕生したことは、始皇帝が6ヶ国を統一した功績と秦国の国力を誇示して空前絶後の 陵墓を設計建造したことにある。そして、それには統治強化と統一を維持する強い政治的願望が含 まれているのである。

2 秦代の中型・小型墓

 秦は都を咸陽に定めたため、咸陽城〔現在の咸陽市ではなく、漢長安城の北方に位置する〕

の郊外にたくさんの墓地が分布する。発掘調査された主なものをあげると、咸陽城の西 3.8㎞

に戦国時代中期から秦代にかけての鴨溝村墓地(125 基)がある。さらに咸陽城の西には 任家咀墓地(242 基)と塔尓坡墓地(381 基)があり、前者が春秋時代中期から秦代までと長期 間存続し、後者が戦国時代後期から秦代である。秦の都咸陽は渭河の北岸に位置し、咸陽の北に対 して渭河の南岸にある秦の上林苑には多くの離宮が分布していた。そのうち最も重要な章台や興楽 宮などは前漢の長安城の範囲内に位置していることもあって、漢長安城の東郊、つまり現在の西 安市の北郊にある尤家庄一帯に秦墓が群集している。そのうちの一部(123 基)は発掘調査されて、

報告書が刊行されている。その墓葬の時期は戦国時代後期から秦代である。また、西安市の南郊 からも相当数の秦墓が発掘調査され、315 基がまとめて報告されている。これらは春秋時代末期 から秦代のもので、秦杜県城に関係したものと考えられている。このほか、前述した始皇帝陵東側 の上焦村でもひとまとまりの秦墓が発掘されている。関中地区以外では陝西省隴県、河南省泌陽、

湖北省雲夢などからも秦代の墓が見つかっている。

 秦の建国は短期間なため、その前代の戦国時代末期とその後の前漢時代初期の墓葬の形態は基本 的に同じで区分できない。秦代の中・小型墓の特徴を見ると、墓葬の形態は竪穴土坑墓(傾斜墓道 をもつものもある)と竪穴墓道洞室墓〔竪穴に掘って横穴に墓室を刳り貫く〕、傾斜墓道洞室墓が

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