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・漢代の墓葬

ドキュメント内 中日古代墳丘墓の比較研究 (ページ 46-84)

第Ⅱ章  中国古代墳丘墓の繁栄 -秦漢時代-

第2節 ・漢代の墓葬

 皇帝陵(特大型墓)、王墓、列侯〔以後、諸侯と訳す〕墓、二千石官吏墓(大型墓)、中下級官吏 墓、庶民墓(中・小型墓)に分けて叙述する。

1 漢代の皇帝陵

(1)前漢皇帝陵

A 前漢皇帝陵の概要

 前漢 11 代の皇帝と皇后(または夫人、后妃)の合葬陵墓のうち、9基は渭河の北側の咸陽原〔段 丘平原〕に分布している。『水経注』などの史籍によると、渭河北岸の九陵は、西から東に武帝茂 陵と夫人陵、昭帝平陵と上官皇后陵、成帝延陵、平帝康陵、元帝渭陵と王皇后陵、哀帝義陵、惠 帝安陵と張皇后陵、高祖長陵と呂后陵、景帝陽陵と王皇后陵に当てられている。その位置関係は、

茂陵が最も西に、陽陵が最も東に位置し、長陵と安陵は渭河をはさんで漢長安城に相対するところ にある(図2-3)。近年、研究者は新たな研究を重ね、延陵と安陵の間にある3基の帝陵の配列 を見直し、西から東へ〔平帝康陵を〕元帝渭陵に、〔元帝渭陵を〕哀帝義陵に、〔哀帝義陵を〕平帝 康陵にする新見解を発表した。この帝陵の問題解決には今後の考古学調査を俟たねばならない。

 文帝霸陵と竇皇后陵、宣帝杜陵と王皇后陵は西安市東郊の白鹿原と東南郊の杜陵原にわかれて位 置する。前漢 11 陵すべてに考古学的調査やボーリング調査が行われており、杜陵と陽陵はより多 くの発掘調査も実施されている(表2-2)。

 前漢帝陵は、霸陵を除くすべてに四方に墓道を持つ竪穴土坑墓形式が採られており、墓道のうち 東墓道が主墓道になっている。陵〔の墓室〕には黄腸題湊の葬制〔柏の良木の黄腸木を木口積みに して槨をつくる制〕が用いられ、皇帝と皇后は金縷玉衣をまとっていると考えられる。皇帝・皇后 陵の墳丘は版築成形で、四角台錐形につくられている。底部と頂部は方形もしくはほぼ方形を呈し、

底辺長が 160m ~ 170m、高さが 25m ~ 30m である。その中でも茂陵が最大の墳丘をもち、底辺 長が 230m、高さが 46.5m である(図2-4)。その墳丘の周囲には版築の土墻が巡らされ、略方 形の陵園がつくられている。前期の長陵と安陵では皇帝と皇后陵が同じ一つの陵園に収まってい るが、霸陵以後では皇帝と皇后とはそれぞれに陵園を形成する。皇帝陵園の一辺の長さは約 400m、

皇后陵園は約 350m で、陵園の四面に闕門を設けている。陵園の内外には陪葬坑が配置されており、

中でも陽陵の陪葬坑の配置が最も明確である。陵園付近には寝園が設置され、寝園内に寝殿と便殿 が建てられていた。さらに、皇帝陵には廟〔陵廟〕が陵の遠方もしくは近辺に建てられている。な お、陽陵と茂陵の陵園には、もう一重、外側に垣墻の巡っているのが見つかり、二重の垣墻が形成 されていた。皇帝と皇后の埋葬方法は、同塋異穴合葬形式〔同じ墓地で異なった壙に葬る合葬形式〕

を採っており、昔は皇后陵が皇帝陵の東側にあると考えられてきたが、近年の研究者は皇帝陵を東 に皇后陵を西に置く合葬形式が主であったと考えている。規模についていうならば、皇后陵は皇帝 陵よりも小さいが、呂后陵だけは長陵とほぼ同じ規模である。

 史書に霸陵は「因其山、不起墳〔其れ山に因りて、墳を起こさず〕」(『漢書・文帝紀』)とある。

調査の結果、霸陵の墳丘などの築造制度が、ほかの 10 陵とは違っており、墳丘もなく、陵園もない。

しかも墓室は竪穴墓制なのか、それとも横穴洞室墓制なのか、よくわかっていない。

 長陵から杜陵までの7陵には陵邑が設けられている。陵邑の多くは陵の北側か、東側にあるが、

元帝渭陵以降には陵邑は設置されていない。

 皇帝陵の周辺にはたくさんの陪葬墓が分布しており、咸陽原と杜陵源ではたくさんの墳墓が累々 と連なっている様子が見られる。

 杜陵の発掘調査では、杜陵園の東門と北門遺構、寝園遺構、1号と4号陪葬坑、王皇后陵の東門 遺構と寝園遺構が明らかになった10(図2-5)。

 陽陵の発掘調査では、南面の闕門遺構、陵園内の墳丘東側の陪葬坑(11 基)、陵園外南区の陪葬 坑(14 基)、羅経石〔表面の十字形の線刻が東西南北を指しているため羅盤石と呼ばれていた礎石〕

遺構、刑徒墓(29 基)、陪葬墓園と陵邑遺構が調査された11(図2-6・7)。

B 前漢皇帝陵の特徴

 前漢皇帝陵の制度は、方形墳丘の外周を取り巻く二重の垣墻で陵園を構成し、陵園内外に陵寝建 築や陪葬坑、陪葬墓などの配置に見られるように、秦の始皇帝陵を継承してきたことは明らかであ る。前漢帝陵墓は秦の制度を全面に継承すると共に、しだいに何某かの変化をもたらしていった。

たとえば、墳丘底部の形状を長方形(長陵、安陵)から方形または方形に近い形に変化させたこと、

陵園の形状を長方形(始皇帝陵は南北に長方形、長陵も南北に長方形、安陵は東西に長方形)から 方形または方形に近い形に変化させたこと、陵寝建築を陵園(内垣墻)内(始皇帝陵、長陵)から 陵園(内垣墻)外(内外の垣墻の間)に移したこと、陪葬坑を陵園の内外広範囲に配置(始皇帝陵)

していたのを陵園(内垣墻)の内外(内外垣墻の間)にそろえて配置するように変えたこと、陪葬 墓を陵園の内外に配置(始皇帝陵)していたのを陵園外に配置するように変えたこと、などがあげ られる。このような変化は漢代初頭にはじまっているが、総体的には景帝陽陵の時期に完成したよ うである。合葬形式では長陵と安陵の同園内合葬は異園合葬へと変化する(文帝の時からはじまる が、やや特殊である)。

 前漢皇帝陵にはさらに陵廟と陵邑を設置(高祖長陵から宣帝杜陵まで)されているが、陵廟は前

漢に新しく取り入れられたものである。

(2)後漢皇帝陵

A 後漢皇帝陵の概要

 後漢皇帝陵は 12 基あるが、献帝禅陵が河南省焦作市修武県にある以外は、洛陽市の東北の孟津 県にある邙山と洛陽市の東の偃師市に分布する。その 11 基は光武帝原陵、明帝顕節陵、章帝敬陵、

和帝慎陵、殤帝康陵、安帝恭陵、順帝憲陵、衝帝懐陵、質帝静陵、桓帝宣陵、霊帝文陵である。文 献によればそれぞれの帝陵は後漢洛陽城の位置と関係しており、北部の邙山には原陵、恭陵、憲陵、

懐陵、文陵の 5 基が、そのほかの6陵は偃師市に所在する(図2-8)。『帝王世紀』などの文献に は諸陵の方位や規模が記されているのであるが、わずかなそれらの内容をもとに各帝陵の位置を確 定することはできない。邙山の5陵について見ると、原陵は孟津県鉄謝村付近の「劉秀墳」に伝え られているが、ある研究者はこれに賛同せず、送庄郷劉家井村の西北にある大塚を原陵に、三十里 鋪村の南にある俗称「大漢塚」を恭陵に、「大漢塚」の南側にある平楽村の「二漢塚」と「三漢塚」

をそれぞれ憲陵と懐陵に、送庄郷護駕庄村の南にある大塚を文陵に考えている。しかし、別の研究 者はこの見方に反対で、劉家井村の西北にある大塚を原陵とせず、文陵にあてるなど、今日に至 るまで共通の認識に至っていない12。偃師の6陵についても、近年の考古学調査やボーリング調査、

試掘により、白草坡と李家村、郭家嶺、西干村、冦店などの村域から6基以上見つかっており、現 在のところそれらを各帝陵に対応させることは不可能である13

 ボーリング調査の結果、後漢皇帝陵の墳丘は円錐台形につくられ、墓葬の形態は1本の墓道(南 向き)に塼石室墓で、墳丘の東北部と南部に陵寝建築遺構が配され、帝陵の周辺にわずかな陪葬墓 が分布することが確認された。なお、文献には帝陵の周囲に行馬〔駒除け〕が設置されていると記 されている。

B 後漢皇帝陵の特徴

 前漢皇帝陵のつくり方に比べて、後漢皇帝陵のそれは著しく変化した。墳丘を囲繞していた陵園 の墻は「行馬〔駒除け〕」に取って代わり、方錐台形の墳丘は円錐台形に変化し、墓室の四方に付 けられた墓道は1本になり、黄腸題湊の墓制は石題湊塼室〔石槨塼室〕の墓制となり、皇帝と皇后 の埋葬は異陵並穴合葬〔別々に陵と墓穴を構えて同じ陵園内に葬る〕から同陵同穴合葬〔同じ陵内 の同じ墓室に葬る〕に変わり、陵寝建築は簡素化して献殿などになり、陵廟と陪葬坑はなくなって いる。しかし、陵園入口から陵までの墓道には石像が並べられるようになる。このように全体的に は、陵墓施設は簡素化への方向に変化しているのである。

2 漢代の王墓

 漢は創建の当初、王と諸侯の二等級の爵位をつくり、前・後漢は分封王侯の制を設けた。王と諸 侯墓制は漢代の喪葬礼制の中でも重要な構成部分であり、したがって漢代の考古学では重要な調査

研究対象となっている。

(1)前漢王墓

 王墓の規模は皇帝陵につぐ大型墓で、その数も多く、広域に分布している。そのため考古学調査は、

全面発掘されたものもあれば、部分発掘や単なる表面調査だけのものもあり、部分的にしか進んで いない。報告書の刊行も本報告のものや概報、ダイジェストなどとまちまちである。全面あるいは 部分的に発掘された資料の公表は多く、時期や被葬者の身分がはっきりわかった前漢王侯と王后墓 は 45 基で、それらが属する王国は広陽、中山、趙、常山、河間、菑川、斉、呂、済南、済北、昌邑、

魯、梁、楚、泗水、広陵、長沙、南越の 18 にのぼり(表2-3)、北京市と河北省、山東省、河南 省、江蘇省、湖南省、広東省に分布している。王墓の発見が最も多いのは梁国と楚国であるが、あ るものは表面調査しかされていない。北京の老山漢墓や安徽省の六安漢墓などは全面発掘されてい るにもかかわらず、資料は未発表であるため、ここには収録していない。そのため、前漢王墓の発 見数はここにあげた数より多くなるだろう。

 王墓の研究は、その系列の考古学的調査に伴ってしだいに進展していった。考古資料が一定程度 蓄積されると、黄腸題湊葬制の研究や玉衣制度の研究、車馬殉葬制度の研究、墓上建築制度の研究、

墓葬外蔵槨制度の研究など、特定の問題が研究されるようになった。最近では、王墓の総合的研究 に力が入れられる一方、研究の細分化と深化が進み、王墓研究は漢代考古学の中でも特に注目され ている。

 王墓研究で、まず問題となるのは被葬者の身分の認定である。王墓と認定しやすいものとしては

「黄腸題湊」墓制の導入や被葬者の金縷玉衣の着装があげられる。墓から出土した銘文や朱書きの 王国名、紀年銘のある器物や封泥、印章などの文字資料は、墓葬の国を断定できるだけでなく、そ の時の王をも確定することができる。このような特徴のない大型墓は、墓地の立地、封土の高さ、

墓葬の形態、副葬品の特徴などから考察し、関連する史書の記載を参考に被葬者の身分を認定する。

しかしながら、被葬者の所属を確定することは難しく、発掘調査者と研究者とは往々にして意見の 違いから論争を引き起こすのである。それは王墓研究上、難しい問題である。

A 前漢王墓の概要

 ここでは墓葬の形態と副葬品について概述する。

ⅰ 墓葬の形態

 築造の違いから竪穴土石坑墓と横穴崖洞墓に大別する。竪穴土石坑墓は土坑内の墓室の材質と築 造方法の違いにより、木槨墓と黄腸題湊墓、石室墓に区分する。

①竪穴木槨墓

 山を穿って壙とするか、または土を掘って坑とし、その墓穴に木槨室を築いたものである。その 多くは 1 本の傾斜墓道(山東省巨野県紅土山の漢墓は水平墓道)を設けるが、2本の傾斜墓道のも のもある。今までに8基ほど見つかっているが、墓室がわかっているのは河北省献県の 36 号墓14、 河北省獲鹿県高庄1号墓15、山東省長清県双乳山1号墓16と巨野県紅土山漢墓17の4基である。山

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