臨海実験所設置と施設問題
生物学の研究や学生実験の指導を行う上で臨海実験所の果たす役割は大きく、東京大学、
京都大学などの旧帝大、広島大学(旧制広島文理科大学附属臨海実験所を継承)をはじめ、
新制大学では1953(昭和28)年には新潟大学、また1954年には岡山、熊本の両大学にそ れぞれ臨海実験所が設置され、かねて金沢大学理学部においてもその設置に向けて種々検 討が行われていた。
1951年に開かれた全国臨海実験所長会議において、日本海方面としては様々な立地条 件を勘案して金沢大学に設置することが最も時宜に適した計画であるとされ、その必要性 が確認されたこともあり、金沢大学理学部では本格的に石川県下の海岸を調査するなどし て設置に向けて準備を行っていた。
1955年5月には金沢大学理学部の川島、熊野両教授らは、石川県珠洲郡松波町(現在 の内浦町)字小木の九十九湾沿岸が周囲を丘陵性の岩山に囲まれ、かつ西北面は適度の丘 陵に遮られており、冬季間における北陸地方特有の季節風を防ぎ、湾内の波も静かで降雪 量も少ないことから適地として挙げ、実地調査が行われた。
臨海実験所を設置する場合、良質の海水及び淡水が容易に得られることが大きな条件で あり、海底が岩石で生成され、水深も約10ヒロ(約18m)と非常に深く海水の純粋度も極 めて高く、各種の魚類や微生物が豊富に生息するなど、生物学研究上不可欠の条件を具備 していることなどから、四季を通して研究に専念できる九十九湾内の蓬莱島対岸にある船 隠など3カ所を臨海実験所設置の候補地とされた。
しかし、臨海実験所を設置する最大のネックは、これまで文部省ではこれの設置に当た ってその必要性や予算が関係することは勿論であるが、地元などの協力(土地、建物の寄 付など)の有無についても重視するということがあった。このころに設置された臨海実験 所をみると岡山大学では1953(昭和28)年に岡山県玉野市から土地(237.6m2)及び建 物(217.8m2)を、熊本大学では1952年に熊本県天草郡今津村から土地(3,731m2)及 び建物(172m2)を、そして新潟大学では1954年に新潟県佐渡郡金泉村(後に相川町に 合併)から土地及び建物の寄付を受けてそれぞれ設置された。このようなことから、理学 部の実地調査の際にもこの点についても強調し、併せて地元の強い協力を要請し、土地、
建物の寄付があった場合に直ちに対応できるように1956年度の概算要求に設置経費とし て1,500万円を要求することとした。
臨海実験所の誘致運動
地元松波町では臨海実験所を誘致するため、松波町町長を会長に、同町町議会議長及び 小木漁業協同組合長を副会長に、同町町議会議員や各種団体の代表者を実行委員とし、か つ松波町の全町民を網羅した挙町一致の「金沢大学臨海実験所設置期成同盟会」(以下「設 置期成同盟会」という。)を1955(昭和30)年5月に結成すると同時に臨海実験所の敷地 約1万坪の買収に乗り出すとともに、臨海実験所の建物として七尾市和倉町にあった旧農 林省所管水産庁日本海区水産研究所(以下「旧日本海区水産研究所」という。)の建物を充 てようと同年9月6日に石川県へ譲渡申請を行ったほか、1956年2月には「旧日本海区 水産研究所建物の払下げの請願書」を石川県へ提出するなどして積極的に動いていた。こ
の旧日本海区水産研究所の建物払下げ問題については、七尾市長は「もともと旧日本海区 水産研究所は七尾市が誘致したものであるから他の市町村などに譲ることは認められな い。」として石川県に対して七尾市への譲渡を要請し、併せて石川県へこの建物の処分に対 する石川県の態度決定をしばらく保留するよう要望する一方、同市長は金沢大学に戸田学 長を訪ね、臨海実験所を七尾市に誘致すべく陳情するなど、この建物の譲渡問題をめぐっ て七尾市と松波町による臨海実験所誘致合戦の様相を呈するようになった。また、石川県 は、先に譲渡要請のあった松波町に優先順位があるとしながらも、この建物と七尾市の関 係もあって、早急に結論を出すのは無理だとして慎重な態度で臨んでいた。
このような七尾市と松波町の動きに対して、金沢大学理学部では「研究条件の良い小木 の九十九湾に設置する計画の方針を変更する考えはない。」とするものであった。
臨海実験所の設置をめぐって七尾市と松波町との間で激しく繰り広げられた誘致合戦 も、1956年5月石川県が旧日本海区水産研究所(七尾市和倉町所在)の建物9棟のうち 七尾市へ3棟、松波町へ6棟の払下げを内定したことにより終焉を告げ、これによって松 波町では建物の移築費400万円を見込むなどして臨海実験所の設置に向けて本格的に動き 出した。
地元松波町小木地区の支援
この石川県の内定により、松波町の設置期成同盟会では、1956(昭和31)年7月8日 に協議会を開き、3カ所の候補地のうち最終的に小木地区の「船隠」を選定したところ、
近隣の土地所有者2名から3,600坪(時価約72万円)と600坪(時価約12万円)の寄付申 出があり、これの整地費約50万円を松波町小木地区で寄付することになった。また、土地 寄付者から「町の発展のためなら」と率先して1万円の寄付申込みがあったところ、これ に賛同した人達からたちまち約20万円に達する寄付金の申出があったため、これに力を得 た設置期成同盟会ではここ1週間以内に寄付金を集めることにし、もし不足する場合には 各戸1日の勤労奉仕で補うことになった。
九十九湾の蓬莱島を眺め波静かな入海の前に建つ臨海実験所は、約9,000坪の敷地を地 元松波町が無償提供するとともに、この敷地内にある「船隠」の石山は小木地区町民約2 千名の勤労奉仕により整地され、関東、関西方面の小木地区出身者からの寄付金及び町費 を合わせて約300万円を工費にして、1956年9月に石川県と松波町との間で旧日本海区水 産研究所の建物の売買契約が締結され、払下げを受けた7棟の建物も1957年5月には移 築を終え、臨海実験所の施設が完成したのである。
「実験所は地元の人たちの文字通り、汗の結晶からできた、と聞いている。今でもここ の老人は、実験所に続く道路を指差して、「この道路はワシらが、スコップと鍬で作った道 路だ」と誇らしげに語るのである。」と『金沢大学50年史部局編』(第6章1節(3)「臨 海実験所」)の中で述べている。
文部省では、新潟大学の臨海実験所を新設する際に、文部省としては今後日本海側の国
立大学におけるこれら施設を統合する形で設置するというような考え方(現在の「共同利 用機関」的発想)をとっていたようで、金沢大学の臨海実験所新設には難色を示していた が、地元松波町小木地区の全面的協力と金沢大学の熱意が認められ1957年4月1日に設 置されたのである。
なお、地元松波町から寄付された敷地9,001.615坪及び本館、実習室、住宅などの建物 8棟(建物面積の合計は、建坪169.466坪、延坪193.466坪である。)の受入れについて 同年9月16日付で文部大臣の認可があり、11月16日に受入手続きが完了し、金沢大学が 所有するところとなった。