1995(平成7)年7月15日の広坂キャンパスで附属小学校の全校児童が黄色やピンク、
緑のシートを敷いたグラウンドいっぱいに、白やオレンジ、青、黒などの鮮やかな衣装を まとって、目や手足を持つ擬人化した校舎を描き出し、校舎と花びらの中に「さようなら」
の文字を浮かび上がらせ、広坂の校舎に別れを惜しんだ。また、附属中学校でも、7月20 日の終業式に全校生徒が教室や廊下の窓に色鮮やかなステンドグラスの飾り付けを行った り、教室の黒板に「ありがとう」、「さようなら広坂」などと懐かしい想い出があふれる校 舎への感謝の言葉を書いて、共に1951(昭和26)年以来44年の歴史を刻んだ学び舎に別 れを告げた。
この光景は、広坂キャンパスにある教育学部附属小学校、同中学校、同幼稚園が、かね て推進中の平和町キャンパスへの統合移転事業の完成によって、夏休み明けの9月から平 和町キャンパスに完成したそれぞれの新しい校舎や園舎に移転するため、広坂校舎にお別 れをする行事の一こまである。
附属学校園における施設の状況
教育学部附属学校(小学校、中学校、高等学校、養護学校及び幼稚園。以下「附属学校 園」という。)は、広坂キャンパス(以下「広坂地区」という。)に附属小学校、同中学校、
同幼稚園(以下「附属小、中学校、幼稚園」という。)が、平和町キャンパス(以下「平和
町地区」という。)に附属高等学校(以下「附属高校」という。)が、東兼六キャンパス
(以下「東兼六地区」という。)に附属養護学校が、それぞれ分散して設置されていた。
このうちでも、附属小、中学校、幼稚園のある広坂地区の校地面積は26,777m2と必要 面積48,008m2の約55.8%に過ぎず、特にグラウンドやプールは小学校と中学校が共同で 使用しており、両校の授業や学校行事に支障を来すなど、さらには心身ともに活動期にあ る児童や生徒の安全面の確保などに大きな問題があった。
加えて、附属小、中学校、幼稚園の大半の建物は、1952(昭和27)年から昭和30年代 にかけて鉄筋コンクリート建の校舎に整備されてはいるものの、なお1928(昭和3)年 に建築された体育館や明治、大正時代の木造建物を一部使用するなど、現代の新しい教育 理念に基づく附属学校の役割を十分に果たし得ない事態に陥っており、児童、生徒の学校 生活における安全を保つためにも、早急に危険建物の改築が急がれていたが、広坂地区の 校地が狭隘なるがゆえに、これすら容易に実現することができず、まして新しい教育施設 の整備などは思いもよらない極めて劣悪なキャンパスの現状であった。
長期計画と敷地問題の検討
このようなこともあって、1975(昭和50)年5月に教育方法の多様化と現代化への対 応、教育学部学生数の増募に伴う教育実習生の増加などに対処するためには、学級及び教 官の増、施設設備の拡充整備が不可欠であるという観点から、附属学校施設の充実を目指 す次のような内容の長期計画が策定された。
① 小学校体育館の老朽化に伴い、旧幼稚園舎を取り壊した跡地に体育館を新築する。
② 幼稚園を適切な集団規模にするため3〜5歳児の6学級に整備し、園舎を増築する。
③ 高等学校に電算機室、教生控室を増築するとともに、各学年2学級増設し5学級体制 とするために校舎を増築し、併せて第2体育館を設置する。
④ 養護学校内に生活訓練棟を兼ねた宿泊施設を設置するとともに、重度障害児の就学義 務化に伴って重度障害児学級を設置する。
しかしながら、これらについては、それぞれの計画に問題性を含んでいたり、国の財政 状況などの問題もあって、その一部が実現したにとどまった。
1976(昭和51)年10月に金沢大学の将来計画を検討する「将来計画検討委員会」が設 置され、キャンパス問題を含めて将来計画の検討が本格的に開始されたこともあって、附 属学校園においても1977年以降これに歩調を合わせるように、附属学校園の敷地問題に ついて検討が重ねられた。
金沢大学の総合移転計画事業は、まず1982年度に用地取得費3億円が予算化されスタ ートしたことから、総合移転計画事業によって平和町地区と東兼六地区にある金沢大学の 運動施設(陸上競技場、野球場、プール、テニスコートなど)が角間キャンパスでの整備 対象とされたことから、その跡地の活用など附属学校園の将来計画、特に敷地問題に大き く影響することもあって、各学校園における将来計画の再検討が急がれることになった。
そこで、同年3月23日に附属小、中学校、幼稚園による「広坂地区将来計画検討委員会」
を設置し敷地問題について検討が始められ、「さきに総合移転に伴う諸情勢に対応し、新た に適地を求めることを検討する案と現在の敷地で小学校体育館を改築する案が出されてい たが、この2案について意見の交換を行い、広坂地区の敷地は狭く附属小、中学校、幼稚 園の将来計画を実現する可能性はなく、新たに適地を求める。適地の第1候補地として平 和町地区が考えられるので、附属高校の了解を得て検討を進める。」ことが、同委員会の検 討方針とされ、同年4月15日に開かれた広坂地区将来計画検討委員会において、「広坂地 区での将来計画の実現は、敷地面積や建築規制上の問題から極めて困難と判断し、附属小、
中学校、幼稚園は平和町地区に60,000m2の敷地を確保し移転する。」ことを決定した。そ して、同年5月4日の校長、副校長会議において「附属学校将来計画検討委員会」(以下
「附属学校将来計画委」という。)が設置され、平和町地区、東兼六地区の運動場施設など を利用して「①幼・小・中・高の一貫教育体制を整備、②養護学校入学対象児の重度化、
多様化に対応するため、現地区での教育施設の整備、充実、③幼稚園に三歳児を含めた学 級の増設、④その他効果的教育実習を行うための学級増設、老朽化、不足教育施設の整備、
充実」などを図り、諸種の教育実験、実証、指導法、また幼稚園における比較研究、多面 的研究などの研究を効果的に推進することなどを骨子とする将来計画を策定する検討方針
「附属学校将来計画の検討あたって」が了承され、附属学校将来計画委で検討が開始された。
同年10月には、「附属学校将来計画構想」を策定し、その中の基本構想では、「幼・小・
中・高の一貫教育体制を整備するため、幼稚園と高等学校の学級増を実現するとともに、
中高一貫教育体制を確立して教育課程の先導的研究を行う。また、平和町地区及び東兼六 地区にある角間移転後の運動施設跡地を利用して、平和町地区では附属中学校の移転整備 と附属高校の整備、また広坂地区では幼稚園と小学校の整備をそれぞれ図るとともに、東 兼六地区では養護学校の増築と運動場の拡張に充てる。」とされ、この方針に基づき鋭意検 討が行われた。
1984(昭和59)年5月14日に開かれた教育学部附属学校協議会において、これまでの 検討状況(結果)などを踏まえ協議され、これまでの附属学校の将来計画実現の方針は、
複数案になっているので再度附属学校間で協議を行い「中学校のみが平和町地区へ移転す る。」ことに絞って同年5月17日開催の教育学部教授会へ諮ることが了承され、同教授会 において「金沢大学の総合移転に伴い角間地区へ移転する平和町総合運動場(陸上競技場、
野球場)跡地等を確保し、中学校を移転改築するとともに高等学校の整備及び広坂地区に おける小学校、幼稚園の整備を図り、養護学校については隣接する小将町運動場(テニス コート、プール等)の移転をまって同跡地を確保し整備を図る。」ことが了承され、これに 併せて、教育学部長から学長へ同年6月1日付の公文書で「金沢大学総合移転に伴う角間 地区移転後の平和町総合運動場跡地及び小将町運動場跡地の利用について」として用地確 保の要望書が提出された。なお、同年5月26日には事務局の指示により附属中学校の移転 について概算要求書が提出されている。
その後、基本構想の「中高一貫教育体制の確立」については、中高一貫教育の定義や高 等学校への進学問題で中学校と高等学校の間で議論を呼び、両校の間で幾度となく話合い が持たれたが、両者の隔たりを埋めることができず、その結果、1985年2月13日「中学 校の移転問題については、当分の間これを凍結する。」ことが合意された。
このような動きの中で、附属中学校の移転問題は、同校同窓会「柏葉会」に提示された が、役員会と幹事会で「児童・生徒への教育的見地・教育環境向上に背くものであり、絶 対に容認できない」との結論に達し、平和町地区への反対が決議されたが、1984年8月 12日に開かれた同校同窓会「柏葉会」の総会において、「事態が非常に流動的でもあり、
今ただちに移転反対決議を総会で行う事は必ずしも適当でないと考えられるので、今後の 取扱いを新役員に一任する」こととされ、「反対」を条件付きで留保するものとされた。
統合移転の決定─平和町地区へ
1988年度の概算要求に備え、1986年10月に教育学部長から各校園長へ凍結されていた 将来計画について話合いを再開するようにとの指示があり、1987年3月には、教育学部 長から附属学校将来計画委に対し、将来計画の検討に当たっては、
① 金沢大学の総合移転とは別個のものとして検討すること。
② 広坂地区はすべて移転する方向で検討すること。
③ 移転先の候補地として平和町地区が挙げられること。
④ 中学校と高等学校間の接続の問題については、この将来計画とは別の問題であるこ と。
とする四つの前提条件が示され、改めて附属小、中学校、幼稚園の平和町地区への移転統 合の方向が示されたことにより、1987年6月に附属学校将来計画委は、将来計画構想委 員会と移転問題実務委員会を設置し、統合移転のための本格的な審議に入った。
なお、この前提条件の「①」については、附属小、中学校、幼稚園の移転問題が、教育 学部教授会(1979年11月29日開催)の「総合移転に関する決定」中の「(略)附属学校 の移転問題については、附属学校と教育学部とで協議する。」という1978年11月16日開 催の教育学部臨時教授会の決定に従って処理されることになっていることから、1981年 5月30日に開かれた臨時評議会における1982年度概算要求の審議で「教育学部から、移 転対象除外部局として附属学校を明記されるよう要望があり、医学部及び同附属病院の次 に「教育学部附属学校」を加える」ことが了承され、附属小、中学校、幼稚園が金沢大学 総合移転の対象部局外になっていることによるものである。そして、附属学校将来計画委 は、同年9月30日開催の同委員会において84,000m2(附属高校の敷地を含む)の土地の 確保を目安とするが、80,000m2を下回らない土地の確保があれば移転の意志は変わらな いことが確認され、同年10月12日には「教育学部附属学校広坂地区(附属小、中学校、
幼稚園)を平和町地区(高等学校隣接地)に移転統合し、施設・設備の充実を図る。」もの とすることなどの金沢大学附属学校将来計画を策定し、10月14日開催の附属学校協議会